SNSのおかげでたくさんのお祝いメッセージを頂いた。本当にありがたいなあと思う。
70代にずいぶん近づいた。けっこう凄い年齢だ。昔の隠居という次元を超えている。
しかし、自分としては、壮年期の、いや青年期の気持ちのまんまである。中身はちっとも成長しちゃいない。気分は若いまんまだ。カミさんに怒られるが、恋だってまだまだできるつもりだ。そういうものなんだということは、この年になってはじめてわかることだ。
誕生日は、命の始まりの日である。そこから人としての人生がスタートする。
赤ちゃんから子供になり、学生から社会人になり、そしてリタイヤの日を迎え、老境に至る。
数年前に、大病を患い結構大掛かりな手術をした。その時に、死を意識した。
命を落とすかもしれないということを、はじめて真剣に考えた。実は、万一のために、遺書のようなものも書いた。
あれから数年、幸いにもまだなんとか普通に暮らしていける体力を維持している。
しかし、こうして高齢者と呼ばれる範疇に属しつつ誕生日を迎えると、それは、「また今年もなんとか生きていられた」というめでたいことと、「また少しゴールに近づいた」ということの両方を考えてしまう。
ここまで書いてきて、ちょっと暗い考え方の様にも見えるかなと思ったけれど、そうではない。ポジティブに、人生のしまい方をちゃんと考えないといけないなという気分である。
今のところ体もどうにか普通に動くし、目も耳も鼻も、なんとか機能してくれている。
しかし、やはり終わりのことも考えるようになった。ほとんど進んでいないけれど、いわゆる終活のようなことを考え、巨大な古民家である実家のガラクタの処理は、私がやるしかないと思い、少しずつ片付けをしているが、あまりに膨大で、遅々として進まない。
父は不用品を捨てたりなどという事はほとんど何もやっていない人なので、蔵の中を含めて私がなんとかしないといけない。残念ながら、今や価値のあるものは殆どないので、捨てるものばかりだけれど、それでもメルカリで数千円で売れるものもたまにあるから、ついささやかなスケベ心も起きてしまう。
コロナ禍で、東京の家に帰ることもできず、家族とは、LINEとTV電話で誕生日のコミュニケーションをした。
来週は、母の着物をちょっとチェックしてみようかと思っている。高級なものは全くないが、そもそも私が実家に帰るまでタンスを開いたりしていないから虫食いがひどいのではないかと思っている。ほぼ全部捨てないといけないかもしれない。
そんなことをあれこれ考えながら、父の介護もしなければいけない。
草枕をちゃんと読んでないなと思って、最近あらためて読み始めている。
智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。とかく人の世は住みにくい。・・・・然り、全くその通りである。今読み直すと、難しい言葉も多くなかなかの難敵。さて、ちゃんと読み終わるまで根気が続くかな・・・
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