新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年06月30日
第268回 無政府主義と国家社会主義
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』十月号に「惑い」、『民衆の芸術』十月号に「白痴の母」を寄稿している。
以下は「白痴の母」の冒頭である。
裏の松原でサラツサラツと砂の上の落松葉を掻きよせる音が高く晴れ渡つた大空に、如何にも気持のよいリズムをもつて響き渡つてゐます。
私は久しぶりで騒々しい都会の轢音(れきおん)から逃れて神経にふれるやうな何の物音もない穏やかな田舎の静寂を歓びながら長々と椽側近くに体をのばして……新刊書によみ耽つてゐました。
(「白痴の母」/『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)
野枝はこの年、一九一八(大正七)年夏に一ヶ月ほど今宿に帰省していたので、そのときの実体験を元にしているようにも思える。
野枝の実家の隣り屋敷の隅にある小屋で暮らす、老母とその白痴の息子の「芳公」。
老母は八十歳をすぎている、「芳公」も五十歳を越えている。
「芳公」は野枝が子供のころから、子供たちからいじめられ、その腹いせに石を投げたりする地域の「乱暴者」だった。
野枝、彼女の弟、祖母が会話をするシーンがある。
……私の頭の中に、ふと祖母と弟の話し声がはいつて来ました。
『あたいはどうもしやしないよ』
『本当にかまわなかつたかい?』
『かまやしないつたら! あたいは見てゐる丈けだつてば』
『そんならいゝけれど……芳公に悪い事をするんじやありませんよ。芳公だつて人間だからね、決して竹の先でついたりいたづらをするんじやないよ』
弟は面倒臭そうに話をすると駆け出して来て縁側で独楽(こま)をまはし始めました。
『これ! またそんな処で。縁側でこまをまはすんぢやないと云つとくぢやないか』
『また誰か芳公をいぢめたの?』
私はからかふやうに弟に聞きました。
『いぢめやしないよウ、あんな奴いぢめたつてつまらないや』
弟は口を尖らして、さも不服らしく私の顔を見上げました。
『どうしてつまらないのさ』
私はその小さなふくれつ面を面白がつてまた聞きました。
『だつて、何したつて黙つて行つちやうんだもの、つまらないよ』
『偶(たま)には追つかけて位来るでせう?』
(「白痴の母」/『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)
これが一九一八年のことだとすると、野枝は二十三歳、弟・清は十歳、祖母・サトは七十六歳である。
野枝が祖母に頼まれて、老婆と「芳公」のところに夕食のお菜を持って行くシーンがあるが、近隣の人たちが老婆と「芳公」の面倒を見ていたようである。
家の裏の松の木で縊死した老母が発見されるラストが強烈であるが、実話を元にしているようにも思える。
このころ毎日のように、北豊島郡滝野川町田端の大杉家を訪れていたのが、和田信義だった。
和田は『労働新聞』第二号に短編小説「野良犬」を執筆し、同志例会にも出席していた。
当時、和田は『不平』という評論雑誌の訪問記者をやっていて、電車代と弁当代を貰って、大杉と野枝の家で油を売っていたのである。
和田(久太郎)も久板も下獄中で、田端に閑居していた大杉と野枝、そして来訪者の和田(信義)の三人は無駄口を叩き合っては笑った。
或日なんかは、野枝さんに自慢の歌澤を弾ひて貰つて、大杉君と二人で聞ひたことがある。
おまけに其時は、酒を飲めない筈の大杉君が僕と野枝さんのお交際みたいにして湯呑で酒をナメたりなぞした。
併し大杉君は三味線が嫌ひだとみえて、何か一言二言皮肉つたと思ふと忽ち野枝さんを怒らして終つた。
『駄目よ、この人は藝術なんかわかりやしないんだから……』
野枝さんは苦笑しながら云つて三味線をしまつた。
大杉君は皮肉さうにクスクス笑つてた。
(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号・1巻2号_p30)
酔っ払った宮嶋資夫と高畠素之が、大杉宅に乗りこんで来て、大杉と高畠が大喧嘩になったのも、このころだった。
高畠素之と呑んだ揚句、高畠が一緒に大杉を訪ねて見よう、と言ひ出したので、二人で訪ねた事があつた。
そのとき、彼等二人は何を話し合つた結果か、忘れてしまつたが、何でもつまらない言葉の末から、二人は立上つて擲り合ひを初めた。
私が二人の間に入つて、つかみ合つてゐるのを離させたとき、次の間の襖を明けて、野枝が私にくくり枕を叩きつけた。
あはてるな、俺は止めてるんだ、と言つたら、彼女はぴたりと襖をしめてしまつた。
(宮嶋資夫「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』)
野枝は、大杉が逗子の千葉病院に入院中に宮嶋から受けた暴行に仕返しをしたのである。
橋浦は高畠から聞いた話として、こう書いている。
高畠君は先日大杉の処へあばれ込んだとの事だ。
というのは高畠、宮嶋の二君がト或る店で一杯やって、大杉を招待した。
大杉の返事は、「陳謝して来い」というのである。
そこで高畠が「何を陳謝するのだ」とどなり込んで喧嘩になったが、宮嶋君がまア/\と止めたのだそうである。
(『橋浦時雄日記 第一巻』)
大杉の中では、四月に催された「ロシア革命記念会」での一件が、糸を引いていたと思われる。
宮嶋資夫「遍歴」によれば、大杉は英仏独伊露がよくできたし、本もずいぶん読んでいたが、高畠は英独だけであったが組織的に学問をする方であり、カント、ダーウィン、マルクスとその学問的忠実さには大杉も一目置いていた。
だから大杉には高畠は一寸苦手であったようである。
そして、高畠に対しては、あいつはあたり前に行つたら、プロフェッサーになる奴だ、と言つてゐた。
高畠の方では、大杉の才気縦横と、彼の度胸のよさにジェラシーを持つてゐたようである。
二人を見てゐると、何となく、仏独の相違を見本にしたように私には感ぜられた。
……無政府主義と国家社会主義、それは到底融和出来ないものであらうし……。
(宮嶋資夫「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』)
労働運動誌『青服』を発刊していた荒畑と山川も、東京監獄に入獄していた。
夫が留守中の山川宅を大杉がひょっこり訪れ、菊栄夫人を見舞ったのは十月のことだった。
「野枝さんもいっしょに来たいっていったんだけど、着物がなくてそとへ出られないんだ。この寒空にゆかた一枚でふるえてるんだから」
との話。
私はびっくりして、私の着物を一枚あげようかと思ったものの、目の前の大杉さんのリュウとしたなりを見て、考えなおしました。
野枝さんの場合は、鮫ガ橋や万年町の人々がゆかた一枚でふるえているのとはわけがちがう。
私の粗末なやぼくさい着物なんか手を通すはずがない。
明日にもいい風がふいてくれば錦紗の羽織をひっかけて二人仲よく一流の料亭に車を走らせるのだからと思ったので。
そういう明日をひかえているせいか、そんなにみじめな話をするときでも大杉さんはいっこう深刻な悲壮な顔つきをせず、面白そうに楽しそうに見えましたが、それがこの天才的社交家の魅力で、悪口をいわれても、金を借りられても、いやな顔せずにつきあうファンが多い原因でしたろう。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p261~267)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)
★『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(発売・風媒社 /発行・雁思社・1983年7月)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第267回 米騒動
文●ツルシカズヒコ
野枝は『婦人公論』一九一八年七月号(第三年第七号)に「喰ひ物にされる女」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を書き、売春問題を論じている。
以下、要点をピックアップ。
●売春という「商売」が原始の時代から今日まで、人種を問わず、存在し続けているのは、それを必要とする何かの原因があるからである。
●野枝はシヤルル・ルトウルノ著『男女関係の進化』(大杉の匿名訳)やバーナード・ショーの戯曲『ウォーレン夫人の職業』(坪内逍遥訳)の一節を引き合いに出し、実際に自分が出逢った娘に売春をさせている婆さんや売春をやっている女性の実話にも言及している。
●近年、工場の女工から売春を「商売」にする例が増えていることに、野枝は注目している。
●女工は一日十時間以上の長時間労働なのに、月給は十円かそこらである。女工が売春を「商売」にするようになるのは、長時間低賃金労働に原因があるのではないか。
●婦人矯風会あたりが淫売問題にだいぶ力を入れているが、表面に表れた枝葉末節より、もう少し深い根本に遡ってほしい。
野枝は大石七分らが創刊した『民衆の芸術』創刊号に「再度の惑はし」を寄稿している。
「再度の惑はし」というタイトルは、『青鞜』時代に体験した世間やマスコミからの反感や迫害を、今また再び体験しているという意味らしい。
かつて因習を目の敵にしていた「新しい女」たちも、今は因習の虜になっているではないかという世評に対して、自分は違うという反論を意図しているようだが、そのへんをあまり明確には書いていない。
A 此度の事は私達にとつては実はありがたい迫害ですよ。お互ひに、みつちり勉強して今に立派な仕事が出来るやうになりませうよ。もう十年もしたら、少しは私達の仕事だつて理解者が出て来るでせう。
B さうですね、でも私考へてゐると口惜しいと思ひますよ、今まで本当に立派な口をきいていた人達が……一生懸命に私達の悪口を云ひ出すんですもの。
A どうせ私達が世間の人からよく云はれるのは何時の事かわかりませんよ。私達は本当にいくら年を老(と)つても×××さんのように世間の偏見と妥協して活(い)きて行くやうな大家になんかなりたくないものですね。
五六年前には、私達のつくつてゐたサアクルでは盛んに、こんな会話が交はされてゐた。
私達はどんな困難に遇つても、手をつないで、一緒に、婦人解放の運動の為めに尽さうと云ふのだつた。
真剣にさう思つてゐた。
けれど、今はどうだらう?
皆んなが皆、バラ/\に放れてしまつた。
そして自分自分の生活をかばつて忙しがつてゐる。
お互ひの間はもう知り合ひにならなかつた以前よりももつと遠くなつて了つてゐる。
日本の婦人運動は枯れて仕舞つたのだらうか。
曾つての皆んなの覚悟は根なし草だつたのだろうか。
(「再度の惑はし」/『民衆の芸術』1918年7月号・第1巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p59)
「×××さん」について、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題は「与謝野晶子かとも思われるが不明」としている。
八月一日、『労働新聞』第四号を発行するが発禁になり、同紙はこの号をもって終刊、和田と久板は新聞紙法違反で起訴された。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、八月六日、大杉と野枝は今宿を発ち、この日は門司泊。
八月七日、下関に渡り、門司に戻って宿泊。
八月八日、大杉、野枝、魔子の三人は門司港から汽船で神戸に向かい、八月九日に神戸着、夜遅く阪神電車で大阪に向かい梅田駅前の池の屋旅館に宿泊した。
八月十日、大杉は大阪毎日新聞社に勤務している和気律次郎と再会。
大杉は宿泊中の池の屋旅館に大阪の同志を招き、野枝も交えて歓談した。
八月十一日、大阪ではこのとき米騒動が起きていた。
野枝は(魔子を連れて?)帰京の途につき、十二日に東京着。
米騒動を視察した大杉が帰京したのは八月十六日だったが、米騒動の渦中だったので、板橋署に連行されて八月二十一日まで検束された。
米騒動に関与する恐れがあるという、予防検束だった。
意外に好待遇だった。
何も僕が大阪で悪い事をしたと云ふ訳でもなく、又東京へ帰つて何にかやるだらうと云ふ疑ひからでもなく、ただ昔が昔だから暴徒と間違はれて巡査や兵隊のサアベルにかかつちや可哀相だと云ふお上の御深切からの事であつたさうだ。
立派な座敷に通されて、三度三度署長が食事の註文をききに来て、そして毎日遊びに来る女(※野枝のこと)をつかまえて
「どうです、奥さん。こんなところで甚だ恐縮ですが、決して御心配はいりませんから、あなたも御一緒にお泊りなすつちや。」
などと真顔に云つていた位だから……。
(「獄中記」/『新小説』1919年1月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻)
村木、和田、久板、橋浦らも検束された。
八月二十四日、下谷区上野桜木町の有吉三吉宅で「米騒動記念茶話会」が開かれた。
同志例会となっていた「労働運動研究会」のスペシャルバージョンである。
大杉が大阪での米騒動目撃談を話し、野枝も出席した。
九月二十八日、東京地裁で久板、和田の判決公判があり、久板に禁固五ヶ月・罰金三十円、和田に禁固十ヶ月・罰金三十円の判決が下った。
久板と和田が東京監獄に入獄したのは、十月五日だった。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index