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2021年07月25日
運気を磨く
「シンクロニシティ」( synchronicity)とは、人生において「不思議な偶然の一致」が起こることであるが、良いタイミングで、このシンクロニシティが起こることも、「良い運気」の表れである。 例えば、「こうした情報が欲しい」と思っていると、たまたま手にした雑誌の偶然開いたページに、その情報が載っているといったことも人生において起こるが、これも「良い運気」の表れであると言える。
「コンステレーション」( constellation)とは、「星座」という意味の英語であるが、我々が夜空を見上げるとき、そこに見える星々は、それぞれ、全く関係のない星である。しかし、我々は、それらの星々の配置に「意味」を感じ、「物語」を感じ、オリオン座や蠍座といった形で、それを「星座」として呼ぶ。 同様に、「コンステレーション」を感じるとは、人生で起こる、一見、無関係な出来事や出会いに、何かの「意味」や「物語」を感じ、その意味や物語に従って選択や行動をすると、良い方向に導かれることであり、これも「良い運気」の表れである。
自らの人生で、大きな「運気」の分かれ目を体験した人間は、 他者の「運気」の強さも、敏感に感じ取ることができる。世の中で「成功者」と呼ばれる人々は、分野を問わず、職業を問わず、人生と仕事の様々な場面で、無意識に「運気」を感じ、「良い運気」を引き寄せ、その好機を掴む力を持っていたのである。
第三の理由は、実は、これが最も重要な理由であるが、人間同士のコミュニケーションの八割は、「ノンバーバル」(非言語的)だからである。 すなわち、コミュニケーションには、「言葉で伝わるメッセージ」(バーバル・メッセージ)以外に、眼差しや目つき、表情や面構え、仕草や身振り、空気や雰囲気といった「言葉以外で伝わるメッセージ」(ノンバーバル・メッセージ)があり、実は、後者は、コミュニケーションの八割以上を占めているのである。
「ウェット・ブランケット」(濡れた毛布)と揶揄されるリーダーである。「ウェット・ブランケット」とは、家庭などで小火が生じたとき、濡れた毛布を掛けて火を消してしまうことからの隠喩であるが、たしかに世の中には、部下やメンバーがやる気を出し、情熱を持って何かのアイデアや提案を出しても、そのアイデアや提案の問題点を冷ややかに指摘し、部下やメンバーのやる気を削ぎ、情熱の「火」に水をかけて消してしまうリーダーがいる。
我々の無意識の世界に、「自分ならできる」「自分は価値ある人間だ」といった「自己肯定意識」や「自己尊重意識」があると、そのポジティブな想念が、人生において幸運と見える出来事を引き寄せ、「良い運気」を引き寄せていく。
世の中で「天才」と呼ばれる人々は、この「潜在能力」を、普通の人の何倍も開花させた人々に他ならない。それゆえ、我々も、もし心の中のネガティブな想念を消し、心をポジティブな想念で満たすことが十全にできるならば、同様の才能を開花させる可能性があるのである。
自分の無意識の世界に働きかけようと思うならば、「意識的な自己暗示」は、実は、あまり無意識の世界に浸透していかないが、「無意識的に使う日常言葉」は、恐ろしいほどに無意識の世界に浸透していくことを理解する必要がある。
第三の「感動」の言葉とは、素晴らしい自然などに触れたとき、その感動を表現する言葉である。 例えば、「素晴らしい星空だ!」「爽やかな風だ!」「最高の夕焼けだ!」といった言葉である。 生物学者、レイチェル・カーソンの遺した言葉に「センス・オブ・ワンダー」(Sense of Wonder)という有名な言葉があるが、「感動する心」とでも訳すべきこうした感覚を、我々は大切にするべきであり、それを言葉にして語ることをためらう必要はないだろう。
無意識の世界を浄化していくためには、ネガティブな日常言葉を使わないことに加え、ポジティブな日常言葉を使うことが大切であるが、その一つの技法は、「感嘆」「感謝」「感動」の「三つの感」の言葉を大切にすることである。 そして、最初は、こうした言葉を、日常生活において意識的に使うようにする必要があるが、まもなく、それが「習慣」になったとき、自然に口を衝いて出るようになっていく。そのとき、こうしたポジティブな言葉が、我々の無意識の世界に浸透するようになっていき、同時に、無意識の世界のネガティブな想念を浄化するようになっていくだろう。
この「言葉」と「心」の関係を考えるとき、もう一つ、我々が理解しておくべき大切なことがある。それは、仏教思想で語られる「身心一如」という考えである。 すなわち、我々の「心」と「身体」は、本来、一つであり、「心」が「身体」の姿勢を変えると同時に、「身体」が「心」の姿勢を変えるのである。 同様に、「言葉」を広義の「身体」と考えるならば、「心」の状態が、語る「言葉」を変えるだけでなく、語る「言葉」が「心」の状態を変えていく。 これを分かりやすく言えば、我々は、「有り難い」という心を抱くから、「有り難う」という言葉を発するが、逆に、「有り難う」という言葉を発するから、心が「有り難い」という状態になるのも、一面の真実である。
「心の世界」で、一人一人と和解することである。 すなわち、「現実の世界」ではなく、「心の世界」で、それらの人々と和解していくのである。
昔から語られる格言に「感謝は、すべてを癒す」という言葉があるが、その言葉通り、この「感謝」の言葉を用いる技法は、劇的にではないが、静かに、我々の傷ついてしまった人間関係を癒していく。そして、何よりも、我々の心を癒していく。
我々は、人生を振り返るとき、「与えられたもの」よりも「与えられなかったもの」に目が向く傾向がある。「成功したこと」よりも「失敗したこと」に気持ちが向かってしまう傾向がある。それが、我々の心の中にネガティブな想念が生まれてしまう大きな原因になっているため、この人生の振り返りと、ささやかな成功体験の棚卸しを丹念に行っていくだけで、我々の想念は、少しずつポジティブになっていく。
いかなる逆境が与えられても、いかなる挫折が与えられても、我々は、その逆境や挫折を糧として、「成長」していける。 そして、その「成長」をしっかりと掴むことができるならば、我々は、いかに「不運に見える出来事」や、いかに「痛苦な失敗体験」であっても、それを単なるネガティブな体験に終わらせることなく、必ず、素晴らしいポジティブな体験に変えていくことができる。
「この出来事は、自分に、何を気づかせようとしているのか」 「この出来事は、自分に、何を学べと教えているのか」 「この出来事は、自分に、いかなる成長を求めているのか」 そして、人生において、どのような「不運に見える出来事」が与えられても、こうした問いを胸に抱き、その出来事を成長の糧とすることができるならば、その「不運に見える出来事」も、実は、「幸運な出来事」であることに気がつくだろう。
我々は、いかなる過去の「不運に見える出来事」も、それを自らの成長に結びつけることによって、「幸運な出来事」に変えることができる。そして、いかなる過去の「失敗体験」も、それを自身の成長の糧とすることによって「成功体験」に変えることができる。
それは、次の「五つの覚悟」を定めた人生観を体得していく技法であり、この「五つの覚悟」を、順に一つ一つ定めていく技法である。 第一の覚悟 自分の人生は、大いなる何かに導かれている、と信じる 第二の覚悟 人生で起こること、すべて、深い意味がある、と考える 第三の覚悟 人生における問題、すべて、自分に原因がある、と引き受ける 第四の覚悟 大いなる何かが、自分を育てようとしている、と受け止める 第五の覚悟 逆境を越える叡智は、すべて、与えられる、と思い定める
自分の人生は、大いなる何かに導かれている。 大いなる何かは、自分の人生を、 必ず、良き方向に導こうとしている。 それゆえ、もし、この「全託の祈り」の結果が、 自分の願望と違う方向になったとしても、 それも、深い叡智を持った大いなる何かの導き。 その導きの意味を深く考えながら、 与えられた問題や逆境に正対し、力を尽くし、 さらなる成長を目指して歩んでいくならば、 必ず、素晴らしい人生が導かれていく。
本書の思想は、いかにして「ネガティブな想念」「ネガティブなもの」「不運な出来事」を否定していくかという思想ではなく、本来、我々の人生においては、「ネガティブな想念」も「ネガティブなもの」も「不運な出来事」も無い、という「全肯定」の思想、すなわち、「絶対肯定」の思想を述べている。
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動じない「心のコツ」
身のまわりの出来事に心が引っ張られることはあります。ウナギの匂いを嗅いで美味しそうだと心が揺れるのは当たり前のこと。しかし、その思いをいつまでも引っ張ってはいけないということです。いつまでもそこに心を留めていれば、心はずっと揺れ続けることになるのです。この一休さんの教えこそが、動じた心の揺れを小さくする方法なのです。
大切なことは、一時の感情に身を委ねないことです。日々に湧き出てくる喜怒哀楽の感情。それらを上手に受け流す術を身につけることです。
来る日も来る日も同じ仕事をこなしている。昨年の今ごろと同じことをしている。動揺することもない代わりに、変化が心を揺さぶることもない。いわゆる「マンネリ」という状態です。しかし、マンネリを感じるということは、すなわち自分自身が成長しているということなのです。その成長を喜ぶ気持ちを持つことです。
坦々とした日常生活を送れることに感謝をすることです。無暗に変化や刺激ばかりを求めないで、日々の中に幸せを感じることです。それこそが動じない心を持って生きることだと私は思っています。 私たちは日々変化していることを知ってください。一日が経つごとに、確実に死に近づいているのです。確実に一日分身体は変化している。この世に変わらないものなど何もありません。すべてのものは常に移ろいでいます。
たとえ不得手な仕事があったとしても、それをカバーして余りあるほどの得意なものがあれば、その言葉は受け流すことができるものです。このように、他人からの言葉がグサリと心に突き刺さるか否かは、結局はあなた自身の問題であることを知ってください。
人間はもともと孤独な存在です。生まれるときも死ぬときも独りです。会社の中にいて、たくさんの同僚たちに囲まれていたとしても、それは単なる現象に過ぎません。いかに多くの人の中に身を置いていても、最終的には自分一人であることを心に留めておくことです。 そして孤独であることは、けっしてマイナスのことではありません。孤独であることを意識するからこそ、相手との人間関係を大切にしようとするのです。孤独だからこそ互いの心を寄せ合おうとする。表面的な孤独を恐れないようにすることです。
「私は本を読むのが大好きなの。だから書店に行って、お気に入りの本を見つけたとき、値段を気にすることなく買うことができる。それだけで十分だし、それが私の幸せなの」 見栄というのは虚飾に過ぎません。虚飾はいずれ剝がれ落ちてしまうもの。そしてそれが剝がれ落ちたとき、心には大きな動揺が襲ってきます。不要な見栄が心を動じさせることになるのです。
あなたが今向き合っている仕事。その中には必ず喜びがあります。その喜びに気づくためにも、自らが主体となって取り組むことです。「やらされている」という思いが、心のイライラを生み出しているのです。
真の「本音」というのは、いわば自分自身の信念のようなものだと私は思っています。人生を歩いていくための芯になるようなもの。それこそが「本音」であり、そこには不要な感情は存在しません。その芯こそを相手に伝えることです。自分は何のためにこの仕事をしているのか。この仕事に対する思いはどこにあるのか。その芯さえ共有できていれば、細かな仕事の方法など些末なことです。
まずは行動に移すことです。「禅即行動」という言葉がありますが、頭であれこれと考えないで、まずは行動することです。それこそが大切なことだと禅は教えています。仕事は、とにかく始めなければ何も進みません。
さて、その休日に何もすることがないという人がいます。それはまったくの噓です。何もすることがないのではなく、単に自分自身ですることを探していないだけなのです。趣味がないという人は、趣味を見つける行動を起こしていないだけです。「何もすることがない」。そんな状態が人間にあるはずはないのです。 では、どのようにすればすることが見つかるのでしょうか。答えは簡単です。それは身体を動かすということです。家の中でじっとテレビを眺めているのではなく、近所に散歩にでも出かけてみることです。会社に行く道のりで、毎日通るのですが降りたことのない駅がある。そうであるならばその駅で降りてぶらぶらしてみること。商店街の店にぶらっと入り、並んでいる商品を手に取ってみること。それだけでも、家に閉じこもっているよりは百倍も人生が楽しくなるものです。
人間には、前を向いて歩くという力が与えられています。どんなに辛く悲しいことがあっても、必ず前に進む力が湧いてくるものです。それは人間が本来持っている生きる力なのです。悲しみに慟哭する時期がある。それでも、それを卒業しなければいけない時期もあるのです。「卒哭忌」とはそういう時期をさしているのです。
「一切唯心造」という禅語があります。「すべての現象は、実は私たちの心がつくり出しているもの」という意味です。心がつくり出す幻想に惑わされることなく、今という時間を一生懸命に生きることです。
禅の中に「威儀即仏法」という言葉があります。自らの身なりを整えることが仏法の始まりという意味です。 どんな服装をしようが自由だ。これもファッションなのだ。そう考えるのは自由です。しかし現実には、やはりだらしのない格好をしている人は信用されません。
「形直ければ影端し」という禅語があります。真っ直ぐな姿勢をしていれば、その影までも美しく見えるということ。形というのは自らの立ち居振る舞いを表わし、影というのは心を表わしているのです。姿勢を正すことで、心もまた整ってくる。そして心が整えば、余計なことに動じることもなくなります。
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