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2020年11月19日
宮本武蔵が「五輪書」を書いた洞窟【霊巌洞・五百羅漢(雲巌禅寺)】熊本県熊本市
雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は、
石体四面の馬頭観音「岩戸観音」を本尊として、
南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永輿(とうりょうえいよ)が
建立したと伝えられる曹洞宗(そうとうしゅう)の寺です。
岩戸観音の歴史は寺より古く、いい伝えによれば
異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、
観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。
九州西国三十三観音第14番霊場としても知られています。
「五百羅漢」は熊本の商人・淵田屋儀平が
安永8年(1779年)から享和2年(1802年)までの
24年間に渡り奉納したと云われています。
永年の風雨や明治初頭の廃仏毀釈、地震で
完全な物は半分に減っています。
宮本武蔵は寛永20年(1643年)、60歳の時にこの霊厳洞に籠り、
二天一流の兵法書「五輪書」を書きました。
その2年後の正保二年(1645年)、
亡くなる数日前に兵法の弟子 寺尾孫之允に五輪書を授けています。
宮本武蔵にあやかって、
勝負事のパワースポットとして有名な場所になっています。
熊本県熊本市西区松尾町平山589
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2020年11月18日
熊本地震から復旧中【金峯山神社(金峰山神社)】熊本県熊本市の神社
金峰山は、熊本県熊本市西区地域に位置する、
標高665mの一ノ岳を中心とするカルデラ式火山です。
金峰山は、「肥後国誌」の中で、「筑紫富士」ともあります。
金峯山神社(きんぼうざんじんじゃ)は、
金峰山の頂上にあり、明治以降は金峰山神社と称されています。
この山は昔、飽田山(あきたさん)とよばれていましたが、
天長九年(832)に淳和天皇が奈良県の金峯山蔵王権現を勧請して以来、
金峰山に改称されたと伝えられています。
元弘二年(1332)菊池武重が、河津浦から上陸した肥前勢と戦ったとき、
金峯山蔵王権現に祈って勝利を得たため、
神が小手をかざして味方の勢を見給う姿を自ら一刀三礼して刻んだのが
現在の神体であるといわれています。
菊池氏のあとも加藤・細川両氏が崇敬と保護を加えてきました。
「熊本地震」の為、神殿、幣殿、拝殿共に、
倒壊寸前の被害を受けました。今尚復旧中です。
金峰山山頂は、有明海や雲仙、阿蘇、九州山地、天草の島々など
広大な景色を一望できます。夜景の名所としても知られています。
鎮座地
熊本県熊本市西区河内町岳1882・1881
2020年11月17日
【河内阿蘇神社】熊本県熊本市の神社
河内阿蘇神社(かわちあそじんじゃ)は、
熊本県熊本市西区河内町にある神社です。
旧社格:郷社。
由 緒
元明天皇の御代 肥筑両国の国司であった道君首名は
飽田・宇土・玉名の三郡の海岸を巡見し
飽田群河内に異人の三官という海から来た者が
一団を率い拠点を構え徘徊していると知る。
元正天皇の御代 霊亀元年(715年)道君首名の命を受け
藤原泰忠が三官討伐に向かい河内の海岸に清浄な地を選び
阿蘇大神を勧請し榊を以て
健磐龍大神・栂を以て比当セ神・柚を以て速瓶玉神を神籬とし
斎祭り敵国降伏・天下泰平・国家安泰を
三柱の神に祈願し見事異人三官を討伐した。
藤原泰忠は社名を若宮大明神とし十二月初卯の日を祭日と定め
以後は藤原泰忠の次男、藤原経房が祭を掌り代々その子孫が
神職を勤めている。
異人三官討伐から時を経て、応永四年(1397年)九州兵乱の際、
飽田群活亀之庄河内浦一円の領主牛島美作橘公基は戦に発つ前に、
この度の戦で勝利を得させ給えば社を再興し我が家在らん限り
毎年十二月初卯の日に奉斎せんと祈願を籠め出陣し
神慮叶い勝利を得凱旋し 応永二十年九月に社を造営した。
二度の勝ち戦を導いた鎮西守護勝軍大明神と崇め
海辺山の総廟とし以降は山の上三苗字の祈願所となった。
御祭神
健磐龍大神・比当セ神・速瓶玉神など阿蘇十二神
御利益
天下泰平・国家安穏・御武運長久・五穀豊穣など
鎮座地
熊本県熊本市西区河内町河内2270