2024年06月12日
1032 倒産
東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。
第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所が、フジテレビ内に置かれた。
頭が良く入社試験の成績の良い人がTBS内第一事業所に配属されたと言れたが、たぶん事実であろう。
TBSはドラマ制作に力を入れ、ドラマのTBSというイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。
そして、お互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。
バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産した。
新聞紙上を賑わせ、昨日まで社長と崇めた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。
第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。
勿論、会社更生法が適用されているとの事だ。
ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと胸をなでおろした。
カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。
しかしひかるは、冷暖房完備、皆んなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。
たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが一番の楽しみだ。
年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには全く蚊帳の外だった。
窓際族というよりは、むしろ窓外族だ。
課会や部会、全体会議があっても外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめそのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。
しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。
1031 巨人戦
野球放送は、巨人戦を中心に編成されている事は言うまでもない。
野球ファンの5割は巨人ファンと言われ、アンチ巨人が2割いるとすれば、7割が巨人戦、観戦という事になる。
同時間帯に、巨人戦以外のカードを放送しても、なかなか視聴率が取れないのである。
巨人戦は、資本関係にある、日本テレビが過半数の放送権を持っている。
年間、140試合とすると、70試合は、日本テレビが放送する。
残りの70試合が、五つの球団、14試合ずつ分割されるという事だ。
横浜は、TBSと資本関係にあり、横浜対巨人戦14試合は、必然的に放送する。
フジテレビは、ヤクルトとの資本関係で、ヤクルト巨人戦14試合を、必然的に放送する。
それ以外に中日、阪神、広島もそれぞれ14試合ずつ権利がある。
例えばフジテレビだと、ネット系列の関西テレビが、阪神や広島などと交渉し、放送権を獲得する。
それを、関西テレビ発、フジテレビ系列で全国放送するという訳だ。
勿論、名古屋にもネット系列の局があるので、そこ経由で放送するという事。
TBSと、フジテレビ系列で、年間、だいたい55本くらい、半々で放送する。
残りの15試合をテレビ朝日やNHK、はたまた日本テレビの系列局で争奪戦するという形になる。
だから日本テレビは、70試合以上の放送枠を確保し、巨人が低迷すると大変だ。
1030 TV界、就職状況
昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。
NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。
世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。
当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。
夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。
民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。
TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。
そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。
その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。
その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。
昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。
ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。
テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。
ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。
(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)
求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。
待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。
クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。
15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。
会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。
ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であったと、しみじみ感じたのである。
また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。
1029 主の役目
避難場までは、1キロくらいあり、風速70メートルの逆巻く突風は、前後左右から揺さぶって吹き、決して同一方向から、均一的に吹いて来ません。
会話は嵐の中へ千切れ飛び、痛い程叩き付ける雨に、目も開けられず、風圧で、息をする事すら苦しく、顔をあげておられません。
大人ですら、進むのが困難な状況である。
闇夜の畦道、吹き飛ばされ、足に纏わり付き、やっとの思いで、避難場へ到着。
不安な一夜を過ごしました。
抗し難い、大自然の力とは言え、コツコツと築き上げた我が家が吹き飛ぶ。
翌日からの生活を思い巡らし、家を後にする時、父親の気持ちはどのようなものだったのだろうか。
南国の真夏、殆んど着る事の無いオーバーコートを着、荒れ狂う嵐に悠然と立ち向い、家族を守る。
父の背中はあまりにも大きく、凛々しい姿として瞼に焼き付けられ、ひかるが生きていく中、人生の厳しさに背を向ける事なく、前向きに立ち向い、家族を守る、一家の主の姿として生き続けたのだった。
また地震や緊急の災害時、持ち出す物は色々有るかと思いますが、オーバーコートが一番役に立つのではないだろうか。
コートを羽織る事により、風雨が凌げ、見通しの良い場所でも、下着などの着替えが簡単に出来、家の役目さえするのです。
咄嗟の災害時、真夏でもオーバーコートを持ち出す、心の準備が大事かと思います。
昨今は、粗大ゴミと陰口される父親像ですが、世の中平和過ぎ、父親の出る幕が少ないからとて、粗末にされたのではたまりません。
何か一大事が起きた時、それなりに、毅然として立ち向い、頼られるのが、主の役目。
今一度、それぞれの父親像を考えてみる必要が、あるのではないだろうか。
1027 真夏のオーバーコート
ひかるが小学校へ入る前の出来事で、瞬間最大風速70メートルくらいはあったでしょうか。
大型の台風が、島を直撃。平たんな島は、風圧をまともに受け、遮る物は何も有りません。
電気は無く、真っ暗闇の真夜中、轟音渦巻く風の音、激しく叩き付ける雨の音、そして、家がギシギシとマッチ箱を揺するが如く、激しく揺れ動いているのに目が覚めました。
暗闇に目を凝らすと、父と母が、いつもと違う、重苦しい不安げな顔で天井を見つめ、会話を交わしております。
父は、「台風は我が家を直撃する。この分だと屋根が吹き飛び、危険なので避難をする」と、ため息を残し、立ちあがりました。
母は、「この嵐の中、どうやって避難所まで、行き着くのか」と、脅え声。
(台風は目に向かって、左回りに風が吹き、一点にいて、刻々変わる、風向きと風力で、台風の目がこちらへ向かって来るのか、逸れて行くのか判断出来ます)
具体的に北東の風が東になり、時間経過で強まり北東の風に戻ってきた場合、間違いなくこちらをめがけ直撃体勢に入っている事になります。
父が、オーバーコートを出すよう、指示。
風があるとは言え、南国の汗ばむ真夏。
なぜ、オーバーコートが必要なのか?
雨具代わりに使うのだろうか?
答えはすぐ、出ました。
母が大事にしまってある、一着しか無いオーバーコートを出すと、無造作の中にも、襟元をきつく絞り、ベルトをしっかり締め、子供達は、両方の裾に掴まれ、との事である。
初めて見る、父のオーバーコート姿でした。
1026 脳内アルバム
ひかるが、南の島へ帰郷した際、ある85歳のおじいちゃんと、ゆっくり話をする機会が有りました。
おじいちゃんは、10人もの子だくさんで、孫やひ孫を数えると、40人は、いるとの事。
子供達は、高校がないので、一度島を離れますが、もう二度と島には帰って来ません。
おばあちゃんと二人っ切りは、淋しそうに見えるのですが、私は一番幸せ者だ、と自慢。
事実、温和な丸みのある、幸せが滲み出ているのが、感じられます。
何んでそれ程までに、幸せを周りに放射出来るのだろうか?
体力的には、庭の散歩がやっとで、寝ている時間が大半のおじいちゃん。
不思議な力を感じ、その場を離れるのが勿体無く、ついつい色々な話をし、時を過ごしてしまいました。
「今にも天国から、迎えが来るかも知れない」と平気でしゃべっている姿からは、死に対する不安が、微塵も感じられません。
どうしてなのだろうか?
話を聞くと、おじいちゃんの人生は、子だくさんの為、苦労は多かったが、楽しみも多かったとの事。
大勢の子や孫の結婚や出産、名前を覚える事。
進学や就職などの便りや写真が、脳内いっぱい詰め込まれていたのです。
そして、脳内に詰め込まれた、写真やストーリーを寝ながらでも、瞬時に引き出し、何回でも再現し、毎日が映画を見ているように、楽しく過ごしていたのです。
そうです、脳内に焼き付けられた人生のアルバムは、お金もかからず、体力も使いません。
いつでも、瞬時に引き出し、何回でも楽しむ事が出来るのでした。
若い時代、多くの素敵な出会いや恋をし、色々な所へ行き、苦労もいとわず、冒険もし、多くのシーンを脳内に焼き付けておく事が、老後をより楽しく、幸せに過ごす、秘訣ではないだろうか。
若い時代、人生のアルバムを、脳内いっぱい貯金し、周りの人々へ、幸せ貯金を放射出来る、年寄りになりたいものです。
そのおじいちゃんも、人生をまっとうした、との便りを受け、ひかるは幸せエネルギーの放射を、体いっぱい受けられ、最高の出会いだったと、感謝しています。
1025 またまた、大失敗
上京直後、組み立て配線工として働いていた時、またまた大失敗です。
昼食には、出前をとっていました。
食べ物の名前は初めて聞くものばかりです。
周りの注文を見聞きしながら覚えていこうと考え、真似をする事に決めこみました。
初日は、天丼、ラーメン、チャーハン、焼飯と、みんなが注文するのを聞き、唯一知っているメニューで、焼飯を注文。
その日は、無事に何事も起こりませんでした。
翌日、例によって皆なが注文をした後、中身は知らないけど、しゃれた名前なのでチャーハンを注文。
みんなが取った後に残った物が、チャーハンだろうとの考え。
待っていると、残っているのは前日と同じ焼飯。
「誰か注文を間違えた人はいませんか!?」と大声で聞きました。
誰も間違えていないとの事。
「君、何を注文したのだ?」と聞かれたので、
「誰か注文を、間違えているはずです。私は間違いなく、チャーハンを注文したのですが、焼飯しか残っていないんです!」
みんなが、食べ物を一斉に吹き出してしまいました。
「この男、笑わせてくれるではないか!」と今なら言えますが、当人は何んで笑われたのか、皆目見当がつきません。
訳を聞くと怒られ、「お前、それでも日本人か?」と言われた時には頭に来て、むかつきました。
当時はパスポートを携えての身分で、沖縄人が一番聞きたくない言葉で切れる瞬間。
しかし、そこは忍々の、人生修行の場。
焼飯とチャーハンは、同じだったのでした。
カラスの、白け鳥!
失敗談には事欠かず、西武新宿線の「田無」に用事が有り、切符売り場で「デンブ」ください、と言うと怪訝な顔をされ、ニタッとした後、そんなものは無いと、そっけない返事。
からかわれているような気がし、田舎っぺ根性ふつふつ、むらむら。
二言、三言やりあいましたが、読み方が「たなし」だと言われ、開いた口が、塞がりません。
日本国教育を受けた人がいきなりこの二文字を見せられ、たなし、と読む人はいるのかな?
以後、地名や人名には注意をするようになりました。
恥は、かけばかくほど、度胸がつきます。
大いに、恥はかきましょう。
罪のない恥を・・・・
2024年06月11日
1023 あれ〜
前席の女高生だと思われる女の子が、あれ〜と甲高い声を出し、椅子を軋ませ逃げ出す。
周りの客は、針でつっ突かれたかの如く、一斉に注目。
見るとテーブル上は、運悪く、ツユが前の方へ流れています。
娘が飛んで来て、ツユを拭き、お客に誤り、調理場からもう1本ツユを持って来ました。
こぼしたものと勘違いをしたのです。
さて、2本目です。
どうするか??
あまりの出来事に、多くの客も、野次馬気分で立ち上がっての見物。
前の女高生はすでに避難し、どうしてよいのか分からず、恥ずかしさと冷や汗。
当人は完全に、舞い上がっています。
店全体の視線を一身に受け、仕方なく、そばを一本ずつ、ツユに浸しながら食べていると、隣の客が親切に教えてくれましたが、時すでに遅し。
周りの雰囲気からして、何が何んだか食べた気がしません。
さて、次は下のご飯だぞ!
はやる気持ち、ぎこちない手つきで、すのこを取りました。
何んだ、これは!
カラッポではないか!
大盛に盛られた、どんぶり飯を期待していただけに、裏切られた時の腹の立つ事、立たない事!
娘を呼びつけ、「これは、大もりではない!」と一括。
田舎ものだと馬鹿にされないぞ、だまされないぞ、という剣幕で劣等感が爆発したのです。
親切に、ツユのお代わりまでしてくれた娘は、あっけにとられ、精神異常者ではないか、という恐怖の眼差しで、奥の方へ逃げていきました。
周りの雰囲気は、皆さんの想像にお任せしましょう・・
主人が出て来たので、一言、二言文句を言いました。
日曜日の昼の混雑時、主人はケンカも出来ず、呆れ果てるばかり。
ひかるは、上げ底メニューで客をだます、悪徳食堂の悪徳主人に客を代表して文句を言ってやった、思い知らせてやったと、正義感に燃え、肩で風を切り、堂々と店を出て行きました。
「神様! この男に罪はない、単なる無知だ! 救いの手を・・・・・・・」
お店の皆さん、ごめんなさい!