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2016年06月07日

第244回 世話女房






文●ツルシカズヒコ



 七月初めに北豊島郡巣鴨村宮仲に引っ越して来た大杉と野枝だが、九月末に野枝が大杉との第一子、長女・魔子を出産する直前のころの野枝について、大杉が『女の世界』に書いている。

 懇意の編集者である安成二郎に依頼されたようで、大杉は安成に話しかけるようなスタイルで書いている。

 まず、冒頭にこう記している。

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 もう今日か明日か知れない産月の大きなお腹を抱へて、終日ごろ/\して呻つてゐるあいつに、何んの近状などゝ書き立てる程の大した事があるものか。

 そりや、書けば、いくらでも書ける。

 しかし、『ねえ、ちよいと、又こんなに動いてゝよ』などと、媚笑(びしよう)の中に一寸(ちよつと)眉をしかめて、そつと手を引きよせて擦(さす)らせて見る、と云ふやうな光景ばかり詳かにされちや、君の方で迷惑だらう。


(「野枝は世話女房だ」/『女の世界』1917年10月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』には「世話女房」として収録 ※『女の世界』から引用)


 なお、「野枝は世話女房だ」は「世話女房」と改題されて、安谷寛一編『未刊・大杉栄遺稿』(金星社・一九二七年十二月二十日発行)に再録されている。『未刊・大杉栄遺稿』は大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 』(全十巻)の補遺にあたるもので、同書を含めた『大杉栄全集 』(全十一巻)は世界文庫から復刻版が発行(一九六三年〜一九六四年)されている。







 大杉は野枝の世話女房ぶりと近状を結びつけたものを書くことにした。


 あれで、君、随分世話女房なんだ。

 僕の身のまはりの事だとか、家事の事だとかには、あいつには何方(どつち)の期待も持つてゐなかつたんだ。

 勿論こんなに長い間一緒に暮らしてゐようとも思はなかつたね。

 ところが、君、すつかり当てが違つちやつたんだ。

 前の保子だつて、君も知つての通り、随分いゝ世話女房だつた。

 そして其の世話女房ぶりに僕は惚れこんだのだつた。

 しかしあの女には、それ以外に、牛を殺す的の賢夫人気質があつた。

 あいつにはそれがない。

 そしてより以上に世話女房的なんだ。


(同上)





 女中もいなかったので、水汲みと掃除は大杉が受け持って、あとの万事は野枝が大きなお腹を抱えながらやっていた。


 随分無性者のなまけ者なんだが、いざ庖丁を持つとなると、うるさいとか面倒臭いとか云ふ事はまるで知らない人間のやうになる。

 よつぽど喰ひ意地が突つ張つてるんだね。

 せつせとやる。

 お手際もなか/\見事なものだ。

 実際あいつの手料理に馴れてからは、下手な料理屋の御馳走はとてもまづくて口にはいらない。

 なに? それや僕の直観のせいだらうつてのか。

 それもちつとやそつとははひつてるだらう。

 しかし実際甘味(うま)いんだ。

 家庭料理なんぞと云ふ野暮なものぢやないんだ。

 それとも、疑ぐるんなら、近いうちにお招きしてあいつのお手料理を御馳走して見てもいゝ。

 お針も相応にやる。

 滅多にはやらんが、気が向くと、夢中になつてやる。

 此頃は、ふとんだのセルだのゝ縫ひ直しやら、産れる赤ん坊の仕度やらで、気が向くと云ふよりは寧(むし)ろ必要に迫られて、大ぶ忙しさうにやつてゐる。

 手も早い。

 やりくりもなか/\うまい。

 前には二三の仕立屋に頼んだ事もあるが、どれもこれもお気に召さんとかで、止して了つた。

 僕にしても、やつぱりあいつの縫つたものゝ方が、よほど着心地がいゝ。

 お化粧のことなどもなか/\よく心得ている。

 これも滅多にはやらんが、時々少しお湯が長いと思ふと、銀杏返などに結ひこんで薄化粧の別人のやうになつて帰つて来る。

 鼻つ先やおでこを塗り立てたり、耳のうしろや首筋に白粉をよらしたりするやうな、無様な真似はしない。

 そして、そんな時に限つて、そつと三味線を持ち出す。

 お得意は端歌(はうた)。

 酒も少しはやる。

 お芝居は大好き。

 ごひいきは左団次源之助


(同上)





 野枝は不器用で裁縫が苦手だったという通説は、どうも違うようだ。

 野枝は良妻賢母教育の一環としてやらされる裁縫を嫌悪していたのだろう。

 ただし、金の管理は苦手だった。

 どんなに困っていても、一円や二円の小使いを持っているというようなことができなかったという。


 あればあるだけパツパと費(つか)つて了ふ。

 それも自分の金と他人の金とに大した区別はなささうだ。

 なければなしでノホホンとしてゐる。

 たとえば、電車賃がなければ、二人ならば、一里でも二里でも平気な顔をしてあるく。

 若し又、一人ならば、何処へでも遠慮会釈なしに宿車を駆(か)つてあるく。

 あいつが車に乗つてゐるのを見たら、きつと懐中無一文の時と思ひたまへ。

 これを要するに、あれで若し、新しい女などゝ言われる余計な思想を持たなければ、そしてお顔の造作と出つ臀(ちり)とがもう少しどうかしてゐれば、そして又多少余裕のある家にでもゐれば、本当にいゝお神さんなんだがね。


(同上)


★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:13 | TrackBack(0) | 本文

第243回 第二の結婚






文●ツルシカズヒコ




 辻と野枝の協議離婚が成立したのは一九一七(大正六)年九月十八日だった。

 戸籍上、野枝は伊藤家に復籍することになったが、野枝は『婦人公論』九月号に、辻との離婚の経緯を書いた。

 その冒頭にはこう記されている。


 破滅と云ふ事は否定ではない。

 否定の理由にもならない。

 私は最初にこの事を断つて置きたい。

 不純と不潔を湛へた沈滞の完全よりは遥かに清く、完全に導く。


(「自由意志による結婚の破滅」/『婦人公論』1917年9月号・第2年第9号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に「自由合意による結婚の破滅」と改題し初収録/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p431 ※引用は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』から)

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 ポイントを、以下に抜粋要約してみた。

 ●私は結婚に対してはまったく盲目であった。私の第一の結婚は因習に則った親たちの都合による「強いられた結婚」であった。

 ●その「強いられた結婚」に反逆した私は、関係者の世間に対する立場を失わしめ、彼らの面目を潰した。

 ●私は彼らの呪詛と憤懣と嘆きにさらされ、因習の擁護者たちから嘲笑された。

 ●ことに両親の嘆きは、私を絶望のドン底に導き、私に強い苦痛を与えた。

 ●自分を支えたものは、自分を屈しめようとする習俗に対する反感と「真実」に対する自分の信条だった。

 ●結婚とはまず恋愛ありきという私の信条は、現実に進行していた恋愛によって支えられ、そして私の苦痛はその恋愛によって慰められ癒された。





 ●当時、私たちの周囲には、私と同じような例がいくつもあった。エレン・ケイに共鳴したのも当然のことだった。そして、自由意志に反した結婚の惨めさがさらに多くの根拠をもって考えられるようになった。

 ●私の恋愛は成功した。私は朝夕を愛人とともにすることができた。私たちは本当に幸福であった。

 ●そして、自分が危なかった第一の結婚問題をよく切り抜けたという安心に満足していた。

 ●私は結婚に対する失敗のすべては、原因がただ恋愛によらぬ、他人の意志を交えた結婚だからだと考えていた。私はまだ盲目だった。そこに私の第二の結婚の破綻があったのである。

 ●私たちの関係はいつの間にか、私の両親にも、愛人の周囲にも、私たちを知る世間の人々にも認められた。

 ●同時に、私たちはいわゆる社会的承認を経た結婚制度の中に入ってしまった。

 ●私は既成の家庭生活に入った。そこには姑も小姑もいた。

 ●私たちとはまるで違った思想、趣味、性格を持った、私にとっては赤の他人がいた。





 ●私はそれらの人と日々、種々な親密な交渉がなされなければならないという、少しも不思議がってはならない不思議なことに直面することになった。

 ●しかし、無知な婦人たちが強いられた結婚生活においてすべてを「そうしたもの」と教えられ、少しも不思議がらずに、その生活に慣らされていくように、私は男に対する愛に眩まされて、何の疑念も持たずにその生活を肯定した。

 ●私はすでに幾歩か因習に譲歩したことになる。これだけの事実でも、結婚という約束に対する私の盲目を充分に証拠立てている。

 ●他人を交えない、男と女ふたりきりの生活においてさえも、違ったふたりの人間がいつも同じ雰囲気で暮らしていけるわけではない。

 ●まして他人が介在している複雑な雰囲気が、いつも静かなままですむはずはない。各人ひとりひとりが、不快な思いをしなければならないことがずいぶんある。

 ●そういう場合、一番目立つ異分子は私であった。どんなときでも、たいていは私の負に極まる。

 ●「ふたりきりの生活だったら」、そういう不平を私は持ち始めた。

 ●ようやく私たちの情熱がいろいろなものに克ち得たように見えたとき、私たちはお互いの心の内にさぐりを入れ始めた。





 ●しかし、それを充分にしないうちに、子供が生まれ私たちは両親としての新たな関係に入っていかなければならなくなった。

 ●自分が子供の親になるーー私はそんなことを考えてみたこともなかった。

 ●ただ子供のためにとばかりにまるで意義のないような生活を送ることは、私にはなんの役にも立たない因習的犠牲行為にしか思えなかった。

 ●しかし、実際に出産し育児をしてみると、ひとりの子供を育てることが、どんなに立派で難しい仕事かということがしみじみ考えられた。

 ●すべての悲しみも喜びも、日常のあるゆることが、子供を中心にしたものになる。

 ●愛で結ばれた男女の共同生活が、父と母という二重の結合になり、その結合は子供を育てる義務と責任を生じさせてふたりの関係はより深くなる。

 ●かつて、他人のそうした生活には秘かに侮蔑を持っていた私だが、子供のためなら自分のあるゆるものを犠牲にしてもいいと思ったこともあった。





 ●しかし、私のわずかばかりの力は、ずんずん伸びていく子供の成長に圧倒されがちであった。

 ●いい加減な教育は子供にとって、邪魔なものと考えるようになった。子供の成長はできるだけ自然な伸び方をするようにしたいと思い始め、傍観的になった。

 ●しかし、よけいなお節介があちこちから来た。

 ●そうした母親としての憂慮を男に語っても、自分と同じような感覚を持ってもらうことはたいていの場合、困難である。

 ●抽象的な同感はしてもらえても、それが具体的になった場合にはまるで別物である。

 ●女の生活の中心が子供に移るようになれば、注意はその方にばかり注がれる。だから、ふたりだけの愛を中心にした生活とはだいぶ勝手が違ってくる。男はたいてい女ほど献身的にはなりえない。





 ●私の子供の父親は根強い個人主義者だ。彼は他人に立ち入られることが嫌いなかわりに、他人のことに立ち入ることも嫌いというスタンスを徹底していた。

 ●私が子供に関する不平不満を話すと、彼はなんの同感も持たないで、反感を示した。そしてふたりの間に、覆いがたい疎隔ができてきた。

 ●そういうふたりの関係の疎隔に対して、何か策を講じることができればまだいいが、お互い悪いことにそれを覆い隠そうとした。

 ●自由結婚をした者が、世間の目に対する意地を張ってしまったのだ。自分たちの行為を失敗に終わらすまいという考えに固執してしまった。

 ●それが真の疎隔ではなく、私たちは深くつながっているのだという安心を得たいがために、私は普通ではとてもできそうもない譲歩や妥協をし、あらゆる行為が夫のため、子供のためだとしきりに考えた。

 ●そうして、馬鹿馬鹿しい誤魔化しの生活が始まった。





 ●しかし、私はこの男との生活を始めるために多大な苦痛を払った、高価な代価を忘れることができなかった。

 ●その高価な結婚生活が失敗に終わっても、それが無意義になりはしないのだが、なかなかそうは考えられなかった。

 ●結局、私は第一の結婚を破棄する際の倍ぐらいの価を支払って、贋物の関係から自分を絶った。

 ●自分の根本の思想や態度をはっきりさせることができなかったことが、第二の結婚の苦痛を生み、その責はすべて私にある。

 ●私は自分の失敗から、これだけの結論を受け取った。そして、私だけでなく、同一の例はまた多くの人々の上にも等しく広がっていることと思う。

 ●しかし、失敗することは悪いことではない。私は第二の結婚の失敗で、これだけの多くのことを学んだ。




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:38 | TrackBack(0) | 本文

第242回 夫婦喧嘩






文●ツルシカズヒコ



『女の世界』一九一七年七月号のアンケートに、大杉と野枝は回答を寄せている。

『女の世界』同号は「男女闘争号」と銘打ち、目次に「夫婦喧嘩の功過と責任の所在 名流六十家」とある。

 質問一は「夫婦喧嘩の功過」、質問二は「夫婦喧嘩は良人の責か妻の責か」である。

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 「社会主義者」という肩書きの大杉は、こう回答している。


 一、

 亭主は女房に出来るだけ甘くして置いて大がいの我儘はうん/\聴いてやるべし

 そして、心棒の出来ぬほどの増長した時には、先づ屁理屈を並べ立てゝ、、説服を試み、それでもきかなきや、平手、ゲンコツ、足蹴(あしげ)、力に任せて死なぬ程にぶちのめした上にふだんに増して舐めすり廻してやるべし。

 されば夫婦喧嘩は必ず功ありて過(くわ)なき疑ひなし。

 二、

 何事も女房の方で下に出て、ハイ/\さへ云つて居(を)れば、夫婦喧嘩の起(おこ)るきづかひなし。

 従つて夫婦喧嘩の責(せめ)が女房にあるは云ふまでもなし。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p84)





 大杉が野枝に暴力を振るっていたとは考えにくいので、大杉の回答はウケ狙いの冗談であろう。

「栄氏同棲者 新らしい女」という肩書きの野枝は、こう回答した。


 一、

 夫婦喧嘩のときには、私は出来るだけ何時でも、強情を張ります、男はさう云ふ場合には意久地(いくじ)のないものです。

 尤(もつと)も男に云はせれば面倒くさいからと云ひますけれども何でもかんでも、此方(こちら)から頭を下げないでもすみます。

 喧嘩をしてゐる時には出来るだけ強情を張るのが一番いゝ方法です、向こうから仲なほりの申出があつたら、出来るだけしをらしくあやまるのです、そして甘へます。
 
 それですつかり仲直りは出来ます。

 喧嘩の仲直りをした後で損をしたやうな気のした事はまだ一度もありませぬ。

 だから喧嘩は必要なものとおもひます。

 仲直りをした後で笑ひながらめい/\の気持をはなしたりすれば、一層親しみを増します。


 二、

 場合による事でせう。

 しかし大抵は、男のむかつ腹から、此方もむつとする位の処ですね、まあこれは、五分五分でせうね。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p85~86/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p429)






 ちなみに「社会主義者」山川均は、こう回答している。


 拝復、小生儀(ぎ)目出度く華燭の典を挙げ候てより、日尚浅く、不幸戦機未だ熟せずして、花々敷き一戦に良人(をつと)の威光を発揮せし程の武勲も無之(これなく)、誠に汗顔の至りに御座候(ござそろ)。

 御提示の問題に就いては固(もと)より大いに抱懐する所有之(これあり)候へ共、生兵法にして兵を語るは大創(きず)の元、何(いづ)れ幾実戦を経たる上重ねて貴問に拝答するの光栄と機会を待ち候(そろ)。

 匆々頓首


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78)





「均氏夫人 新らしい女」山川菊栄は、こう回答している。


 拝復、折角(せつかく)のお問合せではございますが、私方(わたしかた)は平和主義者非戦論者の集りなので、健国(けんこく)以来太平のみ打(うち)つゞき、仲人の立て甲斐が無くて誠に気の毒に存じて居ります位

 随(したがつ)て御返事の材料に苦しみます。

 追而(おつて)時代の推移と共に戦国時代に入りましたら夫妻共著の参戦実記でもお目にかけることゝ致しませう。

 夫婦喧嘩の功過並に責任の帰着点如何(いかん)は同書講和会議の後(のち)に依(よつ)て明かに知ることゝ存じます。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78~79)





 ついでに「画家」岡本一平の回答。


 一、功過相半(あひなかば)す

 二、良人より申せば妻の責(せめ)、妻より申せば良人の責。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p88~89)



「一平氏夫人 新らしい女」岡本かのの回答。


 一、岡本一平氏の説と同じ。

 二、同上。


(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p89)





 八月十三日、野枝は妹の武部ツタ宛てに手紙を書いた。

 宛先は「大坂市西区松島十返町 武部種吉様方」。

 発信地は「東京市外巣鴨村宮仲二五八三」。


 お手紙拝見。

 大坂に来てゐると云ふことはやつと半月ばかり前にききました。

 東京に来たのだつたら尋ねて来ればよかつたのに。

 本郷の菊富士ホテルと云ふことは今宿のうちでも代のうちでも知つてゐる筈、一寸きいてから来ればよかつた。

 うちからは四五日前たよりがあつた。

 突然に、盆前に金を送つてくれるやうにとの事だつたけれど、もう日数がないから、とりあえず手許にあつた拾円だけ送つておきました。

 私も毎月でも送りたいと思ふが、流二を他所に預けて、その方に毎月十円近くとられるので、三十円や四十円とつた所でどうすることも出来ないのに、この二三ケ月は体の具合がわるくて少しも仕事をしないで遊んでゐるので一層困ります。

 出来さえすればどうにでもするつもり。

 今宿へは今年一杯はかへれないと思ふ。

 来年になつたら早々にかへります。

 大阪には、もうよほどお馴れか、少しは知つた人が出来ましたか。

 私も時々はたよりをするから、そちらでも時々はハガキ位は書いて欲しい。

 こちらに用があつたら、面倒な事でなかつたら足してあげる。

 入用なものでもあつたら、とゝのへてあげる。

 大阪では、国とも大分遠いから、体を大切にして病気になんかならぬようになさい。

 私のことは心配しなくても大丈夫だから。

 そのうち大阪にでも行つたら会ひませう。

 大坂(ママ)は特にあついから本当に体を大事におしなさい。

 野枝

 津た子どの


「書簡 武部ツタ宛」一九一七年八月一三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p430)





『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、この書簡は封書で、松屋製二百字詰め原稿用紙三枚にペン書き。

 封筒(一九五×八五ミリ)の表には「6.8.14/前10-12」、裏には「6.8.15/前8-9」の消印。

 つまり、表の消印は大正六(一九一七)年八月十四日午前十〜十二時、裏の消印は同年八月十五日午前八〜九時ということである。

 封筒裏には直筆で「十三日」とある。

 ツタは書簡本文では「津た子」、封筒表には「津多子」と書かれている。

「代のうち」とは当時、大阪に住んでいた代準介の家のこと。




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:37 | TrackBack(0) | 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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