2021年10月06日
日本一の巨人力士☆生月 鯨太左衛門
生月 鯨太左衛門 つづき
身の丈:七尺五寸 目方:四十五貫(身長227cm 体重169kg)
(上)一勇斎国芳『生月鯨太左衛門』(国立国会図書館所蔵)
「国立国会図書館デジタルコレクション」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1313377)
(下)国芳,小 『「平戸 生月鯨太左衛門」』(国立国会図書館所蔵)
「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-NDL_103_03_017)
(左)『 諸国名所百景備前五島鯨漁の図』(長野県立歴史館所蔵)
「信州デジタルコモンズ 長野県立歴史館所蔵資料」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/sdcommons_npmh-03OD02M2459000)
文政10年3月21日(1827年4月16日) - 嘉永3年5月24日(1850年7月3日)
肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。
本名は、墨谷要作。
身長が227cm、体重が169kg日本一の巨人力士でありました。
平戸藩生月島は江戸時代中期より捕鯨で有名であった。
鯨太左衛門という四股名はその生地と体格にちなんでつけられました。
鯨漁師の家に産まれる。
普通の赤ちゃんの倍の大きさで生まれたという。
子供の頃、漁に出る父親の船に一緒に乗ろうとしましたが、あまりにも身体が大きく乗らせてもらえませんでした。出漁の際、だだをこねた要作は、船に積んだ網から手を離さず、逆に船を陸に引っ張り上げてしまったという話が伝わっています。
そのほか、14歳で鯨を仕留めたことや、八丁櫓の勢子船と砂浜の要作が綱引きをして勝ったなど話も残っています。
港に戻った船をたった一人で引き上げ、船を返して水抜き等、家の手伝いをよくしていたそうです。
並外れた大きな身体で怪力の持ち主ですが、実際は地元の皆に愛され優しい心を持った少年だったようです。
テレビもなかった時代、すでに「平戸には巨童あり」と、要作の噂は全国的に知れ渡っていました。
角界入り等の誘いを見世物にさせたくないと両親は断り続けていましたが、その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)の門に入り、翌年1844年(天保15年)に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入りました。
船または徒歩での上京だったと思いますが、目立って大変な騒ぎだったと思いますね。
「生月鯨太左衛門」の名は、当時の平戸藩主から与えられた、とされています。
初土俵は18歳。大変な人気者となりました。
姿、顔立ちも整い、女性からも人気がありました。
実際のところはわかりませんが、江戸で女遊びを覚えた鯨太左衛門。
両国の水茶屋の評判娘に振られ、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸 玉之助と言う身長 1m程度の女性を妻にしたというエピソードが残っています。
主な成績
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
(Wikipedia参照)
にほんブログ村
雑学・豆知識ランキング
日本一の巨人力士●生月 鯨太左衛門(いきつき(いくづき、いけづき) げいたざえもん)
身の丈:七尺五寸 目方:四十五貫(身長227cm 体重169kg)
(上)一勇斎国芳『生月鯨太左衛門』(国立国会図書館所蔵)
「国立国会図書館デジタルコレクション」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1313377)
(下)国芳,小 『「平戸 生月鯨太左衛門」』(国立国会図書館所蔵)
「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-NDL_103_03_017)
(左)『 諸国名所百景備前五島鯨漁の図』(長野県立歴史館所蔵)
「信州デジタルコモンズ 長野県立歴史館所蔵資料」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/sdcommons_npmh-03OD02M2459000)
文政10年3月21日(1827年4月16日) - 嘉永3年5月24日(1850年7月3日)
肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。
本名は、墨谷要作。
身長が227cm、体重が169kg日本一の巨人力士でありました。
平戸藩生月島は江戸時代中期より捕鯨で有名であった。
鯨太左衛門という四股名はその生地と体格にちなんでつけられました。
鯨漁師の家に産まれる。
普通の赤ちゃんの倍の大きさで生まれたという。
子供の頃、漁に出る父親の船に一緒に乗ろうとしましたが、あまりにも身体が大きく乗らせてもらえませんでした。出漁の際、だだをこねた要作は、船に積んだ網から手を離さず、逆に船を陸に引っ張り上げてしまったという話が伝わっています。
そのほか、14歳で鯨を仕留めたことや、八丁櫓の勢子船と砂浜の要作が綱引きをして勝ったなど話も残っています。
港に戻った船をたった一人で引き上げ、船を返して水抜き等、家の手伝いをよくしていたそうです。
並外れた大きな身体で怪力の持ち主ですが、実際は地元の皆に愛され優しい心を持った少年だったようです。
平戸に巨童あり
テレビもなかった時代、すでに「平戸には巨童あり」と、要作の噂は全国的に知れ渡っていました。
角界入り等の誘いを見世物にさせたくないと両親は断り続けていましたが、その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)の門に入り、翌年1844年(天保15年)に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入りました。
船または徒歩での上京だったと思いますが、目立って大変な騒ぎだったと思いますね。
「生月鯨太左衛門」の名は、当時の平戸藩主から与えられた、とされています。
初土俵は18歳。大変な人気者となりました。
姿、顔立ちも整い、女性からも人気がありました。
実際のところはわかりませんが、江戸で女遊びを覚えた鯨太左衛門。
両国の水茶屋の評判娘に振られ、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸 玉之助と言う身長 1m程度の女性を妻にしたというエピソードが残っています。
主な成績
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
(Wikipedia参照)
にほんブログ村
雑学・豆知識ランキング
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11016453
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック