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2016年06月12日

第248回 中條百合子






文●ツルシカズヒコ



『文明批評』創刊号が発行されたのは、一九一七(大正六)年十二月二十七日(奥付けの発行日は大正七年一月一日)だった。

 編輯兼発行人が大杉栄、印刷人が伊藤野枝である。

 印刷所は京橋区桶町一番地の愛正社印刷所。

 大杉と野枝はこの印刷所に三日間、校正に通った。

 ふたりは尾行をまくために毎朝、本郷の下宿・環翠館に住む田中純を訪れ、雑談をして裏口から出て行ったという。

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 或る朝、思ひがけなく大杉君と野枝さんとが訪ねて来た。

 別に要談があるでもなく以前この下宿にゐたと云ふ荒川義英くんのことなどを話して、二十分ばかりもすると、裏口から帰つて行つた。

 翌日も、翌々日も、彼等は同じ時刻に来て、同じやうにして帰つて行つた。

 ……あとで、それが、尾行をまくための訪問だつたことを知らされた。

 労働者街に投じる準備として彼は秘密な印刷物を作りつゝあつたのだ。

 たま/\、私の下宿がその印刷所に近いのと、前に荒川がゐたので、この家に都合の好い裏口があることを知つてゐたので……と後になつて打ち明けたことがある。

 その時にも、彼は例のイヒ/\と云ふ、いたづらつ子らしい笑ひで笑つた。


(田中純「喜雀庵雑筆」/『読売新聞』1928年3月30日)





 野枝は『文明批評』創刊号に三本の原稿を書いた。

「転機」(一〜四章/五〜八章は次号に掲載)

「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」

「妙なお客様」(大杉栄『悪戯』に初収録/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に再録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

 中條百合子は『中央公論』一九一六年九月号に掲載された「貧しき人々の群」でデビュー、十七歳の天才少女として注目を集め、『中央公論』一九一七年一月号に「日は輝けり」、八月号に「禰宜様宮田」を発表していた。

 初の著作『貧しき人々の群』(玄文社)は、一九一七年五月に刊行された。

 彗星のように出現した天才少女に対しして、広津和郎など文壇知名の諸家からさまざまな批評がなされたが、どれも野枝を納得させるようなものはなかったので、自分で書いてみたのが「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」だった。





 第一に私に不満な思ひをさせた事は、各批評家の頭に百合子氏がまだ肩あげのとれない少女として、従つて書物の外には何も世間を知らないお嬢様として、ずつと自分を高くして氏に臨んでゐると云ふ事であつた。

 次ぎには、殆ど皆な一致して氏の真実を少しも認めてゐない事である。

 第一に皆を脅やかしたらしい題材の取り方の大胆さと云ふ事は殆んど凡ての人の非難の的になつてゐる。

 そしてそれが、或る人にはたゞ見せる為めの大胆さであり、或はまた、氏自身とは何の親しみも交渉もない別の世界の、何の土台もないものを持つて来て、たゞ氏に唯一のものである才能で拵(こしら)へあげたものだと云ひ、また或る人は世間にありふれた『型』を持つて来て外国の作品のまねをして書いたものだと云ひ、本当に正直に、あの作品を受け入れた人は一人もない。

 私は氏の今迄の発表された三篇とも、極めて忠実に、再読三読して、そのたびにますます氏の偉さを感じてゐる一人である。

 そして私は、諸家の氏に対する批評が、私にとつては不満足なのであるけれども、強ひて、それ等の批評に楯つかうとは思はない。

 たゞ私は、全然諸家によつて閑却されてゐるそして私にとつては一番強い感銘を与へられた、作品の上に表はれた氏の思想感情等に就いての私の興味を発表して見たい。


(「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」/『文明批評』一九一八年一月号・第一巻第一号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p13~14)





 三作品のうち、野枝は「日は輝けり」を「私にとつては何んの興味もないものである」と切り捨て、「貧しき人々の群」と「禰宜様宮田」について言及、批評している。

「妙なお客様」は十一月末から十二月初めにかけて、新聞記者を騙(かた)り、あるいは帝大法科の学生を騙って、大杉家を訪れた男ふたりを、大杉がうまくあしらい、からかって退散せしめたという話である。

 官憲の偽装をからかうために掲載したようだ。

 ちなみに『文明批評』一月号と二月号(第一巻第一号と第二号)の表三の広告は、神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店)である。

 同書で日蔭茶屋事件の加害者である神近が、大杉や野枝を徹底的に糾弾しているが、大杉が同書の広告を掲載したのは、彼の洒落気のある悪戯なのか、あるいは版元が『文明批評』に広告を掲載すれば宣伝効果大と読んだのか、さもなくば広告料金を得るために背に腹はかえられぬという大杉サイドの考えなのかーーそのあたりは謎である。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年06月11日

第247回 築地の親爺






文●ツルシカズヒコ

 一九一七(大正六)年の秋も深まったころ。

 米が買えず大杉と村木は五銭の芋をフカシして腹を満たし、野枝と魔子が横たわる布団の裾に潜り込んで暖を取り、しかも眼の前には収入のなんの希望もないそのころ。

 大杉は平気で雑誌発行の計画を立てていた。

 その日も、村木は大杉とふたりで野枝が寝ている布団の裾に潜り込み、大杉の自信たっぷりの雑誌発行計画を笑いながら聞いていた。

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 すると、来訪者があった。

「ごめん下さい」

 しわがれ声の、低い、しかしどこか太い女の声が聞こえた。

 村木がごそごそと布団から這い出して玄関に出て行くと、背の低い変なお婆さんがしょんぼりと佇んでいた。

「あの、大杉さんはいらっしゃいましょうか、野沢でございますが……」

 うら枯れたような短い髪が、びんのところや前の方にばさばさ乱れていて、垢ずんだ顔には大きな眼がギョロギョロしていた。

 生活の疲れからだろうか、その眼はドロンと濁っているようにも見えて、村木はちょっと気味が悪かった。

「大杉くん、野沢というお婆さんが会いたいって来ているんだがーー」

「うん、そうか」

 見栄坊の大杉はすぐ起き上がって、あたかもその浴衣姿が当然なんだと思わせるような態度で、すまして玄関に出て行った。





「誰なの……」

 うとうとしていた野枝が、そのときちょっと首をもたげた。

「野沢というお婆さんーーあなたは知ってる?」

「あら、野沢のお婆さんなの。じゃあ、お金をこさえてくれっていうのかもしれなくってよ。でも、今は困るわねぇ……」

「どんな人?」

「村木さんは知っているでしょう。ほら、一昨年に死んだ野沢重吉という車夫さんがあるじゃないの。あの人のおかみさんよ。野沢さんの写真が『労働運動の哲学』の初めに載っているじゃありませんか」

「そうそう、野沢! あの『築地の親爺』とかいう、そうですか」

 野沢重吉は日本に社会主義運動が起こった当初からの活動家だった。





 銀座尾張町の角の「尾角屋」駐車場に出ていた車夫で、仲間の車夫や縁日商人などの間では「築地の親爺」と言われ、誰も知らぬ者はなかった。

 胃癌を患った野沢は二年前、一九一五年九月二十五日に慈恵医院で死去した。

 大杉は第二次『近代思想』(一九一五年十月号)の巻頭に「築地の親爺」という追悼文を載せ、自著『労働運動の哲学』(一九一六年三月発行)の「序」でも野沢について言及している。

 村木は台所に行き、野枝のお粥を煮ながら、玄関の次の四畳の部屋でお婆さんが何かくどくどと話している底太い声を聞いていた。

 すると声が止んで、大杉が奥へ行く音がしたと思ったら、間もなく彼はニヤリと笑いながら台所にやって来た。

「おい、またひとつ行ってくれないか」

 大杉は今まで野枝さんが着ていた羽織を手にしていた。

 村木は苦笑しながら黙ってそれを受け取り、古新聞にくるんで裏口からそっと出て行った。





 外は見事に澄み切った秋晴れだった。

 質屋の暖簾をくぐるとき、まだ新しい紺の香が村木の鼻をついた。

 質屋の中庭に大きな松があった。

「キキキキキ、キキキキキ」

 身を裂くような百舌の鳴き声が聞こえた。

 質に入れた野枝の羽織は五円になった。

 村木はわざわざその五円をくずしてもらって、帰り道を急ぎながら、いろいろと考えた。

「お産がすんだばかりの野枝さんには気の毒だが、これで野沢のお婆さんも喜ばすことができるし、いくらか残せば米も買えるじゃないかーー」

 帰宅した村木が、台所から声をかけた。

「大杉くん、ちょっと」

 大杉はすぐに出て来た。

「五円貸したよ」

「そうか、ご苦労だった」

 大杉は金を無表情で受け取ると、お婆さんの方に引き返して行き、

「はなはだ少ないが、じゃあ今日はこれだけーー」

 と言いながら、無造作にお婆さんに渡してしまった。

 村木はちょっとぽかんとした。

 まさかみんな渡すまい、せめて二、三日の米代は残すだろうと思っていたからだ。


 が、しかし私は、お婆さんを送り出してゐる大杉の後ろ姿を呆れたやうに眺めてゐるうちに、何んとも云へない気持ーーと云ふよりは温い血潮のやうなものが、何んだが斯う腹の底の方から湧き上つて来るやうに感じて来ました。

 そして、大杉のよくやるニヤリとした笑ひが、私の顔にも現れました。


(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』1923年11月号_p96)





 野枝は『女の世界』十二月号・第三巻第十二号に「嫁泥棒譚」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を書いた。

 シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、大杉が翻訳し一九一六年十一月に春陽堂から刊行されたが、訳者が「社会学研究会」となっている。

 日蔭茶屋事件直後の刊行だったので、春陽堂が大杉の名を出すのを恐れたためらしい。

 野枝はこの大杉が翻訳した『男女関係の進化』に出てくる、掠奪婚姻について言及している。

 野枝の祖母・伊藤サト(一八四二〜一九二二年)の最初の結婚が、掠奪婚だったという実話などを紹介している。





 大杉と野枝が『文明批評』創刊のための編集作業を開始したのは、十二月上旬だった。


 経済上の困難は依然として変わらない。

 現に此の三ケ月程殆ど全く無収入である。

 それに此の秋以来は大部分の月日を病床に送つてゐる。

 しかしもう辛棒が出来ない。

 何かやり出さずにはゐられない。

 金は始めさえすればどうとでもして作れる。

 からだも自分自身の仕事でさへあればまだ/\無理はきく。

 たつた一枚の伊藤の羽織を質に置いて、原稿紙を買つて来る、僕の外出の電車賃にする。

 山川夫妻と荒畑との寄稿の約束も出来た。

 原稿も出来た。

 多少の広告もとれた。

 四五人の友人の十円ばかりづづの寄付金も出来た。

 とにかくこれで創刊号だけは出せる。

 あとは又あとの事だ。

 ただ少々まごついたのは、或る友人の手で出来る筈の保証金が遂に間に合わなかつた事だ。

 そのために、折角腹案し準備した編輯の方針を大急ぎで変へて了つた。


(「創刊号・巣鴨から」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)





 金の出所については、大杉豊『日録・大杉栄伝』に詳しい。


「調査書」には大口の寄付として、黒瀬春吉と江渡狄嶺(幸三郎)が百円を拠出、との記載がある。

 黒瀬は、東京瓦斯社長・久保扶桑の庶子。

 橋浦と交際があり、彼を介して知り合ったと思われる。

「保証金が間に合はなかつた」と残念をにじませるのは、保証金を納めて時事問題も扱う予定だったが、引受けてくれた大石七分が株で失敗したため、かなわなかったことによる。

 大石は資産家の兄・西村伊作の援助や叔母・くわからの相続遺産を以て、この後も大杉を支援する。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p216~217)


「調査書」とは内務省警保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」(社会文庫編『社会主義者無政府主義者人物研究史料1』柏書房・一九六四年)のこと。





 一九八一(昭和五十六)年二月二十六日。

 その日、瀬戸内晴美は青山斎場で営まれた市川房枝の葬儀に出席したが、その足で日産厚生会玉川病院に入院中の荒畑寒村を見舞った。

 そのとき瀬戸内は『文藝春秋』に『美は乱調にあり』の続編「諧調は偽りなり」を連載中だったので、荒畑の体調を見ての取材を兼ねていたのだろう。

 荒畑は『文明批評』に協力することにしたのだが、そのころの野枝についてこう語っている。

「あんまり印象に残っていないが、野暮ったい女でしたよ。私たちのやっていた『近代思想』の後、大杉が野枝とはじめた『文明批評』を、また一緒にやってくれないかと、二度まで誘われたのに、二度とも私が断ると、大杉は『君は野枝が嫌いなのか』といったので、こっちが驚いたことがあります。何故なら、私は伊藤野枝とはほとんど面識がないし、好悪の感情が入る余地無いからです。日蔭茶屋事件の時、見舞ったら、病室にいたようにも思うが、野暮ったい女がいたくらいの印象しかないんです」

(瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり(上)ーー伊藤野枝と大杉栄』_p100)


 荒畑が九十四歳で死去したのは、瀬戸内が見舞った八日後の三月六日だった。


佐藤春夫邸 大石七分の設計




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり(上)ーー伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年2月16日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年06月09日

第246回 第二革命






文●ツルシカズヒコ



 一九一七(大正六)年十月三日、保釈中だった神近は東京監獄八王子分監に下獄した。

 二畳ほどの独房に入れられた神近は、午前八時から午後五時まで、屑糸をつなぐ作業に従事させられた。

 昼食後の三十分の休憩、夕食後から夜八時の就寝までは仕事がないので、本を読むことができた。

 神近が保釈後に執筆を開始した『引かれものの唄』の原稿は、下獄間近に仕上がり、十月三十日に法木書店から出版された。

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 十月十五日、安成二郎が大杉宅を訪れた。

 その日の安成の日記には、こう記されている。


 夜、大杉君を訪問、家が分らなくて閉口した。

 巣鴨といふ町にはいつも閉口する。

 暗い道を歩き廻つてやつと探し当てた。

 家具の乏しいガランとした家で、バカに薄暗い電燈の下にもう野枝さんは起きてゐた。

 大杉はまだ浴衣を着てゐた。

 それでも元気で、名前は魔子ときめたと言つてゐた。

 野枝さんは反対したが通らなかつたと言つて笑つてゐた。

 金を○円置いて来た。


(安成二郎「大杉君の五人の子」/『女性改造』1924年10月号)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、このころの大杉宅に出入りしていたのは他には林倭衛ぐらいで、米代に困ると林の名で買い入れをしたり、山川などにも借金をしていたようだ。


 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、魔子が生まれた九月末から十二月十一日まで、大杉家には村木源次郎が家事全般の助っ人として同居していた。

 山川菊栄も男の子(振作)を生んだばかりだったため、村木は山川家の助っ人もやっていたが、菊栄はそのころのことを、こう書いている。


 当時村木さんは、大杉さんの家で私達の子、振作と前後して生まれた長女マコちゃんの相手や、台所の手伝い、尾行やかけとりの撃退までひきうけていて、乳母兼執事兼何とやら、さきの関白太政大臣そこのけの肩書きだといばって笑いました。

(山川菊栄『おんな二代の記』_p248~249)






 九月に山川菊栄が長男・振作を出産したので、山川夫妻は東京府荏原郡入新井町(現・大田区大森)に転居。

 大森の春日神社裏の貸家を新居とした。

 村木が助っ人に行ったのは、山川夫妻がこの新居に入居した初日のことだった。


 ……十一月七日、一面こがね色に波うつ田んぼのへりには彼岸花が赤く、農家の垣根に乱れ咲く菊の花にいっぱいに日の光をふりそそいでいた小春日和の昼さがりでした。

 この日はロシアに第二革命の起こった当日として、二重に忘れられない日となりました。

 家はボロながら日当りは申し分なく、低い四つ目垣のそとは蓮池、その先は見渡す限り稲田で、一、二丁先の松林の向うを東海道線の汽車が走っていました。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p248)





 新居で山川夫妻を迎えたのが村木だった。


 家に待っていたのは村木さんで、きょうは筒袖の紺がすりとはうって変わった、ご大家の旦那衆然と大島紬の角袖のきものに、高田の馬場の仇討よろしく、誰にもらったか緋の紋ちりめんのしごきをタスキ十字にあやなして、例のごとく口笛で革命歌を吹きながら、かいがいしくお風呂の水をくみこんでいました。

 それがすむと左の小脇に赤ん坊をかかえ、右の手でかつおぶしをかく

 まめまめしく、しかしいかにもゆうゆうと楽しそうな働きぶりです。

 凝り性の大杉さんが和服のときは黒無地の筒袖の羽織に大島の着流し、山高帽に太いステッキといういでたちでしたが、世帯もちのいい前夫人保子さんが袖を筒袖にたちきらず、あとのためと思って縫いこんでおいたのを、野枝さんが村木さんのために四角い袖に直したのだそうです。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p248)





 村木によれば、この巣鴨宮仲にいたころが大杉と野枝のどん底時代だった。


『葉山事件』を最後とした大杉の恋愛問題があつた後ち、野枝さんと二人で巣鴨宮仲に家を持つた頃には、もう、親しくして居た同志の者すら全るで尋ねて来ないやうになつて了つてゐたのです。

 この大杉のドン底時代ともいふべき巣鴨の家は、後ろにだゝつ広い庭があつて、そこには芥だの新聞紙だのが一杯に打ち捨てられてゐました。

 でも、流石に季節です。

 境界の破れ垣に添つた処へは痩せこけたコスモスが一杯に咲いて、洗濯ものゝオシメなどを上から蔽されながら、秋らしい彩りを見せてくれてゐました。

 此の荒れ庭に面した十畳の間の、日当りのいゝ所に布団を敷いて、生まれたばかりの赤ん坊(魔子)を抱いた野枝さんが気だるさうに寝ていました。

 もう、朝夕かなり肌寒う覚ゆる頃だといふのに、大杉も僕も、まだ中柄の浴衣の洗ひ晒し一枚きりです。

 それでも野枝さんだけは産婦だからと云ふので浴衣の上に一張羅の綿紗ーーだつて勿論はげつちよの、垢じんだのが引つ掛つて居やうといふ一寸痛快な体たらくでした。

 あの恋人同志は、随分な見え坊でしたからねえーー。


(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』一九二三年十一月号_p92~93)





 その日の食べ物に事欠くほどの窮乏だった。


 台所の様子、また押して知るべしです。

 赤とんぼがヒヨイと裏口から覗き込んで、

 『ほい、これはお寒い。』

 といふ見得よろしく、ついと帰つて了つて後を、流しの上で、ちよん切られた大根の尾つぽが、ひよいと逆立ちでもしさうな気配を見せてゐましたつけ。


(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』一九二三年十一月号_p93)


 監獄で肺を悪くしてから、寒さは大杉に禁物だった。

 村木ももともと病弱だった。

 秋になっても白地の着物は、ふたりにはかなり堪えた。

 ふたりはあまり大きくもない産婦の布団の裾の方からそっと潜り込んで、絶えず身を温めていなければならなかった。

 米櫃に少しばかり残っている米は、産婦のために取っておいて、昼と晩のお粥にしなければならない。

「さあ、食おうじゃないか。甘(うま)そうな芋だ」

 大杉と村木は五銭で買ってきた芋をフカシてよく食べた。





 服部浜次の娘、お清が大杉家の台所の手伝いに来たことがあった。

 しかし、そのお清は三日ばかりして逃げるように、日比谷の自宅へ帰ってしまった。

「まあ、どうしたのさ?」

 母親が尋ねると、お清は眼を丸くしながら呆れたように、こう話したという。

「だってね、お母さん、あすこの家じゃお米を買ってくれないから御飯が炊けないじゃないの。台所を手伝うっても、私も困るわ」

 大杉は洗濯などもよく自分でやった。


『おい村木、ちよつと起きて野枝の粥を煮てくれないかーー。俺はまた洗濯だ。』

 お天気の日だと、あの天神髯を生やした大杉が変な腰付で、赤ン坊のオシメから野枝さんの汚れ物迄、きれいに洗ひました。


(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』一九二三年十一月号_p93~94)





★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)

★神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店・1917年10月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第245回 魔子






文●ツルシカズヒコ



 一九一七(大正六)年九月二十五日、野枝は大杉との間の第一子、長女・魔子を出産した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、魔子をとりあげた助産婦・北村悦は東京の産婆会の会長で小石川で助産婦をしていた。

 そして、北村悦の夫、北村利吉は警視庁勤務の巡査だったが、魔子をとりあげた北村悦を介する縁で、大杉と北村利吉は親交があったという。

 文学座俳優の北村和夫は、北村利吉・悦夫妻の孫である。

 北村和夫は警視庁の高等刑事だった祖父から直に聞いた話として、こう書いている。

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 大杉栄といえば、明治から大正にかけて無政府主義の革命家としてならし、警察にとっては目のカタキの人物でしたが、こともあろうに警視庁勤めの祖父が、この大杉栄と仲がよかったそうなんです。

 たとえば、こんなことがあったと祖父から直に聞いたことがありました。

 あるとき、刑事に追われた大杉栄が祖父を頼ってわが家に逃げ込んできたんですな。

 追ってきた刑事は、わか家の表札を見て、ハタと立ち止まり「北村さんの家ではなぁ……」とあきらめて帰っちゃったそうで、時代のせいかもしれませんが、なんとも妙な話です。

 ご存知のように、大杉は妻の伊藤野枝とともに、関東大震災のとき憲兵隊に虐殺されましたが、ずっと後になって、文学座でも『美しき者の伝説』(作・宮本研)という、大杉栄、伊藤野枝の出てくる大正ロマンチシズムの芝居を上演、評判になったことがあります。


(北村和夫『役者人生 本日も波瀾万丈』_p15)





「魔子」と命名したのは、大杉だった。


 彼女と僕との間に出来た第一の女の子は、僕等があんまり世間から悪魔! 悪魔! と罵られたもんだから、つい其の気になつて、悪魔の子なら魔子だと云ふので魔子と名づけて了つた。

(「二人の革命家・序」/大杉栄・伊藤野枝『二人の革命家』/日本図書センター『大杉栄全集 第7巻』)


 大杉は安成二郎に葉書を書いた。


 一昨々日女の子が生まれた。

 まだ名はきまらないが、僕は魔子と主張してゐる。

 女中はなし、忙しくてやりきれない。

 原稿は明日書く。

 それで間に合ふだらうか。

 九月二十八日夕(大正六年)

 栄 

 安成二郎様

(巣鴨宮仲から大久保百人町へ)


(「消息(大杉)」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)






「原稿」とは『女の世界』十月号に掲載された「野枝は世話女房だ」のことであろう。

 十月一日、野枝は妹・ツタに手紙を書いた。

 宛先は「大坂市西区松島十返町 武部種吉様方」。

 発信地は「東京市外巣鴨村宮仲二五八三」。

 松屋製二百字詰原稿用紙二枚にペン書き。


 前略 おかわりはありませんか、私も元気でゐます故御安心下さい。

 先日廿五日に女児出産魔子(まこ)と名づけました。

 そちらではもう松茸が出てゐるやうですが、こちらではまだ手に入りません。

 少々でよろしいが送つて貰へませんか、その代り何なりとそちらでおのぞみのものを、こちらからもお送りします。

 何卒よろしくお願いします。

 野枝

 津た子様


「書簡 武部ツタ宛」一九一七年十月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p443)





 そのころ、野枝の郷里の糸島郡一帯では、流行のノーエ節に託して、野枝を揶揄する替え歌が唄われたという。


 腹がふくれて野ー枝

 月が満つれば野ー枝

 いやでもサイサイ

 いやが応でも赤児ができる

 野枝の腹からノーエ

 赤児がうまれたノーエ

 野枝のサイサイ

 腹から赤児がうまれた


……世間を騒がせる野枝のことを愧(は)じて、一族の中にはこんど野枝が帰ってきたら尼にして、その曲がった性根を叩き直してやると息巻き、ウメ(※野枝の母・ムメ)の前で鋏をちらつかせる者もあった。

「そげんことであの子の性根が変わると思うとなら、してみりゃよかたい」

 ウメはそういって薄笑いしていた。

 周囲のすさまじいまでの非難の中で、この言葉はウメが不思議なまでに動じていないことを示している。


(松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』_p32~33)





 野枝は内藤民治が創刊した『中外』十月創刊号に「サニンの態度」を書いた。

「女流作家の男性観」という欄に寄稿したもので、野枝の他には小口みち、素木しづ(しらき・しづ)、西川文子などが寄稿している。

 野枝は「自分の好きなタイプ、嫌いなタイプの男」について、歯切れのいい文章を書いている。


 どんな性格の男に敬愛を捧げるかと云ふ問いに対して理想を云へば……実在の男ではありませんが、アルツバシエエフによつて描かれた、サニンが好きです。

 何物にも脅やかされず、どんな場合にも、大手を拡げて思ひのまゝに振舞ふ。

 一寸(ちよつと)誰にも真似の出来ない超越した態度が好きです。

 ……若い理想主義者の死に対して、何の躊躇もなしに、その葬式に際して『世間から馬鹿が一人減つたのだ』と平気で云つて退ける彼が、私には少しのわざとらしさも嫌味をなく受け入れられるのです。

 サニンのやうな男なら、一つの命を二つ投げ出しても尊敬を捧げて見たいとおもひます。

 体は出来る丈け男らしい肩と胸を持つた人が好きです。

 しかし、会つた最初にさうした肉体的な印象や圧迫を先きに、与へるやうなのは嫌です。

 顔には随分好き嫌ひがありますが……あんまりテカ/\と血色のいゝのは何となく俗物らしい感がして嫌いです。

 それから髯のないのも嫌ひです。

 それから変にのつぺりした綺麗な所謂美男子は嫌ひです。

 しかし……顔は……表情で極まるものだとおもひます。

 私はひげのない顔は嫌やだとたつた今書きましたけれど、好きな顔があります。

 音楽家の澤田柳吉氏の顔がさうです。

 彼の人のあの蒼白い顔色とこめかみのあたりから頬にかけての神経質な線は、他の誰にも見出せないやうな特別な魅力をもつてゐます。

 それから寄席芸人の猫八、あの男のたゞの時はそれ程何も感心する顔ではありませんが、彼が真剣に虫の鳴声や鳥の声をまねてゐる時は、本当にしつかりしたすきのない、いゝ顔を見せます。

 髯のない嫌な顔では先づ与謝野鉄幹氏。

 あれでも詩人なのかと思ふやうな顔だと私は思ひます。

 関西の方の商家の店に座つてゐる男によくあのタイプを見ます。

 それから役者の吉右衛門の顔。

 舞台に出ると少しつり上つた眼尻から、高いコツコツの頬骨のあたり、何時もかたく結んだ唇のあたり、何を演(や)つてゐても如何にも小心な他人の気持ばかりを覗(うかが)つてゐるやうな佞奸邪智(ねいかんじゃち)と云つた感じを強く与へます。


(「サニンの態度」/『中外』1917年10月創刊号・第1巻第1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p441~442)


与謝野鉄幹



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★北村和夫『役者人生 本日も波瀾万丈』(近代文芸社・1997年)

★大杉栄・伊藤野枝『二人の革命家』(アルス・1922年7月11日)

★『大杉栄全集 第7巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』(講談社・1982年3月10日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年06月07日

第244回 世話女房






文●ツルシカズヒコ



 七月初めに北豊島郡巣鴨村宮仲に引っ越して来た大杉と野枝だが、九月末に野枝が大杉との第一子、長女・魔子を出産する直前のころの野枝について、大杉が『女の世界』に書いている。

 懇意の編集者である安成二郎に依頼されたようで、大杉は安成に話しかけるようなスタイルで書いている。

 まず、冒頭にこう記している。

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 もう今日か明日か知れない産月の大きなお腹を抱へて、終日ごろ/\して呻つてゐるあいつに、何んの近状などゝ書き立てる程の大した事があるものか。

 そりや、書けば、いくらでも書ける。

 しかし、『ねえ、ちよいと、又こんなに動いてゝよ』などと、媚笑(びしよう)の中に一寸(ちよつと)眉をしかめて、そつと手を引きよせて擦(さす)らせて見る、と云ふやうな光景ばかり詳かにされちや、君の方で迷惑だらう。


(「野枝は世話女房だ」/『女の世界』1917年10月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』には「世話女房」として収録 ※『女の世界』から引用)


 なお、「野枝は世話女房だ」は「世話女房」と改題されて、安谷寛一編『未刊・大杉栄遺稿』(金星社・一九二七年十二月二十日発行)に再録されている。『未刊・大杉栄遺稿』は大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 』(全十巻)の補遺にあたるもので、同書を含めた『大杉栄全集 』(全十一巻)は世界文庫から復刻版が発行(一九六三年〜一九六四年)されている。







 大杉は野枝の世話女房ぶりと近状を結びつけたものを書くことにした。


 あれで、君、随分世話女房なんだ。

 僕の身のまはりの事だとか、家事の事だとかには、あいつには何方(どつち)の期待も持つてゐなかつたんだ。

 勿論こんなに長い間一緒に暮らしてゐようとも思はなかつたね。

 ところが、君、すつかり当てが違つちやつたんだ。

 前の保子だつて、君も知つての通り、随分いゝ世話女房だつた。

 そして其の世話女房ぶりに僕は惚れこんだのだつた。

 しかしあの女には、それ以外に、牛を殺す的の賢夫人気質があつた。

 あいつにはそれがない。

 そしてより以上に世話女房的なんだ。


(同上)





 女中もいなかったので、水汲みと掃除は大杉が受け持って、あとの万事は野枝が大きなお腹を抱えながらやっていた。


 随分無性者のなまけ者なんだが、いざ庖丁を持つとなると、うるさいとか面倒臭いとか云ふ事はまるで知らない人間のやうになる。

 よつぽど喰ひ意地が突つ張つてるんだね。

 せつせとやる。

 お手際もなか/\見事なものだ。

 実際あいつの手料理に馴れてからは、下手な料理屋の御馳走はとてもまづくて口にはいらない。

 なに? それや僕の直観のせいだらうつてのか。

 それもちつとやそつとははひつてるだらう。

 しかし実際甘味(うま)いんだ。

 家庭料理なんぞと云ふ野暮なものぢやないんだ。

 それとも、疑ぐるんなら、近いうちにお招きしてあいつのお手料理を御馳走して見てもいゝ。

 お針も相応にやる。

 滅多にはやらんが、気が向くと、夢中になつてやる。

 此頃は、ふとんだのセルだのゝ縫ひ直しやら、産れる赤ん坊の仕度やらで、気が向くと云ふよりは寧(むし)ろ必要に迫られて、大ぶ忙しさうにやつてゐる。

 手も早い。

 やりくりもなか/\うまい。

 前には二三の仕立屋に頼んだ事もあるが、どれもこれもお気に召さんとかで、止して了つた。

 僕にしても、やつぱりあいつの縫つたものゝ方が、よほど着心地がいゝ。

 お化粧のことなどもなか/\よく心得ている。

 これも滅多にはやらんが、時々少しお湯が長いと思ふと、銀杏返などに結ひこんで薄化粧の別人のやうになつて帰つて来る。

 鼻つ先やおでこを塗り立てたり、耳のうしろや首筋に白粉をよらしたりするやうな、無様な真似はしない。

 そして、そんな時に限つて、そつと三味線を持ち出す。

 お得意は端歌(はうた)。

 酒も少しはやる。

 お芝居は大好き。

 ごひいきは左団次源之助


(同上)





 野枝は不器用で裁縫が苦手だったという通説は、どうも違うようだ。

 野枝は良妻賢母教育の一環としてやらされる裁縫を嫌悪していたのだろう。

 ただし、金の管理は苦手だった。

 どんなに困っていても、一円や二円の小使いを持っているというようなことができなかったという。


 あればあるだけパツパと費(つか)つて了ふ。

 それも自分の金と他人の金とに大した区別はなささうだ。

 なければなしでノホホンとしてゐる。

 たとえば、電車賃がなければ、二人ならば、一里でも二里でも平気な顔をしてあるく。

 若し又、一人ならば、何処へでも遠慮会釈なしに宿車を駆(か)つてあるく。

 あいつが車に乗つてゐるのを見たら、きつと懐中無一文の時と思ひたまへ。

 これを要するに、あれで若し、新しい女などゝ言われる余計な思想を持たなければ、そしてお顔の造作と出つ臀(ちり)とがもう少しどうかしてゐれば、そして又多少余裕のある家にでもゐれば、本当にいゝお神さんなんだがね。


(同上)


★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



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第243回 第二の結婚






文●ツルシカズヒコ




 辻と野枝の協議離婚が成立したのは一九一七(大正六)年九月十八日だった。

 戸籍上、野枝は伊藤家に復籍することになったが、野枝は『婦人公論』九月号に、辻との離婚の経緯を書いた。

 その冒頭にはこう記されている。


 破滅と云ふ事は否定ではない。

 否定の理由にもならない。

 私は最初にこの事を断つて置きたい。

 不純と不潔を湛へた沈滞の完全よりは遥かに清く、完全に導く。


(「自由意志による結婚の破滅」/『婦人公論』1917年9月号・第2年第9号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に「自由合意による結婚の破滅」と改題し初収録/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p431 ※引用は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』から)

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 ポイントを、以下に抜粋要約してみた。

 ●私は結婚に対してはまったく盲目であった。私の第一の結婚は因習に則った親たちの都合による「強いられた結婚」であった。

 ●その「強いられた結婚」に反逆した私は、関係者の世間に対する立場を失わしめ、彼らの面目を潰した。

 ●私は彼らの呪詛と憤懣と嘆きにさらされ、因習の擁護者たちから嘲笑された。

 ●ことに両親の嘆きは、私を絶望のドン底に導き、私に強い苦痛を与えた。

 ●自分を支えたものは、自分を屈しめようとする習俗に対する反感と「真実」に対する自分の信条だった。

 ●結婚とはまず恋愛ありきという私の信条は、現実に進行していた恋愛によって支えられ、そして私の苦痛はその恋愛によって慰められ癒された。





 ●当時、私たちの周囲には、私と同じような例がいくつもあった。エレン・ケイに共鳴したのも当然のことだった。そして、自由意志に反した結婚の惨めさがさらに多くの根拠をもって考えられるようになった。

 ●私の恋愛は成功した。私は朝夕を愛人とともにすることができた。私たちは本当に幸福であった。

 ●そして、自分が危なかった第一の結婚問題をよく切り抜けたという安心に満足していた。

 ●私は結婚に対する失敗のすべては、原因がただ恋愛によらぬ、他人の意志を交えた結婚だからだと考えていた。私はまだ盲目だった。そこに私の第二の結婚の破綻があったのである。

 ●私たちの関係はいつの間にか、私の両親にも、愛人の周囲にも、私たちを知る世間の人々にも認められた。

 ●同時に、私たちはいわゆる社会的承認を経た結婚制度の中に入ってしまった。

 ●私は既成の家庭生活に入った。そこには姑も小姑もいた。

 ●私たちとはまるで違った思想、趣味、性格を持った、私にとっては赤の他人がいた。





 ●私はそれらの人と日々、種々な親密な交渉がなされなければならないという、少しも不思議がってはならない不思議なことに直面することになった。

 ●しかし、無知な婦人たちが強いられた結婚生活においてすべてを「そうしたもの」と教えられ、少しも不思議がらずに、その生活に慣らされていくように、私は男に対する愛に眩まされて、何の疑念も持たずにその生活を肯定した。

 ●私はすでに幾歩か因習に譲歩したことになる。これだけの事実でも、結婚という約束に対する私の盲目を充分に証拠立てている。

 ●他人を交えない、男と女ふたりきりの生活においてさえも、違ったふたりの人間がいつも同じ雰囲気で暮らしていけるわけではない。

 ●まして他人が介在している複雑な雰囲気が、いつも静かなままですむはずはない。各人ひとりひとりが、不快な思いをしなければならないことがずいぶんある。

 ●そういう場合、一番目立つ異分子は私であった。どんなときでも、たいていは私の負に極まる。

 ●「ふたりきりの生活だったら」、そういう不平を私は持ち始めた。

 ●ようやく私たちの情熱がいろいろなものに克ち得たように見えたとき、私たちはお互いの心の内にさぐりを入れ始めた。





 ●しかし、それを充分にしないうちに、子供が生まれ私たちは両親としての新たな関係に入っていかなければならなくなった。

 ●自分が子供の親になるーー私はそんなことを考えてみたこともなかった。

 ●ただ子供のためにとばかりにまるで意義のないような生活を送ることは、私にはなんの役にも立たない因習的犠牲行為にしか思えなかった。

 ●しかし、実際に出産し育児をしてみると、ひとりの子供を育てることが、どんなに立派で難しい仕事かということがしみじみ考えられた。

 ●すべての悲しみも喜びも、日常のあるゆることが、子供を中心にしたものになる。

 ●愛で結ばれた男女の共同生活が、父と母という二重の結合になり、その結合は子供を育てる義務と責任を生じさせてふたりの関係はより深くなる。

 ●かつて、他人のそうした生活には秘かに侮蔑を持っていた私だが、子供のためなら自分のあるゆるものを犠牲にしてもいいと思ったこともあった。





 ●しかし、私のわずかばかりの力は、ずんずん伸びていく子供の成長に圧倒されがちであった。

 ●いい加減な教育は子供にとって、邪魔なものと考えるようになった。子供の成長はできるだけ自然な伸び方をするようにしたいと思い始め、傍観的になった。

 ●しかし、よけいなお節介があちこちから来た。

 ●そうした母親としての憂慮を男に語っても、自分と同じような感覚を持ってもらうことはたいていの場合、困難である。

 ●抽象的な同感はしてもらえても、それが具体的になった場合にはまるで別物である。

 ●女の生活の中心が子供に移るようになれば、注意はその方にばかり注がれる。だから、ふたりだけの愛を中心にした生活とはだいぶ勝手が違ってくる。男はたいてい女ほど献身的にはなりえない。





 ●私の子供の父親は根強い個人主義者だ。彼は他人に立ち入られることが嫌いなかわりに、他人のことに立ち入ることも嫌いというスタンスを徹底していた。

 ●私が子供に関する不平不満を話すと、彼はなんの同感も持たないで、反感を示した。そしてふたりの間に、覆いがたい疎隔ができてきた。

 ●そういうふたりの関係の疎隔に対して、何か策を講じることができればまだいいが、お互い悪いことにそれを覆い隠そうとした。

 ●自由結婚をした者が、世間の目に対する意地を張ってしまったのだ。自分たちの行為を失敗に終わらすまいという考えに固執してしまった。

 ●それが真の疎隔ではなく、私たちは深くつながっているのだという安心を得たいがために、私は普通ではとてもできそうもない譲歩や妥協をし、あらゆる行為が夫のため、子供のためだとしきりに考えた。

 ●そうして、馬鹿馬鹿しい誤魔化しの生活が始まった。





 ●しかし、私はこの男との生活を始めるために多大な苦痛を払った、高価な代価を忘れることができなかった。

 ●その高価な結婚生活が失敗に終わっても、それが無意義になりはしないのだが、なかなかそうは考えられなかった。

 ●結局、私は第一の結婚を破棄する際の倍ぐらいの価を支払って、贋物の関係から自分を絶った。

 ●自分の根本の思想や態度をはっきりさせることができなかったことが、第二の結婚の苦痛を生み、その責はすべて私にある。

 ●私は自分の失敗から、これだけの結論を受け取った。そして、私だけでなく、同一の例はまた多くの人々の上にも等しく広がっていることと思う。

 ●しかし、失敗することは悪いことではない。私は第二の結婚の失敗で、これだけの多くのことを学んだ。




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第242回 夫婦喧嘩






文●ツルシカズヒコ



『女の世界』一九一七年七月号のアンケートに、大杉と野枝は回答を寄せている。

『女の世界』同号は「男女闘争号」と銘打ち、目次に「夫婦喧嘩の功過と責任の所在 名流六十家」とある。

 質問一は「夫婦喧嘩の功過」、質問二は「夫婦喧嘩は良人の責か妻の責か」である。

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 「社会主義者」という肩書きの大杉は、こう回答している。


 一、

 亭主は女房に出来るだけ甘くして置いて大がいの我儘はうん/\聴いてやるべし

 そして、心棒の出来ぬほどの増長した時には、先づ屁理屈を並べ立てゝ、、説服を試み、それでもきかなきや、平手、ゲンコツ、足蹴(あしげ)、力に任せて死なぬ程にぶちのめした上にふだんに増して舐めすり廻してやるべし。

 されば夫婦喧嘩は必ず功ありて過(くわ)なき疑ひなし。

 二、

 何事も女房の方で下に出て、ハイ/\さへ云つて居(を)れば、夫婦喧嘩の起(おこ)るきづかひなし。

 従つて夫婦喧嘩の責(せめ)が女房にあるは云ふまでもなし。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p84)





 大杉が野枝に暴力を振るっていたとは考えにくいので、大杉の回答はウケ狙いの冗談であろう。

「栄氏同棲者 新らしい女」という肩書きの野枝は、こう回答した。


 一、

 夫婦喧嘩のときには、私は出来るだけ何時でも、強情を張ります、男はさう云ふ場合には意久地(いくじ)のないものです。

 尤(もつと)も男に云はせれば面倒くさいからと云ひますけれども何でもかんでも、此方(こちら)から頭を下げないでもすみます。

 喧嘩をしてゐる時には出来るだけ強情を張るのが一番いゝ方法です、向こうから仲なほりの申出があつたら、出来るだけしをらしくあやまるのです、そして甘へます。
 
 それですつかり仲直りは出来ます。

 喧嘩の仲直りをした後で損をしたやうな気のした事はまだ一度もありませぬ。

 だから喧嘩は必要なものとおもひます。

 仲直りをした後で笑ひながらめい/\の気持をはなしたりすれば、一層親しみを増します。


 二、

 場合による事でせう。

 しかし大抵は、男のむかつ腹から、此方もむつとする位の処ですね、まあこれは、五分五分でせうね。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p85~86/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p429)






 ちなみに「社会主義者」山川均は、こう回答している。


 拝復、小生儀(ぎ)目出度く華燭の典を挙げ候てより、日尚浅く、不幸戦機未だ熟せずして、花々敷き一戦に良人(をつと)の威光を発揮せし程の武勲も無之(これなく)、誠に汗顔の至りに御座候(ござそろ)。

 御提示の問題に就いては固(もと)より大いに抱懐する所有之(これあり)候へ共、生兵法にして兵を語るは大創(きず)の元、何(いづ)れ幾実戦を経たる上重ねて貴問に拝答するの光栄と機会を待ち候(そろ)。

 匆々頓首


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78)





「均氏夫人 新らしい女」山川菊栄は、こう回答している。


 拝復、折角(せつかく)のお問合せではございますが、私方(わたしかた)は平和主義者非戦論者の集りなので、健国(けんこく)以来太平のみ打(うち)つゞき、仲人の立て甲斐が無くて誠に気の毒に存じて居ります位

 随(したがつ)て御返事の材料に苦しみます。

 追而(おつて)時代の推移と共に戦国時代に入りましたら夫妻共著の参戦実記でもお目にかけることゝ致しませう。

 夫婦喧嘩の功過並に責任の帰着点如何(いかん)は同書講和会議の後(のち)に依(よつ)て明かに知ることゝ存じます。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78~79)





 ついでに「画家」岡本一平の回答。


 一、功過相半(あひなかば)す

 二、良人より申せば妻の責(せめ)、妻より申せば良人の責。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p88~89)



「一平氏夫人 新らしい女」岡本かのの回答。


 一、岡本一平氏の説と同じ。

 二、同上。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p89)





 八月十三日、野枝は妹の武部ツタ宛てに手紙を書いた。

 宛先は「大坂市西区松島十返町 武部種吉様方」。

 発信地は「東京市外巣鴨村宮仲二五八三」。


 お手紙拝見。

 大坂に来てゐると云ふことはやつと半月ばかり前にききました。

 東京に来たのだつたら尋ねて来ればよかつたのに。

 本郷の菊富士ホテルと云ふことは今宿のうちでも代のうちでも知つてゐる筈、一寸きいてから来ればよかつた。

 うちからは四五日前たよりがあつた。

 突然に、盆前に金を送つてくれるやうにとの事だつたけれど、もう日数がないから、とりあえず手許にあつた拾円だけ送つておきました。

 私も毎月でも送りたいと思ふが、流二を他所に預けて、その方に毎月十円近くとられるので、三十円や四十円とつた所でどうすることも出来ないのに、この二三ケ月は体の具合がわるくて少しも仕事をしないで遊んでゐるので一層困ります。

 出来さえすればどうにでもするつもり。

 今宿へは今年一杯はかへれないと思ふ。

 来年になつたら早々にかへります。

 大阪には、もうよほどお馴れか、少しは知つた人が出来ましたか。

 私も時々はたよりをするから、そちらでも時々はハガキ位は書いて欲しい。

 こちらに用があつたら、面倒な事でなかつたら足してあげる。

 入用なものでもあつたら、とゝのへてあげる。

 大阪では、国とも大分遠いから、体を大切にして病気になんかならぬようになさい。

 私のことは心配しなくても大丈夫だから。

 そのうち大阪にでも行つたら会ひませう。

 大坂(ママ)は特にあついから本当に体を大事におしなさい。

 野枝

 津た子どの


「書簡 武部ツタ宛」一九一七年八月一三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p430)





『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、この書簡は封書で、松屋製二百字詰め原稿用紙三枚にペン書き。

 封筒(一九五×八五ミリ)の表には「6.8.14/前10-12」、裏には「6.8.15/前8-9」の消印。

 つまり、表の消印は大正六(一九一七)年八月十四日午前十〜十二時、裏の消印は同年八月十五日午前八〜九時ということである。

 封筒裏には直筆で「十三日」とある。

 ツタは書簡本文では「津た子」、封筒表には「津多子」と書かれている。

「代のうち」とは当時、大阪に住んでいた代準介の家のこと。




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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2016年06月05日

第241回 伊藤野枝論






文●ツルシカズヒコ




『新日本』一九一七(大正六)年七月号・八月号に平塚明「伊藤野枝さんの歩かれた道」が掲載された。

『新日本』はらいてうに「伊藤野枝論」を書いてほしかったのだという。

『新日本』は野枝が同誌四月号に寄稿した「平塚明子論」の対になるものを、らいてうに寄稿してほしかったのだろうが、らいてうはそれをやりたくなかったので、野枝が歩んで来た道を自分の知っている範囲内の事実によって書いたという。

 らいてうが「伊藤野枝論」を書きたくなかったのは、野枝の思想や生き方が自分にとって論じるに値しないと考えていたからであろう。

 しかし、「伊藤野枝さんの歩かれた道」は野枝を全面否定する、らいてうの「伊藤野枝論」の体をなしている。

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 前半部分を抜粋要約、引用をしてみる。

●『青鞜』に野枝が寄稿した文章はともかく、実生活の野枝は人格的訓練のまったく欠けた、生理的なものに支配される多血質の婦人であり、一時的な感情に左右される軽率な無思慮で無反省な行動がかなり多い人です。

●理智の光も意志の力も、彼女の熾烈な本能や衝動の前には役立ちません。

●そこには一貫した、統一された真の強い自我生活などとうてい見出すことができません。

●野絵さんは非常に粗野で、欠点の著しい、隙だらけな、矛盾の多い生活をしている婦人として、あるいは始末にを得ないほど無責任で、信頼することのできない婦人として、私の眼に映ることがあります(その顕著な具体例として「動揺事件」を挙げている)。

●青鞜社に浴びせられた非難攻撃に激昂し、熱心に反駁したのも野枝さんでしたが、彼女自身の積極的な考えやその主義主張が語られていないので、なんの効果もなかったと思います。

●らいてうは野枝の書いた「S先生に」を具体例に挙げ、こう書いている。





 一体、野枝さんの思想は(否その行為も)かうしたは反駁文の場合のみに限らず、その性格の自然の結果として、総てがしかも最初から、そして今日もなほ、破壊的な消極的な方面の要素が多分で、いつまで行つても建設的な積極的な方面に出ないやうであります。

(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p331/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p309 ※引用は『現代の男女』から)





●野枝さんは道徳を破壊した後のことは少しも述べていません。

●野枝さんには道徳本来の意義や起源や歴史についての知識がまったくありません。

●野絵さんは無道徳世界の出現を望み、憧憬しているのでしょうか。

●新道徳の建設の意志、道徳改善の要求などの研究をまるでしない野枝さんに、私はいつも物足りなさを感じています。

●野枝は『青鞜』をらいてうから引き継ぐにあたり、すべての規則をなくしたが、これを例に挙げ、こう書いている。





 彼女が感情的なばかりで……理知的方面を備へてゐない……知識の光がない……やうに思はれます。

 ……単なる破壊は情熱のよくするところですが、建設は情熱の上に……知識ーー殊に客観的な科学的なーーにまたなければならないのですから。

 ところが野枝さんのやうな感情の動揺のはげしい人は、落着いた観察や研究や冷静な討究や、論理などとは到底容れなのでありますから。

 この点から見ても彼女の思想行為はまだ空想の域に止まつてゐると言つても差支ありますまい。

 なほ同様の意味から野枝さんは他日或は単なる革命家となり得るかも知れませんが、真に人類に、文明に何ものかを貢献する社会改造家と成る素質に至つては今日までのところでは全く欠けてゐると言はなければなりません。



(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p333~334/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p310~311 ※引用は『現代の男女』から)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、七月六日、大杉と野枝は本郷区菊坂町九十四の下宿から、北豊島郡巣鴨村宮仲二五八三(現・豊島区北大塚三丁目三十一番地付近)に転居した。

 家賃は月十三円五十銭。

 板橋署の専属の刑事三人が始終見張っていた。


 巣鴨の家と云ふのは、実は、ほんの半年から一ケ月かのつもりで借りたんだ。

 板橋ではそれを知らないもんだから、さあ大変な奴が来た、何んとかして遂つぱらはなくちやと云ふんで、ひつこした翌朝早々先づ家主をおどかした。

 それから出入りの商人等を門前で喰ひとめた。

 僕等のやうな、時々、と云ふよりもしよつちゆう、財布のからな人間には、本当にいい責めかただ。

 で、こつちは少々癪にさはつたもんだから、とうたう半年あすこにゐてやつた。


(「亀戸から」/『文明批評』1918年2月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』※引用は『大杉栄全集 第四巻』から)





 新居は当時、『東京日日新聞』記者だった横関愛造の家と一丁と離れぬところにあった。

 横関が大杉、野枝夫妻と親密なつき合いをするようになったのは、このころからだった。


 神近市子氏に切りつけられた傷あとが、まだなまなましく首すじに残っていた。

 巣鴨新田の細い道に面した、三室ほどの家の前には、見張りの尾行のたまり場があり、大杉家に出入りする人物を、いちいち点検し、人によっては、その後を追って、住所姓名を誰何(すいか)されたものである。

 ……家にかえると直に尾行してきた私服がやってきた。

「何の用事で大杉にいきました」

「そんなこと君に報告する義務はない」

「しかしお隠しになるとタメになりませんが、いいですか」

「どうぞ御自由に……」


(横関愛造『思い出の作家たち』_p254)





 横関愛造の家も近所にあり、大杉の家と横関の家と岩野泡鳴の家は、一丁ほどの距離で等辺三角形の位置にあった。

 泡鳴は当時、正妻の遠藤清子と離婚訴訟中で、愛人の蒲原英枝と同居していた。

 ある日、横関の家で野枝を伴った大杉と泡鳴がバッタリと顔を合わせた。


「ホー、あなたが野枝さんですか、聞きしにまさる別嬪だなア」

 顔を合せて、お互いにあいさつしたと思ったとたん、泡鳴は無遠慮に野枝女史をつかまえてこう感嘆した。

 さすがの野枝女史もテレくさそうに顔を赤くしていたが、そばから大杉が吃りながらニヤッと笑って、

「君にほめられちゃア本望だろう、せいぜい大事にするか、ね」

 と、これを笑殺してしまった。


(横関愛造『思い出の作家たち』_p193)


『改造』と横関愛造



★『らいてう第三文集 現代の男女』(南北社・1917年12月24日)

★『女性の言葉』(教文社・1926年9月10日)

★『平塚らいてう著作集 第2巻』(大月書店・1983年8月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★横関愛造『思い出の作家たち』(法政大学出版局・1956年12月5日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年06月04日

第240回 百姓愛道場






文●ツルシカズヒコ



 日蔭茶屋事件後、半年くらいの間、大杉は「神近の怨霊」をよく見たという。


 ……夜の三時頃、眠つてゐる僕の咽喉を刺して、今にも其の室を出て行かうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちよつと立ちとまつて振り返つて見た、その瞬間の彼女の姿だ。

 毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。

 すると其の目は同時にもう前の壁に釘づけにされてゐて、そこには彼女の其の姿が立つてゐるのだ。

 そして、其のいづれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたやうに慄えあがつて、一緒に寝てゐる伊藤にしつかりとしがみついてゐるのだつた。

 ……僕は本当の自分に帰つて……手を伸ばして枕もとの時計を見た。

 時計はいつも決つて三時だつた。

『又出たの?』

『うん。』

 と、伊藤はそれを知るつてゐる事もあつた。

 が、ぶる/\慄えたからだにしがみつかれながら、何んにも知らずに眠つてゐる事もあつた。

 そして、よしそれを知つてゐても、僕のおびえが彼女にまでも移る事は決してなかつた。

 彼女はいつも、

『ほんとにあなたは馬鹿ね。』

 と、笑つて、大きなからだの僕の頭を子供のやうに撫でてゐた。


(「お化を見た話」/『改造』1922年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「葉山事件」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一七(大正六)年四月九日、大杉と野枝は江渡狄嶺(えと-てきれい)を訪ねた。


 ……当面の生活費、さらには運動への後援、資金の懇望のためだろう。

 彼は応じたらしく、さらに『文明批評』発刊時にも、資金援助をしてもらったとみられる。

 江渡は府下高井戸村(現、杉並区高井戸東一丁目)で「百姓愛道場」を開き、農業経営を実践していた。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p207)





 六月十七日、神近の控訴審判決が出た。

 懲役四年から懲役二年に減刑された。

 弁護士は一年以下の懲罰にできると踏んでいたが、神近が服役してサッパリ罪を償いたいという意思表示をしたので、控訴は取り下げられた。

 六月下旬、空には雲があったが、その間から初夏の強い陽が射していた。

 この日、生田春月のところに来客があった。

 そのときのことを春月は自伝的小説「相寄る魂」に記している。

 生田春月はモーリス・メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を終えたばかりだった。

 その原稿を持って書店に売り込みに行こうかと思い、机の上などを片づけていると、下宿の女中が来客を知らせに来た。

「お客様ですよ、御夫婦らしいですわ」

「お邪魔じゃないかね」

 と言って入って来たのは、思いがけず大杉だった。





 大杉の後ろには小柄な野枝がいた。

 野枝は髪を真ん中から分けて頸で束ね、ニコニコしていた。

「ついこの前を通ったもんですから……」

 彼女はやはりニコニコして、そこらじゅうを見回しながら、大杉のそばに座った。

「静かでいいわね、この部屋は……」

 野枝はいそいそしている様子で、誰に言うともなく呟いて、春月をちょっと見てから、大杉の顔を甘えるように覗いた。

「どうしています。何をやっています?」

「メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を仕上げたところです」

「『モンナ・ヴァンナ』を?」

 大杉は意味ありげに微笑した。





 大杉のその落ち着いた様子に、新聞や人の噂で伝わっているような興奮や熱しているような気配は、微塵もなかった。

 日ごろ疎遠になっていた大杉が野枝と連れ立って、序(つい)でとはいえ、訪れてくれたことが春月は嬉しかった。

 大杉が愛する女、野枝の濃い眉をした丸顔がニコニコしていた。

 辻潤とも親密な交わりのあった春月は、このときの野枝の印象をこう書いている。

「奈枝子」は野枝、「隅田順」は辻、「大菅左門」は大杉。


 奈枝子はすつかり若く見えた。

 隅田順の家で、暗い皮肉な顔をして、子供をかかへてゐた時とは、まるで別人のやうに見えた。

 新調らしい派手なセルの着物に、赤の入つたメリンスの帯を締めて、その服装からして、まるで甦つたやうに、いかにもいきいきとして見えた。

 隅田順の家で、あのやうに老けて、理窟つぽく、ドゲトゲして見えたその女が、大菅左門の傍で、こんなにもいきいきと、あどけなく、女らしい女に見えるのに、純一は注意を向けずにはゐられなかつた。


(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)






「あなたのところにも、その本があったわね」

 春月の蔵書を物珍しそうに見ていた野枝が、そこに出ていた『義人田中正造翁』を見て言った。

「ああ、その本ですか」

 と春月が言った。

「あれは面白かったでしょう。あの中にある翁の臨終のときの言葉はずいぶん考えさせられるわ。あの中に島田宗三という谷中村の若者がでているでしょう。あの男だけは少しはもののわかる男だってことですが、谷中村には本当に翁を理解する者がなかったってことは事実ですわ……」

「谷中村は今はどんなになっているんでしょう? ずいぶんひどくなっているでしょうね」

 と言う春月に、野枝が大杉と連れ立って谷中村を訪れたときの話をひとしきりし始めた。

「わざわざ遠くから訪ねて行った私たちに、別に感謝するふうでもなく、冷淡かと思われるような様子でしたよ」

 野枝が話している間、大杉は何も言わず、話を静かに聞きながら微笑している。





「どうだい少しは重荷が下りたような気がするか、もっとあそこでいろんなことを訊くのかと思ったら、何も訊かなかったねと、帰りに大杉に言われたんですけれど、本当にあそこの荒涼とした、すっかり生気を奪われた、何里四方の泥地を考え出すと、言うに言えない気がしますわ」

 野枝が村の住民の反応について、大杉に問いかけるように言った。

「けれど、あの人たちはどうしてあんなに冷淡なんでしょうね。まるで反感でも持っているようだわ」

「そうだね、別に反感を持っているというわけでもなかろう。ことさらに感謝や女々しい感情を見せないだけ、そこにしっかりした諦めと決心とが見えているじゃないか。なかなかああはいかないものだ。それに、どんな場合でもそうだが、我々はたとえ自分たちのことを理解されなくったって、虐げられているもののために働かなきゃならないのだ」

 大杉はしっかりした調子で、野枝に話した。





「僕はこの間、辻君に逢いました、宮嶋君と一緒でした」

 春月がこう言うと、大杉は顔色ひとつ変えずに微笑しただけだったが、野枝は険しい目つきになった。

「辻君はあいかわらずスティルネルの話をしていましたが、宮嶋君がさかんにやっつけるので閉口してましたよ」

「宮嶋がやっつけるのは、むしろ僕じゃないですか。なんでもたいへん僕に対して憤っているそうだから」

「そうですってね」

 と野枝が口を歪めて言った。

「私をぶん殴るんですって……ぶん殴りたければぶん殴るがいいわ、かまやしないわ。こうなってくれば、世間全体が敵になったってかまやしないわ。世間なんか恐れていて何ができるもんですか!」

 野枝がそんなふうなことを荒々しく、野生的に言うとき、春月はなんだか若い牝馬でも見ているような気がした。

 大杉はそうした野枝の様子を慈しむように見ながら、自分はそうした世間や同志の非難や反感などについては何も言わず、春月の興味の持ちそうな話題を選んで話し出した。

 大杉は春月と共通の知人の近況などを淡々と話し終わると、急に語調を変えて言った。

「しかし、僕とてもみんなを非難できないかもしれない。それにしても最初の意気込みだけは失ってもらいたくないね。いったい、誰しもが初めて抱いて出発する感情を、よく幼稚なセンティメンタリズムだなどと言って笑うが、この生々しい実感のセンティメンタリズムが、本当の社会改革家の本質的精神なんだよ。それをみんな、長い間の無為と韜晦(とうかい)との惰性から、すっかり忘れたようになっている。これが何よりもいけない。僕自身が現にその硬直した心になって、無感激に陥ろうとしていたからね。僕としては今、僕の幼稚なセンティメンタリズムを取り返したい、憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまで憐れみたい。それにはまず、自分の生活を変えなくっちゃならない……」

「そうですわ、自分の生活から……」

 野枝が言った。





 大杉と野枝は一時間くらいいて、これから近くの雑誌社に行くと言ったので、春月も原稿を持って三人で下宿を出た。

 大杉たちには尾行がついているようには見えなかった。

 途中でまいたのかもしれないと春月は思った。

 通りまで出て、街角に行くと、大杉たちは右の方へ、春月は左の方へ歩いて行った。

 春月がしばらくして振り返って見ると、プラタナスの青い葉が繁っている下に、大杉と野枝が睦まじそうに、何か話しながら歩いている姿があった。

 たったひとりの女の殉情に身を委ね、心を励ましている、大杉の一種憂鬱な、いわば勝利の悲哀が、春月の心に残り留まった。

 春月は大杉が野枝を自分の救いにしているのだということを、実にはっきりと理解した。

 多大の犠牲を払っても敢えて悔いていない、大杉のその心事を春月は了解したと思った。


 奈枝子自身は、別に深い思想の持主ではない。

 けれども、女には、とりわけ或る種の女には、この不思議な、男子を鼓舞する霊妙な力がある。

 古来、すべての革命に、紅一点とも云ふべき女性を見出すのは、かういふ意味合ひもあらう。

 男子は石炭の如く燃える、然し、女性は石油の如く燃えあがる。

 そしてその速やかな焔と熱は、男子の可熱性のためには、いかに貴重なものであらう!


(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)


★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★生田花世・生田博孝編集『生田春月全集 第四巻』(新潮社・1930年12月/復刻版は飯塚書房発行・本郷出版社発売・1981年12月)



生田春月の自殺 


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:49| 本文

第239回 平塚明子論






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『新日本』四月号には「平塚明子論」を書いた。

 らいてうは「最近の我国婦人解放運動の第一人者として常に注目されつゝある」存在だった。

 野枝はまず冒頭に自分とらいてうとの関係を書いた。

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 私は学校を出た許りの十八歳の秋から三四年の間ずつと氏の周囲にあつた、氏に導かれ教へられて来た、私が今日多少とも物を観、一と通り物の道理を考へる事が出来るやうになつたのも氏に負ふ処が少くない。

 私にとつて氏は忘れる事の出来ない先輩でもあり、また情に厚い友人でもある。

 そして氏の傍にゐた間、可なり氏は氏の生活を打ち開いて見せられた。

 それだけにまた氏の真実にも接し得たと信ずる。

 私は、ずつと前から氏に対する理解なき言論を見る度びに残念に思つた。

 或る時には自分のやうに口惜しさに歯をくひしばつた事さへある。

 ……二年程前あたりから、いろ/\な事情がだん/\に二人を遠くした。

 それにも、私は多くの責を自分に感じてゐながらどうする事も出来なかつた。

 そうして二人の実際の上の交りが隔つて来ると同じやうに思想の上にも稍(やや)はつきりと相異を見出すやうになつた。


 殊に最近の私の上に起つた転機は私の境遇にも、思想の上にも、即ち私の全生活を別物にした。

 一方平塚氏も……文章の上にも、理論に於ても、あるひはその態度に於ても大家の風格を具へて来た。


(「平塚明子論」/『新日本』1917年4月号・第7巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p414~415)





 この批評もけっこう長いので、以下、抜粋要約。

●らいてうは、それまでの日本婦人には希有な明晰な頭脳と思索力を持っている聡明な女性である。

●しかるに、彼女の聡明さが反感を買うのはなぜか? 「一人自らを高し」とし、「自分だけには欠点のないやうな顔をする人」という反感を買うのはなぜか?

●らいてうの聡明さは他人の欠点を笑って、平気で自ら一人高く済ましているような浅薄なものではないと信じたい。

●らいてうは他人の欠点を見ることによって、自省を深め、用心深くなり、用意周到に自分を慎み深く保とうとしているのである。

●世間の多くの人々はらいてうを理智一辺倒の人として、硬い冷ややかで女らしい感情もないように思っているようだが、それは大きな間違いだ。氏はあの冷ややか表構えの奥に、女らしい温かさと柔らかさを限りなく持っているのだ。





●実家を出るまでの、らいてうの母上に対する苦しい心持ちに幾度も泣かされことを覚えている。

●親しい友達として遇された友情にも、隔てのない温かなものがあった。そういうときの氏には、なんの嫌味も冷静さも用意もない。やさしい思いやりに富んだ親切な友達だった。そうしてこのような氏に接した者は、決して私ひとりではない。

●しかし、らいてうは終始、そうではない。あくまで用心深い。柵を作り、ある一線からは一歩も踏み込ませることをしない。

●らいてうは弱味を人に見せる人ではない。いざとなれば、人を呑んでしまう度胸はいつでも持っている。しかし、この度胸が不誠実で傲慢な人というイメージに結びついてしまう。

●らいてうは誠実で謙遜で弱味をさらけ出すよりも、いつも強く冷たく動かずにいることが快いのであろう。





●らいてうの度胸のよさ、しばしば誤解を招く遊戯衝動は禅の修養の影響が大だと思う。

●らいてうの評論集『円窓より』は、理智の力が鮮やかで、事物に対する観察は同時代の婦人の追随を許さない。

●『円窓より』には、らいてうの凄まじい情熱も読み取ることができる。情熱とはすなわち自分の主張を認めさせようとする力、その主張に対する自信である。

●婦人自覚の第一の叫びを挙げたことに対する自負、開拓者に対する世間の嘲笑と侮蔑への反抗心、そして「嘲笑の下に隠れたる或もの」に対する自信が読み取れる。





●らいてうの稀れな理智と情熱とが、とにかく我が国の婦人運動の基礎を作った。とにかく眠れるものを揺り動かした。我々は氏のその力の前に充分な感謝を捧げなければならない。

●らいてうのそうした凄まじい情熱は、彼女が世間知らずだったから、実社会に対して無知だったから、社会の偏見の恐さを知らなかったから、生まれたとも言える。

●社会を知り、用事深くなった今のらいてうには情熱がなくなった。私はその消失を悲しむ。

●森田草平との塩原事件にせよ、青鞜時代の「五色の酒」「吉原登楼」にせよ、らいてうは当初、俗衆(ぞくしゅう)の滑稽さを笑っているようなところがあった。

●しかし、俗衆の興味本位、偏見、無責任さ、愚かさなどが、自分の思想の社会的な効果をも減殺することを知るにおよんで、らいてうはそうしたものを黙過することができなくなった。





●らいてうはエレン・ケイに活路を見出した。ケイによって自分たちを取り巻く社会的事実に関してぼんやり考えていたことを明確に教えられ、それによって自分の意見をまとめることができるようになった。

●らいてうは、自分の恋愛について、さらに母親としての婦人の生活について、ケイの言葉に多くの同感を見出すことによって、ケイからさらに大きなものを吸収することができた。

●そしてらいてうは、ケイを紹介することが最も確実に自己の主張や思想を広めるための最上の手段であると考えた。

●らいてうの主張や思想はケイの中に見出したものによって落ちついたようである。

●しかし、私はエレン・ケイの思想には黙過しがたい疑問を抱いている。





●あれほど用心深いらいてうが、ケイの主張に対しては、厳密な批評をしないことが、私には不思議だし遺憾に思う。

●これはあくまで私の推察だが、ケイの誰にも肯定される批評がらいてうに多くの同感を強い、尊敬を強い、極めて自然にケイに牽引され、さらにケイに牽引されていくのに都合のよい道筋がらいてうの前に拓かれたのではないだろうか。

●らいてうの生活を説明するためには、ケイの主張が最も都合がよかったとも言えるかもしれない。

●だが、過去におけるらいてうの事業に対しては我々は充分な尊敬を持たなければならない。

●しかし、詳細にらいてうについて考えるとき、我々はもはや、最初の仕事以上のことをらいてうに期待するのは間違っているかもしれない。





★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:09| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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