2020年06月16日
残り銭
先日NK国にお嬢さまを拉致されたかたがお亡くなりされました。
さぞご無念だったろうとお悔やみ申し上げます。
一昨日です。朝、寝床で目を覚ましたとき、ふとそのご夫婦の年齢が浮かびました。
ご本人は87歳。奥様は84歳。
私が50歳になったとき、今まで経験したことのない、ちょっとした革命が起こりました。
それは、私が死ぬまでに残された時間を考えるようになったことです。
私の日課で毎朝、新聞を眺めます。そのとき必ず“おくやみ欄”に目を通します。
おくやみ欄には没年齢が書いてあります。50という年齢はキリのいい数字だから、引き算がし易いのです。
すると、例えば78歳で亡くなった人を見れば、私がもし同じ年齢で亡くなるのなら、私の残り時間はあと28年ということです。これはまだ30代だった頃にはまったく考えもしなかったことです。
あの頃は寿命を考えても、自分には当てはめませんでした。
自分はいつか死ぬとわかっていても、残りの人生はまだ無限にあるような気がしていました。
10代で中学の友人が事故で亡くなり、30代でガンで亡くなってもそれは、イレギュラーなこととして収めてきたからです。
同時に、半世紀以上生きていれば時間の過ぎる速さに慣れてしまいます。光陰矢の如しです。
小学校中学年のとき、たった2年前のことを懐かしいと感じました。
それが今では10年前でも昨日のようです。
恥ずかしい話、若者からすると15年前の歌、レミオロメンの「粉雪」は懐かしい歌なのでしょう。
そりゃ、もう立派に働いている年代でもまだ中学生頃の歌だから。
ですが私からすると、最近の歌なんです。
そのように、過去の時間は圧縮されたように感じるから、自分に残された時間も同じ感覚でとらえると、あと生きていられる時間というのも、光陰矢の如しではないのかと思います。
これを寝床で考えていると、なんか人生が財布の中のお金のように思えてきました。
たとえば財布の中に始めは10万円入っていたとします。
その所持金で旅に出ます。
どこかレストランかファーストフード店でも良いでしょう。
1000円くらいの食事を摂って残り9万9千円。まだまだ大丈夫です。
それが日数もそこそこ経ち、残りの所持金が3万円くらいになると焦ります。
日常生活なら給与が入るでしょうから、また所持金は充当されます。
でも旅行であれば、そんなことはありません。
人生だって同じ。
たとえ善行があっても、寿命が追加されることはありません。
そう考えていたら、人生がサイフに残った残金のように思えてきました。
ただ、残金は増えなくても価値観を変えることはできます。
残りの人生30年でも20年でも日々をダラダラ過ごせばきっと、あっという間の人生でしょう。
一日一日を大切に過ごすことができれば、生涯に納得した終わりを迎えることができると思います。
と、いまダラダラ生きています。
明日は頑張るぞ!と。
タグ:残りの人生
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