2022年11月26日
きっかけ
風呂に入りながらふと、文章でも書こうかなと思った。
何かを書きたい、記したい、残したいなんて崇高なもんじゃなく、てきとー。
信on始めたきっかけだったり、思い出だったり。
きっかけは当時勤めていた会社の先輩、上司からの圧。
喫煙者サークル的な中に、信onはじめようぜという動きがあって
「君もやりたまえ、ふはははは」みたいな勧誘が10回ぐらい。
当時の俺はネトゲなんてやんねーっす。ヲタじゃねーっす。
なんて尖って返事してたけど、段々と喫煙室に居るときや
昼飯の時間に話題に取り残されるようになり、じゃあ俺もやりますわwみたいな感じ。
武田家で神職ね。という指示に背き
信長の野望だぞ?と織田家で忍者をつくるが
装備も貫もなく、知人作りなんてもんもする気が起きず
速攻キャラ消しーの、あっさり武田家に加藤神銘が誕生。
これが無印末期の10月だったかな。
鬼巫女なんてニックネームのついた正法神律尊が先輩なわけで
合戦で暴れてたらしい?実際よう知らんw
そこから特化を選び雅楽マンセー(死後)に反骨心・極で古神を選ぶ。
「加藤使えないw」などありがたい言葉を頂戴し
杖もってネズミやら間諜やらから始め、昇仙峡でソロ殴りオフラインの日々。
装備の耐久が減って、武器くれくれをし
弓は矢で貫減るからとやはり杖を所望。
経験多いから徒党でやらなきゃダメだと言われ、先に言えと。
そこから習得をはじめ、なんだかんだと知人が増えていき
lv40を超えたあたりで飛竜の章が来るも、アップデートしねぇっすと謎の反抗期・極。
この辺りからかな、習得仲間で「てけ党」なんてチームみたいなの作って合戦行きだしたのは。
当時のプレイヤーは皆そうだったと思うけど、高レベル家老なんて雲の上の存在で
機嫌取りじゃないけど、必死に特攻してたように思う。
高沼半左衛門と知り合い、夜中に加藤の家老試験やろうよ的な
そこから3か月ぐらいはぬまに対して尊敬のまなざしを向けてた、かわいい俺。
2ndだったり3rdも作る中で武田家の知人も増え続け
徒党人数が集まらなければ稲葉山で勧誘。
その時ふと思っちゃったんだよね、そもそも武田家に愛着なんてないし
稲葉山在住のが効率良くね?と。
そこから合戦もあまり行かなくなり、後でわかる事だが
「加藤のヤロー家老になったら合戦きやしねぇ」的な陰口を叩く奴らがいたw
この頃はいわゆる古参にも層があって、将星鯖初日からいた最古参組
ほどなくして始めた第二世代、そして俺の属する第三世代。そんな呼び方が裏でされてた。
それでも斎藤家との合戦で、いつだったかの12月に稲葉山を奪取する事に。
当時はボコボコにされてたけど、徐々に巻き返してそこまで至ったから
合戦行かない俺でも、普通のプレイヤーよりは行ってた。
次の日仕事だからと落ちても、朝になれば「ちょっとお腹の調子が」とズル休みして
行くぞおらあああああああと馬に乗る生活。
俺を信onに引きずり込んだ会社の上司や先輩は
レベル、装備でブチ抜いてしまい、仮想現実内では敬語を使われるように。。
そんな俺が武田家筆頭なんてやるもんだから、会議が荒れる荒れる。
仕様も大してわかってないのにやってんだもんね。当たり前。
そもそも柳沢清が退く、次が決まらないgdgd会議になってたから
最古参のアムロレイに「お前がやれよ、サポートするから」って対話いれたのがきっかけ。
アムロの野郎、そっから何もしないの。ほんとにあの野郎。
アムロといえば当時イザナミ宮がダンジョン最深部でひゃっはー!できる場所だったけど
仏門じゃ行けないとスネてるから全部突破させる為に稲葉山で知り合った廃友達に声をかけ
連れてったのに、黒から火まで9割寝落ちしてやがった…。
イザついた瞬間の「おー着いたかー」は今でも笑えるw
そんな頃に甲府でくすぶってる人全員をイザ連れてく作戦を慣行。
そこからかな、前述の柳沢(せいべー)と仲良くなったり、俺を崇め奉る人が増えたのは。
この時も「加藤のせいでイザの旨味が減った」と陰口叩く奴らがいた。
そんな訳で、くだらねぇ。リアルで物申してみろとオフ会参加しまくり
2chで盛大に武田名古屋オフが晒され、古参の層がなくなり皆仲良くなった。
もう19年前からの記憶をたどっているので、時代の前後はあるだろうけど
そんな感じの俺が、2021年6月になんとなく帰参。
そこからの記憶はまた別の機会に書くとして、その後の話はまた今度。
何かを書きたい、記したい、残したいなんて崇高なもんじゃなく、てきとー。
信on始めたきっかけだったり、思い出だったり。
きっかけは当時勤めていた会社の先輩、上司からの圧。
喫煙者サークル的な中に、信onはじめようぜという動きがあって
「君もやりたまえ、ふはははは」みたいな勧誘が10回ぐらい。
当時の俺はネトゲなんてやんねーっす。ヲタじゃねーっす。
なんて尖って返事してたけど、段々と喫煙室に居るときや
昼飯の時間に話題に取り残されるようになり、じゃあ俺もやりますわwみたいな感じ。
武田家で神職ね。という指示に背き
信長の野望だぞ?と織田家で忍者をつくるが
装備も貫もなく、知人作りなんてもんもする気が起きず
速攻キャラ消しーの、あっさり武田家に加藤神銘が誕生。
これが無印末期の10月だったかな。
鬼巫女なんてニックネームのついた正法神律尊が先輩なわけで
合戦で暴れてたらしい?実際よう知らんw
そこから特化を選び雅楽マンセー(死後)に反骨心・極で古神を選ぶ。
「加藤使えないw」などありがたい言葉を頂戴し
杖もってネズミやら間諜やらから始め、昇仙峡でソロ殴りオフラインの日々。
装備の耐久が減って、武器くれくれをし
弓は矢で貫減るからとやはり杖を所望。
経験多いから徒党でやらなきゃダメだと言われ、先に言えと。
そこから習得をはじめ、なんだかんだと知人が増えていき
lv40を超えたあたりで飛竜の章が来るも、アップデートしねぇっすと謎の反抗期・極。
この辺りからかな、習得仲間で「てけ党」なんてチームみたいなの作って合戦行きだしたのは。
当時のプレイヤーは皆そうだったと思うけど、高レベル家老なんて雲の上の存在で
機嫌取りじゃないけど、必死に特攻してたように思う。
高沼半左衛門と知り合い、夜中に加藤の家老試験やろうよ的な
そこから3か月ぐらいはぬまに対して尊敬のまなざしを向けてた、かわいい俺。
2ndだったり3rdも作る中で武田家の知人も増え続け
徒党人数が集まらなければ稲葉山で勧誘。
その時ふと思っちゃったんだよね、そもそも武田家に愛着なんてないし
稲葉山在住のが効率良くね?と。
そこから合戦もあまり行かなくなり、後でわかる事だが
「加藤のヤロー家老になったら合戦きやしねぇ」的な陰口を叩く奴らがいたw
この頃はいわゆる古参にも層があって、将星鯖初日からいた最古参組
ほどなくして始めた第二世代、そして俺の属する第三世代。そんな呼び方が裏でされてた。
それでも斎藤家との合戦で、いつだったかの12月に稲葉山を奪取する事に。
当時はボコボコにされてたけど、徐々に巻き返してそこまで至ったから
合戦行かない俺でも、普通のプレイヤーよりは行ってた。
次の日仕事だからと落ちても、朝になれば「ちょっとお腹の調子が」とズル休みして
行くぞおらあああああああと馬に乗る生活。
俺を信onに引きずり込んだ会社の上司や先輩は
レベル、装備でブチ抜いてしまい、仮想現実内では敬語を使われるように。。
そんな俺が武田家筆頭なんてやるもんだから、会議が荒れる荒れる。
仕様も大してわかってないのにやってんだもんね。当たり前。
そもそも柳沢清が退く、次が決まらないgdgd会議になってたから
最古参のアムロレイに「お前がやれよ、サポートするから」って対話いれたのがきっかけ。
アムロの野郎、そっから何もしないの。ほんとにあの野郎。
アムロといえば当時イザナミ宮がダンジョン最深部でひゃっはー!できる場所だったけど
仏門じゃ行けないとスネてるから全部突破させる為に稲葉山で知り合った廃友達に声をかけ
連れてったのに、黒から火まで9割寝落ちしてやがった…。
イザついた瞬間の「おー着いたかー」は今でも笑えるw
そんな頃に甲府でくすぶってる人全員をイザ連れてく作戦を慣行。
そこからかな、前述の柳沢(せいべー)と仲良くなったり、俺を崇め奉る人が増えたのは。
この時も「加藤のせいでイザの旨味が減った」と陰口叩く奴らがいた。
そんな訳で、くだらねぇ。リアルで物申してみろとオフ会参加しまくり
2chで盛大に武田名古屋オフが晒され、古参の層がなくなり皆仲良くなった。
もう19年前からの記憶をたどっているので、時代の前後はあるだろうけど
そんな感じの俺が、2021年6月になんとなく帰参。
そこからの記憶はまた別の機会に書くとして、その後の話はまた今度。
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