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2015年07月11日
赤ちゃんってどうやってできるの? feat.岩手いじめ自殺問題について
どうも、お久しぶりです、これを読んでいる「貴方」。
最近、AmazonKindleから出版した『小説・神聖かまってちゃん』が、契約違反(たぶん著作権違反&プライバシーの侵害)で、完全に消去され、永久にアカウントBANになり、「ちくしょう、せめて過払い金だけでも払え」と思っている、小説家(詐欺師)のともなりたかひろです。
『小説・神聖かまってちゃん』(移植・無料で読める版)→http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18229
・・・すいません、どうしても「過払い金」というワードを使いたかったんです。
あともう一つ、謝らせてください。
タイトルと内容、あんま関係ないかもしれません。
でも、フリースタイルで書いていくうちに、関係していくかもしれません。
実は最近、Twitterを通じ、ある中学生から「相談」を受けまして、今日はそれに対する答えを提示しよう、と思うとるわけでございます。
というわけで、本日は「子供相談をプロデュース!」(内P好きやな〜)
面倒くさいので、手っ取り早く言いますよ?
その「相談」は、「いじめられてるんですけど、どうしたらいいですか」的なものでした。
あの、最近また、中学生のいじめによる自殺のニュースが報道されたじゃないですか?
あれについてね、コメンテーターとか、マス・メディアとかは、大抵、「学校が悪い」とか、「教育委員が悪い」みたいな方向の批判に走るじゃないですか。
僕、違うと思うんですよね。
問題はさ、つまりこういうことだと思いますよ。
『学校が社会のすべてだと思ってしまったところに、当時の僕の不幸があった』(ブラスト「公論」より引用)
じゃないすか?
うん、これですよ。
学校なんて、別に「社会」の全てじゃないじゃないですか。
でも、自殺しちゃった子にとっては、「自分の世界」の全てだったんだよね。。
そこが、やっぱり、口惜しいよね。
大人になればさ、複数の「自分の居場所=社会」を、作れるわけじゃん?
例えば、会社で苛められてても、趣味のフットサルチームにいるときは幸福だったり、夜は気のいい仲間とクラブで酒飲んで踊りまくったり、まぁ、とにかく別の「社会」に「逃避」できるわけですよ。
あるいは、松山ケンイチじゃないけど、「別に皆に嫌われててもいい。だって、僕には僕を愛してくれる家族がいるから」みたいな考え方も持てるし。
でも、子供にはそういう「逃げ場」がないから、かわいそうだよね。
もう、中学生にとってはさ、「中学校」しかないんだよ、「自分の世界=社会」が。
だから、自分の心の傷を隠してでも、息を殺してでも、毎日、学校へ通うしかないわけ。
で、そこで、イジメられて、「おまえはバカだ」とか、「おまえはクズだ」、みたいな人格否定を受けて、しかも、そこが「自分の世界」の全てだと思っているから、その人格否定の烙印を真に受けちゃうわけよ。
でもさ、考えてみると、中学時代にイケイケドンドンだった奴が必ずしも大人になって出世するとも限らないし、いや、むしろ、地味な子の方が出世してたり、「シャイ」だったヤツも社会にもまれれば必然的にその性格が解消されるだろうし、――とにかくまぁ、中学生のときの「性格」なんて、全然その後のアテにならないじゃん。
人間、いくらでも変れるんだからさ。
だから、中学生のときに受けた「自分の評価」なんて、気にすることないと思うよ。
・・・つっても、その時は、気にしちゃうに決まっているんだけどね、絶対。
まぁとにかくですよ、中学生たちに言いたいことは、――逃げちゃっていいと思うよ、嫌だったら、ってこと。
「学校」以外に、いくらでも「自分の居場所」なんてあるんだから。
常識・非常識/善人・悪人なんて関係ないよ、世の中。
色んな人がいて、色んなコミュニティーがあって、色んな稼ぎ方があって、色んな生活があって、・・・そういう「メチャクチャ」なもんなんだよ、「世界」って。
なんか、作家の中島らもさんも言ってたけど、中学→高校→大学→就職みたいな「主流」から外れたら、すぐ絶望して「死のう・・・」みたいな固定観念はさ、ほんとは一部の人しか持ってないものなんだよ、って気付かせてあげなよ、周りの大人がさ。
企業する、ヤクザになる、ヒモになる、ニートになる、Youtuberになる、不正な生活保護で暮らす、性風俗にハマる、暴力にハマる、殺人者になる、アル中になって堕落する、ヤク中になって堕落する、出世するもよし、堕落するもよし、まぁ、なんでもいいけど、「なんでもアリ」な世界なんだよ、本来、「世の中」は。
この「なんでもアリ感」が、本来の「常識」なんじゃん?
だから、あんまり「正しいか・正しくないか」とか、「常識的か・非常識的か」とか、考えない方がいいよ。
実際、世の中、そういう風にまわってないわけだから。
というわけでね、「相談」に答えてきたわけですけど、実はその中学生から、もう一つ、「相談」を受けてたんだよね。
それは、
『赤ちゃんはどうやってできるの?』
というものでした。
ずばり、お答えしましょう。
以下の動画が、その答えです。
いかがだったでしょうか?
ここで、また一つ、謝らせて下さい。
「とある中学生から相談を受けた」なんて、実は真っ赤な嘘なんです。
そんな事実、ありません。
全部、僕の創作です。
でも、いいんじゃないですか?
「なんでもアリ」な世の中なんだから。
・・・などと、おあとがよろしいようで。。
最近、AmazonKindleから出版した『小説・神聖かまってちゃん』が、契約違反(たぶん著作権違反&プライバシーの侵害)で、完全に消去され、永久にアカウントBANになり、「ちくしょう、せめて過払い金だけでも払え」と思っている、小説家(詐欺師)のともなりたかひろです。
『小説・神聖かまってちゃん』(移植・無料で読める版)→http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18229
・・・すいません、どうしても「過払い金」というワードを使いたかったんです。
あともう一つ、謝らせてください。
タイトルと内容、あんま関係ないかもしれません。
でも、フリースタイルで書いていくうちに、関係していくかもしれません。
実は最近、Twitterを通じ、ある中学生から「相談」を受けまして、今日はそれに対する答えを提示しよう、と思うとるわけでございます。
というわけで、本日は「子供相談をプロデュース!」(内P好きやな〜)
面倒くさいので、手っ取り早く言いますよ?
その「相談」は、「いじめられてるんですけど、どうしたらいいですか」的なものでした。
あの、最近また、中学生のいじめによる自殺のニュースが報道されたじゃないですか?
あれについてね、コメンテーターとか、マス・メディアとかは、大抵、「学校が悪い」とか、「教育委員が悪い」みたいな方向の批判に走るじゃないですか。
僕、違うと思うんですよね。
問題はさ、つまりこういうことだと思いますよ。
『学校が社会のすべてだと思ってしまったところに、当時の僕の不幸があった』(ブラスト「公論」より引用)
じゃないすか?
うん、これですよ。
学校なんて、別に「社会」の全てじゃないじゃないですか。
でも、自殺しちゃった子にとっては、「自分の世界」の全てだったんだよね。。
そこが、やっぱり、口惜しいよね。
大人になればさ、複数の「自分の居場所=社会」を、作れるわけじゃん?
例えば、会社で苛められてても、趣味のフットサルチームにいるときは幸福だったり、夜は気のいい仲間とクラブで酒飲んで踊りまくったり、まぁ、とにかく別の「社会」に「逃避」できるわけですよ。
あるいは、松山ケンイチじゃないけど、「別に皆に嫌われててもいい。だって、僕には僕を愛してくれる家族がいるから」みたいな考え方も持てるし。
でも、子供にはそういう「逃げ場」がないから、かわいそうだよね。
もう、中学生にとってはさ、「中学校」しかないんだよ、「自分の世界=社会」が。
だから、自分の心の傷を隠してでも、息を殺してでも、毎日、学校へ通うしかないわけ。
で、そこで、イジメられて、「おまえはバカだ」とか、「おまえはクズだ」、みたいな人格否定を受けて、しかも、そこが「自分の世界」の全てだと思っているから、その人格否定の烙印を真に受けちゃうわけよ。
でもさ、考えてみると、中学時代にイケイケドンドンだった奴が必ずしも大人になって出世するとも限らないし、いや、むしろ、地味な子の方が出世してたり、「シャイ」だったヤツも社会にもまれれば必然的にその性格が解消されるだろうし、――とにかくまぁ、中学生のときの「性格」なんて、全然その後のアテにならないじゃん。
人間、いくらでも変れるんだからさ。
だから、中学生のときに受けた「自分の評価」なんて、気にすることないと思うよ。
・・・つっても、その時は、気にしちゃうに決まっているんだけどね、絶対。
まぁとにかくですよ、中学生たちに言いたいことは、――逃げちゃっていいと思うよ、嫌だったら、ってこと。
「学校」以外に、いくらでも「自分の居場所」なんてあるんだから。
常識・非常識/善人・悪人なんて関係ないよ、世の中。
色んな人がいて、色んなコミュニティーがあって、色んな稼ぎ方があって、色んな生活があって、・・・そういう「メチャクチャ」なもんなんだよ、「世界」って。
なんか、作家の中島らもさんも言ってたけど、中学→高校→大学→就職みたいな「主流」から外れたら、すぐ絶望して「死のう・・・」みたいな固定観念はさ、ほんとは一部の人しか持ってないものなんだよ、って気付かせてあげなよ、周りの大人がさ。
企業する、ヤクザになる、ヒモになる、ニートになる、Youtuberになる、不正な生活保護で暮らす、性風俗にハマる、暴力にハマる、殺人者になる、アル中になって堕落する、ヤク中になって堕落する、出世するもよし、堕落するもよし、まぁ、なんでもいいけど、「なんでもアリ」な世界なんだよ、本来、「世の中」は。
この「なんでもアリ感」が、本来の「常識」なんじゃん?
だから、あんまり「正しいか・正しくないか」とか、「常識的か・非常識的か」とか、考えない方がいいよ。
実際、世の中、そういう風にまわってないわけだから。
というわけでね、「相談」に答えてきたわけですけど、実はその中学生から、もう一つ、「相談」を受けてたんだよね。
それは、
『赤ちゃんはどうやってできるの?』
というものでした。
ずばり、お答えしましょう。
以下の動画が、その答えです。
いかがだったでしょうか?
ここで、また一つ、謝らせて下さい。
「とある中学生から相談を受けた」なんて、実は真っ赤な嘘なんです。
そんな事実、ありません。
全部、僕の創作です。
でも、いいんじゃないですか?
「なんでもアリ」な世の中なんだから。
・・・などと、おあとがよろしいようで。。
2015年06月30日
新しい自殺の方法
どうも、お久しぶりです。
やっぱり文章上のアフィリエイトは無理かな、と思い、地味にYoutubeに進出しつつある、小説家のともなりたかひろです。
いやぁ、今日は、れいの東海道新幹線の焼身自殺の事件一色でしたね。
僕もまた、「自殺」に関しても、人並みに意見を持っているので、少し語ってみたい、と思っています。
梅雨でかったるいので、結論を早く言いましょう。
僕は、「安楽死」あるいは「安楽死」施設を合法化し、「自殺」というものを正しく管理するべきである、と考えている。
そして、そのアイデアを僕は以前漫画『レベルE』(冨樫義博)を下敷きに一個の短編小説にしたことがある。
『レベルE―remix― 』http://ch.nicovideo.jp/jigafromjiga/blomaga/ar218214
考えてもみて欲しい。
他人に迷惑をかける不合理な自殺。
一方、
他人に迷惑をかけることなく、管理された環境下での合理的な自殺。
どちらが賢いだろうか?
日本では、一年に3万人もの自殺者が出ている。
その人たちが「他人に迷惑をかける自殺」をする前に、安楽死施設へ行かせれば、自分が一番好きな音楽や人などに囲まれ、一番安らかに死ぬことが出来るのだ。
勿論、他人に迷惑をかけることなく。
さらに、重要なことは、そのような安楽死施設を設立すれば、日本の経済は回復するであろう、ということだ。
少なくとも、本来不要な生活保障費を大幅に削減できることは確かである。
こんなにも合理的であるシステムを政府はなぜ「合法化」しないのか?
勿論、その理由はわかっていますよ、僕にだって。
「生命倫理」の問題ですよね?
従来の「生命倫理」から言えば、「そんな人の命を《商品》にしてはならない!」「人の命の重さをもっと考えろ!」という答えが返ってくるのであろうが、むしろ僕は「生命倫理」について深刻に考えていないのはあなた方の方なのではないですか、と言いたい。
僕から言わせれば、しっかり「自殺」を管理した方が、はるかに命を大事にしていると思うのだが、どうなのでしょうかね?
まぁ、ともかく、日本という国で安楽死が合法化することは、21世紀における一つの「革命」であることは、間違いない。
いずれ、そんなシステムが出来る日がくるのか、こないのか。
それはわからないけれども、とにかく、焼身自殺の「火」は、「水」で消さなければならないね(急に宣伝モードかい)。
僕の最新の小説(無料)『ひとつになるとき』内の降り止まない雨水で。
『ひとつになるとき』(縦書き文庫)http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これから焼身自殺をしよう、と思っている諸君、それを実行に移す前に、上記の『ひとつになるとき』をちらと読み、心の「炎」を消して頂きたい。
そして、この記事の下部に設置してある旅行サービスを利用し、一度、旅行でもして、頭を空っぽにするがいい(もう、宣伝も投げやり)。
それでも、生きていたら、また他日。
・・・ていうか、この記事のカテゴリ【芸能】か??
やっぱり文章上のアフィリエイトは無理かな、と思い、地味にYoutubeに進出しつつある、小説家のともなりたかひろです。
いやぁ、今日は、れいの東海道新幹線の焼身自殺の事件一色でしたね。
僕もまた、「自殺」に関しても、人並みに意見を持っているので、少し語ってみたい、と思っています。
梅雨でかったるいので、結論を早く言いましょう。
僕は、「安楽死」あるいは「安楽死」施設を合法化し、「自殺」というものを正しく管理するべきである、と考えている。
そして、そのアイデアを僕は以前漫画『レベルE』(冨樫義博)を下敷きに一個の短編小説にしたことがある。
『レベルE―remix― 』http://ch.nicovideo.jp/jigafromjiga/blomaga/ar218214
考えてもみて欲しい。
他人に迷惑をかける不合理な自殺。
一方、
他人に迷惑をかけることなく、管理された環境下での合理的な自殺。
どちらが賢いだろうか?
日本では、一年に3万人もの自殺者が出ている。
その人たちが「他人に迷惑をかける自殺」をする前に、安楽死施設へ行かせれば、自分が一番好きな音楽や人などに囲まれ、一番安らかに死ぬことが出来るのだ。
勿論、他人に迷惑をかけることなく。
さらに、重要なことは、そのような安楽死施設を設立すれば、日本の経済は回復するであろう、ということだ。
少なくとも、本来不要な生活保障費を大幅に削減できることは確かである。
こんなにも合理的であるシステムを政府はなぜ「合法化」しないのか?
勿論、その理由はわかっていますよ、僕にだって。
「生命倫理」の問題ですよね?
従来の「生命倫理」から言えば、「そんな人の命を《商品》にしてはならない!」「人の命の重さをもっと考えろ!」という答えが返ってくるのであろうが、むしろ僕は「生命倫理」について深刻に考えていないのはあなた方の方なのではないですか、と言いたい。
僕から言わせれば、しっかり「自殺」を管理した方が、はるかに命を大事にしていると思うのだが、どうなのでしょうかね?
まぁ、ともかく、日本という国で安楽死が合法化することは、21世紀における一つの「革命」であることは、間違いない。
いずれ、そんなシステムが出来る日がくるのか、こないのか。
それはわからないけれども、とにかく、焼身自殺の「火」は、「水」で消さなければならないね(急に宣伝モードかい)。
僕の最新の小説(無料)『ひとつになるとき』内の降り止まない雨水で。
『ひとつになるとき』(縦書き文庫)http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これから焼身自殺をしよう、と思っている諸君、それを実行に移す前に、上記の『ひとつになるとき』をちらと読み、心の「炎」を消して頂きたい。
そして、この記事の下部に設置してある旅行サービスを利用し、一度、旅行でもして、頭を空っぽにするがいい(もう、宣伝も投げやり)。
それでも、生きていたら、また他日。
・・・ていうか、この記事のカテゴリ【芸能】か??
2015年06月11日
堂本剛の現在――最新の『ぼくの靴音』――
どうも、こんばんわ。
小学生の頃、一番好きだったドラマ『金田一少年の事件簿』の堂本くんのもみあげに憧れて、一時期もみあげを伸ばす=ファッショナブルと思っていた、小説家のともなりたかひろです。
ええ、本日は、堂本剛ファンの方々のご機嫌を伺いに参りました。
というわけで、今回は、
アイドル堂本剛という男をプロデュース!
…というね。(?)
今となっては、堂本剛というアイドルは、個性的なファッションをし、音楽もやり、俳優もやり、お笑いもやる、「個性的なアイドル」と見られているようですが、当時の僕としては、堂本剛というアイドルは、「アイドル界で初めて心の闇をさらけ出した唯一のアイドル」として興味を持っていました。
それまでの男性アイドル史の中で、「心の闇をさらけ出した男性アイドル」は、剛くん以外にいなかったのです。
それが、僕にとってはとても新鮮で、革命的なことに思えました。
笑顔を与えなければならない職業であるはずのアイドルなのに、自己主張が下手で、内省的で、「世界」を哲学的に見ていて、とても思慮深く考える、苦悩する人。
そんな堂本くんの「真の姿」が、克明に現れているのが、やはり著書『ぼくの靴音』でしょう。
ぼくの靴音
この本は、1999年から2005年まで雑誌『MYOJO』に掲載されたエッセイをまとめたもので、――要は、主にバリバリにドラマに主演していた時期(=剛くんが最も苦悩していた時期)の彼の思いが吐露されています。
エッセイ、といっても、日常に起きたことをダラダラ書き連ねているのではなく、日常に起きたことを通して、彼の「哲学」(主に“愛”や“強さ”についての考え)を展開したり、彼の悩みをさらけ出したりしているので、いわば「エッセイ」というより、「当時の堂本剛の精神的自叙伝」といった方が的を得ている内容となっております。
この『ぼくの靴音』の中で、主に語られていること、つまり、当時の堂本剛としての主な「問題」は、たぶん2つに絞られると思います。
@「愛」について
A「自分自身」について=「強さ」について
誤解して欲しくないのは、@の「愛」についてとAの「自分自身」について=「強さ」についての問題は、別個にあるのではなく、当時の堂本くんにとっては、分かち難く結びついている問題だった、という点です。
簡単に言うと、彼の中で「愛」と「自分の強さ」は結びついている。
『ぼくの靴音』の中で、こんな一節があります。
ちょっと長いですが、彼の中でいかに「愛」と 「自分の強さ」の問題のウエイトが大きいのか、端的に分かる箇所なので、全部引用してみたいと思います。
『独りでいるのは楽だよね。傷つかないし、傷つけないからね。それで、独りの世界にこもってしまったこともあった。外に出て、誰かに優しい言葉を掛けられたりしたら、思い切り甘えてしまいそうだったから。そんな自分は嫌いだったから。もっと強い人間になりたかったから。大切な人にね、本心で「愛してる」が言いたいし、将来結婚する相手には「貴方が生きて笑ってられる為になら、この命を捧げます」って言える愛の強さを持つ僕を目指したい』
どうです?
堂本くんの「恋愛感」=「人生観」がよくわかる一節でしょう。
要するに、堂本剛という男は、自分が繊細で、臆病だからこそ、物凄く「強い自分」になりたい人なんですね。
それは、他の文章にも現れています。
『僕の今の敵は、自分自身だと思う。自分に勝たなければ何も始まらない。』
『困難に突き当たったときの痛み、言い換えれば、泣きたくなるくらいの孤独や、途方もない“攻撃”には負けたくない』
そこに、「愛」についての問題が絡んでくるわけですね。
――おそらく当時の彼は、若くして芸能界に入り、様々な陰湿な人間の「裏の顔」を見ることによって、多くの「心の傷」を受けたことでしょう。
そして彼は、人間不信になり、「愛」に臆病になっていった。
そりゃそうでしょう。
なんせ当時は「天下の堂本剛」だったわけですから。
もし付き合いたいと言い出した女性がいたとして、いざ付き合ってみたら、その女性がフライデーかなんかに暴露するような類の女だとしたら、心から「純粋」な堂本くんは、その「裏切り」を受け、さらなる人間不信に陥っていたかもしれないんですよ!
けれど、――冷静になって分析してみると、やはり、当時の堂本剛くんにとって、一番重要な問題は、やはり「自分の強さ」で、「愛について」は、二の次だった感は否めません。
だって、結局、自分の臆病さを乗り越えて、相手を愛することができる自分になりたいわけですから。
結局、自己愛なわけですよ。
でもまぁ、そんな細かい指摘は、無粋というか、・・・無視していいじゃないですか。
なにせ、彼の言葉は「純粋」なのですから。
そう。
堂本剛くんの良いところは、物凄く「純粋」である、ということなんですよね。
例えば、堂本剛くんの語る「哲学」や「思想」は、難解なものではありません。
むしろ、ありふれている、当たり前じゃん、とすら言ってもいいかもしれません。
けれど、なぜ無視できないか、と言えば、それはひとえに、――彼が本当に「純粋」だから、の一言に尽きると思います。
彼自身、自分が「純粋」=「無垢」だということを、作中で次のように語っています。
『僕は、人間という生き物でありながら、それをまったく理解し切れてないうちに社会の扉を開いてしまった。人間の強さ、脆さ、気高さ、愚かさ…について深く知る前に世の中を歩き始めてしまった。』
彼の語る「哲学」や「思想」は、決して「書斎の中で発見した哲学」ではなく、「実体験(自分の肉体)から得た哲学」なので、とっても「純粋」だし、・・・なんというんでしょう、なんかこう、――とっても「ピュア」なんですよね(同じやん)。
だから、「はじめてのおつかい」って、ありますでしょう?
それじゃないけれど、堂本剛くんの場合は「はじめての人生問題」みたいな感じで、その諸問題をとってもとってもピュアに考えているもんだから、――なんかこう、とっても「かわいい」んですよね。
なんか、母性本能をくすぐられる、といいますか。
たぶん、現在でも堂本剛くんに女性ファンの方々が多くいらっしゃるのは、勿論、彼が個性的だとか、ユニークだとか、そういう理由もありましょうが、やっぱり根っこの部分では、彼の「純粋さ」に対して母性本能を感じ取っているから、のような気がします。
僕も、この『ぼくの靴音』を読んで、何度も何度も、「こんな純粋な人がこの世にいるのか?」と思わされました。
まるで、生前のマイケル・ジャクソンのように。
ところで、ここからは余談になります。
なぜこのエッセイ集のタイトルは『ぼくの靴音』なのでしょうね?
結論を先に申し上げますと、おそらく、堂本剛という一人のアイドル・人間が、苦悩して、落ち込んで、でも、勇気を出して強くなろうともがいている、その一歩一歩の積み重ねの総称。
だから、タイトルが『ぼくの靴音』なんでしょうね、たぶん。
『靴音』というキーワードには、たぶん、広い解釈が可能だと思われます。
例えば、この『ぼくの靴音』の中には、彼の故郷である奈良の話が出てきますが、その奈良での少年時代の懐かしい『靴音』。
あるいは、草薙剛と飯島直子さんと出会って、会話し、別れたあとの、力強く生きていこう、と決心して踏み出したときの希望に満ちた『靴音』。
悲しい『靴音』もあれば、希望に満ちた『靴音』もある、というね。
果たして、現在の堂本剛くんの『靴音』は、どんな音を鳴らしているんでしょうかね?
というわけで、以下に堂本剛くんの最新の『靴音』を紹介します。
【先着購入特典付】 TU ふつうよし(通常盤)(クリアファイル付)
ファンの方々なら、もうとっくにご承知でしょうが、新しいアルバムを出されていたんですね。
最新の『靴音』、僕もチェックしてみたいと思います。
さらに余談ですが、堂本剛さんは、かの松本人志さんのお笑いに影響を受けていますよね?
なので、ファンの方は、こちらもご覧になってはいかがでしょうか。
HITOSI MATSUMOTO VISUALBUM “完成” [DVD]
――と、まぁ、いつもは記事の最後に、この記事の末尾に表示される2つのアフィリエイトを紹介するのですが、・・・今回はやめておきます。
いくらなんでも、そこまで僕も汚れていません。
まぁ、普通にここまでの記事を読んで、満足してくれた方は、堂本くんが現在やっているツアーを見にいきたいでしょうから、以下の2つの格安旅行会社をご利用して頂くのも手だとも思います。
それでは。
『さぁ、進もう』(By 堂本剛)
小学生の頃、一番好きだったドラマ『金田一少年の事件簿』の堂本くんのもみあげに憧れて、一時期もみあげを伸ばす=ファッショナブルと思っていた、小説家のともなりたかひろです。
ええ、本日は、堂本剛ファンの方々のご機嫌を伺いに参りました。
というわけで、今回は、
アイドル堂本剛という男をプロデュース!
…というね。(?)
今となっては、堂本剛というアイドルは、個性的なファッションをし、音楽もやり、俳優もやり、お笑いもやる、「個性的なアイドル」と見られているようですが、当時の僕としては、堂本剛というアイドルは、「アイドル界で初めて心の闇をさらけ出した唯一のアイドル」として興味を持っていました。
それまでの男性アイドル史の中で、「心の闇をさらけ出した男性アイドル」は、剛くん以外にいなかったのです。
それが、僕にとってはとても新鮮で、革命的なことに思えました。
笑顔を与えなければならない職業であるはずのアイドルなのに、自己主張が下手で、内省的で、「世界」を哲学的に見ていて、とても思慮深く考える、苦悩する人。
そんな堂本くんの「真の姿」が、克明に現れているのが、やはり著書『ぼくの靴音』でしょう。
ぼくの靴音
この本は、1999年から2005年まで雑誌『MYOJO』に掲載されたエッセイをまとめたもので、――要は、主にバリバリにドラマに主演していた時期(=剛くんが最も苦悩していた時期)の彼の思いが吐露されています。
エッセイ、といっても、日常に起きたことをダラダラ書き連ねているのではなく、日常に起きたことを通して、彼の「哲学」(主に“愛”や“強さ”についての考え)を展開したり、彼の悩みをさらけ出したりしているので、いわば「エッセイ」というより、「当時の堂本剛の精神的自叙伝」といった方が的を得ている内容となっております。
この『ぼくの靴音』の中で、主に語られていること、つまり、当時の堂本剛としての主な「問題」は、たぶん2つに絞られると思います。
@「愛」について
A「自分自身」について=「強さ」について
誤解して欲しくないのは、@の「愛」についてとAの「自分自身」について=「強さ」についての問題は、別個にあるのではなく、当時の堂本くんにとっては、分かち難く結びついている問題だった、という点です。
簡単に言うと、彼の中で「愛」と「自分の強さ」は結びついている。
『ぼくの靴音』の中で、こんな一節があります。
ちょっと長いですが、彼の中でいかに「愛」と 「自分の強さ」の問題のウエイトが大きいのか、端的に分かる箇所なので、全部引用してみたいと思います。
『独りでいるのは楽だよね。傷つかないし、傷つけないからね。それで、独りの世界にこもってしまったこともあった。外に出て、誰かに優しい言葉を掛けられたりしたら、思い切り甘えてしまいそうだったから。そんな自分は嫌いだったから。もっと強い人間になりたかったから。大切な人にね、本心で「愛してる」が言いたいし、将来結婚する相手には「貴方が生きて笑ってられる為になら、この命を捧げます」って言える愛の強さを持つ僕を目指したい』
どうです?
堂本くんの「恋愛感」=「人生観」がよくわかる一節でしょう。
要するに、堂本剛という男は、自分が繊細で、臆病だからこそ、物凄く「強い自分」になりたい人なんですね。
それは、他の文章にも現れています。
『僕の今の敵は、自分自身だと思う。自分に勝たなければ何も始まらない。』
『困難に突き当たったときの痛み、言い換えれば、泣きたくなるくらいの孤独や、途方もない“攻撃”には負けたくない』
そこに、「愛」についての問題が絡んでくるわけですね。
――おそらく当時の彼は、若くして芸能界に入り、様々な陰湿な人間の「裏の顔」を見ることによって、多くの「心の傷」を受けたことでしょう。
そして彼は、人間不信になり、「愛」に臆病になっていった。
そりゃそうでしょう。
なんせ当時は「天下の堂本剛」だったわけですから。
もし付き合いたいと言い出した女性がいたとして、いざ付き合ってみたら、その女性がフライデーかなんかに暴露するような類の女だとしたら、心から「純粋」な堂本くんは、その「裏切り」を受け、さらなる人間不信に陥っていたかもしれないんですよ!
けれど、――冷静になって分析してみると、やはり、当時の堂本剛くんにとって、一番重要な問題は、やはり「自分の強さ」で、「愛について」は、二の次だった感は否めません。
だって、結局、自分の臆病さを乗り越えて、相手を愛することができる自分になりたいわけですから。
結局、自己愛なわけですよ。
でもまぁ、そんな細かい指摘は、無粋というか、・・・無視していいじゃないですか。
なにせ、彼の言葉は「純粋」なのですから。
そう。
堂本剛くんの良いところは、物凄く「純粋」である、ということなんですよね。
例えば、堂本剛くんの語る「哲学」や「思想」は、難解なものではありません。
むしろ、ありふれている、当たり前じゃん、とすら言ってもいいかもしれません。
けれど、なぜ無視できないか、と言えば、それはひとえに、――彼が本当に「純粋」だから、の一言に尽きると思います。
彼自身、自分が「純粋」=「無垢」だということを、作中で次のように語っています。
『僕は、人間という生き物でありながら、それをまったく理解し切れてないうちに社会の扉を開いてしまった。人間の強さ、脆さ、気高さ、愚かさ…について深く知る前に世の中を歩き始めてしまった。』
彼の語る「哲学」や「思想」は、決して「書斎の中で発見した哲学」ではなく、「実体験(自分の肉体)から得た哲学」なので、とっても「純粋」だし、・・・なんというんでしょう、なんかこう、――とっても「ピュア」なんですよね(同じやん)。
だから、「はじめてのおつかい」って、ありますでしょう?
それじゃないけれど、堂本剛くんの場合は「はじめての人生問題」みたいな感じで、その諸問題をとってもとってもピュアに考えているもんだから、――なんかこう、とっても「かわいい」んですよね。
なんか、母性本能をくすぐられる、といいますか。
たぶん、現在でも堂本剛くんに女性ファンの方々が多くいらっしゃるのは、勿論、彼が個性的だとか、ユニークだとか、そういう理由もありましょうが、やっぱり根っこの部分では、彼の「純粋さ」に対して母性本能を感じ取っているから、のような気がします。
僕も、この『ぼくの靴音』を読んで、何度も何度も、「こんな純粋な人がこの世にいるのか?」と思わされました。
まるで、生前のマイケル・ジャクソンのように。
ところで、ここからは余談になります。
なぜこのエッセイ集のタイトルは『ぼくの靴音』なのでしょうね?
結論を先に申し上げますと、おそらく、堂本剛という一人のアイドル・人間が、苦悩して、落ち込んで、でも、勇気を出して強くなろうともがいている、その一歩一歩の積み重ねの総称。
だから、タイトルが『ぼくの靴音』なんでしょうね、たぶん。
『靴音』というキーワードには、たぶん、広い解釈が可能だと思われます。
例えば、この『ぼくの靴音』の中には、彼の故郷である奈良の話が出てきますが、その奈良での少年時代の懐かしい『靴音』。
あるいは、草薙剛と飯島直子さんと出会って、会話し、別れたあとの、力強く生きていこう、と決心して踏み出したときの希望に満ちた『靴音』。
悲しい『靴音』もあれば、希望に満ちた『靴音』もある、というね。
果たして、現在の堂本剛くんの『靴音』は、どんな音を鳴らしているんでしょうかね?
というわけで、以下に堂本剛くんの最新の『靴音』を紹介します。
【先着購入特典付】 TU ふつうよし(通常盤)(クリアファイル付)
ファンの方々なら、もうとっくにご承知でしょうが、新しいアルバムを出されていたんですね。
最新の『靴音』、僕もチェックしてみたいと思います。
さらに余談ですが、堂本剛さんは、かの松本人志さんのお笑いに影響を受けていますよね?
なので、ファンの方は、こちらもご覧になってはいかがでしょうか。
HITOSI MATSUMOTO VISUALBUM “完成” [DVD]
――と、まぁ、いつもは記事の最後に、この記事の末尾に表示される2つのアフィリエイトを紹介するのですが、・・・今回はやめておきます。
いくらなんでも、そこまで僕も汚れていません。
まぁ、普通にここまでの記事を読んで、満足してくれた方は、堂本くんが現在やっているツアーを見にいきたいでしょうから、以下の2つの格安旅行会社をご利用して頂くのも手だとも思います。
それでは。
『さぁ、進もう』(By 堂本剛)
2015年06月06日
2015年度のAKB総選挙の感想――もうAKB総選挙は年々「緊張感」がなくなり、「劣化イベント」と化した件
2015年6月6日、午後9時。
AKB総選挙、やっている真っ最中に、この記事を書いています。
今日は、AKB関係者の方々のご機嫌を伺いに参りました。
どうも。
「推しメン」は生駒理奈ちゃん(AKBじゃないじゃん)の、小説家のともなりたかひろです。
(注)この記事はタバコ一本で読めます(いや、この記事は○○分で読めます、だろ)。
では、さっそく核心、つきますよ。
あのさ、年々、AKB総選挙自体に、「緊張感」がなくなってませんか?
なくなってますよね?
その答案は簡単。
「スターが不在だから」
だから、普通に放映してても、ドキドキしない。
まるで、2000年に到るまでの一年一年には一種の「カウントダウン感」があってドキドキしたが、2000年以降の一年一年には何のドキドキ感もないかのように。
そこで、僕の提案。
もう普通にAKB総選挙をやっても、緊張感がなく、アップでメンバーたちの涙を見てもいまいち感動しないわけだから、別の場所で茶化す視点(メタ視点)=副音声的な「解説」を導入したらどうすかね?
その「解説」に適任なのが、僕的には乃木坂46のメンバー。
特に生駒ちゃんなんかは、一回総選挙を経験しているわけだから、「ああ、このときは、本当はこういう心境なんだよ」とか、いろいろとぼけた感じの口調でいい塩梅に「解説」してくれそうじゃないの。
そしたら、楽しいよね。
改めて、結論を言います。
もうAKB48には「スター」がいないわけだから、真面目に総選挙をやってもつまらない、だから、総選挙自体をメインにせず、俯瞰的な場所での「解説」(メタ視点)をメインにすることでなんとか総選挙というイベントは存続すると思います。
さて、ここからは、余談。
――あれですよね、こじはるは、引退しても人生安泰ですよね。
だって、・・・超美人じゃん!
AKB48中NO1のお姫様だよ。
だから、引退しても、美容・下着系のCMにヨッチャンイカ、じゃなかった、引っ張りダコだろうし(現在もそうだけど)、引退後、一番楽に成功できると思う。
それは、前田敦子と大島敦子さんが、引退後、一から女優として再出発し、いろいろ努力し、苦渋を舐めて、成功しようと頑張っているのと、好対照だと思う。
ほんと、こじはるって、・・・ツイてる人だよね。
というわけで、今日の商品は、こちら。
小嶋陽菜写真集 『どうする?』
これを見ると分かるけど、いやぁ、こじはる、ほんと「お姫様」ですな。
いや、「女王」と言ってもいいかもしれない。
・・・どうです、この写真集を見ると、夏休みに旅行に行きたくなりませんか?(出た! 毎度のお宣伝!)
特に、京都に行くなんてのは、どうでしょうかね。
夏休みに京都に行って、京都のアイドルこと、舞妓さんと出会い、口説いてみるのも、また、一興なんじゃないの?
――まぁ、オタクの人たちじゃ無理か。。(失礼)
というわけで、ご旅行する際は、この記事の末尾に配置してある、旅行会社のアフィリエイト2つをご利用下さい。
それでは。
最後に。
・・・僕のことは嫌いになっても、僕のことは嫌いにならないで下さい!!(同じやん)
AKB総選挙、やっている真っ最中に、この記事を書いています。
今日は、AKB関係者の方々のご機嫌を伺いに参りました。
どうも。
「推しメン」は生駒理奈ちゃん(AKBじゃないじゃん)の、小説家のともなりたかひろです。
(注)この記事はタバコ一本で読めます(いや、この記事は○○分で読めます、だろ)。
では、さっそく核心、つきますよ。
あのさ、年々、AKB総選挙自体に、「緊張感」がなくなってませんか?
なくなってますよね?
その答案は簡単。
「スターが不在だから」
だから、普通に放映してても、ドキドキしない。
まるで、2000年に到るまでの一年一年には一種の「カウントダウン感」があってドキドキしたが、2000年以降の一年一年には何のドキドキ感もないかのように。
そこで、僕の提案。
もう普通にAKB総選挙をやっても、緊張感がなく、アップでメンバーたちの涙を見てもいまいち感動しないわけだから、別の場所で茶化す視点(メタ視点)=副音声的な「解説」を導入したらどうすかね?
その「解説」に適任なのが、僕的には乃木坂46のメンバー。
特に生駒ちゃんなんかは、一回総選挙を経験しているわけだから、「ああ、このときは、本当はこういう心境なんだよ」とか、いろいろとぼけた感じの口調でいい塩梅に「解説」してくれそうじゃないの。
そしたら、楽しいよね。
改めて、結論を言います。
もうAKB48には「スター」がいないわけだから、真面目に総選挙をやってもつまらない、だから、総選挙自体をメインにせず、俯瞰的な場所での「解説」(メタ視点)をメインにすることでなんとか総選挙というイベントは存続すると思います。
さて、ここからは、余談。
――あれですよね、こじはるは、引退しても人生安泰ですよね。
だって、・・・超美人じゃん!
AKB48中NO1のお姫様だよ。
だから、引退しても、美容・下着系のCMにヨッチャンイカ、じゃなかった、引っ張りダコだろうし(現在もそうだけど)、引退後、一番楽に成功できると思う。
それは、前田敦子と大島敦子さんが、引退後、一から女優として再出発し、いろいろ努力し、苦渋を舐めて、成功しようと頑張っているのと、好対照だと思う。
ほんと、こじはるって、・・・ツイてる人だよね。
というわけで、今日の商品は、こちら。
小嶋陽菜写真集 『どうする?』
これを見ると分かるけど、いやぁ、こじはる、ほんと「お姫様」ですな。
いや、「女王」と言ってもいいかもしれない。
・・・どうです、この写真集を見ると、夏休みに旅行に行きたくなりませんか?(出た! 毎度のお宣伝!)
特に、京都に行くなんてのは、どうでしょうかね。
夏休みに京都に行って、京都のアイドルこと、舞妓さんと出会い、口説いてみるのも、また、一興なんじゃないの?
――まぁ、オタクの人たちじゃ無理か。。(失礼)
というわけで、ご旅行する際は、この記事の末尾に配置してある、旅行会社のアフィリエイト2つをご利用下さい。
それでは。
最後に。
・・・僕のことは嫌いになっても、僕のことは嫌いにならないで下さい!!(同じやん)
2015年06月03日
渦中のFIFAの賄賂事件の「真相」
タイトルほいほい、第二弾ということでね。
はい、FIFAのことなんか、語るつもりは毛頭ありません。
というより、僕のポテンシャル・エネルギー(後の伏線です)が足りないのです。
というわけで、こんばんわ。
Twitterのフォロワーから、僕が学校の教師だとしたら「理科」の先生だ、と言われた、小説家のともなりたかひろです。
ところで、今日(2015年6月3日)は満月ですね。
占星術的に言えば、太陽星座と月星座がオポジション(180°)の角度を取る日が、満月に当たります。
そんなスピリチュアルな日ですから、今日は宇宙について少し語りたいと思っています。
皆さんは、宇宙がどのようにして生まれたのか、ご存知でしょうか?
最新の宇宙論によると、宇宙は「無」から誕生した、と考えられています。
「無」というと、物質がなく、エネルギーもなく、時間・空間もないわけですから、文字通りに解釈すると、本当に「何もない世界」ということになってしまいます。
しかし、量子論では、その「無」を説明しようとします。
量子論は、原子よりももっと小さな素粒子の世界での物理法則を扱っています。
そして、量子論では、こんなことを言っています。
「素粒子の世界では、粒子というのは、存在したり、しなかったりしていて、存在するか否かは確率でしか説明できない。」
私たちが普段生活していて、ある人が突然消えたり、現れたりすることはまずありません。
が、量子論を突き詰めてミクロの世界にいくと、時間・空間・エネルギーですら、あったり、なかったり、たえずゆらいでいると考えられています。
この状態を「無のゆらぎ」と言います。
そして宇宙のはじまりは、この「無のゆらぎ」の中で現れたり・消えたりする、超ミクロな真空(最低エネルギー状態)だったわけです。
こうして、「無」から誕生した宇宙は、誕生直後に、「一瞬」にも満たないような時間で、ゼロが一気に43個つくような大きさまで「膨張」しました。
宇宙論では、この膨張を「インフレーション」と呼んでいます。
しかし、最低エネルギーだった宇宙に、そんな加速度的な膨張(成長)が果たして可能でしょうか。
明らかに膨張を可能にした「エネルギー」が必要になってきます。
これを説明するのが、真空のポテンシャル(潜在)・エネルギーの存在です。
ポテンシャル・エネルギーとは、たとえれば、地上の位置エネルギーのようなものです。
といっても、たとえになってないほど意味不明ですが、簡単に言いますと、位置エネルギーとは、重力の弱い山の上より、重力の強い地面の方が小さくなる、そして、岩はエネルギーの低い方へ山を転げ落ちていく、というような法則のことです。
しかし、真空のポテンシャル・エネルギーには、空間同士が斥け合うという法則も持ちます。
そんな岩が山を転げ落ちるように、宇宙は誕生するやいなや、エネルギーの低い状態へ移行していきました。
というよりも、宇宙はインフレーションを起して膨張する方が、ポテンシャル・エネルギーが低くなる、すなわち、空間同士が斥け合わなくなる、ゆえに、マクロ(広大)な宇宙へ進化するように運命付けられていた、といった方が正解でしょうか。
さて、このインフレーションの過程において何が起こったでしょうか?
真空のポテンシャル・エネルギーは、インフレーションによって最後にはゼロになりました。
これを真空の「相転移」といいます。
そして、その「相転移」によって失われたポテンシャル・エネルギーと引き換えに、それに相当する熱エネルギーが生まれました。
そして、皆さんもご存知の通り、宇宙は、次の段階、ビッグバンに進みます。
――などと、宇宙の歴史を語りだすとキリがなく、僕も面倒くさいので、最後に「宇宙の未来はどうなっていくのか?」について語り、この記事を終らせようと思います。
まず、宇宙の未来には、2通りの「未来」が考えられます。
一つは、「開いていく宇宙」の末路。
もう一つは、「閉じていく宇宙」の末路です。
僕は後者の方を信じているので、「閉じていく宇宙」の末路の方を語ることにします。
この説は、ある時点を境に宇宙が収縮していく、ということを意味します。
収縮を始めた宇宙は、狭くなる分、温度がどんどん高まり、そのせいでやがて銀河が激しく衝突し、星が爆発して溶け始め、ブラックホール(星が爆発することで、中性子の核が収縮、結果、強い重力により時空が曲がり、光さえも閉じ込めるような強い重力のこと)が巨大に成長することになり、そして最後には、宇宙全体が一点に収縮していくことになります。
つまり、宇宙の「未来」は、「過去」(はじまり)に戻る、ということになります。
面白くありませんか?
現在、「宇宙の果て」はわかっていません。
というのも、私たちが見て知ることのできる宇宙の範囲は、光が到達できる範囲までなのです。
しかも、宇宙は今も膨張を続けているというのが定説です。
すると、「宇宙の果て」は、光より遠く遠ざかっているので、見ることができないのです。
もし仮にようやく光が届いても、その時点で、「宇宙の果て」はさらに先に膨張していっているのです。
そんな宇宙の終わりが、「はじまり」(過去)に戻る、というのは、面白いじゃありませんか。
「宇宙の果て」を追いかけることは、時間を進めているようで、実は、時間を遡ることかもしれないのです。
ん〜、面白いですね。
というわけで、本日の商品紹介。
じゃん!
2001年宇宙の旅(初回生産限定スペシャル・パッケージ) [Blu-ray]
この映画、俺、今でも意味わかんないす。
でも、メモリアルな作品ですし、難解だからこそ、何回も観直すべき映画ですから、ここはぜひとも購入の方を・・・(以下略)
とまぁ、今日は宇宙について語ってきましたけど、僕はこの記事を書きながら、ラーメンズのコント『STUDY』を思い起こしてしまいました。
なんか、この記事、ラーメンズの『STUDY』のトーンですよね、全体的に。
なので、コント『STUDY』風に(というか引用しながら)、アフィリエイトの宣伝をしてみたいと思います。
・・・この世界にある長い長い時間の中で、今までいなかったあなたという存在が現れて、今いて、そしてまたいなくなっていく。
何もなかったかのように、完全に消えるんです。
私を含め、人間の存在とは、ただそれだけのことです。
・・・この広い広い宇宙の中で、あなたの存在など、もはや、ないんです。
1才の赤ん坊と、2才の赤ん坊とでは、倍違う。がしかし、79万1才と、79万2才との赤ん坊とでは、見分けが、つかないのですよ…。
この広い広い宇宙の中で、あなたの自宅と、あらゆる国との距離なんて、もはや、・・・ないんです。
だから、この記事の末尾に設置してある、夏休みの旅行を格安で提供するアフィリエイトをご利用なさい。
短い人生において、夏休みに旅行ぐらい、しておいた方がよいでしょう。
あなた、という存在が、この世界から消えてしまわぬ前に……。
はい、FIFAのことなんか、語るつもりは毛頭ありません。
というより、僕のポテンシャル・エネルギー(後の伏線です)が足りないのです。
というわけで、こんばんわ。
Twitterのフォロワーから、僕が学校の教師だとしたら「理科」の先生だ、と言われた、小説家のともなりたかひろです。
ところで、今日(2015年6月3日)は満月ですね。
占星術的に言えば、太陽星座と月星座がオポジション(180°)の角度を取る日が、満月に当たります。
そんなスピリチュアルな日ですから、今日は宇宙について少し語りたいと思っています。
皆さんは、宇宙がどのようにして生まれたのか、ご存知でしょうか?
最新の宇宙論によると、宇宙は「無」から誕生した、と考えられています。
「無」というと、物質がなく、エネルギーもなく、時間・空間もないわけですから、文字通りに解釈すると、本当に「何もない世界」ということになってしまいます。
しかし、量子論では、その「無」を説明しようとします。
量子論は、原子よりももっと小さな素粒子の世界での物理法則を扱っています。
そして、量子論では、こんなことを言っています。
「素粒子の世界では、粒子というのは、存在したり、しなかったりしていて、存在するか否かは確率でしか説明できない。」
私たちが普段生活していて、ある人が突然消えたり、現れたりすることはまずありません。
が、量子論を突き詰めてミクロの世界にいくと、時間・空間・エネルギーですら、あったり、なかったり、たえずゆらいでいると考えられています。
この状態を「無のゆらぎ」と言います。
そして宇宙のはじまりは、この「無のゆらぎ」の中で現れたり・消えたりする、超ミクロな真空(最低エネルギー状態)だったわけです。
こうして、「無」から誕生した宇宙は、誕生直後に、「一瞬」にも満たないような時間で、ゼロが一気に43個つくような大きさまで「膨張」しました。
宇宙論では、この膨張を「インフレーション」と呼んでいます。
しかし、最低エネルギーだった宇宙に、そんな加速度的な膨張(成長)が果たして可能でしょうか。
明らかに膨張を可能にした「エネルギー」が必要になってきます。
これを説明するのが、真空のポテンシャル(潜在)・エネルギーの存在です。
ポテンシャル・エネルギーとは、たとえれば、地上の位置エネルギーのようなものです。
といっても、たとえになってないほど意味不明ですが、簡単に言いますと、位置エネルギーとは、重力の弱い山の上より、重力の強い地面の方が小さくなる、そして、岩はエネルギーの低い方へ山を転げ落ちていく、というような法則のことです。
しかし、真空のポテンシャル・エネルギーには、空間同士が斥け合うという法則も持ちます。
そんな岩が山を転げ落ちるように、宇宙は誕生するやいなや、エネルギーの低い状態へ移行していきました。
というよりも、宇宙はインフレーションを起して膨張する方が、ポテンシャル・エネルギーが低くなる、すなわち、空間同士が斥け合わなくなる、ゆえに、マクロ(広大)な宇宙へ進化するように運命付けられていた、といった方が正解でしょうか。
さて、このインフレーションの過程において何が起こったでしょうか?
真空のポテンシャル・エネルギーは、インフレーションによって最後にはゼロになりました。
これを真空の「相転移」といいます。
そして、その「相転移」によって失われたポテンシャル・エネルギーと引き換えに、それに相当する熱エネルギーが生まれました。
そして、皆さんもご存知の通り、宇宙は、次の段階、ビッグバンに進みます。
――などと、宇宙の歴史を語りだすとキリがなく、僕も面倒くさいので、最後に「宇宙の未来はどうなっていくのか?」について語り、この記事を終らせようと思います。
まず、宇宙の未来には、2通りの「未来」が考えられます。
一つは、「開いていく宇宙」の末路。
もう一つは、「閉じていく宇宙」の末路です。
僕は後者の方を信じているので、「閉じていく宇宙」の末路の方を語ることにします。
この説は、ある時点を境に宇宙が収縮していく、ということを意味します。
収縮を始めた宇宙は、狭くなる分、温度がどんどん高まり、そのせいでやがて銀河が激しく衝突し、星が爆発して溶け始め、ブラックホール(星が爆発することで、中性子の核が収縮、結果、強い重力により時空が曲がり、光さえも閉じ込めるような強い重力のこと)が巨大に成長することになり、そして最後には、宇宙全体が一点に収縮していくことになります。
つまり、宇宙の「未来」は、「過去」(はじまり)に戻る、ということになります。
面白くありませんか?
現在、「宇宙の果て」はわかっていません。
というのも、私たちが見て知ることのできる宇宙の範囲は、光が到達できる範囲までなのです。
しかも、宇宙は今も膨張を続けているというのが定説です。
すると、「宇宙の果て」は、光より遠く遠ざかっているので、見ることができないのです。
もし仮にようやく光が届いても、その時点で、「宇宙の果て」はさらに先に膨張していっているのです。
そんな宇宙の終わりが、「はじまり」(過去)に戻る、というのは、面白いじゃありませんか。
「宇宙の果て」を追いかけることは、時間を進めているようで、実は、時間を遡ることかもしれないのです。
ん〜、面白いですね。
というわけで、本日の商品紹介。
じゃん!
2001年宇宙の旅(初回生産限定スペシャル・パッケージ) [Blu-ray]
この映画、俺、今でも意味わかんないす。
でも、メモリアルな作品ですし、難解だからこそ、何回も観直すべき映画ですから、ここはぜひとも購入の方を・・・(以下略)
とまぁ、今日は宇宙について語ってきましたけど、僕はこの記事を書きながら、ラーメンズのコント『STUDY』を思い起こしてしまいました。
なんか、この記事、ラーメンズの『STUDY』のトーンですよね、全体的に。
なので、コント『STUDY』風に(というか引用しながら)、アフィリエイトの宣伝をしてみたいと思います。
・・・この世界にある長い長い時間の中で、今までいなかったあなたという存在が現れて、今いて、そしてまたいなくなっていく。
何もなかったかのように、完全に消えるんです。
私を含め、人間の存在とは、ただそれだけのことです。
・・・この広い広い宇宙の中で、あなたの存在など、もはや、ないんです。
1才の赤ん坊と、2才の赤ん坊とでは、倍違う。がしかし、79万1才と、79万2才との赤ん坊とでは、見分けが、つかないのですよ…。
この広い広い宇宙の中で、あなたの自宅と、あらゆる国との距離なんて、もはや、・・・ないんです。
だから、この記事の末尾に設置してある、夏休みの旅行を格安で提供するアフィリエイトをご利用なさい。
短い人生において、夏休みに旅行ぐらい、しておいた方がよいでしょう。
あなた、という存在が、この世界から消えてしまわぬ前に……。
2015年06月01日
片岡愛之助と熊切あさ美の関係の真相
そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
――以上、太宰治の『姥捨』からの引用である。
そして、これから書く記事に、なんの関係もない一節である(じゃあ、何故引用した?)。
というわけで、こんばんわ、本日も皆さんのご機嫌を伺いにやって参りました。
そろそろ誕生日が近づいている、双子座のAB型、小説家ともなりたかひろです。
・・・もう、今日はね、気が乗らないから、手っ取り早く終らせます。
愛之助さんと熊切さんの別れ話ゴシップが加熱してますよね?
この話題について、ちゃっちゃっと片付けてしまいましょう。
あのですね、まず、熊切さんサイドの目論みから見てみましょう。
熊切さんはある時期から、「崖っぷちアイドル」として売り出しており、当初の彼女の目論見としては、「大物有名人と付き合ってそのネタでテレビ出演の機会を増やそう」と思っていたに違いない。
そのターゲットが、愛之助さんだった、ということでしょう。
さて、今度は、愛之助さんサイドの視点から見てみましょう。
たぶん、愛之助さんは、熊切さんの性的なアピールに負けて(人がいいから)、あくまで「遊び」として付き合っていたに違いない。
しかし、ですよ?
時は流れ、同じ歌舞伎界の知人たちが次々結婚していきましたよね?
海老蔵さんは、小林麻央さん(生真面目)と。
そして、中村獅童さんは、つい最近、一般人女性(生真面目)と。
そんな流れがあり、愛之助さんは、周囲の歌舞伎界の知人、つまり、海老蔵さんや獅童さんから、「そろそろ身を固めたらどうだい? 今、大事な時期(仕事が増えてる時期)だし」などと助言されたのかもしれない。
それを受けた愛之助さんも、「そうだなぁ。・・・結婚するなら、やっぱり生真面目な女性だよなぁ」と思い、藤原紀香に的を絞ったに違いない。
だって、梨園の妻にふさわしいのは、明らかに藤原紀香(生真面目)でしょう。
というか、熊切さんに梨園の妻が務まるわけがないでしょうに。
以上のような事情があって、藤原紀香と影で付き合いだし、熊切さんと別れることを決意した。
が、必要以上に、熊切さんがアレだったので、泥沼になった、といったところだろうと思う。
しかし、熊切さんの事務所は「変わらず、仲良くさせてもらっています」と破局を否定している。
つまり、事務所側は、「今回のような“騒動タレント”として熊切あさ美というタレントを売り出そう」と画策しているのだ。
そして、熊切さんの中にも、そういった「打算」があるのかもしれない。
ところで、歌舞伎界の人の恋愛遍歴には、一定の特徴があるようだ。
この業界では、よく「芸のために遊べ」と言うが、確かに大抵の歌舞伎役者はそうで、海老蔵も、獅童も、若い頃はよく女遊びをしたようだ。
だが、40近くにもなると、――というより、結婚(梨園の妻を選ぶ)となると、やっぱり「生真面目な女性」に落ち着く、というケースになるのである。
以上である。
今回は、別段、紹介したい商品もない。
しかし、一応、通過儀礼として、商品を紹介しなければならない。
窮余の策として、女性の怖さを描いた、傑作映画『ゴーン・ガール』を紹介しておく。まず、この場で紹介しても誰も買わないだろうし(レンタルできるし)、僕も別に買って欲しいとは思っていない。
しかし、映画史に残る傑作であることは間違いない。
メモリアルな作品として、おうちに一つ買っておいても、まぁ、損はしないでしょうね。
【Amazon.co.jp限定】ゴーン・ガール (初回生産限定) (B2ポスター付) [DVD]
最後に余談ですが、――梅雨が近づいていますね。
梅雨が明けたら、夏ですよ。
前回も書きましたが、最近、地震も多発しているし、火山も噴火するし、・・・僕たち、いつ死ぬかわからないですよね。
だから、死ぬ前に、夏休みに旅行に行くのもいいのではないでしょうか?
というわけで、この記事の末尾に貼ってあるアフィリエイト(2つ)をご利用頂き、お安く旅行へ行くのもいいのではないでしょうか?
・・・以上です。
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
――以上、太宰治の『姥捨』からの引用である。
そして、これから書く記事に、なんの関係もない一節である(じゃあ、何故引用した?)。
というわけで、こんばんわ、本日も皆さんのご機嫌を伺いにやって参りました。
そろそろ誕生日が近づいている、双子座のAB型、小説家ともなりたかひろです。
・・・もう、今日はね、気が乗らないから、手っ取り早く終らせます。
愛之助さんと熊切さんの別れ話ゴシップが加熱してますよね?
この話題について、ちゃっちゃっと片付けてしまいましょう。
あのですね、まず、熊切さんサイドの目論みから見てみましょう。
熊切さんはある時期から、「崖っぷちアイドル」として売り出しており、当初の彼女の目論見としては、「大物有名人と付き合ってそのネタでテレビ出演の機会を増やそう」と思っていたに違いない。
そのターゲットが、愛之助さんだった、ということでしょう。
さて、今度は、愛之助さんサイドの視点から見てみましょう。
たぶん、愛之助さんは、熊切さんの性的なアピールに負けて(人がいいから)、あくまで「遊び」として付き合っていたに違いない。
しかし、ですよ?
時は流れ、同じ歌舞伎界の知人たちが次々結婚していきましたよね?
海老蔵さんは、小林麻央さん(生真面目)と。
そして、中村獅童さんは、つい最近、一般人女性(生真面目)と。
そんな流れがあり、愛之助さんは、周囲の歌舞伎界の知人、つまり、海老蔵さんや獅童さんから、「そろそろ身を固めたらどうだい? 今、大事な時期(仕事が増えてる時期)だし」などと助言されたのかもしれない。
それを受けた愛之助さんも、「そうだなぁ。・・・結婚するなら、やっぱり生真面目な女性だよなぁ」と思い、藤原紀香に的を絞ったに違いない。
だって、梨園の妻にふさわしいのは、明らかに藤原紀香(生真面目)でしょう。
というか、熊切さんに梨園の妻が務まるわけがないでしょうに。
以上のような事情があって、藤原紀香と影で付き合いだし、熊切さんと別れることを決意した。
が、必要以上に、熊切さんがアレだったので、泥沼になった、といったところだろうと思う。
しかし、熊切さんの事務所は「変わらず、仲良くさせてもらっています」と破局を否定している。
つまり、事務所側は、「今回のような“騒動タレント”として熊切あさ美というタレントを売り出そう」と画策しているのだ。
そして、熊切さんの中にも、そういった「打算」があるのかもしれない。
ところで、歌舞伎界の人の恋愛遍歴には、一定の特徴があるようだ。
この業界では、よく「芸のために遊べ」と言うが、確かに大抵の歌舞伎役者はそうで、海老蔵も、獅童も、若い頃はよく女遊びをしたようだ。
だが、40近くにもなると、――というより、結婚(梨園の妻を選ぶ)となると、やっぱり「生真面目な女性」に落ち着く、というケースになるのである。
以上である。
今回は、別段、紹介したい商品もない。
しかし、一応、通過儀礼として、商品を紹介しなければならない。
窮余の策として、女性の怖さを描いた、傑作映画『ゴーン・ガール』を紹介しておく。まず、この場で紹介しても誰も買わないだろうし(レンタルできるし)、僕も別に買って欲しいとは思っていない。
しかし、映画史に残る傑作であることは間違いない。
メモリアルな作品として、おうちに一つ買っておいても、まぁ、損はしないでしょうね。
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最後に余談ですが、――梅雨が近づいていますね。
梅雨が明けたら、夏ですよ。
前回も書きましたが、最近、地震も多発しているし、火山も噴火するし、・・・僕たち、いつ死ぬかわからないですよね。
だから、死ぬ前に、夏休みに旅行に行くのもいいのではないでしょうか?
というわけで、この記事の末尾に貼ってあるアフィリエイト(2つ)をご利用頂き、お安く旅行へ行くのもいいのではないでしょうか?
・・・以上です。
2015年05月31日
東京直下型地震はいつくるのか?を予言
どうも、ともなりたかひろです。
今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。
昨日(2015年5月30日)は、少しビビりましたね。
東海・関東地方に震度5強の地震が起こり、僕の家も海老名市(関東)にあるので、結構激しい横揺れが続き、「ああ、これは近々、でかいのがくるな」とぼんやりオナニーの手を休めず思いました(オナニーしてたんかい!)。
というわけで、今回は、
「もし、東京都心で大地震が起こったら?」をプロデュース!
・・・じゃなかった、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」について語ってみたいと思うとるわけです。
まず、思うのはですね、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」という予測と対策は、もうさまざまな研究者の方々が語りつくしていると思うんですよ。
でも、僕は真の「問題」は、地震をどう防ぐかではなく、地震が起きたあとどうアフターケアをするのかの方が問題だと思うんですよ。
それが、あまり語られていないように思います。
だって、考えてみてくださいよ、奥さん(なぜに奥さん?)。
地震、起こりますよね?
そうしたら、電車は当然ダメ、道路も地割れ+車の渋滞でダメ、で、避難しようとした六本木ヒルズなども火災が発生しているかもしれないじゃないですか。
つまり、東京都心は「逃げる場所がない」土地なんですよ。
安部公房的にいえば、『燃えつきた地図』なわけです。
これが、東北だったら、また話が違ってきます。
東北の田舎(失礼な言い方ですみません)だったら、まだ「村」というミニマムな単位があったじゃないですか。
だから、一応は「避難場所」も確保できたし、仮説も用意できる土地もあったし、少なくとも、「地震後の対策」が出来る可能性はあったんです。
ですが、東京に避難場所があるでしょうか?
東京に、仮設が立てられるスペースがあるでしょうか?
おそらく、ない、ですよね。
それが問題だと思うんです。
でもね、――ここからが重要な話になるんですが、もし仮に、東京都心に直下型の大地震がきても、その大半の人々は、・・・東京から逃げられないと思うんです。
その理由を、映画監督の岩井俊二さんが以前語っておりました。
以下、それを僕なりに要約して、説明しましょう。
3.11の後、福島に残った人々が一定数いましたよね?
あんな放射線に脅かされる土地に。
そのとき外部の人々の大半は、「ああ、この人たちは郷土愛が強い人たちなんだなぁ」と思ったのです。
でも、それは違うのではないか、と岩井さんは語ります。
彼らが福島に固執しているのは、郷土愛からなどではなく、そこの社会というシステムに組み込まれているからなのです。
もう少し噛み砕いて言いますと、福島(社会)を捨てたら、彼ら自身の「仕事」がなくなるから、彼らは福島を離れられないのです。
明日から他の土地へ引っ越せ、と急に言われたって、「じゃあ、明日から仕事はどうなるの?」となりますし、他にも、もし、その人がある会社の社長なら、その人が他の土地に引っ越しただけで、社員全員、職を失うことに繋がるのです。
つまり、繰り返しになりますが、我々はその土地に愛着があるから逃げられないのではなく、不可避的にその土地の社会のネットワークに組み込まれているから、その土地から逃げられないのです。
岩井俊二さんは、こう結論づけています。
「3.11で学んだことは、――僕らが思っていた以上に(社会というネットワークから)逃げられないんだな、ってことだと思うんですよね。」
そして、この真理は、東京という土地に変換しても成り立つと思います。
もし、東京都心で大地震が起こっても、一部のセレブ(金持ち)の方はそりゃ逃げられるかもしれませんが、一般のサラリーマン家庭などは、――やっぱり、逃げられないのではないでしょうか。
だって、明日から仕事がなくなるわけですからね。
・・・などと、日曜日だというのに、前回の記事と同様、ずいぶんシリアスなトーンになってしまいましたね。
ところで、余談ですが、読者である貴方は、もし仮に大地震が起こったとき、どういう振る舞いをしますか?
「死にたくない!」とテンパりますか?
それとも、冷静に「死」を受け入れますか?
僕は個人的には、前者が振る舞いだけはしたくない主義です。
なぜなら、・・・人間として見苦しいからです。
緊急時でも怯まない人間でいたい。
ですから、このブログの冒頭で書いたように、昨日の地震が起きたときにも「オナニーしていた」のです。
はい、これで「伏線」が回収されましたね。まぁ、そこは一応、小説家ですから。
人間、極限状態に追い詰められたときにこそ、本当の本性がわかります。
それは、サルトルも『水いらず』(新潮文庫)の中の短編「壁」で明らかにしています。
僕は、最後の最後まで、怯まず、人を助けるのが、理想的な人間だと思います。
・・・というわけで、今回ご紹介する商品は、こちら(結局宣伝かよ)。
宮崎駿監督作『風立ちぬ』。
風立ちぬ [DVD]
もう大半の人がご存知でしょうが、この映画の主人公堀越二郎は、関東大震災のときでも、まったく怯まず、むしろ、人助けを優先するような、かっこいい男でした。
皆さんもこの映画を買って観て、勇気ある人間になって下さい。
――最後に、もうすぐ大地震がくるかもしれないわけですから、どうです? 夏休みぐらい、旅行に行っておきませんか?
もう、僕たちに残された時間は少ないかもしれないのですから。
というわけで、この文章の下に表示されてあるアフィリエイト(二つ)もご利用していただき、悔いのない人生を送りましょう。
以上です。
今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。
昨日(2015年5月30日)は、少しビビりましたね。
東海・関東地方に震度5強の地震が起こり、僕の家も海老名市(関東)にあるので、結構激しい横揺れが続き、「ああ、これは近々、でかいのがくるな」とぼんやりオナニーの手を休めず思いました(オナニーしてたんかい!)。
というわけで、今回は、
「もし、東京都心で大地震が起こったら?」をプロデュース!
・・・じゃなかった、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」について語ってみたいと思うとるわけです。
まず、思うのはですね、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」という予測と対策は、もうさまざまな研究者の方々が語りつくしていると思うんですよ。
でも、僕は真の「問題」は、地震をどう防ぐかではなく、地震が起きたあとどうアフターケアをするのかの方が問題だと思うんですよ。
それが、あまり語られていないように思います。
だって、考えてみてくださいよ、奥さん(なぜに奥さん?)。
地震、起こりますよね?
そうしたら、電車は当然ダメ、道路も地割れ+車の渋滞でダメ、で、避難しようとした六本木ヒルズなども火災が発生しているかもしれないじゃないですか。
つまり、東京都心は「逃げる場所がない」土地なんですよ。
安部公房的にいえば、『燃えつきた地図』なわけです。
これが、東北だったら、また話が違ってきます。
東北の田舎(失礼な言い方ですみません)だったら、まだ「村」というミニマムな単位があったじゃないですか。
だから、一応は「避難場所」も確保できたし、仮説も用意できる土地もあったし、少なくとも、「地震後の対策」が出来る可能性はあったんです。
ですが、東京に避難場所があるでしょうか?
東京に、仮設が立てられるスペースがあるでしょうか?
おそらく、ない、ですよね。
それが問題だと思うんです。
でもね、――ここからが重要な話になるんですが、もし仮に、東京都心に直下型の大地震がきても、その大半の人々は、・・・東京から逃げられないと思うんです。
その理由を、映画監督の岩井俊二さんが以前語っておりました。
以下、それを僕なりに要約して、説明しましょう。
3.11の後、福島に残った人々が一定数いましたよね?
あんな放射線に脅かされる土地に。
そのとき外部の人々の大半は、「ああ、この人たちは郷土愛が強い人たちなんだなぁ」と思ったのです。
でも、それは違うのではないか、と岩井さんは語ります。
彼らが福島に固執しているのは、郷土愛からなどではなく、そこの社会というシステムに組み込まれているからなのです。
もう少し噛み砕いて言いますと、福島(社会)を捨てたら、彼ら自身の「仕事」がなくなるから、彼らは福島を離れられないのです。
明日から他の土地へ引っ越せ、と急に言われたって、「じゃあ、明日から仕事はどうなるの?」となりますし、他にも、もし、その人がある会社の社長なら、その人が他の土地に引っ越しただけで、社員全員、職を失うことに繋がるのです。
つまり、繰り返しになりますが、我々はその土地に愛着があるから逃げられないのではなく、不可避的にその土地の社会のネットワークに組み込まれているから、その土地から逃げられないのです。
岩井俊二さんは、こう結論づけています。
「3.11で学んだことは、――僕らが思っていた以上に(社会というネットワークから)逃げられないんだな、ってことだと思うんですよね。」
そして、この真理は、東京という土地に変換しても成り立つと思います。
もし、東京都心で大地震が起こっても、一部のセレブ(金持ち)の方はそりゃ逃げられるかもしれませんが、一般のサラリーマン家庭などは、――やっぱり、逃げられないのではないでしょうか。
だって、明日から仕事がなくなるわけですからね。
・・・などと、日曜日だというのに、前回の記事と同様、ずいぶんシリアスなトーンになってしまいましたね。
ところで、余談ですが、読者である貴方は、もし仮に大地震が起こったとき、どういう振る舞いをしますか?
「死にたくない!」とテンパりますか?
それとも、冷静に「死」を受け入れますか?
僕は個人的には、前者が振る舞いだけはしたくない主義です。
なぜなら、・・・人間として見苦しいからです。
緊急時でも怯まない人間でいたい。
ですから、このブログの冒頭で書いたように、昨日の地震が起きたときにも「オナニーしていた」のです。
はい、これで「伏線」が回収されましたね。まぁ、そこは一応、小説家ですから。
人間、極限状態に追い詰められたときにこそ、本当の本性がわかります。
それは、サルトルも『水いらず』(新潮文庫)の中の短編「壁」で明らかにしています。
僕は、最後の最後まで、怯まず、人を助けるのが、理想的な人間だと思います。
・・・というわけで、今回ご紹介する商品は、こちら(結局宣伝かよ)。
宮崎駿監督作『風立ちぬ』。
風立ちぬ [DVD]
もう大半の人がご存知でしょうが、この映画の主人公堀越二郎は、関東大震災のときでも、まったく怯まず、むしろ、人助けを優先するような、かっこいい男でした。
皆さんもこの映画を買って観て、勇気ある人間になって下さい。
――最後に、もうすぐ大地震がくるかもしれないわけですから、どうです? 夏休みぐらい、旅行に行っておきませんか?
もう、僕たちに残された時間は少ないかもしれないのですから。
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以上です。
2015年05月29日
死後の世界はあるのか?――今井雅之氏と今いくよ氏の訃報によせて――
まず、今井雅之さんと、今いくよさんに、追悼の意を表します。
「人間の一生」という大事業、お疲れさまでした。
・・・というわけで、今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。
そうです、小説家のともなりたかひろです。
今日は、前回のように打算(自分の利益)に走ることなく、「死後の世界はあるのか?」という真面目な疑問について、真面目に考えてみたいと思います。
その前に、大前提として、「死」とはなんなのか? という問題をちょちょっと片付けてみたい、と思います。
みなさんは、「生があるから死がある」、あるいは、「死があるから生がある」、つまり、「生の結果」=「死」、と思っているのではないでしょうか。
しかし、「生」と「死」の問題を、そのひとの「内面」(精神)と「外面」(肉体)に区別して考えると、どうもそうではなさそうです。
少し、考えてみてください。
そのひとの「人生の価値」(内面)の結果は、「死体」という無関係な「外面」となってあらわれます。
つまり、「死」と「死体になる」ということは同一の事実ではない、ということが言えるわけです。
例えば、仮に「自殺したい」と思っている人がいるとしましょう。
けれども、それは「死にたかった」だけであって、「死体になりたかった」ということではなかったはずです。
これが「死」の本質です。
では、次に本題の「死後の世界はあるのか?」という問題について、面倒くさいですが、そして、読者の皆さんも面倒くさいでしょうけれど、少し語ってみたいと思います。
結論から言いましょう。
「死後の世界」はあるともないとも言えない。
それが人間の出せる回答の「限界」でしょう。
そして「死後の世界」について考えることは、「この世界」を超えてあるもの=「神」はいるのか、ということを考えることと同義です。
これについては、柄谷行人さんの著書『探求U』の中で、最も上手い回答を考案しております。
それを要約いたしますと、「この世界」を超えてあるもの(神)はなく、「この世界」が「在る」こと自体が「神」である、と言っています。
つまり、「神」は「この世界」そのもの(内在的)である、ということです。
これを、スピノザという哲学者の「決定論」と言います。
しかし、宗教では、「この世界」を超越するような、さまざまな「人格神」(ヤハウェなど)を想像してしまいがちです。
ですが、その想像も、「この世界」に生きている人間の妄想、という意味では、やはり、「この世界」の中に回収されることになり、「この世界」を超越している、とは言えないわけです。
こう考えると、「死後の世界」など、ありそうもありません。
しかし、宗教の世界では、「死後の世界」はあるよ、「神」(人格神)はいるよ、と言わなければいけません。
言うまでもなく、「商売」にならないからです。
ここで、このブログお約束の関連話カットインです。
韓国映画に『シークレットサンシャイン』というのがあります。
あの映画のテーマは「宗教」でしたが、ことに素晴らしいのは、「宗教が持つ矛盾」の核心をついた、という点です。
「宗教の持つ矛盾」――。
それはずばり、善人も悪人も平等に救ってしまう、という点です。
言い換えると、それが「宗教」の限界であるといえるわけです。
――などと、今日は、どうも湿っぽい話になってしまいました。
なので最後は、明るい・ノー天気な曲を紹介して終りたいと思います。
以下、ゴールデンボンバーの新曲です。
死 ん だ 妻 に 似 て い る [鬼龍院 翔 歌唱] [ボディースメルフレグランス(体臭付きカード)+CD]
この曲でもきいて、死の悲しみを吹き飛ばしましょう。
追記。
明るい・ノー天気といえば、もうすぐ「夏」がきますね。
もう、ぶっちゃけます。
この記事の最後に、「夏休み」に関するアフィリエイトを掲載しております。
読者の皆さんにも役立つ情報だと思いますし、――何より、僕の文章が読み続けたいのなら(お金がないので)、クリックして、契約してみてください。
それでは。
「人間の一生」という大事業、お疲れさまでした。
・・・というわけで、今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。
そうです、小説家のともなりたかひろです。
今日は、前回のように打算(自分の利益)に走ることなく、「死後の世界はあるのか?」という真面目な疑問について、真面目に考えてみたいと思います。
その前に、大前提として、「死」とはなんなのか? という問題をちょちょっと片付けてみたい、と思います。
みなさんは、「生があるから死がある」、あるいは、「死があるから生がある」、つまり、「生の結果」=「死」、と思っているのではないでしょうか。
しかし、「生」と「死」の問題を、そのひとの「内面」(精神)と「外面」(肉体)に区別して考えると、どうもそうではなさそうです。
少し、考えてみてください。
そのひとの「人生の価値」(内面)の結果は、「死体」という無関係な「外面」となってあらわれます。
つまり、「死」と「死体になる」ということは同一の事実ではない、ということが言えるわけです。
例えば、仮に「自殺したい」と思っている人がいるとしましょう。
けれども、それは「死にたかった」だけであって、「死体になりたかった」ということではなかったはずです。
これが「死」の本質です。
では、次に本題の「死後の世界はあるのか?」という問題について、面倒くさいですが、そして、読者の皆さんも面倒くさいでしょうけれど、少し語ってみたいと思います。
結論から言いましょう。
「死後の世界」はあるともないとも言えない。
それが人間の出せる回答の「限界」でしょう。
そして「死後の世界」について考えることは、「この世界」を超えてあるもの=「神」はいるのか、ということを考えることと同義です。
これについては、柄谷行人さんの著書『探求U』の中で、最も上手い回答を考案しております。
それを要約いたしますと、「この世界」を超えてあるもの(神)はなく、「この世界」が「在る」こと自体が「神」である、と言っています。
つまり、「神」は「この世界」そのもの(内在的)である、ということです。
これを、スピノザという哲学者の「決定論」と言います。
しかし、宗教では、「この世界」を超越するような、さまざまな「人格神」(ヤハウェなど)を想像してしまいがちです。
ですが、その想像も、「この世界」に生きている人間の妄想、という意味では、やはり、「この世界」の中に回収されることになり、「この世界」を超越している、とは言えないわけです。
こう考えると、「死後の世界」など、ありそうもありません。
しかし、宗教の世界では、「死後の世界」はあるよ、「神」(人格神)はいるよ、と言わなければいけません。
言うまでもなく、「商売」にならないからです。
ここで、このブログお約束の関連話カットインです。
韓国映画に『シークレットサンシャイン』というのがあります。
あの映画のテーマは「宗教」でしたが、ことに素晴らしいのは、「宗教が持つ矛盾」の核心をついた、という点です。
「宗教の持つ矛盾」――。
それはずばり、善人も悪人も平等に救ってしまう、という点です。
言い換えると、それが「宗教」の限界であるといえるわけです。
――などと、今日は、どうも湿っぽい話になってしまいました。
なので最後は、明るい・ノー天気な曲を紹介して終りたいと思います。
以下、ゴールデンボンバーの新曲です。
死 ん だ 妻 に 似 て い る [鬼龍院 翔 歌唱] [ボディースメルフレグランス(体臭付きカード)+CD]
この曲でもきいて、死の悲しみを吹き飛ばしましょう。
追記。
明るい・ノー天気といえば、もうすぐ「夏」がきますね。
もう、ぶっちゃけます。
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それでは。
2015年05月27日
宇多丸、実写版『進撃の巨人』を批判(ネタバレあり)!
はい。
これが、タイトルほいほい、ってヤツですね。
実際は、宇多丸氏は関係ないし、まったく映画を批判するつもりはありません。
別に『進撃の巨人』も嫌いじゃないし、実写化もいいと思うし、SEKAI NO OWARIも別に嫌いじゃないです(というか、よく知らないです)。
というわけで、本日も皆さんのご機嫌を伺いに馳せ参じました。
小説家のともなりたかひろと申します。
以下、真面目に『進撃の巨人』を論じますので、最後までお読み下さい。
まず、原作(漫画)の話からしますと、僕は1巻しか持っていません。
理由は、どこの本屋(というか海老名市に本屋は2件しかない)にも売ってないんですよね! それに、最後の砦のブックオフにも置いてない始末。
じゃあ、Amazonで買えばいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、・・・うーん、そこまでして読みたい漫画でもないかな、と思ってしまって、すいません、結局、1巻以降は買わずじまいの僕なのでした。
でも、1巻を読んで、なるほど、と思う点が多々ありました。
つまりこれは、3.11に代表されるような「世界の不条理」をテーマにした「文学的な漫画」なんだな、ということです。
ようは「巨人」という存在は、「地震」だったり、「津波」だったり、人類がどうしようもできない「世界の不条理さ」の象徴なわけですよね?
この点から、『進撃の巨人』はある種の「寓話」だ、と言えるわけです。
だから、「巨人」という存在を、前述の通り、「地震」だったり、「津波」だったりと、色んなものに置き換えて考えてみるとより面白い、ということなのではないでしょうか。
僕がこの漫画を読んだのは去年ですから、読んですぐに「ああ、この漫画は3.11のことを描いているんだな」と思いました。
でも、連載開始は、2009年ですよね。
だから、作者の諌山創さんは、すごく先見の明があるな、と素直に感心しました。
まぁ、もちろん、諌山さん自身はそんなことは意識してなかったでしょうけど。
ゲームでいえば、『FF10』の「シン」、文学でいえば、うん、やっぱりカフカの『審判』や『城』でしょうね。
まぁ、安部公房も入れてもいいんですが、彼の著作の大半はカフカのパクリですから度外視してもいいかな、とも思います。
それでまぁ、今後の展開についてですが、――勿論、1巻しか読んでいない僕に展開予想もクソもないわけですが、今後、こうしていったらいいんじゃないかな、という勝手な提案を一つさせて頂きたいなと思います。
僕はですね、「巨人」を倒す、とか、「巨人」の正体を明かす、とか、あるいは、「巨人」が実はある登場人物と関連があった、みたいな展開にはしてほしくないなぁ、と思うんです(もう既にそういう展開になっているかもしれませんが)。
「巨人」=「地震」=「津波」は、あくまで「世界の不条理」のまま、「謎」のまま、絶対に崩せない「壁」のまま、屹立していてほしいんです。
なぜなら、この漫画の「力点」は、おそらくですけど、「巨人」=「地震」=「津波」(世界の不条理)を前にしたら人類はどういう振る舞いをするのか、にあるからだと思うからです。
一応、1巻から推察するに、人類は「巨人」を倒そうと立ち上がる選択をしているみたいですけど、人類が他の振る舞いをする可能性もあると思うんです。
だって、考えてみてください。
あの3.11が起こって、当初、僕たちは自然(巨人)の猛威に対して、唖然としましたよね。
そして、一方では原発問題や東電批判があり、また、一方ではボランティア活動が盛んに行われました。
勿論、東京も危ないから関西に引っ越そう的な卑怯な振る舞いをした人もいましたが、日本人の大半が「これからはちゃんと人類の未来について真剣に考えよう」と真剣に考えていたはずです。
しかし、現在はどうでしょうか。
すっかり震災のことなど忘れ、「いつも通りの一週間」が戻ってきて、芸能ニュースに一喜一憂したり、スポーツ選手の大躍進に湧いたり、かの宇多丸氏が言うところの「ものの見事に過去から学ばねぇ」平和ボケ的な振る舞いが復活してきました。
『進撃の巨人』も、こういった「風化してしまった」時期の人類の振る舞いを描けば、より「深みのある漫画」になるのではないでしょうか。
つまり、「巨人」が去ってしまった「平和な時期」をあえて描くのです。
そうしたら、人類はどういう振る舞いをするでしょうか?
もしかしたら、より高い壁を作り、「よし、これで未来永劫安全」と思い込むんじゃないでしょうか。
でも、その中でも疑問を持つ人は出てくるでしょう。
「100年 壁が壊されなかったからといって 今日壊されない保障なんか どこにもないのに・・・」(1巻のアルミンなる人物の台詞より引用)。
――なんてね。
繰り返すようですが、勿論、こんな展開になるわけがないし、根本のテーマ自体も少し捻じ曲げてしまっているし(元々のテーマは抑圧にあえて挑み、自由=外の世界を見たいということでしょうし)、それにもし、こんな展開になったら、まず「少年漫画」として失格でしょう。
だがしかし、この漫画の「力点」は、「巨人」を倒す云々よりも、「巨人」(不条理)を前にしたときの人類の振る舞いにこそある、ということは確実ラインだとは思うんです。
などと、長々と話してきました。
最後に、関係ないですが、SEKAI NO OWARIというバンドの勢いは、凄いですね。
僕はボーカルのFukaseくんとは同年代なのですが、なんだか、別世界の人みたいに思えます。
それに比べて、――ね、神聖かまってちゃん。
『進撃の巨人』の作者諌山さんも、神聖かまってちゃんのファンだそうで、たびたびブログで取り上げているようですが、SEKAI NO OWARIと同世代なのに、なんだか、いまいち伸びきらないですね。
そんな彼らをフックアップするために、『小説・神聖かまってちゃん』を紹介して、この記事を終りたいと思います。
この小説を読めば、神聖かまってちゃんのイメージが随分変わると思います。
小説・神聖かまってちゃん
というわけで、完全に無関係の宣伝になりましたが、その理由は、・・・・・・言わなくてもわかるね?
これが、タイトルほいほい、ってヤツですね。
実際は、宇多丸氏は関係ないし、まったく映画を批判するつもりはありません。
別に『進撃の巨人』も嫌いじゃないし、実写化もいいと思うし、SEKAI NO OWARIも別に嫌いじゃないです(というか、よく知らないです)。
というわけで、本日も皆さんのご機嫌を伺いに馳せ参じました。
小説家のともなりたかひろと申します。
以下、真面目に『進撃の巨人』を論じますので、最後までお読み下さい。
まず、原作(漫画)の話からしますと、僕は1巻しか持っていません。
理由は、どこの本屋(というか海老名市に本屋は2件しかない)にも売ってないんですよね! それに、最後の砦のブックオフにも置いてない始末。
じゃあ、Amazonで買えばいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、・・・うーん、そこまでして読みたい漫画でもないかな、と思ってしまって、すいません、結局、1巻以降は買わずじまいの僕なのでした。
でも、1巻を読んで、なるほど、と思う点が多々ありました。
つまりこれは、3.11に代表されるような「世界の不条理」をテーマにした「文学的な漫画」なんだな、ということです。
ようは「巨人」という存在は、「地震」だったり、「津波」だったり、人類がどうしようもできない「世界の不条理さ」の象徴なわけですよね?
この点から、『進撃の巨人』はある種の「寓話」だ、と言えるわけです。
だから、「巨人」という存在を、前述の通り、「地震」だったり、「津波」だったりと、色んなものに置き換えて考えてみるとより面白い、ということなのではないでしょうか。
僕がこの漫画を読んだのは去年ですから、読んですぐに「ああ、この漫画は3.11のことを描いているんだな」と思いました。
でも、連載開始は、2009年ですよね。
だから、作者の諌山創さんは、すごく先見の明があるな、と素直に感心しました。
まぁ、もちろん、諌山さん自身はそんなことは意識してなかったでしょうけど。
ゲームでいえば、『FF10』の「シン」、文学でいえば、うん、やっぱりカフカの『審判』や『城』でしょうね。
まぁ、安部公房も入れてもいいんですが、彼の著作の大半はカフカのパクリですから度外視してもいいかな、とも思います。
それでまぁ、今後の展開についてですが、――勿論、1巻しか読んでいない僕に展開予想もクソもないわけですが、今後、こうしていったらいいんじゃないかな、という勝手な提案を一つさせて頂きたいなと思います。
僕はですね、「巨人」を倒す、とか、「巨人」の正体を明かす、とか、あるいは、「巨人」が実はある登場人物と関連があった、みたいな展開にはしてほしくないなぁ、と思うんです(もう既にそういう展開になっているかもしれませんが)。
「巨人」=「地震」=「津波」は、あくまで「世界の不条理」のまま、「謎」のまま、絶対に崩せない「壁」のまま、屹立していてほしいんです。
なぜなら、この漫画の「力点」は、おそらくですけど、「巨人」=「地震」=「津波」(世界の不条理)を前にしたら人類はどういう振る舞いをするのか、にあるからだと思うからです。
一応、1巻から推察するに、人類は「巨人」を倒そうと立ち上がる選択をしているみたいですけど、人類が他の振る舞いをする可能性もあると思うんです。
だって、考えてみてください。
あの3.11が起こって、当初、僕たちは自然(巨人)の猛威に対して、唖然としましたよね。
そして、一方では原発問題や東電批判があり、また、一方ではボランティア活動が盛んに行われました。
勿論、東京も危ないから関西に引っ越そう的な卑怯な振る舞いをした人もいましたが、日本人の大半が「これからはちゃんと人類の未来について真剣に考えよう」と真剣に考えていたはずです。
しかし、現在はどうでしょうか。
すっかり震災のことなど忘れ、「いつも通りの一週間」が戻ってきて、芸能ニュースに一喜一憂したり、スポーツ選手の大躍進に湧いたり、かの宇多丸氏が言うところの「ものの見事に過去から学ばねぇ」平和ボケ的な振る舞いが復活してきました。
『進撃の巨人』も、こういった「風化してしまった」時期の人類の振る舞いを描けば、より「深みのある漫画」になるのではないでしょうか。
つまり、「巨人」が去ってしまった「平和な時期」をあえて描くのです。
そうしたら、人類はどういう振る舞いをするでしょうか?
もしかしたら、より高い壁を作り、「よし、これで未来永劫安全」と思い込むんじゃないでしょうか。
でも、その中でも疑問を持つ人は出てくるでしょう。
「100年 壁が壊されなかったからといって 今日壊されない保障なんか どこにもないのに・・・」(1巻のアルミンなる人物の台詞より引用)。
――なんてね。
繰り返すようですが、勿論、こんな展開になるわけがないし、根本のテーマ自体も少し捻じ曲げてしまっているし(元々のテーマは抑圧にあえて挑み、自由=外の世界を見たいということでしょうし)、それにもし、こんな展開になったら、まず「少年漫画」として失格でしょう。
だがしかし、この漫画の「力点」は、「巨人」を倒す云々よりも、「巨人」(不条理)を前にしたときの人類の振る舞いにこそある、ということは確実ラインだとは思うんです。
などと、長々と話してきました。
最後に、関係ないですが、SEKAI NO OWARIというバンドの勢いは、凄いですね。
僕はボーカルのFukaseくんとは同年代なのですが、なんだか、別世界の人みたいに思えます。
それに比べて、――ね、神聖かまってちゃん。
『進撃の巨人』の作者諌山さんも、神聖かまってちゃんのファンだそうで、たびたびブログで取り上げているようですが、SEKAI NO OWARIと同世代なのに、なんだか、いまいち伸びきらないですね。
そんな彼らをフックアップするために、『小説・神聖かまってちゃん』を紹介して、この記事を終りたいと思います。
この小説を読めば、神聖かまってちゃんのイメージが随分変わると思います。
小説・神聖かまってちゃん
というわけで、完全に無関係の宣伝になりましたが、その理由は、・・・・・・言わなくてもわかるね?
2015年05月25日
がんと闘ったアイドル丸山夏鈴さんの死の真相
どうも。
今日も、皆さんのご機嫌を伺いにやってきました。
ところで、今、がんと闘ったアイドル丸山夏鈴さんの死が、巷で話題になっておりますよね。
僕は別段、彼女のファンでもないので、彼女のことなどほとんど何も知りません。
けれども、語れることがありそうなので、書いてみようと思います。
僕は、“がんなのに必死に最後までアイドル活動を続けようとした彼女に感動した”、という視点には、あまり興味が持てません。
むしろ、丸山夏鈴さんにとって、がんは諸刃の剣だった、という視点に興味があります。
わかりやすく言うと、丸山夏鈴さんにとって、がんという存在は、人生を潰すものでもあり、逆に、人生の「武器」にもなった、ということです。
その証拠として、彼女が芸能事務所のオーディションに送る用であろうプロモーションビデオの映像を見ると、撮影場所は、病院内であり、術着的な患者服を着ている彼女の姿が映っています。
結果、丸山夏鈴さんは、今の芸能事務所に入ることが出来た。
つまり、丸山夏鈴さん側の策略はともかく、芸能事務所側は、明らかに「ああ、これは“がんと闘っているアイドル”というパッケージで売れるな」と確信したからこそ、彼女を採用したのではないか、と推察されるわけです。
だって、・・・これは故人に対して鞭打つような言い方ではばかられるのですが、丸山夏鈴さん本人は、お世辞にも「かわいい」とは言えません。
いえ、はっきり言いましょう。
彼女は、ブスです。
ゆえに、もし、彼女に「がんと闘っているアイドル」というパッケージの付加価値がなければ、彼女はアイドルとして相手にされてなかったとも言えるのです。
もちろん、これは僕故人の憶測です。
真実は、誰も知りえません。
しかし、丸山夏鈴さん側の策略としても「ガンなのに頑張ってアイドルを目指している」ことを多少は「売り」にしていただろうし、また、事務所側もそこが「売り」になるだろう、と思って契約したはずなのです、という推論は、当らずとも遠からずと言えると思うのであります。
だから、所属事務所の社長が集めていた募金を持ち逃げしたところで、どうせ聞いたこともない弱小事務所でしょうから、推して知るべし、でしょうし、何より、そんな弱小事務所でもいいと彼女が選んだわけですから、誰も恨むことは出来ません。
ところで、この丸山夏鈴さんと似たようなケースが、以前にもありました。
それは元人気AV女優の麻美ゆまさんです。
彼女は、2012年の6月に境界悪性腫瘍を患い、その後、子宮と卵巣の全摘出をし、さらに直腸への転移も認められ、抗がん剤の治療を受けていることが、一時期、ニュースになりました。
そのとき、ファンのリアクションはどうだったでしょうか?
今まで、彼女を「性的対象」=「物」として見ていたファンたちは、「ああ、この人は人間なんだ」と気付き、彼女に対して「人間として」同情しはじめました。
お気づきの通り、始めの文章からすっかりテーマが変っていますが、僕はこの「男性の女性への差別意識」というテーマに対しても、かなりの興味を持っています。
ここで、中村うさぎさんの『私という病』(新潮文庫)という著書から、このテーマに関連する名言を紹介してみたいと思います。
『つい最近、私に向かって、「僕は女の人をリスペクトしています。女性という存在に対して、超越者のような荘厳なイメージを持っています」と熱く語った人がいて、私に水のような絶望感をもたらした。「差別ではない、リスペクトじゃないか」と反論する人もいるだろうが、私に言わせれば、これもまた、女を人間として見られない男たちがよく使う「欺瞞」なのだ。己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を「神格化」するワケよ。人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持って来ただけじゃん。女は、「人間」なのである。あなたの母も妻も娘も、すべての女は「神」でもなければ「獣」でもない、あなたと同じ生身の「人間」なのだ。』
どうでしょうか?
この文章を読んだあと、前述の、アイドル丸山夏鈴さんの人生や、元AV女優麻美ゆまさんのことを思い返すと、考えさせられるアイドルファンやAVファンは多くおられるのではないでしょうか。
さて、最後に、前述の元AV女優の麻美ゆまさんの自叙伝を紹介して、今日のブログを終わりたいと思います。
Re Start ~明日へ~ (初回限定盤B)
・・・ほんと、男っていう生き物は、哀れですね。
そして、一生、男と女は理解しあえない宿命なのでしょうね。
今日も、皆さんのご機嫌を伺いにやってきました。
ところで、今、がんと闘ったアイドル丸山夏鈴さんの死が、巷で話題になっておりますよね。
僕は別段、彼女のファンでもないので、彼女のことなどほとんど何も知りません。
けれども、語れることがありそうなので、書いてみようと思います。
僕は、“がんなのに必死に最後までアイドル活動を続けようとした彼女に感動した”、という視点には、あまり興味が持てません。
むしろ、丸山夏鈴さんにとって、がんは諸刃の剣だった、という視点に興味があります。
わかりやすく言うと、丸山夏鈴さんにとって、がんという存在は、人生を潰すものでもあり、逆に、人生の「武器」にもなった、ということです。
その証拠として、彼女が芸能事務所のオーディションに送る用であろうプロモーションビデオの映像を見ると、撮影場所は、病院内であり、術着的な患者服を着ている彼女の姿が映っています。
結果、丸山夏鈴さんは、今の芸能事務所に入ることが出来た。
つまり、丸山夏鈴さん側の策略はともかく、芸能事務所側は、明らかに「ああ、これは“がんと闘っているアイドル”というパッケージで売れるな」と確信したからこそ、彼女を採用したのではないか、と推察されるわけです。
だって、・・・これは故人に対して鞭打つような言い方ではばかられるのですが、丸山夏鈴さん本人は、お世辞にも「かわいい」とは言えません。
いえ、はっきり言いましょう。
彼女は、ブスです。
ゆえに、もし、彼女に「がんと闘っているアイドル」というパッケージの付加価値がなければ、彼女はアイドルとして相手にされてなかったとも言えるのです。
もちろん、これは僕故人の憶測です。
真実は、誰も知りえません。
しかし、丸山夏鈴さん側の策略としても「ガンなのに頑張ってアイドルを目指している」ことを多少は「売り」にしていただろうし、また、事務所側もそこが「売り」になるだろう、と思って契約したはずなのです、という推論は、当らずとも遠からずと言えると思うのであります。
だから、所属事務所の社長が集めていた募金を持ち逃げしたところで、どうせ聞いたこともない弱小事務所でしょうから、推して知るべし、でしょうし、何より、そんな弱小事務所でもいいと彼女が選んだわけですから、誰も恨むことは出来ません。
ところで、この丸山夏鈴さんと似たようなケースが、以前にもありました。
それは元人気AV女優の麻美ゆまさんです。
彼女は、2012年の6月に境界悪性腫瘍を患い、その後、子宮と卵巣の全摘出をし、さらに直腸への転移も認められ、抗がん剤の治療を受けていることが、一時期、ニュースになりました。
そのとき、ファンのリアクションはどうだったでしょうか?
今まで、彼女を「性的対象」=「物」として見ていたファンたちは、「ああ、この人は人間なんだ」と気付き、彼女に対して「人間として」同情しはじめました。
お気づきの通り、始めの文章からすっかりテーマが変っていますが、僕はこの「男性の女性への差別意識」というテーマに対しても、かなりの興味を持っています。
ここで、中村うさぎさんの『私という病』(新潮文庫)という著書から、このテーマに関連する名言を紹介してみたいと思います。
『つい最近、私に向かって、「僕は女の人をリスペクトしています。女性という存在に対して、超越者のような荘厳なイメージを持っています」と熱く語った人がいて、私に水のような絶望感をもたらした。「差別ではない、リスペクトじゃないか」と反論する人もいるだろうが、私に言わせれば、これもまた、女を人間として見られない男たちがよく使う「欺瞞」なのだ。己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を「神格化」するワケよ。人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持って来ただけじゃん。女は、「人間」なのである。あなたの母も妻も娘も、すべての女は「神」でもなければ「獣」でもない、あなたと同じ生身の「人間」なのだ。』
どうでしょうか?
この文章を読んだあと、前述の、アイドル丸山夏鈴さんの人生や、元AV女優麻美ゆまさんのことを思い返すと、考えさせられるアイドルファンやAVファンは多くおられるのではないでしょうか。
さて、最後に、前述の元AV女優の麻美ゆまさんの自叙伝を紹介して、今日のブログを終わりたいと思います。
Re Start ~明日へ~ (初回限定盤B)
・・・ほんと、男っていう生き物は、哀れですね。
そして、一生、男と女は理解しあえない宿命なのでしょうね。