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2021年01月26日
珍しい磁器製の鳥居 【陶山神社】 佐賀県有田町の神社
陶山神社(すえやまじんじゃ)
俗称:とうざんじんじゃ
由緒・創建
今から400年前の寛永年中に、
肥前国松浦郡有田において陶器の原材料となる
磁礦が泉山にて発見された。
それよりこの地に町が起こり、
この地にて陶器製造が年々盛になり、
人々の流入も多く繁昌する者が増えた。
有田皿山代官の命により、
万治元年葉月十五日松浦郡有田郷有田皿山大樽山に社殿を建て、
松浦郡中宗廟大里村の蓮華石正八幡宮より
祭神「品蛇和気命(ほむだわけのみこと)」を勧請し
皿山中の宗廟として当社、「有田皿山宗廟八幡宮」を創建した。
明治四年有田皿山宗廟八幡宮より当地区の総称「陶山」に因み、
「陶山神社」と命名された
明治五年社格を村社に列せられた
明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進の指定を受ける
御祭神:品蛇和気命(応神天皇)
相殿神:鍋島直茂命
御利益
陶磁器製造業・商売繁盛、厄災除け、平穏安寧など
鎮座地
佐賀県西松浦郡有田町大樽2-5-1
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2021年01月22日
"天に道が開け、運気が上昇する" 開運のパワースポット【天開稲荷社・奥の院】福岡県太宰府市
天開稲荷社(てんかいいなりじんじゃ)は、
鎌倉時代末期に京都の伏見稲荷大社から
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)の御分霊を
御遷して祀るようになったのが始まりとされています。
「九州最古のお稲荷さん」として親しまれています。
御祭神の宇迦之御魂神は須佐之男命の御子神であり
人々の生命の根源である食物とくに稲の生長を守護する神様です。
社名に由来するように、
古来より"天"に"開"かれたお"社"とされ、
五穀豊穣、商工業の発展、
更には人々に開運と幸福をもたらす神として広く信仰されています。
天開稲荷社は、
「天に道が開け、運気がどんどん上昇する」
開運のパワースポットといわれています。
鎮座地
福岡県太宰府市宰府4丁目7-1
2021年01月21日
全国に約12,000社ある天満宮の総本宮【太宰府天満宮】福岡県太宰府市
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、
福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社です。
御祭神の
菅原道真(すがわらのみちざね)公は、
承和12年(845)に京都で生まれました。
幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、
一流の学者・政治家・文人として活躍されました。
右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に
左大臣 藤原時平らの陰謀によって
筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、
翌々年の延喜3年(903年)2月25日、
道真公は住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、
生涯を終えられました。
門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が
御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、
牛が伏して動かなくなり、
これは道真公の御心によるものであろうと、
その地に埋葬されることとなりました。
延喜5年(905)、
御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、
天原山庿院安楽寺と号した。
一方、都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、
さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で死去した。
これらのできごとを
「道真の祟り」
と恐れてその御霊を鎮めるために、
醍醐天皇の勅を奉じた左大臣 藤原仲平が大宰府に下向、
道真の墓所の上に社殿を造営。
延喜19年(919)には勅命により社殿が建立され、
これが安楽寺天満宮の創祀です。
それでも「道真の祟り」は収まらず、
延喜23年(923)には皇太子保明親王が21歳で死去。
狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、
4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、
正二位の位階を追贈した。
しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、
保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、
延長3年(925)には慶頼もわずか5歳で死去した。
そしてついに延長8年(930)6月、
醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、
まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、
死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。
天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、
9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、
直後に死去するに至った。
承平元年(931年)には
道真を側近中の側近として登用しながら、
醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった
宇多法皇も死去している。
わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた
天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が
殺害されたことになる。
猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、
道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、
道真への御霊信仰は頂点に達した。
ついに正暦元年(990年)頃からは
本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である
「天満宮」も併用されるに至った。
寛和2年(986年)、
道真の曾孫菅原輔正によって
鬼すべ神事が始められるようになった。
寛弘元年(1004年)、
一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、
太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、
とくに承徳元年(1097年)、
大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、
祭祀が厳かになったという。
その後、「天神さま」と崇められるようになりました。
長い年月、道真公への崇敬は絶え間なく続き、
御墓所でもある太宰府天満宮は京都の北野天満宮とともに
全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の
総本宮と称えられ、
「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」
として、
年間に約1000万人の参拝者が訪れています。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
鎮座地
福岡県太宰府市宰府4丁目7-1