鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が1199年落馬事故で命を落とす。
それまで将軍の舅(しゅうと)という立場に安住していた北条時政は頼朝の「突然の死」でよりどころ
を失い、「権力の亡者」と化した。
最大のライバルは後の2代将軍頼家を娘婿に迎えた有力御家人の比企能員(よしかず)。
「ポスト頼朝」の号砲が鳴り、血と血を洗う権力闘争が始まった。
頼朝の死後、【鎌倉殿の13人】のうち有力メンバーである北条時政と武蔵国比企郡(現在の埼玉県中部)
を」拠点とする比企能員の間でにわかに緊張が高まった。
頼朝には長男・頼家と次男・実朝という二人の男子がいた。
権力の座にありつこうと時政は実朝を、能員は2代将軍についたばかりの頼家を囲い込み、両陣営の小競り
合いが起きていた。
そしてついに優劣を決するときが来た。1203年9月2日時政は何事もなかったように【薬師如来像が
できたのでその供養に来ませんか」と多くの要人らに呼びかけ自邸の「名越「名越」の館」に招いた。
能員も客人の一人だった。そこで何が起こったのか?
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