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2016年06月12日
第249回 襁褓(むつき)
文●ツルシカズヒコ
暮れも押し詰まった一九一七(大正六)年十二月二十八日、大杉一家は巣鴨村宮仲二五八三から、南葛飾郡亀戸町二四〇〇に引っ越した。
大杉栄「小紳士的感情」(『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』)によれば、大杉には久しい前から労働者町で長屋生活をしてみたいという思いがあった。
従来、小官吏や小番頭など中流階級の逃げ場である静かな郊外にばかり住んでいた大杉は、そういう小紳士的感情を捨て去り、平民労働者の実際生活に接近し、自分たちの中に彼らとの一体感を養いたいと思ったのである。
少々の敷金があったので、長屋ではなく一軒建ちの貸家に住むことになったが、生活の窮乏という実際問題が大杉の背中を押した。
この時期に亀戸に引っ越すことになったのは、十二月二十四、二十五日ごろ、たまたま亀戸に住んでいる旧友の橋浦時雄が巣鴨の家を訪ねて来たからだった。
巣鴨新田の先に、その寓宅を発見した。
案内を乞うと大杉君が出て来た。
暫く話した。
伊藤野枝との女児[魔子]がヒイヒイ泣いて、それにミルクを飲ませたり襁褓(むつき)を取り代えたりする様は、一寸想像にも及ばなかっ図である。
野枝女史はいなかった。
この時亀戸あたりに引越したいといって、それでは僕が案内しようと約した。
(『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』)
十二月二十八日の夕方、野枝がひとりで貸家を探しに行き、翌日の昼下がりに一家が亀戸に引っ越して来たのである。
手伝いに黒瀬春吉の第一夫人の青柳雪枝が来ていた。
「亀戸から」(『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)によれば、『文明批評』一月号の校正のために三日間、身を眩まして帰宅すると、大家から来月の十日までに引っ越してくれと宣告をされた。
それまでの家賃はいらない、二ヶ月分の敷金も返すという条件だったので、大杉はこの条件を即座に呑んだ。
「お蔭さまでいい引越しが出来たんだ。ほんの少々ぢやあるが、引越し料まで貰つて」という、大杉一家にとって渡りに船の引っ越しになった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「橋浦の家も同番地、現在の江東区亀戸六丁目である。近くに東洋モスリンの工場があり、黒い煙突が聳えている。家賃は月十三円だった」。
大杉の家のすぐ前の新築の空家に小松川署の刑事が二人待機し、終日、戸を細目に開けて見張っていた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十二月三十一日、大杉と野枝は魔子を連れて、大森の春日神社裏(現・大田区中央一)にある山川家を訪れ、そこで正月を迎えた。
山川菊栄はこの大杉一家の来訪の様子を記している。
菊栄によれば、大杉一家が来訪したのは十二月三十日である。
その年の暮も押し詰まつて、十二月の三十日に二人はマコさんを抱いてやつて来た。
家にゐると掛取りがうるさいから此処で一所(しよ)に正月をしに来たといふのである。
そこで野枝さんが赤ん坊を寝かしておいて、丁度其頃私の処にゐたK青年を相手にお正月の料理に取りかゝつた。
『あなたは炬燵で寝てらつしやいよ。私がみんなしてあげるから。』
かう私にいつて野枝さんはK青年を買物にやつてから台所に出かゝつたが、見ると例によつてお召(めし)の着物にお召の羽織のゾロリとした姿である。
私が粗末な羽織や襷(たすき)、前垂などを用意すると大杉さんがいそいで遮(さへぎ)つた。
『いゝんだよ。この人は年中これなんだ。羽織といへば天にも地にもこれ一枚きりで、風呂に行く時も飯たきする時もみなこれ許(ばか)り着て、襷なんかかけたことないんだ。同じ着のみ着のまゝでも木綿ものよりこの方が質にやる時役に立つからね、』と笑つた。
野枝さんはお召の羽織の袖の端をチヨツと脇の下にはさんだなりで真黒な台所に降りていつた。
お蔭(かげ)で私は手一つ濡さずにお正月の御馳走にありついた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p16~17)
菊栄の晩年の著作『おんな二代の記』では、こう記されている。
その年もおしつまった大みそかだったかその前日だったか、にぎやか笑い声といっしょにドヤドヤとはいって来たのは、マコちゃんをかかえた大杉さんと、おむつの包みをもった野枝さんで、自分の家ではかけとりがうるさいから、ここで年越しすることにきめたという。
「お正月の支度まだでしょ。私が台所ひきうけてあげるわ、あなたは寝てらっしゃい」。
こういって野枝さんは立ちました。
滝縞のお召にお納戸の錦紗の羽織を着たまま両方のタモトのはしをちょっと帯の間へはさんで台所へ出ようとする野枝さんの前に、まだエプロンのないころで、私は自分の粗末な羽織やタスキや前掛けをもちだしました。
大杉さんは横からそれをさえぎって、
「いいんですよ、この人はいつでもこのままなんだ。内も外も、台所をするのも銭湯にいくのもね。このほかにきるものはなにもないんだ、あとはネマキだけさ。質に入れるとき、これがいちばん役にたつからこれだけおいておくんだ」。
こうして、野枝さんは台所に、子供たちは手伝いの婦人の手にある間、大杉さんと山川と私は座敷で火鉢をかこみました。
話は結局革命中のロシアをどうみるか、におちつき、大杉さんは急いで政府を作るのが間違っている。
革命でいったんめちゃめちゃになったふるい社会組織とその構成要素は、ちょうどお盆の上に大小の石が積み重なってめちゃくちゃになってるようなもんだ、それをむりにキチンと揃えたりしちゃまたもとのようになってしまう、うっちゃっとけばいいんだ、そしてお盆をゆすっていれば、しぜんおさまるところにおさまるもんだ、というような話でした。
当時革命ロシアの真相はまだわからなかったものの、内外の反動勢力が呼応してたち、武力をもって革命政権を倒そうとして、革命と反革命との間に死闘のはじまっていたときでした。
元日を私の家で遊び暮らした大杉さんの一家三人はその夕方か翌日か、また陽気に笑いさざめきながら帰っていきました。
そのあとで
「おもしろい奥さまですね、私あんな方はじめて見ました」
と私の家の手伝いはお腹をかかえて笑いこけました。
おしめはゆかたをバラバラにしたなりで、袖やおくみをほどかずにそのまま使い、「すこしばかりぬれたのはいちいち洗わないでいいのよ」と、こちらで洗いかけたのを抑えて竿にかけ、よごれたのをほしてそのまま使ったそうで、一事が万事、人目をおどろかせたのですが、しかし、まあなんと愉快そうな二人でしたろう。
まったく大きな少年少女といいたいようでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p252~254)
★山本博雄, 佐藤清賢 編『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(雁思社・1983年7月)
★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第248回 中條百合子
文●ツルシカズヒコ
『文明批評』創刊号が発行されたのは、一九一七(大正六)年十二月二十七日(奥付けの発行日は大正七年一月一日)だった。
編輯兼発行人が大杉栄、印刷人が伊藤野枝である。
印刷所は京橋区桶町一番地の愛正社印刷所。
大杉と野枝はこの印刷所に三日間、校正に通った。
ふたりは尾行をまくために毎朝、本郷の下宿・環翠館に住む田中純を訪れ、雑談をして裏口から出て行ったという。
或る朝、思ひがけなく大杉君と野枝さんとが訪ねて来た。
別に要談があるでもなく以前この下宿にゐたと云ふ荒川義英くんのことなどを話して、二十分ばかりもすると、裏口から帰つて行つた。
翌日も、翌々日も、彼等は同じ時刻に来て、同じやうにして帰つて行つた。
……あとで、それが、尾行をまくための訪問だつたことを知らされた。
労働者街に投じる準備として彼は秘密な印刷物を作りつゝあつたのだ。
たま/\、私の下宿がその印刷所に近いのと、前に荒川がゐたので、この家に都合の好い裏口があることを知つてゐたので……と後になつて打ち明けたことがある。
その時にも、彼は例のイヒ/\と云ふ、いたづらつ子らしい笑ひで笑つた。
(田中純「喜雀庵雑筆」/『読売新聞』1928年3月30日)
野枝は『文明批評』創刊号に三本の原稿を書いた。
「転機」(一〜四章/五〜八章は次号に掲載)
「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」
「妙なお客様」(大杉栄『悪戯』に初収録/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に再録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)
中條百合子は『中央公論』一九一六年九月号に掲載された「貧しき人々の群」でデビュー、十七歳の天才少女として注目を集め、『中央公論』一九一七年一月号に「日は輝けり」、八月号に「禰宜様宮田」を発表していた。
初の著作『貧しき人々の群』(玄文社)は、一九一七年五月に刊行された。
彗星のように出現した天才少女に対しして、広津和郎など文壇知名の諸家からさまざまな批評がなされたが、どれも野枝を納得させるようなものはなかったので、自分で書いてみたのが「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」だった。
第一に私に不満な思ひをさせた事は、各批評家の頭に百合子氏がまだ肩あげのとれない少女として、従つて書物の外には何も世間を知らないお嬢様として、ずつと自分を高くして氏に臨んでゐると云ふ事であつた。
次ぎには、殆ど皆な一致して氏の真実を少しも認めてゐない事である。
第一に皆を脅やかしたらしい題材の取り方の大胆さと云ふ事は殆んど凡ての人の非難の的になつてゐる。
そしてそれが、或る人にはたゞ見せる為めの大胆さであり、或はまた、氏自身とは何の親しみも交渉もない別の世界の、何の土台もないものを持つて来て、たゞ氏に唯一のものである才能で拵(こしら)へあげたものだと云ひ、また或る人は世間にありふれた『型』を持つて来て外国の作品のまねをして書いたものだと云ひ、本当に正直に、あの作品を受け入れた人は一人もない。
私は氏の今迄の発表された三篇とも、極めて忠実に、再読三読して、そのたびにますます氏の偉さを感じてゐる一人である。
そして私は、諸家の氏に対する批評が、私にとつては不満足なのであるけれども、強ひて、それ等の批評に楯つかうとは思はない。
たゞ私は、全然諸家によつて閑却されてゐるそして私にとつては一番強い感銘を与へられた、作品の上に表はれた氏の思想感情等に就いての私の興味を発表して見たい。
(「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」/『文明批評』一九一八年一月号・第一巻第一号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p13~14)
三作品のうち、野枝は「日は輝けり」を「私にとつては何んの興味もないものである」と切り捨て、「貧しき人々の群」と「禰宜様宮田」について言及、批評している。
「妙なお客様」は十一月末から十二月初めにかけて、新聞記者を騙(かた)り、あるいは帝大法科の学生を騙って、大杉家を訪れた男ふたりを、大杉がうまくあしらい、からかって退散せしめたという話である。
官憲の偽装をからかうために掲載したようだ。
ちなみに『文明批評』一月号と二月号(第一巻第一号と第二号)の表三の広告は、神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店)である。
同書で日蔭茶屋事件の加害者である神近が、大杉や野枝を徹底的に糾弾しているが、大杉が同書の広告を掲載したのは、彼の洒落気のある悪戯なのか、あるいは版元が『文明批評』に広告を掲載すれば宣伝効果大と読んだのか、さもなくば広告料金を得るために背に腹はかえられぬという大杉サイドの考えなのかーーそのあたりは謎である。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index