2017年12月10日
当年取って
私が最初にした仕事というのは営業です。15年くらい就いていました。
その後、いろいろな事情があり営業を離れ、たまたま古くからコンピュータに縁があったことで、その関係の自営業を始めました。
コンピュータの使い方がわからないという人には毎週、何曜日と何曜日といったように回数を決め、主にこちらから訪問して教えるという家庭教師的なことをしていました。
また、コンピュータが起動しなくなったとか、ウイルスに感染したとなれば一件いくらという報酬で仕事を受ける、いわばコンピュータの便利屋さんのような仕事でした。
他にもIT講座の講師を頼まれれば、自分にできることなら何でもしました。
今でもできることなら続けていたかった仕事です。
時給で働いていましたが、そこそこの金額でした。
安いところでもコールセンターの3〜5倍です。
あの頃は森喜朗内閣で「IT革命」などと呼ばれ、全国に補助金が下りたときです。
「IT講師」といっても最初はワープロ講座でした。ワープロ専用機です。
時代とともに、後にパソコン講座に変わりました。
IT講座をするには資料が欠かせません。市販されている書籍のテキストでは、2週間、1回2時間で週3回、計12時間程度の短期間で初心者に習得してもらうには内容が多すぎます。
そのため資料は自作でした。
資料作成にはマイクロソフトのWordを使っていました。
時給がいいとはいえ、講座自体12時間しかなく、しかも年2回。とても本業にはできません。
本業のかたわら、資料を印刷します。
一回分の資料は最低6〜8ページは必要です。7ページだとしても、
受講生が20人とすれば、140枚。講師分と主催者に差し上げる分なども含めると、154枚。
予備も作れば最低161枚は必要です。
副業で161枚を印刷するには、インクジェットプリンタだと、とても待ってはいられません。
私は奮発してカラーレーザープリンタを購入しました。当時40万円しました。
レーザープリンタはインクでなく、トナーを使います。1色2万数千円です。それが4色です。
幸い、IT革命の当時は補助金がしっかりあったので、トナーは主催者である公民館が買ってくれました。
次に教育委員会、翌年は商業高校で情報教育アドバイザーというなんとも微妙な職業。
この頃には小泉純一郎内閣になり、「緊急雇用対策」という、主に失業者の救済を目的として、技術者に仕事を斡旋する制度ができました。
私は失業者ではありませんでしたが、条件に外れていないことから数か所、その制度を利用して仕事をいただいて事業収入の一部に充てていました。
臨時雇用対策の補助金を遣うには、一人一事業所に一年限りという決まりがあります。そのため、毎年職場を変わるしかありませんでした。
その昔、職業訓練校ってありました。通称:職訓(しょっくん)です。
今では法の改正によって、職業能力開発校として、その施設を使っています。
次に私は縁があり、その開発校である職業能力開発センターに数年お世話になりました。
やりがいのある仕事、私にとって「天職」だと感じた仕事はそこにありました。
そこではIT講座が主体です。
Word、Excel、ときにAccess。
ここでは長いときだと通年、講義が多いときだと朝9時から夜8時まで仕事がありました。
IT以外にも「接客接遇」や「体育」もありました。
接客接遇はある意味、難しく、またある意味、ゲームみたいな授業です。
例えば、お辞儀の角度とか、お辞儀をするときに首を曲げてはいけないとか。
名刺を差し出す動きとか受け取る作法とか。
応接室や車、列車の中でどこが上座でどこが下座だとかいう一般常識。
また
「いつ誰と誰が何をしてどうなったか」という状況を設定し、6人ほどのグループで伝言ゲームをするとか。
またあるときはパズルをしたり。
その中に、敬語の授業がありました。
私が敬語にこだわるのも、そこでの経験が少なくはないと思います。
接客接遇の授業をする前、わたくしたち講師陣に講義をしてくれた人がいます。
講義は確か二日間だったと思います。
初日、初対面で名刺を交換して自己紹介を受けたとき、その講師は
「私、当年取って○○歳です。」
といいます。
それにしては若い。ずいぶんと若く見える。
実は、
「当年(とうねん)取って」
ではなく、
「10年(とうねん)取って」
だと言います。
○○歳でなく、○○歳+10歳ということ。
「は〜〜、、」
私は講師がすべったなと思いました。
でも講師は講師だから、誰も文句は言いません。
キャリアのある素晴らしい講師であるはずが、初日から台無しだと思いました。
その後、いろいろな事情があり営業を離れ、たまたま古くからコンピュータに縁があったことで、その関係の自営業を始めました。
コンピュータの使い方がわからないという人には毎週、何曜日と何曜日といったように回数を決め、主にこちらから訪問して教えるという家庭教師的なことをしていました。
また、コンピュータが起動しなくなったとか、ウイルスに感染したとなれば一件いくらという報酬で仕事を受ける、いわばコンピュータの便利屋さんのような仕事でした。
他にもIT講座の講師を頼まれれば、自分にできることなら何でもしました。
今でもできることなら続けていたかった仕事です。
時給で働いていましたが、そこそこの金額でした。
安いところでもコールセンターの3〜5倍です。
あの頃は森喜朗内閣で「IT革命」などと呼ばれ、全国に補助金が下りたときです。
「IT講師」といっても最初はワープロ講座でした。ワープロ専用機です。
時代とともに、後にパソコン講座に変わりました。
IT講座をするには資料が欠かせません。市販されている書籍のテキストでは、2週間、1回2時間で週3回、計12時間程度の短期間で初心者に習得してもらうには内容が多すぎます。
そのため資料は自作でした。
資料作成にはマイクロソフトのWordを使っていました。
時給がいいとはいえ、講座自体12時間しかなく、しかも年2回。とても本業にはできません。
本業のかたわら、資料を印刷します。
一回分の資料は最低6〜8ページは必要です。7ページだとしても、
受講生が20人とすれば、140枚。講師分と主催者に差し上げる分なども含めると、154枚。
予備も作れば最低161枚は必要です。
副業で161枚を印刷するには、インクジェットプリンタだと、とても待ってはいられません。
私は奮発してカラーレーザープリンタを購入しました。当時40万円しました。
レーザープリンタはインクでなく、トナーを使います。1色2万数千円です。それが4色です。
幸い、IT革命の当時は補助金がしっかりあったので、トナーは主催者である公民館が買ってくれました。
次に教育委員会、翌年は商業高校で情報教育アドバイザーというなんとも微妙な職業。
この頃には小泉純一郎内閣になり、「緊急雇用対策」という、主に失業者の救済を目的として、技術者に仕事を斡旋する制度ができました。
私は失業者ではありませんでしたが、条件に外れていないことから数か所、その制度を利用して仕事をいただいて事業収入の一部に充てていました。
臨時雇用対策の補助金を遣うには、一人一事業所に一年限りという決まりがあります。そのため、毎年職場を変わるしかありませんでした。
その昔、職業訓練校ってありました。通称:職訓(しょっくん)です。
今では法の改正によって、職業能力開発校として、その施設を使っています。
次に私は縁があり、その開発校である職業能力開発センターに数年お世話になりました。
やりがいのある仕事、私にとって「天職」だと感じた仕事はそこにありました。
そこではIT講座が主体です。
Word、Excel、ときにAccess。
ここでは長いときだと通年、講義が多いときだと朝9時から夜8時まで仕事がありました。
IT以外にも「接客接遇」や「体育」もありました。
接客接遇はある意味、難しく、またある意味、ゲームみたいな授業です。
例えば、お辞儀の角度とか、お辞儀をするときに首を曲げてはいけないとか。
名刺を差し出す動きとか受け取る作法とか。
応接室や車、列車の中でどこが上座でどこが下座だとかいう一般常識。
また
「いつ誰と誰が何をしてどうなったか」という状況を設定し、6人ほどのグループで伝言ゲームをするとか。
またあるときはパズルをしたり。
その中に、敬語の授業がありました。
私が敬語にこだわるのも、そこでの経験が少なくはないと思います。
接客接遇の授業をする前、わたくしたち講師陣に講義をしてくれた人がいます。
講義は確か二日間だったと思います。
初日、初対面で名刺を交換して自己紹介を受けたとき、その講師は
「私、当年取って○○歳です。」
といいます。
それにしては若い。ずいぶんと若く見える。
実は、
「当年(とうねん)取って」
ではなく、
「10年(とうねん)取って」
だと言います。
○○歳でなく、○○歳+10歳ということ。
「は〜〜、、」
私は講師がすべったなと思いました。
でも講師は講師だから、誰も文句は言いません。
キャリアのある素晴らしい講師であるはずが、初日から台無しだと思いました。
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