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2018年01月31日

存在の意味とはひとつの解釈として毎日死を意識すること

朝からかたい話で恐縮です。

ここ半年、ハイデガーの「存在と時間」を読んでいます。

光文社古典新訳文庫で中山元さんという方が翻訳されています。こちらは中山さんによる解説が丁寧に書かれており読みやすいです。

8巻まであるのですがわたしはまだ2巻目の2回目を再読している途中です。

以前、中山さんが出された本でカントの「純粋理性批判」こちらも7巻あったのですが、最低2回は読まないとわからなかったので全部読み終わるまで1年半かかりました。

今回のハイデガーの「存在と時間」も1冊あたり3回読もうと決めました。わたしのない頭でも3回読めば概要をつかめるかと

今回は 存在の意味とはひとつの解釈として毎日死を意識すること 

日々、存在(現存在=自分)をわれわれは意識したり、認識したりすることはないでしょう。

当たり前ですものね。存在しているの。

ではなんで存在しているのでしょうか?

存在している意味とはなんでしょうか?

そういった疑問に真正面に向かっていったのがハイデガーの「存在と時間」です。

アリストテレスは「存在とは多様なかたちで語られる」と言っています。

ハイデガーはもちろん、われわれのひとりひとりが存在とは何かということを自己に質した場合それぞれ独自の考え方があるはずです。

ハイデガーは存在の地平として「日常」に目を向けることが非常に大事であると語っています。

われわれは存在を意識する前に「日常」に埋没してしまっています。

こうした日常に目を向けることはひとつの味方でありますが、わたしは毎日死を意識することで存在を意識するのが存在の意味を解釈するうえで大事なのでは最近考えています。

隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」で主人公は毎日自分の死をシュミレーションします。毎日毎日自分の死を考えているのです。

ハイデガーの「存在と時間」読むずっと前にこれを読んだのですが、存在と時間をよんだときわたしに強くリンクし始めたのです。

存在にとって死とは消極的なものにすぎないと考えがちですが、死を意識することこそ実存できる条件なのではないかとわたしは勝手に解釈してます。

まとめ
・あなたは毎日の日課として何かしていることはありますか? 毎日自分の死について考えてます。( ゚Д゚)ハァ?


posted by ましゅ at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然
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