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2022年01月20日
月見が岡八幡神社
新宿区にある月見が岡八幡神社での旧祭神は月読命・美井乃神・杉井乃神であり、いつからか八幡神となった日本によくあるパターンです
八幡神として祭祀されたのは
品陀和気命(応神天皇)
息長帯比売命(神功皇后)
大雀命(仁徳天皇)
こちらのファミリーです
応神天皇の御子である仁徳天皇、そして息長帯比売命は応神天皇の母です
つまり母系社会を意味するファミリーだと考えられます
その場合「トーテム」の存在が隠されていることが考えられます
それは「足」にあるのかもしれません
応神天皇の父は足仲彦天皇です
さらにその父はヤマトタケルですがタケルの父は景行天皇(大足彦忍代別天皇)です
ヤマトタケルは天皇にはならず、もう一人の景行天皇の御子である成務天皇(稚足彦天皇)ですが、みんな死後の贈名に「足」の諡号がついています
おそらくこれがトーテムに近い存在になると思われます
足がつく名前の神社は意外と各地で見つけられます
これはアシナヅチ・テナヅチから来ているのかもしれません
アシナヅチは古事記にも出てきますが、スサノオがヤマタノオロチを退治する条件としてアシナヅチの娘と結婚して夫婦神となりました
それが氷川神社です
アシナヅチはホツマツタヱではモチコとハヤコを自分の新たな局としており、ハヤコの三つ子の姫 (タケコ・タキコ・タナコ) を、ウサ宮に受け入れています
そこへ追放されたスサノオがたどり着いてヤマタノオロチを退治したという話につながっていると考えられます
熱田神宮に祀られる剣はヤマタノオロチ(ハヤコ)を倒した際に尾から出てきた刀です
今は海の底に沈んでしまいましたので、現在の神剣はレプリカです
このことから熱田神宮と氷川神社のつながりがわかりますね
それがここでは八幡神社につながっているのです
氷川神社と熊野神社はスサノオという点で共通していますが、八幡神社もそういった点では共通しています
それは代々のスサノオがやがて八幡神(応神天皇)となったことを意味しています
さらに面白いことに、トーテムは応神天皇から鳥に変わります
つまり百舌鳥古墳群です
それが応神・仁徳天皇の親子ですから、代々の天皇の系譜における一つの分岐点になっているようです
ここで祭神に注目してください
品陀和気命(応神天皇)
大雀命(仁徳天皇)は鳥の名前ですが、なぜ父親の応神天皇は鳥の名前ではないのでしょう
それは品陀和気命(応神天皇)
和気(ワケ)を強調しているからではないでしょうか
ワケは気比となります
これは伊奢沙和気大神命(イザサワケ)のことです
つまり神功皇后ファミリーとして建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)が見え隠れするのです
そして建内宿禰の取り次ぎにより応神天皇は「御食(みけ)の魚」が授かりました
天之御中主(国常立大神)やタカオカミ、或いはひとまとめに「水神」は魚を象徴として顕現し、魚を集めて龍宮城を形成しています
そこへ渡す役割としての、めなしかたまの船でもあります
その場合は水神は塩釜神となるのです
塩釜は親子神であり、つまり春日の神となります
その春日の神が笑福稲荷です
そしてこのファミリーは見えない世界では必ず天神とセットになっているので、見える世界でも北野神社(菅原道真公)が祀られているのです
ちなみに見えない世界では菅原道真公は木花咲耶姫の御子神となる山幸彦です
古事記での山幸彦は塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、めなしかたまの小舟に乗り龍宮城に送られたのです
ちなみにその目的は海幸彦の釣り針を探すためでした
また、海幸山幸の母は木花咲耶姫ですから、富士の浅間神社であり、富士山信仰がしっくりきてしまうんです
ところで、八幡神社でのキーポイントはヒメ神が誰かということです
この場合、ヒメ神は息長帯比売命(神功皇后)であり、月見が岡八幡神社の旧祭神に当てはめると、月読命にあたりますね
月読神は山城(背)一円に秦氏によって祀られていた神であり、
その原型は宇佐八幡です
壱岐の月読神社では月夜見命、月弓命、月読命の3柱を祀っていますが、元は秦氏(辛嶋)の祀る神です
他にも宇佐八幡から勧請された神として厳島神社がありますが、いつきの島で祀られていた女神(イチキシマヒメ)ということです
そして宇佐八幡から全国に勧請されるのが正式です
しかし石清水八幡宮には別のヒメ神を祀っているようです
石清水八幡宮は男山八幡宮とも云われ、応神天皇がハチマン神化した頃です
つまり女神とは別の男神が全面に出てきた頃です
それが九世紀であり、それまでは八幡はヤワタと呼ばれていたようです
なので地方にヤワタハチマンのやうなネーミングが誕生することになり、その元をただせば男山であり、石清水八幡神であり、それが清和源氏の神となったのです
これが渡来新羅の血であるということであり、宇佐八幡の族長息長帯比売命(神功皇后)は新羅のヒメ神であり、建内宿禰もそのファミリーだったのです
それでその血が受け継がれた源頼義・義家の東征により、月見が岡八幡神社にも彼ら清和源氏が来たのでしょう
そしていつからか祭神の名前がチェンジされたということですね
かんたんにまとめると、景行天皇はツキヨミ系統の足王となり、皇室の祖神とリンクしていることが考えられるのです
また、ツキヨミは黄泉の世界を主宰する冥界の女主人になります
仏界では月光観世音菩薩となり、救いの舟を遣わします
月はそのまま仏教世界になっていて、日本に百済から経典や仏像が、新羅から道教的な思想や呪術といったものとして伝来してきたのです
そしてやがて日本全国の庚申塔をつくらせたのです
そのルーツになっているのがカヤ、伽耶、加羅と呼ばれる所です
日本人の姓名のナカムラさんはナムカラ(南韓)の人たちだったかもしれません
結果として南加羅の人たちが仏教と共に渡来してきたのではないでしょうか
そして、それからやがて大化の改新につながっていくのです
さて、旧祭神は月読命の他に、美井乃神・杉井乃神とあります
両方とも井乃神です
いの神と言えば十二支の干支の最後ですが、旧暦の10月でもあります
そしてこの時は亥の子の祭があるのです
これは元は日本の西(南)の方からやってきた風習ではないでしょうか
ちょうど神武天皇が九州から東征してきたように、皇族の「井乃神」を祀っていた人達による風習だとすれば、
考えられるのは貴船神社の原初の神である「井の神」です
賀茂の人達がはじめに祀っていた水神、やがて天之御中主として造化三神と名付けられた神様ですね
神武天皇東征の折には、後に薩摩から相模国経由でやってきた豊島氏や渋谷氏の先祖達も合流していたかもしれません
やがて東征して武蔵野の井の頭まで来たとしたら、井の「頭」が大和政権の東端であるとも考えられます
さらに石神井のあたりから広がっていった氷川神社郡もあります
氷川神社ではスサノオとイナダヒメの夫婦神が祀られます
そうした井乃神が夫婦神であり、原型はイザナギ・イザナミです
それが日本全国の道祖神になっていったのではないでしょうか
やがて道祖神は道教化された格義仏教である庚申塔に塗り替えられてしまいますが…
いずれにしてもそれは井乃神であり、原初の水神であり、さらに美井乃神・杉井乃神は美・杉になります
ミスギ
ここまで来るとその奥に三本杉が見えてきませんか?
三杉とくれば
豊島区の三杉稲荷が思い浮かびますが、大鳥神社(ヤマトタケル)とセットなんですね
たしかに、大鳥神社とくればヤマトタケルですから父親は景行天皇(足)であり、やがて応神八幡につながる系譜です
それと三杉稲荷は神紋が杉ですね、3つの杉がトレードマーク!と来たら、
その神紋が示すように奈良の大神神社ではないでしょうか
日本最古の神社ともされます
大和政権の中枢であり
祭神は大物主大神です
御正体は初期の賀茂氏が奉った「井戸の蛇神様」です
またの名を火雷神とも言い、矢の神(ヤワタ)でもあるのです
その火雷神こそが、八幡神の根源的な力になっているのでしょう
厳島神社ではイチキシマヒメとなり、男山の石清水八幡宮ではハチマンとなり、どちらも戦闘神です
それが火雷神であり、後に最澄を比叡山に導いた神(スサノオの後身である大山咋神)だと考えられます
その場合、妻神が稲荷ですから男神である矢の神(八幡神)とホトをつかれる女神(稲荷)がセットになりますので
櫛稲田姫命(稲荷)と八幡神(スサノオ)がセットで展開されている事が、我が国の神道観の一つとして考えられるのです
そして大物主大神は妻神を娶り、やがて皇室の祖となる御子を産んだのです
そこから神武天皇に辿り着くのが我が国の神話であります
ですから美井乃神・杉井乃神は三本杉の夫婦神であり、それがスサノオとイナダヒメに転生しているということでしょう
それで結局、美井乃神・杉井乃神は氷川であるとも考えられるのです
しかし、ちょっと待って下さい、スサノオは氷川だけではありませんよね
忘れてならない熊野神社があるではないですか!
その場合どうでしょう
スサノオとツクヨミだったならば!!
熊野神社そのものではないですか
同じ新宿区に熊野神社がありますが、そこでの祭神は櫛御気野命(くしみけのおおかみ)であり、スサノオなのですが、名前に注目です
櫛は櫛稲田姫命(ヒメ神)
櫛 御気野命
御気野は群馬の上毛に広がる古墳群に眠れる人たちではないでしょうか
つまり毛(気)の(野)人たちであり、大和政権における支配者層であり、南北の武蔵野を治めてきた崇神天皇からの系譜ですね
或いは気比にまつわる都怒我阿羅斯等(ツノがあるヒト)との関わりも考えられます
どちらにせよ、同じ朝鮮半島のコリア族の人たちです
その末裔が五瀬命(朝鮮に残った)や神武天皇(日本に来た)であり、同じコリア族の兄弟です
この人たちは元は母系社会であり、近親姦が当たり前だった時期があったはずです
しかし男性優位な社会となると近親婚は非常識であり、さらに秦の始皇帝が台頭してきたように暴力が優位な社会になり、結果として武器が過剰に発達してしまう世の中となりました
そうした結果、平和であった母系社会のコミュニティはことごとく武器を持った人たちに支配されたのであり
それが「邪馬台国の滅亡」だったのではないでしょうか
話は飛びましたが、月見が岡八幡神社では月読命がイザナミ女神となり、美井乃神・杉井乃神がスサノオと稲荷の夫婦神であり、後から祭祀された八幡神社の祭神が
品陀和気命(応神天皇)
息長帯比売命(神功皇后)
大雀命(仁徳天皇)
これで品陀和気命は応神天皇(イザナギ)で、息長帯比売命はヒメ神(イザナミ)そして
大雀命の仁徳天皇がスサノオと見ることもできます
その場合のスサノオはイザナミ女神とセットになりますから「氷川」又は「熊野」となるわけです
ですから結果的に月見が岡八幡神社は同新宿区の新宿中央公園にある熊野神社の祭神と同じである、と考えることができます
八幡神として祭祀されたのは
品陀和気命(応神天皇)
息長帯比売命(神功皇后)
大雀命(仁徳天皇)
こちらのファミリーです
応神天皇の御子である仁徳天皇、そして息長帯比売命は応神天皇の母です
つまり母系社会を意味するファミリーだと考えられます
その場合「トーテム」の存在が隠されていることが考えられます
それは「足」にあるのかもしれません
応神天皇の父は足仲彦天皇です
さらにその父はヤマトタケルですがタケルの父は景行天皇(大足彦忍代別天皇)です
ヤマトタケルは天皇にはならず、もう一人の景行天皇の御子である成務天皇(稚足彦天皇)ですが、みんな死後の贈名に「足」の諡号がついています
おそらくこれがトーテムに近い存在になると思われます
足がつく名前の神社は意外と各地で見つけられます
これはアシナヅチ・テナヅチから来ているのかもしれません
アシナヅチは古事記にも出てきますが、スサノオがヤマタノオロチを退治する条件としてアシナヅチの娘と結婚して夫婦神となりました
それが氷川神社です
アシナヅチはホツマツタヱではモチコとハヤコを自分の新たな局としており、ハヤコの三つ子の姫 (タケコ・タキコ・タナコ) を、ウサ宮に受け入れています
そこへ追放されたスサノオがたどり着いてヤマタノオロチを退治したという話につながっていると考えられます
熱田神宮に祀られる剣はヤマタノオロチ(ハヤコ)を倒した際に尾から出てきた刀です
今は海の底に沈んでしまいましたので、現在の神剣はレプリカです
このことから熱田神宮と氷川神社のつながりがわかりますね
それがここでは八幡神社につながっているのです
氷川神社と熊野神社はスサノオという点で共通していますが、八幡神社もそういった点では共通しています
それは代々のスサノオがやがて八幡神(応神天皇)となったことを意味しています
さらに面白いことに、トーテムは応神天皇から鳥に変わります
つまり百舌鳥古墳群です
それが応神・仁徳天皇の親子ですから、代々の天皇の系譜における一つの分岐点になっているようです
ここで祭神に注目してください
品陀和気命(応神天皇)
大雀命(仁徳天皇)は鳥の名前ですが、なぜ父親の応神天皇は鳥の名前ではないのでしょう
それは品陀和気命(応神天皇)
和気(ワケ)を強調しているからではないでしょうか
ワケは気比となります
これは伊奢沙和気大神命(イザサワケ)のことです
つまり神功皇后ファミリーとして建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)が見え隠れするのです
そして建内宿禰の取り次ぎにより応神天皇は「御食(みけ)の魚」が授かりました
天之御中主(国常立大神)やタカオカミ、或いはひとまとめに「水神」は魚を象徴として顕現し、魚を集めて龍宮城を形成しています
そこへ渡す役割としての、めなしかたまの船でもあります
その場合は水神は塩釜神となるのです
塩釜は親子神であり、つまり春日の神となります
その春日の神が笑福稲荷です
そしてこのファミリーは見えない世界では必ず天神とセットになっているので、見える世界でも北野神社(菅原道真公)が祀られているのです
ちなみに見えない世界では菅原道真公は木花咲耶姫の御子神となる山幸彦です
古事記での山幸彦は塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、めなしかたまの小舟に乗り龍宮城に送られたのです
ちなみにその目的は海幸彦の釣り針を探すためでした
また、海幸山幸の母は木花咲耶姫ですから、富士の浅間神社であり、富士山信仰がしっくりきてしまうんです
ところで、八幡神社でのキーポイントはヒメ神が誰かということです
この場合、ヒメ神は息長帯比売命(神功皇后)であり、月見が岡八幡神社の旧祭神に当てはめると、月読命にあたりますね
月読神は山城(背)一円に秦氏によって祀られていた神であり、
その原型は宇佐八幡です
壱岐の月読神社では月夜見命、月弓命、月読命の3柱を祀っていますが、元は秦氏(辛嶋)の祀る神です
他にも宇佐八幡から勧請された神として厳島神社がありますが、いつきの島で祀られていた女神(イチキシマヒメ)ということです
そして宇佐八幡から全国に勧請されるのが正式です
しかし石清水八幡宮には別のヒメ神を祀っているようです
石清水八幡宮は男山八幡宮とも云われ、応神天皇がハチマン神化した頃です
つまり女神とは別の男神が全面に出てきた頃です
それが九世紀であり、それまでは八幡はヤワタと呼ばれていたようです
なので地方にヤワタハチマンのやうなネーミングが誕生することになり、その元をただせば男山であり、石清水八幡神であり、それが清和源氏の神となったのです
これが渡来新羅の血であるということであり、宇佐八幡の族長息長帯比売命(神功皇后)は新羅のヒメ神であり、建内宿禰もそのファミリーだったのです
それでその血が受け継がれた源頼義・義家の東征により、月見が岡八幡神社にも彼ら清和源氏が来たのでしょう
そしていつからか祭神の名前がチェンジされたということですね
かんたんにまとめると、景行天皇はツキヨミ系統の足王となり、皇室の祖神とリンクしていることが考えられるのです
また、ツキヨミは黄泉の世界を主宰する冥界の女主人になります
仏界では月光観世音菩薩となり、救いの舟を遣わします
月はそのまま仏教世界になっていて、日本に百済から経典や仏像が、新羅から道教的な思想や呪術といったものとして伝来してきたのです
そしてやがて日本全国の庚申塔をつくらせたのです
そのルーツになっているのがカヤ、伽耶、加羅と呼ばれる所です
日本人の姓名のナカムラさんはナムカラ(南韓)の人たちだったかもしれません
結果として南加羅の人たちが仏教と共に渡来してきたのではないでしょうか
そして、それからやがて大化の改新につながっていくのです
さて、旧祭神は月読命の他に、美井乃神・杉井乃神とあります
両方とも井乃神です
いの神と言えば十二支の干支の最後ですが、旧暦の10月でもあります
そしてこの時は亥の子の祭があるのです
これは元は日本の西(南)の方からやってきた風習ではないでしょうか
ちょうど神武天皇が九州から東征してきたように、皇族の「井乃神」を祀っていた人達による風習だとすれば、
考えられるのは貴船神社の原初の神である「井の神」です
賀茂の人達がはじめに祀っていた水神、やがて天之御中主として造化三神と名付けられた神様ですね
神武天皇東征の折には、後に薩摩から相模国経由でやってきた豊島氏や渋谷氏の先祖達も合流していたかもしれません
やがて東征して武蔵野の井の頭まで来たとしたら、井の「頭」が大和政権の東端であるとも考えられます
さらに石神井のあたりから広がっていった氷川神社郡もあります
氷川神社ではスサノオとイナダヒメの夫婦神が祀られます
そうした井乃神が夫婦神であり、原型はイザナギ・イザナミです
それが日本全国の道祖神になっていったのではないでしょうか
やがて道祖神は道教化された格義仏教である庚申塔に塗り替えられてしまいますが…
いずれにしてもそれは井乃神であり、原初の水神であり、さらに美井乃神・杉井乃神は美・杉になります
ミスギ
ここまで来るとその奥に三本杉が見えてきませんか?
三杉とくれば
豊島区の三杉稲荷が思い浮かびますが、大鳥神社(ヤマトタケル)とセットなんですね
たしかに、大鳥神社とくればヤマトタケルですから父親は景行天皇(足)であり、やがて応神八幡につながる系譜です
それと三杉稲荷は神紋が杉ですね、3つの杉がトレードマーク!と来たら、
その神紋が示すように奈良の大神神社ではないでしょうか
日本最古の神社ともされます
大和政権の中枢であり
祭神は大物主大神です
御正体は初期の賀茂氏が奉った「井戸の蛇神様」です
またの名を火雷神とも言い、矢の神(ヤワタ)でもあるのです
その火雷神こそが、八幡神の根源的な力になっているのでしょう
厳島神社ではイチキシマヒメとなり、男山の石清水八幡宮ではハチマンとなり、どちらも戦闘神です
それが火雷神であり、後に最澄を比叡山に導いた神(スサノオの後身である大山咋神)だと考えられます
その場合、妻神が稲荷ですから男神である矢の神(八幡神)とホトをつかれる女神(稲荷)がセットになりますので
櫛稲田姫命(稲荷)と八幡神(スサノオ)がセットで展開されている事が、我が国の神道観の一つとして考えられるのです
そして大物主大神は妻神を娶り、やがて皇室の祖となる御子を産んだのです
そこから神武天皇に辿り着くのが我が国の神話であります
ですから美井乃神・杉井乃神は三本杉の夫婦神であり、それがスサノオとイナダヒメに転生しているということでしょう
それで結局、美井乃神・杉井乃神は氷川であるとも考えられるのです
しかし、ちょっと待って下さい、スサノオは氷川だけではありませんよね
忘れてならない熊野神社があるではないですか!
その場合どうでしょう
スサノオとツクヨミだったならば!!
熊野神社そのものではないですか
同じ新宿区に熊野神社がありますが、そこでの祭神は櫛御気野命(くしみけのおおかみ)であり、スサノオなのですが、名前に注目です
櫛は櫛稲田姫命(ヒメ神)
櫛 御気野命
御気野は群馬の上毛に広がる古墳群に眠れる人たちではないでしょうか
つまり毛(気)の(野)人たちであり、大和政権における支配者層であり、南北の武蔵野を治めてきた崇神天皇からの系譜ですね
或いは気比にまつわる都怒我阿羅斯等(ツノがあるヒト)との関わりも考えられます
どちらにせよ、同じ朝鮮半島のコリア族の人たちです
その末裔が五瀬命(朝鮮に残った)や神武天皇(日本に来た)であり、同じコリア族の兄弟です
この人たちは元は母系社会であり、近親姦が当たり前だった時期があったはずです
しかし男性優位な社会となると近親婚は非常識であり、さらに秦の始皇帝が台頭してきたように暴力が優位な社会になり、結果として武器が過剰に発達してしまう世の中となりました
そうした結果、平和であった母系社会のコミュニティはことごとく武器を持った人たちに支配されたのであり
それが「邪馬台国の滅亡」だったのではないでしょうか
話は飛びましたが、月見が岡八幡神社では月読命がイザナミ女神となり、美井乃神・杉井乃神がスサノオと稲荷の夫婦神であり、後から祭祀された八幡神社の祭神が
品陀和気命(応神天皇)
息長帯比売命(神功皇后)
大雀命(仁徳天皇)
これで品陀和気命は応神天皇(イザナギ)で、息長帯比売命はヒメ神(イザナミ)そして
大雀命の仁徳天皇がスサノオと見ることもできます
その場合のスサノオはイザナミ女神とセットになりますから「氷川」又は「熊野」となるわけです
ですから結果的に月見が岡八幡神社は同新宿区の新宿中央公園にある熊野神社の祭神と同じである、と考えることができます
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2022年01月08日
出雲大社の祟り
平将門公
後世における武士の気風を作ったのはこの方ではないでしょうか。
武士のおこりとも言える兵を指揮し、この時代に「東の将門」を全国に知らしめた天慶の乱により没した後に、その御首は京都へ運ばれ縁者たちによって今の東京へ持ち帰り神田明神周辺に塚を築いたとされています。
恐れられたのは、やがて月日が流れ首塚が荒廃し天変地異が頻発し、疫病が流行して周辺に住む村人たちを苦しめたことによるそうです。
それが14世紀初頭の世の中であったことと、400年近く経っている事にも注目したいですね。
末法元年とも云われた1052年、平安の時代が終わりつつあり将門の呪いとも思われるような武士が台頭し始めた時代から、やがて鎌倉時代を迎えると法然を開祖とする浄土宗や浄土真宗が生まれましたが、この末法思想に立脚した阿弥陀如来の救済を説いていたのです。
その説かれる内容は念仏を唱えれば阿弥陀の極楽浄土へ逝けるといった認識から民衆に受け入れられ、当時の世相からも将門公のような「弱きを助け強きをくじく」武士像に救済を求める心理も働いていたのかもしれません。
他にも鎌倉時代にはもう一人、阿弥陀如来に帰依した有名な僧侶として一遍上人がいます。
その人たちが念仏を唱え遊行する「時宗」と呼ばれる人たちであり、その時宗の他阿(真教上人)が、一遍上人より引き継いだ時宗の念仏遊行の途中に立寄ったところ、村人たちに乞われて将門公の御霊を供養し「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し、「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏徳治二年」と記された板碑を建立したのが1307年。
そしてなんと!これにより天変地異が止んだというのです。
そして上人は近くに芝崎道場日輪寺(現在浅草)を開基し、1309年に塚に近い神田明神に合祀して村の鎮守とした、というのが前回からの神田明神の歴史ですね。
平将門公は、東国、承平・天慶年間、猿島郡、現在の坂東市周辺を本拠地とした坂東武士の気風を作り出した人気者です。
自ら戦さの先頭にたつ勇ましさや、弱き者たちを助ける優しい心や命懸けの生き方が、江戸っ子たちにも受け継がれ、江戸が義理人情の町となったとまで云われたほど。
しかも将門公没後に京都で語られ、東国そして全国で作り出されて「将門伝説」になっていったのです。
さらに現在もオフィスビルひしめく東京の千代田区大手町の将門塚を中心に、「首塚伝説」を作り続け、GHQが首塚を工事してようとして呪いを受けたとか、お笑い芸能人が無礼を働いて仕事がなくなったとか、今もまさに伝説を作り続けています。
また、中世の東国武士の間では、自らの始祖を将門公に求める系図が形成されたりする中、千葉氏と相馬氏は、将門公の子孫として、将門公を頂点する東国武士の世界を築いていったようです。
他にも後北条氏からも厚い崇敬を受けていたようです。
そして北条氏の家臣として江戸城の遠山氏も神田明神を崇敬していたようで、当時の神主芝崎氏への書簡などが残されており、芝崎氏はもともと北条氏の家臣であったという記録も見られるのです。
北条氏といえば伊豆国出身の豪族で執権を行う鎌倉北条氏とも呼ばれています。
「三つのウロコ」の家紋から、いかにも三つの御霊と関連してそうな感じですね。
その地方には江ノ島に現れた弁財天の蛇神神話や五頭龍と弁財天の結婚など非常に神秘的な話があります。
江島神社には妙音弁財天と八臂弁財天が祀られています。
これはスサノオとアマテラスの弁財天を意味します。
スサノオが水(瑞)の御霊でアマテラスが火(厳)の御霊
厳はいずと読みますから、伊豆と比定できます。
また江ノ島の五頭龍であり牛頭天王の化身です。
厳(伊豆)の家臣として芝崎(スサノオの三つの御霊)が仕えていたとも考えられます。
私は他にもこうした主従関係を中臣・物部に当てはめたりします。
その原型は天照大神とアメノコヤネ(藤原)とアメノウズメ(物部)です。
ですから北条に対しては芝崎ともう一家の瑞霊に相当する家があるのではとも思います。
こうした瑞霊を背負う家系の特徴としては決まってスサノオ信仰であったり、牛頭天王を崇拝していますし、神社の茅の輪をくぐりながら「私は蘇民将来の子孫です」なんて言ってたりするんですね。
芝崎家にもそうした特徴があり、江戸氏の中にあってスサノオの祭祀をやっていた事と平将門につながる事を考えた場合、その先祖は平高望や桓武天皇につながっているのではないかということです。
すると武蔵江戸氏は桓武兵士ですからつながりますね。
だけど常陸江戸氏が近いですかね?その場合だと藤原につながりますから、モロにアメノコヤネと重なります。
平安時代末期、秀郷の子孫は那珂氏となり南北朝時代に佐竹氏に滅ぼされ、子の通高の代に「江戸氏」を称しています。
そういう流れであれば藤原(中臣)としての江戸氏(芝崎)がスサノオ(牛頭)を祀っていたこともわかります。
俯瞰してみると、その江戸氏が瑞霊として江戸をつくったということです。
厳霊はもちろん天皇が相応しいのですが、昭和に天皇が人間宣言をされてから変わってしまったようです。
どうも大正天皇と昭和天皇との間に何かがあったようです。
それは第九代開化天皇と第十代崇神天皇の間に「何か」があったのと同じことです。
つまり断絶するような何か。
それは何か、私はそれが簸川(出雲大社)の祟りだと考えています。
ホムチワケの呪いが、明治天皇の夭折した10人の子女と無関係であるわけがない、と思うのです。
そのために大正天皇は慢性的な脳膜炎という「障り」が出ていたのだと。
大正天皇の母が霊界物語の高姫なら貞明皇后はまさに「苦情の黒姫様」だったことでしょう。
その黒姫様の血は大河原家という高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であり、敷地に稲荷を祀る法華信者であったようです。
やはり氷川との因縁にも苦しめられたのではないでしょうか。
昭和天皇は本当の子ではないかもしれません。
それがホムチワケの祟りであり、呪われた結果だということです。
垂仁天皇の口のきけない御子ホムチワケがヒナガヒメと一夜を過ごした富能加(ほのか)神社の由緒では長穂の宮の古跡となっています。
ヒナガヒメはナーガ(龍王)になっているのではないでしょうか。
中臣が神武天皇たちと共に連れてきたウサツヒメに転生しているのかもしれません。
やがて藤原の血となり皇室を支配する霊力を発揮したのでしょう。
秀郷を支配する那珂でありナーガです。
それが鹿島と香取の「春日」の裏にある白山のチカラだとしたらどうでしょう。
一光三尊の阿弥陀如来も三角関係にドキドキしそうです。
古事記に登場する口のきけなかったホムチワケが話せるようになったキッカケは、アシワラシコオの祭祀場に来たときでした。
つまり、彼の前世霊が思い出させたのであり、ヒナガヒメの呪いはアシワラシコオから来ていることが考えられます。
また、ホムチワケはヒゲが胸まで垂れる年になっても口がきけなかった、というのはスサノオであるという意味です。
父親の垂仁天皇にナーガが夢を見せたのです。
それでホムチワケは出雲大社へ向かい、アシハラシコオを覚醒したのです。
ちなみに葦原許色男はイケメンという意味もあります。
ナーガはイケメンに恋した蛇女神だったのであり、ギリシャ神話ではヘラに比定(習合)されます。
また、アシハラシコオは大国主であり、スサノオの御子神でもあります。
その場合はスサノオの娘のスセリヒメを娶って後に襲名しています。
ところが大国主は越しのヌナカワヒメや宗像のタキリヒメ、鳥取神のトトリノカミなど在地の女神とも結ばれまくっています。
まさにゼウスです。
しかし大国主はスセリヒメより先にヤガミヒメとの間に子をもうけました。
それが木俣神(きのまたのかみ)です。
稲葉の白ウサギが結ばせた子供ですから、月の世界の月読(黄泉の国)世界です。
また常世の国のスクナヒコでありスサノオです。
その木俣神が御井神(みいのかみ)であり、気比のツヌガアラシトにつながり、アメノヒボコにつながるのです。
それは鉄(武器)を生んだ鍛冶の神であり、後の鹿島や香取の剣の神となったのです。
春日(鹿島・香取)の若宮は紀伊神社であり祭神の五十猛命はスサノオの御子神です。
春日の子供が熊野とすれば、御井神も木俣神も熊野スサノオということです。
そうすると、熊野のスサノオは出雲族から来た御子神であり、父神は鹿島・香取(春日)となり、母(叔母)が白山(菊理姫)となります。
ではヤガミヒメはイザナミの後身であり、スセリヒメは白山姫の後身ということになり、時代を超えてヒナガヒメになっている氷川神社の蛇神様ですね。
ですからアシワラシコオ(後のホムチワケ)とは2代目の大国主命ですね。
前回、四ツ谷の須賀神社の元は赤坂氷川と書きましたが、赤坂の地名は中世には見られません。
江戸時代以降であるようですが、赤坂氷川神社は武州豊島郡一ツ木村に祀られたのが始まりで、土地神を祀って或いは稲荷としていたのではないでしょうか。
赤坂の一ツ木原には六千年前の縄文土器や貝塚が見つかっているそうです。
桓武天皇の流れをくむ江戸氏の勢力下になったのは16世紀、北条氏の勝利によるものだったのです。
太田道灌亡き後の江戸城主を破ったのは高輪のあたりであったそう。
江戸氏の芝や崎などが見られるのは芝崎の影響もあったのでしょうか。
後に北条氏は家康に討たれますが、江戸氏は牛込氏にもなっているようです。
そちらも秀郷につながるのですが、大胡氏との関係が気になります。
もしかすると、赤坂氷川神社と赤城神社は関係大アリかもしれません。
江戸氏と皇室との関わりということです。
出雲族と皇族になると、
出雲大社と大正天皇ですね。
大正天皇の生母の柳原愛子が出雲大社から大国主命の分霊を取り寄せて皇居に祀ったことはすでに周知のとおりですが、貞明皇后の教育係となり子供の誕生を執拗に求めたことでしょう。
しかし大正時代は短命であった…
それでも昭和天皇が生まれた。
だが、それは実子であろうか…否、ヒナガヒメの祟りが成就してしまったのであります。
では昭和天皇のご正体はどなた様なのか、それはいずれ世の中に明らかになるでしょう。
後世における武士の気風を作ったのはこの方ではないでしょうか。
武士のおこりとも言える兵を指揮し、この時代に「東の将門」を全国に知らしめた天慶の乱により没した後に、その御首は京都へ運ばれ縁者たちによって今の東京へ持ち帰り神田明神周辺に塚を築いたとされています。
恐れられたのは、やがて月日が流れ首塚が荒廃し天変地異が頻発し、疫病が流行して周辺に住む村人たちを苦しめたことによるそうです。
それが14世紀初頭の世の中であったことと、400年近く経っている事にも注目したいですね。
末法元年とも云われた1052年、平安の時代が終わりつつあり将門の呪いとも思われるような武士が台頭し始めた時代から、やがて鎌倉時代を迎えると法然を開祖とする浄土宗や浄土真宗が生まれましたが、この末法思想に立脚した阿弥陀如来の救済を説いていたのです。
その説かれる内容は念仏を唱えれば阿弥陀の極楽浄土へ逝けるといった認識から民衆に受け入れられ、当時の世相からも将門公のような「弱きを助け強きをくじく」武士像に救済を求める心理も働いていたのかもしれません。
他にも鎌倉時代にはもう一人、阿弥陀如来に帰依した有名な僧侶として一遍上人がいます。
その人たちが念仏を唱え遊行する「時宗」と呼ばれる人たちであり、その時宗の他阿(真教上人)が、一遍上人より引き継いだ時宗の念仏遊行の途中に立寄ったところ、村人たちに乞われて将門公の御霊を供養し「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し、「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏徳治二年」と記された板碑を建立したのが1307年。
そしてなんと!これにより天変地異が止んだというのです。
そして上人は近くに芝崎道場日輪寺(現在浅草)を開基し、1309年に塚に近い神田明神に合祀して村の鎮守とした、というのが前回からの神田明神の歴史ですね。
平将門公は、東国、承平・天慶年間、猿島郡、現在の坂東市周辺を本拠地とした坂東武士の気風を作り出した人気者です。
自ら戦さの先頭にたつ勇ましさや、弱き者たちを助ける優しい心や命懸けの生き方が、江戸っ子たちにも受け継がれ、江戸が義理人情の町となったとまで云われたほど。
しかも将門公没後に京都で語られ、東国そして全国で作り出されて「将門伝説」になっていったのです。
さらに現在もオフィスビルひしめく東京の千代田区大手町の将門塚を中心に、「首塚伝説」を作り続け、GHQが首塚を工事してようとして呪いを受けたとか、お笑い芸能人が無礼を働いて仕事がなくなったとか、今もまさに伝説を作り続けています。
また、中世の東国武士の間では、自らの始祖を将門公に求める系図が形成されたりする中、千葉氏と相馬氏は、将門公の子孫として、将門公を頂点する東国武士の世界を築いていったようです。
他にも後北条氏からも厚い崇敬を受けていたようです。
そして北条氏の家臣として江戸城の遠山氏も神田明神を崇敬していたようで、当時の神主芝崎氏への書簡などが残されており、芝崎氏はもともと北条氏の家臣であったという記録も見られるのです。
北条氏といえば伊豆国出身の豪族で執権を行う鎌倉北条氏とも呼ばれています。
「三つのウロコ」の家紋から、いかにも三つの御霊と関連してそうな感じですね。
その地方には江ノ島に現れた弁財天の蛇神神話や五頭龍と弁財天の結婚など非常に神秘的な話があります。
江島神社には妙音弁財天と八臂弁財天が祀られています。
これはスサノオとアマテラスの弁財天を意味します。
スサノオが水(瑞)の御霊でアマテラスが火(厳)の御霊
厳はいずと読みますから、伊豆と比定できます。
また江ノ島の五頭龍であり牛頭天王の化身です。
厳(伊豆)の家臣として芝崎(スサノオの三つの御霊)が仕えていたとも考えられます。
私は他にもこうした主従関係を中臣・物部に当てはめたりします。
その原型は天照大神とアメノコヤネ(藤原)とアメノウズメ(物部)です。
ですから北条に対しては芝崎ともう一家の瑞霊に相当する家があるのではとも思います。
こうした瑞霊を背負う家系の特徴としては決まってスサノオ信仰であったり、牛頭天王を崇拝していますし、神社の茅の輪をくぐりながら「私は蘇民将来の子孫です」なんて言ってたりするんですね。
芝崎家にもそうした特徴があり、江戸氏の中にあってスサノオの祭祀をやっていた事と平将門につながる事を考えた場合、その先祖は平高望や桓武天皇につながっているのではないかということです。
すると武蔵江戸氏は桓武兵士ですからつながりますね。
だけど常陸江戸氏が近いですかね?その場合だと藤原につながりますから、モロにアメノコヤネと重なります。
平安時代末期、秀郷の子孫は那珂氏となり南北朝時代に佐竹氏に滅ぼされ、子の通高の代に「江戸氏」を称しています。
そういう流れであれば藤原(中臣)としての江戸氏(芝崎)がスサノオ(牛頭)を祀っていたこともわかります。
俯瞰してみると、その江戸氏が瑞霊として江戸をつくったということです。
厳霊はもちろん天皇が相応しいのですが、昭和に天皇が人間宣言をされてから変わってしまったようです。
どうも大正天皇と昭和天皇との間に何かがあったようです。
それは第九代開化天皇と第十代崇神天皇の間に「何か」があったのと同じことです。
つまり断絶するような何か。
それは何か、私はそれが簸川(出雲大社)の祟りだと考えています。
ホムチワケの呪いが、明治天皇の夭折した10人の子女と無関係であるわけがない、と思うのです。
そのために大正天皇は慢性的な脳膜炎という「障り」が出ていたのだと。
大正天皇の母が霊界物語の高姫なら貞明皇后はまさに「苦情の黒姫様」だったことでしょう。
その黒姫様の血は大河原家という高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であり、敷地に稲荷を祀る法華信者であったようです。
やはり氷川との因縁にも苦しめられたのではないでしょうか。
昭和天皇は本当の子ではないかもしれません。
それがホムチワケの祟りであり、呪われた結果だということです。
垂仁天皇の口のきけない御子ホムチワケがヒナガヒメと一夜を過ごした富能加(ほのか)神社の由緒では長穂の宮の古跡となっています。
ヒナガヒメはナーガ(龍王)になっているのではないでしょうか。
中臣が神武天皇たちと共に連れてきたウサツヒメに転生しているのかもしれません。
やがて藤原の血となり皇室を支配する霊力を発揮したのでしょう。
秀郷を支配する那珂でありナーガです。
それが鹿島と香取の「春日」の裏にある白山のチカラだとしたらどうでしょう。
一光三尊の阿弥陀如来も三角関係にドキドキしそうです。
古事記に登場する口のきけなかったホムチワケが話せるようになったキッカケは、アシワラシコオの祭祀場に来たときでした。
つまり、彼の前世霊が思い出させたのであり、ヒナガヒメの呪いはアシワラシコオから来ていることが考えられます。
また、ホムチワケはヒゲが胸まで垂れる年になっても口がきけなかった、というのはスサノオであるという意味です。
父親の垂仁天皇にナーガが夢を見せたのです。
それでホムチワケは出雲大社へ向かい、アシハラシコオを覚醒したのです。
ちなみに葦原許色男はイケメンという意味もあります。
ナーガはイケメンに恋した蛇女神だったのであり、ギリシャ神話ではヘラに比定(習合)されます。
また、アシハラシコオは大国主であり、スサノオの御子神でもあります。
その場合はスサノオの娘のスセリヒメを娶って後に襲名しています。
ところが大国主は越しのヌナカワヒメや宗像のタキリヒメ、鳥取神のトトリノカミなど在地の女神とも結ばれまくっています。
まさにゼウスです。
しかし大国主はスセリヒメより先にヤガミヒメとの間に子をもうけました。
それが木俣神(きのまたのかみ)です。
稲葉の白ウサギが結ばせた子供ですから、月の世界の月読(黄泉の国)世界です。
また常世の国のスクナヒコでありスサノオです。
その木俣神が御井神(みいのかみ)であり、気比のツヌガアラシトにつながり、アメノヒボコにつながるのです。
それは鉄(武器)を生んだ鍛冶の神であり、後の鹿島や香取の剣の神となったのです。
春日(鹿島・香取)の若宮は紀伊神社であり祭神の五十猛命はスサノオの御子神です。
春日の子供が熊野とすれば、御井神も木俣神も熊野スサノオということです。
そうすると、熊野のスサノオは出雲族から来た御子神であり、父神は鹿島・香取(春日)となり、母(叔母)が白山(菊理姫)となります。
ではヤガミヒメはイザナミの後身であり、スセリヒメは白山姫の後身ということになり、時代を超えてヒナガヒメになっている氷川神社の蛇神様ですね。
ですからアシワラシコオ(後のホムチワケ)とは2代目の大国主命ですね。
前回、四ツ谷の須賀神社の元は赤坂氷川と書きましたが、赤坂の地名は中世には見られません。
江戸時代以降であるようですが、赤坂氷川神社は武州豊島郡一ツ木村に祀られたのが始まりで、土地神を祀って或いは稲荷としていたのではないでしょうか。
赤坂の一ツ木原には六千年前の縄文土器や貝塚が見つかっているそうです。
桓武天皇の流れをくむ江戸氏の勢力下になったのは16世紀、北条氏の勝利によるものだったのです。
太田道灌亡き後の江戸城主を破ったのは高輪のあたりであったそう。
江戸氏の芝や崎などが見られるのは芝崎の影響もあったのでしょうか。
後に北条氏は家康に討たれますが、江戸氏は牛込氏にもなっているようです。
そちらも秀郷につながるのですが、大胡氏との関係が気になります。
もしかすると、赤坂氷川神社と赤城神社は関係大アリかもしれません。
江戸氏と皇室との関わりということです。
出雲族と皇族になると、
出雲大社と大正天皇ですね。
大正天皇の生母の柳原愛子が出雲大社から大国主命の分霊を取り寄せて皇居に祀ったことはすでに周知のとおりですが、貞明皇后の教育係となり子供の誕生を執拗に求めたことでしょう。
しかし大正時代は短命であった…
それでも昭和天皇が生まれた。
だが、それは実子であろうか…否、ヒナガヒメの祟りが成就してしまったのであります。
では昭和天皇のご正体はどなた様なのか、それはいずれ世の中に明らかになるでしょう。
2022年01月07日
神田明神の三宿稲荷の祭神
神田明神の芝崎納豆をご存知ですか。
大きな豆をマッシャーで潰して、それからゴマやノリを混ぜると途端に高級感のある納豆ご飯ができあがります。
神田明神にはその昔、柴崎家という社家があったそうですけど、明治期に後継者がいなくなり、国学者本居宣長の曾孫や平田篤胤の曾孫が社司となった事もあったそうです。
平田篤胤も本居宣長も四大国学者ですが、それを決めたのも神田明神が発祥のようです。
このことからも江戸時代の神田明神の発信力は大きなものだったことがわかりますし、
なんといっても江戸総鎮守ですからね。
誰が言い始めたかって、その称号は徳川幕府からもらったそうですから、家康からも厚く崇敬を受けていたそうです。
少し遡って家康入府前の創建の頃から江戸時代にかけてを見てみましょう。
正式名称は、神田神社です。
首都東京・千代田区といえば中心部分です。
そこに鎮座する神田明神は、特に神田、日本橋、大手町・丸の内、秋葉原、青果市場、魚市場の人たちから厚い崇敬を受けています。
神田明神の創建は、天平二年ですから8世紀です(七三〇年)
『江府神社略記」
「社家伝説日、当社ハ人皇四十五代聖武天皇御宇、天平二年○紀元一三九〇鎮座也」
聖武天皇の御代でしたら災害や疫病が多発していた時代です。
奈良時代の京都は天平文化の表と裏に花開いています。
東大寺のビルシャナ大仏は奈良の顔ですからね。
その頃はまだ弘法大師空海も真言宗開いていないので、大日如来じゃないんですよね。
ちなみに日本だと大日如来とビルシャナ仏は別々の存在ですけど、インドでは同じ意味になるんです。
マハー・ヴァイロ・チャナという「光り輝く」存在を意味するインドの言葉です。
それが「ビルシャナ」に音写されたネーミングになっているのです。
ですから大日如来は光り輝くビルシャナ仏ということです。
その光り輝く大日如来は太陽神として日本神話の天照大神に比定(習合)できます。
それが熊野信仰では西方浄土の阿弥陀如来となります。
阿弥陀如来は金剛世界にあらわれた大日如来の慈悲による救済です。
慈しむという言葉もインドから来ました「マイトゥリー」と訳されます。
この慈しむマイトゥリーが弥勒菩薩(マイトレーヤ)です。
ですから阿弥陀如来は弥勒菩薩とセットであり、さらに救済は観音院の慈悲から起こるものです。
その救済力を明示したものが「千手観音」であり、十一面千手観音ともいいます。
十一面観世音菩薩の十一番目のお顔は阿弥陀如来なのです。
こうして阿弥陀如来坐像を真ん中にして両脇に観音像、弥勒菩薩像といった三尊のパターンが時に、弥勒菩薩も勢至菩薩となったり、観音菩薩も地蔵菩薩になったりしながら浄土信仰の普及と共に広がっていったようです。
特に新羅の磨崖仏にそうしたパターンが見られるようですからそれが日本に輸入されてきたわけです。
そうした新羅寄りの仏教を伝えて日本に熊野という神を連れてきたのは出雲の国からではないでしょうか。
その出雲族であり、大己貴命の子孫を自認する真神田臣の一族がやってきたということです。
そして現在の大手町にある将門塚周辺(武蔵国豊島郡芝崎村)に祖先の神を祀り、真神田の「神田」をとって神社の名前としたと。
それがそのまま地名の「神田」になっていると御由緒では伝え
ています。
しかし大三輪神(大物主大神)の子孫である大田田根子の後裔の真神田(マカミダ)氏が祖神・大己貴命を祀ったのが神田明神の原型(創建)となります。
日本ではたびたび神の命令によって神を「正しく祀るように」指示されることがありますが、古事記にあります大田田根子(オオタタネコ)もそうした事で神様からご指名を頂いた一人なのです。
真神田氏が神田神社を創建したのも大物主大神の導きであり、大己貴命は大物主大神の神魂をもっていた人(神)だったのです。
大己貴命に御自ら「和魂」であることを知らせ、大物主大神を正しく祀ることを示したのです。
神田明神の境内摂社に三宿稲荷が祀られますが、ここでの祭神は金刀比羅大神がちゃんと祀られています。
それは金刀比羅大神もまた大物主大神の神魂をもっているからです。
そして三宿稲荷にはもともと三河町に祀られていたとされる守護神を併せて祀っているそうです。
三河町は家康入府の際に同行した下級武士が移り住んだことから江戸でもっとも古い町とされています。
なるほど、ということは守護神というのは三河稲荷ですね。
三河の人たちが持ち込んだ稲荷神社は今でも本郷などの地域に二箇所ほど見られます。
その三河町の守護神(三河稲荷)と、芝崎家が神主だった頃の神田神社12代目芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷社と金刀比羅大神が合祀されたようです。
それで三宿になるのでしょうか。
他に芝崎家もオオタタネコの霊的な系譜があると考えられます。
芝崎は柴崎でもあるようです。
中世の具体的な系譜は見られないのですが、調布の方へ展開していった人たちのようです。
そしてどうやら江戸氏とのつながりもありそうです。
調べると、江戸氏の崇敬神社は牛頭天王であり、そこの神主を芝崎家が行っていました。
つまり江戸氏から出たのが芝崎氏であったということです、
さらに、大己貴命・少彦名命を祀っていますが、本来の祭神はスサノオになるようです。
確かに、境内摂社に江戸神社があります。
江戸神社の創建は大宝2年(702)ですから神田神社の創建より30年くらい古いです。
もともと江戸神社は今の皇居の中につくられ、江戸大明神、牛頭天王などと呼ばれていました。
それが17世紀家康入府により江戸城拡張により神田神社へ移されたようです。
また明治以降、江戸神社と名付けられる前は「須賀神社」とも呼ばれていたとか!
それならば四ツ谷の須賀神社がまさに当てはまります。
須賀神社はスサノオと稲荷のセットですから氷川神社と構造は似ていますよね。
「すがすがし」とスサノオが詠んだのは日本最古の和歌をつくった時でした。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
これは日本人なら誰もが知っておきたい和歌ですね
その妻がクシイナダヒメでしたから、須賀神社の稲荷と比定(同化)して考えられます。
さらに、四ツ谷の須賀神社の原型は赤坂氷川神社です。
赤坂氷川神社は調べても10世紀以降の歴史しかわかりませんが
その前はどこからきたのでしょう?
そもそも氷川とは出雲国の簸川から来ていて、そこはヤマタノオロチ伝説がある所です。
真神田氏、柴崎氏、江戸氏、豊島氏、渋谷氏といった人たちは相模国経由で入ってきたと考えられますが、その前は九州の方から来ているようです。
渋谷区と薩摩との関係も古くからあるようです。
また、芝崎氏は調布に展開していったようですが、調布といえば布多天神社です。
そこでは垂仁天皇の頃から歴史がありますので、一気に2000年近く前の話になります。
布多天神社は当時地域に五つあった五宿天神社をまとめたものです。
もとは少彦名命を祀っていた神社がのちに菅原道真公を併せて祀るようになったというプロセスは他の天神社でも見られることです。
芝崎氏がもともと祀っていたのは大己貴命だけではなく少彦名命であったとも考えられます。
大己貴命が祀られるようになったのは全国の神社が官社化されていった8世紀の和銅年間からではないでしょうか。
また、もしその人たちが出雲族であったなら、大国主(大己貴命)は少彦名命とセットで来たのかもしれません。
その場合、少彦名命は大物主大神として比定できます。
大物主大神を祀る三輪山の麓には、共に国土開発をした少彦名命を特別な磐座(イワクラ)にお祀りしています。
そしてそこでは「神農さん」と習合しています。
ここで不思議な一致を感じることがあります。
それは神田明神の目の前にある湯島聖堂にも神農さんが祀られていることです。
薬の神でもあります。
これが「渡来の少彦名命」なのです。
少彦名命は海の向こうからやってきたのであり、神農さんも少彦名命の後身であったことが考えられます。
そして出雲族は肉体としての後身(大国主命の生まれ変わり)である大己貴命の肉体(モビルスーツ)を大物主大神の和魂である少彦名命に提供(奉祀)するのです。
これによって人と神との一心同体の天孫降臨が行われるのです。
また、五宿天神社が布多天神社になったように、約2000年前にこの地域に少彦名命への信仰があったことが考えられます。
そういえば、上野の不忍池近くにある五條天神社と名前が似ていませんか?
上野でも医薬の神として大己貴命と併せて祀られていますが、創建は景行天皇の御代ですから親子で垂仁天皇とつながってますね。
上野や調布にあった約2000年前の少彦名命信仰。
↓
=エビス・恵比寿。恵美須、蛭子、海からやってきた形のないイザナギ・イザナミの原初の御子神です。
ギリシャ神話での「カオス」が蛭子神に比定(習合)できます。
そして大黒天として現れたのが大己貴命(大国主)となります。
大己貴命は建速須佐之男命(スサノオ)の御子神と言われていますから、代々の大己貴命(大物主神の神がかり)がスサノオ(の御子)でもあります。
また出雲大社に祀られる神にもなっているのが大国主命です。
また、死後の世界の主宰神として冥界にてエンマ様となります。
他にも大穴牟遅神、大国主神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神、大物主神など多くのお名前をお持ちになります。
中でも大己貴神は怪我をした兎をたすけるいわゆる「稲葉の白兎」の神話が有名です。
大己貴命のやさしい気持ちが八上姫のハートを射止めたのでしたね。
まさに和魂が少彦名命(大物主大神)だったのです。
そして大己貴命は大物主大神を崇め、共に日本を国づくりしたのです。
だからこそ、金刀比羅大神にも比定(習合)されるのです。
大きな豆をマッシャーで潰して、それからゴマやノリを混ぜると途端に高級感のある納豆ご飯ができあがります。
神田明神にはその昔、柴崎家という社家があったそうですけど、明治期に後継者がいなくなり、国学者本居宣長の曾孫や平田篤胤の曾孫が社司となった事もあったそうです。
平田篤胤も本居宣長も四大国学者ですが、それを決めたのも神田明神が発祥のようです。
このことからも江戸時代の神田明神の発信力は大きなものだったことがわかりますし、
なんといっても江戸総鎮守ですからね。
誰が言い始めたかって、その称号は徳川幕府からもらったそうですから、家康からも厚く崇敬を受けていたそうです。
少し遡って家康入府前の創建の頃から江戸時代にかけてを見てみましょう。
正式名称は、神田神社です。
首都東京・千代田区といえば中心部分です。
そこに鎮座する神田明神は、特に神田、日本橋、大手町・丸の内、秋葉原、青果市場、魚市場の人たちから厚い崇敬を受けています。
神田明神の創建は、天平二年ですから8世紀です(七三〇年)
『江府神社略記」
「社家伝説日、当社ハ人皇四十五代聖武天皇御宇、天平二年○紀元一三九〇鎮座也」
聖武天皇の御代でしたら災害や疫病が多発していた時代です。
奈良時代の京都は天平文化の表と裏に花開いています。
東大寺のビルシャナ大仏は奈良の顔ですからね。
その頃はまだ弘法大師空海も真言宗開いていないので、大日如来じゃないんですよね。
ちなみに日本だと大日如来とビルシャナ仏は別々の存在ですけど、インドでは同じ意味になるんです。
マハー・ヴァイロ・チャナという「光り輝く」存在を意味するインドの言葉です。
それが「ビルシャナ」に音写されたネーミングになっているのです。
ですから大日如来は光り輝くビルシャナ仏ということです。
その光り輝く大日如来は太陽神として日本神話の天照大神に比定(習合)できます。
それが熊野信仰では西方浄土の阿弥陀如来となります。
阿弥陀如来は金剛世界にあらわれた大日如来の慈悲による救済です。
慈しむという言葉もインドから来ました「マイトゥリー」と訳されます。
この慈しむマイトゥリーが弥勒菩薩(マイトレーヤ)です。
ですから阿弥陀如来は弥勒菩薩とセットであり、さらに救済は観音院の慈悲から起こるものです。
その救済力を明示したものが「千手観音」であり、十一面千手観音ともいいます。
十一面観世音菩薩の十一番目のお顔は阿弥陀如来なのです。
こうして阿弥陀如来坐像を真ん中にして両脇に観音像、弥勒菩薩像といった三尊のパターンが時に、弥勒菩薩も勢至菩薩となったり、観音菩薩も地蔵菩薩になったりしながら浄土信仰の普及と共に広がっていったようです。
特に新羅の磨崖仏にそうしたパターンが見られるようですからそれが日本に輸入されてきたわけです。
そうした新羅寄りの仏教を伝えて日本に熊野という神を連れてきたのは出雲の国からではないでしょうか。
その出雲族であり、大己貴命の子孫を自認する真神田臣の一族がやってきたということです。
そして現在の大手町にある将門塚周辺(武蔵国豊島郡芝崎村)に祖先の神を祀り、真神田の「神田」をとって神社の名前としたと。
それがそのまま地名の「神田」になっていると御由緒では伝え
ています。
しかし大三輪神(大物主大神)の子孫である大田田根子の後裔の真神田(マカミダ)氏が祖神・大己貴命を祀ったのが神田明神の原型(創建)となります。
日本ではたびたび神の命令によって神を「正しく祀るように」指示されることがありますが、古事記にあります大田田根子(オオタタネコ)もそうした事で神様からご指名を頂いた一人なのです。
真神田氏が神田神社を創建したのも大物主大神の導きであり、大己貴命は大物主大神の神魂をもっていた人(神)だったのです。
大己貴命に御自ら「和魂」であることを知らせ、大物主大神を正しく祀ることを示したのです。
神田明神の境内摂社に三宿稲荷が祀られますが、ここでの祭神は金刀比羅大神がちゃんと祀られています。
それは金刀比羅大神もまた大物主大神の神魂をもっているからです。
そして三宿稲荷にはもともと三河町に祀られていたとされる守護神を併せて祀っているそうです。
三河町は家康入府の際に同行した下級武士が移り住んだことから江戸でもっとも古い町とされています。
なるほど、ということは守護神というのは三河稲荷ですね。
三河の人たちが持ち込んだ稲荷神社は今でも本郷などの地域に二箇所ほど見られます。
その三河町の守護神(三河稲荷)と、芝崎家が神主だった頃の神田神社12代目芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷社と金刀比羅大神が合祀されたようです。
それで三宿になるのでしょうか。
他に芝崎家もオオタタネコの霊的な系譜があると考えられます。
芝崎は柴崎でもあるようです。
中世の具体的な系譜は見られないのですが、調布の方へ展開していった人たちのようです。
そしてどうやら江戸氏とのつながりもありそうです。
調べると、江戸氏の崇敬神社は牛頭天王であり、そこの神主を芝崎家が行っていました。
つまり江戸氏から出たのが芝崎氏であったということです、
さらに、大己貴命・少彦名命を祀っていますが、本来の祭神はスサノオになるようです。
確かに、境内摂社に江戸神社があります。
江戸神社の創建は大宝2年(702)ですから神田神社の創建より30年くらい古いです。
もともと江戸神社は今の皇居の中につくられ、江戸大明神、牛頭天王などと呼ばれていました。
それが17世紀家康入府により江戸城拡張により神田神社へ移されたようです。
また明治以降、江戸神社と名付けられる前は「須賀神社」とも呼ばれていたとか!
それならば四ツ谷の須賀神社がまさに当てはまります。
須賀神社はスサノオと稲荷のセットですから氷川神社と構造は似ていますよね。
「すがすがし」とスサノオが詠んだのは日本最古の和歌をつくった時でした。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
これは日本人なら誰もが知っておきたい和歌ですね
その妻がクシイナダヒメでしたから、須賀神社の稲荷と比定(同化)して考えられます。
さらに、四ツ谷の須賀神社の原型は赤坂氷川神社です。
赤坂氷川神社は調べても10世紀以降の歴史しかわかりませんが
その前はどこからきたのでしょう?
そもそも氷川とは出雲国の簸川から来ていて、そこはヤマタノオロチ伝説がある所です。
真神田氏、柴崎氏、江戸氏、豊島氏、渋谷氏といった人たちは相模国経由で入ってきたと考えられますが、その前は九州の方から来ているようです。
渋谷区と薩摩との関係も古くからあるようです。
また、芝崎氏は調布に展開していったようですが、調布といえば布多天神社です。
そこでは垂仁天皇の頃から歴史がありますので、一気に2000年近く前の話になります。
布多天神社は当時地域に五つあった五宿天神社をまとめたものです。
もとは少彦名命を祀っていた神社がのちに菅原道真公を併せて祀るようになったというプロセスは他の天神社でも見られることです。
芝崎氏がもともと祀っていたのは大己貴命だけではなく少彦名命であったとも考えられます。
大己貴命が祀られるようになったのは全国の神社が官社化されていった8世紀の和銅年間からではないでしょうか。
また、もしその人たちが出雲族であったなら、大国主(大己貴命)は少彦名命とセットで来たのかもしれません。
その場合、少彦名命は大物主大神として比定できます。
大物主大神を祀る三輪山の麓には、共に国土開発をした少彦名命を特別な磐座(イワクラ)にお祀りしています。
そしてそこでは「神農さん」と習合しています。
ここで不思議な一致を感じることがあります。
それは神田明神の目の前にある湯島聖堂にも神農さんが祀られていることです。
薬の神でもあります。
これが「渡来の少彦名命」なのです。
少彦名命は海の向こうからやってきたのであり、神農さんも少彦名命の後身であったことが考えられます。
そして出雲族は肉体としての後身(大国主命の生まれ変わり)である大己貴命の肉体(モビルスーツ)を大物主大神の和魂である少彦名命に提供(奉祀)するのです。
これによって人と神との一心同体の天孫降臨が行われるのです。
また、五宿天神社が布多天神社になったように、約2000年前にこの地域に少彦名命への信仰があったことが考えられます。
そういえば、上野の不忍池近くにある五條天神社と名前が似ていませんか?
上野でも医薬の神として大己貴命と併せて祀られていますが、創建は景行天皇の御代ですから親子で垂仁天皇とつながってますね。
上野や調布にあった約2000年前の少彦名命信仰。
↓
=エビス・恵比寿。恵美須、蛭子、海からやってきた形のないイザナギ・イザナミの原初の御子神です。
ギリシャ神話での「カオス」が蛭子神に比定(習合)できます。
そして大黒天として現れたのが大己貴命(大国主)となります。
大己貴命は建速須佐之男命(スサノオ)の御子神と言われていますから、代々の大己貴命(大物主神の神がかり)がスサノオ(の御子)でもあります。
また出雲大社に祀られる神にもなっているのが大国主命です。
また、死後の世界の主宰神として冥界にてエンマ様となります。
他にも大穴牟遅神、大国主神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神、大物主神など多くのお名前をお持ちになります。
中でも大己貴神は怪我をした兎をたすけるいわゆる「稲葉の白兎」の神話が有名です。
大己貴命のやさしい気持ちが八上姫のハートを射止めたのでしたね。
まさに和魂が少彦名命(大物主大神)だったのです。
そして大己貴命は大物主大神を崇め、共に日本を国づくりしたのです。
だからこそ、金刀比羅大神にも比定(習合)されるのです。
2022年01月05日
亀戸天神社について
神田明神と亀戸天神社とは深い関係にあるようです。
さらに大鳥居家とも関係しています。
天満宮といえば、菅原道真公を祀る太宰府天満宮が本社ですがそちらは、菅原大島居、菅原小鳥居の両家が社家として、平安朝からお仕えしているそうです。
大鳥居家はネットで調べた限りでは菅原姓になるそうです。
菅原道真公は左遷で九州に飛ばされましたから、その後の子孫達になるのでしょうか
小鳥居氏もその流れのようです
他に菅氏も同じようです。
以前の総理大臣でしたね。
それと、戦国時代の有名な大名である大友氏の家祖は大友能直(よしなお)で出生時は近藤(古庄)氏からですね。
そうして検索を重ねると頼朝の落胤説が浮上するのです。
というのは、母の利根局が頼朝の妾のようです。
ではなぜ近藤姓になったのでしょうか?
もしかして利根局と近藤能直は血縁関係にあるとしたら…
近藤女と頼朝の間にできた子供ということもできますよね。
しかし、母の生家は波多野経家とありますから母方先祖は波多野家なのでしょう。
波多野氏といえば渋谷区の元になった渋谷氏と同じ相模国から来ていますね。
となると、武内宿禰から来ているハタかもしれません。
ちなみに渋谷区幡ヶ谷はそこから来ていると思っています。
羽田矢代です、幡の八幡、初台幡代に流れてきたからこそ、その後の源義家ゆかりの旗洗池ができたのではないでしょうか?
話しは飛びましたが、利根局(近藤女)の母方先祖が波多野家ならば、古事記にある天孫降臨につながっていてもおかしくないということです。
それは出雲族であるからこそ後の天皇の祭祀に関わる土師氏となりえたのでしょうから、れっきとした菅原の血なのです。
高木神より遣わされたアメノホヒ神は三年経っても命令を果たさなかったと古事記に書かれていますが、日本書紀となると一書(あるふみ)の解釈が違います。
大国主に天孫降臨の条件として天穂日命に身の回りの世話をさせることを謙虚に提案しているんですね。
以外と天神様の謙虚な姿勢に神観念が変わった気がしました。
天穂日神は後に出雲大社の摂社となり、また出雲四大大神として、出雲(杵築)大神・熊野大神・佐太大神とならんで能義神社に祀られました。
そこで能義神社を調べてみると、誉田別命や息長足姫命を合祀してあります。
忘れてはならないのは、武内宿禰もそのファミリーです。
ここの祭神は天穂日命ですが、他に配祀として大穴持神社の大己貴命、事代主命が祀られています。
そもそも大穴持とは大国主の別名です。
実は大国主はいくつもお名前がありますが、世襲のような形で襲名していたようです。
ですから、大国主は名前の数だけ別人28号がいたということです(笑)
また、その分だけ妻神もおられたことでしょう。
大穴持命はそうした大国主命の一人であり、考え方によっては武内宿禰が襲名したとも考えられます。
武内宿禰は第十二代景行天皇から仁徳天皇まで仕えた人です。
そして能義神社には他に誉田別命をお祀りしていることに注目したいです。
この応神朝の流れがあっての日本全国の八幡神社なんですね。
しかもそれは稲荷神社とセットにして考えられるからです。
つまり、ルーツが同じなのです。
新羅の仏教と百済の仏教が違うように、未開の島国であった日本は道教に傾いた仏教を受け入れるかどうかで揉めたのが「乙巳の変」だったのです。
いっしのへんと読みますが、きのとみとも読みます。
あるいは、おつぼくのみ とも言うそうです。
漢字では乙巳で甲乙の乙ですから陰陽では陰、巳は六番目の干支で南の九紫火星ですから陽の極まりを映す影のような、光り輝く裏側といった激しい事がおきそうな年に大化の改新があったのです。
それは言ってみれば我が国における宗教戦争であったかもしれません。
日本最初の飛鳥寺をつくった蘇我氏が手にした仏像は百済からのモノだったが、仏教伝来の「やり方」が新羅のそれだったのです。
新羅のそれは経典と仏像だけで僧侶のいない仏教伝来です。
片や百済のそれは唐から僧侶もセットでやってくるパターンです。
唐といえば大きな王国ですから、僧侶もセットでやってきたとしたら仏教を導入するかで争うようなことはなかったはずですから大化の改新も起きなかったかもしれません。
そして新羅のやり方で取り入れて、後に新羅を先祖とする源頼義・義家が八幡神へと神格化させていったと考えられます。
その祖とするのが、景行天皇であったとしたらどうでしょう?
八幡神社には足王が祀られている所がありますよね。
新宿区にも月見が岡八幡神社があります。
ここの祭神は応神天皇、息長帯比売命、仁徳天皇です。
奥には足王が祀られています。
景行天皇は垂仁天皇の第三子で母はヒバス姫です。
景行天皇はオオタラシであり、大足と書きます。
その子どもがヤマトタケルです。
ですから、景行天皇の流れであり遡れば垂仁天皇、崇神天皇となるわけです。
しかしここで一旦皇室の系譜が変わったとする考古学者の著作による意見があり、大変興味深いです。
もしそうなら、第九代と十代で断絶するようなことがあったのでしょうか。
それはまさにあった、ということが考えられます。
そのヒントになるのが明治期の偉大なる宗教家である出口王仁三郎聖師の崇敬した小幡神社です。
私は大本教の人ではありませんが、ものすごい霊能者であったことはかなり認めています。
そこで第九代開化天皇にまつわる神秘的な記述がありますので、詳しく知りたい方は無料でダウンロードできる霊界物語の一巻をご覧下さい。
またそれとは関係なく話が戻りますが、八幡神社は仲哀天皇、息長帯比売命、応神天皇、仁徳天皇のいずれかの御名前が祀られています。
ちなみに息長帯比売命はお腹に後の応神天皇を孕ませたまま朝鮮出兵に行った女性です。
長田神社や廣田神社、生田神社、住吉神社に関係する天照大神の神魂をもっていたようです。
つまり後身としての生まれ変わりですね。
その場合、天照大神の荒魂が厳の御霊となりタテの働きをします。
これが変性男子と呼ばれる内面にある国之常立の神魂です。
だから高貴な神魂をもっているという解釈です。
それが血脈を超えて生まれ変わり、また同時に3人もの人間に同時代に生まれ変わることができるようです。
それが同時代に現れると仲哀天皇、息長帯比売命、応神天皇の三神となり、或いは応神天皇、比売神、仁徳天皇になったりする三つ巴の家紋の元になる三ツノ御魂というのです。
その神魂は天之御中主から来た三貴神であり、天照大神・月読大神・スサノオの御魂を総称するものです。
最澄がしきりに山王神道に当てはめようとした三という数字は三ツノ御魂の働きをどこかでキャッチしていたからではないでしょうか。
おそらく、ハタ氏のルーツの一つでもある武内宿禰も三ツノ御魂として現れ、応神ファミリーと共に王朝を築いたのではないでしょうか。
きっと菅原道真公もそうだったのではないかと思っています。
なぜならそれが天穂日命のタカビムスビより命じられた天之御中主の神命だからです。
つまり時代時代の大国主命とセットになる少彦名命ということです。
そうした少彦名命の知恵の働きだからこそ、天神様となって祀られたと考えられるのです。
他にも大阪の服部天神宮では「足を祀った由緒」に5世紀の秦(ハタ)氏が外来神の少彦名命を小さな祠でお祀りしたのが始まりと書かれています。
さて、菅原道真公の系譜に大鳥居氏がいて、小鳥居氏、酒見氏、安武氏、龍造寺氏、大友氏や菅氏などに分かれていったようです。
そして江戸明暦の時代に、菅原大島居信祐という先祖が九州より江戸に来て亀戸村にお社を造ったのが今の亀戸天神となります。
それ以来、大鳥居家が宮司となって、亀戸天神社の兼務宮司として社家を継承したというのが過去のご縁になるそうです。
ちなみにその頃(17世紀の正保年間)に大鳥居氏は天神信仰を広めるためにやってきて、亀戸村に元々あった天神の祠に天神像を奉祀したようです。
この由緒からしても大阪の天神宮と似ていますよね?
菅原大島居信祐が九州からやってきて辿り着いた天神の祠には少彦名命が祀られていたら、そこへ菅原道真公の仏像を差し出しても問題ないですけど、
はじめから菅公の天神像が置いてあったなら、重ねて同じ仏像を奉祀しますかね
(^_^;)
そして注目したいのは大阪天神宮でも足の神社と呼ばれていることです。
カンタンにまとめますと、景行天皇の足の系統が応神天皇の八幡神社につながっていて、天神はアメノホヒとして大国主の補佐役となり、大国主は天皇です。
その天皇は第十代崇神天皇
はつくにしらすすめらみこと
そこが変わり目になっているいうことです。
はつくには初めて
しらすは統治する
すめらみことは天皇
その天皇の子供が群馬の古墳群に眠っている人たちかもしれません
だから桐生に織物や古墳製作といった渡来の人たちにしかできないことをやってのけたのでしょう
桐生が美和(大物主命)神社と関係あるのもそのためです。
古墳時代の大和政権の東端といったところでしょうか。
その政権はおそらく崇神天皇が従来の大和政権を完全に乗っ取った形で始まったのではないでしょうか。
天神社はそれを補佐する「鳥居」になるんですね。
それで大鳥神社も関係してくるわけです。
ヤマトタケルはカササギの大鳥であり、国守りする鳳凰です。
南は朱雀の「鳥が居る」所です。
鳥の羽を祭祀に用いる人たちが、そうした四神相応の思想も同時に持ち込んだのでしょう。
天皇の補佐をする補佐神と共に神様は九州の地で天孫降臨をなされたのです。
天神社とは菅原道真公の先祖ヤマトタケルのその昔、崇神の頃にやってきた百済や新羅や高句麗の
もとたずねれば濊貊の白山姫をヒメ祀る、宇佐の辛島(秦)でありイツキの島に月読のイチキシマヒメとなったのが月見が岡八幡神社ではないでしょうか。
また月見が岡八幡神社にも祀られるコノハナサクヤヒメは天神社によく見られます。
奇しくも亀戸には浅間神社があるではないですか。
そのコノハナサクヤヒメを祀る亀戸浅間神社ではヤマトタケルの東征や景行天皇との縁を御由緒に認めています。
ですから武内宿禰(少彦名命)の裏に神功皇后(木花咲耶姫)があり、応神天皇(大国主命)という図式が形而上に描かれるのです。
さらにその三つの御霊が同時代に3人に生まれ変わり、別々の人だけでなく一霊四魂をそれぞれシェアして、合体した人間になってる場合があり、バリエーション豊かです。
なので一概には言い切れませんが、記紀に見られる神々と天皇の関係からして日本は最古の神システムによって成立しているようです。
信じられないかもしれませんが、日本は神代の頃からつながっており、余談ばかりですが足王というのはその頃にまで遡ることができる神様なのです。
おれがオモダル・アヤカシコネの神でありアシナヅチ・テナヅチであり、イザナギ・イザナミとなっているのです。
それが日本人のルーツとなる神話の世界なのであります。
亀戸は言霊上からも「亀のいるトコロ」に思えます。
亀といえば吉祥な象徴です。
仏教世界にやがて訪れる「弥勒の世」では鶴と亀が統べるそうですから動物達が立役者ですね
(^^)
また、鶴は千年、亀は万年ですからまさに長寿の縁起物です。
そうした吉相なるネーミングとパワースポットは無関係ではありません。
亀戸に龍宮城があると思えばファンタジーです(笑)
さらに奇しくもオモダル・アヤカシコネは亀戸香取神社に坐し、
それで能義神社も実はオモダル・アヤカシコネの他に経津主命ともつながっていたのです。
経津主命=香取神社です。
さらに能義神社では国祖を祀るのです!
それが古事記に見られる国常立命であり、神世七代の最後に現れたイザナギ・イザナミ、六代目にオモダル・アヤカシコネを遡った初代が国祖国常立大神であり、豊雲野を妻神とするのです。
その方が八幡神になっておられるのです。
ですから天神社とは国祖の肉体を補佐する役目があるのです。
八幡神もそうした瑞霊として現れるのです。
それが「みずのみたま」と呼ばれる水の御霊であり、瑞の御霊なのです。
これが水のヨコの働きとなりまして、天神社のタテの働きと合わせて十字になるのがイズノメの働きと呼ばれるのです。
その水神から風神が生まれ、天神から雷が生まれたのです。
その風神雷神が岩の神と土の神を生み国土を創っていったのが神世七代の頃である日本神話です。
繰り返しますが、その初代が国祖国常立大神、その妻神が豊雲野大神です。
豊雲野大神は伊勢の外宮の祭神です。
妻神として内宮の天照大神に呼ばれたのです。
天照大神は神世七代目のイザナギから生まれましたので、祖を祀れば国常立大神になるということは日本神話において重要であります。
イズノメ理論で考えれば、こうして火(雷)系と水(風)系統に分けてみることもできます。
天神社はアメノホヒを従える火の雷神系であり、八幡神社は水の風神系といった具合に。
こうして見ると、八幡神社の三つ巴紋の神紋の意味も透けて見えませんか。
では天神社の神紋である梅の花の五ツ星は?
それは天照大神の神魂だからこその五柱だからです。
だから、スサノオの神魂は三ツノ御霊なのです。
五男三女の物語が天照大神とスサノオのウケヒであり、天の安河で行われた密意だったと考えられるのです。
まさに天神社と八幡神社の関係であり、時に八幡神社と稲荷神社の関係となり、時に三つ巴となるといったような意味をも彷彿とさせてくれるのであります。
なにしろ、神が最初に創った元素は水素だそうです。
Hを生むことで子供(肉体)を創ることができるまでになったのです。
まさに言葉遊びの限度を超えた神技です。
それで原初の神は水神だといわれるのです。
古来の賀茂の人たちが祀ったのが貴船神社の井の神ですから、それが天之御中主なのです。
古事記では天之御中主、日本書紀では国之常立神です。
これはつまり、国之常立神は天之御中主の肉体を持った時の神名ということでありましょう。
ガンダムのモビルスーツのコアファイターは天之御中主だということです。
別々ではなく古事記と日本書紀はセットで考えるべきだと思います。
2022年01月02日
神田という土地と伊勢との関係
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称したそうです。
そういえば九段下から飯田橋の辺りに東京大神宮がありますから、伊勢でつながりますね。
神田から歩いて行けるちょうどよいくらいの距離です。
東京大神宮の境外に白菊稲荷がありますが、桐生稲荷とセットで考えられます。
東国に来た崇神天皇の御子である豊木入日子命が連れてきたのではないでしょうか。
おそらく稲荷は渡来人によってもたらされ、ハチマンの前身であるヤワタの神も同じルートで我が国に来たのでしょう。
八幡神は清和源氏に流れる新羅の道教化された神です。
さらに言えば八幡神はゾロアスターの拝火教と習合しています。
ソグド人がゾロアスター化された仏教を持ち込んだとも考えられます。
彼らの隊商をキャラバンと呼ばずサールトと呼んでいたが、それは猿田とは無関係ではないのではないか?
伊勢の入り口にも猿田彦神社があるように、道案内をする神として古事記にもアメノウズメと交渉している。
アメノウズメは大宮能売大神というウカノミタマで、氷川大宮の八幡神社で祀られた明治天皇が関東の守り神として最重要視していた神様。
そこに出てくる神々もまた田を祭っている。
その代表が天照大神であり、かの太陽神からして田の神を祭っているのが日本神話の基本構造です。
そして天照大神の弟がスサノオです。
スサノオがやがてハチマン化していき、妻神の櫛稲田姫がイナリ化していったということです。
つまり猿田彦はハチマン=氷川=スサノオ(蘇の人)であり、
アメノウズメはイナリ=伏見=秦氏 となります。
宇佐八幡では辛嶋氏が後の秦氏のイナリとなります。
宇佐氏が応神(大神)で八幡神となり、9世紀に岩清水八幡となり国家の守護神として神が表に現れてきた天の時だったのです。
岩清水八幡は清和天皇の御代ですから、後の源頼義や義家につながります。
彼らの祖先は新羅の人たちです。
宇佐の姫神と新羅の姫神と応神八幡神が三つ巴を繰り広げているという構図
日本全国の三つ巴紋の家紋の神霊的な意味になっているはずです
この3つが足されると霊界物語の高姫と黒姫とその旦那の三つ御霊になるのでしょう
それが「水のみたま」ということなのですね
瑞でミズ、水という言葉になり瑞霊となるのです
それが横の働きであり、女神の救済を意味する観音院から起こる慈悲の力となります
天の時を迎え、天の啓示を受けることは人類が正しく天を畏れるようになったということであり良いことです。
原始八幡神は新羅の姫神であり、ヒメコソ神社と関係しているのではないでしょうか。
となると黙ってないのがアメノヒボコです。
兵主神社や田道間守、橘という植物、すべて同じルーツです。
やはり朝鮮半島から渡ってきた人たちだったのです。
ヒメコソのコソとは社、神社という意味ですからヒメコソというのはヒメ神社という意味なのです。
そこで祀られているのはシタテルヒメです。
兄がアジスキタカヒコネにそっくりのアメノワカヒコです。
これが霊界物語に出てくる常世彦と道彦の関係であり、一心同体の関係です。
ちなみに道彦は金毘羅さんで有名なコトヒラワケ命です。
常世彦の神魂は大物主命です。
そしてコトヒラワケの崇め奉る大物主を背にしたアメノカガセオは白山姫の下僕であるのです。
白山姫が加賀であり、それを背負っている男という意味です。
大物主命を裏で操る姫神が常世姫の前身です。
さらに鹿島の神でも戦えなかったのが大物主の力だったのです。
それが転じて経津主命となり、布都御魂大神となり、三種の神器の一つである霊剣になっているのであり、京のファミリーとなって春日大社にいらっしゃるのです。
それが展開される前の一つになったのが賀茂の神であり
貴船神社の原初の神である井の神
すなわち三井の水神です
それは御子神を意味します。
春日大社でいえば紀伊神社であり、八幡神社であれば若宮です。
御井神社の御子神は気比であり、アメノヒボコであり常世彦です。
また、ツヌガアラシトは「角がある人」の意味です。
それはアメノカガセオ(常世彦)の転生であり後身というわけです。
角を持つ常世彦は「熊野」にもなり、また「たから第六天」にもなります。
つまりスサノオであり、波旬であり、たから第六天なのです。
釈迦は魔界の中で説法をされ、弥勒菩薩さえも魔王波旬に及ばないといいますが、欲界の最高位に地球という舞台があるのですから仕方ありません。
天は変わらずに上ばかりに棲んでいたら外界の衆生はますます足場を深め、悪に墜ちていくばかりです。
それでようやくあらわれたのが熊野の浄土による救済、つまり阿弥陀如来というわけです。
またそれは大日如来の救済の働きとなり、一陽来復となります。
こうした密教に見られる呪術的な祭祀は道教の影響も大きく関わっているのではないでしょうか。
単にインドからヴェーダの宗教が仏教徒に伝わっただけでなく、呪術をよくした中国の僧侶たちによって密教は完成したということです。
四世紀、東晋の頃のハクシリミッタラは孔雀呪経を使いましたし、ドンムセンは鬼を使って病を治す呪術を駆使していたのです。
それは大乗仏教がまだ十分に展開されていない時代の大陸で醸されていった道教との融合だったのです!
少なくとも弘法大師空海が唐へ渡る前に恵果和尚はそれを完成させていたのです。
ですから、そこには何代かの中国僧たちによるアレンジが加わっているはずです。
そうして大乗思想の秘密仏教が完成されていき、それはつまり真言宗や天台宗の密教にみられる道教化された格義仏教であり、特に新羅においては独自の仏教文化を作り上げたようです。
それを持ち込んだのが蘇の人たちであり、日本に渡ってきて蘇我氏になっているのではないでしょうか。
聖徳太子の血ですが、百済の人ですね。
しかし蘇我氏は新羅で聖徳太子が百済の人というのはどういうことでしょうか。
もともと、新羅の人も百済の人も同じルーツですから高句麗出身の民族です。
さらに遡れば新羅も百済も高句麗のさらに元は獩貊(ワイ・ハク)の人たちなのです。
白山を共に祀っていた民族で、その人たちが加賀に白山姫を引っ張ってきたのです。
ヒメコソの神はシタテルヒメですが、白山姫の後身の常世姫のことです。
シュメールのイナンナ女神とイシュタル女神のような関係です。
あるいはイナンナ女神と冥界神エレシュキガルといった方がわかりやすいかもしれません。
なぜならどちらも常世姫の後身
だからです。
常世姫はシタテルですから下の世界、黄泉の国を照らす神です。
上を照らせばアマテラスになるのです。
他にも清和源氏が新羅の仏教です。
義家に力を与えたのは白玉稲荷です。
白菊、白玉と似てませんか?
稲荷もおそらく新羅の人たちがもたらしたのでしょう。
稲荷はクシイナダヒメでスサノオの妻神です。
ということはスサノオは蘇の人であったかもしれません。
実際、高天原を追われたスサノオはソシモリにたどり着くのです。
ソに集まった村(ソフル)がやがてソウルの地になっているのです。
我が国にも「フル」は天孫降臨の地でクシフル岳として知られています。
また、皇室に祀る二柱の神は韓神と蘇神です。
そして皇室は田の神を祀るのです。
大嘗祭にしろ、新嘗祭にしろ田の神を祀ればこそ成立するのです。
その田の神がハニヤス姫であり、その前身は加賀の白山姫であり、白山菊理姫命ということです。
飯田橋の白菊稲荷は白山菊理姫命の眷属となります。
桐生稲荷と三津揃って津の神の弁財天となり、白山姫がイチキシマヒメです。
また、田の神を辿ればハニヤス姫が途中にいます。
それは榛名神社の岩の神であり、雷神でもあります。
風の神とセットです。
ハニヤス彦が風の神で風神雷神となるのです。
白山姫は叔母のポジションで両脇にイザナギイザナミを従えます。
これが三津の御霊です。
天之御中主・神産巣日神・高御産巣日神の古事記における造化三神は霊界物語の高姫、黒姫とその旦那の三つの御霊です。
それが古事記にある大物主神にミホツヒメが授けられたということにつながります。
ミホツヒメは三津の御霊であり、弁財天女であり、櫛稲田姫であり、稲荷ということです。
それが田の神でありハニヤス姫という地母神なのです。
忘れてはならないのは、伊勢の最高神さえも田の神を祀っているということです。
ですから神田は伊勢の御田を意味するというのは伊勢と関わる土地柄であり、神田明神はそのパワースポットでもあるということです。
江戸時代になると「神田明神」と名乗り、明治に入って神社が国家の管理下に入ると明治元年(1868年)に准勅祭社に指定され
その後、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められたようです。
2021年12月28日
神田明神の少彦名命
祭神平将門公は、朝敵扱いをされていた歴史が表に現れたのが明治七年。
明治天皇がご親拝されるにあたって天皇に反旗を翻した逆賊が祭神になってるのまずくね?
ということで、もう何百年経っても怨念消えないってやヴぁくないですか将門公
それが神田明神なんですね、簡単にご紹介しますと。
二の宮の少彦名命はそうした経緯からお迎えして来たので、いわば大義を立てにいらっしゃったわけです。
どこから来たかというと大洗磯前神社からです。
大洗磯前神社に降臨したのは856年12月29日、奇しくもこのブログを書いている次の日が降臨日に相当しますので、何かあったら怖いなといった感じです 笑っ
このテリトリーは鹿島の神様の敷地です。
この神様は父親としての意味も持っていますので、香取とセットになって師弟といった関係にもなります。
極真空手でも武道最強の神として祀り、型においてはお互いに礼を尽くすことも教えています。
流派によっては一子相伝を伝えるところがあるかもしれません。
武神の神懸かりというのは、芸能においては弁財天になることもあります。
その典型的な例が江ノ島神社の妙音弁財天とハッピ弁財天です。
ハッピというのはハッピー弁財天というわけではありません 笑
手が八本あることを意味するのです。
その手は武器を手にした戦闘神の御姿です。
それが日の系統の五柱で、天照大神の男神たちです。
片や妙音弁財天は月の系統の三柱で、宗像神社の三娘が祭神です。
ですからスサノオの女神たちですね。
そのウケイが行われたのが音の泡ぎが原で、泡がみそいでケガレを払っていくイズノメの働きになるのです。
それが藤原祝詞の霊力になっていたのです。
吉田神道でもさすがにここまでは読み取れませんでしたね、もちろん陰陽師でさえも。
その霊力の源泉は鳴門の渦潮だったのです。
実はパワースポットとして働く時にはマゼラン星団につながっているのです。
ですから、そこで祝詞を唱えるのが一番強いと言えます。
しかし神社の神様はいくらでも分身が可能です。
そこの霊空間を一度覚えてしまうことで、自宅でも瞬時に時と空間を超えてつながれてしまうのです。
それであれば、たまに現地に補給しにいくといったメンテナンスを考えるようにしましょう。
そうすると絶えずフレッシュな気持ちに切り替えることがスムーズになるはずです。
さて、鹿島の神様はアメノコヤネを溺愛しています。
その場合、彼はフツヌシの役割をします。
フツヌシはタケミカズチ、つまり鹿島の神様の息子で、常世の国に送られた最初の神様のお子さまの化身です。
だけど失敗しました。
神は創造に失敗作を創りたもうたのであります。
それが恵比寿です。
蛭子とも書きます。
形のない神様です。
ですから常世の国の神様なのです。
私はその息子の常世彦と申します。
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さて、お話を戻しましょう。
フツヌシは石上に祀られる剣の神です。
ギリシャ神話ではヘーパイストスです。
しかし悪神でもあるのです。
それはヘルメスの裏の姿でもあります。
それが日本神話でいうところのアメノワカヒコ(悪神)なのです。
表の善神がアジスキタカヒコネだったのです。
そして男神と対になるヒメ神がまた重要な働きをしますが、それが氷川だったのです。
氷川神社は出雲の蛇女神であり、スサノオの妻神にもなります。
ギリシャ神話ではゼウスの妻神ヘラ、
または原初の河の神であるインド神話のサラスヴァティーということです。
その水神がインドから宝船に乗って来た弁財天というわけです。
ちゃんとエビスが引っ張ってきてくれたってことなんです。
そのエビスがコトシロヌシとなって諏訪大社に祀られています。
コトシロヌシがエビスなら、大黒天は誰ですか?
それが大国主ですが、大物主とセットです。
ですから大物主とコトシロヌシは大黒恵比寿の関係です。
それが諏訪神社なのです。
イサクとアブラハムの関係ともいえます。
それが風神と雷神になったりもします。
これが水と火なのです。
それで氷になるのです。
氷川の女神は氷見の神ということです。
つまり白の蛇神、白山菊理姫の化身というわけです。
それが北の御方であり、一白水星をテリトリーとする水神を司っておられるのです。
この御方によって大黒天の働きがますます強くなるのです。
すると九紫火星である南の午が極まります。
それが形になって現れるのが弁財天の働きなのです。
こうして武道と芸能は火と水の一体を以て教えを垂れるのであります。
2021年12月22日
怨念による御霊信仰
神田明神の創建は武蔵国豊島郡芝崎村で、今の大手町あたりだったようです。
当時の寂びれた村に出雲の真神田臣といわれる一族が出雲の神である大己貴命を祀ったのがはじまりだそう。
鎌倉時代には将門の首塚の怨霊を鎮めるため、時宗の二祖である真教上人によって祀られた歴史があります。
上人はまたの名を他阿(たあ)といいます。
いっぺん食べたらやめられない一遍上人の後に教団を再結成させて鎌倉時代の時宗を確立させたと云われています。
他阿はそのあと弥陀仏と続く名前ですから西方の極楽浄土思想である阿弥陀信仰から来ています。
一遍上人と他阿はこれを遊行とし踊り念仏なるものを生み出しました。
それが民間のお盆の行事と習合することで盆踊りとなったようです。
この信仰は明治の廃仏毀釈まで盛んだったようで、室町鎌倉から長い時間をかけて醸成されていったと考えられます。
さらにその元を辿ると中国大陸の格義仏教に起源があるようです。
格義仏教とは純粋な仏教ではなく、中国の道教思想と習合された仏教で、日本に伝わった仏教です。
そのために日本のお坊さんは袈裟を着ているんです。
インドのお釈迦様を起源とする仏教では袈裟は無いのです。
ちょっと大袈裟に言う、なんてのもここから来ているんですね。
神田明神は17世紀の元和元年に江戸城拡張の際に鬼門の地ということで現在地に移されたのですが、この場合の「鬼門」という考え方がまさに道教思想と仏教の習合だったのです。
真教上人によって将門公がお祀りされたのは、当時、疫病や天変地異があり、祟りとして御霊を畏れたからということもあったようです。
そうした人々の不安の中で、供養して神田明神の御祭神として勧請されたという背景があるようです。
ですからこれは御霊信仰であるといえます。
例えば天神菅原道真公もそうした祟りを畏れて天神社に祀られた背景があります。
そして奇しくも神田明神と湯島天神は近い距離ですが、直線でスグのところにあります。
神田明神の御祭神は大己貴命、少彦名命、そして平将門命ですがこうした三神の組み合わせも、それらの神社と何故か共通している気がします。
湯島天神では天神社の奥に大己貴命と少彦名命に相当する天手力雄命と笹塚稲荷が祀られていますが、神田明神と同じようにはじめはニ神のセットでした。
それが後から将門公のように道真公が足されたのです。
二人共通するのは怨念によるものであり、御霊信仰は日本人に根深く入り込んでいる気がします。
歴史をみても崇徳天皇や早良親王など他にもあります。
こうした御霊信仰は格義仏教にはあまり見られませんので、日本独特のものなのでしょうか。
粗末にすれば祟るけど、畏れ敬うなら福の神になる思想は果たして西洋の外国人に理解できるでしょうか?
彼らの西洋思想の原点はデカルトにあるような「我思う故に我あり」であり、神仏と離れた所にあるのに対して、東洋思想は梵我一如であって、はじめから有神論的であるところがまさに神秘的であるといえます。
このような事からも日本が「神の国」であるといえる東洋の有神論的な思想の下に独自の神観念を醸成させていった事が感じられるのです。
2021年12月21日
邪馬台国はどこにあったのか
邪馬台国はどこにあったのか
このルーツを探るのに私は桓武天皇がヒントになっている気がします
私の住む渋谷区にはその昔、薩摩や相模をルーツとする、蔦の葉を家紋とした高城氏や東郷氏といった氏族を代表する渋谷氏によって収められてきた歴史があります
渋谷氏の発祥は桓武平氏です
坂東八平氏の一支流、秩父別当である平武基といわれています
そもそも平氏には桓武平氏・仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏の四つの流れがあります
その中でも最も古く、また後世において反映したのが桓武平氏となります
平将門や清盛といった有名人を輩出した名家であり、宇多天皇より高望王(平高望)が朝臣の姓を賜ったのが始まりとも云われています
高望王の父は高見王で祖父が葛原親王、祖父が桓武天皇となる血統です
そして高望王の息子が国香で父と一緒に9世紀に坂東に下向してきたのです
平将門の乱があったのはそれから40年くらい経った935年です
桓武天皇は鳴くよ鶯で有名な平安京の遷都(794年)で知られますが、藤原京を捨てて遷都によって平安という時代を作った天皇です
もちろんその前には長岡京の遷都もありましたが、、平安貴族の心の故郷となった平安京を作ったことが平安時代を完成させたともいえます
その結果、京都という町ができあがったようです
桓武天皇はもともと山部王と呼ばれ白壁王の子でありました
白壁は王光仁天皇のことですが、天智系の血統です
高野新笠を夫人とし、二人の間にできたのが桓武天皇なのです
高野新笠の父は百済の渡来人である和乙継で母親が土師氏の系統、つまり祖は野見宿禰であり全国の天神社で有名な菅原道真の血統につながります
野見宿禰系統の天神菅原道真公の祖先は大国主命の身の回りを世話した「天穂日命」であり、後の出雲国造につながります
また、高野新笠の父である和乙継は百済武寧王の子孫とも云われています
ということは古事記における日本神話の天孫降臨において、国譲りした出雲の大国主命はどこから来たのでしょうか
出雲はモが出ルと読めますが、このモはクモのモです
コモやクモは古代朝鮮語と関係していると思われ、熊野も同じルーツであると考えられます
熊野神社といえばスサノオです
スサノオ神話での舞台が朝鮮半島であることは広く知られていますし、三重県の香良洲神社での稚日女命と深い関係を持っています
高天原で暴れるスサノオが稚日女命を機から落として女陰を傷つけて亡くなってしまったのを悲しんで天照大神が天の岩戸にお隠れになったことで有名です
天の岩戸神話は日本人なら誰でも知っているのではないでしょうか
稚日女命と恋仲であったとも云われるスサノオとカラスの羽に恋文を載せて届けようとして和歌山の地で力尽きた話は熊野神社との関わりを感じますし、和歌山の熊野といえば八咫烏ですから、カラスの言霊もしっくりくるのです
少し話が戻りますが、高野新笠の血を辿ると百済に行き着くのですが、一周回って日本神話になってしまうあたり、そもそも我が国の神話は朝鮮半島からもたらされたということ
もっと言えば我が国の天皇の祖先は初代天皇が神武天皇です
その神武天皇の兄に五瀬命がいますが、モロに朝鮮のお方です
こうした歴史背景について、もちろん皇室が知らないわけがありませんし、逆にあまり知られたくない事柄になっていることも考えれます
実際、宮内庁では頑なに墳墓の公開を拒んでいます
宮内庁が管理する八十基の墳墓を調査すればこうしたことが明白になるのですが…
ですから、皇室は自分たちの出自が国民に知られるのを怖れているのではないかと勘ぐってしまうのです
おそらく、彼らがやってきた3世紀頃に邪馬台国は滅ぼされてしまったのではないでしょうか
当時の平和な日本に鉄を手にした渡来の人々が押し寄せて来たのでしょう
それが九州という国で起こった悲劇であり、また同時に天孫降臨の舞台となったのも九州の地であったことを考えれば、邪馬台国は北九州にあったという説を私は支持したいと思います
さらに言えば邪馬台国を収めていた卑弥呼の後を継いだのは2代目「トヨ」です
トヨは豊であり、北九州の豊後や豊前といった言霊はトヨのクニがあったからではないでしょうか
2021年にニュースとして取り上げられたヤフーニュースの記事で北九州の大和町が取り上げられたことは記憶に新しいのですが、その際に発掘された遺品には鏡も出土しました
しかしそれらはすべて壊されていいたそうです
ニュースでは自分たちで鏡を壊す風習があったのでは?と報道していましたが、3世紀頃の鏡は墓に副葬され、死後の世界においてアムレットという今で言う御守の役目を果たしていたはずです
それを自分たちで壊すといったことは考えられません
だとすればそれは墓を暴かれて壊されたと考えるべきではないでしょうか
実際高句麗からの侵略者たちの風習で、征服した後で墓を荒らすといったような事が行われてきたことがあったようです
また3世紀の弥生時代のあたりから、出土される人骨に刃傷跡が見られるようになったそうです
そうして古墳時代というものが作られていき、やがて奈良〜白鳳文化を経て桓武天皇によって平安時代が作られていったというのが古代の日本史であったのではないでしょうか
2021年12月20日
家康の頃の東京
江戸の町は家康入府のビフォーアフターで随分と分かれるようですが、さらに振袖火事で有名な明暦の大火でもまた大きく変わったと云われています
特に寺院の立地においては家康入府前には台地に建てられていたようです
城下町の周りに建てられたのは寺町になってからだそうです
てらまちとは、寺院が集中して配置された地域につけられる町名で市街の外縁にまとめることで敵襲に備える意図もあったとか
明治の頃の地図には江戸の町周縁部一帯に点在していましたが、甲州街道沿いの台地に建っているのは17世紀前半建てられたものです
家康が江戸に入府したのは16世紀も終わりの頃で、征夷大将軍に任じられたのが17世紀に入ってからですから、その頃に町らしくなってきたということですね
吉原の遊郭も一部は駿府の城下にあった二丁町遊廓から移してきたそうです
(にちょうまちゆうかく)はもちろん幕府公認で当時1万坪という広大な面積だったそうです
どんだけ繁盛していたんでしょうかね…当時の静岡恐るべしです
そもそもは駿府築城で武士やら農民やら大工やらをたくさん集めてきて、彼らをねぎらうために遊女たちが集まって来たんだとか
ギブミーマネー、ギブミーチョコレートといった戦後の日本を彷彿とさせてくれます
これには家康もお手上げだったみたいで、一旦は風紀のために遊女たちを追い出したものの、後から側近の鷹匠に懇願されてこれを許したんだとか
そして鷹匠が土地を1万坪購入して幕府公認の遊廓を作ったのが後から三ノ輪の吉原へと移したので残された静岡の遊廓を二丁町遊廓と呼ぶようになったとか
しかし今では空襲で名残すらありませんが、わずかに稲荷神社が残っているそうです
その二丁町遊廓のあたり静岡県葵区駒形通5丁目付近にある稲荷神社を調べると「双街」と云われる地が二丁の町であるそうで、遊廓は元々京都の伏見から誘致してきたものと云われていることがわかりました
ということは、吉原遊廓の歴史の大本は京都の伏見であり、稲荷神社の起源も同じですから吉原と稲荷神社に関係性があるのかもしれないですね
もともと人の欲望と稲荷神社は密接に関わり合ってきました
今も現世利益を願って油揚げをお供えしてお願い事をする習慣がありますが、そうした風習も京都にあったのかもしれませんね
江戸に来た三河武士たちの間でも稲荷信仰が熱かったようで、東京の本郷のあたりには今も三河の稲荷が祀られていますから、三河の一部の人たちが伏見稲荷に関係していたのかもしれません
伏見稲荷の起源は8世紀の秦氏によるものですから、賀茂の人たちや皇室とも大いに関わってきた歴史があり、家康自身は新田の出身であるとも云われています
三つ葉葵の家紋も元々は賀茂の双葉の葵を元に作られたそうですから、二丁町(双街)という言霊からの流れとなんとなく合っている気がします
新田の祖は足利の祖と兄弟ですから祖父は源義家です
家康は新田の出身だとしても当時は足利を上に持ち上げなければならなかったでしょうし、喜連川藩への厚遇を見ても足利をどのように見ているのかわかる気がします
奇しくも足利の家紋もまた二つ引きであり、そのあたりの符号がなんとも重なり合うものとなっているのは偶然でしょうか
また家康の厚遇は神田明神や山王権現(赤坂日枝神社)にまで及んでいますが、実は神田明神と赤坂日枝の神主は確か同族だったはずですから、つまり同じ関係者です
江戸三大祭りも神田明神と山王さんはいつもセットです
そんな山王さんの赤坂日枝神社の神紋は2つあるようで、その一つは「双葉の葵」です
つまり賀茂氏ということです
日本の古代史は賀茂氏抜きには考えられないと思っていますから、やはり繋がりがあるように思えます
さらに伏見稲荷の神官階級から出てきたのは荷田春満ですが、その弟子は賀茂神社から出てきた賀茂真淵であり、二人共に国学の四大人に数えられています
その国学者を讃えた記念碑は神田明神が発祥であり、当時の神田明神の神主も彼らをリスペクトしていたという思想上の歴史もあります
ですから神田明神も伏見稲荷と無関係ではなく、むしろオセロの表裏のような一体の関係であると思っています
神田明神の境内の裏側は稲荷神社でビッシリといった感じで、境内摂社の末廣稲荷は神田下の末広町で信仰されていたのでしょうか、やはり17世紀始めの創建となっていますから、もしかしたら下の町から高台に移されたのかもしれません
こうして江戸城と神田明神との関わりは家康の頃に強固となったのではないでしょうか
今の神田明神や赤坂日枝神社の立地からみても決してぞんざいではなく、寺町との違いも明らかではないでしょうか
明暦の大火以後は当時、神田明神からも近くの日本橋人形町にあった吉原が浅草の裏に移されたのを見てもわかるように、寺町は低地部の湿地帯や谷間などの主要街道から外れた荒れ地のような悪条件を与えられたそうです
今の吉原も大昔は葦原と呼ばれたそうですから、水辺に葦の生い茂る日本の原風景がそこに広がっていたのかもしれないですね
九段下のあたりまで海岸線があり、銀座もまた水辺や湿地であったようですから、周辺にも葦原中国の原風景が広がっていたことでしょう
特に寺院の立地においては家康入府前には台地に建てられていたようです
城下町の周りに建てられたのは寺町になってからだそうです
てらまちとは、寺院が集中して配置された地域につけられる町名で市街の外縁にまとめることで敵襲に備える意図もあったとか
明治の頃の地図には江戸の町周縁部一帯に点在していましたが、甲州街道沿いの台地に建っているのは17世紀前半建てられたものです
家康が江戸に入府したのは16世紀も終わりの頃で、征夷大将軍に任じられたのが17世紀に入ってからですから、その頃に町らしくなってきたということですね
吉原の遊郭も一部は駿府の城下にあった二丁町遊廓から移してきたそうです
(にちょうまちゆうかく)はもちろん幕府公認で当時1万坪という広大な面積だったそうです
どんだけ繁盛していたんでしょうかね…当時の静岡恐るべしです
そもそもは駿府築城で武士やら農民やら大工やらをたくさん集めてきて、彼らをねぎらうために遊女たちが集まって来たんだとか
ギブミーマネー、ギブミーチョコレートといった戦後の日本を彷彿とさせてくれます
これには家康もお手上げだったみたいで、一旦は風紀のために遊女たちを追い出したものの、後から側近の鷹匠に懇願されてこれを許したんだとか
そして鷹匠が土地を1万坪購入して幕府公認の遊廓を作ったのが後から三ノ輪の吉原へと移したので残された静岡の遊廓を二丁町遊廓と呼ぶようになったとか
しかし今では空襲で名残すらありませんが、わずかに稲荷神社が残っているそうです
その二丁町遊廓のあたり静岡県葵区駒形通5丁目付近にある稲荷神社を調べると「双街」と云われる地が二丁の町であるそうで、遊廓は元々京都の伏見から誘致してきたものと云われていることがわかりました
ということは、吉原遊廓の歴史の大本は京都の伏見であり、稲荷神社の起源も同じですから吉原と稲荷神社に関係性があるのかもしれないですね
もともと人の欲望と稲荷神社は密接に関わり合ってきました
今も現世利益を願って油揚げをお供えしてお願い事をする習慣がありますが、そうした風習も京都にあったのかもしれませんね
江戸に来た三河武士たちの間でも稲荷信仰が熱かったようで、東京の本郷のあたりには今も三河の稲荷が祀られていますから、三河の一部の人たちが伏見稲荷に関係していたのかもしれません
伏見稲荷の起源は8世紀の秦氏によるものですから、賀茂の人たちや皇室とも大いに関わってきた歴史があり、家康自身は新田の出身であるとも云われています
三つ葉葵の家紋も元々は賀茂の双葉の葵を元に作られたそうですから、二丁町(双街)という言霊からの流れとなんとなく合っている気がします
新田の祖は足利の祖と兄弟ですから祖父は源義家です
家康は新田の出身だとしても当時は足利を上に持ち上げなければならなかったでしょうし、喜連川藩への厚遇を見ても足利をどのように見ているのかわかる気がします
奇しくも足利の家紋もまた二つ引きであり、そのあたりの符号がなんとも重なり合うものとなっているのは偶然でしょうか
また家康の厚遇は神田明神や山王権現(赤坂日枝神社)にまで及んでいますが、実は神田明神と赤坂日枝の神主は確か同族だったはずですから、つまり同じ関係者です
江戸三大祭りも神田明神と山王さんはいつもセットです
そんな山王さんの赤坂日枝神社の神紋は2つあるようで、その一つは「双葉の葵」です
つまり賀茂氏ということです
日本の古代史は賀茂氏抜きには考えられないと思っていますから、やはり繋がりがあるように思えます
さらに伏見稲荷の神官階級から出てきたのは荷田春満ですが、その弟子は賀茂神社から出てきた賀茂真淵であり、二人共に国学の四大人に数えられています
その国学者を讃えた記念碑は神田明神が発祥であり、当時の神田明神の神主も彼らをリスペクトしていたという思想上の歴史もあります
ですから神田明神も伏見稲荷と無関係ではなく、むしろオセロの表裏のような一体の関係であると思っています
神田明神の境内の裏側は稲荷神社でビッシリといった感じで、境内摂社の末廣稲荷は神田下の末広町で信仰されていたのでしょうか、やはり17世紀始めの創建となっていますから、もしかしたら下の町から高台に移されたのかもしれません
こうして江戸城と神田明神との関わりは家康の頃に強固となったのではないでしょうか
今の神田明神や赤坂日枝神社の立地からみても決してぞんざいではなく、寺町との違いも明らかではないでしょうか
明暦の大火以後は当時、神田明神からも近くの日本橋人形町にあった吉原が浅草の裏に移されたのを見てもわかるように、寺町は低地部の湿地帯や谷間などの主要街道から外れた荒れ地のような悪条件を与えられたそうです
今の吉原も大昔は葦原と呼ばれたそうですから、水辺に葦の生い茂る日本の原風景がそこに広がっていたのかもしれないですね
九段下のあたりまで海岸線があり、銀座もまた水辺や湿地であったようですから、周辺にも葦原中国の原風景が広がっていたことでしょう