2015年12月30日
今年はこれでお終い
今年はエルニーニョがきつくて季節の変化は例年らしくなく、後先が入れ替わったり気象の激しさがますますきつくなり、いよいよ温暖化の影響が牙をむいてきた年でした。もう何でもありで、地球上で人間のやっていることと変わらなくなってきました。
気候も行事も選り取り見取りでいつでも全てスタンバイされており、バナナのたたき売りのようです。
お好きにどうぞと、正月だバレンタインだお盆だ誕生日だクリスマスだって言われたって唯の陳列品になり下がってしまい、人と人が向き合い生命の贈答を行う、一回性の持つかけがえの無さや厳粛さなど微塵も見られない。
すべては平らに慣らされて、エントロピーの法則に倣い「でたらめさかげん」に突き進む。生命の秘密である「よどみ」は益々見えず、臭わず、聞こえなくなりつつある。
それはそれで我々が「選択」した道なのだから、ぼやいてもしょうがない。何でも楽にしようと行動も思考も幼年化に向かって突き進むのが「進歩」ということらしいが、それならそれで今をどう掴むか。このような時代は過去のどの時代の人間にも体験したことが無いものであることに違いない。貴重な体験をさせてもらっていることを見極め、感謝すべきという思いもある。
新たなフィクションが求められている。
とても前向きでしょ?やけになっている訳ではありません。行動しなければいけない時だからでしょう。
さて、そんな平らな時代でも、良く眼をすませば一つのイベントに向かい足並みを揃えている空気が実感されます。何かに向かって静かになってきています。何に促されているのか大掃除やら買い物やらの顔が見え隠れします。間もなく新年を迎えるのですね。
心なしか塵も落ち空気も澄んで来た様な夜空です。一昨日辺りから寒さも戻りつつあります。
歳をとるという事は、区切りをつけていくことであり、区切りをつけるとは例えば昨年と比較してどう変わったのかを知ることです。それを知るとは、いつまでも若いことに執着して現実を遠くにやって、突然慌てふためくことの無いようどっしり構えることであり、過ぎたものにしがみつくのではなく今を覚悟し、「時分」の花を究めていくことだろうと思います。若い人は唯今の状態に任せるのではなく、「老い」を見据えたうえで今の在りようを透かして見て、どう生きたらいいのかをしっかり決めて、謳歌する時はする。
私はと言えば、間もなく来るけじめの日に向かって、この一年は少しはものがわかってきたのかもと勝手に思う反面、相変わらず何を言っているのか判りづらい表現だったと振り返って反省しています。もっと語るようにわかりやすく書けなければ、本当にわかっているとは言えない筈です。知識も大事だが、日本語を学ばねばと痛感します。
来年への課題です。
一函の皿あやまつやすす払い 召波
(歳末のそわそわしたあわただしさに、うっかりとり落としてしまった大切な皿。しまったと思ってももう遅い。すす払い後の清々しい気持ちにぽっかり空いた無念。いつもおれはこうなんだと思いつつ、それこそ生きている痕跡と慰める。・・・理屈は俳句に一番大敵でした。すみません!)
皆さんは、どんな区切りをつけますか?
どうか良い年を重ねていってください。
気候も行事も選り取り見取りでいつでも全てスタンバイされており、バナナのたたき売りのようです。
お好きにどうぞと、正月だバレンタインだお盆だ誕生日だクリスマスだって言われたって唯の陳列品になり下がってしまい、人と人が向き合い生命の贈答を行う、一回性の持つかけがえの無さや厳粛さなど微塵も見られない。
すべては平らに慣らされて、エントロピーの法則に倣い「でたらめさかげん」に突き進む。生命の秘密である「よどみ」は益々見えず、臭わず、聞こえなくなりつつある。
それはそれで我々が「選択」した道なのだから、ぼやいてもしょうがない。何でも楽にしようと行動も思考も幼年化に向かって突き進むのが「進歩」ということらしいが、それならそれで今をどう掴むか。このような時代は過去のどの時代の人間にも体験したことが無いものであることに違いない。貴重な体験をさせてもらっていることを見極め、感謝すべきという思いもある。
新たなフィクションが求められている。
とても前向きでしょ?やけになっている訳ではありません。行動しなければいけない時だからでしょう。
さて、そんな平らな時代でも、良く眼をすませば一つのイベントに向かい足並みを揃えている空気が実感されます。何かに向かって静かになってきています。何に促されているのか大掃除やら買い物やらの顔が見え隠れします。間もなく新年を迎えるのですね。
心なしか塵も落ち空気も澄んで来た様な夜空です。一昨日辺りから寒さも戻りつつあります。
歳をとるという事は、区切りをつけていくことであり、区切りをつけるとは例えば昨年と比較してどう変わったのかを知ることです。それを知るとは、いつまでも若いことに執着して現実を遠くにやって、突然慌てふためくことの無いようどっしり構えることであり、過ぎたものにしがみつくのではなく今を覚悟し、「時分」の花を究めていくことだろうと思います。若い人は唯今の状態に任せるのではなく、「老い」を見据えたうえで今の在りようを透かして見て、どう生きたらいいのかをしっかり決めて、謳歌する時はする。
私はと言えば、間もなく来るけじめの日に向かって、この一年は少しはものがわかってきたのかもと勝手に思う反面、相変わらず何を言っているのか判りづらい表現だったと振り返って反省しています。もっと語るようにわかりやすく書けなければ、本当にわかっているとは言えない筈です。知識も大事だが、日本語を学ばねばと痛感します。
来年への課題です。
一函の皿あやまつやすす払い 召波
(歳末のそわそわしたあわただしさに、うっかりとり落としてしまった大切な皿。しまったと思ってももう遅い。すす払い後の清々しい気持ちにぽっかり空いた無念。いつもおれはこうなんだと思いつつ、それこそ生きている痕跡と慰める。・・・理屈は俳句に一番大敵でした。すみません!)
皆さんは、どんな区切りをつけますか?
どうか良い年を重ねていってください。