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2015年05月29日
★不愉快な記事
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◆【再び疾駆〈憧れ・諦め・幻滅・自棄・絶望〉MEMO】――★また腰を痛めた(ノ△・。)。
起き上がるのがたいへんだ。
いったん右横を向いてから、両の手のひらを支えにして、そっと起き上がる。
原因ははっきりしない。
ボックスシート型のソファーで足を前に投げ出して読書しているうちに、90度の姿勢が、徐々に寝そべる格好になる。
これが悪いのかもしれない。
背骨が不自然な形に折れ曲がる。
でも、僕は、このスタイルでしか本が読めない(ノ△・。)。
ま、本なんか読むからだよ(◎`ε´◎ )。
★そういうスタイルで教育雑誌を読んでいて、実に不愉快な記事に遭遇。
《他校を訪問して授業を見る際、あらかじめ生徒玄関を拝見させていただく。生徒の靴がきれいに靴箱に入っている学校の授業は間違いなく質が高い。授業以外の部分まで鍛えられているからだ。》
この記事のどこが不愉快なのか?
不愉快なことを記事にしても、だれも愉快にならない。
だから、やめたほうがいい。
しかし、僕自身、僕が、なぜ不愉快になるのか? よくわかっていない。
僕のために、不愉快な理由を粗く、列挙してみようと思う。
(1)訪問するなり「玄関を見れば、授業の質がわかる」と、わかったことをいうのは、いくらなんでも、無礼ではないのか?
僕はこのことに激昂しているのか?
(2)《拝見させていただく》は文法的に謝り(二重謙譲語)。
教師がこれでは、やはり困る。
ただ、そのこと以上に、その背後に、僕が「させていただく」を連発する人があまり好きでない(←許せ、「させていただきます症候群」の方々m(_ _)m)ということが関係しているのかもしれない。
僕は、これまでの人生で一度だけ「させていただく」を使ったことがある。
いや、使ってしまったことがある。
「体調不良につき、本日、早退させていただきます。」
舌がうまく回らなかったので、よく覚えている。
そのとき、僕はだれかの許可を得ようとしたのか?
あるいは、権利だからと、そう言ったのか?
あるいは、みんながいっしょうけんめい働いているのに申しわけないという気持ちがあったのか?
あいまいな、ずるい、言いまわしである。
一度でも使ったことを悔いている。
(3)《生徒の靴がきれいに靴箱に入っている》かどうか……という発想が、僕にはピンと来ない。
僕は、A子さんの靴箱の靴、B男さんの靴箱の靴、C子さんの靴箱の靴、D介の靴箱の靴……と、ひとりひとりの靴箱を見る。
「外ズック」からA子さんの家庭、地域での存在のカタチが見えてくる。
「内ズック」からきょう1日の学校での存在のカタチが見えてくる。
多くの教師は覚えがあるはずだが、かなり緊張する一瞬だ。
《生徒の靴がきれいに靴箱に入っている》かどうかなどというのは――もちろん、きれいなことにこしたことはないのだが――ずいぶんオメデタイ話である。(註 オメデタイ=「楽観的」)。
(4)《生徒の靴がきれいに靴箱に入っている学校の授業は間違いなく質が高い》は、教師としての着眼点がズレているのではないか?
そういうこともある。
そうでないこともある。
きれいな靴箱にまどわされてはいけない。
教師だったら、他にもっと見るべきものがあるのではないか?
不遜ながら、僕の体験に即して、遠慮なく言うと――
いじめが多い学校は、ま、そのほとんどが、授業がまずい。
非行が多い学校は、ま、そのほとんどが、授業がまずい。
不登校生が多い学校は、ま、そのほとんどが、授業がまずい。
くどいようだが、この逆も言える。
授業のいい学校は、いじめがない。
授業のいい学校は、非行がない。
授業のいい学校は、不登校生がいない。
授業のいい学校と、まずい学校では、雰囲気がまるで違う。
職員室の雰囲気もまるで違う。
教師がいい授業ができるようになれば、すべて解決できる。
授業がまずいまま、いくら生徒指導的な対策を講じてもほとんど、いや、まったく効果はあがらない。(その例=大津市教育委員会の「いじめ対策の専任教員配置」策等はその悪い典型。素人の発想だ。)
こういう視点で、学校教育を見なくてはいけないのではないか?
★画像=真昼の三日町交差点。
六日町の交差点側から歩いてきて、思わず立ち止まった。
交差点のまばらな通行人とまばらな自動車が陽の光にキラキラと輝いている。
風はやさしい。
乾いた匂いがする。
道路工事コーンに囲まれた、むきだしの重機は、昼休みのせいか、静止し、音は聞こえない。
道路の向かい側にパステルカラーの大きなビルが見える。
重機のそばに立つ監視人は、疲れきっているのか、首を深くたれている。
僕がカメラを構えていることにも気づいていない(いや、気づいていて知らないフリをしてるのかな?)。
こういうてんでバラバラの【街角風景】が、【ここが中心街の中心位置】という概念との対比において、一枚の絵としてまとまっている。
ふわっと自分が透明になる感覚だ。
目をつむったら僕が消える!……と、僕はシャッターを切った。
★さらに詳細な情報は僕のホームページへ!