2018年05月23日
自分の生まれ育った時代を誇れない人はいますか?
映画を見ていると、年配の人が
「私が子供の頃には裏山にフナがいて、川でよく泳いだものだ。」
なんてシーンがあったりします。
私の頃にはもう、そんな時代ではありませんでした。
フナがいて川で泳いだ時代なんて綺麗に感じるし、古き良き時代だったのでしょう。
じゃあ今が悪いか?というと、そんなことはありません。
誰だって自分が小さな頃の思い出はきれいだし、とても貴重な記憶です。
ただ古いほど、今の時代と遠ければ遠いほど貴重に感じて、自慢にしたいのでしょう。
私が物心ついた1960年代後半というのは、秋にトンボといえば、おびただしい数のトンボだったと思います。
東京タワーはありました。でも新宿副都心の超高層ビル群になる場所はまだ空き地でした。
入学したのは東京都葛飾区の小学校。柴又、寅さんの近くです。
当時の葛飾区は東京といっても、そこらじゅう、田んぼだらけ。
田んぼの中にポツンポツンと家が建ち、道はほぼ砂利道です。
まだ家に電話は珍しく、車もあんまりありませんでした。
家から出てすぐのところに沼があり、ザリガニ釣りをしていました。
とにかく高い建物がないから、空が広かったんです。
そんな景色にはユモレスクや、トロイメライがよく似合います。
(YouTube:jazzbudpi)
ユモレスク
毎朝通学する砂利道は横に小川があります。
小川といっても自然にできたものではなく、排水用に掘った溝のようなものでした。
U字溝のようなコンクリート製ではありません。
ある朝、見ると側溝に猫の死骸が落ちていました。
次の日にはウジが湧き、翌日には死骸はウジの群れで見えなくなり、数日で白骨化しました。
今だったら区役所が駆除するのでしょう。まだ発展途上の国だったんですね。
子供の遊びは男の子が“メンコ”、女の子は“ゴム跳び”でした。
テレビは「帰ってきたウルトラマン」「人造人間キカイダー」などがそうでしたが、私は戦隊ものよりも、
「ルパン三世(第1シリーズ)」や「天才バカボン」、「トムとジェリー」の方が好きでした。
また「ろう石」があり、舗装道路に〇を書いて、ケンケンパをして遊ぶ子供もいました。
チョコフレークはこの頃できました。
次に住んだ宇都宮は水のきれいなところでした。
私が蛍を見たのは、後にも先にも宇都宮だけです。
友人の家は地下から水を汲み上げていました。
その水の美味しかったこと。
友達と家の中で遊ぶことはほぼなかったと思います。
雨の日はどうしていたんでしょうか。
学校は土曜日が半日、4時間授業で給食なしのいわゆる「半ドン」です。
休みは日曜日だけ。
土曜の夜は、あの化け物番組「8時だよ!全員集合!」は必ず見ていました。
ゲームといえば野球盤や人生ゲームといったすごろく。一人で遊ぶものではありません。
プレイステーションやスマホ、コンピューターもありません。
メディアもテレビかラジオ。
思うと、人々の行動パターンは今よりも画一化されていたように思います。
(YouTube:myu ysj-V)
トロイメライ
次に住んだのは東京都江東区。宇都宮でしみ込んだ訛りをバカにされました。(笑)
バイオリンを習っている同級生が結構な数、いました。
大島4丁目団地という、大きな団地で、当時は都営団地でした。
今でもあります。今はUR都市機構が運営しているようです。
4丁目団地は、1号棟から7号棟まであり、奇跡的に残された各戸の入居者一覧を見ると、全部で2680世帯あります。4丁目団地だけで田舎の小さな町ひとつ分くらいの人口がいます。
夏になると「団地祭り」なるものが催され、選挙になると、石原慎太郎氏が遊説に来ました。1975年頃です。ときどきラジオも現地放送?に来ていました。
この頃、ポテトチップスが発売されました。
ゲームもなければネットもない。
歌を聞くのはテレビ、ラジオ、カセットテープ、レコード、そしてライブ。
外で歌を聞くようになったのは、ソニーのウォークマンが始まりです。
音楽は家で聴くものとしか誰も考えていなかったでしょう。
ラジカセに電池を入れて外で聞く。それもありましたが、している人を見たことはありません。
今と比べれば何もなかったあの時代。
しかし不思議と何一つ不自由がなかった気がします。
でも好きな歌があり、テレビやラジオ番組があり、アイドルがいて大好きな趣味があった。
好きな景色があって、大好きな仲間たちがいた。
私は私の時代を生きてきました。
若者も、自分たちが生まれ育った時代があります。
そんな時代を皆、大切に思うべきだし、誇るべきだと思います。
「私が子供の頃には裏山にフナがいて、川でよく泳いだものだ。」
なんてシーンがあったりします。
私の頃にはもう、そんな時代ではありませんでした。
フナがいて川で泳いだ時代なんて綺麗に感じるし、古き良き時代だったのでしょう。
じゃあ今が悪いか?というと、そんなことはありません。
誰だって自分が小さな頃の思い出はきれいだし、とても貴重な記憶です。
ただ古いほど、今の時代と遠ければ遠いほど貴重に感じて、自慢にしたいのでしょう。
私が物心ついた1960年代後半というのは、秋にトンボといえば、おびただしい数のトンボだったと思います。
東京タワーはありました。でも新宿副都心の超高層ビル群になる場所はまだ空き地でした。
入学したのは東京都葛飾区の小学校。柴又、寅さんの近くです。
当時の葛飾区は東京といっても、そこらじゅう、田んぼだらけ。
田んぼの中にポツンポツンと家が建ち、道はほぼ砂利道です。
まだ家に電話は珍しく、車もあんまりありませんでした。
家から出てすぐのところに沼があり、ザリガニ釣りをしていました。
とにかく高い建物がないから、空が広かったんです。
そんな景色にはユモレスクや、トロイメライがよく似合います。
(YouTube:jazzbudpi)
ユモレスク
毎朝通学する砂利道は横に小川があります。
小川といっても自然にできたものではなく、排水用に掘った溝のようなものでした。
U字溝のようなコンクリート製ではありません。
ある朝、見ると側溝に猫の死骸が落ちていました。
次の日にはウジが湧き、翌日には死骸はウジの群れで見えなくなり、数日で白骨化しました。
今だったら区役所が駆除するのでしょう。まだ発展途上の国だったんですね。
子供の遊びは男の子が“メンコ”、女の子は“ゴム跳び”でした。
テレビは「帰ってきたウルトラマン」「人造人間キカイダー」などがそうでしたが、私は戦隊ものよりも、
「ルパン三世(第1シリーズ)」や「天才バカボン」、「トムとジェリー」の方が好きでした。
また「ろう石」があり、舗装道路に〇を書いて、ケンケンパをして遊ぶ子供もいました。
チョコフレークはこの頃できました。
次に住んだ宇都宮は水のきれいなところでした。
私が蛍を見たのは、後にも先にも宇都宮だけです。
友人の家は地下から水を汲み上げていました。
その水の美味しかったこと。
友達と家の中で遊ぶことはほぼなかったと思います。
雨の日はどうしていたんでしょうか。
学校は土曜日が半日、4時間授業で給食なしのいわゆる「半ドン」です。
休みは日曜日だけ。
土曜の夜は、あの化け物番組「8時だよ!全員集合!」は必ず見ていました。
ゲームといえば野球盤や人生ゲームといったすごろく。一人で遊ぶものではありません。
プレイステーションやスマホ、コンピューターもありません。
メディアもテレビかラジオ。
思うと、人々の行動パターンは今よりも画一化されていたように思います。
(YouTube:myu ysj-V)
トロイメライ
次に住んだのは東京都江東区。宇都宮でしみ込んだ訛りをバカにされました。(笑)
バイオリンを習っている同級生が結構な数、いました。
大島4丁目団地という、大きな団地で、当時は都営団地でした。
今でもあります。今はUR都市機構が運営しているようです。
4丁目団地は、1号棟から7号棟まであり、奇跡的に残された各戸の入居者一覧を見ると、全部で2680世帯あります。4丁目団地だけで田舎の小さな町ひとつ分くらいの人口がいます。
夏になると「団地祭り」なるものが催され、選挙になると、石原慎太郎氏が遊説に来ました。1975年頃です。ときどきラジオも現地放送?に来ていました。
この頃、ポテトチップスが発売されました。
ゲームもなければネットもない。
歌を聞くのはテレビ、ラジオ、カセットテープ、レコード、そしてライブ。
外で歌を聞くようになったのは、ソニーのウォークマンが始まりです。
音楽は家で聴くものとしか誰も考えていなかったでしょう。
ラジカセに電池を入れて外で聞く。それもありましたが、している人を見たことはありません。
今と比べれば何もなかったあの時代。
しかし不思議と何一つ不自由がなかった気がします。
でも好きな歌があり、テレビやラジオ番組があり、アイドルがいて大好きな趣味があった。
好きな景色があって、大好きな仲間たちがいた。
私は私の時代を生きてきました。
若者も、自分たちが生まれ育った時代があります。
そんな時代を皆、大切に思うべきだし、誇るべきだと思います。
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