登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「仁科芳雄」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の理化学研を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。
【以下が投稿原稿です】
仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。仁科さんは人に惚れ込む性格でした。仁科さんが人に入れあげる性格で、そんな仁科さんの元に人が集まる。そんな風にして人々を育てあげていった凄さが仁科にはあるんです。
仁科本人はニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達なコペンハーゲンの学風を持ち込み日本で多くの学者を育てました。1928年にオスカル・クラインとコンプトン散乱の有効断面積を議論しています。また帰国後にはハイゼンベルクやディラックを日本に招待して理解を深めています。更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。
研究内容として仁科はサイクロンの建設を進め様々な成果をあげてます。そのサイクロンを大型化する際には
仁科は大変苦労しています。先行するカリフォルニア大学のローレンスとは日米関係に伴い関係が悪くなっていったのですが、終戦共にサイクロンはGHQにより東京湾に破棄されてしまいます。
戦後には仁科は理研の所長を務め、科研製薬の前身で社長を務めましたが、肝臓ガンを患い61歳で亡なります。放射線被ばくの影響もあったであろうと言われています。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。
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2020/12/13_初版投稿
2021/05/10_改定投稿