2018年11月18日
女性たちのよそおい
武士階級から町人の時代へ
江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。
花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。
女性たちのよそおい
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。
この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。
こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。
化粧に目覚めた女性たち
平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。
それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。
しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。
また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。
この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。
次回は、江戸時代中期、その時代背景とよそおいをご紹介します。
江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。
花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。
女性たちのよそおい
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。
この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。
こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。
化粧に目覚めた女性たち
平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。
それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。
しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。
また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。
この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。
次回は、江戸時代中期、その時代背景とよそおいをご紹介します。
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