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2013年02月03日
日本は米国から独立した国家ではなく「日本自治区」
zeraniumのブログ より転載
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日本は米国から独立した国家ではなく「日本自治区」 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83934351
では当のアメリカ自身は「愛国洗脳」に、どの程度力を注いでいるのかというと、日本よりさらに強烈です。
2011年5月2日に、パキスタンでウサマ・ビン・ラーディンが米軍に急襲され、殺害されました。
そのとき三大ネットワークをはじめ、CNN、FOXなどアメリカのメディアはこぞって、彼の死を喜ぶアメリカ市民、特に学生の姿を放映しました。
しかし現地の大学に多くの友人がいる私が独自に得た情報では、放送で見られたような大騒ぎが、実際に現地で行なわれていた事実はほとんどありませんでした。
そもそもいくらテロの首謀者とはいえ、人が殺されたというニュースを聞いて大喜びで祝杯を上げるような連中が、そうそうたくさんいるはずがありません。
それは少し冷静になって考えればわかることです。
つまり、放映されたあの盛り上がりは、ほとんど演出だったのです。
おそらくごく一部での騒ぎを、さも全米で起きたことのように報道したのでしょう。
これがメディアをフル活用したアメリカの愛国洗脳の実例です。
そうやってほぼ全ての主要メディアで、「ビン・ラーディンの死を喜ぶべきだ」というメッセージを流して、徹底的に洗脳を行なっていたのです。
さかのぼって考えれば、イラク戦争の時もそうで、戦闘に参加している兵士たちを英雄視するメッセージを、アメリカのネットワークは流し続けました。これも愛国洗脳と考えるべきものです。
しかしある程度の教育を受けた人なら、そこまでみえみえの洗脳工作には違和感を覚えるはずで、かえって反発を強めるかもしれません。
しかしアメリカの怖いところは、まともな教育を受けていない人が多いということです。
そうした層には信じがたいほどストレートに洗脳が通じてしまいます。
つまり、アメリカの放送ネットワークや映画産業は、愛国洗脳のために存在すると言っても過言ではありません。
それだけ洗脳が効果的で有効な国であり、そこに絡む利権も日本とは比べものにならないのです。
日本人の愛国心が、実はアメリカの支配者のさじ加減でコントロールされている、他律的なものである歴史を明らかにしましたが、ここではさらに一歩進んで、私は次のような疑問を提示します。
それは、そもそも日本という国は、さらに日本国民は、本当に存在するのだろうか、ということです。
これはすでに私の著書の中で何度か指摘したことですが、戦後の日本国の出発点となったサンフランシスコ講和条約(1951年)の原文を検討する限り、日本国の独立は認められてはいません。
したがって、日本国民の存在も認められてはいない、と結論づけるしかないのです。
いきなり何を言い出すのかと思われるでしょうが、簡単に説明します。
連合国が日本の独立を認めたとされる講和条約の第1条(b)を見てみると、その原文はこうなっています。
The Allied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people over
Japan and its territorial waters.
日本語訳では、「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する」となっているので、当然ながら「日本国」や「日本国民」の存在を前提にして書かれていると思うはずです。しかし原文を注意深く読んでください。
「Japanese people 」のところで、「people」を小文字で表記してあるのがわかりますか。
英語では、国民を表す場合には「People」と大文字で記して始まるはずですが、そうはなっていません。
この箇所の本来の意味は単なる「日本の人々」であり、「日本国」や「日本国民」の意味ではないのです。ですから日本語訳もそのように訳されるべきだったのです。
また「完全な主権」という翻訳も曲者(くせもの)です。
なぜなら条約の第2条以降に、日本の対外主権、つまり国としての独立性を制限する規定が幾つもあるからです。
たとえば国際紛争解決の手段として、武力を用いることを禁じた第5条(a)がそれです。
ふつうならば独立国であれば当然、認められるべき権利のはずが、実際には制約されていることを考え合わせると、「full sovereignty」の「sovereignty」(主権)とは、対外主権のことではないと解釈しなければ矛盾が生じます。
つまりここでは、「日本の統治権は軍部でもなければ天皇でもなく、日本の人々、人民が100%持っているのだ」という意味で、「full sovereignty 」と言っているわけです。
この「sovereignty」という言葉は、アメリカでは、国ではなく各州の自治権を表す言葉としても使われているので、それに近い意味に捉えるのが妥当でしょう。
したがって、先ほどの第1条(b)を正確に和訳すると、こうなります。
「連合国は、日本の人民による日本と、その領海の十分なる自治を認める」
いかがでしょうか。
日本国の独立も、日本国民の主権もどこかに行ってしまいました。
これは現在も有効な国際条約ですから、私たちは日本国民ではありません。
私たちは「日本自治区」で生活する日本人なのです。
サンフランシスコ講和条約に署名した吉田茂主席全権大使をはじめとする、日本の代表たちが、条約の本来の意味に気づいていなかったはずがありません。
会議には宮澤喜一氏など、英語の達人も随行していたのですから。
そして実際に、吉田茂首相は条約署名後のスピーチでこう語っています。
It will restore the Japanese people to full sovereignty, equality, and freedom, and
reinstate us as a free and equal member in the community of nations.
「これにより日本の人々が主権を十分に取り戻し、平等と平和を回復するものであり、私たちを世界の民族のコミュニティに自由で平等な一員としてふたたび参加させるものである」
これは明らかに、日本の人民が軍部から主権を取り戻したという趣旨です。
条約の本来の意味をよく理解したうえでのスピーチであることは明白です。
にもかかわらず、日本国民に伝えられたのは、先ほどの「誤訳」でした。
このようにして、連合国の占領から日本国が独立を取り戻したのだ、という「優しいウソ」を、日本人は吹き込まれたのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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日本は米国から独立した国家ではなく「日本自治区」 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83934351
では当のアメリカ自身は「愛国洗脳」に、どの程度力を注いでいるのかというと、日本よりさらに強烈です。
2011年5月2日に、パキスタンでウサマ・ビン・ラーディンが米軍に急襲され、殺害されました。
そのとき三大ネットワークをはじめ、CNN、FOXなどアメリカのメディアはこぞって、彼の死を喜ぶアメリカ市民、特に学生の姿を放映しました。
しかし現地の大学に多くの友人がいる私が独自に得た情報では、放送で見られたような大騒ぎが、実際に現地で行なわれていた事実はほとんどありませんでした。
そもそもいくらテロの首謀者とはいえ、人が殺されたというニュースを聞いて大喜びで祝杯を上げるような連中が、そうそうたくさんいるはずがありません。
それは少し冷静になって考えればわかることです。
つまり、放映されたあの盛り上がりは、ほとんど演出だったのです。
おそらくごく一部での騒ぎを、さも全米で起きたことのように報道したのでしょう。
これがメディアをフル活用したアメリカの愛国洗脳の実例です。
そうやってほぼ全ての主要メディアで、「ビン・ラーディンの死を喜ぶべきだ」というメッセージを流して、徹底的に洗脳を行なっていたのです。
さかのぼって考えれば、イラク戦争の時もそうで、戦闘に参加している兵士たちを英雄視するメッセージを、アメリカのネットワークは流し続けました。これも愛国洗脳と考えるべきものです。
しかしある程度の教育を受けた人なら、そこまでみえみえの洗脳工作には違和感を覚えるはずで、かえって反発を強めるかもしれません。
しかしアメリカの怖いところは、まともな教育を受けていない人が多いということです。
そうした層には信じがたいほどストレートに洗脳が通じてしまいます。
つまり、アメリカの放送ネットワークや映画産業は、愛国洗脳のために存在すると言っても過言ではありません。
それだけ洗脳が効果的で有効な国であり、そこに絡む利権も日本とは比べものにならないのです。
日本人の愛国心が、実はアメリカの支配者のさじ加減でコントロールされている、他律的なものである歴史を明らかにしましたが、ここではさらに一歩進んで、私は次のような疑問を提示します。
それは、そもそも日本という国は、さらに日本国民は、本当に存在するのだろうか、ということです。
これはすでに私の著書の中で何度か指摘したことですが、戦後の日本国の出発点となったサンフランシスコ講和条約(1951年)の原文を検討する限り、日本国の独立は認められてはいません。
したがって、日本国民の存在も認められてはいない、と結論づけるしかないのです。
いきなり何を言い出すのかと思われるでしょうが、簡単に説明します。
連合国が日本の独立を認めたとされる講和条約の第1条(b)を見てみると、その原文はこうなっています。
The Allied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people over
Japan and its territorial waters.
日本語訳では、「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する」となっているので、当然ながら「日本国」や「日本国民」の存在を前提にして書かれていると思うはずです。しかし原文を注意深く読んでください。
「Japanese people 」のところで、「people」を小文字で表記してあるのがわかりますか。
英語では、国民を表す場合には「People」と大文字で記して始まるはずですが、そうはなっていません。
この箇所の本来の意味は単なる「日本の人々」であり、「日本国」や「日本国民」の意味ではないのです。ですから日本語訳もそのように訳されるべきだったのです。
また「完全な主権」という翻訳も曲者(くせもの)です。
なぜなら条約の第2条以降に、日本の対外主権、つまり国としての独立性を制限する規定が幾つもあるからです。
たとえば国際紛争解決の手段として、武力を用いることを禁じた第5条(a)がそれです。
ふつうならば独立国であれば当然、認められるべき権利のはずが、実際には制約されていることを考え合わせると、「full sovereignty」の「sovereignty」(主権)とは、対外主権のことではないと解釈しなければ矛盾が生じます。
つまりここでは、「日本の統治権は軍部でもなければ天皇でもなく、日本の人々、人民が100%持っているのだ」という意味で、「full sovereignty 」と言っているわけです。
この「sovereignty」という言葉は、アメリカでは、国ではなく各州の自治権を表す言葉としても使われているので、それに近い意味に捉えるのが妥当でしょう。
したがって、先ほどの第1条(b)を正確に和訳すると、こうなります。
「連合国は、日本の人民による日本と、その領海の十分なる自治を認める」
いかがでしょうか。
日本国の独立も、日本国民の主権もどこかに行ってしまいました。
これは現在も有効な国際条約ですから、私たちは日本国民ではありません。
私たちは「日本自治区」で生活する日本人なのです。
サンフランシスコ講和条約に署名した吉田茂主席全権大使をはじめとする、日本の代表たちが、条約の本来の意味に気づいていなかったはずがありません。
会議には宮澤喜一氏など、英語の達人も随行していたのですから。
そして実際に、吉田茂首相は条約署名後のスピーチでこう語っています。
It will restore the Japanese people to full sovereignty, equality, and freedom, and
reinstate us as a free and equal member in the community of nations.
「これにより日本の人々が主権を十分に取り戻し、平等と平和を回復するものであり、私たちを世界の民族のコミュニティに自由で平等な一員としてふたたび参加させるものである」
これは明らかに、日本の人民が軍部から主権を取り戻したという趣旨です。
条約の本来の意味をよく理解したうえでのスピーチであることは明白です。
にもかかわらず、日本国民に伝えられたのは、先ほどの「誤訳」でした。
このようにして、連合国の占領から日本国が独立を取り戻したのだ、という「優しいウソ」を、日本人は吹き込まれたのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった(2)
zeraniumのブログ より転載
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
魔女狩りは、異端審問の法廷に魔女が引きずり出されることによって始まりました。
魔女の烙印を押された人々の中には男性もいましたが、その大多数が女性であったことがわかっています。(ラテン語で魔女を表す Maleficarum は男性にも女性にも使われる単語です)
後には子どもにまで魔女狩りが大流行するのですが、それ以前は、そこにある魔女像を見てとることができます。
魔女とされた彼女たちのほとんどは、暮らしの慎ましい一人暮らしの老女だったのです。
そこには異教徒として咎められるような、異端思想を持っていたという事実は見当たりません。
彼女たちが魔女として訴えられた理由は、魔女という概念を作り上げる上で非常に重要なポイントです。
彼女たちの多くは、占いや民間療法に通じた人々であったことが、断片的な記録に残っています。
(魔女狩りが行なわれた理由の主なものでは、彼女たちは古代から伝わるヒーリングの継承者であり、ハーブといわれる薬草や鉱物、また祈りを用いて、病気を治す薬の作り方や、体や心を癒したり回復させたりすることのできるヒーラーでした。
彼女たちには霊感やサイキック能力を備えた人々が少なくなく、心を病み、生活に疲れた人々の良き相談相手でもあったのです。
彼女たちの用いる方法は、現代でいうホメオパシーと呼ばれる代替療法であり、主に薬草を用いた治療法でした。
このホメオパシーは現代では西洋医学から排斥されており、医療行為として認められてはいません。
現在のようなオール化学薬品の台頭のためには、このような代替療法の分野は潰しておく必要があったのです。
本来、霊能力といわれるサイキック能力は遺伝によって伝えられることがわかっており、多くの場合、それを受け継ぐのは女性です。
支配者である権力者にとって一番都合の悪いのが、彼女たちのような別の世界と繋がることができて、そこから情報を得たり、現実の真相を見抜く能力を持った人々でした。
支配者が、このような彼女たちが受け継ぐ遺伝的系譜を断ち切る必要を感じていたことは、不思議なことではありません。
またサイキック能力を持つ人々の行為を抑圧するために、「占いや口寄せ、死者と交信してはならない」という一文が、旧約聖書に入れてあるのです。zeranium)
『魔女に与える鉄槌』が、魔女狩りを流行させる装置として大きな役割を果たしたことはすでに述べました。
私はラテン語の原典と英語訳の現代版を手に入れましたが、かなり分厚い本で、原著のページ数で620あまりのページ数があったとされています。
この本は3部構成になっており、
第1部は、「妖術に必要な三要素、悪魔、魔女、および全能の神の許可について」
2部は、「魔女が妖術を行なう方法、及びその方法を無効にさせる方法について」
3部は、「魔女及びすべての異端者に対する教会ならびに世俗双方の法廷での裁判について」
というように設問形式で、魔女の定義とその裁判方法が詳細に記述されています。
『魔女に与える鉄槌」で定義された魔女像は、ヨーロッパ全土に広がっていく魔女の雛形(ひながた)でした。
この本を書いた一人であるドミニコ会士のハインリヒ・クラマーは、手回しよく、教皇インノケンティウス8世からお墨付きの回勅を求め、それをこの本の序文に転用しました。
その一部分を紹介してみましょう。
「近年、北ドイツとライン諸地域で、多くの男女がカトリック信仰から逸脱し、男色魔、女色魔に身をゆだね、あるいはさまざまな妖術によって作物や果実を枯らせ、また胎児や家畜を殺し、人畜に苦痛と病気を与え、夫を性的不能、妻を不妊にし、多数の人々の災厄の原因となっていることを、我々は激しい悲しみと苦しみ持って聞いている。
我らの愛する息子ら、すなわちドミニコ会士、神学の教授、ハインリッヒ・クラマーとヤーコプ・シュプレンガーとが法王書簡に従って同地方の異端審問官として派遣されている。
そこで我々は、彼らの審問が自由に、あらゆる方法をもって、なんびとをも矯正し、投獄し、処罰する権限を持つことを命じる。」
(『魔女に与える鉄槌』に収録されたインノケンティウス8世の回勅より)
いかに堕落した教会とはいえ、当時の人々にとって法王の言葉は特別なものであり、また異端審問官にとっては、「錦の御旗」ともなる、強力な後ろ盾であったはずです。
洗脳の基本は、情報を権威づけし、あたかもそれが唯一絶対のものであるかのように見せかけることが第一歩です。
いつの時代にも、人間は権威づけによって自分を大きく見せようとするものですが、クラマーという男はむしろ、情報を操ることに長けた人物であり、かつてのナチスドイツのゲッペルス宣伝相の出現を連想させます。
そしてこれらの権威付けとともに印刷本となった『魔女に与える鉄槌』によって、人々はその実在を信じ込んでいくのです。
『魔女に与える鉄槌』は性的刺激
今日、私たちが魔女という言葉に抱くイメージは、火にかけられて熱した大きな鍋をかき混ぜる老婆といったところでしょう。
しかし『魔女に与える鉄槌』を読む限りそうではなく、その中から受けるものは、男性を性的に誘惑する女性という強烈なイメージです。
つまり、セックスアピールの強い魅惑的な女性を連想させる記述にあふれているのです。
当時、裸婦を描いた絵画があったとしても、性的な春画の版画が出回ることはなかったはずで、版画の技術はあっても大衆化されてはいませんでした。
そうした社会の中で、『魔女に与える鉄槌』は、読み手の性的興奮を大いに刺激したことは容易に想像できます。
私は書き手の側も十分それを意識していたと思います。
そしてそれが、この本の爆発的な普及を可能にしたと考えられます。おそらく『魔女に与える鉄槌』を購入した人は、本棚や人の目に触れるところには置かなかったと思います。
青少年の目には、あまりに刺激が強過ぎるからです。
グーテンベルク聖書は公然と飾っても、『魔女に与える鉄槌』は隠していたことでしょう。
魔女裁判を描いた映画を見ると、魔女を演じる主人公はたいてい若くて美しい女性です。
そうでなければ作品として成り立たず、美人がはりつけにされるので、お客はお金を払って映画を見るのです。
現代に見られるこうした作用がすでにこのとき、中世の魔女裁判において生み出されていたのです。
『魔女に与える鉄槌』は、魔女裁判につきもののSM 的な刺激を読者に伝え、人々を現実の魔女狩りへと誘ったのです。たとえば次のような記述がそれです。
「ドイツでは秘部の毛を剃ることは作法に反するこことみなされるだろうが、他の国では全身の毛が剃られる」
実際の魔女裁判では必ずしも、美人が拷問にかけられたわけでも、はりつけにされたわけでもありません。
しかしその効果は、罪人の公開処刑とはまったく異なっていたはずです。
『魔女に与える鉄槌』によって、魅惑的な女性が悪魔と性行為を行なったというストーリーが与えられ、それによって形成されたきわめて残虐かつ甘美な、「共同の幻想」が魔女裁判を支えたのです。
そして、「我々は現在、ほとんどの魔女を処刑し終わったので、いまや若い女性に手を伸ばしている」とドイツの異端審問官が記しているように、『魔女に与える鉄槌』が示すイメージどおりの方向へ、現実が動いていきました。
私が先に、グーテンベルク聖書が表の世界だとすれば、『魔女に与える鉄槌』は裏の世界だったと指摘した理由はこれです。
強烈な力で流行が起こされるとき、それを引き起こす力の裏表は常に一体なのです。
どちらか一方が欠けても、魔女狩りの大流行は成立しなかったはずです。
そして表はともかく、隠れた裏の世界について、批判的な検証が行なわれることはありませんでした。
どこか他人の目に触れないところに置かれた『魔女に与える鉄槌』について、内容がおかしいという議論を誰も提起しなかったのです。
だからこそ、宗教改革のリーダーたちも、教会の腐敗を指弾することはできても、魔女裁判の愚かさを批判する力にはなり得なかったのでした。
裏の世界は多数の目に晒されることなく存在し、公然とした議論の対象にならないという点で、常に強力なのです。
魔女裁判はこのようにして、ヨーロッパ大陸に吹き荒れる嵐となって広がっていきました。
とくにドイツ、フランス、あるいはイタリアといった北西ヨーロッパで凄まじい勢いを見せました。
頻繁に行なわれる魔女裁判のために、村民がほとんどいなくなるというケースもありました。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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なるほど。 インターネットという情報を共有できる道具が発明された一方で、ネットのアダルト映像は、「美魔女」などと、持ち上げて年増の女性をも商品化することに成功している。
ネット業界もエロ・ビジネスでもっている。
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
魔女狩りは、異端審問の法廷に魔女が引きずり出されることによって始まりました。
魔女の烙印を押された人々の中には男性もいましたが、その大多数が女性であったことがわかっています。(ラテン語で魔女を表す Maleficarum は男性にも女性にも使われる単語です)
後には子どもにまで魔女狩りが大流行するのですが、それ以前は、そこにある魔女像を見てとることができます。
魔女とされた彼女たちのほとんどは、暮らしの慎ましい一人暮らしの老女だったのです。
そこには異教徒として咎められるような、異端思想を持っていたという事実は見当たりません。
彼女たちが魔女として訴えられた理由は、魔女という概念を作り上げる上で非常に重要なポイントです。
彼女たちの多くは、占いや民間療法に通じた人々であったことが、断片的な記録に残っています。
(魔女狩りが行なわれた理由の主なものでは、彼女たちは古代から伝わるヒーリングの継承者であり、ハーブといわれる薬草や鉱物、また祈りを用いて、病気を治す薬の作り方や、体や心を癒したり回復させたりすることのできるヒーラーでした。
彼女たちには霊感やサイキック能力を備えた人々が少なくなく、心を病み、生活に疲れた人々の良き相談相手でもあったのです。
彼女たちの用いる方法は、現代でいうホメオパシーと呼ばれる代替療法であり、主に薬草を用いた治療法でした。
このホメオパシーは現代では西洋医学から排斥されており、医療行為として認められてはいません。
現在のようなオール化学薬品の台頭のためには、このような代替療法の分野は潰しておく必要があったのです。
本来、霊能力といわれるサイキック能力は遺伝によって伝えられることがわかっており、多くの場合、それを受け継ぐのは女性です。
支配者である権力者にとって一番都合の悪いのが、彼女たちのような別の世界と繋がることができて、そこから情報を得たり、現実の真相を見抜く能力を持った人々でした。
支配者が、このような彼女たちが受け継ぐ遺伝的系譜を断ち切る必要を感じていたことは、不思議なことではありません。
またサイキック能力を持つ人々の行為を抑圧するために、「占いや口寄せ、死者と交信してはならない」という一文が、旧約聖書に入れてあるのです。zeranium)
『魔女に与える鉄槌』が、魔女狩りを流行させる装置として大きな役割を果たしたことはすでに述べました。
私はラテン語の原典と英語訳の現代版を手に入れましたが、かなり分厚い本で、原著のページ数で620あまりのページ数があったとされています。
この本は3部構成になっており、
第1部は、「妖術に必要な三要素、悪魔、魔女、および全能の神の許可について」
2部は、「魔女が妖術を行なう方法、及びその方法を無効にさせる方法について」
3部は、「魔女及びすべての異端者に対する教会ならびに世俗双方の法廷での裁判について」
というように設問形式で、魔女の定義とその裁判方法が詳細に記述されています。
『魔女に与える鉄槌」で定義された魔女像は、ヨーロッパ全土に広がっていく魔女の雛形(ひながた)でした。
この本を書いた一人であるドミニコ会士のハインリヒ・クラマーは、手回しよく、教皇インノケンティウス8世からお墨付きの回勅を求め、それをこの本の序文に転用しました。
その一部分を紹介してみましょう。
「近年、北ドイツとライン諸地域で、多くの男女がカトリック信仰から逸脱し、男色魔、女色魔に身をゆだね、あるいはさまざまな妖術によって作物や果実を枯らせ、また胎児や家畜を殺し、人畜に苦痛と病気を与え、夫を性的不能、妻を不妊にし、多数の人々の災厄の原因となっていることを、我々は激しい悲しみと苦しみ持って聞いている。
我らの愛する息子ら、すなわちドミニコ会士、神学の教授、ハインリッヒ・クラマーとヤーコプ・シュプレンガーとが法王書簡に従って同地方の異端審問官として派遣されている。
そこで我々は、彼らの審問が自由に、あらゆる方法をもって、なんびとをも矯正し、投獄し、処罰する権限を持つことを命じる。」
(『魔女に与える鉄槌』に収録されたインノケンティウス8世の回勅より)
いかに堕落した教会とはいえ、当時の人々にとって法王の言葉は特別なものであり、また異端審問官にとっては、「錦の御旗」ともなる、強力な後ろ盾であったはずです。
洗脳の基本は、情報を権威づけし、あたかもそれが唯一絶対のものであるかのように見せかけることが第一歩です。
いつの時代にも、人間は権威づけによって自分を大きく見せようとするものですが、クラマーという男はむしろ、情報を操ることに長けた人物であり、かつてのナチスドイツのゲッペルス宣伝相の出現を連想させます。
そしてこれらの権威付けとともに印刷本となった『魔女に与える鉄槌』によって、人々はその実在を信じ込んでいくのです。
『魔女に与える鉄槌』は性的刺激
今日、私たちが魔女という言葉に抱くイメージは、火にかけられて熱した大きな鍋をかき混ぜる老婆といったところでしょう。
しかし『魔女に与える鉄槌』を読む限りそうではなく、その中から受けるものは、男性を性的に誘惑する女性という強烈なイメージです。
つまり、セックスアピールの強い魅惑的な女性を連想させる記述にあふれているのです。
当時、裸婦を描いた絵画があったとしても、性的な春画の版画が出回ることはなかったはずで、版画の技術はあっても大衆化されてはいませんでした。
そうした社会の中で、『魔女に与える鉄槌』は、読み手の性的興奮を大いに刺激したことは容易に想像できます。
私は書き手の側も十分それを意識していたと思います。
そしてそれが、この本の爆発的な普及を可能にしたと考えられます。おそらく『魔女に与える鉄槌』を購入した人は、本棚や人の目に触れるところには置かなかったと思います。
青少年の目には、あまりに刺激が強過ぎるからです。
グーテンベルク聖書は公然と飾っても、『魔女に与える鉄槌』は隠していたことでしょう。
魔女裁判を描いた映画を見ると、魔女を演じる主人公はたいてい若くて美しい女性です。
そうでなければ作品として成り立たず、美人がはりつけにされるので、お客はお金を払って映画を見るのです。
現代に見られるこうした作用がすでにこのとき、中世の魔女裁判において生み出されていたのです。
『魔女に与える鉄槌』は、魔女裁判につきもののSM 的な刺激を読者に伝え、人々を現実の魔女狩りへと誘ったのです。たとえば次のような記述がそれです。
「ドイツでは秘部の毛を剃ることは作法に反するこことみなされるだろうが、他の国では全身の毛が剃られる」
実際の魔女裁判では必ずしも、美人が拷問にかけられたわけでも、はりつけにされたわけでもありません。
しかしその効果は、罪人の公開処刑とはまったく異なっていたはずです。
『魔女に与える鉄槌』によって、魅惑的な女性が悪魔と性行為を行なったというストーリーが与えられ、それによって形成されたきわめて残虐かつ甘美な、「共同の幻想」が魔女裁判を支えたのです。
そして、「我々は現在、ほとんどの魔女を処刑し終わったので、いまや若い女性に手を伸ばしている」とドイツの異端審問官が記しているように、『魔女に与える鉄槌』が示すイメージどおりの方向へ、現実が動いていきました。
私が先に、グーテンベルク聖書が表の世界だとすれば、『魔女に与える鉄槌』は裏の世界だったと指摘した理由はこれです。
強烈な力で流行が起こされるとき、それを引き起こす力の裏表は常に一体なのです。
どちらか一方が欠けても、魔女狩りの大流行は成立しなかったはずです。
そして表はともかく、隠れた裏の世界について、批判的な検証が行なわれることはありませんでした。
どこか他人の目に触れないところに置かれた『魔女に与える鉄槌』について、内容がおかしいという議論を誰も提起しなかったのです。
だからこそ、宗教改革のリーダーたちも、教会の腐敗を指弾することはできても、魔女裁判の愚かさを批判する力にはなり得なかったのでした。
裏の世界は多数の目に晒されることなく存在し、公然とした議論の対象にならないという点で、常に強力なのです。
魔女裁判はこのようにして、ヨーロッパ大陸に吹き荒れる嵐となって広がっていきました。
とくにドイツ、フランス、あるいはイタリアといった北西ヨーロッパで凄まじい勢いを見せました。
頻繁に行なわれる魔女裁判のために、村民がほとんどいなくなるというケースもありました。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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なるほど。 インターネットという情報を共有できる道具が発明された一方で、ネットのアダルト映像は、「美魔女」などと、持ち上げて年増の女性をも商品化することに成功している。
ネット業界もエロ・ビジネスでもっている。
魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった(1)
zeraniumのブログ より転載
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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魔女狩りを始動させた『魔女に与える鉄槌』はエロ本だった E
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83670623
1198年にインノケンティウス3世がローマ法王の位につくと、カタリ派への弾圧を決め、1209年、ついに南フランスに討伐軍を送ることを決定しました。
彼は討伐軍を組織するにあたり、ローマ市民のなかに異端に対する怒りを巧みに煽りたて、一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束したのです。
何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。つまり軍人一人ひとりに最も精力的に異端狩りを行なわせる方法は、彼らの欲に火をつけることだと心得ていたのです。
法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍と呼ばれました。
それははじめから南フランスのカタリ派という、キリスト教徒の討伐を目的として組織された最初の十字軍でした。
そして異端討伐は、その後20年間に渡って繰り広げられたのです。
アルビ十字軍が各地で行なったのは、住民の大虐殺でした。
そこではカタリ派かそうでないかということは、もはや関係がありませんでした。
なぜなら、そもそも略奪することが目的になっていたので、殺戮に迷いの入り込む余地はなく、彼らはむしろそれを愉しんでいました。
たとえば娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行が行なわれたのがその典型でしょう。
いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪でした。
彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が、いかに都合のいい理由であったかを、アルビ十字軍は雄弁に物語っています。
なぜなら、同じキリスト教徒に対しても、明らかに異端ではなかった人々に対しても、変わりなく卑劣な蛮行が行なわれたからです。
先に述べたように、「キル」と「マーダー」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍においてはいったいどこが違うというのでしょうか。
ですから「ちょっと待て!、頭は大丈夫か?」と、私が激しく突っ込みを入れたくなったのは、このような歴史的史実を知っていたからです。
13世紀の南フランスで行なわれた虐殺の膨大なエピソードがありますが、ここでその話に分け入ることはやめておきましょう。
そして、1229年の戦争終結までに、南フランスのあらゆる都市はすべて陥落したのです。
戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。
しかし果たして、審問の法廷に引きずり出された人々が、本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのかは今となってはわかりません。
拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。
なかには自ら無実を訴え続ける不屈の人もいましたが、そういう人は酷い拷問によって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っていたのです。
これが残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の始まりを告げる号砲であったということができます。
そしてカタリ派への異端審問をきっかけとして、異端審問制という制度が生まれることになったのです。
この制度の特徴は、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点です。
つまり異端審問制というのは、最初から、「すべての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」というものでした。
異端審問官が果たす権能は裁判官だけではなく、現代の司法制度でいえば、彼らは検察であり、警察であり、処刑吏であり、白を黒と言いくるめて人を殺すための、人類史上最大の思想警察ともいうべき存在でした。
教皇グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るうための「秘薬」を、そっと注入することも忘れませんでした。
それは異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。
それはかつての教皇インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた方法でしたが、しかし教皇グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くように制度の中に埋め込んだのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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2013年02月02日
13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜
zeraniumのブログ より転載
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13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜 D
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83656962
ヨーロッパ中世の魔女裁判の前には、異端審問という暗黒裁判の前史があります。
異端とは、正統から外れているという意味ですが、球界の異端児や異端の科学者などの用いられ方をする現代では、「異端」とはそれほど悪いイメージではありません。
しかし宗教で異端という場合、それは重大な意味を持っており、とくにヨーロッパ中世ではそれは生命にかかわる問題であったのです。
異端という言葉がいつ生まれたのか定かではありませんが、キリスト教初期のころにすでに異端論争が行なわれていたことは聖書からも窺うことができます。
すでに紹介したように、コンスタンティヌス大帝の時代にアリウス派が異端とされたことはその典型です。
つまり教義に多様な考え方や解釈があることを許容せず、正統とするもの以外を撲滅しようとすることです。
もちろんそこで、何が正統であるかに決着をつけるのは、常に信仰ではなく政治力です。
コンスタンティヌス大帝が、三位一体を唱えるアタナシウス派を擁護したのもそうです。
それは三位一体の教義から、聖霊の位格が神と同じということになれば、聖霊の宿ったパウロの言葉も、公会議の議決も、神の言葉と見なすことができるので政治的に非常に利用しやすかったといえます。
コンスタンティヌス大帝の目的は、当時4つに分割されていたローマ帝国をまとめ、そこで唯一の皇帝として専制君主制を確立することでした。
そのために当時、人気の上昇していたキリスト教を利用したのです。
その意味でコンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であったはずです。
三位一体論議で異端とされたアリウス派が、その後どのような扱いを受けたかはわずかしか記録には残されていませんが、それによると、領土内において激しい迫害を受け、家を壊され、暴力を振るわれ、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。
ちなみに当時、コンスタンティヌス大帝に対する東の正帝であったリキニウスは、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発しました。
しかし圧倒的な不人気の中で、戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって324年に処刑されました。
これによりローマ帝国は統一され、325年にニケア公会議がコンスタンティヌス大帝主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立しました。
このように宗教と権力が結びつき、それが国教化されるということは、すなわち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることを意味します。
ローマカトリック教会の歴史を振り返ると、12世紀頃までは、彼らには異端撲滅を行なう特別な事情が生じなかったように見えます。
しかし政治的には爛熟期の後の堕落、退廃期が訪れていました。
王侯たちは市民や領民の生活を顧みることなく、統治力は著しく失われていました。
しかし一方で宗教の面から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代であり、一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。
そしてもちろん教会もまた、ひどい堕落と退廃の中にありました。
聖職の売買や聖職者が情婦を囲うことは日常茶飯事であり、教会の小部屋は尼僧と女性信徒との情事の場と化し、聖職者は私服を肥やすことばかりに熱心でした。
ダンテは13世紀に、『神曲地獄編』で逆さまに吊るされた教皇ニコラウス3世(在位1277−1280)を描き、ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世が彼と同じ運命をたどるだろうと予言しました。
つまりダンテはその一節に、教会の権力への告発状を表したのです。
ダンテの「神曲地獄編」は、民衆が当時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。
聖書の物語を題材にとったルネッサンスの絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。
なぜこうも同じようなテーマで、しかもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた人も多いでしょう。
その理由も、ルネッサンス絵画の作者たちが、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握っていたからです。
そのような状態で人々が立ち上がり、宗教改革運動が起きるのは当然の流れと言わねばなりません。
実は異端審問と宗教改革は、切っても切れない関係にあります。
教会がなぜ異端審問を行なうのかといえば、その目的は教会の権威を守り、組織を防衛することです。
それは教会に不満を抱える異端者とされる信徒たちが、教会の足元を崩すようなことを主張していたからでした。
教会がもっとも金と権力を握った中世は、同時に教会がもっとも保身に注意しなければならない時代でもありました。
残酷な拷問と凄まじい虐殺の行なわれた中世の異端審問は、12世紀の南フランスで始まりました。
当時の南フランスでは、領主や市民はローマ法王の権威からは距離を置き、自ら自由な文化を育んでいました。
その地で人々の間に浸透していたのが、カタリ派といわれるキリスト教の一派でした。
カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの」を意味します。
地域によってはアルビ派ともバタリニ派とも呼ばれていました。
カタリ派そのものが消滅してしまったので、彼らの思想の詳細はわかりませんが、教会を否定し、どこで祈っても信仰に変わりはないとする信条を持っていました。
ローマカトリック教会では、祈りは教会で行なうものと定めていました。
つまり儀式は典礼に則り、それらは宗教指導者によって執り行われるものと決められていたのです。
それが教会の高い権威を象徴しており、信者への支配を強化する手段でもありました。
その結果、神への信仰のはずがいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰と金儲け、あるいは政治の場へと堕してしまいました。
カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという問題の本質に、早くから気づいていました。
西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように、ただの1行で片づける記述が多いために当時の状況がわからず、真相が理解されてはいないようです。
つまり宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気づいた人々による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。
信仰の本質について考えれば、祈る場所は関係ないはずです。
そしてその行き着く先は、そもそも教会は必要ないという終点なのです。これが、「宗教改革運動が教会を否定した」といわれている要因なのです。
ローマカトリック教会にとって、こうした宗教改革者たちの論理は、非常に都合の悪いものでした。
祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威は崩れてしまいます。
信仰を持つことと教会は何の関係もないということになると、これまで営々と執り行ってきた儀式は何のためかということになり、信仰の邪魔をしているのは教会のほうではないかという極論も成り立ちます。
かりにこの論理の元に民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力の権威も崩れてしまいます。
政治と宗教は協力し合い、民衆を治め、国家を統治してきました。
それがコンスタンティヌス大帝以来続けられてきた統治システムでした。
しかし教会の腐敗と縛りが強化されるなかで、信仰の原点に立ち返るという論理が生まれ、それが精緻に作り上げられていた教会のシステムの壁に亀裂を入れたのです。
信仰の本質を究めれば究めるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。
性急に言えば、それを許すと、政治と宗教による統治システムが崩壊するのです。
それを、権力者が黙って見ているはずはありません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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@Petit_Soleil17 からのツイート
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13世紀南フランスの大虐殺 異端討伐前夜 D
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83656962
ヨーロッパ中世の魔女裁判の前には、異端審問という暗黒裁判の前史があります。
異端とは、正統から外れているという意味ですが、球界の異端児や異端の科学者などの用いられ方をする現代では、「異端」とはそれほど悪いイメージではありません。
しかし宗教で異端という場合、それは重大な意味を持っており、とくにヨーロッパ中世ではそれは生命にかかわる問題であったのです。
異端という言葉がいつ生まれたのか定かではありませんが、キリスト教初期のころにすでに異端論争が行なわれていたことは聖書からも窺うことができます。
すでに紹介したように、コンスタンティヌス大帝の時代にアリウス派が異端とされたことはその典型です。
つまり教義に多様な考え方や解釈があることを許容せず、正統とするもの以外を撲滅しようとすることです。
もちろんそこで、何が正統であるかに決着をつけるのは、常に信仰ではなく政治力です。
コンスタンティヌス大帝が、三位一体を唱えるアタナシウス派を擁護したのもそうです。
それは三位一体の教義から、聖霊の位格が神と同じということになれば、聖霊の宿ったパウロの言葉も、公会議の議決も、神の言葉と見なすことができるので政治的に非常に利用しやすかったといえます。
コンスタンティヌス大帝の目的は、当時4つに分割されていたローマ帝国をまとめ、そこで唯一の皇帝として専制君主制を確立することでした。
そのために当時、人気の上昇していたキリスト教を利用したのです。
その意味でコンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であったはずです。
三位一体論議で異端とされたアリウス派が、その後どのような扱いを受けたかはわずかしか記録には残されていませんが、それによると、領土内において激しい迫害を受け、家を壊され、暴力を振るわれ、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。
ちなみに当時、コンスタンティヌス大帝に対する東の正帝であったリキニウスは、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発しました。
しかし圧倒的な不人気の中で、戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって324年に処刑されました。
これによりローマ帝国は統一され、325年にニケア公会議がコンスタンティヌス大帝主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立しました。
このように宗教と権力が結びつき、それが国教化されるということは、すなわち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることを意味します。
ローマカトリック教会の歴史を振り返ると、12世紀頃までは、彼らには異端撲滅を行なう特別な事情が生じなかったように見えます。
しかし政治的には爛熟期の後の堕落、退廃期が訪れていました。
王侯たちは市民や領民の生活を顧みることなく、統治力は著しく失われていました。
しかし一方で宗教の面から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代であり、一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。
そしてもちろん教会もまた、ひどい堕落と退廃の中にありました。
聖職の売買や聖職者が情婦を囲うことは日常茶飯事であり、教会の小部屋は尼僧と女性信徒との情事の場と化し、聖職者は私服を肥やすことばかりに熱心でした。
ダンテは13世紀に、『神曲地獄編』で逆さまに吊るされた教皇ニコラウス3世(在位1277−1280)を描き、ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世が彼と同じ運命をたどるだろうと予言しました。
つまりダンテはその一節に、教会の権力への告発状を表したのです。
ダンテの「神曲地獄編」は、民衆が当時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。
聖書の物語を題材にとったルネッサンスの絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。
なぜこうも同じようなテーマで、しかもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた人も多いでしょう。
その理由も、ルネッサンス絵画の作者たちが、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握っていたからです。
そのような状態で人々が立ち上がり、宗教改革運動が起きるのは当然の流れと言わねばなりません。
実は異端審問と宗教改革は、切っても切れない関係にあります。
教会がなぜ異端審問を行なうのかといえば、その目的は教会の権威を守り、組織を防衛することです。
それは教会に不満を抱える異端者とされる信徒たちが、教会の足元を崩すようなことを主張していたからでした。
教会がもっとも金と権力を握った中世は、同時に教会がもっとも保身に注意しなければならない時代でもありました。
残酷な拷問と凄まじい虐殺の行なわれた中世の異端審問は、12世紀の南フランスで始まりました。
当時の南フランスでは、領主や市民はローマ法王の権威からは距離を置き、自ら自由な文化を育んでいました。
その地で人々の間に浸透していたのが、カタリ派といわれるキリスト教の一派でした。
カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの」を意味します。
地域によってはアルビ派ともバタリニ派とも呼ばれていました。
カタリ派そのものが消滅してしまったので、彼らの思想の詳細はわかりませんが、教会を否定し、どこで祈っても信仰に変わりはないとする信条を持っていました。
ローマカトリック教会では、祈りは教会で行なうものと定めていました。
つまり儀式は典礼に則り、それらは宗教指導者によって執り行われるものと決められていたのです。
それが教会の高い権威を象徴しており、信者への支配を強化する手段でもありました。
その結果、神への信仰のはずがいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰と金儲け、あるいは政治の場へと堕してしまいました。
カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという問題の本質に、早くから気づいていました。
西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように、ただの1行で片づける記述が多いために当時の状況がわからず、真相が理解されてはいないようです。
つまり宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気づいた人々による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。
信仰の本質について考えれば、祈る場所は関係ないはずです。
そしてその行き着く先は、そもそも教会は必要ないという終点なのです。これが、「宗教改革運動が教会を否定した」といわれている要因なのです。
ローマカトリック教会にとって、こうした宗教改革者たちの論理は、非常に都合の悪いものでした。
祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威は崩れてしまいます。
信仰を持つことと教会は何の関係もないということになると、これまで営々と執り行ってきた儀式は何のためかということになり、信仰の邪魔をしているのは教会のほうではないかという極論も成り立ちます。
かりにこの論理の元に民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力の権威も崩れてしまいます。
政治と宗教は協力し合い、民衆を治め、国家を統治してきました。
それがコンスタンティヌス大帝以来続けられてきた統治システムでした。
しかし教会の腐敗と縛りが強化されるなかで、信仰の原点に立ち返るという論理が生まれ、それが精緻に作り上げられていた教会のシステムの壁に亀裂を入れたのです。
信仰の本質を究めれば究めるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。
性急に言えば、それを許すと、政治と宗教による統治システムが崩壊するのです。
それを、権力者が黙って見ているはずはありません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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@Petit_Soleil17 からのツイート
宗教の教義は常に権力者の都合で作られる
zeraniumのブログ より転載
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宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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聖書は実際に「聖なる書」なのか?
zeraniumのブログ より転載
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聖書は実際に「聖なる書」なのか? B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83620474
儒教について、私たちがよく知るのが『論語』の教えでしょう。
『論語』は孔子の死後数百年経ってから、彼の弟子たちがまとめたものです。
有名な一節を取り上げてみましょう。
『子の曰(いわ)く、吾(わ)れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑(まど)わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。』 (為政篇)
これを読んで若い人は、「自分も勉強するぞ」と青雲の志を抱くに違いないし、40歳前後の人は「今の境遇も天命だ。
辛抱して頑張ろう」と、気持ちを引き締めることでしょう。
しかし、私に言わせれば、これこそが、実は奴隷の教えです。
15歳にして勉学に励み、30歳にして独立する。
ここまでは人々が受け入れやすい、ごく普通のことです。
当時の平均寿命からすると、子どもが30歳になる頃に親は大体死んでいますから、それまでに勉学して独立せよ、というわけです。
ところがその次の、「四十にして惑わず」から隠れた本領が姿を現します。
「惑わない」というのは、いろいろな可能性を考えて他に気をとられることなく、一つの価値感で迷わずに生きるということです。
つまり惑わずに奴隷の道を歩め、ということです。
そして「五十にして天命を知る」において、さらに奴隷のボルテージが上がります。
当時の「天」とは、間接的に皇帝を指しています。
もちろん「天」には神のような直接的な意味もありますが、儒教の本質は、この世の神が皇帝であるというものです。
それは戦前の神ならぬ天皇陛下のような位置づけです。
つまり「天命を知る」とは、皇帝の命令を自ら進んで理解して行動するということです。
きわめつきは、「七十にして心の欲するままに従って、矩を踰えず」でしょう。
その意味はそうやって、70歳になると思うままに振舞っても道を外れないようになった、というわけです。
つまり奴隷の人生を70年間続ければ、何をやっても奴隷の枠から外れることはなくなる、ということです。
これは大変な話です。この教えによって出来上がった聡明で勤勉で、かつ命令を聞く人間が、どれほど権力者にとって都合のいいものであったか、私たちはそこに注意を向ける必要があります。
その証拠に儒教国ではいまなお、親よりもいい会社に入ってはいけないし、親が死ぬまで親よりもいい暮らしをしてはいけないという考えが根強く残っています。
日本では明治維新後に西欧の民主主義が輸入されたために、今の日本人はそういう考えをあまり持ってはいませんが、江戸時代の日本人にとっては、それを守るのが真っ当な生き方であったのです。
蛇足ですが、日本では神道は明治維新とともに作り出されました。
神道とは、明治政府が作った人工宗教であり、西欧では宗教とは認められないような代物(しろもの)です。
おそらく明治政府は政治を行なう上で、天皇の扱いをどうするか困ったものと思われます。
維新の功績が天皇にあることは、薩摩や長州もよくよくわかっていました。
なぜなら倒幕のための最大の武器が「錦の御旗(にしきのみはた)」であったからです。
そこで明治政府は天皇を神格化することを画策しました。
そして、それまで埃をかぶっていた原始宗教を拾い上げ、きれいに塵を払い、「これが日本古来の宗教だ」と掲げたのです。
しかし太古の神道には、教義も経典もありません。
そこでキリスト教を手本に、儒教の教えをベースにして形を整えました。
それでも神道は、神風特攻を遂行させることができるほどには成功したのです。
つまり大日本帝国の政府は、神道をうまく利用したのでした。
天皇家が時の政府による神格化の動きを、どのように受け止めていたのか、そこは定かではありません。
宗教は政治に利用されることをバネにして、勢力を拡大してきました。
権力者にとっては宗教は、実に使い出のある道具でした。それは人々を統治することはもちろん、政敵さえ失脚させることも簡単だからです。
「神の教えに背いている」と指弾することは、どんな嫌がらせよりも有効であったからです。
また領土的野心を満たそうとするときも、それは大いに役立ちました。
たとえばローマ帝国は、ゲルマン人との度重なる戦いに教会の司祭たちを伴い、占領地の住民にキリスト教を布教させたといわれています。
話をもう一度キリスト教に戻します。
今私たちがキリスト教と考えている宗教には、2つの大きな流れがあり、一つはカトリックで、すでに述べたようにローマ帝国が国教化したキリスト教であり、ローマ法王を頂点とするものです。
もう一つは、ご存知のようにプロテスタントです。そして実はプロテスタントにも、コンスタンティヌス大帝とは別の開祖がいるのです。
宗教を論じる際に、私がときどき紹介するエピソードの一つに、「ラリー・キング・ライブ」の話があります。
これは米国のCNNの看板トーク番組で、ラリー・キングが司会を務めており、アメリカ人の考え方や情勢を非常によく伝える格好のソースでした。
しかし残念ながら、2010年末に終了してしまいました。
それは9・11の出来事が起こり、その影響でイラク戦争が始まった頃で、このトーク番組で戦争の是非をめぐる討論が行なわれたときのことです。
出演者はユダヤ教の指導者のラビ、イスラムの宗教指導者、カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そしてインド人のニュー・エイジ系指導者の5人でした。
そのとき、視聴者から電話で、「なぜ戦争では人を殺してもいいのですか」という質問が寄せられました。
すると、ユダヤ教のラビが「マーダー(murder)とキル(kill)は違う」と答えたのです。
つまり、戦争で行なう殺人はキルであって、それは許されるという意味です。
「ちょっと待て!」、と私は思わず突っ込みを入れたくなりましたが、番組に同席した他の宗教指導者たちは誰も反論しません。むしろ当たり前だと言わんばかりに平然としているのです。
それは実に不思議な光景でした。
この発言の裏には、宗教的な倫理があります。
つまり、神は「汝、人を殺すなかれ」とマーダー(murder)を禁じています。
人間が人間を殺すのが「マーダー」で、これは絶対に許されないはずです。
ただ旧約聖書の神は創世記の「ノアの箱舟」の話で、「悪を行なう人間」には大量殺戮を行なう神なのです。
しかし「正しい人」ノアは救われ、その子孫は「正しいこと」を続ける限り絶滅させられないとする契約を、神と締結しました。
そしてそこから、(神がそうであるから)、キルが許されないと言っているわけではない、という理屈が成り立つのです。
そこから導き出される論理は、
神との契約を守らない人間は、人類のために滅ぼされなければならないというものです。
ゆえに、人類のためにキルは許される、という結論にたどり着くのです。
ここで私が問題にしたいのは、彼らのおかしな論理のことではありません。
「マーダー」は許されないが、「キル」はその限りではないという彼らの解釈をたとえ百歩譲ってよしとしても、いったいその聖書は誰が書いた聖書なのか、という点です。
わかっていることですが、イエス・キリストもパウロも、アタナシウスも、そしてコンスタンティヌス大帝も、「マーダー」と「キル」の使い分けなど一切してはいないのです。
英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書で、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、実はカトリックの聖書も英語の聖書のKJV聖書をベースにしています。
このKJVとは、King James Version の略で、キング・ジェームズ1世の名前が使われています。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
カトリック教会が正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれたものだけですが、それと同じ意味において多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書だけなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが決定的に重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書を作ったのは、スコットランド・アイルランド・イングランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュアート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から『欽定(きんてい)訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
実は『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー』(悪魔学)という書物を著わしています。
この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の流れを汲み、イギリスにおける魔女狩りの指南書としての役割を果たしました。
つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書、KJV聖書ををつくったのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
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聖書は実際に「聖なる書」なのか? B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83620474
儒教について、私たちがよく知るのが『論語』の教えでしょう。
『論語』は孔子の死後数百年経ってから、彼の弟子たちがまとめたものです。
有名な一節を取り上げてみましょう。
『子の曰(いわ)く、吾(わ)れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑(まど)わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。』 (為政篇)
これを読んで若い人は、「自分も勉強するぞ」と青雲の志を抱くに違いないし、40歳前後の人は「今の境遇も天命だ。
辛抱して頑張ろう」と、気持ちを引き締めることでしょう。
しかし、私に言わせれば、これこそが、実は奴隷の教えです。
15歳にして勉学に励み、30歳にして独立する。
ここまでは人々が受け入れやすい、ごく普通のことです。
当時の平均寿命からすると、子どもが30歳になる頃に親は大体死んでいますから、それまでに勉学して独立せよ、というわけです。
ところがその次の、「四十にして惑わず」から隠れた本領が姿を現します。
「惑わない」というのは、いろいろな可能性を考えて他に気をとられることなく、一つの価値感で迷わずに生きるということです。
つまり惑わずに奴隷の道を歩め、ということです。
そして「五十にして天命を知る」において、さらに奴隷のボルテージが上がります。
当時の「天」とは、間接的に皇帝を指しています。
もちろん「天」には神のような直接的な意味もありますが、儒教の本質は、この世の神が皇帝であるというものです。
それは戦前の神ならぬ天皇陛下のような位置づけです。
つまり「天命を知る」とは、皇帝の命令を自ら進んで理解して行動するということです。
きわめつきは、「七十にして心の欲するままに従って、矩を踰えず」でしょう。
その意味はそうやって、70歳になると思うままに振舞っても道を外れないようになった、というわけです。
つまり奴隷の人生を70年間続ければ、何をやっても奴隷の枠から外れることはなくなる、ということです。
これは大変な話です。この教えによって出来上がった聡明で勤勉で、かつ命令を聞く人間が、どれほど権力者にとって都合のいいものであったか、私たちはそこに注意を向ける必要があります。
その証拠に儒教国ではいまなお、親よりもいい会社に入ってはいけないし、親が死ぬまで親よりもいい暮らしをしてはいけないという考えが根強く残っています。
日本では明治維新後に西欧の民主主義が輸入されたために、今の日本人はそういう考えをあまり持ってはいませんが、江戸時代の日本人にとっては、それを守るのが真っ当な生き方であったのです。
蛇足ですが、日本では神道は明治維新とともに作り出されました。
神道とは、明治政府が作った人工宗教であり、西欧では宗教とは認められないような代物(しろもの)です。
おそらく明治政府は政治を行なう上で、天皇の扱いをどうするか困ったものと思われます。
維新の功績が天皇にあることは、薩摩や長州もよくよくわかっていました。
なぜなら倒幕のための最大の武器が「錦の御旗(にしきのみはた)」であったからです。
そこで明治政府は天皇を神格化することを画策しました。
そして、それまで埃をかぶっていた原始宗教を拾い上げ、きれいに塵を払い、「これが日本古来の宗教だ」と掲げたのです。
しかし太古の神道には、教義も経典もありません。
そこでキリスト教を手本に、儒教の教えをベースにして形を整えました。
それでも神道は、神風特攻を遂行させることができるほどには成功したのです。
つまり大日本帝国の政府は、神道をうまく利用したのでした。
天皇家が時の政府による神格化の動きを、どのように受け止めていたのか、そこは定かではありません。
宗教は政治に利用されることをバネにして、勢力を拡大してきました。
権力者にとっては宗教は、実に使い出のある道具でした。それは人々を統治することはもちろん、政敵さえ失脚させることも簡単だからです。
「神の教えに背いている」と指弾することは、どんな嫌がらせよりも有効であったからです。
また領土的野心を満たそうとするときも、それは大いに役立ちました。
たとえばローマ帝国は、ゲルマン人との度重なる戦いに教会の司祭たちを伴い、占領地の住民にキリスト教を布教させたといわれています。
話をもう一度キリスト教に戻します。
今私たちがキリスト教と考えている宗教には、2つの大きな流れがあり、一つはカトリックで、すでに述べたようにローマ帝国が国教化したキリスト教であり、ローマ法王を頂点とするものです。
もう一つは、ご存知のようにプロテスタントです。そして実はプロテスタントにも、コンスタンティヌス大帝とは別の開祖がいるのです。
宗教を論じる際に、私がときどき紹介するエピソードの一つに、「ラリー・キング・ライブ」の話があります。
これは米国のCNNの看板トーク番組で、ラリー・キングが司会を務めており、アメリカ人の考え方や情勢を非常によく伝える格好のソースでした。
しかし残念ながら、2010年末に終了してしまいました。
それは9・11の出来事が起こり、その影響でイラク戦争が始まった頃で、このトーク番組で戦争の是非をめぐる討論が行なわれたときのことです。
出演者はユダヤ教の指導者のラビ、イスラムの宗教指導者、カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そしてインド人のニュー・エイジ系指導者の5人でした。
そのとき、視聴者から電話で、「なぜ戦争では人を殺してもいいのですか」という質問が寄せられました。
すると、ユダヤ教のラビが「マーダー(murder)とキル(kill)は違う」と答えたのです。
つまり、戦争で行なう殺人はキルであって、それは許されるという意味です。
「ちょっと待て!」、と私は思わず突っ込みを入れたくなりましたが、番組に同席した他の宗教指導者たちは誰も反論しません。むしろ当たり前だと言わんばかりに平然としているのです。
それは実に不思議な光景でした。
この発言の裏には、宗教的な倫理があります。
つまり、神は「汝、人を殺すなかれ」とマーダー(murder)を禁じています。
人間が人間を殺すのが「マーダー」で、これは絶対に許されないはずです。
ただ旧約聖書の神は創世記の「ノアの箱舟」の話で、「悪を行なう人間」には大量殺戮を行なう神なのです。
しかし「正しい人」ノアは救われ、その子孫は「正しいこと」を続ける限り絶滅させられないとする契約を、神と締結しました。
そしてそこから、(神がそうであるから)、キルが許されないと言っているわけではない、という理屈が成り立つのです。
そこから導き出される論理は、
神との契約を守らない人間は、人類のために滅ぼされなければならないというものです。
ゆえに、人類のためにキルは許される、という結論にたどり着くのです。
ここで私が問題にしたいのは、彼らのおかしな論理のことではありません。
「マーダー」は許されないが、「キル」はその限りではないという彼らの解釈をたとえ百歩譲ってよしとしても、いったいその聖書は誰が書いた聖書なのか、という点です。
わかっていることですが、イエス・キリストもパウロも、アタナシウスも、そしてコンスタンティヌス大帝も、「マーダー」と「キル」の使い分けなど一切してはいないのです。
英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書で、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、実はカトリックの聖書も英語の聖書のKJV聖書をベースにしています。
このKJVとは、King James Version の略で、キング・ジェームズ1世の名前が使われています。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
カトリック教会が正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれたものだけですが、それと同じ意味において多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書だけなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが決定的に重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書を作ったのは、スコットランド・アイルランド・イングランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュアート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から『欽定(きんてい)訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
実は『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー』(悪魔学)という書物を著わしています。
この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の流れを汲み、イギリスにおける魔女狩りの指南書としての役割を果たしました。
つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書、KJV聖書ををつくったのです。
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』 2
zeraniumのブログ より転載
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83605331
やや脇道にそれますが、宗教はいつの時代においても、政治と権力に都合のいい教義を作り上げるものです。
彼らは権力者の権力強化に自分たちが役立つからこそ勢力を拡大し、成功することを知っているのです。
権力者の役に立たなければ、イエス・キリストがそうであったように一撃で潰されて終わりです。
東洋で力を持つ宗教は仏教であると考える人がいるかもしれませんが、それは誤った理解です。
実際には、仏教徒は今のインドにはほとんどいません。
日本にはいますが、その数はせいぜい1億人くらいのものです。
ほかにスリランカとミャンマー、ネパールの一部、ブータン、そしてチベットを合わせても、仏教徒の数はせいぜい数千万人でしょう。
そうすると世界65億人中、仏教徒は2億人もいない計算です。
それに対し、儒教はどのくらいいるかというと、中国と韓国の人口を合わせるだけですでに15億人くらいいます。
中国共産党が支配する中国に宗教はないと思うかもしれませんが、それは見える形での宗教がないだけの話です。
古代中国で生まれ、後漢の時代に国教化された儒教は、現代の中国人の心にも非常に深く刻まれているのです。
さらに歴史的に中国の影響が強かった東南アジアの国々や、その影響下にあった日本のことを考えると、儒教の信徒と言えるような人間は、少なく見積もっても16億人は固いのではないでしょうか。
儒教がそこまで勢力を拡大することができたのも、それが権力者の権力強化に大いに役立つ宗教であったからです。
天皇家は、江戸時代まで仏教を信仰していました。
そして明治維新後は、諸外国にはキリスト教に改宗したかのように振舞っています。
明治からこのかた、天皇家では男子にはプロテスタントの家庭教師が付き、女子はカトリックの勉強をしています。
そして実際にカトリックの学校出身者が天皇家に嫁いでいます。
そうしないと、欧米列強の王室と対等に付き合えないという事情があったのでしょう。
天皇を神だと思っていた当時の日本人には理解できない事実ですが、宗教が勢力を持つ陰には必ず、権力者の意図が働いているのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
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http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83605331
やや脇道にそれますが、宗教はいつの時代においても、政治と権力に都合のいい教義を作り上げるものです。
彼らは権力者の権力強化に自分たちが役立つからこそ勢力を拡大し、成功することを知っているのです。
権力者の役に立たなければ、イエス・キリストがそうであったように一撃で潰されて終わりです。
東洋で力を持つ宗教は仏教であると考える人がいるかもしれませんが、それは誤った理解です。
実際には、仏教徒は今のインドにはほとんどいません。
日本にはいますが、その数はせいぜい1億人くらいのものです。
ほかにスリランカとミャンマー、ネパールの一部、ブータン、そしてチベットを合わせても、仏教徒の数はせいぜい数千万人でしょう。
そうすると世界65億人中、仏教徒は2億人もいない計算です。
それに対し、儒教はどのくらいいるかというと、中国と韓国の人口を合わせるだけですでに15億人くらいいます。
中国共産党が支配する中国に宗教はないと思うかもしれませんが、それは見える形での宗教がないだけの話です。
古代中国で生まれ、後漢の時代に国教化された儒教は、現代の中国人の心にも非常に深く刻まれているのです。
さらに歴史的に中国の影響が強かった東南アジアの国々や、その影響下にあった日本のことを考えると、儒教の信徒と言えるような人間は、少なく見積もっても16億人は固いのではないでしょうか。
儒教がそこまで勢力を拡大することができたのも、それが権力者の権力強化に大いに役立つ宗教であったからです。
天皇家は、江戸時代まで仏教を信仰していました。
そして明治維新後は、諸外国にはキリスト教に改宗したかのように振舞っています。
明治からこのかた、天皇家では男子にはプロテスタントの家庭教師が付き、女子はカトリックの勉強をしています。
そして実際にカトリックの学校出身者が天皇家に嫁いでいます。
そうしないと、欧米列強の王室と対等に付き合えないという事情があったのでしょう。
天皇を神だと思っていた当時の日本人には理解できない事実ですが、宗教が勢力を持つ陰には必ず、権力者の意図が働いているのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
zeraniumのブログ より転載
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83605331
聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
15世紀から17世紀という二百数十年の間に魔女裁判で処刑された人は、数百万人とも推計されています。
戦争に明け暮れたヨーロッパでは裁判記録は消失しており、残っているのはごくわずかのものです。
そのために実際にどれほどの人が処刑されたのか、正確なことは誰にもわかりません。
断片的な記録から、中世ヨーロッパの世界で魔女狩りが大変な猛威を振るったことがわかっているのですが、興味深いことに、その流行はある時期を境に急速に終息しています。
何かきっかけが存在するはずなのですが、探してもこれといった出来事は見つかりません。
たとえれば昨日まで重病に苦しんでいた人が、朝目を覚ますとケロッとして起き上がってきたという感じで、これは実に不思議なことだといわなくてはなりません。
ほとんど指摘されてはいないことですが、私の考えでは、魔女狩りの流行はヨハネス・グーテンベルクによる印刷機の発明ときわめて深く関係しています。
1445年にグーテンベルクは、葡萄の圧搾機にヒントを得て活版印刷術を発明しました。
これが、私たちが世界三大発明と呼ぶほどの強烈なインパクトを、その後の社会にもたらすことになります。
それから10年後に、彼は後にグーテンベルク聖書と呼ばれる『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)を底本とした印刷聖書を世界で初めて作りました。
グーテンベルク聖書の初版部数は現代の感覚では「わずか」ともいえるほどで、ほんの180部に過ぎませんでした。
その値段を知るすべはありませんが、おそらく現代に置き換えれば、聖書1冊でフェラーリが1台買えるほど高価なものであったと思われます。
しかしその陰に、聖書を遥かにしのぐ大ベストセラーが存在したことはほとんど知られていません。
それが、1487年にドイツで出版された『魔女に与える鉄槌(てっつい)』という書物です。
この本は異端審問官であったドミニコ会修道士ハインリッヒ・クラマーとケルン大学神学部長であったヤーコプ・シュプレンガーによって書かれたもので、いわば魔女狩りのための初めてのマニュアル本です。
1487年から1520年の間に13版の増刷がされ、1547年から1669年までの間にさらに33版が増刷されています。
一節には3万部程度刷られたといわれていますが、当時としては驚異的な部数です。
しかし伝えられている版数はあくまで公式の記録にすぎず、出版の本質がコピー文化であることを考えると、そのほかにたくさんの海賊版が作られていたのは確かです。
いずれにしても『魔女に与える鉄槌』が、当時としては驚異的な版数を重ねたことは、何よりもその需要の大きさを物語るものです。
この本は、想像以上に速いスピードで、全ヨーロッパに広がったと思われます。
その理由はこの書物が、いわば「裏モノ」というべき性格を持っていたからです。いつの時代においても「裏モノ」の伝播と増殖のスピードは「表モノ」よりも圧倒的に速いものです。
この書物は魔女狩りのマニュアルという以上に、人々の心を捉える何かを内包していました。
そして、中世の暗黒時代を象徴する魔女狩りは、『魔女に与える鉄槌』というこの上ないエンジンを手に入れたかのように、ヨーロッパの隅々にまで広がっていったのです。
この書物の記述は微に入り細に入り、神学的な出典がこれでもかと示されています。
そのために努力を傾注した著者たちの、息遣いさえ聞こえてきそうなほどです。
しかしもちろん、これを魔女狩りの推進エンジンとして始動させるためには、それ相当の仕掛けが必要であったのも確かです。
『魔女に与える鉄槌』が魔女狩りのエンジンになった理由を述べるためには、まずキリスト教とは何かという点を明らかにしていかなければなりません。
最初にひと言だけ述べておくと、その理由は「それが印刷された言葉」だからです。
私たちはどういうわけか、書かれているものや、印刷されたものに深い意味を見出そうとする生き物であり、それに非常に囚われてしまうものです。
実はキリスト教の成り立ちにはこの点が大きく関係しています。
(略)キリスト教の本当の開祖は、歴史的に見れば、それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世)であることは一目瞭然です。
特筆すべきことは、325年に行なわれた第1回ニケア公会議です。
ローマカトリック教会には、公会議という最高会議があり、全世界の教会の司教が出席し、教義や典礼、教会法などについて審議、決定を行なう最高意思決定機関です。
この教会史上初の第1回ニケア公会議を開催し主導したのが、コンスタンティヌス大帝でした。
当時キリスト教は、キリスト論や三位一体論の解釈をめぐり対立していました。
なかでも信徒からなるアリウス派は三位一体を否定し、唯一神を主張したので、三位一体を唱えるアタナシウス派と激しく対立しました。
一方、コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の再統一を果たす野望を抱いており、そのためにキリスト教という宗教の力を利用するつもりだったので、アリウス派を排除する側につき、結局アリウス派はアタナシウス派に破れて異端とされてしまったのです。
コンスタンティヌス大帝はその勢いで、正典の編纂に取り掛かりました。
現在伝えられる『新約聖書27編』は、アリウス派を異端として退けたアタナシウスその人が選んだものです。
もちろんその選択にコンスタンティヌス大帝の意思が大いに関わったのは確実です。
なぜなら為政者が自らの権力統治に、都合の悪い内容を国教と認めるはずがないからです。
またキリスト教の開祖はパウロだという根拠も、イエスと1度も会っていないパウロによってイエス像が描かれており、イエスが話していたアラム語ではなく、ヘブライ語やギリシャ語で最近書かれた書簡の多くが新約聖書に選択され、教義の中心とされていることにあります。
ただしこのパウロ書簡を採択させた張本人は、コンスタンティヌス大帝です。
しかしながらトマスの福音書やユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、支配統治に都合の悪そうな福音書はしっかり退けられています。
英語の「Virgin」に置き換えられたもともとのヘブライ語は「若い女性」という意味であり、イエスの処女懐胎が教義とされたのは、325年ニケア公会議においてです。
もともとはヘブライ語で”almah”という単語が使われており、これは結婚適齢期の女性、もしくは新婚の女性を表す一般名詞です。
これがギリシア語に訳される過程で、若い女性と処女の両方を意味する”παρѲνο(parthenos)”と訳されました。
つまりニケア公会議ではヘブライ語の元の言葉を無視して、ギリシア語の派生的意味合いの「処女」をわざわざ選んだのです。
思うに、2000年前の世界ではどの地域においても、性習俗は緩(ゆる)いものであったと考えられます。
現代のように、国家が家族を統治の単位と考えて規制していたわけではなく、女性が男性の経済力を頼って生きる時代でもなかったのです。
したがってキリストが処女から生まれなければならない特別な理由もはじめからなかったのです。
それをわざわざ「処女」と訳したのは、キリストの死後300年の時が経ってからであり、そうでなければならない理由が別に生じたからと考えられます。
正典に加えられず、焚書(ふんしょ・焼却された文書)はいったいどのくらいの量に上ったことでしょうか。
たとえば20世紀に発見された死海文書は、およそ850巻にのぼっており、洞窟の中から膨大な文書が見つかったことで世界中が驚いたのですが、それでも当時、焚書された量に比べれば、ほんのわずかにすぎないと考えられています。
それは死海文書の100倍という規模で、焚書が行なわれたとしても驚くにはあたらないのです。
こうした文書が『新約聖書』27編に集約されたわけです。
キリスト教はこのときに整理され、はじめて現在に伝わるキリスト教の姿になりました。
そしてアタナシウスが選んだとされる27編は、397年の第3回カルタゴ公会議において、『新約聖書正典』として認められました。
以後、ローマカトリック教会はこの正典を一字一句いじらずに、現代に伝えているわけです。
そうだとすればキリスト教の開祖は、イエス・キリストでもなく、パウロでもなく、コンスタンティヌス大帝である、としなくてはなりません。
コンスタンティヌス大帝が主導し、その意向を働かせて27編を選ばせたという歴史的事実を見れば、キリスト教の開祖は彼しかいないのです。
また、もともとわからなかったイエスの生誕日を12月25日としたのも、当時ローマ帝国でキリスト教より流行していた、ミトラ教の教祖の生誕日が12月25日であったのを取り入れたものであり、聖母伝説を取り入れたりすることで、ミトラ教徒の取り込みまで行なわれていました。
ミトラという言葉は、サンスクリット語のマイトレーヤ(弥勒菩薩)と同語源です。
キリスト教が大乗仏教と似ていると言われるのは、時代的にもミトラ教を取り込んだためかもしれません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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リーのオーディオブック
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
15世紀から17世紀という二百数十年の間に魔女裁判で処刑された人は、数百万人とも推計されています。
戦争に明け暮れたヨーロッパでは裁判記録は消失しており、残っているのはごくわずかのものです。
そのために実際にどれほどの人が処刑されたのか、正確なことは誰にもわかりません。
断片的な記録から、中世ヨーロッパの世界で魔女狩りが大変な猛威を振るったことがわかっているのですが、興味深いことに、その流行はある時期を境に急速に終息しています。
何かきっかけが存在するはずなのですが、探してもこれといった出来事は見つかりません。
たとえれば昨日まで重病に苦しんでいた人が、朝目を覚ますとケロッとして起き上がってきたという感じで、これは実に不思議なことだといわなくてはなりません。
ほとんど指摘されてはいないことですが、私の考えでは、魔女狩りの流行はヨハネス・グーテンベルクによる印刷機の発明ときわめて深く関係しています。
1445年にグーテンベルクは、葡萄の圧搾機にヒントを得て活版印刷術を発明しました。
これが、私たちが世界三大発明と呼ぶほどの強烈なインパクトを、その後の社会にもたらすことになります。
それから10年後に、彼は後にグーテンベルク聖書と呼ばれる『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)を底本とした印刷聖書を世界で初めて作りました。
グーテンベルク聖書の初版部数は現代の感覚では「わずか」ともいえるほどで、ほんの180部に過ぎませんでした。
その値段を知るすべはありませんが、おそらく現代に置き換えれば、聖書1冊でフェラーリが1台買えるほど高価なものであったと思われます。
しかしその陰に、聖書を遥かにしのぐ大ベストセラーが存在したことはほとんど知られていません。
それが、1487年にドイツで出版された『魔女に与える鉄槌(てっつい)』という書物です。
この本は異端審問官であったドミニコ会修道士ハインリッヒ・クラマーとケルン大学神学部長であったヤーコプ・シュプレンガーによって書かれたもので、いわば魔女狩りのための初めてのマニュアル本です。
1487年から1520年の間に13版の増刷がされ、1547年から1669年までの間にさらに33版が増刷されています。
一節には3万部程度刷られたといわれていますが、当時としては驚異的な部数です。
しかし伝えられている版数はあくまで公式の記録にすぎず、出版の本質がコピー文化であることを考えると、そのほかにたくさんの海賊版が作られていたのは確かです。
いずれにしても『魔女に与える鉄槌』が、当時としては驚異的な版数を重ねたことは、何よりもその需要の大きさを物語るものです。
この本は、想像以上に速いスピードで、全ヨーロッパに広がったと思われます。
その理由はこの書物が、いわば「裏モノ」というべき性格を持っていたからです。いつの時代においても「裏モノ」の伝播と増殖のスピードは「表モノ」よりも圧倒的に速いものです。
この書物は魔女狩りのマニュアルという以上に、人々の心を捉える何かを内包していました。
そして、中世の暗黒時代を象徴する魔女狩りは、『魔女に与える鉄槌』というこの上ないエンジンを手に入れたかのように、ヨーロッパの隅々にまで広がっていったのです。
この書物の記述は微に入り細に入り、神学的な出典がこれでもかと示されています。
そのために努力を傾注した著者たちの、息遣いさえ聞こえてきそうなほどです。
しかしもちろん、これを魔女狩りの推進エンジンとして始動させるためには、それ相当の仕掛けが必要であったのも確かです。
『魔女に与える鉄槌』が魔女狩りのエンジンになった理由を述べるためには、まずキリスト教とは何かという点を明らかにしていかなければなりません。
最初にひと言だけ述べておくと、その理由は「それが印刷された言葉」だからです。
私たちはどういうわけか、書かれているものや、印刷されたものに深い意味を見出そうとする生き物であり、それに非常に囚われてしまうものです。
実はキリスト教の成り立ちにはこの点が大きく関係しています。
(略)キリスト教の本当の開祖は、歴史的に見れば、それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世)であることは一目瞭然です。
特筆すべきことは、325年に行なわれた第1回ニケア公会議です。
ローマカトリック教会には、公会議という最高会議があり、全世界の教会の司教が出席し、教義や典礼、教会法などについて審議、決定を行なう最高意思決定機関です。
この教会史上初の第1回ニケア公会議を開催し主導したのが、コンスタンティヌス大帝でした。
当時キリスト教は、キリスト論や三位一体論の解釈をめぐり対立していました。
なかでも信徒からなるアリウス派は三位一体を否定し、唯一神を主張したので、三位一体を唱えるアタナシウス派と激しく対立しました。
一方、コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の再統一を果たす野望を抱いており、そのためにキリスト教という宗教の力を利用するつもりだったので、アリウス派を排除する側につき、結局アリウス派はアタナシウス派に破れて異端とされてしまったのです。
コンスタンティヌス大帝はその勢いで、正典の編纂に取り掛かりました。
現在伝えられる『新約聖書27編』は、アリウス派を異端として退けたアタナシウスその人が選んだものです。
もちろんその選択にコンスタンティヌス大帝の意思が大いに関わったのは確実です。
なぜなら為政者が自らの権力統治に、都合の悪い内容を国教と認めるはずがないからです。
またキリスト教の開祖はパウロだという根拠も、イエスと1度も会っていないパウロによってイエス像が描かれており、イエスが話していたアラム語ではなく、ヘブライ語やギリシャ語で最近書かれた書簡の多くが新約聖書に選択され、教義の中心とされていることにあります。
ただしこのパウロ書簡を採択させた張本人は、コンスタンティヌス大帝です。
しかしながらトマスの福音書やユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、支配統治に都合の悪そうな福音書はしっかり退けられています。
英語の「Virgin」に置き換えられたもともとのヘブライ語は「若い女性」という意味であり、イエスの処女懐胎が教義とされたのは、325年ニケア公会議においてです。
もともとはヘブライ語で”almah”という単語が使われており、これは結婚適齢期の女性、もしくは新婚の女性を表す一般名詞です。
これがギリシア語に訳される過程で、若い女性と処女の両方を意味する”παρѲνο(parthenos)”と訳されました。
つまりニケア公会議ではヘブライ語の元の言葉を無視して、ギリシア語の派生的意味合いの「処女」をわざわざ選んだのです。
思うに、2000年前の世界ではどの地域においても、性習俗は緩(ゆる)いものであったと考えられます。
現代のように、国家が家族を統治の単位と考えて規制していたわけではなく、女性が男性の経済力を頼って生きる時代でもなかったのです。
したがってキリストが処女から生まれなければならない特別な理由もはじめからなかったのです。
それをわざわざ「処女」と訳したのは、キリストの死後300年の時が経ってからであり、そうでなければならない理由が別に生じたからと考えられます。
正典に加えられず、焚書(ふんしょ・焼却された文書)はいったいどのくらいの量に上ったことでしょうか。
たとえば20世紀に発見された死海文書は、およそ850巻にのぼっており、洞窟の中から膨大な文書が見つかったことで世界中が驚いたのですが、それでも当時、焚書された量に比べれば、ほんのわずかにすぎないと考えられています。
それは死海文書の100倍という規模で、焚書が行なわれたとしても驚くにはあたらないのです。
こうした文書が『新約聖書』27編に集約されたわけです。
キリスト教はこのときに整理され、はじめて現在に伝わるキリスト教の姿になりました。
そしてアタナシウスが選んだとされる27編は、397年の第3回カルタゴ公会議において、『新約聖書正典』として認められました。
以後、ローマカトリック教会はこの正典を一字一句いじらずに、現代に伝えているわけです。
そうだとすればキリスト教の開祖は、イエス・キリストでもなく、パウロでもなく、コンスタンティヌス大帝である、としなくてはなりません。
コンスタンティヌス大帝が主導し、その意向を働かせて27編を選ばせたという歴史的事実を見れば、キリスト教の開祖は彼しかいないのです。
また、もともとわからなかったイエスの生誕日を12月25日としたのも、当時ローマ帝国でキリスト教より流行していた、ミトラ教の教祖の生誕日が12月25日であったのを取り入れたものであり、聖母伝説を取り入れたりすることで、ミトラ教徒の取り込みまで行なわれていました。
ミトラという言葉は、サンスクリット語のマイトレーヤ(弥勒菩薩)と同語源です。
キリスト教が大乗仏教と似ていると言われるのは、時代的にもミトラ教を取り込んだためかもしれません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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もし、あなたが一瞬で相手と良好な人間関係を築きたいのなら、
この人間心理を理解しておくことをオススメします。
初めての人とでも自然に良好な人間関係を築く方法がわかる
リーのオーディオブック
中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
zeraniumのブログ より転載
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中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83591250
あなたは、15世紀の大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)を知っていますか?
これは、1486年にドミニコ会士で異端審問間であったハインリヒ・クラマーとヤーコブ・シュプレンガーによって書かれた「魔女狩り」に関する論文です。
それは魔女発見の手順と、その審問と拷問についてこと細かに記されており、中世において大きな影響を与えたことで知られています。
「魔女狩り」は、中性末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女や魔術行為に対する追求のことで、魔女と認定された膨大な数の人々が処刑されました。
犠牲者数については諸説ありますが、900万人とも言われています。
本書では、なぜこのような残酷なことが行なわれたのか?
なぜ「魔女狩り」についての書物が大ベストセラーになったのか? なぜ現代において「魔女狩り」が甦ったのか? を解明していきます。
私は脳機能科学者です。
つまり脳のことを研究している脳の専門家です。
「脳がどうやって世界を認知し、人の行動や思考を支配しているか」を研究し続けています。
そこでわかったことは、「脳は見たいものしか見ない」ということでした。
では脳が見たいものとは何でしょうか? それは「過去の自分にとって価値のあるもの」です。
それはたとえば私が「ドリームキラー」と呼ぶ、親や教師や友人などからの情報によって植え付けられる価値のことです。
さらにはテレビ、新聞、インターネット、ソーシャルメディアから与えられた価値のことです。
これは非常に恐ろしいことです。
もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは「他人によって作られた人生」を生きることになります。
つまりあなたが見ているものは「過去の自分にとって価値のあるもの」だけであり、それは「他人によって作られた世界」なのです。
あなたの生きている世界はすべて「他人によって作られた世界」で、あなたが見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によって作られている可能性が高いのです。
よくITの発明は当時の印刷術の発明と比較され、ITが新しい「知」の世界を切り開くと礼賛されるのを聞きます。
確かにその通りではあるのですが、それを手放しで受け入れるだけでは罠にはまる危険性が高いと考える私は、警鐘を鳴らしてきました。
私がそう考える理由は、ヨーロッパ中世は魔女狩りに象徴される暗黒時代であり、中性の人々をその暗闇へ誘った力として、グーテンベルクの印刷術の発明が大きかったと考えるからです。
グーテンベルクの発明によってもたらされた印刷書物は、時の権力者によって極めて強力な洗脳の道具として利用されました。その特筆すべき1冊が、『魔女に与える鉄槌』という書物です。
一般的に、中世のベストセラーは印刷術によって爆発的に普及した「聖書」であるとされています。
ところがさまざまな文献を調べていくと、どうもそうではなかったことがわかってきました。
その一つは、ローマカトリック教会が聖書の普及を好ましく思っていなかったことです。
カトリック教会は、祈りの場を唯一教会にのみ定め、聖書の解釈は唯一教会が行なうものと決めていたからです。
聖書の普及が宗教改革運動を拡大させたことを考えると、教会は、聖書が複製によって大衆化していくことを嫌っていたのは当然です。
15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパは異端審問と魔女狩りに明け暮れた時代でした。
それに伴って「魔女論」という魔女について書かれた書物が相次いで出版されました。
「魔女」という一つのテーマだけでこれだけ多くの書物が書かれた事実は、それだけ大きな社会的関心がそのテーマにあったことを示しています。
「魔女論」の一群の中でも、もっともよく売れたとされていたのが『魔女の鉄槌』です。
しかも短期間のうちに多くの版が重ねられた事実から見て、私はヨーロッパ中世のベストセラーは聖書ではなく、『魔女の鉄槌』であったという結論を得ました。
私はこの書物の英語訳現代版とラテン語のオリジナル版の両方を手に入れ、目を通したところ、案の定、そこには魔女狩りを流行させた「企み」が潜んでいたのです。
ところでグーテンベルクの印刷術で製本されるまでは、聖書は写本で作られていました。
しかし現代人は写本と聞くと、写し間違いや改竄を考えるせいか、それにあまり信頼を寄せる気になりません。
ところがそれが印刷された活字になると、どういうわけか間違いないものと感じ、内容にも信頼を置くようになります。不思議なことですが、どういうわけかそう受け止めるのです。
しかしこれは明らかに錯覚です。
そのために、聖書に書かれている情報が批判的に検証されることはまったくありません。
宗教だから当たり前といえば当たり前です。歴史的考察がされることはあっても、聖書が編纂されておよそ1700年の間、信徒にとって問題なのはその解釈であって、書かれたことが正しいかどうかは論外で検証の対象にすらなりません。
この事実は、現代人が抱いている印刷出版文化への無批判な信頼感に対して、一つの示唆を与えています。
それは私たち現代人が、活字化された情報によって翻弄され惑わされる危険というリスクを、常に持っていることを意味します。
それは「誰かがその情報をあなたに信じ込ませたいために用意した偽書であるかもしれない」、ということです。それはテレビやラジオも同様です。
ヨーロッパ中世で起こった魔女狩りは、20世紀半ばころから著名な学者たちによって研究され、その成果はいくつもの書物に著わされてきました。
そして魔女とは何だったのかということや、教会権力と社会との関係を明らかにしようとするものなどでした。
研究者たちを捉えたのは、15世紀から17世紀という長期間にわたって、なぜこれほど大規模に流行することになったのかという謎でした。
人間社会は歴史的にも心理学的にも、しばしば大虐殺や集団リンチを行なう傾向が見られます。
しかしそれがヨーロッパ全域というきわめて広い地域で、かつ二百数十年という長期にわたり猛威を振るい続けた事実は、いまだに解きがたい謎であり続けています。
私が本書を著わす目的は、この謎を解き明かすことではなく、私の問題意識である、現代において魔女狩りが再び猛威を振るい始めていることにあります。
現代の魔女狩りを端的に表現すれば、「都合の悪い者は消せ」というものです。
それらはたとえばテレビなどでマスコミが行なう、御用学者や御用評論家による考え方の誘導や、風評被害を口実にしたネット言論規制、掲示板荒らしを専門にする雇われ工作員の存在などで、特定の人物を容赦なく追い落とす行為の数々は、これまでにもさんざん行なわれており、決して珍しいものではありません。
ところがこの21世紀に始まる新しい魔女狩りでは、誰かが追い落とされて社会的に抹殺され、あるいは殺されたとしても、おそらくその痕跡すら残りません。
それだけでなく裏で暗躍する存在と彼らの目的も、私たちの目に映らなくなるのです。
なぜ見えないかといえば、水面下に隠れたアンダーグラウンドメディアが目的達成の手段として使用されるからです。
今権力者は、大衆洗脳の道具を求めるという強烈なニーズを持っています。
私は近々、その道具の代表にツイッターがなる、と考えています。わずか数行の「つぶやき」が人間を変えるということを、彼らは発見したからです。
そしてグーグルの検索エンジンが思想調査に使用され、フェイスブックが中東の民主化を促し、さらにツイッターではつぶやきを自然言語処理することによって、それが国家の政策立案に使えるという研究成果が出されました。
このことはつまり、これらをすべて反対の目的に作用させる使い方ができるということです。
私が見る限り、その兆候は、すでにあちこちで顕在化しています。たとえば最近では、
「放射能を心配しすぎるのはバカ」
「20ミリシーベルトと国が決めたのだから、国民はそれに従う義務がある」
「東日本大震災は神の仕業」
いずれもブログやツイッターで繰り返し取り上げられている言葉です。
批判も検証もなされることなく、無意識のうちにこうした言葉が何度も何度も、私たちの中に刷り込まれています。
しかしそれをアホらしいと感じればいいのですが、そうは感じない人間が増えているのです。
これは、21世紀に新しい魔女狩りが流行する、非常に大きなシグナルであるといえます。
私がなぜそれを魔女狩りと位置づけるのか、中世との類似性はどこにあり、拡大を推進するメカニズムは何か、なぜアンダーグラウンドメディアがそれほど強い影響力を持つのかについて明らかにすることは、同時に、中世の魔女狩りが広範囲かつ長期にわたって流行した謎に、一つの答えを与えることにもなるでしょう。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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現代の「魔女狩り」、植草事件、鈴木ムネオ事件、小沢事件、などデッチ上げで社会的リンチを受けている。
中世の印刷技術による人々の洗脳...今は、マスコミによる大衆への執拗な洗脳。
中世でも人々はおかしいと少しは思いながらも権威には逆らえなかった。
無抵抗な人々は生贄にされていった。
今も無名な人々は「自殺」ということで闇に葬られているのだろう。
不審死が毎年10万人、自殺の9割は他殺と言われている。
現代も魔女狩りは続いている。( ̄^ ̄)
「成功の9ステップ」で有名なジェームス・スキナー
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中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83591250
あなたは、15世紀の大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)を知っていますか?
これは、1486年にドミニコ会士で異端審問間であったハインリヒ・クラマーとヤーコブ・シュプレンガーによって書かれた「魔女狩り」に関する論文です。
それは魔女発見の手順と、その審問と拷問についてこと細かに記されており、中世において大きな影響を与えたことで知られています。
「魔女狩り」は、中性末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女や魔術行為に対する追求のことで、魔女と認定された膨大な数の人々が処刑されました。
犠牲者数については諸説ありますが、900万人とも言われています。
本書では、なぜこのような残酷なことが行なわれたのか?
なぜ「魔女狩り」についての書物が大ベストセラーになったのか? なぜ現代において「魔女狩り」が甦ったのか? を解明していきます。
私は脳機能科学者です。
つまり脳のことを研究している脳の専門家です。
「脳がどうやって世界を認知し、人の行動や思考を支配しているか」を研究し続けています。
そこでわかったことは、「脳は見たいものしか見ない」ということでした。
では脳が見たいものとは何でしょうか? それは「過去の自分にとって価値のあるもの」です。
それはたとえば私が「ドリームキラー」と呼ぶ、親や教師や友人などからの情報によって植え付けられる価値のことです。
さらにはテレビ、新聞、インターネット、ソーシャルメディアから与えられた価値のことです。
これは非常に恐ろしいことです。
もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは「他人によって作られた人生」を生きることになります。
つまりあなたが見ているものは「過去の自分にとって価値のあるもの」だけであり、それは「他人によって作られた世界」なのです。
あなたの生きている世界はすべて「他人によって作られた世界」で、あなたが見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によって作られている可能性が高いのです。
よくITの発明は当時の印刷術の発明と比較され、ITが新しい「知」の世界を切り開くと礼賛されるのを聞きます。
確かにその通りではあるのですが、それを手放しで受け入れるだけでは罠にはまる危険性が高いと考える私は、警鐘を鳴らしてきました。
私がそう考える理由は、ヨーロッパ中世は魔女狩りに象徴される暗黒時代であり、中性の人々をその暗闇へ誘った力として、グーテンベルクの印刷術の発明が大きかったと考えるからです。
グーテンベルクの発明によってもたらされた印刷書物は、時の権力者によって極めて強力な洗脳の道具として利用されました。その特筆すべき1冊が、『魔女に与える鉄槌』という書物です。
一般的に、中世のベストセラーは印刷術によって爆発的に普及した「聖書」であるとされています。
ところがさまざまな文献を調べていくと、どうもそうではなかったことがわかってきました。
その一つは、ローマカトリック教会が聖書の普及を好ましく思っていなかったことです。
カトリック教会は、祈りの場を唯一教会にのみ定め、聖書の解釈は唯一教会が行なうものと決めていたからです。
聖書の普及が宗教改革運動を拡大させたことを考えると、教会は、聖書が複製によって大衆化していくことを嫌っていたのは当然です。
15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパは異端審問と魔女狩りに明け暮れた時代でした。
それに伴って「魔女論」という魔女について書かれた書物が相次いで出版されました。
「魔女」という一つのテーマだけでこれだけ多くの書物が書かれた事実は、それだけ大きな社会的関心がそのテーマにあったことを示しています。
「魔女論」の一群の中でも、もっともよく売れたとされていたのが『魔女の鉄槌』です。
しかも短期間のうちに多くの版が重ねられた事実から見て、私はヨーロッパ中世のベストセラーは聖書ではなく、『魔女の鉄槌』であったという結論を得ました。
私はこの書物の英語訳現代版とラテン語のオリジナル版の両方を手に入れ、目を通したところ、案の定、そこには魔女狩りを流行させた「企み」が潜んでいたのです。
ところでグーテンベルクの印刷術で製本されるまでは、聖書は写本で作られていました。
しかし現代人は写本と聞くと、写し間違いや改竄を考えるせいか、それにあまり信頼を寄せる気になりません。
ところがそれが印刷された活字になると、どういうわけか間違いないものと感じ、内容にも信頼を置くようになります。不思議なことですが、どういうわけかそう受け止めるのです。
しかしこれは明らかに錯覚です。
そのために、聖書に書かれている情報が批判的に検証されることはまったくありません。
宗教だから当たり前といえば当たり前です。歴史的考察がされることはあっても、聖書が編纂されておよそ1700年の間、信徒にとって問題なのはその解釈であって、書かれたことが正しいかどうかは論外で検証の対象にすらなりません。
この事実は、現代人が抱いている印刷出版文化への無批判な信頼感に対して、一つの示唆を与えています。
それは私たち現代人が、活字化された情報によって翻弄され惑わされる危険というリスクを、常に持っていることを意味します。
それは「誰かがその情報をあなたに信じ込ませたいために用意した偽書であるかもしれない」、ということです。それはテレビやラジオも同様です。
ヨーロッパ中世で起こった魔女狩りは、20世紀半ばころから著名な学者たちによって研究され、その成果はいくつもの書物に著わされてきました。
そして魔女とは何だったのかということや、教会権力と社会との関係を明らかにしようとするものなどでした。
研究者たちを捉えたのは、15世紀から17世紀という長期間にわたって、なぜこれほど大規模に流行することになったのかという謎でした。
人間社会は歴史的にも心理学的にも、しばしば大虐殺や集団リンチを行なう傾向が見られます。
しかしそれがヨーロッパ全域というきわめて広い地域で、かつ二百数十年という長期にわたり猛威を振るい続けた事実は、いまだに解きがたい謎であり続けています。
私が本書を著わす目的は、この謎を解き明かすことではなく、私の問題意識である、現代において魔女狩りが再び猛威を振るい始めていることにあります。
現代の魔女狩りを端的に表現すれば、「都合の悪い者は消せ」というものです。
それらはたとえばテレビなどでマスコミが行なう、御用学者や御用評論家による考え方の誘導や、風評被害を口実にしたネット言論規制、掲示板荒らしを専門にする雇われ工作員の存在などで、特定の人物を容赦なく追い落とす行為の数々は、これまでにもさんざん行なわれており、決して珍しいものではありません。
ところがこの21世紀に始まる新しい魔女狩りでは、誰かが追い落とされて社会的に抹殺され、あるいは殺されたとしても、おそらくその痕跡すら残りません。
それだけでなく裏で暗躍する存在と彼らの目的も、私たちの目に映らなくなるのです。
なぜ見えないかといえば、水面下に隠れたアンダーグラウンドメディアが目的達成の手段として使用されるからです。
今権力者は、大衆洗脳の道具を求めるという強烈なニーズを持っています。
私は近々、その道具の代表にツイッターがなる、と考えています。わずか数行の「つぶやき」が人間を変えるということを、彼らは発見したからです。
そしてグーグルの検索エンジンが思想調査に使用され、フェイスブックが中東の民主化を促し、さらにツイッターではつぶやきを自然言語処理することによって、それが国家の政策立案に使えるという研究成果が出されました。
このことはつまり、これらをすべて反対の目的に作用させる使い方ができるということです。
私が見る限り、その兆候は、すでにあちこちで顕在化しています。たとえば最近では、
「放射能を心配しすぎるのはバカ」
「20ミリシーベルトと国が決めたのだから、国民はそれに従う義務がある」
「東日本大震災は神の仕業」
いずれもブログやツイッターで繰り返し取り上げられている言葉です。
批判も検証もなされることなく、無意識のうちにこうした言葉が何度も何度も、私たちの中に刷り込まれています。
しかしそれをアホらしいと感じればいいのですが、そうは感じない人間が増えているのです。
これは、21世紀に新しい魔女狩りが流行する、非常に大きなシグナルであるといえます。
私がなぜそれを魔女狩りと位置づけるのか、中世との類似性はどこにあり、拡大を推進するメカニズムは何か、なぜアンダーグラウンドメディアがそれほど強い影響力を持つのかについて明らかにすることは、同時に、中世の魔女狩りが広範囲かつ長期にわたって流行した謎に、一つの答えを与えることにもなるでしょう。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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現代の「魔女狩り」、植草事件、鈴木ムネオ事件、小沢事件、などデッチ上げで社会的リンチを受けている。
中世の印刷技術による人々の洗脳...今は、マスコミによる大衆への執拗な洗脳。
中世でも人々はおかしいと少しは思いながらも権威には逆らえなかった。
無抵抗な人々は生贄にされていった。
今も無名な人々は「自殺」ということで闇に葬られているのだろう。
不審死が毎年10万人、自殺の9割は他殺と言われている。
現代も魔女狩りは続いている。( ̄^ ̄)
「成功の9ステップ」で有名なジェームス・スキナー
2013年02月01日
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(2)
zeraniumのブログ より転載
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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@Petit_Soleil17 からのツイート
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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