興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番
歴史
創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。
五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永
中金堂
2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。
所在地 奈良県奈良市登大路町48
位置 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三所第9番(南円堂)
西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)
大和北部八十八ヶ所霊場第62番(菩提院)
南都七大寺第2番
神仏霊場巡拝の道第16番(奈良第3番)
文化財 五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂、木造薬王菩薩、薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産