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2021年10月02日
江戸時代の相撲興行 巨人力士や怪童力士たち
江戸時代、相撲興行というのがありました。
巨人力士や怪童力士を、一人で土俵入りをさせた見世物でした。当時、観客の興味を集め興行的に大変人気があったそうです。
彼らは、相撲を取らされることがない土俵入り専門の力士が多く、その後活躍する者はごくわずかでした。
もくじ
●巨人力士
歴代2位「大空武左衛門」
歴代1位「生月 鯨太左衛門」
●怪童力士
「鬼若力之助」「鬼勝力〇?」
「鬼童丸竹松」「小戸平亀四郎」「大童山文五郎」
江戸時代の巨人力士や怪童力士たち
巨人力士 歴代2位
●大空武左衛門 身長213cm 120kg
肥後国上益城郡(現在の熊本県上益城郡)出身。農民の子として生まれる。
地元の村々でも巨漢さは有名で、牛を跨ぐことができたそうで牛股あるいは牛跨ぎという、
あだ名がありました。
文政10年(1828年)熊本藩主細川斉護に連れられて江戸に赴き、勝ノ浦与一エ衛門(元大関・鬼面山与一右エ門)に弟子入りして江戸相撲の看板力士となりました。
生月鯨太左衛門(1827-1850)に次ぐ歴代2位の巨人力士とされています。
土俵入り専門の看板力士で肝心の相撲の方は、番付にのることはありませんでした。
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日本一の巨人力士 歴代1位
●生月 鯨太左衛門 身長227cm 体重169kg
(いきつき(いくづき、いけづき) げいたざえもん)
文政10年3月21日(1827年4月16日) - 嘉永3年5月24日(1850年7月3日)
肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。本名は、墨谷要作。身長が227cm、体重が169kg日本一の巨人力士でありました。
鯨漁師の家に産まれる。普通の赤ちゃんの倍の大きさで生まれたという。
子供の頃、漁に出る父親の船に一緒に乗ろうとしましたが、あまりにも身体が大きく乗らせてもらえませんでした。出漁の際、だだをこねた要作は、船に積んだ網から手を離さず、逆に船を陸に引っ張り上げてしまったという話が伝わっています。
まんが日本昔話みたいですね。
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怪童力士
●鬼若力之助 8歳で、身長121cm、体重68kg
歌川国芳筆 嘉永期(1848–54)木版多色刷 大判錦絵 37.2×25.5cm
上総国武射郡(現在の千葉県山武市)の農民の子として生まれる。
子供の頃から身体が大きく、怪童力士として1850年11月に初土俵を踏みました。
明治5年3月に入幕。明治7年には「勝ノ浦与一右エ門」と改名。明治16年5月まで場所をつとめました。最高位は東前頭筆頭。
成績を残し活躍した、ごくわずかな怪童力士のうちの一人です。
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怪童力士
●鬼勝力〇? 13歳で109kg
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怪童力士
●鬼童丸竹松 10歳で68kg
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怪童力士
●小戸平亀四郎 13歳で体重105kg
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怪童力士
大人気かわいいね、文五郎ちゃん
●大童山文五郎(だいどうざん ぶんごろう)
寛政年間の怪童力士 8歳で81kg
羽列村山郡長瀞村出
山形県で農民の子として生まれる。
寛政6年(1794年)9月、数え年7歳(満6歳)で初土俵を踏み、
江戸中を席巻しました。勝川春英,勝川春山,喜多川歌麿,東洲斎写楽などの人気絵師たちが文五郎を好んで描きました。中でも、写楽は「大童山土俵入り」シリーズとして、4点浮世絵に描いている。
文化年間に相撲を取った記録が残っていますが、肝心の相撲の方は大して振るいませんでした。1812年(文化9年)4月場所で引退。
引退後、神田下谷広徳寺の前でモグサや手拭を売って繁盛しました。
初土俵では小さく、ころころとして、みんな大笑いしたでしょうね。
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土俵入り専門の力士たちは、
入幕しても出世する例は少なく多くは、廃業して国に帰ってしまう者が多かったそうです。
細川 斉護(ほそかわ なりもり)(1804年10月19日-1860年6月6日):江戸時代後期の大名。肥後国宇土藩8代藩主のち肥後熊本藩10代藩主。
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