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2023年07月22日

ポール・ランジュヴァン
7/22改訂【双子のパラダイスを議論しソナーを開発】

こんにちはコウジです!
「ランジュヴァン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】


 
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【1872年1月23日~1946年12月19日没】



19世紀後半のフランスと20世紀の議論


(ランジュバンの親となる)夫婦は1871年のパリコミューンでは
 第一線にいた。ランジュバンは1872年1月23日に生まれた。
 パリコンミューンの敗北によって両親が打ちひしがれていた時である。
 ランジュバンは「私は1870年の戦いの直後に共和主義者の父と献身的な
 母の間で育った。両親はパリ占領とコミューンの血なまぐさい鎮圧の
 目撃者として語ることによって私の心に暴力への憎しみと
 正義への熱望を植え付けた」と言っている。 

【以上の太字部は太田浩一「ほかほかのパン」より引用】


議論の中でランジュバンは中心に居ました。
本ブログのTOPで使っているソルベイ会議の写真でも
アインシュタインの隣に座っています。
そんなランジュバンは双子のパラドックス
という考え方が有名です。その特殊相対性理論における
矛盾の指摘は、初めはアインシュタインによる相対性理論
での議論で使っている「2つの慣性系での時間差」
から始まる話だったのですが、
ランジュバンが双子の例えに置き換えて
状況を分かりやすくしました。
ランジュバンはそんな時代の人です。



研究者としてのランジュバン


ランジュバンはイギリスのキャヴェンディッシュ研究所で
ジョゼフ・ジョン・トムソンのもとで学んだ後にソルボンヌ大の
ピエール・キュリーの下で学位を得ました。


上述した相対論の議論とは別に磁性に関わる物性の研究
も進めていたのです。
こんな経歴は当時の
イギリスとフランスの
物理学会における
つながりの強さも感じます。


其々の研究者を互いに評価しつつ、
イギリスで理解が進んだ電磁現象を
フランスで深めていって原子遷移に伴う
電磁波の放出を突き詰めていきます。


このように書くとイギリスでの物理学が先行していたように思えてしまうかもしれませんが、決してそうではなくイギリスでもフランスでも共に人々が物理を追及していて研究課題に関して盛んに情報交換をしていたのです。


特にフランスのキューリー夫妻が扉を開いた放射性物質の研究は目覚ましく、その後の原子核物理学へと発展していくのです。一方で固体中の電子運動に起因するスピンの挙動は帯磁現象に繋がっていきます。


そうした時代にランジュバンは、当時理解が始まった導体の帯磁特性を研究していったのです。量子力学以前の物性理解でも原子、電子という言葉を使いこなして個別物質の帯磁特性を明らかにしていったのです。


それまで未分類だった特性を整理していったのです。


また、磁性の研究をする一方で水晶振動子を開発して


超音波を発生させるメカを実用化しました。


 

小さな恋


マリ・キューリとの恋仲も知られていたようです。
ゴシップネタで恐縮ですが、ランジュバンには
家庭が上手くいっていなかった時期があり、
そんな時の良き相談相手がマリ・キューリでした。
無論。秘め事は当事者同士の大事な時間であって、
ゴシップ記者達が騒ぎ立てるのは無粋です。
私はこれ以上記載しません。ただ、
何十年か後に御二人の孫同士が結婚してます。


 

また超音波の研究からの発展で、
ランジュヴァンはソナーの発明でも知られています。
潜水艦の関係者なら多大な恩恵を受けている訳ですね。




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(2021年10月時点での対応英訳)



Discussion at the beginning of the 20th century


Langevin was at the center of the discussion. He also sits next to Einstein in the Solvay Conference photo used at the top of his blog. Langevin is famous for the idea of ​​a twin paradox. The contradiction pointed out in the special theory of relativity started with the "time difference between two inertial systems" used in Einstein's discussion in the theory of relativity, but Langevin replaced it with the analogy of twins. I made the situation easier to understand. Langevin is a person of that era.



Langevin as a researcher


He earned a degree under Pierre Curie at the University of Sorbonne after studying under Joseph John Thomson at the Cavendish Laboratory in England. Apart from the discussion of relativity mentioned above, he was also conducting research on physical properties related to magnetism. His background also makes me feel the strength of the connection between the British and French physics societies at that time. While evaluating each researcher, he will deepen the electromagnetic phenomenon that was well understood in England in France and investigate the emission of electromagnetic waves due to atomic transition.


In particular, the research on radioactive materials that the French couple Curie opened the door to is remarkable, and it will develop into nuclear physics after that. On the other hand, the behavior of spin caused by electron motion in solids leads to magnetizing phenomenon. At that time, Langevin studied the magnetizing properties of conductors, which were beginning to be understood at that time. Even in his understanding of physical properties before quantum mechanics, he mastered the terms atoms and electrons to clarify the magnetizing properties of individual substances. He sorted out previously unclassified traits. Also, while he researched magnetism, he developed a crystal unit and put into practical use a mechanism that generates ultrasonic waves.



Little love


It seems that his love with Mari Cucumber was also known. Excuse me for the gossip story, but there was a time when Langevin wasn't doing well, and his good counselor at that time was Mari Cucumber. Of course. The secret is the precious time between the parties, and the gossip reporters make a fuss about it. I won't list any more. However, decades later, my two grandchildren are getting married.


Langevin is also known for his sonar invention, a development from his study of ultrasound. He's benefiting a lot if he's involved in submarines.

2023年07月21日

アーネスト・ラザフォード
7/21改訂【原子模型を提唱した原子物理学の父】

こんにちはコウジです!
「ラザフォード」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代。
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【1871年8月30日 ~ 1937年10月19日】



その名は正確にはアーネスト・ラザフォード_


Ernest Rutherford, 1st Baron
Rutherford of Nelson, OM, FRS,
初代のネルソン卿_ラザフォード男爵です。


ラザフォードはニュージーランドに生まれ数学で


マスターの学位をとった後に、奨学金を得てイギリスの


ケンブリッジ大学に進みます。そこでラザフォード


JJトムソンの指導のもとで


気体の電気伝導の研究をします。


導体ではない酸素や窒素などの「気体」中でも
高い電圧を加えた時に放電現象が生じ、
電気が流れます。雷を思い起こしてください。


そんな、電気伝導の研究を進めるうちに
ラザフォードはウランから2つの放射線である
α線とβ線が出ている事を発見します。
ラザフォードは後に透過性の非常に強い放射線が
電磁波である事を突き止め、半減期の概念を提唱します。



ラザフォードが考えた半減期


半減期の分かり易い実用例として、岩石の年代測定があります。特定の岩石に含まれる物質から出てくる放射線量を計測すれば、半減期の概念を使って対象岩石の形成から今迄、どのくらい時間が経っているか推定出来るのです。


ラザフォードは更に研究を続けました。ガラス管にα線を集め、そのスペクトル分析からα線とはヘリウム原子核であると突き詰めています。そして、1911年にはガイガー・マースデンとα線の散乱実験を行いました。


有名なラザフォードの原子模型が提唱されたのです。原子には中心に原子核がありその周りを電子が運動しているというもので、現代でも使えるモデルです。長岡半太郎が提唱していたような表現法ではなく、ラザフォードは実験結果をもとに理論を展開します。



ラザフォードの実験手法


具体的にはこの時に金箔に対してβ線(電子線)を当てた時に断線散乱に相当する軌跡が観測されます。金箔を構成する内部物質と電子はそれぞれ剛体ではないのですが相互に働くクーロン力が同じ効果をもたらすのです。


ビリヤードの玉みたいな剛体と微細な粒子間の運動が同じ弾性モデルで表せる事は、感動的ともいえる事実です。



ラザフォードの人柄


その人柄もあって、ラザフォードは原子物理学の父と呼ばれています。キャンデビッシュ研究所では若い研究所員たちに「ボーイズ!」と呼びかけていたりするような人でした。


また彼はイギリスに帰化した人ではありますが、紳士として夏の砂浜でもスーツのジャケットを脱がないスタイルも頑なに守っていたようです。そして、原子番号104の元素は今、彼を偲んでラザホージウムと呼ばれています。




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(2021年10月時点での対応英訳)



Its name is Ernest Rutherford


Its name is Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS, the first Sir Nelson_Rutherford. Rutherford was born in New Zealand and earned a master's degree in mathematics before going on to Cambridge University in the United Kingdom with a scholarship. There, Rutherford studies the electrical conduction of gases under the guidance of JJ Thomson.


When a high voltage is applied to a "gas" such as oxygen or nitrogen that is not a conductor, a discharge phenomenon occurs and electricity flows. Remember thunder. While conducting research on electrical conduction, Rutherford discovers that uranium emits two types of radiation, alpha rays and beta rays. Rutherford later discovered that highly permeable radiation was electromagnetic waves and proposed the concept of half-life.



Half-life that Rutherford considered


An easy-to-understand example of half-life is rock dating. By measuring the radiation dose emitted from a substance contained in a specific rock, it is possible to estimate how long it has been since its formation using the concept of half-life.


Rutherford continued his research further. He collects alpha rays in a glass tube, and from the spectral analysis, he finds that alpha rays are helium nuclei. Then, in 1911, we conducted an alpha-scattering experiment with Geiger-Marsden. The famous Rutherford atomic model was proposed. An atom has an atomic nucleus in the center and electrons are moving around it, which is a model that can be used even in modern times. Rather than the expression that Hantaro Nagaoka advocated,



Rutherfoed's way


Rutherford develops his theory based on his experimental results. Specifically, at this time, when he hits the gold leaf with β rays (electron rays), a trajectory corresponding to disconnection scattering is observed. The internal substances and electrons that make up the gold leaf are not rigid bodies, but the Coulomb forces that work with each other have the same effect. It is a moving fact that the motion between a rigid body like a billiard ball and fine particles can be represented by the same elastic model.



Rutherford's personality


Due to his personality, Rutherford is called the father of atomic physics. He was the kind of person at the Candebish Institute who was calling out to young researchers "Boys!" Also, although he is a naturalized person in England, he seems to have stubbornly kept the style of not taking off his suit jacket even on the sandy beach in summer as a gentleman. And the element with atomic number 104 is now called Rutherfordium in memory of him.

2023年07月20日

本多光太郎
7/20改訂「今が大切」「つとめてやむな」

こんにちはコウジです!
「本多光太郎」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代。
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【1870年3月24日生まれ ~ 1954年2月12日没】



本多光太郎について


本多光太郎は日本の鉄鋼業界での研究土壌を作り上げ、


研究者として多くの人材を育て上げた先人です。


人物としては、


彼の逸話を聞けば聞くほど人間臭い所が感じられて、


本人に会ってみたくなります。見てみたいです。


本多光太郎はいつも古い着物を着て、


靴底が擦り切れるまで靴を履き、雑種の犬を引きながら


大学に出勤していたようです。そんな人です。


本多光太郎は子供時代は学校の成績も悪くて、大柄な割に何時も青ばなをたらしてて、「はなたらしの光さん」と呼ばれていた学校嫌いの子供でした。そんな本多光太郎が東大に進学して理学系の物理学科を卒業します。


今は理物と物工(りぶつ、と、ぶっこう)があるのでしょうが、当時はどうだったのでしょうか。その後に本多光太郎はドイツとイギリスに留学します。帰国後、東北大学で教授を務め理化学研究所で研究を進める中で有名な「KS鋼」を発明します。


本多光太郎は金属に対しての材料物性学の研究を世界に先駆けて始めていました。より性能の優れた材料を作り上げる為に所謂「冶金」の過程を研究していったのです。



本多光太郎の業績


KS鋼(新KS鋼)は発明時に世界最強の永久磁石でした。


現代での硬質磁性材料に繋がる研究の端緒をつけたのです。


それまで刀などの特定目的で鍛えられてきた日本の鉄が


工業生産に耐える性能を備えて差別化出来るように


なっていくのです。この発明がなされてから益々、


各種産業で多くの日本の鉄が使われていくのです。



本多光太郎と実験


なにより、本多光太郎は無類の実験好きでした。「今日は晴れているから実験しよう」と言いながら実験を始めたり、「今日は雨だから実験しよう」と言って実験を続けたりしていました。そんな会話を始める時には周囲の人は「ぁ、本多節だ!(笑)」と感じたことでしょう。独独の朗らかな緊張感が生まれたことでしょう。また、結婚式をあげた時に本多光太郎本人が居なかったので、探しに行ったら実験室で実験をしていたという。とぼけたエピソードもあります。全般的に身の回りの細かい事は気にかけない大雑把な人でした。そんな本多光太郎は組織を育て人を育てたことで有名です。要職を務めたり創設に携わった研究機関を羅列すると、



東北帝国大学附属鉄鋼研究所、
東北帝国大学総長、
千葉工業大学設立、
東京理科大学初代学長、
日本金属学会創設初代会長、
後の電磁研初代理事長

です。
指導している仲間に対しては毎日のように「どんな状況?」と実験の具合を尋ねていき、論文に対して細かく意見を加えていたそうです。



最後に本多光太郎の言葉を残します


「今が大切」「つとめてやむな」


私にはトーマス・マンの
「くよくよするな働け」という言葉と重なります。
各人の人生・やりがいと、つながる言葉です。
本多光太郎は仕事として、人生として「実験を
何時までも考えていた人」だったのでしょう。



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〆最後に〆


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About Kotaro Honda


Kotaro Honda is a pioneer who created the research soil in the Japanese steel industry and nurtured many human resources as a researcher. As a person, the more I listen to his anecdotes, the more human-like I feel, and the more I want to meet him. I wanna see.


It seems that Kotaro Honda always wore an old kimono, trousers until his soles were worn out, and went to college while pulling a hybrid dog. He is such a person.


Kotaro Honda was a child who hated school and was called "Hanatarashi no Hikari-san" because he had poor grades at school when he was a child. Kotaro Honda goes on to the University of Tokyo and graduates from the Department of Physics in Science. Nowadays, there are physical objects and craftsmen (Ributsu, and Bukko), but how was it at that time?



Works of Honda Koutarou


After that, Kotaro Honda will study abroad in Germany and England. After returning to Japan, he invented the famous "KS Steel" while working as a professor at Tohoku University and conducting research at RIKEN. Kotaro Honda was the first in the world to start research on material properties of metals. He studied the so-called "metallurgical" process in order to create better performing materials.


KS Steel (new KS Steel) was the strongest permanent magnet in the world at the time of his invention. He began his research on modern hard magnetic materials. Japanese iron, which had been trained for specific purposes such as swords, will be able to differentiate itself with the ability to withstand industrial production. Since the invention of this invention, more and more Japanese iron has been used in various industries.



Experiment with Kotaro Honda


Above all, Kotaro Honda loved experiments like no other. He started his experiment saying "it's sunny today so let's experiment" and continued his experiment saying "it's raining today so let's experiment". Kotaro Honda wasn't there when he had the wedding, so when he went looking for it, he was experimenting in the laboratory. There is also a blurry episode. He was a rough person who generally didn't care about the details around him.



Engaged Organaization


Kotaro Honda is famous for raising organizations and raising people. When he lists the research institutes that have held important positions or were involved in the founding,


Tohoku Imperial University Steel Research Institute,
President of Tohoku Imperial University,
Established Chiba Institute of Technology,
First President of Tokyo University of Science,
Founding Chairman of the Japan Institute of Metals,
He was later the first deputy director of the Institute of Electromagnetics.


He asked his colleagues about the condition of the experiment on a daily basis, asking "what kind of situation?" And added detailed opinions to his treatise.



Finally, I will leave the words of Kotaro Honda.


"Now is important" "Don't stop"


To me, it overlaps with Thomas Mann's words, "Don't work hard." It is a word that connects each person's life and rewards. Kotaro Honda must have been "a person who had been thinking about experiments forever" in his life as his job.


2023年07月19日

中村清二
7/19改訂【地球物理・実験物理を研究し多くの人材を育てました】

こんにちはコウジです!
「中村清二」の原稿を改定します。
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【1869年10月28日〜1960年7月18日】



中村清二の時代のキャリア形成


中村清二は福井県に生まれ東京帝国大学に進みます。そこで田中舘愛橘の指導を受けるのですが、そこから先のキャリアに時代を感じました。


1903年に30代で助教授の地位にあったのですが、その時代に中村はドイツへ留学します。時代を感じた部分とはその後なのですが、中村は帰国後に博士号をとるのです。


その時代の修士課程の扱いは詳しく存じませんが、博士課程を終える前に助教授として学生を指導して、留学をして、更にその後に博士号をとっていたのです。時代が違うと感じました。


今であれば博士号を取っていない助教授(准教授)って居ない気がするのです。



中村清二の研究業績


何より先ず、中村は光学の研究で知られています。量子力学が成立してゆく時代に関連の仕事をしていき、光弾性実験やプリズムの最小偏角を研究したりしています。


また中村は地球物理学の分野でも研究を進めています。特に三原山が大正時代に噴火したときは地球内部の物理学に関心を持ちました。火山学を確立していき、三原山や浅間山の研究体制の整備に貢献しています。。


また、熱心に物理の教科書をまとめ上げる作業を繰り返しました。特に、東大での講義科目の一つであった実験物理学は、後の我が国の人材を育て上げて物理学発展の礎を固めました。1925年に理科年表が世に出されるのですが、その際には、物理の部門でのの監修者として中村は仕事を残しています。
また中村は定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なっています。



中村清二の人柄など


中村は妻との間に二男二女を設け得ました。
作家の中村正常は兄の子で、三原山の調査に同行したこともあしました。
正常の長女が女優の中村メイコです。
そうした多くの仕事と繋がりを残し、中村は召されました。
享年91歳の大往生です。



〆最後に〆


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(対応英訳)


Seiji Nakamura was born in Fukui prefecture and enterd into the University of Tokyo. There, he was taught by Tanakadate Aikitsu, and from there I felt the times in his future career. He was an assistant professor in his thirties in 1903, when he went to Germany to study abroad. The part where I felt the times was when I thought about it, but Nakamura got his PhD after returning to Japan. I don't know how to treated a master's degree at that time, but before finishing his doctoral course, he taught students as an assistant professor, studied abroad, and then got a PhD. He felt that the times were different.


Nakamura is known for his research in optics. He has been doing related work in the era when quantum mechanics was established, and he is studying photoelastic experiments and the minimum declination of prisms.


Nakamura is also conducting research in the field of geophysics. Especially when Mt. Mihara erupted in the Taisho era, he was interested in the physics inside the earth. He has established volcanology and is contributing to the development of research systems for Mt. Mihara and Mt. Asama. ..


He also repeated the work he enthusiastically put together a physics textbook. In addition, experimental physics, one of the lecture subjects at the University of Tokyo, cultivated human resources in Japan laters and laid the foundation for the development of physics. His science chronology was released in 1925, when he left his job as a supervisor in the physics department.
After retirement, Nakamura is conducting research on Shiranui and magic mirrors in the Yashiro Sea.


Personality of Seiji Nakamura, etc.
Nakamura could have a second son and a second daughter with his wife.
The writer, Masatsune Nakamura, was the son of his older brother and also accompanied him to the investigation of Mt. Mihara.
The normal eldest daughter is Meiko Nakamura, an actress.
Nakamura was called, leaving behind many of them. He is 91 years old.


 

2023年07月18日

ヨハネス・ゾンマーフェルト
7/18改訂【粒子の運動を考察して量子化条件を進化|立派な人材を育てた良き先生】

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その名の綴りはArnold Johannes Sommerfeld。
ドイツのゾンマーフェルトは


 

パウリハイゼンベルク の指導をして


育てあげた大きな実績があります。


 

 この二人は量子力学で大きな仕事をしていて


この二人が抜けていたら


量子力学の発展は大きく遅れていたでしょう。


「とても意義深い仕事」をしてきた人達でした。


パウリもハイゼンベルグも


ゾンマーフェルトの研究室を離れた後に


対象の深い部分に対しての考察を進めています。


また、ゾンマーフェルトを語るうえで忘れたくないのはボーア・ゾンマーフェルトの量子化条件です。粒子の運動を語り出した時に大きさスケールで具体的に従来の枠組みで語れない量子化された世界を考えるきっかけを作りました。ゾンマーフェルトの貢献は非常に大きいです。


個人的にゾンマーフェルトを考察すると、


積分の経路に工夫を凝らして展開計算


していった手法が印象的でした。そこがまさに


電子軌道の自由度を考える事に繋がったのです



ゾンマーフェルトの考えは


単純な円軌道で電子が運動しないで


楕円の軌跡を描く筈だと言う物です。


より詳細にはボーアの提唱した量子化条件を


進化させてより高次の拡張を展開していった


と言えるでしょう。同時期の


ウィルソンや石原純の理論も特筆すべきです。


 

【以下2原論文はWikipediaより引用しました】



  • Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag.. Series 6 29 (174): 795-802. doi:10.1080/14786440608635362.

  • Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI:JST.Journalarchive/ptmps1907/8.106.


こういった話をしていて感じるのは
どうやっても見えない世界に
何とか形を与える事は素晴らしい、
という事実です。


実際に形を与える事は文化的発展に繋がり


世界を変えていくのです。


ダイナミックな世界かと思います。


日々の暮らしでは感じられない世界です。


そして、
ゾンマーフェルトは事故で命を落としています。
残念な最後ですね。残した物が大きいだけに残念です。
後程、AIで彼のお人柄を分析してみたくなりました。
少しでも思い出したい人って居ますから。


 


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Sommerfeld in Germany has a great track record


of growing up with the guidance of Pauli and Heisenberg. If these two people were missing, the development of quantum mechanics would have been greatly delayed. They were people who had done "very meaningful work". Both Pauli and Heisenberg have been thinking about the deeper parts of the subject after leaving Sommerfeld's laboratory.


Personally in Sommerfeld's work, I was impressed with the method of expanding and calculating the integral path. I thought that was exactly what led to thinking about the degree of freedom of electron orbits. ..


Sommerfeld's idea is that an electron should draw an elliptical locus without moving in a simple circular orbit. In more detail, it can be said that Bohr's proposed quantization conditions were evolved to develop higher-order extensions. The theory of Wilson and Jun Ishiwara at the same time is also noteworthy.



[The following two original papers are quoted from Wikipedia]


Wilson, W. (1915). “The Quantum Theory of Radiation and Line Spectra”. Phil. Mag .. Series 6 29 (174): 795-802. Doi: 10.1080 / 14786440608635362.
Ishihara, J. (1915). “Die universelle Bedeutung dse Wirkungsquantums”. Tokyo Sugaku Buturigakkai Kizi. Ser. 2 8: 106–116. JOI: JST.Journalarchive / plotms1907 / 8.106.


What I feel when talking about this is that it is wonderful to somehow give shape to the invisible world. Actually giving shape leads to cultural development and changes the world. I think it's a dynamic world. It's a world you can't feel in your daily life.


2023年07月17日

ロバート・ミリカン
7/17改訂【油滴重量から電気素量を導いた米国の実験家】

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【1868年3月22日 ~ 1953年12月19日】



ミリカンは非常に優れたアメリカの実験家でした。


コロンビア大学で物理学の博士号をとりますが、ミリカンが


同大学での初めての物理博士習得者だったそうです。


光に粒子性と波動性がある事を実証していく段階で


波動性を前面に出した理論を展開していきます。


ただ、実験事実として粒子性を前提に考えた実験が


非常につじつまの合う結果を出していたことに


ミリカン自身も自問自答を繰返したと思えます。


結果としてアインシュタインが論じた光電効果を


ミリカンも実験的に裏付けます。また、そうした


実験と光の波長からプランク定数を定めました。


思えば、2022年のノーベル賞も実験家に贈られています。時代・時代で現実世界との対応を確かめていくのが実験家です。同時に、実験家が事実を示すことで理論が進みます。プランク定数は今の多くの論文の中で当たり前に使われている定数です。



電気素量を導き出した実験


金属板の間を落下する液体の運動を考えミリカンらは


重力効果に対してクーロン力の兼ね合いを計算に取込み、


厳密に計測値が求まる油滴重量から電気素量を導きます。


この油滴の実験の素晴らしい所は量子化する事で電子の


粒子性を示した点です。電流が計測されるイメージを考え


みた時に、その担い手の電子が連続量なのか粒子のように


考えられるか、当時は不確かだったのです。


ミリカンの実験結果では粒子性が示されました。


この2つの業績でミリカンはノーベル賞を受けました。



ミリカンは非常に優れた教育者


多くの教科書を世に送り、その中で少し先んじた


概念を紹介しています。更にミリカンは


カリフォルニア工科大学の創設に大きく関わりました。


今でも同大学に彼の名を冠した建物があるそうです。


【そもそも米国の通例で、1号館と言う代わりに
ミリカン・ホールという名をつけたりします】





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(対応英訳)


Millican was a very good American experimenter.


He holds a PhD in physics from Columbia University, and Millican was the first PhD in physics at Columbia University.


He develops a theory that puts wave nature in the foreground at the stage of demonstrating that light has particle nature and wave nature. However, it seems that Millican himself repeatedly asked himself that the experiment that assumed particle nature as an experimental fact produced very consistent results.


As a result, Millican also experimentally supports the photoelectric effect discussed by Einstein. We also determined Planck's constant from such experiments and the wavelength of light. In addition, the experiment that derived the elementary charge is also wonderful. Considering the movement of the liquid falling between the metal plates, Millican et al. Incorporated the balance of Coulomb force against the gravitational effect into the calculation.



The elementary charge is derived from the weight of the oil droplet


, for which the measured value can be obtained exactly. The great thing about this oil drop experiment is that it shows the particle nature of electrons by quantization. When I thought about the image of measuring the electric current, it was uncertain at that time whether the electrons of the bearer were considered to be continuous quantities or particles. Millican received the Nobel Prize for these two achievements.


Millican has also sent many textbooks to the world as a very good educator, introducing concepts that are a little ahead of the game. In addition, Millican was heavily involved in the founding of the California Institute of Technology. It seems that there is still a building bearing his name at the university.


[In the first place, it is customary in the United States to call it Millican Hall instead of Building No. 1.]


2023年07月16日

マリ・キュリー
7/16改訂【ウラン含有量に注目|元素崩壊|特定原子の遷移を示し物理学に殉じたフランスの偉人】

こんにちはコウジです!
「マリ・キュリー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代?
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】


 
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【1867年11月7日生れ ~ 1934年7月4日没】



マリア・スクウォドフスカ=キュリー


:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが


フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。


彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つことを禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には投機での失敗もあり、マリーは親戚等の世話になります。


 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも


恋をした時間がありました。


当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキという青年と恋仲に落ちます。共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。



パリでもマリ・キューリは苦労します


屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。


 

そんなマリ・キューリに


光明がさします。知り合いを通じて


ピエール・キューリと出会ったのです。


 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国のケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。ところが、ピエール・キューリは勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。


そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは恋文を贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。


幸せな結婚だったと思います。


祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、


つつましい形式でしたが


祝い金で買った自転車に乗り、


フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。


ピエールが自転車をこぎ、


その後ろにマリが乗り、長閑な道を


語りながら進んでいった事でしょう。


料理を頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。



新しい概念の提唱に至ります


新しい発見とは即ち、


「特定元素は別の元素へ変化する」


という事実です。


そして、その過程で放射線を放出して一見エネルギー保存の法則に相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが研究成果を次々に発表します。
原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。


また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。


当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。


所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。



ケルビン卿との議論


マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。


また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。


そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。


波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。




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(2021年9月時点での対応英訳)



Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.


She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie's father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father's illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.


I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.


Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it's cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.


Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.


The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali's heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.


Therefore. We conclude that the "amount" of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.


Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, "a specific element changes to another element"
The fact is.


Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.


And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of "radium hot springs" has long been widely known for trace amounts of radium (although the word "radium" was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.


Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.


However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre's college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.



Discussion with Sir Kelvin


Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin's mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.


On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as "successful." "It's a relationship," she said.
It was an achievement with her husband's student, Langevin.


And ... I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.


Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.

2023年07月15日

長岡半太郎‗7/15改訂【ボルツマンに学び原子の土星モデルを提唱】


こんにちはコウジです!
「長岡半太郎」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代?
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【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】





長岡半太郎の豊かな人脈





この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。





学生時代は東大で山川 健次郎田中舘愛橘に学び、





助教授としてドイツ留学していた





時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義





の考え方も、留学以後は踏まえながら議論をしていった





のでしょうか。どこまで核心に迫っていったか





論じる際には当時の日本における量子論での





現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、





科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。





別の面から調べてみたら話は進む時があると





思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は





学業成績は芳しくなかったようです。





この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は「理化学研究所の三太郎」と呼ばれていたそうです。携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。





長岡半太郎の研究業績





長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、





本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、





長岡半太郎の研究業績として大きいのは、





なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで





ミクロへの探求を進めていたのです。トムソン





ブドウパンの中のブドウのような形で





中心からの距離や軌跡と無関係に





電子の存在を仮定していたのに対し、





長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する





土星のようなモデルを提唱しました。





この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。





不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。





時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測





することを考えてみて、電子の挙動をとらえる





帯電物質を想定してみても帯電体の中を





動き回る電子の動きを止める事は出来ません。





電子とは何時も動いている物体だからです。





それだから、初めの時点での





モデル化の難しさが出てくるのです。





今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。





全く知見の無かった原子という存在をに対して初期的なイメージを作る事が出来たのです。そのモデルをもとに帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。
素晴らしいパラダイムシフトでした。





〆最後に〆










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(2021年9月時点での対応英訳)





Hantaro Nagaoka's rich personal connections





This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of ​​positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.





This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.





Research achievements of Hantaro Nagaoka





Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.





I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of "momentum".





Considering going back in time





and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That's why it's difficult to model at the beginning.





Although it can be said that it is an incomplete model in today's physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka's model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances.
It was a wonderful paradigm shift.
















































































































2023年07月14日

ピーター・ゼーマン
2023/7/14改定【縮退の解放を使い、ナトリウム原子の電子特性を説明しました】

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今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代?
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ピーター・ゼーマン【1865年5月25日生まれ ~ 1943年10月9日没】



その名の綴りはPieter Zeeman


ゼーマンはオランダの小さな町、


ゾンネメレに生まれています。


またゼーマンはローレンツと同じ時代の理論家で


ローレンツと同時にノーベル賞を受賞してます。


当然、アインシュタインとも交流をもちます。


ゼーマンにとって幸運だったのは


ローレンツカメリー・オネスに師事した事


です。稀代の理論家と実験家の指導のもと、


ゼーマンは素晴らしい環境で育ちます。


そんなゼーマン等が出した結果がゼーマン効果です。


具体的には磁場中に置かれたナトリウム原子のスペクトル


を観察した時に、それが分裂していたのです。


ローレンツとゼーマンによってなされた説明は


ナトリウム原子の内部構造についてのものでした。


細かくは原子内部の電子が電荷を持ち、


磁場中では今で言う縮退状態からの開放される


ので(スピンの性質から)放射特性が変化するのです。


更には、その電荷の物理量が別に理論を進めていた


J・J・トムソンのそれと近しい値をとった事で


ローレンツとゼーマンの理論は説得力


をもちました。結果、


ノーベル賞が贈られます。



また、ノーベル賞受賞後


ゼーマンはアムステルダムで
研究所を運営し、そこで電磁光学
の研究を進めています。特に、
移動する媒質の中での光の伝播
に関しても研究していますが、
それは相対論の形成に有益
ローレンツアインシュタイン
も評価していたと言われています。
因みにこの3人を考えると年齢順で
ローレンツ(1853年生まれ)
ゼーマン(1865年生まれ)
アインシュタイン(1879年生まれ)
の順番です。実験事実が確立していき、
相対性理論が熟成されていくのです。


ローレンツとゼーマンの素晴らしい
点はナトリウム原子の構造を
解明した手法にあったと思います。
実験結果の積み重ね、仮設の設定、
そして全てを使った理論構築の
モデルはその後に多くの学者が活用可能で
再現可能な手法だったかと思えます。
その後に他の原子も次々と性格が
明らかにされていきます。




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(2021年9月時点での対応英訳)



The name is spelled Pieter Zeeman.


Seeman was born in the small Dutch town of Zonnemaire. Zeeman is a theorist of the same age as Lorenz and has won the Nobel Prize at the same time as Lorenz. Naturally, he also interacts with Einstein.


Fortunately for Zeeman, he studied under Lorenz and Kamerlingh Onness. Under the guidance of rare theorists and experimenters, Zeeman grows up in a wonderful environment. The result of such Zeeman is the Zeeman effect. Specifically, when I observed the spectrum of the sodium atom placed in the magnetic field, it was split.


The explanation given by Lorenz and Zeeman was about the internal structure of the sodium atom. In detail, the electrons inside the atom have an electric charge, and in a magnetic field, they are released from the degenerate state as they are now called, so the radiation characteristics change (due to the nature of spin).



Furthermore, Lorenz and Zeeman's


theory was convincing because the physical quantity of the electric charge took a value close to that of J.J. Thomson, who was advancing the theory separately. As a result, the Nobel Prize will be awarded.


After receiving the Nobel Prize, Zeeman runs a laboratory in Amsterdam, where he pursues research in electromagnetic optics. He is particularly studying the propagation of light in moving media, which is said to have been useful in the formation of relativity and was also appreciated by Lorenz and Einstein. By the way, considering these three people, in order of age
Lorenz (born 1853)
Zeeman (born 1865)
Einstein (born 1879)
It is the order of. Experimental facts will be established and the theory of relativity will be matured.


I think the great thing about Lorenz and Zeeman was the method of elucidating the structure of the sodium atom. It seems that the accumulation of experimental results, the setting of temporary settings, and the model of theory construction using all of them were methods that many scholars could utilize and reproduce after that. After that, the characteristics of other atoms will be revealed one after another.


2023年07月13日

W・C・ヴィーン
7/13改訂【黒体放射の研究やウィーンの法則をもたらした物性研究の先駆者】

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W・C・ヴィーン【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】



その名を正確に記すとヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien


熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。


その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭をとっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、前任はゾンマーフェルトでした。

さて、今日までヴィーンの業績・人となりを
調べていて断片的な印象を持ってしまいました。
それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。
実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、
当時の時代背景も大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。
その時代のヨーロッパでは大戦がありました。
特にドイツはユダヤ人を迫害し、
何人ものユダヤ人物理学者が
反ドイツの体制で活動していました。
ヴィーンが生きたのは、そんな時代なのです。


そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって
いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする環境とは
大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。
ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。



ヴィーンの業績について考えてみると、
ヴィーンの法則はプランクの法則の極限
として考える事が出来ます。この法則は
反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
を垣間見る事は出来ません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。


考えを進めさせて頂くと、
マッハとボルツマンの考え方の
対立も思い起こされます。

ソルベー会議に出席する中で
ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、
伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。


はっきりと確定して言える内容に悩み、
使っている推論の妥当性に対して悩みます。
ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される
時代に当事者達は大胆かつ慎重に
判断せねばならなかった筈です。
いつかまた考えてみたいと思っています。


それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。





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(2021年9月時点での対応英訳)



The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.


He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor's thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.


By the way, until today, I have been investigating Veen's achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen's "personality" cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.


At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.



Considering Wien's achievements


 

, Wien's law can be thought of as the limit of Planck's law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.


As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann's ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.


Even so, Wien's law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.