昨日も書きましたが、本日も私の実父についての記述となります。
私の父は元400メートルの国体選手。当時、51秒台で走る選手がほぼいない中、大学2年で51秒台をマークし、その年の国体に選出されました。本番は予選で敗退。しかも国体直後にアキレス腱を断裂し、選手生命が絶たれてしまう不運に見舞われました。
以降は裏方である審判員として日本陸連に貢献。特に陸連時代は広報担当として広報誌の取材、編集に従事しておりました。
審判員としては国際大会にも参加できるS級。私が幼少の頃は毎週土曜日、日曜日は陸上の審判員として外出していたのを覚えています。
記憶に残っているのはやはり「箱根駅伝」ですかね。大手町の主任審判員であったので往路は始発(当時、東京・福生市在住)、復路は昼ころ「出勤」していたのを覚えています。
そうです。スタート・ゴールにいるものですから毎年、テレビに映る。家族からは「お父さん、わざとテレビカメラのそばに行ってるんじゃない」などと揶揄されていました。
親父の「傑作」はみなさんもよくご存じの「珍事」。今年、皇學館大学の監督に就任した寺田監督が國學大1年次、10区で大手町のゴールを間違える「事件」を起こしましたよね。当時のテレビを観れば分かりますが、審判員がコースの誘導をしていなく、ボサッと突っ立っているのです。寺田選手は審判員の誘導がないためゴール前にコースを変える中継車についていってしまったのです。これは審判員として「アウト」。テレビでもバッチリだったのでブラウン管の前にいた家族は「凍結」してしまいました。
当事者である親父は「あれは選手が悪い。コースくらい覚えておけって」と「逆ギレ」をカマしてましたが、それはそれで微笑ましいエピソードです。
その親父が10月24日22時52分、老衰のため永眠。91歳の大往生でした。
弊社大会に古くから参加されている方はよく覚えていることでしょう。ベンチにデーンと座り3時間ずっと喋っている「名物ジジイ」。人懐っこいその姿は多くの皇居ランナーに愛されていました。
皆様、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。今後はあの世で皆様のご活躍を目を細めて見ていると思います…。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image