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2014年09月15日

西三河の歴史

西三河が歴史上で日の目を見るのは、徳川家康の時代のわずか4年のみとなります。

矢作川流域に、貝塚や古墳などから昔から人が住んでいた形跡があり、古事記にも『三川』と出てくるが、尾張の濃尾平野と比べると西三河平野、東三河平野は小さく、稲作中心とした石高を考えると
二つの平野を合わせて三河としたのも仕方の無いことかなと思われます。

かの有名な『大化の改新』以後、国府(国の中心)は安城から東三河の豊川に移ってから、
徳川家康が岡崎城を拠点に東三河を支配するまで、西三河は三河の外れということになる。
しかも、徳川家康以後は三河の中心が西三河の岡崎となるも、徳川家康は三河統一後
わずか4年で浜松に本拠を移すなど、あまり三河に興味が無く、豊臣秀吉により三河を召し上げられた後は江戸幕府を開いた後も三河を小藩や旗本領など、秀吉の分割された状態で運用する。

西三河の岡崎藩が5万石、お隣の徳川御三家の尾張藩が61万石では、どちらが栄えるかは明白で
後の愛知県といえば名古屋という図式がこの時に決定付けられたと思われる。


posted by ヒロ at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史
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