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2017年09月27日

【太平洋戦争】なぜ、負けた?
 @ガタルカナルの戦い
 Aインパール・コヒマの戦い
 Bレイテ・ルソンの戦い

【太平洋戦争】なぜ、負けた? @ ガタルカナルの戦い

https://youtu.be/YbTL74D5UlI


【太平洋戦争】なぜ、負けた? @ ガタルカナルの戦い

https://youtu.be/YbTL74D5UlI




Published on Jun 16, 2017

@ ガタルカナル島攻防戦の緒戦に大兵力を投入していたら・・・・・・と、言う人もいるが

 しかし、帝国陸軍が大兵力を送り込むことが出来たかは疑問である。

 最大の問題は、船舶事情である。日本では太平洋戦争の全期間を通じて商船が不足し、多くの問題を抱えていたが、比較的商船保有量が多かったこの時期も、戦線を広げすぎたため船舶が足らず、最前線は勿論のこと、後方の基地に至るまで、補給に使われる商船は、自転車操業に近いギリギリのやり繰りを行っていたのが現状であった。

 しかし、ガタルカナル島に大兵力を投入するとなれば、多数の商船が必要になるが、商船を他から引き抜けば、それまで何とか回っていた補給態勢が壊れてしまうことになる。

 それを考えれば、8月のアメリカ軍の上陸直後に、ガタルカナル島に大兵力を送り込む事を決定したとしても、事前に何も用意をしていなかったので、逆上陸の準備だけで1ヶ月以上かかったと思える。

 逆に言えば、8月中に兵力を送り込もうとすれば、帝国陸軍がいかなる認識の下に作戦を立てようが、史実とはそれほど変わることが無かったであろう。

 そして、上陸してきたアメリカ海兵隊は当初から2万人という大兵力であり、その間、飛行場の整備と陣地の構築を進めるだろう事から、この抵抗を排除し飛行場を確保するには、史実におけるガタルカナル島の帝国陸軍最大戦力の三倍、6万人は必要だろう。

 これだけの兵力を運ぶ船舶を用意するだけでも大変であるが、送り込むのはさらに困難である。
 ガタルカナル島周辺海域の制空権は、飛行場を手中に収めている敵の手にある以上、低速の輸送船が島に接近するだけでも危険が大きく、途中での犠牲も考慮しなければならないだろう。

 それに、帝国陸軍はこれまでに強力な敵前で大兵力を揚陸させた経験がなく、機械力にも劣っていることから揚陸能力が極めて低く、物資の陸揚げに時間がかかることが重大な問題で、揚陸中の船舶は格好の攻撃目標になったであろう。

 そして、陸揚げした物資を、敵に攻撃されない処まで運ぶのだが、人力で行わなければならない帝国陸軍にとって、大変な時間と労力が必要になる。

 実際、昭和17年10月15日、輸送船が島への補給を成功させたものの、揚陸した物資は海岸に山積みされたままで、島内に運び込まれないうちに、敵の爆撃・艦砲射撃により大被害を受けている。

 また仮に、兵員の上陸、物資の揚陸が完全に出来たとしても、その後も、この大兵力に見合う定期的な補給が出来なければ、やはり史実と同じように「餓島」と化すことは避けられないだろう。

A ガタルカナル島は、他の基地から離れすぎている。戦前に恐れた消耗戦になることが避けられない。アメリカ軍の本格的な反撃だと判断した時点で放棄すべきだった・・・・・・と、言う人もいるが

 当時は、両軍の戦力が拮抗していた時期であり、ここでアメリカ軍の反撃を見逃すことは、そのまま敵に主導権を渡すことに繋がってしまう。

 また、ガタルカナル島そのものの戦略的意義も大きく、また、これまで一度獲得した占領地を奪われたことがなく、もし明渡せば「初の占領地の失陥」となってしまい、それでなくともミッドウェーの勝利で意気上がるアメリカ軍をさらに勢いづけ、次なる反攻の後押しをすることになったかもしれない。

 結論を言えば、
最初からアメリカ軍の本格的な反攻の第一歩として判断していたとしても、史実と比べて帝国陸軍の投入戦力にそれほど変化はなかったであろうし、戦い方も史実と変わらなかっただろう。

 昭和17(1942)年8月7日のアメリカ軍の上陸より、昭和18(1943)年2月1・4・7日の三回に分けた日本軍の撤退作業により約1万3000人の将兵を収容し撤退するまでの6ヶ月間、結果はアメリカ軍の勝利で幕を閉じたが、この6ヶ月間アメリカ軍の侵攻を押し止めた事も事実であったが、戦略的には、何ら意義を成さなかった。

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【太平洋戦争】なぜ、負けた? A インパール・コヒマの戦い

https://youtu.be/XjJ8onQqHa8


【太平洋戦争】なぜ、負けた? A インパール・コヒマの戦い

https://youtu.be/XjJ8onQqHa8



Published on Jun 16, 2017

 インパール作戦は不要だった戦いで、それだけにとどまらず、急速なビルマ防衛の崩壊をもたらしたとも言われているが・・・・・。

 なぜ、日本帝国陸軍は遥かに遠いミャンマー(1989年よりの国名。大戦当時の国名はビルマ。首都の名もラングーン、ヤンゴン、ネピドーと変わっている)にまで兵を進めたのであろうか、と言う「そもそも論」から始める必要があるだろう。

 公的には、「援蔣ルート」と呼ばれる中国への補給路を止めるためということになっているが、それより大きな理由として、開戦から数ヶ月経ち帝国陸軍400万人の戦う場所がないという不満が帝国陸軍上層部にあったからである。

 中国戦線を除けば、マレー、フィリピン等で戦ってはいたが、当事にあっては兵力に余裕があり過ぎ、これがミャンマーへの大量派兵に繋がっていった。

 昭和17(1940)年5月に第15軍がミャンマー全土を占領する直前の3月、「ビルマ(ミャンマー)方面軍」が新設され、第15軍司令官に牟田口中将が昇任した。

 彼が軍司令官になって、3個師団の兵力で日本本土の3倍にわたるミャンマーの防衛の責任を負わされてみると、今後予想される連合国軍の反攻を阻止するためには、単なる専守防衛では成り立たず、進んで敵反攻の根拠地を覆滅する攻勢作戦が望ましいと、考えるようになった。

 このインパール作戦における日本帝国陸軍の人的損失は、いまだに正確な数が判明していない。一応の推計としては戦死2万人以上、戦傷、戦病死を合わせた損耗率は70〜80%前後と推定されているので、人的損害は4万人前後といえよう。なおイギリス・インド軍の損害も、イギリス第14軍司令官・スリム中将によると死者約1万5千人、負傷者約2万5千人にのぼり、決して軽微なものではなっかった。

 スリム中将は「日本軍の欠陥は ・・・ 作戦計画が仮に誤っていた場合に、これを直ちに立て直す心構えが全くなかった。」と、正確に指摘している。

 牟田口中将はミャンマー防衛のための攻勢防衛の手段としてのインパール占領という、本来の作戦目標を見失って、インパールという一地点の占領を至上目標にすり替えてしまっていたのであった。

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【太平洋戦争】なぜ、負けた? B レイテ・ルソンの戦い

https://youtu.be/nXZ0QZFa7IE

【太平洋戦争】なぜ、負けた? B レイテ・ルソンの戦い


https://youtu.be/nXZ0QZFa7IE




Published on Jun 16, 2017

この戦いこそ、日本帝国陸海軍が総力を結集し、アメリカ軍と雌雄を決するために選んだ、最後の決戦だった。

 昭和19(1944)年に入ると、帝国陸軍は実に40万人という膨大な兵力をフィリピンに送り込み、又、マレーの虎こと山下奉文帝国陸軍大将を着任させ、防衛の強い意思を示した。

 おおざっぱに数えれば、ルソン島に25万人、レイテ島に10万人、その他の島には分散して5万人といった配備がなされた。

 首都の存在するルソン島が重要なことは解かるが、なぜ、この国では中くらいの面積しかないレイテ島に多くの兵力が送り込まれたのかは、軍事の素人の私には理由がはっきりしない。

(しかし、アメリカ軍の反攻も最初からレイテ島に対して行われ、両方の側が重要視していた事実がある。)

 そして、帝国海軍は当時の連合艦隊の保有する艦艇の8割(動かせる艦艇の全て)に相当する艦艇で迎え撃とうとしていた。

その内訳は、戦艦は「大和」「武蔵」「長門」を含め9隻、空母4隻、重巡13隻、軽巡6隻、駆逐艦31隻、潜水艦12隻にものぼった。

 航空機は、陸海軍機計1200機以上がこの作戦のために準備された。

 しかしこれに対して、フィリピン島を奪回しようとするアメリカ軍の投入戦力は、軍艦だけで170隻、総兵力は125万人達していた。

 最初の上陸は昭和19(1944)年10月20日であったが、戦力に余裕のあるアメリカ軍は、レイテ島の戦いの決着が近いとなると、いよいよルソン島への侵攻を開始し、昭和20(1945)年1月9日に部隊を上陸させた。

 最終的にフィリピンでの死傷者数は、日本側はルソン島で20万人、レイテ島で8万人、その他の島々で5万人と言われている。アメリカ軍の戦死者は2万人であった。またフィリピン側では民間人、ゲリラ参加者合わせて18万人と言われている。

日本帝国海軍の戦い

 なぜ、砲撃精度は低かったのだろうか。戦前、日本帝国海軍の戦艦の主砲の命中率は、アメリカの戦艦に比べ3倍と言われていた。砲術の専門家として日本帝国海軍内では名の知られていた重巡利根の艦長・黛治夫大佐に至っては、利根の主砲の命中率はアメリカの5倍と豪語していた。

 しかし、蓋を開けてみると、
昭和19(1944)年10月25日早朝、栗田艦隊旗艦の大和(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)の見張員が敵を発見した。それはアメリカの第7艦隊の護衛空母群の内の3番隊であった。

 帝国海軍は戦艦大和、長門を中核とする栗田艦隊、戦艦4隻(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦15隻の陣容だった。

 対するアメリカ艦隊は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻で編成されていた。

 アメリカ海軍の護衛空母とは戦時急造型の空母で、基準排水量6730d、搭載機は21機、武装は12.7サンチ高射砲2門で、また、護衛駆逐艦とは対潜水艦用に急造された艦で、もともと対水上艦用戦闘は考えられていなかった。

 まともな戦闘にならない戦力差であった。

 それが、2時間あまりの戦闘(ドタバタ騒動)により、アメリカ駆逐艦の12.7サンチ砲という豆鉄砲と、日本帝国海軍酸素魚雷に比べ射程で5分の1、炸薬量で半分の51.3サンチ魚雷とに、散々に叩かれ、護衛空母1隻、駆逐艦2隻をやっと沈めた代償が、重鳥海、筑摩を失い、熊野、鈴谷を大破されたのである。
 
 原因は、主砲命中率の低さにあった。

 モリソン博士の「各艦戦闘詳報」よると、この海戦での栗田艦隊の主砲・副砲の発射弾数は、5千発を超えていた。それで、与えた命中弾数は20発前後であった。

 砲術の大家である黛大佐の利根に限って見ても、初弾から100発以上撃ってわずか命中弾は1発という少なさだった。逆に、敵の駆逐艦から3発の命中弾を受けている。20サンチ主砲を持つ利根のほうが、12.7サンチ主砲のアメリカ駆逐艦より、正確かつ遠距離射撃が出来るはずなのに、実戦ではアメリカ海軍の3分の1の命中率であった。

 戦艦大和の46サンチ主砲に至っては、約100発発射して1発も命中していない。
命中率わずか0.3%というこの海戦を見直すと、戦艦同士の日米決戦が行われなかったことを、帝国海軍は感謝したほうがよさそうに感じられる。

 その後、午後零時30分、栗田艦隊はレイテ湾まで約80kmの地点に進出したが、ここで栗田艦長は反転命令を出し、戦線から離脱し、逃げ帰った。

 この海戦の勝敗がもたらす決定的な意義は、早くから日本帝国海軍首脳部によって認識されていた。フィリピンを失えば、連合艦隊を保全していても、意味がなくなると判断し、成算を無視した決死の殴り込み攻撃を立案した。しかし、栗田艦隊は与えられた稀有の機会を捨て、湾口を目の前にして、反転し逃げ帰った。この瞬間に日本帝国海軍の運命は定まり、日本帝国海軍は消滅した、と言っても良いであろう。

栗田健男という男の戦歴
 1942年2月15日のマレー沖海戦では、戦わずして戦場から逃げている。
 1942年2月27日のスラバヤ沖海戦には、無線が通じなかったとして、戦場には現れなかった。
 1942年3月1日のバタビア沖海戦には、2隻の艦船を支援に出したが、彼自身は戦場に現れなかった。
 
 ミッドウェー海戦では、島から遠く離れた位置でモタモタさせ、中止命令が出ると、あわてて避退しようとして、最上と三隅を衝突させてしまい、この男は両艦を置き去りにして、逃げ帰っている。

 以後3日間、この男は連合艦隊からの合同命令を無視し、安全な西へと全速で自艦を走らせている。
 
 ガタルカナル島砲撃のときも、逃げ足の速さは変わらなかった。
  
 これらの戦い方から考えると、彼にとって、このレイテ沖海戦ではよく粘ばったともいえる。

 しかし、なぜ、この男がここまで前線の指揮官を続けてこれたのか、不思議な気がするが、年功序列の官僚的人事が嫌悪すべき無責任さをもって、進められた結果だったのだろうと思える。

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