松江城(まつえじょう)は、現在の島根県松江市殿町に築かれた江戸時代の日本の城。別名・千鳥城。現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。
概要
小瀬甫庵の縄張りによる平山城。江戸時代には松江藩の政庁として、出雲地方の政治経済の中心であった。山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖を眺望することができる。
明治時代初頭に廃城令によって松江城は陸軍省所管となり城内の建物は全て解体され売却される予定だったが、地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れた。近年、二の丸の櫓が復元されるなど往年の姿を取り戻しつつある。
昭和初期に城山部分は公園として開放され、現在は指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれるなど島根県の主要な観光名所となっている。
歴史・沿革
前史
鎌倉時代から戦国時代かけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。
築城
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲24万石を得て月山富田城に入城し、松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次城跡を城地の候補とした。
1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 正月には松江城は落成していた(堀尾吉晴は完成目前で急死しているというのが通説だったが、この年の6月に亡くなっているため、通説は誤り)。
1633年(寛永10年) 堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易となった。
1634年(寛永11年) 京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前国敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
1637年(寛永14年) 忠高が嗣子なく没し、京極家宗家は一時廃絶(後に他国で再興される)。
1638年(寛永15年) 信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封。以後、明治維新まで続いた。
国宝指定に向けて
昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。松浦正敬が松江城の国宝指定も公約に掲げて松江市長(2期目)に当選した2009年(平成21年)以降は、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」を立ち上げるなど、国宝指定に向けての調査・運動が活発化していた。懸賞金を掛けて史料を探していたが平成24年に松江神社で国宝指定に重要な、築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかった。2015年(平成27年)5月15日に文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申。同年7月8日の『官報』告示をもって国宝に指定された。
指定文化財
国宝
松江城天守
附:祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)
史跡(国指定)
松江城
交通
最寄駅:西日本旅客鉄道(JR西日本)松江駅・一畑電車松江しんじ湖温泉駅
松江駅2〜3・6番のりばから一畑バス・市バスで約10分
松江しんじ湖温泉駅1〜3番のりばから一畑バス・市バスで約5分
別名 千鳥城
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城
天守構造 複合式望楼型 4重5階地下1階(木造 1607年築 現存)
築城主 堀尾忠氏
築城年 1611年(慶長16年)
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、堀
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 櫓、門、橋
2023年03月06日
2023年03月05日
安国寺(あんこくじ)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触にある臨済宗大徳寺派の寺院
安国寺(あんこくじ)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触にある臨済宗大徳寺派の寺院。
歴史
1338年(暦応元年)足利尊氏と直義は、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うために、従来あった海印寺を安国寺とした。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも高麗版大般若経は国の重要文化財に指定されている。開山は観応元年(1350年)に来島した京都南禅寺の禅師無隠元晦。仏殿は安政8年(1779年)の再建。二重屋根で「師子窟」の扁額が掛かる。また境内には長崎県指定天然記念物のスギの巨木がある。
高麗版大般若経
1420年(応永27年)肥前国松浦郡志佐白浜の源沙弥道林が彼杵郡河棚村(現東彼杵郡川棚町)の長浜五所大明神宮に施入した大般若経一部600巻が、文明18年(1486年)出羽立石寺の如円によって、安国寺に施入替えされたものである[2][3]。大般若経591帖が6箱に収められ、安国寺経蔵に保存されていた。当初は巻物であったが、折本装に改められている。591帖の内訳は高麗時代の版本が219帖、後に補われた写本が372帖となっている。版本は高麗初雕本で、うち6帖に施入者高麗国金海府戸長礼院使許珍寿、中に契丹(遼)の重熙15年(1046年)丙戌4月の奥書がある。写本の筆写年は、建武4年(1337年)、正平18年(1363年)、建徳2年(1371年)、応安5年(1372年)から、天正元年(1573年)に至り、長い年月をかけて完成につとめたことがうかがえる。高麗初雕本は日本では珍しく、京都南禅寺に有欠本が伝わっている。
文化財
重要文化財(国指定)
高麗版大般若経 219帖(附:写本372帖)
長崎県指定文化財
有形文化財
安国寺什物 10点 - 1975年(昭和50年)1月7日指定。
史跡
壱岐国安国寺跡 - 1974年(昭和49年)4月9日指定。
天然記念物
壱岐安国寺のスギ - 1968年(昭和43年)12月23日指定。
所在地 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触546
位置 北緯33度46分9.6秒 東経129度44分54.5秒
山号 老松山
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 地蔵菩薩(延命地蔵)
歴史
1338年(暦応元年)足利尊氏と直義は、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うために、従来あった海印寺を安国寺とした。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも高麗版大般若経は国の重要文化財に指定されている。開山は観応元年(1350年)に来島した京都南禅寺の禅師無隠元晦。仏殿は安政8年(1779年)の再建。二重屋根で「師子窟」の扁額が掛かる。また境内には長崎県指定天然記念物のスギの巨木がある。
高麗版大般若経
1420年(応永27年)肥前国松浦郡志佐白浜の源沙弥道林が彼杵郡河棚村(現東彼杵郡川棚町)の長浜五所大明神宮に施入した大般若経一部600巻が、文明18年(1486年)出羽立石寺の如円によって、安国寺に施入替えされたものである[2][3]。大般若経591帖が6箱に収められ、安国寺経蔵に保存されていた。当初は巻物であったが、折本装に改められている。591帖の内訳は高麗時代の版本が219帖、後に補われた写本が372帖となっている。版本は高麗初雕本で、うち6帖に施入者高麗国金海府戸長礼院使許珍寿、中に契丹(遼)の重熙15年(1046年)丙戌4月の奥書がある。写本の筆写年は、建武4年(1337年)、正平18年(1363年)、建徳2年(1371年)、応安5年(1372年)から、天正元年(1573年)に至り、長い年月をかけて完成につとめたことがうかがえる。高麗初雕本は日本では珍しく、京都南禅寺に有欠本が伝わっている。
文化財
重要文化財(国指定)
高麗版大般若経 219帖(附:写本372帖)
長崎県指定文化財
有形文化財
安国寺什物 10点 - 1975年(昭和50年)1月7日指定。
史跡
壱岐国安国寺跡 - 1974年(昭和49年)4月9日指定。
天然記念物
壱岐安国寺のスギ - 1968年(昭和43年)12月23日指定。
所在地 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触546
位置 北緯33度46分9.6秒 東経129度44分54.5秒
山号 老松山
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 地蔵菩薩(延命地蔵)
2023年03月04日
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は、奈良県桜井市阿部にある華厳宗の寺院
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は、奈良県桜井市阿部にある華厳宗の寺院。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)とされる。切戸文殊(京都府)・亀岡文殊(山形県)とともに日本三文殊に数えられる。宗教法人名は文殊院。
歴史
大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、談山神社)の僧兵に焼き討ちされ、全焼する。
旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。『東大寺要録』巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。
鎌倉時代になると拠点を現在地にあった崇敬寺智足院の別院・満願寺に移して再興がなされた。その際、安倍寺が東大寺の末寺であったこともあり、東大寺の復興に尽力した重源上人の縁で仏師快慶の手によって本尊の文殊菩薩像が作られている。それにより満願寺は別名を文殊堂ともいわれ、塔頭寺院も28坊あり大和十五大寺の一つとして隆盛を誇った。
しかし、永禄6年(1563年)に松永久秀の軍勢に焼かれてしまい、本尊を始め幾つかの仏像は焼け残ったが建物はほぼ全焼し、衰微してしまう。
寛文5年(1665年)、元安倍寺満願寺の本堂・文殊堂が再建され復興される。
明治になり、当寺は廃仏毀釈をくぐりぬけ、名称も文殊院というようになっていたが、かつて敵対していた多武峰の妙楽寺は廃寺とされ、新たに談山神社となった。その際、不要とされた妙楽寺の本尊・阿弥陀三尊像はくしくも当寺が引き取ることとなり、1883年(明治16年)に当院に移されるが、なぜか釈迦三尊像(桜井市指定有形文化財)として祀られ、現在も保存されている。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2004年(平成16年)には晴明堂が200年ぶりに再建されている。2010年(平成22年)には、安倍氏と関わりがあるとされる安倍晋三が「第90代内閣総理大臣 安倍晋三」名義で石燈籠を寄進している。
毎年9月にはコスモス畑を迷路にして遊べるようになっている。
文化財
国宝
木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像 4躯 快慶作 文殊菩薩像内に建仁三年十月、南無阿弥陀仏、巧匠安阿弥陀仏等の銘がある
附一 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言・文殊種子1巻 奥に承久二年、病比丘空阿弥陀仏の記がある
附二 木造最勝老人立像1躯 宗印作 像内に住吉大明神也、慶長十二年、南都大仏師宗印等の銘がある
鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で「知恵の文殊」として親しまれている。獅子上の蓮華座に左脚を踏み下げて坐す、総高約7メートル(獅子と光背含む)の文殊菩薩像に4体の脇侍像が随侍する文殊五尊像である。
文殊五尊像の脇侍は、通常、善財童子、優填王(うでんおう)、最勝老人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像を「須菩提」と称している。最勝老人像は慶長12年(1607年)に南都大仏師宗印による補作である。文殊像の頭部内面に銘記があり、建仁3年(1203年)10月8日の日付と、仏師である「巧匠アン阿弥陀仏」(快慶のこと、「アン」は梵字)および結縁者である「南無阿弥陀仏」(俊乗坊重源)ら50余名の名が記される。同じ建仁3年の11月30日には、南都東大寺にていわゆる東大寺総供養(後鳥羽上皇の行幸を得ての、東大寺の復興完成の行事)が行われている。また、快慶はこの年の7月24日から10月3日まで、東大寺南大門の金剛力士像(仁王)造立に大仏師として携わっており、文殊院文殊五尊像の造立はこれとほぼ同時期に行われていたことになる。文殊院の前身である崇敬寺は東大寺の末寺であり、この文殊五尊像も東大寺総供養に間に合うように造立が急がれたものとみられる。なお、後補の最勝老人(維摩居士)像を除く3躯の脇侍像は、作風からみて、文殊像よりやや制作年代が下るものとみられる。かつて文殊像の像内に納入されていた巻子(仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言・文殊種子を記す)には承久2年(1220年)の記があり、脇侍像を含めた造立はこの頃まで続いていたようである。なお、文殊像の台座の獅子は後補である。2013年(平成25年)6月19日付で国宝に指定された(最勝老人像は附指定)。
騎獅文殊菩薩像
電子マネーによる決済
2007年(平成19年)4月、全国の神社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入した。
拝観料、絵馬奉納、お守り、祈祷料などの支払いを、本堂に設置された読み取り端末に、電子マネーのICカードや携帯電話(おサイフケータイ)をかざすことで現金を使わず行うことができる。
2010年(平成22年)3月13日よりICOCA(Suica・TOICAでも)、銀聯も利用可能となった。
アクセス
JR桜井線・近鉄大阪線 桜井駅 より奈良交通バスで「安倍文殊院」下車
または駅から徒歩25分
駐車場300台分有り(有料500円)
所在地 奈良県桜井市阿部645
山号 安倍山
院号 文殊院
宗派 華厳宗
本尊 文殊菩薩(国宝)
創建年 伝・大化元年(645年)
開基 安倍倉梯麻呂
正式名 安倍山崇敬寺文殊院
別称 安倍文殊院、安倍山崇敬寺(そうきょうじ)、安倍寺(前身)
札所等 大和十三仏霊場第3番
大和七福八宝めぐり(弁財天)
大和北部八十八ヶ所霊場第82番
大和ぼけ封じ霊場
神仏霊場巡拝の道第34番(奈良第21番)
文化財 木造騎獅文殊菩薩及脇侍像(国宝)
白山神社本殿(重要文化財)
文殊院西古墳(特別史跡)
歴史
大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、談山神社)の僧兵に焼き討ちされ、全焼する。
旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。『東大寺要録』巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。
鎌倉時代になると拠点を現在地にあった崇敬寺智足院の別院・満願寺に移して再興がなされた。その際、安倍寺が東大寺の末寺であったこともあり、東大寺の復興に尽力した重源上人の縁で仏師快慶の手によって本尊の文殊菩薩像が作られている。それにより満願寺は別名を文殊堂ともいわれ、塔頭寺院も28坊あり大和十五大寺の一つとして隆盛を誇った。
しかし、永禄6年(1563年)に松永久秀の軍勢に焼かれてしまい、本尊を始め幾つかの仏像は焼け残ったが建物はほぼ全焼し、衰微してしまう。
寛文5年(1665年)、元安倍寺満願寺の本堂・文殊堂が再建され復興される。
明治になり、当寺は廃仏毀釈をくぐりぬけ、名称も文殊院というようになっていたが、かつて敵対していた多武峰の妙楽寺は廃寺とされ、新たに談山神社となった。その際、不要とされた妙楽寺の本尊・阿弥陀三尊像はくしくも当寺が引き取ることとなり、1883年(明治16年)に当院に移されるが、なぜか釈迦三尊像(桜井市指定有形文化財)として祀られ、現在も保存されている。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2004年(平成16年)には晴明堂が200年ぶりに再建されている。2010年(平成22年)には、安倍氏と関わりがあるとされる安倍晋三が「第90代内閣総理大臣 安倍晋三」名義で石燈籠を寄進している。
毎年9月にはコスモス畑を迷路にして遊べるようになっている。
文化財
国宝
木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像 4躯 快慶作 文殊菩薩像内に建仁三年十月、南無阿弥陀仏、巧匠安阿弥陀仏等の銘がある
附一 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言・文殊種子1巻 奥に承久二年、病比丘空阿弥陀仏の記がある
附二 木造最勝老人立像1躯 宗印作 像内に住吉大明神也、慶長十二年、南都大仏師宗印等の銘がある
鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で「知恵の文殊」として親しまれている。獅子上の蓮華座に左脚を踏み下げて坐す、総高約7メートル(獅子と光背含む)の文殊菩薩像に4体の脇侍像が随侍する文殊五尊像である。
文殊五尊像の脇侍は、通常、善財童子、優填王(うでんおう)、最勝老人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像を「須菩提」と称している。最勝老人像は慶長12年(1607年)に南都大仏師宗印による補作である。文殊像の頭部内面に銘記があり、建仁3年(1203年)10月8日の日付と、仏師である「巧匠アン阿弥陀仏」(快慶のこと、「アン」は梵字)および結縁者である「南無阿弥陀仏」(俊乗坊重源)ら50余名の名が記される。同じ建仁3年の11月30日には、南都東大寺にていわゆる東大寺総供養(後鳥羽上皇の行幸を得ての、東大寺の復興完成の行事)が行われている。また、快慶はこの年の7月24日から10月3日まで、東大寺南大門の金剛力士像(仁王)造立に大仏師として携わっており、文殊院文殊五尊像の造立はこれとほぼ同時期に行われていたことになる。文殊院の前身である崇敬寺は東大寺の末寺であり、この文殊五尊像も東大寺総供養に間に合うように造立が急がれたものとみられる。なお、後補の最勝老人(維摩居士)像を除く3躯の脇侍像は、作風からみて、文殊像よりやや制作年代が下るものとみられる。かつて文殊像の像内に納入されていた巻子(仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言・文殊種子を記す)には承久2年(1220年)の記があり、脇侍像を含めた造立はこの頃まで続いていたようである。なお、文殊像の台座の獅子は後補である。2013年(平成25年)6月19日付で国宝に指定された(最勝老人像は附指定)。
騎獅文殊菩薩像
電子マネーによる決済
2007年(平成19年)4月、全国の神社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入した。
拝観料、絵馬奉納、お守り、祈祷料などの支払いを、本堂に設置された読み取り端末に、電子マネーのICカードや携帯電話(おサイフケータイ)をかざすことで現金を使わず行うことができる。
2010年(平成22年)3月13日よりICOCA(Suica・TOICAでも)、銀聯も利用可能となった。
アクセス
JR桜井線・近鉄大阪線 桜井駅 より奈良交通バスで「安倍文殊院」下車
または駅から徒歩25分
駐車場300台分有り(有料500円)
所在地 奈良県桜井市阿部645
山号 安倍山
院号 文殊院
宗派 華厳宗
本尊 文殊菩薩(国宝)
創建年 伝・大化元年(645年)
開基 安倍倉梯麻呂
正式名 安倍山崇敬寺文殊院
別称 安倍文殊院、安倍山崇敬寺(そうきょうじ)、安倍寺(前身)
札所等 大和十三仏霊場第3番
大和七福八宝めぐり(弁財天)
大和北部八十八ヶ所霊場第82番
大和ぼけ封じ霊場
神仏霊場巡拝の道第34番(奈良第21番)
文化財 木造騎獅文殊菩薩及脇侍像(国宝)
白山神社本殿(重要文化財)
文殊院西古墳(特別史跡)
2023年03月03日
三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社
三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
三嶋大社の舞殿と拝殿(奥)
概要
静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。
社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。
祭神
祭神は次の2柱。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。本地仏は薬師如来。
歴史
創建
三嶋神の後后の伊古奈比当スを祀る。一説に三嶋神の旧鎮座地は伊古奈比当ス神社付近であるという。
創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷、のち賀茂郡大社郷白浜、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。
現地情報
所在地
静岡県三島市大宮町二丁目1番5号
参拝時間
参拝は夜間も自由。ただし、境内駐車場の利用や社務所・売店等の営業時間は、通常朝8時30分頃から夕方17時頃まで。
付属施設
宝物館
開館時間:午前9時 - 午後16時30分(入館受付は午後16時まで)
拝観料:一般500円/大学生・高校生400円/小中学生300円
三嶋大社の舞殿と拝殿(奥)
概要
静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。
社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。
祭神
祭神は次の2柱。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。本地仏は薬師如来。
歴史
創建
三嶋神の後后の伊古奈比当スを祀る。一説に三嶋神の旧鎮座地は伊古奈比当ス神社付近であるという。
創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷、のち賀茂郡大社郷白浜、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。
現地情報
所在地
静岡県三島市大宮町二丁目1番5号
参拝時間
参拝は夜間も自由。ただし、境内駐車場の利用や社務所・売店等の営業時間は、通常朝8時30分頃から夕方17時頃まで。
付属施設
宝物館
開館時間:午前9時 - 午後16時30分(入館受付は午後16時まで)
拝観料:一般500円/大学生・高校生400円/小中学生300円
2023年03月02日
大笹原神社(おおささはらじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社
大笹原神社(おおささはらじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社。 須佐之男命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめ)ほか五神を祀る。
大笹原神社本殿(国宝)
概要
本殿は国宝に指定されている。 外陣の正面三間と側面一間は花狭間格子戸となっている。高欄は跳高欄。脇障子の若葉の浮彫は、欄間、蟇股とともに見事な彫刻となっている。装飾性に富む彫刻は華麗な東山文化の粋を極めている。
本殿の右には、寄倍(よるべ)の池と呼ばれる底なし沼があり、その昔水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、日照りが続いても枯れたことがないと云われる。 また、この地域は良質のもち米が穫れ、鏡餅発祥の由来から、鏡餅の元祖を祀った「鏡の宮」が境内に建てられている。
歴史
寛和2年(986年)、越知諸実が社領を寄進し、社殿を造営したと云われる。
応永21年(1414年)、岩倉城主馬淵定信が現在の社殿を再建した。
文化財
国・県・市の補助を受け、2019年(令和元年)9月に文化財を火災から守るため自動放水設備が設置された。
国宝
大笹原神社本殿 - 室町時代(1414年)建立。三間社入母屋造、向背一間、檜皮葺。
重要文化財
境内社篠原神社本殿 - 室町時代(1425年)建立。石凝姥命(いしこりどめ)を祀る。一間社隅木入り春日造、檜皮葺。
所在地・アクセス
住所
〒520-2313 滋賀県野洲市大篠原2375
交通
JR琵琶湖線(東海道本線)野洲駅から近江鉄道バスまたは野洲市コミュニティバス(篠原コース)で大篠原停留所下車、徒歩15分。
駐車場
普通車25台
見学
境内自由
大笹原神社本殿(国宝)
概要
本殿は国宝に指定されている。 外陣の正面三間と側面一間は花狭間格子戸となっている。高欄は跳高欄。脇障子の若葉の浮彫は、欄間、蟇股とともに見事な彫刻となっている。装飾性に富む彫刻は華麗な東山文化の粋を極めている。
本殿の右には、寄倍(よるべ)の池と呼ばれる底なし沼があり、その昔水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、日照りが続いても枯れたことがないと云われる。 また、この地域は良質のもち米が穫れ、鏡餅発祥の由来から、鏡餅の元祖を祀った「鏡の宮」が境内に建てられている。
歴史
寛和2年(986年)、越知諸実が社領を寄進し、社殿を造営したと云われる。
応永21年(1414年)、岩倉城主馬淵定信が現在の社殿を再建した。
文化財
国・県・市の補助を受け、2019年(令和元年)9月に文化財を火災から守るため自動放水設備が設置された。
国宝
大笹原神社本殿 - 室町時代(1414年)建立。三間社入母屋造、向背一間、檜皮葺。
重要文化財
境内社篠原神社本殿 - 室町時代(1425年)建立。石凝姥命(いしこりどめ)を祀る。一間社隅木入り春日造、檜皮葺。
所在地・アクセス
住所
〒520-2313 滋賀県野洲市大篠原2375
交通
JR琵琶湖線(東海道本線)野洲駅から近江鉄道バスまたは野洲市コミュニティバス(篠原コース)で大篠原停留所下車、徒歩15分。
駐車場
普通車25台
見学
境内自由
2023年03月01日
唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城
唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城である。別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。
概要
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣・堀がある。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の天守(模擬天守)が建てられた。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあるため、有料の斜行エレベーター(2016年4月時点100円)が備えられている。
沿革
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
交通
JR唐津駅から徒歩15分、もしくは同駅より唐津市内線循環バス東コースで8分「唐津城入口」下車
昭和自動車高速バス「からつ号」終点「宝当桟橋」下車、徒歩5分(昭和自動車唐津大手口バスセンターから徒歩10分)。
駐車場 - 道路向かい側に市営の東城内駐車場が設けられている(有料)
別名 舞鶴城
城郭構造 連郭式平山城(海城[1])
天守構造 不明
複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造模擬)
築城主 寺沢広高
築城年 1608年
主な城主 寺沢氏、土井氏
水野氏、小笠原氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
概要
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣・堀がある。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の天守(模擬天守)が建てられた。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあるため、有料の斜行エレベーター(2016年4月時点100円)が備えられている。
沿革
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
交通
JR唐津駅から徒歩15分、もしくは同駅より唐津市内線循環バス東コースで8分「唐津城入口」下車
昭和自動車高速バス「からつ号」終点「宝当桟橋」下車、徒歩5分(昭和自動車唐津大手口バスセンターから徒歩10分)。
駐車場 - 道路向かい側に市営の東城内駐車場が設けられている(有料)
別名 舞鶴城
城郭構造 連郭式平山城(海城[1])
天守構造 不明
複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造模擬)
築城主 寺沢広高
築城年 1608年
主な城主 寺沢氏、土井氏
水野氏、小笠原氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
2023年02月28日
金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮にある神社
金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国五宮(一説に二宮)。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
関東平野西縁、埼玉県北西部に立つ御獄山(標高343.4メートル)山麓に鎮座し、社殿後背の御室山(御室ヶ獄)を神体山として祀る。山を神体山とするため、社殿には本殿は設けないという古代祭祀の面影を残すことで知られる。また、「武州六大明神(武蔵六所大明神)」の一社にも数えられる神社である。
境内では、参道脇に建つ多宝塔が国の重要文化財に指定されている。また、御獄山の中腹にある「鏡岩」は国の特別天然記念物に指定されている。
社名
社名「金鑚(かなさな)」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられている。神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられており、御嶽山からは鉄が産出したという伝承もある。文献では当社について「金佐奈」と見えるが、「かなすな」がこの「かなさな」に転訛したとされ、表記は「金鑽(貝の上の字が先)」のち「金鑚(貝の上の字が夫)」と変遷して、近代以降は「かなさら」とも読むようになったとされる。
上とは別に、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するとする説もある。
祭神
祭神は次の3柱。
主祭神
天照大神(あまてらすおおかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
配祀神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 第12代景行天皇の皇子。
祭神について、『神道集』では「金鑽大明神」と記して本地仏を弥勒菩薩とする。また『風土記稿』では、祭神を金山彦神として素戔嗚尊の別名とする別説を挙げる。
境内
社殿
境内の主要社殿は拝殿・中門からなり中門の背後には一般の神社に見られる本殿がなく、神体山とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。旧官幣社・国幣社でこのように本殿を設けない古例を採るのは、他に長野県の諏訪大社・奈良県の大神神社のみである。
境内入口付近に建つ多宝塔は、室町時代後期の天文3年(1534年)の建立。方三間の杮葺、初層方形、上層円形平面の二重塔婆である。塔本体の高さは13.8メートルで、相輪の高さは4メートルになる。心柱の墨書には「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」として、天文3年に阿保全隆から寄進された旨が記されている。建立時期が明確であり、当地付近を拠点とした阿保氏(安保氏)との関連を示す遺構になる。この多宝塔は国の重要文化財に指定されている。
祭事
金鑚神社で年間に行われる主な祭事は次の通り。
福迎祭(1月3日)
筒粥神事(1月15日)
例祭(4月15日)
水口祭(5月辰日)
元森神社例祭(秋尽祭)(10月19日)
旧社地と伝える元森神社から御室山をほめる「山ぼめの神事」で、「カナサナのお山はよいお山、アラ美しい山、アラ木の生い茂る山」と3回唱え、柏手を打って遥拝を行う。
火金鑚祭(11月23日) - 懸税神事を行う。
以上のほか、大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)には当社も参加している。
文化財
重要文化財(国指定)
多宝塔 - 室町時代後期、天文3年(1534年)の造営。三間多宝塔、こけら葺。明治45年(1912年)2月8日指定。
特別天然記念物(国指定)
御岳の鏡岩 - 昭和15年8月30日に国の天然記念物に指定、昭和31年7月19日に国の特別天然記念物に指定。
現地情報
所在地
埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750
交通アクセス
本庄駅(JR東日本高崎線)または丹荘駅(JR東日本八高線)から、朝日バスで「新宿」バス停下車
下車後、「新宿」交差点から国道462号を東へ徒歩約20分。
概要
関東平野西縁、埼玉県北西部に立つ御獄山(標高343.4メートル)山麓に鎮座し、社殿後背の御室山(御室ヶ獄)を神体山として祀る。山を神体山とするため、社殿には本殿は設けないという古代祭祀の面影を残すことで知られる。また、「武州六大明神(武蔵六所大明神)」の一社にも数えられる神社である。
境内では、参道脇に建つ多宝塔が国の重要文化財に指定されている。また、御獄山の中腹にある「鏡岩」は国の特別天然記念物に指定されている。
社名
社名「金鑚(かなさな)」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられている。神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられており、御嶽山からは鉄が産出したという伝承もある。文献では当社について「金佐奈」と見えるが、「かなすな」がこの「かなさな」に転訛したとされ、表記は「金鑽(貝の上の字が先)」のち「金鑚(貝の上の字が夫)」と変遷して、近代以降は「かなさら」とも読むようになったとされる。
上とは別に、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するとする説もある。
祭神
祭神は次の3柱。
主祭神
天照大神(あまてらすおおかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
配祀神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 第12代景行天皇の皇子。
祭神について、『神道集』では「金鑽大明神」と記して本地仏を弥勒菩薩とする。また『風土記稿』では、祭神を金山彦神として素戔嗚尊の別名とする別説を挙げる。
境内
社殿
境内の主要社殿は拝殿・中門からなり中門の背後には一般の神社に見られる本殿がなく、神体山とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。旧官幣社・国幣社でこのように本殿を設けない古例を採るのは、他に長野県の諏訪大社・奈良県の大神神社のみである。
境内入口付近に建つ多宝塔は、室町時代後期の天文3年(1534年)の建立。方三間の杮葺、初層方形、上層円形平面の二重塔婆である。塔本体の高さは13.8メートルで、相輪の高さは4メートルになる。心柱の墨書には「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」として、天文3年に阿保全隆から寄進された旨が記されている。建立時期が明確であり、当地付近を拠点とした阿保氏(安保氏)との関連を示す遺構になる。この多宝塔は国の重要文化財に指定されている。
祭事
金鑚神社で年間に行われる主な祭事は次の通り。
福迎祭(1月3日)
筒粥神事(1月15日)
例祭(4月15日)
水口祭(5月辰日)
元森神社例祭(秋尽祭)(10月19日)
旧社地と伝える元森神社から御室山をほめる「山ぼめの神事」で、「カナサナのお山はよいお山、アラ美しい山、アラ木の生い茂る山」と3回唱え、柏手を打って遥拝を行う。
火金鑚祭(11月23日) - 懸税神事を行う。
以上のほか、大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)には当社も参加している。
文化財
重要文化財(国指定)
多宝塔 - 室町時代後期、天文3年(1534年)の造営。三間多宝塔、こけら葺。明治45年(1912年)2月8日指定。
特別天然記念物(国指定)
御岳の鏡岩 - 昭和15年8月30日に国の天然記念物に指定、昭和31年7月19日に国の特別天然記念物に指定。
現地情報
所在地
埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750
交通アクセス
本庄駅(JR東日本高崎線)または丹荘駅(JR東日本八高線)から、朝日バスで「新宿」バス停下車
下車後、「新宿」交差点から国道462号を東へ徒歩約20分。
2023年02月27日
朝峯神社(あさみねじんじゃ)は、高知県高知市介良にある神社
朝峯神社(あさみねじんじゃ)は、高知県高知市介良にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
祭神
祭神は次の3柱。神体は鏡とする。
主祭神
木之花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
相殿神
爾爾伎之命 (ににぎのみこと) - 木之花咲耶姫命の夫神。
大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木之花咲耶姫命の父神。
記紀神話において木之花咲耶姫命には出産伝承・造酒伝承があることから、安産・子授けの信仰、酒造の信仰がある。
歴史
創建
神体山とする介良山(介良富士)
創建は不詳。鉢伏山の北の峰の介良山(介良富士)の西麓に鎮座し、この介良富士を神体山として祀るという。時期不明ながら、浅間神社(富士山を祭祀)からの勧請が創祀と伝える。
周辺には宮の谷古墳・高間原古墳群・高天原古墳群など多くの古墳時代後期の古墳が所在し、朝峯神社の存在はこれらを営んだ豪族と対比される。
境内
本殿は拝殿から約10メートルほどの高所にあり、「甕の巌屋」と称される女陰岩の前に鎮座する。
なお朝峯神社近くには、源希義(源頼朝の実弟)の霊を祀った西養寺がかつて存在し(現在は廃寺)、その跡地には希義の墓塔と伝える無縫塔が残されている。
祭事
夏祭 (7月10日)
秋祭 (10月第3日曜) - 祭礼は高知市指定無形民俗文化財。
文化財
高知市指定無形民俗文化財
朝峯神社祭礼 - 平成11年7月15日指定。
安産や子宝に恵まれるというシンボルです
所在地 高知県高知市介良乙1927
位置 北緯33度33分30.78秒 東経133度36分38.59秒
主祭神 木之花咲耶姫命
神体 神鏡(本殿)
介良山(神体山)
社格等 式内社(小)
旧郷社
創建 不詳
例祭 7月10日・10月第3日曜
祭神
祭神は次の3柱。神体は鏡とする。
主祭神
木之花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
相殿神
爾爾伎之命 (ににぎのみこと) - 木之花咲耶姫命の夫神。
大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木之花咲耶姫命の父神。
記紀神話において木之花咲耶姫命には出産伝承・造酒伝承があることから、安産・子授けの信仰、酒造の信仰がある。
歴史
創建
神体山とする介良山(介良富士)
創建は不詳。鉢伏山の北の峰の介良山(介良富士)の西麓に鎮座し、この介良富士を神体山として祀るという。時期不明ながら、浅間神社(富士山を祭祀)からの勧請が創祀と伝える。
周辺には宮の谷古墳・高間原古墳群・高天原古墳群など多くの古墳時代後期の古墳が所在し、朝峯神社の存在はこれらを営んだ豪族と対比される。
境内
本殿は拝殿から約10メートルほどの高所にあり、「甕の巌屋」と称される女陰岩の前に鎮座する。
なお朝峯神社近くには、源希義(源頼朝の実弟)の霊を祀った西養寺がかつて存在し(現在は廃寺)、その跡地には希義の墓塔と伝える無縫塔が残されている。
祭事
夏祭 (7月10日)
秋祭 (10月第3日曜) - 祭礼は高知市指定無形民俗文化財。
文化財
高知市指定無形民俗文化財
朝峯神社祭礼 - 平成11年7月15日指定。
安産や子宝に恵まれるというシンボルです
所在地 高知県高知市介良乙1927
位置 北緯33度33分30.78秒 東経133度36分38.59秒
主祭神 木之花咲耶姫命
神体 神鏡(本殿)
介良山(神体山)
社格等 式内社(小)
旧郷社
創建 不詳
例祭 7月10日・10月第3日曜
2023年02月26日
碓氷第三橋梁(うすいだいさんきょうりょう)は、群馬県安中市松井田町坂本にある鉄道橋
碓氷第三橋梁(うすいだいさんきょうりょう)は、群馬県安中市松井田町坂本にある鉄道橋。一般には「めがね橋」という名称で知られている。
概要
碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。設計者は、1882年(明治15年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)と古川晴一。
1891年(明治24年)着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年(明治26年)に竣工した。
もっとも開業直後から強度不足による変形が指摘され、これに伴い翌1894年(明治27年)に耐震補強名目で橋脚・アーチ部の双方に対する大掛かりな補強工事が実施された。
その後は信越本線の電化を経て1963年(昭和38年)に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長91 m、川底からの高さ31 m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年(平成5年)には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。現在は横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道「アプトの道」になり、橋上の手すりや国道18号へ通じる階段などが整備されている。また、2012年3月に碓氷第三橋梁〜旧熊ノ平駅間1.2kmの延伸工事が完成し、4月1日から横川〜熊ノ平間、全長5.9 kmとなった。
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産への登録を目指し、2007年(平成19年)6月に暫定リスト入りをした。しかし現役時代から、落書きがレンガの橋脚に彫り込まれる悪戯が多発している[3]。
ぐんま絹遺産(群馬県)の「碓氷峠鉄道施設」の構成資産となっている。
アクセス
JR 横川駅よりJRバス関東(碓氷旧道めがね橋経由)軽井沢駅行き 約13分・「めがね橋」バス停下車。※季節運行につき運転日に注意
JR横川駅より「アプトの道」経由で徒歩約1時間
概要
碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。設計者は、1882年(明治15年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)と古川晴一。
1891年(明治24年)着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年(明治26年)に竣工した。
もっとも開業直後から強度不足による変形が指摘され、これに伴い翌1894年(明治27年)に耐震補強名目で橋脚・アーチ部の双方に対する大掛かりな補強工事が実施された。
その後は信越本線の電化を経て1963年(昭和38年)に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長91 m、川底からの高さ31 m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年(平成5年)には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。現在は横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道「アプトの道」になり、橋上の手すりや国道18号へ通じる階段などが整備されている。また、2012年3月に碓氷第三橋梁〜旧熊ノ平駅間1.2kmの延伸工事が完成し、4月1日から横川〜熊ノ平間、全長5.9 kmとなった。
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産への登録を目指し、2007年(平成19年)6月に暫定リスト入りをした。しかし現役時代から、落書きがレンガの橋脚に彫り込まれる悪戯が多発している[3]。
ぐんま絹遺産(群馬県)の「碓氷峠鉄道施設」の構成資産となっている。
アクセス
JR 横川駅よりJRバス関東(碓氷旧道めがね橋経由)軽井沢駅行き 約13分・「めがね橋」バス停下車。※季節運行につき運転日に注意
JR横川駅より「アプトの道」経由で徒歩約1時間
2023年02月25日
医王寺(いおうじ)は、熊本県八代市袋町にある高野山真言宗の寺院
医王寺(いおうじ)は、熊本県八代市袋町にある高野山真言宗の寺院。九州八十八ヶ所百八霊場第54番札所。通称は足手荒神。
歴史
開基年代は不明だが、平安中頃の創建と伝える古刹である。当初は松江村と言った長丁筋(現在の八代市通町)にあったとされる。 天正(1573 – 1592)年中、キリシタンである小西行長によって破却され、寺跡は薬師森と呼ばれたという。
寛文2年(1662年)、八代城主・松井寄之が石原町(現在の八代市宮地町)に再建。 寛文5年(1665年)10月、夫の病気快癒を祈願した松井寄之の室・崇芳院尼が、現在地に移築して再興した。 当山派修験道の山伏・宝光院玄竜を住職とし、松井家の祈禱所としたという。
明治政府による神仏分離令を受けて、八代妙見宮(現在の八代神社)の普門院院主・阿度霊光が当寺に入って住持となり、院に安置されていた妙見菩薩像、石造の金剛力士(仁王)像や什物が寺に移された。
文化財
重要文化財(国指定)
木造薬師如来立像 - 崇芳院尼の信仰が篤かったと伝える。
熊本県指定重要文化財
木造聖観世音菩薩立像
八代市指定有形文化財
白雲山医王寺
医王寺の浄心石塔
八代市指定有形民俗文化財
医王寺の庚申碑と青面金剛堂 - 青面金剛堂は足手荒神として今日でも参拝者が多く[2]、手足の病に霊験あらたかと信仰を集めている。
その他
医王寺の仁王像
御詠歌
有明の海に白雲たなびきて あまねく救う瑠璃光の寺
所在地
熊本県八代市袋町5-34
交通
九州産交バス宮の町バス停から徒歩約3分
九州自動車道八代ICから車で約8分
歴史
開基年代は不明だが、平安中頃の創建と伝える古刹である。当初は松江村と言った長丁筋(現在の八代市通町)にあったとされる。 天正(1573 – 1592)年中、キリシタンである小西行長によって破却され、寺跡は薬師森と呼ばれたという。
寛文2年(1662年)、八代城主・松井寄之が石原町(現在の八代市宮地町)に再建。 寛文5年(1665年)10月、夫の病気快癒を祈願した松井寄之の室・崇芳院尼が、現在地に移築して再興した。 当山派修験道の山伏・宝光院玄竜を住職とし、松井家の祈禱所としたという。
明治政府による神仏分離令を受けて、八代妙見宮(現在の八代神社)の普門院院主・阿度霊光が当寺に入って住持となり、院に安置されていた妙見菩薩像、石造の金剛力士(仁王)像や什物が寺に移された。
文化財
重要文化財(国指定)
木造薬師如来立像 - 崇芳院尼の信仰が篤かったと伝える。
熊本県指定重要文化財
木造聖観世音菩薩立像
八代市指定有形文化財
白雲山医王寺
医王寺の浄心石塔
八代市指定有形民俗文化財
医王寺の庚申碑と青面金剛堂 - 青面金剛堂は足手荒神として今日でも参拝者が多く[2]、手足の病に霊験あらたかと信仰を集めている。
その他
医王寺の仁王像
御詠歌
有明の海に白雲たなびきて あまねく救う瑠璃光の寺
所在地
熊本県八代市袋町5-34
交通
九州産交バス宮の町バス停から徒歩約3分
九州自動車道八代ICから車で約8分