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2015年02月08日
名古屋女子大生と佐世保高校生の殺人事件に思うこと
最近、ショッキングな事件が多いが、その中でこの2つの事件は、親の側としてみるとひとごとではない。我が家だって、いっときひどい状況のときは、「おまえらのせいでこうなった。どうしてくれる。一生迷惑かけてやる。どうなっても、おまえらが面倒みろ」と何度か言われた。だれも、殺人あるいはそこまでいかなくても人に迷惑を起こすような子に育てようなんて親は思わない。親は社会人として独り立ちしてもらおうと、一生懸命になる。その親の思いがあまりに子どもに重荷になると、ジレンマを起こし問題行動が起こるように今、自分の子どもとの関わりをふりかえり感じている。この2例について、何が問題であったか。まず、家族環境をみると父親はどちらも教育熱心で高学歴なところが共通点としてある。また、女の子なのにボーイッシュであったり、また一人暮らしをしていた点も共通している。両親が幼少よりどんな関わりをてきたかまではわからないが、思春期の多感な時期に父親の存在は彼女たちにどういう存在であったのか。父親を乗り越えようとして自らを男性的にしていたのか。そこに女性としての自分はどうであったのか。ここでフロイトの理論にあてはめて考えてみる。フロイトは、人間の心的構造を「エス」「自我」「超自我」の3領域からなる装置になぞらえて概念化した。「エス」とは、人間の心(精神装置)を構成する三領域(エス・自我・超自我)のうち、最も深奥にあって、欲動エネルギーの源泉をなす部分、いわば欲動の動力源であり、貯蔵庫である。エスは未分化で、その働きは無意識的であり、現実をも理想をも無視する、非論理的かつ無道徳的衝動としてひたすら快感原則に従い、ただむやみやたらと快を求め、解放を求めており、リビドーの直接的・即時的充足を目指す。「自我」は、意識的機能の主体を為すものである。これはエスの一部が現実に触れて変化したもので、現実を認識して順応し、エスの欲動エネルギーを表象化したり、制御したり、あるいは水路を与える。自我は快感原則ではなく次第に現実原則を目指し、現実に適応することを目指すようになる。また、自我は超自我を適当に満足させたり抑えたりする働きも持っている。 「超自我」は、個人が両親や権威者などを通してのしつけ・教育を学習し、内部に取り入れて出来た、いわゆる良心に該当し、個人の中に内在化された道徳・規範・理想をもって、自我を監視・禁圧する心的メカニズムである。
 フロイトによれば、人間は欲動(エス)に突き動かされるものだとされるが、文明社会における欲動の自然な発揮は禁止される。そこで性を抑圧するか、社会的活動に昇華するか、反動形成して逆の極みに走るか、抑圧が不十分で非社会的人格になるしかない。自我が弱いと現実認識(現実吟味)は不十分となり、過酷な良心(超自我)の命令のままに欲動を抑え過ぎたり(神経症的人格)、逆に欲動に飲み込まれて現実を見失ってしまう(精神病的人格)ことになる。
名古屋のO氏はツイッターで10月中旬に「とりあえず、清楚になるよりも先に社会適応者になる必要があると気づき始めた。」と言っている。ここに彼女の生の苦痛が感じられる。ここで、だれかこの想いをすくってやれなかったものか。思春期の多感な時期の子どもの精神構造は不安定で、暴走しかねない。フロイトのいう「超自我」形成に深く関わる親はしっかりと子どもを捉えて、(と同時に子どもの気持ちを汲んで)関わっていかなければいけないとしみじみ感じた事件である。



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