2013年08月15日
「観る」ことの大切さ
レゴランド・ディスカバリー・センター東京で見た作品、プロのビルダーの方たちが制作した作品、、みんなどれも素晴らしいですね。
これらの素晴らしい作品には、みな共通点があるように感じます。
どの作品でも、対象の特徴をよく捉えていて、僕たちなら見過ごしてしまうようなところを、きちんと作品の中に反映させていることです。
人によって程度の差はありますが、乗り物でも、動物でも、僕たちは日頃接するものについて、イメージはもってはいますが、全てをよく観察しているわけではありません。
それでいて、それらについて、よく知っているかのように考えてしまう。
だから、いざ作品を作ろうとして、戸惑うのです。
「あれっ?○○って、どんなんだったっけ?」と。
或いは限りなくボンヤリした印象だけしかなくて、どう表現したらよいのかわからない。
‥結局イメージはあっても、対象の特徴や本質を掴んでいないのです。
これはすなわち、「見る」ことと「観る」ことの違いでしょう。
「見る」とは、情報が、ただ何となく目に入ってきているだけで、そこには新しい発見も、問題意識もありません。機械的に目に映っているだけのことです。
一方の「観る」は、その対象の特徴は何か、本質は何かを問い詰め、理解することを指します。
娘は絵を描くのも好きなので、深センの地元で絵も習わせています。そこの先生もおっしゃっていましたが、大切なのは、絵を描くテクニックもさることながら、対象物をよく観察する目を養うことなのだそうです。すなわち「観る」ことなのです。
もちろん、隅から隅まで観察して、何でも正確に表現すればいい作品になる、ということではないでしょう。第一、正確に反映させる、というのは自ずと限界があります。絵でも、彫刻でも、もちろんレゴだって同じです。
そうではなく、作品を上手に組み立てる人は、対象を「観て」、その対象が対象たる特徴・本質のポイントを的確に掴んで、うまい具合に表現できているのだと思います。
だから、対象についてボンヤリしたイメージしかもっていなかった僕たちでも、上手な作品を目の当たりにすると、「あっ、○○だ。」と瞬時に理解できるのです。
逆にいえば、作品の中で特徴・本質さえ上手に表現できていれば、後はおまけになります。
ずっと昔、僕が中学生の頃、美術の教科書に外国人の彫刻で「犬」という作品が載っていたのを覚えています。
作品自体は細い針金を数本組んだだけで、質感も何もあったものではありませんでした。
しかしその数本の針金だけで、犬が道端のエサを求めてクンクン嗅ぎまわっている、弱々しさ,頼りなさがよく表現されていて、今にも歩き出しそうでした。一目見ただけで「あっ犬だ。」と感じたのを覚えています。
これは犬の特徴・本質だけを残し、余計なモノを一切とりのぞき、これ以上削ったら、もう作品を壊してしまう、と思われるほどにつきつめた作品の例です。
大した材料も用いていないのに、「観る」者に犬以外の何物でもないという、強烈な印象を植え付ける作品でした。
つまり特徴・本質を掴んでいれば、後のモノはおまけになります。たとえあったとしても、無いも同然になる。
以前聞いた、人形浄瑠璃の話を思い出しました。
ご存知の通り、人形浄瑠璃では、黒子が後ろから人形を動かします。
素人目で「見る」と、舞台の上で小さい人形と何人もの黒子が一緒に動きまわっていて、なんだか落ち着かない。
しかし本当に達人の域に達した人形浄瑠璃では、黒子が「観え」なくなることがあるそうです。別に黒子がうまく立ち回って、巧みに自分の姿を隠しているわけではありません。黒子はあきらかにそこにいて、人形を操っているにもかかわらず、です。
何度もいいますが、何から何まで正確に作る、というのには限界があります。
レゴのパーツをみてください。パーツの上面はデコボコですよ(タイルパーツをつければツルツルになるかもしれませんが)、これ、一つの限界です。
でも、本当に特徴・本質を捉えた作品は、そんな限界を超越してしまいます(限界を超越するには、もう一つ「観る」者の直観力も重要なのですが、この話題はまた後日)。要はそこまで特徴・本質を捉えて作品に表現できるかどうか、が問題なのです。
それさえ出来れば、黒子だって「観え」なくなるのですから、レゴのデコボコなんて、あってもなくても関係ありません。
僕は、子供たちにレゴを買い与えるにしても、基本パーツを多くして、ある目的をもって形作られたパーツ(フィギュアや木の枝パーツや飛行機のエンジンパーツなど)はなるべく少なくしたいと思っています。
もちろん、お姫様のフィギュアを買ってあげれば娘は喜ぶでしょう。
でもそれでは娘が自分でお姫様を「観て」、自分のお姫様を作る機会を奪ってしまうことになる。
僕は娘が、「お姫様ってどうしてきれいなのだろう?」と自分で考えて、お姫様を「観て」、自分なりに答えを出してもらいたいと思っています。
息子が、「怪獣ってどうしてこわいのだろう?」と自分で考えて、怪獣を「観て」、そのこわさを組み立ててもらいたいと思っています。
もし娘の作ったお姫様が本質をついているなら、息子の組んだ怪獣が特徴を捉えているなら、デコボコした基本パーツだけで作られた作品でも、そんなことは気にならないはずです。
そんな作品を組み立てることができたなら、僕は「かわいいっ!」,「こわいっ!」と言って、子供たちを褒めまくるつもりです。
もちろん、このブログにも掲載して皆さんに「観て」もらえればと思います。
「観る」ことの重要性は、もちろんレゴに限った話ではありません。絵画,彫刻,音楽(音楽では「観る」とはいわないかもしれませんね)、芸術分野のみならず、日常生活の多くの場面で役に立つ素晴らしい能力だと思います。
レゴを単なる子供の頃の遊び、というだけで終わらせてしまうのはもったいない。
子供たちには、レゴ遊びを通じて、「観る」ことの大切さと素晴らしさを学んでくれたら、と願ってやみません。
これらの素晴らしい作品には、みな共通点があるように感じます。
どの作品でも、対象の特徴をよく捉えていて、僕たちなら見過ごしてしまうようなところを、きちんと作品の中に反映させていることです。
人によって程度の差はありますが、乗り物でも、動物でも、僕たちは日頃接するものについて、イメージはもってはいますが、全てをよく観察しているわけではありません。
それでいて、それらについて、よく知っているかのように考えてしまう。
だから、いざ作品を作ろうとして、戸惑うのです。
「あれっ?○○って、どんなんだったっけ?」と。
或いは限りなくボンヤリした印象だけしかなくて、どう表現したらよいのかわからない。
‥結局イメージはあっても、対象の特徴や本質を掴んでいないのです。
これはすなわち、「見る」ことと「観る」ことの違いでしょう。
「見る」とは、情報が、ただ何となく目に入ってきているだけで、そこには新しい発見も、問題意識もありません。機械的に目に映っているだけのことです。
一方の「観る」は、その対象の特徴は何か、本質は何かを問い詰め、理解することを指します。
娘は絵を描くのも好きなので、深センの地元で絵も習わせています。そこの先生もおっしゃっていましたが、大切なのは、絵を描くテクニックもさることながら、対象物をよく観察する目を養うことなのだそうです。すなわち「観る」ことなのです。
もちろん、隅から隅まで観察して、何でも正確に表現すればいい作品になる、ということではないでしょう。第一、正確に反映させる、というのは自ずと限界があります。絵でも、彫刻でも、もちろんレゴだって同じです。
そうではなく、作品を上手に組み立てる人は、対象を「観て」、その対象が対象たる特徴・本質のポイントを的確に掴んで、うまい具合に表現できているのだと思います。
だから、対象についてボンヤリしたイメージしかもっていなかった僕たちでも、上手な作品を目の当たりにすると、「あっ、○○だ。」と瞬時に理解できるのです。
逆にいえば、作品の中で特徴・本質さえ上手に表現できていれば、後はおまけになります。
ずっと昔、僕が中学生の頃、美術の教科書に外国人の彫刻で「犬」という作品が載っていたのを覚えています。
作品自体は細い針金を数本組んだだけで、質感も何もあったものではありませんでした。
しかしその数本の針金だけで、犬が道端のエサを求めてクンクン嗅ぎまわっている、弱々しさ,頼りなさがよく表現されていて、今にも歩き出しそうでした。一目見ただけで「あっ犬だ。」と感じたのを覚えています。
これは犬の特徴・本質だけを残し、余計なモノを一切とりのぞき、これ以上削ったら、もう作品を壊してしまう、と思われるほどにつきつめた作品の例です。
大した材料も用いていないのに、「観る」者に犬以外の何物でもないという、強烈な印象を植え付ける作品でした。
つまり特徴・本質を掴んでいれば、後のモノはおまけになります。たとえあったとしても、無いも同然になる。
以前聞いた、人形浄瑠璃の話を思い出しました。
ご存知の通り、人形浄瑠璃では、黒子が後ろから人形を動かします。
素人目で「見る」と、舞台の上で小さい人形と何人もの黒子が一緒に動きまわっていて、なんだか落ち着かない。
しかし本当に達人の域に達した人形浄瑠璃では、黒子が「観え」なくなることがあるそうです。別に黒子がうまく立ち回って、巧みに自分の姿を隠しているわけではありません。黒子はあきらかにそこにいて、人形を操っているにもかかわらず、です。
何度もいいますが、何から何まで正確に作る、というのには限界があります。
レゴのパーツをみてください。パーツの上面はデコボコですよ(タイルパーツをつければツルツルになるかもしれませんが)、これ、一つの限界です。
でも、本当に特徴・本質を捉えた作品は、そんな限界を超越してしまいます(限界を超越するには、もう一つ「観る」者の直観力も重要なのですが、この話題はまた後日)。要はそこまで特徴・本質を捉えて作品に表現できるかどうか、が問題なのです。
それさえ出来れば、黒子だって「観え」なくなるのですから、レゴのデコボコなんて、あってもなくても関係ありません。
僕は、子供たちにレゴを買い与えるにしても、基本パーツを多くして、ある目的をもって形作られたパーツ(フィギュアや木の枝パーツや飛行機のエンジンパーツなど)はなるべく少なくしたいと思っています。
もちろん、お姫様のフィギュアを買ってあげれば娘は喜ぶでしょう。
でもそれでは娘が自分でお姫様を「観て」、自分のお姫様を作る機会を奪ってしまうことになる。
僕は娘が、「お姫様ってどうしてきれいなのだろう?」と自分で考えて、お姫様を「観て」、自分なりに答えを出してもらいたいと思っています。
息子が、「怪獣ってどうしてこわいのだろう?」と自分で考えて、怪獣を「観て」、そのこわさを組み立ててもらいたいと思っています。
もし娘の作ったお姫様が本質をついているなら、息子の組んだ怪獣が特徴を捉えているなら、デコボコした基本パーツだけで作られた作品でも、そんなことは気にならないはずです。
そんな作品を組み立てることができたなら、僕は「かわいいっ!」,「こわいっ!」と言って、子供たちを褒めまくるつもりです。
もちろん、このブログにも掲載して皆さんに「観て」もらえればと思います。
「観る」ことの重要性は、もちろんレゴに限った話ではありません。絵画,彫刻,音楽(音楽では「観る」とはいわないかもしれませんね)、芸術分野のみならず、日常生活の多くの場面で役に立つ素晴らしい能力だと思います。
レゴを単なる子供の頃の遊び、というだけで終わらせてしまうのはもったいない。
子供たちには、レゴ遊びを通じて、「観る」ことの大切さと素晴らしさを学んでくれたら、と願ってやみません。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image