2015年10月06日
★この男には特別な感慨がある。【激昂】して去る! その【激昂】を忘れない! これが人生だ
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◆【ドドドドドン!MEMO】――★《今季で3年契約が終了するロッテの伊東勤監督が4日、3位でのクライマックスシリーズ進出を決めた日本ハム戦の試合後に来季の続投要請を受け「ありがたい話。前向きに検討する」と話した。
今後、条件面を詰めて正式に契約する。》――www.sankei.com/sports/news/ 10.4 18:15
★画像=CS進出を決め、ファンにあいさつするロッテ・伊東監督=QVC――www.sankei.com/sports/news/ 10.4 18:15
★「よかったね!(^_^)v」
この男には特別な感慨がある。
2007年のことだ。
ライオンズは怪我人が相次いた。
交流戦では10連敗を喫す。
最終的には26年ぶりのBクラスに陥落、5位でシーズンを終えた。
伊東勤は責任を取り監督を辞任した。
実際は「解任」。
ライオンズの監督として最後の試合となったソフトバンク戦では球団から花束一つ用意されていなかったため、自分で花束を買い、ソフトバンクの王貞治監督(当時)に頼み込んで花束を渡してもらうセレモニーを自作自演したという(話がある……ホンマかどうかは僕はわからない)。
僕なら花束をやるといわれても断るが、伊東にはこういう「感情&思考回路」があるのかぁ〜とおかしくてしようがない。
ま、花束のことはどうでもいい。
このときの伊東の【激昂】の仕方に僕は猛烈にシンパする。
僕は10の職場を転々としたが、7回、【激昂】して退任している(ノ△・。)。
【激昂】して去る!
その【激昂】を忘れない。
これが僕の人生だ。
だから、今回は「伊東、ホンマ、よかったね!(^_^)v」――でも、伊東は、やがて【激昂】してロッテを去ることになると思うよ。
これが人生だ。
★〈参考資料として〉僕はライオンズファンである。
〈僕のライオンズの歴史〉
1949年 西鉄クリッパーズ発足
1951年 セントラルリーグの西日本パイレーツと合併し西鉄ライオンズとなる。
「野武士軍団」と呼ばれた。
1969年 黒い霧事件。
1973年 太平洋クラブライオンズ
1977年 クラウンライターライオンズ
1979年 西武ライオンズ
2008年 埼玉西武ライオンズ
勝率最低記録――1971年 稲尾和久監督 勝率 .311
勝率最高記録――1983年 広岡達朗監督 勝率 .683
僕は、西鉄ライオンズ、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと、ずっとファンでありつづけた。
しかし、西武ライオンズ(1979年)になったとき、【激昂】してファンをやめた。
理由は、新球団が勝手に「西鉄・太平洋・ライター抹殺」方針を打ち出したからだ。
はじめは(僕は楽観主義人間なので)わからなかったのだか、優勝したとき、会社に「初優勝」とコメントされて、気がついた。
なんで初優勝やねん?
何回も優勝してるやんけ!
巨人に3連敗のあと4連勝して「神様、仏様、稲尾様」いうてみんなで喜んだやんけ!
アホか!
絶対に許せへんぞ!
(西鉄・太平洋・ライターを抹殺したい理由はわかる。)
でも、ファンである【僕】を否定してどないスンネン。
ただ、東尾修はじめ西鉄の選手たちが残っていた。
伊原春樹もいた。
結局、僕は、東尾修監督時代(1995年〜2001年)、伊原春樹監督時代(2002年〜2003年)まで熱心なライオンズファンでありつづけた。
伊原が去ると同時に、僕もライオンズを去った。
くりかえすが、「激怒」の10000倍【激昂】して去った。
しかし、2008年、僕は再びライオンズにもどる。
球団が「西鉄・太平洋・ライター抹殺」方針から「西鉄起点史観」に転換したからだ。
ま、勝手な話、姑息なやり口やけどね(ノ△・。)。
これについてはもう少し言いたいことがあるが、〈僕のライオンズの歴史〉は、ホンマ、しょうもない話なので、これでやめる。
なお、ライオンズのファンでなかった期間は、子どもの頃からライオンズの次に好きだった【近鉄バファローズ】の熱烈なファンをやっていた。
演じていたのかもしれない。
そうしたら、なんと、今度は、近鉄まで滅亡してしまった。
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