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2014年02月07日
リグ・ヴェーダ
リグ・ヴェーダ』(ऋग्वेद Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語(英語: Vedic Sanskrit)で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。
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1 呼称
2 歴史
3 内容
4 日本語訳
5 脚注
6 関連項目
呼称[編集]
中国語では「梨倶吠陀」と表記され、日本語文献でも用いられた事がある。
歴史[編集]
古代以来長らく口承され、のち文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(聖者・聖仙)たちによって感得されたものとされる。中央アジアの遊牧民であったインド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀ころにまで遡る歌詠を含む。
紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された[1]。
内容[編集]
中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる。9巻はこれらとは大きく異なり、神酒ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。 讃歌の対象となった神格の数は非常に多く[2]、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。しかし、他方でリグ・ヴェーダの終末期には宇宙創造に関する讃歌を持つにいたり、ウパニシャッド哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している[3]。
後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃より紀元前600年頃まで)に続くヴェーダとして『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の三つが編纂される。付属文典として『ブラーフマナ』(『祭儀書』)、『アーラニヤカ』(『森林書』)、『ウパニシャッド』(『奥儀書』)が著された。
日本語訳[編集]
辻直四郎訳注『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波文庫、初版1970年
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1 呼称
2 歴史
3 内容
4 日本語訳
5 脚注
6 関連項目
呼称[編集]
中国語では「梨倶吠陀」と表記され、日本語文献でも用いられた事がある。
歴史[編集]
古代以来長らく口承され、のち文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(聖者・聖仙)たちによって感得されたものとされる。中央アジアの遊牧民であったインド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀ころにまで遡る歌詠を含む。
紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された[1]。
内容[編集]
中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる。9巻はこれらとは大きく異なり、神酒ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。 讃歌の対象となった神格の数は非常に多く[2]、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。しかし、他方でリグ・ヴェーダの終末期には宇宙創造に関する讃歌を持つにいたり、ウパニシャッド哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している[3]。
後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃より紀元前600年頃まで)に続くヴェーダとして『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の三つが編纂される。付属文典として『ブラーフマナ』(『祭儀書』)、『アーラニヤカ』(『森林書』)、『ウパニシャッド』(『奥儀書』)が著された。
日本語訳[編集]
辻直四郎訳注『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波文庫、初版1970年
ヤジュル・ヴェーダ
ヤジュル・ヴェーダ (yajurveda, यजुर्वेद)とは、バラモン教の聖典であるヴェーダの一つ。
概要[編集]
祭式において唱えられるヤジュス(yajus 「祭詞」)を収録したもの。yajur とは yajus の音便である。 祭式において行作を担当するアドヴァリユ祭官(adhvaryu)によって護持されてきた。
ヤジュスとは、祭式の効力が現れる事を祈って、神格や祭具、供物などに一定の行作と共に呼びかける言葉で、多くは散文で書かれている。祭式の作法や供物の献呈方法など祭式の実務が詠まれている。
成立年代は、紀元前800年を中心とする数百年間と推定されている。 伝承によれば、かつては86あるいは101の流派に分かれて伝承されていたというが、現存するのはこのうちの数種である。
分類[編集]
『ヤジュル・ヴェーダ』はまた、その形式によって『黒ヤジュル・ヴェーダ』(Krishna Yajurveda)と『白ヤジュル・ヴェーダ』(Shukla Yajurveda)の2種に大別される。
『黒ヤジュル・ヴェーダ』は、一つの文献の中に、本文であるサンヒターとその注釈・解説であるブラーフマナが混在している。 一方『白ヤジュル・ヴェーダ』は、サンヒターとブラーフマナが分離してそれぞれ独立した文献となっている。そのため、『黒ヤジュル・ヴェーダ』は『白ヤジュル・ヴェーダ』よりも古く成立したと考えられている。
関連項目[編集]
ヴェーダ
リグ・ヴェーダ
サーマ・ヴェーダ
アタルヴァ・ヴェーダ
概要[編集]
祭式において唱えられるヤジュス(yajus 「祭詞」)を収録したもの。yajur とは yajus の音便である。 祭式において行作を担当するアドヴァリユ祭官(adhvaryu)によって護持されてきた。
ヤジュスとは、祭式の効力が現れる事を祈って、神格や祭具、供物などに一定の行作と共に呼びかける言葉で、多くは散文で書かれている。祭式の作法や供物の献呈方法など祭式の実務が詠まれている。
成立年代は、紀元前800年を中心とする数百年間と推定されている。 伝承によれば、かつては86あるいは101の流派に分かれて伝承されていたというが、現存するのはこのうちの数種である。
分類[編集]
『ヤジュル・ヴェーダ』はまた、その形式によって『黒ヤジュル・ヴェーダ』(Krishna Yajurveda)と『白ヤジュル・ヴェーダ』(Shukla Yajurveda)の2種に大別される。
『黒ヤジュル・ヴェーダ』は、一つの文献の中に、本文であるサンヒターとその注釈・解説であるブラーフマナが混在している。 一方『白ヤジュル・ヴェーダ』は、サンヒターとブラーフマナが分離してそれぞれ独立した文献となっている。そのため、『黒ヤジュル・ヴェーダ』は『白ヤジュル・ヴェーダ』よりも古く成立したと考えられている。
関連項目[編集]
ヴェーダ
リグ・ヴェーダ
サーマ・ヴェーダ
アタルヴァ・ヴェーダ
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド
『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(英語綴り Brihad-Aranyaka Upanishad)は、ウパニシャッドの1つ。『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる文献のひとつで、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる[1]。
思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などを含む。
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1 内容
2 日本語訳 2.1 全訳
2.2 抄訳
3 脚注・出典
4 関連項目
内容[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
日本語訳[編集]
全訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
脚注・出典[編集]
思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などを含む。
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1 内容
2 日本語訳 2.1 全訳
2.2 抄訳
3 脚注・出典
4 関連項目
内容[編集]
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日本語訳[編集]
全訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
脚注・出典[編集]
アートマン
アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
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1 概要
2 ウパニシャッド
3 仏教における解釈
4 関連項目
概要[編集]
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
ウパニシャッド[編集]
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。
仏教における解釈[編集]
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。
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1 概要
2 ウパニシャッド
3 仏教における解釈
4 関連項目
概要[編集]
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
ウパニシャッド[編集]
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。
仏教における解釈[編集]
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。
カースト
カースト(英語:caste)[1]とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナやジャーティ)を指すポルトガル語、英語である[2]。インドでは現在も「カースト」でなく「ヴァルナ:varna」である[3]。
紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、身分制度カーストの枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含まれる。基本的にはカースト間の移動は認められておらず、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト内で行われる。
インドでは1950年に制定されたインド憲法で全面禁止が明記され、また最下層の民を「神の子(ハリジャン)」と呼び、制度改善に取り組んものの、現在でも身分制度はヒンドゥー社会に深く根付いている[3]。
目次 [非表示]
1 「カースト」名称の形成 1.1 語源
1.2 植民地主義における呼称
2 インドにおけるカースト:ヴァルナ 2.1 ヒンドゥー社会の原理
3 歴史 3.1 発祥
3.2 他宗教とのかかわり
3.3 植民地支配時代
4 現代の状況 4.1 職業とカースト
4.2 カーストと選挙
4.3 児童とカースト
4.4 結婚とカースト
4.5 改宗問題
4.6 国連人権委員会とカースト
5 その他の国のカースト 5.1 ミャンマー
5.2 ネパール
5.3 バリ島
6 比喩的用法
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
「カースト」名称の形成[編集]
語源[編集]
カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源をもつ[2]。
植民地主義における呼称[編集]
15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[3]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[4]。
植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[4]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[4]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[4]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[4]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[4]。
ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆるたぐいの共通の出自を指し示しうるものと指摘している[4]。
カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。
ヴァルナ・ジャーティ制
カースト制を、在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制がすでにそれ自体としての意味をもってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[2]。
インドにおけるカースト:ヴァルナ[編集]
ヒンドゥー社会の原理[編集]
「ヴァルナ (種姓)」を参照
カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれたあとにカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がることができる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとはヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[3]。
一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[5]。
ヴァルナの枠組み
ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)神聖な職に就いたり、儀式を行うことができる。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。クシャトリヤ王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「武士」とも翻訳される。ヴァイシャ商業や製造業などに就くことができる。「平民」とも翻訳される。シュードラ(スードラ)一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしか出来ない。ブラフミンに対しては影にすら触れることを許されない。「奴隷」とも翻訳されることがある。元来は先住民族でありながら、支配されることになった人々と推定されている。ヴァルナをもたない人びと
ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる[6]。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを『ダリット』(Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。
歴史[編集]
発祥[編集]
「ヴァルナ (種姓)」を参照
アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由はすでにかなり研究されている。アーリア人はトゥーラーン近郊を起源としているが、当然、このあたりに存在する疾患にしか免疫(液性免疫・細胞性免疫)を有していなかった。アーリア人の侵略の初期においては、ドラヴィダ人などの原住民と生活圏をともにし、時には婚姻関係さえ結んでいた。しかし、侵略範囲が広大化してくると、トゥーラーンから離れれば離れるほど、アーリア人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。 原住民はすでにそれらの感染症に免疫を獲得しているが、アーリア人はまったく免疫を持っていないため、次々とアーリア人のみが風土感染症により死亡する事態が出てきた。 これらに対応するためにアーリア人が取った政策がアーリア人とそれ以外の民族との「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である[7]。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1〜2階層程度に分けたため、全体で3〜4の階層を設定した[8]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。
他宗教とのかかわり[編集]
仏教
紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタは、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが、5世紀以後に勢力を失って行ったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。
仏教は、衰退して行く過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。ヒンドゥーの庇護のもとに生活をすることを避けられなかったためである。
キリスト教
イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らはそれぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。
イスラム教
ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し自由になるのが目的でもあった。
植民地支配時代[編集]
大英帝国支配下のイギリス領インド帝国時代、イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。
カースト差別撤廃運動
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動がうまれた。
アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[9]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[9]。
現代の状況[編集]
最近の都市部ではカーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧める人々や運動もある。
職業とカースト[編集]
カースト制度における職業と所有権は固定され、強制的であり、生まれによって職業の自由が制限されている[6]。他方、下層カーストやカースト外のアチュートであっても何らかの手段で良い職業に就くこともできる。コチェリル・ラーマン・ナラヤナンはイギリスで教育を受けた後に帰国し、インド大統領となった。
IT関連産業などはカースト成立時期には存在しなかったので、カーストの影響を受けないと言われる。インドでIT関連事業が急速に成長しているのは、カーストを忌避した人々がこの業界に集まってきているからと言われている。しかし、高等教育を受けることが出来ない下層カースト出身者は高度な仕事が出来ない上に、仮に優秀であったとしても上層カースト出身者で占める幹部が下層カースト出身者を重要なポストに抜擢することはなく、表面的にはカーストの影響を受けないIT関連事業においてもカーストの壁が存在するのが現状である[10]。
カーストと選挙[編集]
現在でも、保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世ではいいカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインドの発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。
児童とカースト[編集]
児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子どもは寺院売春を強制されていると国連人権委員会では報告されている[11]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。
結婚とカースト[編集]
ヒンドゥー教徒の結婚は現在も見合い結婚、それも同一カースト内での結婚が大原則となっており、逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとは言え、一部の大都市でしか未だ見る事ができない。ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。
ダウリというヒンドゥー風習では花婿料(嫁の持参金)として花婿側へ支払われるが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[12]。1961年にダウリは法律では禁止されているが、風習として残っている[12]。
改宗問題[編集]
改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし、他の宗教から改宗した場合は最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力によりヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。
ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによってカースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナクシプーラム村で不可触民が抗議の意味もふくめてイスラム教に改宗した[9]。またジャイナ教やシク教、ゾロアスター教では現実的な影響力や力によりその社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない裕福層に支持されている。
しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件もおこるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[9]。こうしたことを背景にタミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラムに改宗することを禁止する法案の強制改宗禁止法を制定した[9]。その後2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)がタミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[9]。
また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[9]。
国連人権委員会とカースト[編集]
2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[11]。
2002年の国連人種差別撤廃委員会における会合で一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[13]』に関する特別報告をおこない、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[14]。
2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[15]。
その他の国のカースト[編集]
ミャンマー[編集]
ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[16]。
ネパール[編集]
ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは民族と結びついているので複雑である。
ネパールでは1854年のムルキ・アイン法によってカースト制度が導入された[17]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[17]。
ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は山岳地帯のマトワリといわれる[17]。
ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[18]。
バリ島[編集]
詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照
インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[19]。
比喩的用法[編集]
日本においては、人間関係において上下の差が生じる事を、比喩的にカースト制度に喩える事例が散見される。スクールカーストやママカーストはその一例である。
紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、身分制度カーストの枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含まれる。基本的にはカースト間の移動は認められておらず、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト内で行われる。
インドでは1950年に制定されたインド憲法で全面禁止が明記され、また最下層の民を「神の子(ハリジャン)」と呼び、制度改善に取り組んものの、現在でも身分制度はヒンドゥー社会に深く根付いている[3]。
目次 [非表示]
1 「カースト」名称の形成 1.1 語源
1.2 植民地主義における呼称
2 インドにおけるカースト:ヴァルナ 2.1 ヒンドゥー社会の原理
3 歴史 3.1 発祥
3.2 他宗教とのかかわり
3.3 植民地支配時代
4 現代の状況 4.1 職業とカースト
4.2 カーストと選挙
4.3 児童とカースト
4.4 結婚とカースト
4.5 改宗問題
4.6 国連人権委員会とカースト
5 その他の国のカースト 5.1 ミャンマー
5.2 ネパール
5.3 バリ島
6 比喩的用法
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
「カースト」名称の形成[編集]
語源[編集]
カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源をもつ[2]。
植民地主義における呼称[編集]
15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[3]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[4]。
植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[4]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[4]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[4]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[4]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[4]。
ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆるたぐいの共通の出自を指し示しうるものと指摘している[4]。
カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。
ヴァルナ・ジャーティ制
カースト制を、在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制がすでにそれ自体としての意味をもってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[2]。
インドにおけるカースト:ヴァルナ[編集]
ヒンドゥー社会の原理[編集]
「ヴァルナ (種姓)」を参照
カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれたあとにカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がることができる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとはヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[3]。
一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[5]。
ヴァルナの枠組み
ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)神聖な職に就いたり、儀式を行うことができる。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。クシャトリヤ王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「武士」とも翻訳される。ヴァイシャ商業や製造業などに就くことができる。「平民」とも翻訳される。シュードラ(スードラ)一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしか出来ない。ブラフミンに対しては影にすら触れることを許されない。「奴隷」とも翻訳されることがある。元来は先住民族でありながら、支配されることになった人々と推定されている。ヴァルナをもたない人びと
ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる[6]。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを『ダリット』(Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。
歴史[編集]
発祥[編集]
「ヴァルナ (種姓)」を参照
アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由はすでにかなり研究されている。アーリア人はトゥーラーン近郊を起源としているが、当然、このあたりに存在する疾患にしか免疫(液性免疫・細胞性免疫)を有していなかった。アーリア人の侵略の初期においては、ドラヴィダ人などの原住民と生活圏をともにし、時には婚姻関係さえ結んでいた。しかし、侵略範囲が広大化してくると、トゥーラーンから離れれば離れるほど、アーリア人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。 原住民はすでにそれらの感染症に免疫を獲得しているが、アーリア人はまったく免疫を持っていないため、次々とアーリア人のみが風土感染症により死亡する事態が出てきた。 これらに対応するためにアーリア人が取った政策がアーリア人とそれ以外の民族との「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である[7]。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1〜2階層程度に分けたため、全体で3〜4の階層を設定した[8]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。
他宗教とのかかわり[編集]
仏教
紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタは、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが、5世紀以後に勢力を失って行ったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。
仏教は、衰退して行く過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。ヒンドゥーの庇護のもとに生活をすることを避けられなかったためである。
キリスト教
イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らはそれぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。
イスラム教
ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し自由になるのが目的でもあった。
植民地支配時代[編集]
大英帝国支配下のイギリス領インド帝国時代、イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。
カースト差別撤廃運動
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動がうまれた。
アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[9]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[9]。
現代の状況[編集]
最近の都市部ではカーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧める人々や運動もある。
職業とカースト[編集]
カースト制度における職業と所有権は固定され、強制的であり、生まれによって職業の自由が制限されている[6]。他方、下層カーストやカースト外のアチュートであっても何らかの手段で良い職業に就くこともできる。コチェリル・ラーマン・ナラヤナンはイギリスで教育を受けた後に帰国し、インド大統領となった。
IT関連産業などはカースト成立時期には存在しなかったので、カーストの影響を受けないと言われる。インドでIT関連事業が急速に成長しているのは、カーストを忌避した人々がこの業界に集まってきているからと言われている。しかし、高等教育を受けることが出来ない下層カースト出身者は高度な仕事が出来ない上に、仮に優秀であったとしても上層カースト出身者で占める幹部が下層カースト出身者を重要なポストに抜擢することはなく、表面的にはカーストの影響を受けないIT関連事業においてもカーストの壁が存在するのが現状である[10]。
カーストと選挙[編集]
現在でも、保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世ではいいカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインドの発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。
児童とカースト[編集]
児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子どもは寺院売春を強制されていると国連人権委員会では報告されている[11]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。
結婚とカースト[編集]
ヒンドゥー教徒の結婚は現在も見合い結婚、それも同一カースト内での結婚が大原則となっており、逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとは言え、一部の大都市でしか未だ見る事ができない。ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。
ダウリというヒンドゥー風習では花婿料(嫁の持参金)として花婿側へ支払われるが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[12]。1961年にダウリは法律では禁止されているが、風習として残っている[12]。
改宗問題[編集]
改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし、他の宗教から改宗した場合は最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力によりヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。
ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによってカースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナクシプーラム村で不可触民が抗議の意味もふくめてイスラム教に改宗した[9]。またジャイナ教やシク教、ゾロアスター教では現実的な影響力や力によりその社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない裕福層に支持されている。
しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件もおこるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[9]。こうしたことを背景にタミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラムに改宗することを禁止する法案の強制改宗禁止法を制定した[9]。その後2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)がタミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[9]。
また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[9]。
国連人権委員会とカースト[編集]
2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[11]。
2002年の国連人種差別撤廃委員会における会合で一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[13]』に関する特別報告をおこない、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[14]。
2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[15]。
その他の国のカースト[編集]
ミャンマー[編集]
ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[16]。
ネパール[編集]
ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは民族と結びついているので複雑である。
ネパールでは1854年のムルキ・アイン法によってカースト制度が導入された[17]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[17]。
ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は山岳地帯のマトワリといわれる[17]。
ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[18]。
バリ島[編集]
詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照
インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[19]。
比喩的用法[編集]
日本においては、人間関係において上下の差が生じる事を、比喩的にカースト制度に喩える事例が散見される。スクールカーストやママカーストはその一例である。
ブラフマン
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。
概要[編集]
サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。
歴史[編集]
神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。
ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。
Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman. - Atharva Veda
偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。 - 『アタルヴァ・ヴェーダ』
ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマンは、アートマンと同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。
概要[編集]
サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。
歴史[編集]
神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。
ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。
Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman. - Atharva Veda
偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。 - 『アタルヴァ・ヴェーダ』
ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマンは、アートマンと同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。
ウパニシャッド
ウパニシャッド(梵: उपनिषद्)は、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物で、一般には奥義書と訳される。
目次 [非表示]
1 概要
2 古ウパニシャッド 2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 日本語訳 3.1 完訳
3.2 抄訳
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
概要[編集]
約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る[1]。
ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。但し、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる[2]
古ウパニシャッド[編集]
初期紀元前800年から紀元前500年にかけて成立。古散文ウパニシャッド。中期紀元前500年から紀元前200年にかけて成立。韻文ウパニシャッド。後期紀元前200年以降に成立。新散文ウパニシャッド。
初期[編集]
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期 シャーンディリヤやウッダーラカ・アールニの思想など。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期
中期[編集]
カタ・ウパニシャッド(カータカ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
イーシャー・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:中期
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
ムンダカ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:中期
後期[編集]
プラシュナ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期
マイトリー・ウパニシャッド(マイトラーヤニーヤ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:後期(紀元前200年頃)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期(1年から200年頃)
日本語訳[編集]
完訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
: 主要13ウパニシャッド[3]の全訳。
抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
: 主要4ウパニシャッド[4]の抄訳(一部全訳)。
岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
: 主要5ウパニシャッド[5]の抄訳(一部全訳)。
佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
: 主要12ウパニシャッド[6]の抄訳。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
: 主要12ウパニシャッド[7]の抄訳。
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1 概要
2 古ウパニシャッド 2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 日本語訳 3.1 完訳
3.2 抄訳
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
概要[編集]
約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る[1]。
ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。但し、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる[2]
古ウパニシャッド[編集]
初期紀元前800年から紀元前500年にかけて成立。古散文ウパニシャッド。中期紀元前500年から紀元前200年にかけて成立。韻文ウパニシャッド。後期紀元前200年以降に成立。新散文ウパニシャッド。
初期[編集]
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期 シャーンディリヤやウッダーラカ・アールニの思想など。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期
中期[編集]
カタ・ウパニシャッド(カータカ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
イーシャー・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:中期
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
ムンダカ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:中期
後期[編集]
プラシュナ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期
マイトリー・ウパニシャッド(マイトラーヤニーヤ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:後期(紀元前200年頃)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期(1年から200年頃)
日本語訳[編集]
完訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
: 主要13ウパニシャッド[3]の全訳。
抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
: 主要4ウパニシャッド[4]の抄訳(一部全訳)。
岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
: 主要5ウパニシャッド[5]の抄訳(一部全訳)。
佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
: 主要12ウパニシャッド[6]の抄訳。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
: 主要12ウパニシャッド[7]の抄訳。
バラモン教
バラモン教(婆羅門教、ブラフマン教、Brahmanism)は、古代インドの民族宗教を指す。ヴェーダなどの聖典を持つ。
目次 [非表示]
1 概要
2 教義
3 歴史
4 ヒンドゥー教との差異
5 関連項目
概要[編集]
古代のヴェーダの宗教とほぼ同一の意味で、古代ヒンドゥー教と理解してもよい。バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。
バラモン教 (Brahmanism) という名前は後になってヨーロッパ人がつけた名前で、仏教以降に再編成されて出来たヒンドゥー教と区別するためにつけられた。なお、ヒンドゥー教という名前もヨーロッパ人によってつけられた名前であり、特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前もなかった。
バラモンとは司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから、日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。
最高神は一定していない。儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。
階級制度である四姓制を持つ。司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
教義[編集]
『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。
歴史[編集]
紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成される。
紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。 新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。
ヒンドゥー教との差異[編集]
バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ・ヴァルナ・アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、プラーナ文献などの神話が重要となっている。
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1 概要
2 教義
3 歴史
4 ヒンドゥー教との差異
5 関連項目
概要[編集]
古代のヴェーダの宗教とほぼ同一の意味で、古代ヒンドゥー教と理解してもよい。バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。
バラモン教 (Brahmanism) という名前は後になってヨーロッパ人がつけた名前で、仏教以降に再編成されて出来たヒンドゥー教と区別するためにつけられた。なお、ヒンドゥー教という名前もヨーロッパ人によってつけられた名前であり、特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前もなかった。
バラモンとは司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから、日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。
最高神は一定していない。儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。
階級制度である四姓制を持つ。司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
教義[編集]
『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。
歴史[編集]
紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成される。
紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。 新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。
ヒンドゥー教との差異[編集]
バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ・ヴァルナ・アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、プラーナ文献などの神話が重要となっている。
ヴェーダの宗教
歴史[編集]
詳細は「インダス文明」、「H墓地文化(英語版)」、および「ヴェーダ期(英語版)」を参照
「:en:Proto-Indo-European religion」、「:en:Proto-Indo-Iranian religion」、および「:en:Historical Vedic religion」も参照
[icon] この節の加筆が望まれています。
バラモン教[編集]
バラモン教は、司祭階級バラモン(ブラフミン)を特殊階級として、神に等しい存在として敬う。ブラフミンは、宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるとされ、生けにえなどの儀式を行うことができるのはブラフミンだけだとされる。
1世紀から3世紀にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの各民族宗教が再構成されヒンドゥー教に発展する。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。 シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。
15世紀、イスラムにインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派としてグル・ナーナクによりシク教が作られた。
アンチ・ヴェーダの新宗教[編集]
紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、アンチ・ヴェーダの新宗教がいくつか誕生するが現在まで続いているのはそのうちの仏教とジャイナ教だけである。
ヴェーダに対峙する仏教は、バラモン教の基本のひとつであるカースト制度を否定した。すなわち司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性も否定した。しかし、ゴータマ・ブッダの死後において、バラモン自身が仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込んで、バラモンの特殊な地位を再確保しようという政治的な動きもあった。
また、ゴータマ・ブッダは唯一神の存在を自分の宗教の一部としては認めなかった。ただしゴータマ・ブッダの死後、バラモン教の神が仏法守護神や眷属として取り込まれて行った。従って仏教はバラモン教に対峙して発展したが、民衆の間に広まっていくに連れ、バラモン教の神々を吸収して行ったのである。
もう一つのアンチ・ヴェーダであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、彼以前に23人のティールタンカラ(祖師)がおり、24祖とされた。ティールタンカラ自身はヴェーダの宗教の一部であったと思われる。マハーヴィーラが24人目のティールタンカラの生まれ変わりであると認定された後に、ジャイナはバラモン教から独立したとする説もある。また、マハーヴィーラとゴータマ・ブッダは、同時代、同地域に生きており、ジャイナ教の伝説ではゴータマ・ブッダ自身も24人目の最後のティルタンカラとなることを望んでいたと言われ、マハーヴィーラに負けたとされている。
詳細は「インダス文明」、「H墓地文化(英語版)」、および「ヴェーダ期(英語版)」を参照
「:en:Proto-Indo-European religion」、「:en:Proto-Indo-Iranian religion」、および「:en:Historical Vedic religion」も参照
[icon] この節の加筆が望まれています。
バラモン教[編集]
バラモン教は、司祭階級バラモン(ブラフミン)を特殊階級として、神に等しい存在として敬う。ブラフミンは、宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるとされ、生けにえなどの儀式を行うことができるのはブラフミンだけだとされる。
1世紀から3世紀にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの各民族宗教が再構成されヒンドゥー教に発展する。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。 シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。
15世紀、イスラムにインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派としてグル・ナーナクによりシク教が作られた。
アンチ・ヴェーダの新宗教[編集]
紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、アンチ・ヴェーダの新宗教がいくつか誕生するが現在まで続いているのはそのうちの仏教とジャイナ教だけである。
ヴェーダに対峙する仏教は、バラモン教の基本のひとつであるカースト制度を否定した。すなわち司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性も否定した。しかし、ゴータマ・ブッダの死後において、バラモン自身が仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込んで、バラモンの特殊な地位を再確保しようという政治的な動きもあった。
また、ゴータマ・ブッダは唯一神の存在を自分の宗教の一部としては認めなかった。ただしゴータマ・ブッダの死後、バラモン教の神が仏法守護神や眷属として取り込まれて行った。従って仏教はバラモン教に対峙して発展したが、民衆の間に広まっていくに連れ、バラモン教の神々を吸収して行ったのである。
もう一つのアンチ・ヴェーダであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、彼以前に23人のティールタンカラ(祖師)がおり、24祖とされた。ティールタンカラ自身はヴェーダの宗教の一部であったと思われる。マハーヴィーラが24人目のティールタンカラの生まれ変わりであると認定された後に、ジャイナはバラモン教から独立したとする説もある。また、マハーヴィーラとゴータマ・ブッダは、同時代、同地域に生きており、ジャイナ教の伝説ではゴータマ・ブッダ自身も24人目の最後のティルタンカラとなることを望んでいたと言われ、マハーヴィーラに負けたとされている。
ヴェーダ
ヴェーダ(梵: वेद 、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」とは、元々「知識」の意である。
バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが、後世になって書き留められ、記録されたものである。
「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
目次 [非表示]
1 ヴェーダの分類
2 サンヒター
3 一覧表
4 その他
5 ウパヴェーダ
6 ヴェーダンガ
7 ウパンガ
8 日本語訳 8.1 抄訳
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
ヴェーダの分類[編集]
広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。
サンヒター(本集)中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。ブラーフマナ(祭儀書、梵書)紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。アーラニヤカ(森林書)人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。ウパニシャッド(奥義書)哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。古典サンスクリット語に近い。
更に、各々4部門が祭官毎にリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダなどに分かれる。都合4X4の16種類となるが、実際には各ヴェーダは更に多くの部分に分かれ、それぞれに名称がついている。ヴェーダは一大叢書ともいうべきものである。参考文献に挙げてある辻直四郎「インド文明の曙」巻末には、横軸に各ヴェーダ毎、縦軸に分野毎に一覧表とし、現存するヴェーダ著作の全てを表に並べた資料が添付されており、非常に便利である。ヴェーダ文献全体が膨大なものだということが一目で看取できるようになっている。現存ヴェーダ著作だけでもかなりの多さになるが、古代に失われた多くの学派の文献をあわせると更に膨大なものになると考えられている。
サンヒター[編集]
狭義では、以上のうちサンヒターの事をヴェーダと言い、以下の4種類がある。
リグ・ヴェーダホートリ祭官に所属。神々への韻文讃歌(リチ)集。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。全10巻。10巻は最新層のものだと考えられ、アタルヴァ・ヴェーダの言語につながる。サーマ・ヴェーダウドガートリ祭官に所属。リグ・ヴェーダに材を取る詠歌(サーマン)集。インド古典音楽の源流で、声明にも影響を及ぼしている。ヤジュル・ヴェーダアドヴァリュ祭官に所属。散文祭詞(ヤジュス)集。神々への呼びかけなど。黒ヤジュル・ヴェーダ、白ヤジュル・ヴェーダの2種類がある。アタルヴァ・ヴェーダブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
一覧表[編集]
サンヒター
ブラーフマナ
アーラニヤカ
ウパニシャッド
リグ・ヴェーダ
アイタレーヤ
カウシータキ
アイタレーヤ
カウシータキ
シャーンカーヤナ アイタレーヤ
カウシータキ
サーマ・ヴェーダ
パンチャヴィンシャ
ジャイミニーヤ -
- チャーンドーギヤ
ケーナ
ヤジュル・ヴェーダ
黒ヤジュル
タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
シュヴェーターシュヴァタラ
マイトリー(マイトラーヤニーヤ)
白ヤジュル
シャタパタ
- ブリハッド
- ブリハッド・アーラニヤカ
イーシャー
アタルヴァ・ヴェーダ
ゴーパタ
-
- -
-
- ムンダカ
マーンドゥーキヤ
プラシュナ
その他[編集]
その他、共に言及される古代文献としては、以下のようなものがある。
シュルティ 古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。
ヴェーダにおけるサンスクリットは後の時代に書かれたものとは異なる点が多くあり、特にヴェーダ語と呼ばれる。アヴェスター語とも極めて近く、言語学的にも重要である(例えばホートリ祭官(Hotṛ/Hotar)はアヴェスター語のザオタル(Zaotar(司祭官))であり、ヴェーダで祭祀そのものを示すyajñaはアヴェスター語のYasna(崇拝・祈祷)である。ヴェーダ語の冒頭に置かれる定型句yajāmaheはアヴェスター語のyazamaide(われらは崇拝す)である)。
スムリティ 聖典には他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)があり、ヴェーダとは区別される。スムリティには、『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』・『マヌ法典』などがある。
プラーナ
ウパヴェーダ[編集]
副ヴェーダ
アーユル・ヴェーダ
ガンダルヴァ・ヴェーダ
ダヌル・ヴェーダ
スターパティア・ヴェーダ
ヴェーダンガ[編集]
ヴェーダの手足
シクシャ
チャンダス
ヴィヤカラナ
ニルクタ
カルパ
ジョーティシュ(ヴェーダの目、インド占星術)
ウパンガ[編集]
六派哲学
日本語訳[編集]
抄訳[編集]
辻直四郎 『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1970年。ISBN 4003206010。
辻直四郎 『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1979年。ISBN 4003206517。
バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが、後世になって書き留められ、記録されたものである。
「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
目次 [非表示]
1 ヴェーダの分類
2 サンヒター
3 一覧表
4 その他
5 ウパヴェーダ
6 ヴェーダンガ
7 ウパンガ
8 日本語訳 8.1 抄訳
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
ヴェーダの分類[編集]
広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。
サンヒター(本集)中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。ブラーフマナ(祭儀書、梵書)紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。アーラニヤカ(森林書)人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。ウパニシャッド(奥義書)哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。古典サンスクリット語に近い。
更に、各々4部門が祭官毎にリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダなどに分かれる。都合4X4の16種類となるが、実際には各ヴェーダは更に多くの部分に分かれ、それぞれに名称がついている。ヴェーダは一大叢書ともいうべきものである。参考文献に挙げてある辻直四郎「インド文明の曙」巻末には、横軸に各ヴェーダ毎、縦軸に分野毎に一覧表とし、現存するヴェーダ著作の全てを表に並べた資料が添付されており、非常に便利である。ヴェーダ文献全体が膨大なものだということが一目で看取できるようになっている。現存ヴェーダ著作だけでもかなりの多さになるが、古代に失われた多くの学派の文献をあわせると更に膨大なものになると考えられている。
サンヒター[編集]
狭義では、以上のうちサンヒターの事をヴェーダと言い、以下の4種類がある。
リグ・ヴェーダホートリ祭官に所属。神々への韻文讃歌(リチ)集。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。全10巻。10巻は最新層のものだと考えられ、アタルヴァ・ヴェーダの言語につながる。サーマ・ヴェーダウドガートリ祭官に所属。リグ・ヴェーダに材を取る詠歌(サーマン)集。インド古典音楽の源流で、声明にも影響を及ぼしている。ヤジュル・ヴェーダアドヴァリュ祭官に所属。散文祭詞(ヤジュス)集。神々への呼びかけなど。黒ヤジュル・ヴェーダ、白ヤジュル・ヴェーダの2種類がある。アタルヴァ・ヴェーダブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
一覧表[編集]
サンヒター
ブラーフマナ
アーラニヤカ
ウパニシャッド
リグ・ヴェーダ
アイタレーヤ
カウシータキ
アイタレーヤ
カウシータキ
シャーンカーヤナ アイタレーヤ
カウシータキ
サーマ・ヴェーダ
パンチャヴィンシャ
ジャイミニーヤ -
- チャーンドーギヤ
ケーナ
ヤジュル・ヴェーダ
黒ヤジュル
タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
シュヴェーターシュヴァタラ
マイトリー(マイトラーヤニーヤ)
白ヤジュル
シャタパタ
- ブリハッド
- ブリハッド・アーラニヤカ
イーシャー
アタルヴァ・ヴェーダ
ゴーパタ
-
- -
-
- ムンダカ
マーンドゥーキヤ
プラシュナ
その他[編集]
その他、共に言及される古代文献としては、以下のようなものがある。
シュルティ 古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。
ヴェーダにおけるサンスクリットは後の時代に書かれたものとは異なる点が多くあり、特にヴェーダ語と呼ばれる。アヴェスター語とも極めて近く、言語学的にも重要である(例えばホートリ祭官(Hotṛ/Hotar)はアヴェスター語のザオタル(Zaotar(司祭官))であり、ヴェーダで祭祀そのものを示すyajñaはアヴェスター語のYasna(崇拝・祈祷)である。ヴェーダ語の冒頭に置かれる定型句yajāmaheはアヴェスター語のyazamaide(われらは崇拝す)である)。
スムリティ 聖典には他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)があり、ヴェーダとは区別される。スムリティには、『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』・『マヌ法典』などがある。
プラーナ
ウパヴェーダ[編集]
副ヴェーダ
アーユル・ヴェーダ
ガンダルヴァ・ヴェーダ
ダヌル・ヴェーダ
スターパティア・ヴェーダ
ヴェーダンガ[編集]
ヴェーダの手足
シクシャ
チャンダス
ヴィヤカラナ
ニルクタ
カルパ
ジョーティシュ(ヴェーダの目、インド占星術)
ウパンガ[編集]
六派哲学
日本語訳[編集]
抄訳[編集]
辻直四郎 『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1970年。ISBN 4003206010。
辻直四郎 『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1979年。ISBN 4003206517。