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2016年04月20日
「『熊本地震』をめぐる状況」についての正しい分析
やめっ!
もうこれ以上の「言葉」は「汚い」!
――そう思って、「今月はもう何も書かない」ことを「宣言」したが、どうしても書いておきたいことが出てきたので、今日限りの二言、三言、許してくれ給え。
言うべきことを言ったら、さっと身を引くつもりである。
ブログテーマ、『新生活に変化はありましたか?』であるが、れいの「熊本地震」で、ほとんどの人に「変化」があっただろう。
はい、これでブログテーマ全部回収。終り。
改めて、「援助物資が行き届かない」理由を明確にしておこう。
まず、「公的な避難所」だけでなく、「公的」に「避難場所」と「されていない場所」を「避難所」としている人々が多数いる。
理由は単純。
「物理的」な理由(距離的に遠い/道の陥没のせいで自動車が使えない等)から「公的な避難所」まで行けないからである。
まず、そうした「非公的な避難場所」を含めた「すべての避難場所のマップ」を作らなければならない。
結局、「熊本」といっても、都市中心を離れれば、片田舎の「村」や「集落」が多い。
そこに住む人々にとって、「公的な避難所」など、「遠すぎて」いけるはずもないのだ。
また、『「地震」によって亡くなれた人』の「定義」も、見直し、もっと「拡大解釈」するべきである。
皆、「地震」という「直接的被害」を受けた人を「被災者」と言いがちだが、「地震」によって、ライフラインが途絶え、その「副次的被害」によって、死んでいった方々も「被災者」なのだ。
ある医者の友人が語っていたことだが、今回の「熊本地震」に遭っても、「無傷だと思われている病院」内でも「死者」は出ている、と言っていた。
理由は勿論、病院内の「ライフライン」が復旧していないからである。
然るに、病院内は高齢者が多い、ことにも投石患者には大量の「水分補給」が必要である、が、「水」がライフラインの崩壊によって足りていないので、「死ぬ」のである。
こうした「間接的な二次被害」によって「死亡」したケースは、メディアによって「無視」されがちな「側面」である。
だが、そんなことよりも、である。
そんなことよりも「重要」な「問題」は、「熊本地震」という「社会的事象」に対して、僕たち「個人」が、「どのような立場から語っているのか?」あるいは、「どのような関わり方を持っているのか?」という「そもそも論」である。
「つながろう!」「ひとつになろう!」という「風潮」がまた来た。
だが、「3.11」にしても、「熊本地震」にしても、同じことである。
その「社会的事象」に、「どのような関わりを持つのか?」は、「私」個人の「選択」の問題であり、「私たち」全体の問題ではない。
『「熊本地震」は「私たち」全体の「問題」だ!』
と口にするとき、すでにありもしない「問題」が文中に「出現」している。
だが、「熊本地震」という「社会的事象」が、その人「個人」にとって「問題」になるか・ならないかは、「人それぞれ」なのだから、「『私たち全体』の問題」という構えは「誇張した問題意識」である。
本来は、「積極的にボランティアをする人」も「これを機に売名する芸能人」も「熊本地震とはまったく無関係に日常を送る人々」も、それらすべて「並列」に扱うべきである。
「自発的にボランティアをする偉い人」も「売名する恥知らずな人」も「無関心な心ない不謹慎な人」も、等しく「共存」しているのが、「この世界」の「本質」なのだから。
立場も事情も全く違う、てんでバラバラな「他者」同士が「共存」しているのが、「この世界」の「共通前提」である。
言うさえ野暮な、当たり前の「事実」だ。
しかし、彼らは「ひとつになろう!」という名の下、一つの「権力」を形成し、それに「同調」するよう「無言の圧力」をかけてくる。
御多分にもれず、僕も、昨今の「つながろう!」的な「同調圧力」を、勿論、3.11の時の状況の「再体験」として感じたが、その「権力性」を明らかにするには、むしろ昨年の『安保法案』の時の奥田愛基くんの「国会答弁」を例に出すのが有効的だと考える。
奥田愛基くんは国会答弁の際、「『個』で動いている」と主張しつつも、『私たち』という「主語」を使用したのである。
あの状況で、『私たち』と発言すれば、『私たち』=『私のような若者一般は全て』と「曲解」されてもおかしくない。
事実、メディアも『私たち』=『私のような若者一般は全て』として彼の答弁を「理解」し、放送してしまった。
そのとき僕は、『いや、勝手に僕を『私たち』というカギカッコの中に入れないで下さい』と思ったものだ。
つまり、政府という「権力」に対する民衆のデモという「反権力」も「権力」には違いないのだ。
「賛成か/反対か」の二項対立だけで考え、「グレーゾーン」を全く「黙殺」している時点で。
それと同じ「権力性」を「つながろう!」という「同調圧力」にも感じるのだ。
「安保法案に対して賛成か/反対か」という言葉を、「震災に対して同情的か/非同情的か」という言葉に置き換えてみれば、昨今の「ひとつになろう!」という「同調圧力」の持つ「権力性」が明らかになるだろう。
考えてみたまえ。
別に、同情的でも、非同情的でもない、そんなに関係ないなぁ、と思っている「グレーな人々」が、一言でも意見を口にしようものなら「不謹慎だ!」と叩かれるであろう。
その時点で、「つながろう!」という善意は、完全に「権力」である。
そして、「つながろう!」と呼びかけ、それに同調しなかった人を「不謹慎だ!」と指弾する不謹慎厨の「根本」にあるのは、実は、ただ「大きな社会的事象」を「背景」に「みんなが一つになっている!」という「エクスタシー」を感じ、それに「酔っ払いたい」だけの「不謹慎」な「陶酔」でしかないのだ。
――こう考えてみると、「他者」との関係を深く考えるがゆえに「何もしない」僕のような人間と、彼らのような人間、どちらが「不謹慎」か、分かったものではない。
そして、「ひとつになろう!」「つながろう!」という「大きなこと」を主張している人に限って、意外と、「小さなこと」――学校や職場などの身近な人たち=「他者」との関係が上手くいっていなかったりすること――を僕は知っている。
「小さなこと」――身近な「他者」との人間関係すら上手くいっていない人が、「ひとつになろう!」などという「大きなこと」を声高に主張しても何の説得力も感じないのである。
結論。
今回の「熊本地震」は、「人それぞれ」であって、「それ以上」でも「それ以下」でもない。
そして、「それ以上」のこととして受け止め、はしゃいでいる人々は、それはご勝手にすればいいと思うが、「それ以上でもそれ以下でもない」人たちに「同調」するよう「強要」しないこと。
以上だ!
もう、ほんとうに、今月は何も書かん!
震災小説『ひとつになるとき』(縦書き文庫/無料)→http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
もうこれ以上の「言葉」は「汚い」!
――そう思って、「今月はもう何も書かない」ことを「宣言」したが、どうしても書いておきたいことが出てきたので、今日限りの二言、三言、許してくれ給え。
言うべきことを言ったら、さっと身を引くつもりである。
ブログテーマ、『新生活に変化はありましたか?』であるが、れいの「熊本地震」で、ほとんどの人に「変化」があっただろう。
はい、これでブログテーマ全部回収。終り。
改めて、「援助物資が行き届かない」理由を明確にしておこう。
まず、「公的な避難所」だけでなく、「公的」に「避難場所」と「されていない場所」を「避難所」としている人々が多数いる。
理由は単純。
「物理的」な理由(距離的に遠い/道の陥没のせいで自動車が使えない等)から「公的な避難所」まで行けないからである。
まず、そうした「非公的な避難場所」を含めた「すべての避難場所のマップ」を作らなければならない。
結局、「熊本」といっても、都市中心を離れれば、片田舎の「村」や「集落」が多い。
そこに住む人々にとって、「公的な避難所」など、「遠すぎて」いけるはずもないのだ。
また、『「地震」によって亡くなれた人』の「定義」も、見直し、もっと「拡大解釈」するべきである。
皆、「地震」という「直接的被害」を受けた人を「被災者」と言いがちだが、「地震」によって、ライフラインが途絶え、その「副次的被害」によって、死んでいった方々も「被災者」なのだ。
ある医者の友人が語っていたことだが、今回の「熊本地震」に遭っても、「無傷だと思われている病院」内でも「死者」は出ている、と言っていた。
理由は勿論、病院内の「ライフライン」が復旧していないからである。
然るに、病院内は高齢者が多い、ことにも投石患者には大量の「水分補給」が必要である、が、「水」がライフラインの崩壊によって足りていないので、「死ぬ」のである。
こうした「間接的な二次被害」によって「死亡」したケースは、メディアによって「無視」されがちな「側面」である。
だが、そんなことよりも、である。
そんなことよりも「重要」な「問題」は、「熊本地震」という「社会的事象」に対して、僕たち「個人」が、「どのような立場から語っているのか?」あるいは、「どのような関わり方を持っているのか?」という「そもそも論」である。
「つながろう!」「ひとつになろう!」という「風潮」がまた来た。
だが、「3.11」にしても、「熊本地震」にしても、同じことである。
その「社会的事象」に、「どのような関わりを持つのか?」は、「私」個人の「選択」の問題であり、「私たち」全体の問題ではない。
『「熊本地震」は「私たち」全体の「問題」だ!』
と口にするとき、すでにありもしない「問題」が文中に「出現」している。
だが、「熊本地震」という「社会的事象」が、その人「個人」にとって「問題」になるか・ならないかは、「人それぞれ」なのだから、「『私たち全体』の問題」という構えは「誇張した問題意識」である。
本来は、「積極的にボランティアをする人」も「これを機に売名する芸能人」も「熊本地震とはまったく無関係に日常を送る人々」も、それらすべて「並列」に扱うべきである。
「自発的にボランティアをする偉い人」も「売名する恥知らずな人」も「無関心な心ない不謹慎な人」も、等しく「共存」しているのが、「この世界」の「本質」なのだから。
立場も事情も全く違う、てんでバラバラな「他者」同士が「共存」しているのが、「この世界」の「共通前提」である。
言うさえ野暮な、当たり前の「事実」だ。
しかし、彼らは「ひとつになろう!」という名の下、一つの「権力」を形成し、それに「同調」するよう「無言の圧力」をかけてくる。
御多分にもれず、僕も、昨今の「つながろう!」的な「同調圧力」を、勿論、3.11の時の状況の「再体験」として感じたが、その「権力性」を明らかにするには、むしろ昨年の『安保法案』の時の奥田愛基くんの「国会答弁」を例に出すのが有効的だと考える。
奥田愛基くんは国会答弁の際、「『個』で動いている」と主張しつつも、『私たち』という「主語」を使用したのである。
あの状況で、『私たち』と発言すれば、『私たち』=『私のような若者一般は全て』と「曲解」されてもおかしくない。
事実、メディアも『私たち』=『私のような若者一般は全て』として彼の答弁を「理解」し、放送してしまった。
そのとき僕は、『いや、勝手に僕を『私たち』というカギカッコの中に入れないで下さい』と思ったものだ。
つまり、政府という「権力」に対する民衆のデモという「反権力」も「権力」には違いないのだ。
「賛成か/反対か」の二項対立だけで考え、「グレーゾーン」を全く「黙殺」している時点で。
それと同じ「権力性」を「つながろう!」という「同調圧力」にも感じるのだ。
「安保法案に対して賛成か/反対か」という言葉を、「震災に対して同情的か/非同情的か」という言葉に置き換えてみれば、昨今の「ひとつになろう!」という「同調圧力」の持つ「権力性」が明らかになるだろう。
考えてみたまえ。
別に、同情的でも、非同情的でもない、そんなに関係ないなぁ、と思っている「グレーな人々」が、一言でも意見を口にしようものなら「不謹慎だ!」と叩かれるであろう。
その時点で、「つながろう!」という善意は、完全に「権力」である。
そして、「つながろう!」と呼びかけ、それに同調しなかった人を「不謹慎だ!」と指弾する不謹慎厨の「根本」にあるのは、実は、ただ「大きな社会的事象」を「背景」に「みんなが一つになっている!」という「エクスタシー」を感じ、それに「酔っ払いたい」だけの「不謹慎」な「陶酔」でしかないのだ。
――こう考えてみると、「他者」との関係を深く考えるがゆえに「何もしない」僕のような人間と、彼らのような人間、どちらが「不謹慎」か、分かったものではない。
そして、「ひとつになろう!」「つながろう!」という「大きなこと」を主張している人に限って、意外と、「小さなこと」――学校や職場などの身近な人たち=「他者」との関係が上手くいっていなかったりすること――を僕は知っている。
「小さなこと」――身近な「他者」との人間関係すら上手くいっていない人が、「ひとつになろう!」などという「大きなこと」を声高に主張しても何の説得力も感じないのである。
結論。
今回の「熊本地震」は、「人それぞれ」であって、「それ以上」でも「それ以下」でもない。
そして、「それ以上」のこととして受け止め、はしゃいでいる人々は、それはご勝手にすればいいと思うが、「それ以上でもそれ以下でもない」人たちに「同調」するよう「強要」しないこと。
以上だ!
もう、ほんとうに、今月は何も書かん!
震災小説『ひとつになるとき』(縦書き文庫/無料)→http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203