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2012年04月16日
北村韓屋村(プクチョン ハノク マウル)
昨日はホント温かく天気の良い1日でした\(^^)/
じっとしているのがもったいなく出かけて来ました^^以前から気になっていた「北村韓屋村」
最近は日本からのツアー日程にも入っていて観光してきた方も多いのでは
昨日も韓国人の他日本人や中国人観光客が多くいました
北村(プクチョン)は景福宮(キョンボククン)と昌徳宮(チャンドククン)の間に位置し、韓国の伝統的な建物「韓屋(ハンオク)」が密集している地域です。現在でもソウルの昔ながらの町並みが残っている所となります。
地下鉄安国(アングク)駅3番出口から出ると一帯が韓屋村となります。
清渓川(チョンゲチョン)と鐘路(チョンノ)の北側にあるということから北村(プクチョン)という名前がつけられ、嘉会洞(カフェドン)、松峴洞(ソンヒョンドン)、安国洞(アングッドン)、三清洞(サムチョンドン)などが含まれています。
朝鮮末期に社会・経済上の理由で大規模な土地が宅地に分割され、今見られる韓屋(ハノク)が軒を連ねる風景は1930年代前後に改良韓屋の建設が始まって以来のものとされています。このような韓屋の形態の変化は、都心に集まってくる人々により高密度化していくという社会現象を反映したものであった。朝鮮時代から近代までの史跡と文化財は、訪れる人々にこの地の歴史を語っている。
北村地域の最大の特性は地形と水路である。北村の地形は南側は低く北側にいくほど傾斜が急になり、四つの谷間が形成されている。水路はこの谷に沿って流れており、街路は水路と平行になっている。従って街路は水路に沿って自然に南の方に流れているが、これは現在も北村の主要な南北街路になっているサムチョンドンギル(三清洞通り)、カフェロ(嘉会路)、ケドンギル(桂洞通り)、ウォンソドンギル(苑西洞通り)などに見ることができる。
北村はソウルの中心である景福宮と昌徳宮の間に位置し、またブガク(北岳)からウンボン(鷹峰)に連なる山並みの南斜面に位置しているため、地理的に良い環境とされ、昔から権門勢家の居住地として位置づけられてきた。1906年の戸籍簿によると北村の全体人口10‚241名(1‚932戸)のうち、戸主の身分による区分においてはヤンバン(両班‐高麗及び朝鮮王朝時代の支配階級をなした世襲的地位や身分を持った上流階級、またはその人々)と官僚が43.6%を占めており、権門勢家の居住地としてヤンバンと官僚の家が中心的であった地域であったことが分かる。
権門勢家の居住地としての北村の位相は開化期と日本帝国による強制占領期も変わらず、パク・ヨンヒョ(朴泳孝)、キム・オクキュン(金玉均)などの開化派、及びミン・デシク(閔大植)などのヨフン(驪興)閔氏の勢力が多く住んでいた。また日本帝国による強制占領期には、多くの独立運動家の居住地でもあった。
日本帝国時代における人口の都市集中現象はソウルの住宅難をさらに深刻化させ、これにより民間による区画型開発が登場した。住宅の売買を通じて利潤を得ようとする住宅経営会社の登場に伴って、1912年以降住宅難による中・大型土地の分割を通じ、以前とは異なる形態のハノク(韓屋)が急速に建設された。現在北村の代表的なハノク(韓屋)密集地域であるカフェドン(嘉会洞)31番地、11番地、及びサムチョンドン(三清洞)35番地一帯なども、すべてこの時期に住宅経営会社によって集団建設された韓屋(ハノク)地区であり、大規模に建設した後分譲する方式で供給された。この時期に建てられたハノクは、ガラスやタイルなど以前には使用されなかった新しい材料が使われたこと、平面が一定部分標準化されたこと、街路体系などと共に建てられたことから、以前のハノクと区別して改良ハノクと呼ばれている。
このような改良ハノク地区は、日本統治からの解放以降1960年代初頭まで持続的に建設されたが、1962年の北村の航空写真を見ると、学校および公共施設として残されたいくつかの大型敷地を除くすべての地域にハノクが建ち並んでいることが分かる。
じっとしているのがもったいなく出かけて来ました^^以前から気になっていた「北村韓屋村」
最近は日本からのツアー日程にも入っていて観光してきた方も多いのでは
昨日も韓国人の他日本人や中国人観光客が多くいました
北村(プクチョン)は景福宮(キョンボククン)と昌徳宮(チャンドククン)の間に位置し、韓国の伝統的な建物「韓屋(ハンオク)」が密集している地域です。現在でもソウルの昔ながらの町並みが残っている所となります。
地下鉄安国(アングク)駅3番出口から出ると一帯が韓屋村となります。
清渓川(チョンゲチョン)と鐘路(チョンノ)の北側にあるということから北村(プクチョン)という名前がつけられ、嘉会洞(カフェドン)、松峴洞(ソンヒョンドン)、安国洞(アングッドン)、三清洞(サムチョンドン)などが含まれています。
朝鮮末期に社会・経済上の理由で大規模な土地が宅地に分割され、今見られる韓屋(ハノク)が軒を連ねる風景は1930年代前後に改良韓屋の建設が始まって以来のものとされています。このような韓屋の形態の変化は、都心に集まってくる人々により高密度化していくという社会現象を反映したものであった。朝鮮時代から近代までの史跡と文化財は、訪れる人々にこの地の歴史を語っている。
北村地域の最大の特性は地形と水路である。北村の地形は南側は低く北側にいくほど傾斜が急になり、四つの谷間が形成されている。水路はこの谷に沿って流れており、街路は水路と平行になっている。従って街路は水路に沿って自然に南の方に流れているが、これは現在も北村の主要な南北街路になっているサムチョンドンギル(三清洞通り)、カフェロ(嘉会路)、ケドンギル(桂洞通り)、ウォンソドンギル(苑西洞通り)などに見ることができる。
北村はソウルの中心である景福宮と昌徳宮の間に位置し、またブガク(北岳)からウンボン(鷹峰)に連なる山並みの南斜面に位置しているため、地理的に良い環境とされ、昔から権門勢家の居住地として位置づけられてきた。1906年の戸籍簿によると北村の全体人口10‚241名(1‚932戸)のうち、戸主の身分による区分においてはヤンバン(両班‐高麗及び朝鮮王朝時代の支配階級をなした世襲的地位や身分を持った上流階級、またはその人々)と官僚が43.6%を占めており、権門勢家の居住地としてヤンバンと官僚の家が中心的であった地域であったことが分かる。
権門勢家の居住地としての北村の位相は開化期と日本帝国による強制占領期も変わらず、パク・ヨンヒョ(朴泳孝)、キム・オクキュン(金玉均)などの開化派、及びミン・デシク(閔大植)などのヨフン(驪興)閔氏の勢力が多く住んでいた。また日本帝国による強制占領期には、多くの独立運動家の居住地でもあった。
日本帝国時代における人口の都市集中現象はソウルの住宅難をさらに深刻化させ、これにより民間による区画型開発が登場した。住宅の売買を通じて利潤を得ようとする住宅経営会社の登場に伴って、1912年以降住宅難による中・大型土地の分割を通じ、以前とは異なる形態のハノク(韓屋)が急速に建設された。現在北村の代表的なハノク(韓屋)密集地域であるカフェドン(嘉会洞)31番地、11番地、及びサムチョンドン(三清洞)35番地一帯なども、すべてこの時期に住宅経営会社によって集団建設された韓屋(ハノク)地区であり、大規模に建設した後分譲する方式で供給された。この時期に建てられたハノクは、ガラスやタイルなど以前には使用されなかった新しい材料が使われたこと、平面が一定部分標準化されたこと、街路体系などと共に建てられたことから、以前のハノクと区別して改良ハノクと呼ばれている。
このような改良ハノク地区は、日本統治からの解放以降1960年代初頭まで持続的に建設されたが、1962年の北村の航空写真を見ると、学校および公共施設として残されたいくつかの大型敷地を除くすべての地域にハノクが建ち並んでいることが分かる。