詳細レポートの第2回目は「 14/10/12(日)16:10〜17:40『銀河鉄道999』原作者・松本零士 × 声優・池田昌子(メーテル役)特別トークショウ」だ。記憶とメモを頼りに私が見聞きした内容を書き起こしているので間違いがあったらその時は勘弁して頂きたい。(敬称略)
《メーテルのモデル》
・子供の頃八千草薫のブロマイドを模写してお守りとしていた。
・ひいおばあさんの感光版が見つかり、メーテルに似ていたので驚いた。どうやら幼い頃にその写真を見ていたらしい。
・この2人のがメーテルのモデルで、この女性キャラをヒロインとした『機械化美人の生涯』という漫画を描いた。
・東海道新幹線の横浜や東京のアナウンスは池田さんの声に似ていると常々思っている。
・メーテルは千年女王の娘でエメラルダスと双子の姉妹と言う設定は連載時からあった。
・メーテルは普段は優しいが起こると怖いと言う私の憧れの女性像となっている。
《アフリカ旅行》
・テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は全36話の予定だったが視聴率の低迷で26話打ち切りとなった。その為時間が出来たので『銀河鉄道999』を5話分描いてアフリカへライオンと対決に行った。
・アフリカでうっかり国境を越えてしまい警備隊に摑まった。危険な状態だったが観光客と分かってもらえてキリマンジャロの麓で彼らと宴会を行った。
・帰国したら『銀河鉄道999』の評判が良く連載が決まった。
・私は昭和13年(1938年)生まれなので13がラッキーナンバーだ。9とか13という数字をタイトルに使った漫画を多く描いている。
《メーテルの声優として:池田昌子談》
・当時のアニメのヒロインに中で『銀河鉄道999(1978年)』のメーテルは大人の女性なので可愛い声を出せない私にも演じることが出来ると思った。
・メーテルを演じることになってイメージを壊すことにならないか不安があった。
・声優は出演アニメの視聴率は気にしていない。
・メーテルは大きな声で笑わないよう指導はあった。メーテルの年齢や生い立ちついて監督や松本先生から何も知らされておらず、悩みつつ演じていた。
《子供の頃》
・不発弾を見つけて爆発させようと叩いたりして遊んだ。
・戦争中は戦闘機の機関銃に狙われたことがある。
・走ってくる機関車の前に立ち何メートルまで逃げずにいられるか友達と競っていた。5メートルまで頑張ったら機関士にカンカンに怒られた。
・漁師の友達から泳ぎ方を教わり海流の速い海でも泳げるようになった。
《漫画家デビュー》
・漫画家プロデビューは少女漫画だった。少年誌は既に大御所が連載していたのがその理由で「雪国のマリア」といった作品を描いた。
・少女漫画で若手の女性漫画家の育成を手伝っていたら彼女らに仕事が回る様になり失業しそうになった。
・その頃少年漫画週刊誌創刊ブームが起きて私にも仕事が回ってくるようになり助かった。
《アニメとの出会い》
・5歳の時『くもとちゅうりっぷ(1943年)』が1週間だけ明石市で上映された。1日中映画館に籠って観ていた。
・同じ日、同じ映画館で15歳の手塚治虫少年も同作品を観ていたと言う偶然を大人になってから知った。
・他にアニメ映画では『イワンと仔馬(1947年)※』『バッタ君 町に行く(1941年)』を観て育った。
(※松本先生は『仔馬物語』と仰ったがそのタイトルのアニメ作品は無かったのでこちらと推測する。)
《思い出の映画》
・『風と共に去りぬ(1939年)』でインターミッション前にスカーレットのアップから影になるまで遠ざかるシーンがあるが、これをどう撮影したのかハリウッドの関係者に尋ねたところ、あのシーンはディズニーが制作したアニメと知った。
・『若草物語(1949年)』で貧しい生活の中次女のジョーが「私には小説がある」と言うシーンがあるが、私もデビュー前には「私には漫画がある」という信念で貧しさに耐えた。
・『わが青春のマリアンヌ(1955年)』に1番影響を受けた。原作小説の題名は『痛ましきアルカディア』だ。
・テレビ放送時の吹き替えは偶然池田さんが担当した。(池田さん談)
『ヤマノススメ』の新井先生の講義も同じだったが、ファンが集まったイベントはノリと反応が良く参加していて実に楽しい。拍手も暖かく本当に充実した時間を過ごさせてもらった。
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