2018年12月11日
田原坂
田原坂(たばるざか)は、熊本市にある地名で西郷隆盛が討ち死にした西南戦争の古戦場です。
1987年(昭和62年)、12月30日と31日の二晩に分けて放映された特別枠ドラマのタイトルでもあります。
私は以前につい、DVDを買ったのですが前編・後編合わせると5時間半にも及ぶドラマなので、私はまだきちんと見たことがありません。
なぜつい買ったかというと、ドラマの最後だけ見て本編に興味を持ったからです。
当時まだ私は親と同居していました。
トイレに行くには廊下を通るか、親の部屋を通るか。たまたま親の部屋を通ったんです。
その時、テレビでこのドラマのラストシーンを目にしました。
とても興味を引かれて少し見入ってしまいました。
上野の西郷隆盛像は1898年(明治31年)に建立されました。西南戦争は1877年(明治10年)です。
ラストシーンというのは、西郷の妻である糸(イト)が、西郷像の除幕式に招かれ、幕が降ろされた際、西郷像を見て、言ってはならぬ言葉を発します。それは
「(西郷は)こげん人じゃなかよ。」
実弟の西郷従道は糸を制止します。しかし
「宿んし(うちの人)はこげん人じゃなかよ。」「じゃどん、こげん人じゃなかもん。」
ラストのそこだけ見た私は以来、ず〜っと「あのシーンは何だったんだろう?」と気にかかったままでした。
糸は“秋吉久美子”さんが演じていました。
彼女の個性がまた役を引き立てています。
この糸の発言は事実らしく、よく見る西郷隆盛の肖像画は作り物であるのは有名な話ですね。
比較的西郷に顔が似ていたとされる実弟の西郷従道の顔、上半分。下半分は従弟である大山巌の顔を合成したとされています。
実際、西郷隆盛は大の写真嫌いで、西郷は明治天皇に自分の写真は無いと明言しているそうです。
西郷像のモデルとされたのは先の肖像画であることから、糸はじめ、板垣退助も西郷像には不満であったようです。
さて、ドラマはあまり歴史を忠実に再現しているわけではないようです。
西郷隆盛の人生は実に波瀾やエピソードに満ちており、彼の半生を5時間半のドラマに詰め込むのは相当、無理があるようです。
そのため、江戸城総攻撃の中止を求める勝海舟との対談シーンは、わずか2分30秒ほど。
ときに両者笑いながらの対談です。
しかし実際には2日間、お互いに大勢の仲間や親戚たちを殺された討幕軍と幕府、代表同士の対談。
そこには緊迫する駆け引きがあったそうです。
実際に、対談を終えた勝海舟が江戸城に戻り、
「明日の攻撃は中止になりましたぞ!」
と大声で叫ぶと、江戸城にこもっていた武士たちから
「お〜」
という嘆声が漏れ、あとはしばらく無言。
近付くと誰も死を期した顔をしている。
もし談判決裂して明日戦となれば旗本たちが自刃することは明らかであった。
勝海舟はそのように書き残しています。
この江戸無血開城、最大の功労者である西郷は、新たな明治政府の要職には就かず故郷に帰り隠居の身。
しかし明治政府では維新の功績を巡る派閥抗争が起こり、亀裂が生じていました。
さらに明治政府には残った難問がありました。それは“廃藩置県”。
かつての武士社会、その身分制度をなくし四民平等を実現する大改革。
武士階級の猛反発は必至。誰がその汚れ役を買って出るのか。
担ぎ出されたのは隠居していた西郷隆盛でした。
他にも“徴兵令”、“断髪廃刀令”。
その後も私利私欲、名誉欲に走る官僚や政治家からは、金に動かず、名誉欲もない西郷は理解しがたく、煙たい存在になっていきます。
そこに明治政府の策略で征韓論者という汚名を着せられ、またも故郷に戻る西郷。
功労金を元手に私学校を創立し、武士の身分を奪われ荒んでいく故郷の若者を救いながら寝食を共にします。
そんな素朴な姿を、明治政府の要人たちは理解できず、ただ恐れることに・・
そして若者たちを焚きつけ、反乱させ西南戦争へ。
長くなるので、西郷のことは機会があればまた投稿します。
このドラマには今やテレビに多数出ている“坂上忍”さんが出演しています。
当時彼は20歳です。
また、アウトレイジでおなじみの“塩見三省”さんも出演しています。
他にも私と同世代か、それ以上の人たちにはたまらないキャストが出演しています。
→ Wikipedia「田原坂」
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