アフィリエイト広告を利用しています
ファン
<< 2014年02月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2014年02月14日

必須元素

必須元素(ひっすげんそ)は、生物が摂取することで得る、生命維持にとって欠かせない元素。通常、特にことわらない場合は人間の生命維持に必要な元素を指す。ここでは人間の必須元素について説明する。

栄養学におけるミネラルあるいは無機質は、必須元素から水素、炭素、窒素、酸素を除いたものをいう。

必須元素は、12種類の主要元素と15種類の微量元素に分けられる。主要元素は、比較的どこでも存在していてそれほど摂取に困らないような元素で、またそれだけ必要とする量が多い元素である。微量元素は、必要量の微量な元素である。

必須元素は、欠乏すれば欠乏症となり、過剰に摂取すれば過剰症や中毒症状を起こすので適量の摂取が必要だが、通常の生活においては、自然物の食事を常識的な量と種類だけ食べていればほぼ適正な範囲内で収まる。猛毒として知られるヒ素も微量必須元素である。このヒ素は、普通の食事にはほぼ含まれていないため、ヒ素中毒は極めてまれである。

微量元素の多くが体内での酵素活性中心などに利用され、ごく微量が必要とされているがその微量が欠乏すると、直ちに体内代謝などのバランスがくずれ、それぞれの元素に特有の症状が現れる(微量元素欠乏症)。たとえば、亜鉛の欠乏は味覚障害や肌荒れとなって現れる。 地上に豊富に存在するわりには、微量元素としてあまり必要とされていないのがケイ素とアルミニウムである。通常は正しい日本の食生活をしていれば不足する事はなく、サプリメントは無益無毒か無益有毒ともなる。

必須元素一覧


主要元素

微量元素

水素 H
炭素 C
窒素 N
酸素 O
ナトリウム Na
マグネシウム Mg
リン P
硫黄 S
塩素 Cl
カリウム K
カルシウム Ca
鉄 Fe
ホウ素 B
フッ素 F
アルミニウム Al
ケイ素 Si
バナジウム V
クロム Cr
マンガン Mn
コバルト Co
ニッケル Ni
銅 Cu
亜鉛 Zn
ヒ素 As
セレン Se
モリブデン Mo
ヨウ素 I


※植物の必須元素と人間の必須元素は異なる


目次 [非表示]
1 微量元素と人体との関わり
2 参考文献・出典
3 関連項目
4 外部リンク


微量元素と人体との関わり[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。
ホウ素目の洗浄剤やうがい薬として使用される。フッ素多くの国では虫歯予防のため水道水に添加している。アルミニウム有用な作用は確認されていない。人体内には約50mgのアルミニウムが含まれている。水道法に基づく水道水質基準では0.2ppmだがアルミ鍋で30分間水を沸かすと0.75ppmが溶出する。アルミニウム缶の缶飲料では2.4ppmのものがあったが、現在は内面が樹脂でコーティングされている。アルミニウムの体内蓄積がアルツハイマー型認知症の原因ではないかと言われた時期もあり、研究が進められているがまだ結論は出ていない。珪素確認されていない。バナジウム体内のコレステロールの合成を制御するメカニズムに関わっていると考えられている。クロム3価のクロムはインシュリンの分泌を助けて炭水化物の代謝に関わる。脂質の代謝にも関与する。コレステロール値を一定に保つ。6価クロムは毒物である。30歳-49歳女性で25μg、同じく男性で35μgが1日の推定平均必要量とされている。マンガンミトコンドリアの中でエネルギー産生を助けている。マンガンは、炭水化物(糖質)と脂質を分解する酵素を活性化させ、尿酸の代謝を助ける働きがある。また、下垂体機能の向上、各種ホルモン分泌を活性化に関与する。骨の成長に欠かせない。30歳-49歳女性で3.5mg、同じく男性で4.0mgが1日の目安量とされている。コバルトポルフィリンに似た環状化合物であるコリン環の中心に結合してビタミンB12を作る。ニッケル確認されていない。銅人体内には約80mgの銅が含まれている。2-3mg/日の摂取がよい。古くから銅の酸化物である緑青が人体に有毒であると信じられてきたが、これは現在では明らかに無毒であるとされている。厚生省も毒物や劇物ではなく「普通物」としている。日本では1983年より硫酸銅と亜鉛が粉ミルクに添加されている(100mlあたり45μg)。亜鉛人体内には約1.4g-2.3gの亜鉛が含まれている。細胞分裂時の酵素に必要なため、皮膚、頭髪、爪、歯、骨、前立腺に多く含まれている。成人では10-15mg/日が必要であり、不足すると味覚異常が現れる。他の生理的役割としては、免疫機構の補助、創傷治癒、精子形成、胎発生、小児の成長など多岐にわたる。炭酸脱水酵素が最も重要である。ヒ素猛毒である。有機ヒ素化合物のいくつかは、比較的毒性が低いが、亜ヒ酸のような無機のヒ素は毒性が非常に高い。ヒ素欠乏が問題となるケースは普通の生活では発生しないので、意図的な摂取は必要ない。セレン必要量と過剰摂取量との差が狭いため適量の摂取は難しい。セレンが過酸化脂質を分解する酵素のひとつであるグルタチオンペルオキシターゼを活性化する。30歳-49歳女性で30μg、同じく男性で20μgが1日の推定平均必要量とされている。モリブデン糖質や脂質、尿酸の代謝を補助し、鉄の利用を高める造血作用、銅の排泄を増大させるモリブデンを含む酵素に窒素代謝や硫黄代謝に関与するオキソトランスフェラーゼ(酸素原子移動反応を触媒する酵素の総称)がある。30歳-49歳女性で15μg、同じく男性で20μgが1日の推定平均必要量とされている。ヨウ素ヨウ素は甲状腺にあって、甲状腺ホルモンの成分となる。この甲状腺ホルモンは、神経細胞のナトリウム濃度のバランス調節、代謝に関わる。ヨウ素欠乏症として、地方性甲状腺腫と甲状腺機能低下症がある。日本人は海藻を中心とした海産物により1-4mg/日のヨウ素を摂取しているので欠乏することはない。30歳-49歳女性で95μg、同じく男性で95μgが1日の推定平均必要量とされている。
参考文献・出典[編集]
新しい物性物理 伊達宗行 講談社 BLUEBACKS ISBN 4062574837
金属なんでも小事典 増本健 講談社 BLUEBACKS ISBN 4062571889
日本人の食事摂取基準(2005年版) 厚生労働省 ISBN 9784804110974

被曝

被曝(ひばく、radiation exposure)とは、人体が放射線にさらされることを言う[1]。被ばくとも表記される[2]。

被曝は、放射線を受ける形態が外部被曝か内部被曝かでその防護方法が大きく異なる。



目次 [非表示]
1 概要
2 被曝の形態とその防護 2.1 外部被曝(external exposure)
2.2 内部被曝(internal exposure) 2.2.1 内部被曝の特徴


3 放射線防護策の選定と実施 3.1 放射線管理とモニタリング
3.2 被曝対象の区分 3.2.1 職業被曝(occupational exposure)
3.2.2 公衆被曝(public exposure)
3.2.3 医療被曝(medical exposure)


4 日本における被曝の法規制 4.1 食品のもつ放射能に関する規制

5 被曝と社会運動
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概要[編集]

放射線の歴史は1895年のレントゲンの X 線の発見に始まるが、放射線の利用とともに、人体が放射線を浴びること、被曝(radiation exposure)によって様々な放射線障害[3]が発生することが徐々に認識されていった。

詳細は「放射線障害」を参照

原子爆弾など戦争兵器にも用いられ、健康被害をもたらす放射線被曝はできる限り避けねばならない、しかしながら、放射線治療などに用いられる放射線技術は大きな利益をもたらす技術である。そこで、放射線技術による利益を享受しつつ、被曝に伴う放射線障害を防止することを目的とした放射線防護(radiation protection)の概念が、放射線障害の認識と共に発達してきた。今日においては以下の目標が掲げられている[4]。


放射線防護の目標1.利益をもたらすことが明らかな放射線被曝を伴う行為を、不当に制限することなく、人の安全を確保すること
2.個人の確定的影響の発生を防止すること[5]
3.確率的影響の発生を制限すること[6]

放射線防護にあたって最も重要であるのは放射線源から被曝を受ける形態であり、次の二つに分類される[7][8]。
外部被曝(external exposure;体外被曝):体の外部にある放射線源からの放射線被曝
内部被曝(internal exposure;体内被曝):経口摂取、吸引などにより体内に取り込んだ放射性物質による被曝

点放射線源からの外部被曝の場合、最も単純な防護方策はその点線源との距離を大きく取ることであるが、同じ被曝でも空気中に放射性物質が拡散してしまい吸引による内部被曝が疑われる場合は、放射線防護策としては全く異なる方法(マスクの着用など)を取らなくてはならない[9]。

放射線防護策を検討・実施するにあたって場所の放射線量[10]及び被曝をしている個人の線量[11]を計測(モニタリング)することは重要である。 放射線防護を行う(確率的影響の発生リスク[12]を人々が容認可能なレベルに抑える)にあたって基本的尺度となる線量概念が実効線量(単位:シーベルト、記号:Sv)であり、個々人の被曝した実効線量は、定められた実効線量限度以下に抑えられる[13][14]

なお、低線量の放射線被曝による健康被害については各種議論がある。

詳細は「低線量被曝問題」を参照

被曝の形態とその防護[編集]





放射線の透過能力:アルファ線は紙1枚程度で遮蔽できる。ベータ線は厚さ数mmのアルミニウム板で防ぐことができる。ガンマ線は透過力が強く、コンクリートであれば50 cm、鉛であっても10cmの厚みが必要になる。中性子線は最も透過力が強く、水やコンクリートの厚い壁に含まれる水素原子によってはじめて遮断できる。
放射線は、放射線物質(放射線源)あるいは放射線発生装置より発生する。放射線源が密封線源[15]の場合、被曝は身体の外部からの被曝である外部被曝(external exposure)だけであるが、非密封線源[16]の場合、外部被曝に加えて身体の内部に放射線物質が入り込むことによる被曝である内部被曝(internal exposure)も考慮しなくてはならない。

外部被曝(external exposure)[編集]

外部被曝として問題になる線種はガンマ線、X線、ベータ線、中性子線で[17]、これら放射線を防護する方法には次の三つがある[18]。
密封線源の三原則1.線源と人体との間に遮蔽物を置く(ガンマ線[19]、ベータ線[20]、中性子線[21]かで遮蔽物として効果的なものは異なる)
2.線源と人体の距離を大きく取る[22]
3.放射線を受ける時間を短くする[23]

内部被曝(internal exposure)[編集]

放射性物質が空気中などに拡散して存在している場合、その放射性物質が体内に入り込むことによる内部被曝の恐れが生じる。そのため、内部被曝については放射性物質を体内に取り込まないような防護が基本となる。体内に取り込まれる経路としては、次の三つがある[24]。
非密封線源が体内に取り込まれる経路呼吸器を通しての摂取(吸入)
放射性物質で汚染した空気を吸い込むことによって、気道や肺胞を通して体内に放射性物質が侵入することを言う。マスクの着用などで防護できる[25]口、消化器を通しての摂取(経口摂取)
放射性物質で汚染された水や食物を摂取することで、胃や小腸などの消化管から体内に放射性物質が侵入することを言う。基準値を超える放射能を持つ食品を摂取しないことで防護できる[26][27]皮膚、特に傷口を通しての摂取
皮膚の毛穴や汗腺または皮膚にある傷から放射性物質が侵入することを言う[28]。放射性物質と接触する皮膚表面に傷があるときは、放射性物質の取り扱いを避けることで防護できる[29]。
内部被曝の特徴[編集]

内部被曝をした場合、すなわち一度体内に放射性物質が取り込まれた場合、その取り込まれた放射性物質を除くには、物理的減少(放射性崩壊)と共に生体機能の代謝による排出を待つよりほかない。

詳細は「半減期#生物学的半減期と実効半減期」を参照

体内に取り込まれた放射性物質がどのように振舞うか(体内のどの部位に沈着するか)は、その元素の化学的性質によって異なる。

例えば、ヨウ素は選択的に甲状腺に取り込まれ沈着する[30]。アルカリ土類金属であるストロンチウムは骨中の同じくアルカリ土類金属であるカルシウムと置き換わって体内に蓄積することが知られている[31]。一方で、カリウムやセシウムは水に溶け込み全身の細胞内に広がる[32]。このように、放射性物質の種類によって体内に摂取された後に存在する場所が変わる。

体内に入ってしまった放射線物質を検査する一般的な方法として、ホールボディカウンターによってガンマ線を測定・分析する方法がある。しかし、これはガンマ線が人体を透過することを利用したものであるため、ガンマ線を出さない核種の測定は不可能である[33]。

放射線防護策の選定と実施[編集]

人工的に発生させた放射線(人工放射線)は人間の諸活動に伴って発生する放射線であり、全ての被曝が放射線防護の対象となる[34]。そこで、放射線被曝を伴う行為を導入・実施などする際は、放射線防護の目標達成のため放射線防護体系(行為の正当化、防護の最適化、放射線防護制限の三原則)を遵守する必要がある[35]。

さらに、モニタリング(monitoring)により、放射線源、環境及び個人の管理が厳重に行われていることを確認しなければならない。

なお、人工放射線の対として、地球誕生以来生活環境に存在している放射性同位元素からの大地放射線と宇宙からの放射線である宇宙放射線を合わせて自然放射線と呼ぶ。自然放射線による被曝により、人々は実効線量で世界平均合計年間2,400 μSv(=2.4 mSv)前後の被曝を受けているとされる[36]が、自然放射線による被曝は人為的にコントロールすることができないために放射線防護の対象から外されている(規制除外)[37]。

放射線管理とモニタリング[編集]

被曝は、線源-環境-人が相互に関わり合う中で生じることから、防護措置も1線源管理、2環境管理、3個人管理の三つに分類される。このうち線源管理が最も効果が大きく、防護策を講ずる上で最も優先させるべきである[38]。

さらに、各管理に対応した以下のモニタリング概念が存在する[39]。
1 線源モニタリング(source monitoring)放射線源の健全性、管理状況を確認するために行なわれるモニタリングを言う。最も基本的なモニタリングである。2 環境モニタリング(environmental monitoring)施設内の作業環境あるいは施設外の一般環境で行なわれるモニタリングであり[40]、線源の管理状況を確認し、環境安全が測られていることを確認するために行なわれる。3 個人モニタリング(individual monitoring)直接、作業者個人に着目して行なわれるモニタリングで、各作業者の線量が基準以下であることを確認するために行なわれる。一般公衆に対する個人モニタリングは、大規模事故などのごく特殊な場合を除いて実施されることはない[41][42]。
被曝対象の区分[編集]

放射線防護の観点から被曝の対象は医療被曝、職業被曝、公衆被曝の三つに分類される。

職業被曝(occupational exposure)[編集]

放射線業務従事者または放射線診療従事者[43]が、業務[44]の過程で受ける被曝を職業被曝(occupational exposure)と呼ぶ[45]。職業被曝に対する防護の責任は、事業者と作業者自身にあり、職業被曝をする人々は被曝管理、健康管理、定期的な教育・訓練を受けることなどが義務づけられている。被曝線量に対しては、法令で線量限度が決められており、放射線業務従事者はサーベイメーターなどを装着し、線量限度を超えないようにしなければならない[46][47]。

公衆被曝(public exposure)[編集]

「放射性降下物」も参照

職業被曝、医療被曝以外の被曝、すなわち、原子力・放射線利用に伴う一般の人々の被曝(例えば原子力施設の周辺の住民の被曝など)を公衆被曝(public exposure)と呼ぶ[48]。公衆被曝に対する防護の責任は、公衆被曝をもたらす放射線源を利用する事業者にあるが、職業被曝とは異なり、公衆の構成員の一人ひとりを管理(個人被曝管理)することは実態として難しいため、公衆の放射線安全が確保されていることは、線源モニタリングと環境モニタリングによって確認される[49]。つまり、公衆被曝では基本的に個人モニタリングは行なわれない。

医療被曝(medical exposure)[編集]

「放射線医学」および「放射線療法」も参照

医療の現場における、患者への病気の治療を目的とした意図的な放射線照射による被曝を医療被曝(mediac exposure)と呼ぶ。医療被曝に対する防護の責任は、事業者(施設の責任者)及び実際に放射線診療に関わる医師と診療放射線技師等によって行なわれる[50]。

医療被曝には、職業被曝や公衆被曝に適用される線量限度は存在せず[51]、線量は防護量である等価線量・実効線量(単位:シーベルト[Sv])ではなく全て吸収線量(単位:グレイ[Gy])で表される。さらに、法律で規制される被曝限度には、医療被曝によるものは含まれない[52]。

日本における被曝の法規制[編集]

被曝のおそれのある場所は放射線管理区域に指定され、厳密に管理される。さらに、放射性物質の付着や内部被曝のおそれがある区域は「汚染のおそれのある管理区域」(その他は「汚染のおそれのない管理区域」)として、防護服を着用するなどの汚染防止策が採られる。

詳細は「放射能汚染対策」を参照

また、業務上放射線を扱うため被曝のおそれがある労働者については年間等の被曝線量に限度が設けられており、これを超えて従業することは国際放射線防護委員会の勧告に基づいた放射線障害防止法、電離放射線障害防止規則、人事院規則10-5、医療法施行規則等により多重規制されている。

管理区域に立ち入らない一般公衆の被曝線量限度は、これらの法令による放射線管理区域等からの漏洩放射線線量率や、放出される放射性同位元素濃度の規制により放射線業務に従事する者の限度より遥かに低く抑えられるように義務付けられている[53]。

「放射線管理手帳」も参照

食品のもつ放射能に関する規制[編集]

「ウクライナの食品の放射能基準」も参照

チェルノブイリ原発事故を契機に、輸入食品内における放射能の暫定限度が370 Bq/kg(セシウム134+セシウム137の合計値)に設定され、これを超える食品は日本に輸入することができない[54]。

福島第一原子力発電所事故後の暫定基準値(ざんていきじゅんち)については食品に含まれる放射能に関する暫定規制値の項目を参照。

被曝と社会運動[編集]

詳細は「反核運動」および「原子力撤廃」を参照

上記の被曝のうち、特に核兵器による被曝や、核実験また「原子力の平和的利用」として開発と設置が進められてきた原子力発電などの原子力事故を受けて、放射性物質による被曝および被曝のリスクも含めて、これまでに世界規模で反核運動が行われてきた。

日本では第五福竜丸被爆事件を契機に安井郁(やすいかおる)が原水爆禁止運動を組織化し、1955年に原水爆禁止日本協議会を設立した。以降、大規模な事故や事件に応じて、様々な反核運動や原子力撤廃運動が展開した。2011年の福島第一原子力発電所事故を受けて、様々な運動が展開している(福島第一原子力発電所事故の影響を参照)

※各運動団体、運動の歴史、また各界による発言や対応などについては反核運動および原子力撤廃を参照のこと。

脚注[編集]

[ヘルプ]
1.^ 「被曝」と「被爆」は、発音が同じで意味や漢字での表記も似ている。放射線被曝は「放射線にさらされること」を意味するが、被爆は「爆撃を受けること」、「核兵器による被害を受けること」を意味する。
2.^ 「曝」という漢字が常用漢字に入っていないため。
3.^ 被曝した放射線の線量に応じて放射線障害は大きく確定的影響(deterministic effects)と確率的影響(stochastic effects)に分類される。
4.^ 辻本(2001) p.26、日本アイソトープ協会(1992) p.158
5.^ すべての人々の被曝線量を確定的影響の閾線量以下に抑えることによって、確定的影響の発生は完全に防止できる。
6.^ 確率的影響の被曝に伴う発生モデルは閾線量無しの直線関係仮説(Linear No-Threshold : LNT仮説)が取られているため、被曝線量をゼロにしない限り、確率的影響の発生を完全に防止することはできない。そこで、被曝に伴う確率的影響の発生については、確率的影響の発生確率を人々が容認するレベルに制限することとしている。
7.^ また、照射を受ける身体の範囲により全身被曝と局部被曝に、照射を受ける時間分布により急性被曝と慢性被曝に分類される。培風館 2005 p.2188
8.^ 国連科学委員会(UNSCEAR)では放射線の種類やその用途、一般大衆と職業上などの切り口で以下のように分類している。
「UNSCEARによる被曝の分類」も参照

9.^ なお、同一の放射性物質からの放射線に被曝する場合でも、外部被曝より内部被曝の方が危険な場合がある。アルファ線は体外からの照射では、その大部分は皮膚の内側に達することはないが、体内にアルファ線を出す放射性物質が入ると、その周囲の細胞が照射されるため組織や器官の受ける放射線の量が大きく異なる透過力の弱いベータ線とエネルギーの低いガンマ線を出す放射性物質も外部被曝では影響を与える程ではないが体内にある場合の影響は大きくなる。
10.^ 職業被曝であれば作業場所、公衆被曝であれば一般環境
11.^ ただし、公衆被曝の場合全ての人々に個人線量計を配布することは困難である。
12.^ なお、定量的リスクが絡む事柄一般に言えることだが、いわゆるブラックスワン(黒い白鳥)が存在しないことを証明することはできない。ナシーム・ニコラス・タレブ 『ブラック・スワン−不確実性とリスクの本質』 望月 衛、ダイヤモンド社、2009年。
13.^ ただし、眼の水晶体の被曝、皮膚の限られた面積の被曝は実効線量を算出する際の組織荷重係数が与えられていないため、この2つの臓器(ただし、広い面積の皮膚が被曝した場合は実効線量に加えられる)に関しては臓器の等価線量で線量限度が規定されている。草間(2005) p.21
14.^ 実効線量や等価線量はあくまで、この放射線防護を行うための防護量である。実効線量・等価線量は被曝による確率的影響の生物影響を基に定められたものであるので、確定的影響に対しては、シーベルト[Sv]はではなく吸収線量とその単位であるグレイ[Gy]が用いられる。そのような理由から、確定的影響の閾線量は等価線量のシーベルトではなく吸収線量であるグレイで表示される。
15.^ 密封された形態の放射性物質。密封されているため、放射性物質の拡散はしない。
16.^ 密封されていない放射性物質。密封されていないため、放射性物質は拡散してしまい、体内に入り込む可能性がある。
17.^ アルファ線は紙一枚で遮蔽できるので、外部被曝ではあまり問題にならない。
18.^ 辻本(2001) p.122
19.^ γ線(およびX線のような電磁放射線あるいは光子線)は主に原子核周囲の電子と相互作用して阻止されるため、鉛や金といった密度の高い物質(電子の密度も高い)のほうが効果的に遮蔽することができる。コンクリートならば厚さ30 cmごとに、鉛板ならば厚さ5 cmごとに線量を10分の1にまで減らす(コバルト60のγ線の場合)。
点状線源の場合、遮蔽物の厚さに応じて、遮蔽物を透過した放射線の強度は指数関数的に減少する。
20.^ ベータ線の遮蔽は、ベータ線の最大飛程以上の厚みのものを使用する。ベータ線のみを防ぐのであれば、10〜15mm厚のプラスチック板で十分効果がある。ただし、エネルギーの大きいベータ線が原子番号の大きい物質に衝突すると、制動 X 線が発生するので、その場合は X 線の遮蔽も合わせて行わなくてはならないが、そのようにエネルギーの大きいベータ線を発生する物質は少ない。ただ、ベータ線を薄くて密度の高い物質で遮蔽しようとすると、制動放射X線が多く発生しかえって被曝線量を増やすおそれがある。
21.^ これは、荷電粒子(電荷を持つ粒子)や光子が電磁気力で物質と相互作用して透過を阻止されるのに対して、電荷を持たない中性子は物質を構成する粒子と直接衝突することで運動エネルギーを失い、透過を阻止されるためで、中性子の運動エネルギーを効率よく奪うためには同程度の質量の粒子、つまり陽子(水素の原子核)と衝突させることが最も有効だからである。また、中性子の遮蔽体は中性子吸収材(中性子を比較的捕獲しやすい非放射性同位元素を含む物質)と組み合わせて使うこともある。
22.^ 線源はトングやマジックハンドを用いて扱い、直接触らないようにする。放射性物質が皮膚に付着しないよう、ゴム手袋などの保護具を装備する。
23.^ そのため、放射線場での作業時間ができるだけ短くなるよう、作業計画などを綿密立てることが求められる。屋内退避も推奨されている。
24.^ 辻本(2001) p.129-132、草間(1990) p.34,pp.142-150
25.^ ただし、内部被曝対策としてのマスク等の呼吸保護具は、外部被曝対策としては役に立たない。松野 2007, p73
26.^ チェルノブイリ原子力発電所事故で甚大な被害を蒙り、内部被曝により病気になる人が多発したベラルーシやウクライナでは、食品中に含まれる放射性セシウムの基準値を定めて、基準値を超える食品を流通させないことで内部被曝を防止している
NHK解説委員石川一洋による解説 「食の安全・ベラルーシから学ぶこと」2011年11月7日1:05〜1:55の「スタジオパークからこんにちは」の枠内で放送。概要は解説委員室 解説アーカイブスでも検証可能。
河田昌東「チェルノブイリからみた福島原発震災」『土と健康』No.427
「食の安全#放射能と食の安全」も参照

27.^ セシウム等の放射性物質を摂取後、速やかにプルシアンブルーを服用すると、消化管からの吸収を抑制する効果があるとも言われることがある。「緊急被ばく医療研修のホームページ 3. 内部汚染の治療」(運営:公益財団法人原子力安全研究協会)
28.^ 皮膚に傷が無い場合はほとんど吸収されないと考えてよいとされる。草間(1990) p.34
29.^ また、手を汚染した場合は、その後の飲食、喫煙または化粧などによって汚染を体内に取り込む可能性が高い。したがって、放射性物質を取り扱う区域内では飲食、喫煙または化粧を行ってはならず、また取り扱いを中断・終了する時は必ず手に汚染がないことを放射線測定器で確認しなければならない。
30.^ ヨウ素は甲状腺ホルモンであるサイロキシンを構成する元素であり、ヨウ素の放射性同位体も、ヨウ素の一つの同位体であり化学的にはヨウ素に他ならないため甲状腺に取り込まれることになる。
放射性ヨウ素に対する防御原子力発電所において事故の際には、揮発性の高い放射性ヨウ素(ヨウ素131)が環境中へ放出される可能性が高く、甲状腺に高い被曝線量を受ける人が出てきてしまう。これをある程度防ぐ(甲状腺への被爆線量を低減する)ために、放射性ヨウ素を摂取する前かあるいは摂取後比較的早い時期(6時間後までは効果がある)に安定ヨウ素剤を投与することで、放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれることを制限することができる。草間(2005) p.79
31.^ 「放射性核種の体内移行と代謝」原子力百科事典(アトミカ)
32.^ 放射性セシウム体内除去剤としては、紺青(別名:ヘキサシアノ鉄(II)酸鉄(III)、プルシアンブルー)がある。商品名では「ラディオガルダーゼカプセル」と呼ばれる。 日刊薬業WEB「日本メジフィジックス 放射性セシウム体内除去剤を無償提供」(2011年3月14日)
33.^ 例えば、ストロンチウム90はベータ線しか出さず、その娘核種のイットリウム90も極稀にしかガンマ線を出さないため、検出できない。 そのような核種による被曝を調べるには、尿などの排泄物を検査・測定し、推定することになる。 原子力資料情報室 - ストロンチウム-90、US National Research Council (1994). Radiological Assessments for Resettlement of Rongelap in the Republic of the Marshall Islands. Wasington, D. C.: National Academy Press.
34.^ なお、放射線防護の視点からは、放射線はどんなに微量であっても人体にとって有害であると仮定されている。アイソトープ協会(1992) p.161
35.^ アイソトープ協会(1992) p.160
36.^ 自然放射線による被曝は次のように分類される。 大地放射線(地球起源の放射性元素が放出する放射線)
ラドン[222Rn]及びその娘核種
体内に存在する放射性同位元素 カリウム40[40K]
宇宙線(実効線量で年間約380 μSv(=0.38 mSv)程度の外部被曝と言われる。)
宇宙線起源の放射性同位元素 炭素14[14C]など
草間(1995) p.61
※1 ラドンは、地球起源の放射性同位元素の放射性崩壊によって生じる放射性のガスであるが、肺の組織荷重係数が比較的大きいこともあり、自然放射線からの被曝線量として大きな寄与をするので別に分類される。空気中に含まれているラドン222の吸引によって実効線量にして年間約1,200 μSv(=1.2 mSv)程度の被曝を受けているといわれる。草間(1995) p.61
※2 カリウムは、生体必須元素であることから成人男性で120〜150 g、成人女性で80〜100 g程度の一定量を体内にもっている。カリウムの放射性同位体であるカリウム40の割合は一定であることから、摂食量に関わらず成人男子であれば約4000ベクレル程のカリウム40を体内に一定に持つことになる。草間(1995) p.67
UNSCEARサイトFAQ:人々が受けている放射線はどの程度ですか
37.^ かつては自然放射線による被曝はすべて管理の対象外と考えられていたが、最近は制御できるもの、例えばラドンや航空機被曝などについては管理対象とする考え方に変わってきた。放医研(2012) 第1章3節
38.^ 環境管理や個人管理は線源管理を補うために行われるものである。だが、例えば、線源が極めて広範囲に拡散してしまい、実質的に線源管理が困難な状況下においては、環境管理及び個人管理を中心に防護策を講じることとなる。
39.^ アイソトープ協会(1992) pp.166-172、草間(1995) pp.133-149
40.^ 一般環境モニタリングの場合には、ある特定の線源に着目して行なわれる線源関連の環境モニタリングと、複数の線源から放射線を受ける個人に着目して行なわれる人関連の環境モニタリングとがある。
41.^ 例えば、1万人が公衆被曝を受ける場合、個人モニタリングを行うには、その一万人に対して個人線量計(ガラスバッジなど)を配布しなければならなくなる。しかしながら、供給側の供給能力と配布実務から現実的ではない。
42.^ ただし、大規模事故など特殊なケースで、供給側と配布(及びガラスバッジ、フィルムバッジであれば測定結果の読み取り側の体制)に問題がなければ個人モニタリングが実施されることもある。 例えば、福島第一原発事故では当初からの環境モニタリングに加えて途中から個人モニタリングも行なわれることとなった。
帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方(平成 25 年度 第 32 回原子力規制委員会)
43.^ 日本の放射線防護関連法令では、放射線や放射性物質を取扱うことができるばしょをあらかじめ許認可を受けた管理区域に制限しており、管理区域以外のところで放射線や放射性物質を取扱うことはできない。常時、管理区域に立ち入る作業者を放射線業務従事者(医療法では放射線診療従事者)と呼ぶ。辻本(2001) p.30
44.^ 放射線業務従事者の業務の例としては、核燃料サイクル従事者、放射線医学従事者、放射性物質の産業・教育・軍事利用にたずさわる業務の他に、天然に存在する放射性物質(NORM;Naturally occurring radioactive material)からの作業環境での増幅された被曝があり、鉱山、石油、天然ガス、航空産業などがあげられる。
45.^ UNSCEAR2008報告書にはさまざまな業種の平均集団積算線量などが掲載されている。UNSCEAR2008「Annex B 第III章 職業被ばく」閲覧2011-10-25
46.^ 辻本(2001) p.30
47.^ 原子力関連施設事故による被曝原子力発電所や、原子力潜水艦の事故を原子力事故といい、原子力の利用がはじまって以来、多数の事故が発生しており、多数の人間が被曝している。日本の1999年の東海村JCO臨界事故など、急性放射線症候群のような重大な放射線障害をもたらす事故も発生することがある。
「 原子力事故 」、「 原子力事故の一覧 」、「国際原子力事象評価尺度(INES)」、および「 臨界事故 」も参照

48.^ 公衆被曝の例 生活用品などによる被曝
地球誕生以来存在している自然由来の放射性物質が少量含まれた製品が出荷されていることがある。一般消費財である場合、日常的に低線量ながら被曝してしまうため、それらに関するガイドラインなどが策定されている。ウラン・トリウムガイドラインについて。放射線医学総合研究所「UNSCEAR2008年報告書」閲覧2011-10-22原子爆弾の投下(atomic bombings)

「広島市への原子爆弾投下」および「長崎市への原子爆弾投下」も参照
太平洋戦争末期に広島と長崎に投下された核兵器の原子爆弾は、高温の熱線と強い爆風だけでなく、強い放射線を放出し、放射能を有する塵などを多量に排出した。被害は爆発熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる急性・晩発性の放射線障害を被曝者に引き起こした。なお、被爆は爆撃による被害を受けること、他方、被曝は放射線にさらされた場合を指すため、厳密には、核爆弾による直接攻撃を受けた者は「被爆者」、直接の被害は受けず、核爆発に伴う残留放射能を浴びた者は「被曝者」であるが、日本では便宜上前者を「一次被爆者」、後者を「二次被爆者」と呼ぶ。原子爆弾の投下に伴う放射線被曝と放射線障害との関係を明らかにするため、米国原子力委員会の資金によって米国学士院(NAS)が1947年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC;現放射線影響研究所)は様々な疫学的調査を行った。それら結果及び知見はICRPの勧告などに取り入れられている。放射性降下物(nuclear fallout)

「放射性降下物」、「核実験」、および「第五福竜丸事件」も参照

49.^ 辻本(2001) p.31
50.^ なお、放射線防護体系の「行為の正当化」、すなわち放射線診療の適用の判断は医師・歯科医師によって行なわれ、「防護の最適化」の判断は医師・歯科医師及び診療放射線技師等によって行なわれる。辻本(2001) p.31
51.^ これは、医療被曝は患者にもたらされる利益が大きく、しかも、個々の患者や病状によって必要とされる線量が異なり、線量の上限値を設けることによって、必要な放射線診療が制限されないようにするためである。辻本(2001) p.31
52.^ なお、自然放射線による被曝も含まれない。放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成十二年科学技術庁告示第五号) 第二十四条
53.^ 放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成十二年科学技術庁告示第五号) 第十条第2項第一号、第十四条
54.^ 厚生労働省「放射能暫定限度を超える輸入食品の発見について(第34報)」(2001年11月8日)

参考文献[編集]
辻本 忠, 草間 朋子 『放射線防護の基礎』、2001年、第3版。
草間 朋子、甲斐 倫明、伴 信彦 『放射線健康科学』 杏林書院、1995年。
草間 朋子 『あなたと患者のための放射線防護 Q&A』 医療科学社、2005年、改訂新版。
草間 朋子 『放射能 見えない危険』 読売新聞社〈読売科学選書28〉、1990年。ISBN 4-643-90037-7。
『放射線・アイソトープ 講義と実習』 日本アイソトープ協会(編)、丸善、1992年。
放射線医学総合研究所(編著) 『虎の巻 低線量放射線と健康影響―先生、放射線を浴びても大丈夫? と聞かれたら』 医療科学社、2012年、改訂版。 旧版(2007)
『理科年表』 国立天文台、2012年、平成25年版。
環境放射線モニタリング指針, 原子力安全委員会, (2010)
緊急時環境放射線モニタリング指針, 原子力安全委員会, (2001)
ウェード・アリソン 『放射能と理性-なぜ「100ミリシーベルト」なのか』 徳間書店、2011年。ISBN 978-4-19-863218-2。
松野元 『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』 創英社/三省堂書店、2007年。ISBN 978-4-881-42303-5。
吉川敏一 『フリーラジカルの科学』 講談社、1997年。ISBN 4-06-153650-8。

バナナ等価線量

バナナ等価線量(バナナとうかせんりょう、英: Banana Equivalent Dose, BED)とは、一本のバナナを食べたときに受ける線量を表す単位であるとされている[要出典]。

バナナ100gあたりのカリウム含有量は360mg[1]。カリウム1gあたりのカリウム40(天然存在比0.0117%、半減期12.8億年)は30.4Bq。カリウム40を経口摂取したときの実効線量係数は6.2×10-9Sv/Bqである[2]。 したがって、可食部分が150gと大きめなバナナ一本を基準とすれば、これ一本を食べたときの実効線量が約0.1μSvとなるため、指標として利用しやすいというのである。



目次 [非表示]
1 カリウムの特性
2 その他の食品
3 脚注
4 関連項目


カリウムの特性[編集]

生体必須元素である関係上、成人で約140g程度の一定量が常に体内に保持され排泄調整される。カリウム中のK40の割合も一定であるため、カリウムの摂食量に関わらず成人で約4000ベクレル程のK40を体内に一定に保持し続けることになる[3]。体内のカリウムの量は人体のホメオスタシスによってほぼ一定に保たれているため、バナナを食べても内部線量が長期的に増えることはない。一般的な放射性物質の摂食量のベンチマークとして用いるにはまったく適当でない。この例に限らず、放射性物質の摂食はその核種により蓄積、減衰の仕方がさまざまであるため、評価の仕方は慎重を要する。他の放射性物質の例としてカリウムと挙動の似ているとされるセシウム137では、10Bq連日摂取により体内の放射性セシウム137総量は1400Bq程度で飽和するという報告がある[4]。

その他の食品[編集]

ジャガイモ、インゲン豆、ナッツ、ヒマワリの種はカリウム含有量が多いため、当然自然放射能をやや多く持っている[5]が、これらはバナナと同様に放射能的には無害であると考えることが出来る。最も自然放射能が多いといわれる作物はブラジルナッツで、1kgあたり244.2ベクレルが測定された例がある[6]。これはラジウムの蓄積による部分があるため、カリウムの場合とは同一に考えることは出来ない。ラジウムはカリウムとは異なり人体の必須物質ではないため体内濃度の調整は行われず、吸収されたラジウムの一部は骨内部に不均一に分布する。骨に入れば長く残留、蓄積され、骨をα線で被曝させる。体内のラジウムの量は1.1ベクレルであり、1ベクレルが骨の中に存在し、(通常は)1日の摂取量は0.1ベクレル以下とされている[7]。

脚注[編集]

1.^ miwa-mi. “カリウムの多い食品と食品のカリウムの含有量一覧表”. 簡単!栄養andカロリー計算. 2011年6月28日閲覧。
2.^ 古川路明. “放射能ミニ知識 4. カリウム-40 (40K)”. 原子力資料情報室 (CNIC). 2011年6月28日閲覧。
3.^ http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-01-07
4.^ ICRP Publ. 111 日本語版・JRIA暫定翻訳版
5.^ http://www.councilforeconed.org/ei/lessons/lesson3/lesson3activity3.pdf (PDF)
6.^ Oak Ridge Associated Universities (2009年1月20日). “Brazil Nuts”. 2011年6月28日閲覧。
7.^ 古川路明. “原子力資料情報室(CNIC) - ラジウム-226(226Ra)”. 原子力資料情報室 (CNIC). 2011年9月28日閲覧。

ハウサ人

ハウサ人は、アフリカの民族。主にナイジェリア北部及びニジェール南部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。



目次 [非表示]
1 居住地
2 歴史
3 ナイジェリア独立後
4 ニジェール
5 生活
6 文化
7 脚注
8 外部リンク


居住地[編集]

ナイジェリアではヨルバ人・イボ人と並ぶ三大民族のひとつであり、その中でも最も人口が多いため、建国以来ナイジェリアの実権を握ってきた。一方ニジェールでは人口の過半数をハウサ人が占めるが、1993年の民主化まで国の実権を握ることはなかった。また、この両国、特にナイジェリアにおいてはフラニ人と同化が進んでおり、ハウサ=フラニ人と称されることもある。カノやザリアなどの都市は、ハウサ人中心の都市である。

歴史[編集]

西暦500年から700年の間に、ハウサ人の祖先はヌビア地方からゆっくりと西進してきたと考えられている。11世紀にはカネム・ボルヌ帝国のカヌリ人からイスラム教を伝えられた。

13世紀ごろになると、ハウサ人はハウサ諸王国と呼ばれる7つの都市国家を建設し、サハラ交易に従事するようになった。15世紀にはソンガイ帝国に従属したものの、ソンガイが滅亡すると自立性を回復し、サハラ交易ルートのメインルートもこの地を通るようになったため、ハウサ人は繁栄した。

1809年、ウスマン・ダン・フォディオのジハードによってハウサ人地域のほとんどがソコト帝国領となった。支配者となったフラニ人は、しかしハウサ人と同化していき、現在はほとんど区別がなくなっている。

1904年、ソコト帝国がイギリスに滅ぼされると、北部ナイジェリア保護領としてイギリスの支配下に入った。

イギリス統治下においては間接統治がとられ、現地の権力構造はそのまま維持された。これはハウサ人に安定をもたらすと同時に、イギリスの教育などがハウサ人地域にほとんどいきわたらなかったため、南部のイボ人やヨルバ人に比べ植民地政府の官吏を輩出することができず、南北対立の原因のひとつとなった。

ナイジェリア独立後[編集]

1960年、ナイジェリアが独立すると、ハウサ人は北部人民会議(NPC)を結成して選挙に勝利し、NPCのタファワ・バレワが連邦初代首相となった。ハウサ人は議会での優位を利用しハウサ人寄りの政策を進めたため、特に東部のイボ人の反発を買った。逆にハウサ人は、教育を受け商売が上手いため北部に進出してきているイボ人を警戒した。

1966年1月15日、イボ人のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが発生し、タファワ・バレワ首相など北部系の政治家が殺された。しかし、それに反発したハウサ人が5月にカノをはじめとする北部諸都市でイボ人の虐殺を行い、イロンシ将軍も6月に再び起こったクーデターで殺害され、さらに9月に再びイボ人の虐殺が起きると、ハウサ人主導の政府に反発したイボ人は独立を宣言し、戦争が始まった(ビアフラ戦争)。

ビアフラ戦争が終結したあとも、ナイジェリアにおけるハウサ人の優位は基本的に継続している。

ニジェール[編集]

いっぽう、ニジェールにおいてはハウサ人は最大民族であったものの、支配権は首都ニアメ周辺のジェルマ人(英語版)が握り続けていた。フランス領西アフリカ時代から、フランスはジェルマ人を優遇しており、エリートを輩出していたからである。 ハウサ人が政治の表舞台に立ったのは、1993年の民主化の後のことだった。

生活[編集]

ハウサ人は農耕民族であり、アワ、ヒエ、トウモロコシを中心とする畑作農耕を行っている。ハウサ人のほとんどはイスラム教スンニ派の信者であり、2000年にはハウサ人が多数を占めるナイジェリア北部12州で裁判にシャリーアが導入され、ナイジェリア憲法に違反するとした政府と対立した。

ハウサ人は伝統的に父系社会で、一夫多妻である。

ハウサ人のコミュニティでは、人が死ぬと埋葬までその遺体を当人が死んだ部屋や屋敷内に安置する。数日以上にわたって安置する場合は、体液を抜きミイラ状にする防腐処置を施した上で安置する。火葬は行わない。[1]

文化[編集]

ハウサ人には、民族独自のダンベと呼ばれる格闘技が古来より伝わっている。

ナイジェリア

ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく)、通称ナイジェリアは、アフリカ西部に位置する連邦共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にニジェール、北東にチャド湖を挟みチャド、東にカメルーン、西にベナンと国境を接する。南は大西洋のギニア湾に面し、かつては「奴隷海岸」と呼ばれた。首都はアブジャ。最大の都市はラゴス。

アフリカ最大の人口を擁する国であり、乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった南部との間に大きな違いがある。また、南部のニジェール川デルタでは豊富に石油を産出するが、この石油を巡って内戦や内紛が繰り返されるなど、国内対立の原因ともなっている。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 植民地時代
2.2 自治領
2.3 独立・第一共和政
2.4 第一次軍政
2.5 第二共和政
2.6 第二次軍政
2.7 第三共和政
2.8 第三次軍政
2.9 第四共和政

3 政治 3.1 元首
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法

4 軍事
5 地方行政区分
6 地理
7 経済
8 国民 8.1 言語
8.2 宗教
8.3 教育

9 文化 9.1 文学
9.2 音楽
9.3 映画
9.4 世界遺産
9.5 祝祭日

10 ナイジェリア出身の人物
11 脚註
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称は英語: Federal Republic of Nigeria (- nījĭr'ēə)。通称 Nigeria。

日本語による表記は、ナイジェリア連邦共和国。通称、ナイジェリア。

国名の由来は、国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール (niger) と転訛した。

ニジェール (Niger) とナイジェリア (Nigeria) は本来は同じ地域を指しているが、旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際に、現在のように別の国を指すこととなった。

歴史[編集]

詳細は「ナイジェリアの歴史」および「:en:History of Nigeria」を参照





16世紀のベニン王国の象牙のマスク
紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。

9世紀頃、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀頃に、国土の南西部には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻は後に19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。

密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビール(英語版)で改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国, フラニ帝国)を建国した。


植民地時代[編集]





1897年のベニンシティ
詳細は「:en:Colonial Nigeria」を参照

ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年、オイルリバーズ保護国(英語版)(英語: Oil Rivers Protectorate)。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護国(英語版))。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領(英語版)と南部ナイジェリア保護領(英語版)の二つの保護領に再編成され、1914年一つの保護領en:Colony and Protectorate of Nigeria(1914年 - 1954年)に統合された。

自治領[編集]

留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始。

独立・第一共和政[編集]

詳細は「:en:First Nigerian Republic」および「:en:Nigerian Sharia conflict」を参照

1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。

第一次軍政[編集]





ビアフラ共和国の領域。ビアフラ戦争では100万人以上の死傷者が出た。
詳細は「ビアフラ戦争」を参照

この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺されて、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国を建国し独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。

1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年ムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定。

第二共和政[編集]

詳細は「:en:Second Nigerian Republic」を参照

1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。

第二次軍政[編集]

1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年再度クーデターが起きイブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。

第三共和政[編集]

詳細は「:en:Third Nigerian Republic」を参照

1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが、8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。

第三次軍政[編集]

その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待したものもいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ一人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。

第四共和政[編集]





第5代・12代大統領オルシェグン・オバサンジョ
詳細は「:en:Fourth Nigerian Republic」を参照

かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選した。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。

2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行(英語版)のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。

グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年再び大統領選挙が実施。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生。多数の死者や避難民が生じた[2]。

政治[編集]





第14代大統領グッドラック・ジョナサン
詳細は「ナイジェリアの政治」を参照

ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いているといっていい。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった[3]。3州の政治対立を緩和するため、政府は州を細分化していき、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。いっぽうで各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である[4]。

1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。

1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。

潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく[5]。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。

元首[編集]

大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。

行政[編集]

大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。

立法[編集]

議会は、二院制。上院は、全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。代表議院(下院)は、346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。

司法[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

軍事[編集]

サハラ砂漠以南のブラックアフリカでは南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍等に期待が寄せられている。

[icon] この節の加筆が望まれています。

地方行政区分[編集]

詳細は「ナイジェリアの州」を参照





ナイジェリアの州
ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州 (state) と連邦首都地区(Federal Capital Territory) によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。




1.アビア州 (Abia)
2.アダマワ州 (Adamawa)
3.アクワ・イボム州(Akwa Ibom)
4.アナンブラ州(Anambra)
5.バウチ州 (Bauchi)
6.バイエルサ州 (Bayelsa)
7.ベヌエ州 (Benue)
8.ボルノ州(Borno)
9.クロスリバー州 (Cross River)
10.デルタ州 (Delta)
11.エボニ州(Ebonyi)
12.エド州(Edo)
13.エキティ州 (Ekiti)
14.エヌグ州 (Enugu)
15.ゴンベ州 (Gombe)
16.イモ州(Imo)
17.ジガワ州 (Jigawa)
18.カドゥナ州 (Kaduna)
19.カノ州 (Kano)
20.カツィナ州 (Katsina)
21.ケビ州 (Kebbi)
22.コギ州 (Kogi)
23.クワラ州(Kwara)
24.ラゴス州 (Lagos)
25.ナサラワ州 (Nassarawa)
26.ナイジャ州 (Niger)
27.オグン州 (Ogun)
28.オンド州 (Ondo)
29.オシュン州 (Osun)
30.オヨ州 (Oyo)
31.プラトー州 (Plateau)
32.リヴァーズ州 (Rivers)
33・ソコト州 (Sokoto)
34.タラバ州 (Taraba)
35.ヨベ州 (Yobe)
36.ザムファラ州 (Zamfara)
37.連邦首都地区 (Federal Capital Territory)

地理[編集]





ナイジェリアの地図
詳細は「ナイジェリアの地理」を参照

ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419mである。国土は多様で、南部は年間約2,000mmの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500mmのサバナが広がっている。

経済[編集]

詳細は「ナイジェリアの経済」を参照





ラゴスはナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数のメガシティである。
IMFの統計によると、2010年のナイジェリアのGDPは2066億ドルであり[6]、日本の福岡県とほぼ同じ経済規模である[7]。 ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトと共にNEXT11にも数えられており、経済規模は南アフリカ、エジプトに次ぎアフリカ第3位と経済規模も大きい。





色と面積で示したナイジェリアの輸出品目
石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだった。南部では輸出用作物としてカカオやアブラヤシ、サトウキビ、自給用としてキャッサバ、ヤムイモが栽培され、北部では輸出用作物として落花生、自給用としてトウジンビエ、トウモロコシがおもに栽培されており、それぞれ世界有数の生産国であった。しかし政府歳入の80%、GDPの40%を石油に頼る過度の石油依存により、カカオを除く在来の輸出農業は衰退。さらに政治の腐敗、放漫財政とオイルブーム後の巨額の累積債務のため、経済は低迷を続けている[8]。

国内の市場そのものは大きいのだが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループの一つであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブス (雑誌)の長者番付にランクインした[9]。

最大都市ラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向は、ラゴスを始めとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手。中国からの借款により資金を融通。中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。

ナイジェリアの学校教育の水準は比較的高く、また電子機器やプログラミングなどに関する教育も盛んであるが、高度な教育を受けた学卒者たちの多く(4分の1以上)は失業状態にある。そのため、いくつかの若者が不法移民輸送や麻薬密輸ほか、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(いわゆる「ナイジェリアの手紙」詐欺)など犯罪にかかわる状態があるという。その他、暴力犯罪でもヨハネスブルグ、ナイロビ等とならび評判が悪い。オバサンジョ政権は、詐欺・経済犯罪や暴力組織の壊滅にむけ、世界各国の捜査機関と協力しながら努力している。

国民[編集]

詳細は「ナイジェリアの国民」および「:en:Demographics of Nigeria」を参照





ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布
ナイジェリアはアフリカ最大の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5〜1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。以下、イジョ人 10%、カヌリ人(英語版) 4%、イビビオ人(英語版) 3.5%、ティブ人 2.5%、他にEdo、Ebira、Nupe、Gwari、イツェキリ(英語版)、Jukun、Urhobo、イガラ人、Idoma、Kofyar、オゴニ、アンガス人らがいる。民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。

言語[編集]

ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。[10][11]

宗教[編集]

主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている[12]。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラーム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する[13]。

独立後、キリスト教とイスラーム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25%以上がキリスト教であるカドナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた[14]。

2010年3月にはベロムでイスラーム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある[15]。

教育[編集]

学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60から70%と低い。

2003年の15歳以上の人口の識字率は約68%(男性:75.7%、女性:60.6%)であると見積もられている[16]。

主な高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。

文化[編集]

詳細は「ナイジェリアの文化」および「:en:Culture of Nigeria」を参照

文学[編集]





ノーベル文学賞作家、ウォーレ・ショインカ
詳細は「ナイジェリア文学」を参照

「アフリカ文学」も参照

ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である[17]。

文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったヨルバ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、別名グスターヴァス・ヴァッサ自著の生涯の興味ある物語(英語版)』(1789)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている[18]。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。

現代の代表的な作家としては、40カ国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958)[18]のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。

その他、ケン・サロ=ウィワ、フェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。

音楽[編集]





キング・サニー・アデ
詳細は「ナイジェリアの音楽」および「:en:Music of Nigeria」を参照

クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。

19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展をつづけ、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。

また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。

1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。

映画[編集]

詳細は「ナイジェリアの映画」および「:en:Cinema of Nigeria」を参照

「アフリカ映画」も参照

年間に製作される映画の本数は約800本と、インドに続き世界二位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されているわけなので、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界一位である。製作される映画は英語の物と現地語の物がほぼ半分ずつだと言われている。

世界遺産[編集]

詳細は「ナイジェリアの世界遺産」を参照

ナイジェリア連邦共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。





スクルの文化的景観 - (1999年、文化遺産)






オシュン=オショグボの聖なる木立 - (2005年、文化遺産)


祝祭日[編集]

ナイジェリア出身の人物[編集]

詳細は「ナイジェリア人の一覧」および「:en:List of Nigerians」を参照
イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ(国際連合事務次長、国際連合事務総長特別顧問)
アキーム・オラジュワン(バスケットボール選手)
オーガスティン・オコチャ(サッカー選手)
ホーガン・バッセイ(ボクサー。元世界フェザー級チャンピオン)
サミュエル・ピーター(ボクサー。世界ヘビー級チャンピオン)
ボビー・オロゴン(タレント、格闘家。現在は日本国籍)
アンディ・オロゴン(タレント、格闘家。ボビー・オロゴンの弟)
キザイア・ジョーンズ(ミュージシャン&ギターリスト。ブルースとファンクを融合させた『ブルーファンク』なるジャンルを提唱。アコースティックギターを超絶テクニックでスラップするそのファンキーなテクニカルプレー・音楽性はヴィジュアル系アーティスト雅や元祖渋谷系シアターブルックの佐藤タイジなどに多大な影響を与えた)
フェラ・クティ(ミュージシャン。アフロビートの創始者で「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる)
シャーデー・アデュ(イギリスのバンド・シャーデーのボーカル、モデル。父はヨルバ人でイバダンの出身)

脚註[編集]

[ヘルプ]

1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53
3.^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501
4.^ 「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136
5.^ 松本仁一『カラシニコフI』朝日新聞出版、2008年7月30日 p.177
6.^ IMF
7.^ 国民経済計算
8.^ 「ビジュアル データ・アトラス」同朋舎出版 p354 1995年4月26日初版第1刷発行
9.^ 「アフリカ 動き出す9億人市場」ヴィジャイ・マハジャン著 松本裕訳 英治出版 p108-110 2009年7月20日発行
10.^ E・カリ「多言語状況データベース ナイジェリア」、〈アジア・アフリカの多言語状況データベース〉東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
11.^ 中村博一「第13回「世界の教科書展」特集「ナイジェリアの教育と教科書」」文教大学教育研究所
12.^ 外務省
13.^ NHK-BS1「きょうの世界」2月10日放送回より
14.^ 戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」
15.^ イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア 2010年07月18日 10:44 AFPBB
16.^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ni.html 2009年10月18日閲覧
17.^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
18.^ a b 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12

参考文献[編集]
岡倉登志:編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店 2002/12
戸田真紀子『アフリカと政治 紛争と貧困とジェンダー』御茶の水書房、2008
牧英夫『世界地名ルーツ辞典』1989/12

カノ

カノ(Kano)はナイジェリアの都市。カノ州の州都。ナイジェリア北部の経済・文化における中心都市。国際空港もあり各地と航路でも結ばれている。人口は約362万6千人(2005年)。

概要[編集]

ハウサ人が1000年頃に王国を建て、ハウサ諸王国のひとつカノ王国(英語版)として繁栄した。ムスリム商人の活動にともなって12世紀ころよりイスラーム化が進んだと考えられる。サハラ縦断貿易の要所であり、金・塩・奴隷・象牙などを扱う交易拠点として発展した。15世紀に土で作られた城壁が拡張された。(現在も残されている。)

1805年、カノ首長国(英語版)が成立。1809年、他のハウサ諸国と同じくフラニ帝国によって征服される。19世紀末にはこの地で「カノ年代記」が編まれ、ハウサ諸王国の歴史を伝える貴重な史料となっている。19世紀より西欧の探検家が足を踏み入れ、20世紀初頭よりイギリスによる植民地化が進んだ。鉄道敷設が進められ、1912年にはカノとラゴスを結ぶ鉄道が開通した。

独立後の1953年にヨルバ族とイボ族の間でen:Kano riot of 1953が起こった。1966年、カノなど北部の都市で、ハウサ・フラニ人のイボ人に対する虐殺が行われ、数千人が犠牲となった。このことがナイジェリア南東部におけるビアフラ共和国の独立を発端とする1967年のビアフラ戦争の契機となった。

ピーナッツの生産、集散地として知られる。街にはアド・バイェロ大学があり、ナイジェリア北部における教育の中心地でもある。近隣の都市としては、約130キロ南西のザリア、200キロ西のグザウなどが挙げられる。ニジェールとの国境まで約100キロ程度であり、約200キロ北にニジェールのジンデルが位置している。

カーナライト

カーナライトは、塩化カリウム・マグネシウムの水和物 (KMgCl3・6H2O)からなる蒸発岩鉱石である。カーナライトは黄、白、赤色と様々な色を取りやすく、しばし無色もしくは青色となる。通常は、珍しい六方対称性の晶癖を示す斜方晶を伴った繊維状の塊である。この鉱石は吸湿性であるため、標本は密閉容器内に保管される。



目次 [非表示]
1 産出
2 歴史
3 出典
4 関連項目


産出[編集]





ロシア産のカーナライト
カーナライトは、一連のカリウム・マグネシウム系の蒸発岩鉱石であるカリ岩塩(英語版)、カリナイト(英語版)、ピクロメライト、雑鹵石(英語版)およびキーゼル石(英語版)に伴って産出する。幾分か珍しい複塩化物鉱石であり、蒸発した海や堆積盆地などの限られた環境条件の下でのみ形成される。カーナライトはカリウムおよびマグネシウム資源として採掘され、メキシコのカールズバッド (ニューメキシコ州)、アメリカのコロラド州からユタ州に広がるパラドックス盆地(英語版)、ドイツのシュタースフルト(英語版)、ロシアのペルム盆地、カナダのサスカチュワン州にあるウィリストン盆地(英語版)などにある蒸発岩鉱床にから産出される。これらの鉱床は、デボン紀からペルム紀に起源を持つ。対照的に、イスラエルおよびヨルダンでは死海の高濃度な塩水を蒸発皿でカーナライトの沈殿が生じるまで濃縮させることでカリ塩を生産しており、その後蒸発皿からカーナライトを回収し、塩化マグネシウムの除去処理が行われる[3]。

歴史[編集]

1856年、カーナライトはドイツのザクセン=アンハルト州にあるシュタースフルト鉱床から産出する鉱石の種類として初めて解説された。カーナライトという名称は、プロイセン人の鉱山技師であったルドルフ・フォン・カーナル (1804 - 1874)にちなんで名付けられた[3]。

出典[編集]

1.^ “General Carnallite Information”. Webmineral data. 2011年10月3日閲覧。
2.^ “carnallite”. Handbook of Mineralogy. 2011年10月3日閲覧。
3.^ a b c “Carnallite”. Carnallite on Mindat. 2011年10月3日閲覧。

ジョン・ウィリアム・ストラット

第3代レイリー男爵ジョン・ウィリアム・ストラット(英: John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh、1842年11月12日 - 1919年6月30日)は、イギリスの物理学者。レイリー卿(レーリー卿あるいはレーリ卿とも。Lord Rayleigh)としても知られる。光の散乱の研究から空が青くなる理由を示す(レイリー散乱)、地震の表面波(レイリー波)の発見、ラムゼーとの共同研究によるアルゴンの発見、熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズの法則の導出などを行った。このほかにも流体力学(レイリー数)や毛細管現象の研究など、古典物理学の広範な分野に業績がある。

「気体の密度に関する研究、およびこの研究により成されたアルゴンの発見」により、1904年の ノーベル物理学賞を受賞した。



目次 [非表示]
1 業績 1.1 レイリー散乱
1.2 レイリー波の発見
1.3 アルゴンの発見
1.4 レイリー・ジーンズの法則

2 年表
3 生涯 3.1 生い立ち
3.2 初期の研究
3.3 ケンブリッジ
3.4 王立研究所
3.5 熱放射
3.6 晩年

4 出典
5 関連項目
6 外部リンク


業績[編集]

レイリー散乱[編集]

1871年、レイリーは波長より十分小さい粒子による光の散乱を表す式を導いた。これはレイリー散乱と呼ばれ、それによれば散乱光の強度は波長の4乗に反比例する。晴れた大気の場合、散乱をおこす粒子はほとんどが空気の分子のみ(このような大気をレイリー大気という)で、太陽光の可視波長よりも粒子サイズが十分小さいためこの理論で説明できる。

雲の水滴(直径数μm)や大気中の塵などのエアロゾルは波長に比べて十分小さいとはいえないので、この理論は当てはまらない。

レイリー波の発見[編集]

アルゴンの発見[編集]

レイリー・ジーンズの法則[編集]

年表[編集]
1842年 - エセックス州モールドン近郊のラングロード・グローブに生まれる。
1861年 - ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学(-1865年)。
1871年 - バルフォアの姉妹イヴリン・バルフォアと結婚。
1873年 - 父親ジョン・ジェームズ・ストラットの死去によって爵位を継承し、レイリー卿となる。また、王立協会会員となる[1]。
1879年 - マクスウェルの後任として第2代のキャヴェンディッシュ研究所所長となる( - 1884年)。
1884年 - マクスウェルから引き継いだ、電磁気学の基礎単位の精密な基準を定めるプロジェクトを完成させる。
1885年 - 王立協会幹事となる( - 1896年)。
同年、現在レイリー波と呼ばれる地震波(表面波)を発見。1887年 - ロンドン王立研究所の自然哲学教授となる( - 1905年)。
1892年 - 空気から酸素を除いて作った窒素が、アンモニアを分解して作った窒素より重いことを示す。
1894年 - ラムゼーと共同でアルゴンを発見。
1900年 - レイリー‐ジーンズの式を導出。
1901年 - エーテルを見つけるための実験を行うが、失敗に終わる。
1904年 - ノーベル物理学賞を受賞。
1905年 - 王立協会会長となる。
1908年 - ケンブリッジ大学名誉総長となる。
1919年 - エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去。爵位は息子で物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

レイリーは1842年11月12日、エセックス州モールドン近くのラングロード・グローブで、第二代レイリー男爵ジョン・ジェームズ・ストラットの息子として生まれた。1861年まで家庭教師から教育を受けたが、若いうちは病弱で、勉学はたびたび中断された。その後ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入って数学を勉強した。1865年に卒業すると翌年トリニティ・カレッジのフェローとなり、結婚するまでその地位にあった。卒業後アメリカに旅行し、帰国後にターリング・プレイスの自宅に実験器具を取り寄せて研究を始めた。彼の研究は、キャヴェンディッシュ研究所所長であった期間を除きほとんど自宅で行われた。

初期の研究[編集]

1860年代から1870年代にかけてレイリーが自宅で行った研究は、主に音波や光波の性質に関するものだった。1870年にはヘルムホルツの研究を発展させて音の共鳴に関する論文を発表した。1871年には「空が青いのは空気中の塵が光を散乱するからである」というティンダルの推論を理論的に証明した。この、光の波長と粒子の大きさがほぼ等しいときの光の非弾性散乱はレイリー散乱と呼ばれている。つづいて回折格子に興味を持ち、分解能に精密な定義(レイリー限界)を与えて分光器の発展に貢献した。

レイリーは1872年にリュウマチ熱を患い、暖かい土地での療養を余儀なくされた。そのために訪れていたエジプトのナイル河畔で、音響学の古典『音響理論(The Theory of Sound)』を執筆した。

1873年に爵位を相続した後も彼は研究を続けたが、これは貴族としては風変わりなものと見られた。

ケンブリッジ[編集]

1879年、レイリーはケンブリッジ大学の実験物理学のキャヴェンディッシュ教授に就任した。ここではマクスウェルの仕事を引き継いで精密測定技術の改良を進め、1884年には電磁気学の単位(アンペア、ボルト、オーム)の標準を定めた。また彼は電位差を精密に測定するためにレイリー電位計を発明した。この研究はイギリスにおける標準化の先駆といえるもので、レイリーは1900年に標準局(イギリス国立物理学研究所)が設立されると、終生その運営理事会議長を務めた。

王立研究所[編集]

1887年、レイリーは王立研究所教授に就任したが、もっぱら自宅で研究をして過ごした。この時期彼は「全ての元素はいくつかの水素からなり、そのため全ての元素は整数の原子量を持つ」というプラウトの仮説の実験的検証のため、いくつもの気体密度の精密測定を行った。彼の得た結果は他の物理学者の実験と同様この理論を否定した。しかしそれに付随して、空気中の窒素の密度はアンモニアを分解して得た窒素より0.5%程度大きいということも見出した。当然彼はその誤差の原因となる不純物が試料に含まれないよう工夫したが、問題を解決することはできず、1892年に「ネイチャー」に短いノートを発表して化学者の助けを求めた。

それから2年間、レイリーはラムゼーと共同でその原因を研究した。そしてついに空気中に存在する新元素アルゴンが不純物であることを突き止め、1895年に発表した。この業績により、彼は1904年のノーベル物理学賞を、ラムゼーはノーベル化学賞を受賞した。

熱放射[編集]

1900年、レイリーは黒体放射のエネルギーを与える式を導いた。これは古典物理学から導かれたが、長波長域でしか実験結果と一致しない。短波長側の実験結果とよく一致する式はヴィーンによって提案されていた。

レイリーの提案した式の定数は1905年に求められたが、ジーンズによってその誤りが訂正されたのでレイリー・ジーンズの法則の名前がある。

晩年[編集]

当時現れつつあった量子論や相対論に対して、レイリーは機械論的な古典物理学の立場から辛辣な批判を加えた。彼は最後まで熱放射を古典物理学で説明する望みを捨てず、エーテルを不要にする相対論を嫌悪をもって見ていたといわれる。

レイリーは1919年6月30日に、エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去した。彼には三人の子供がおり、爵位は長男で物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。

出典[編集]

[ヘルプ]


1.^ “Strutt; John William (1842 - 1919); 3rd Baron Rayleigh” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。

関連項目[編集]
レイリー方程式
レイリー円板 - 音の強さを測定する装置
レイリー干渉計
レイリー散乱 - 光の散乱の一種
レイリー・ジーンズの法則 - 古典論における黒体放射の法則
レイリー数 - 対流に関する無次元数
レイリーテイラー不安定性
レイリー電位計
レイリー波 - 半無限弾性体の表面を伝わる弾性波
レイリー (単位)
レイリー分布
ジョン・ティンダル
ヴィルヘルム・ヴィーン
ジェームズ・ジーンズ
マックス・プランク
レイリー・メダル
イギリス音響学会

イーオー

イーオー(古希: Ἰώ, ラテン文字転写: Īō、ラテン語: Io)は、ギリシア神話に登場する女性。長母音を省略してイオとも表記される。ゼウスの恋人であり、牝牛に姿を変えられてギリシアからエジプトまで各地をさまよった。

イーオーの生まれに関しては諸説があり、アイスキュロスら悲劇詩人の多くやオウィディウス、ヒュギーヌス、年代記作者のカストールらは河の神イーナコスの娘であるとし、ヘーシオドス、アクーシラーオスによればペイレーンの娘とする。アポロドーロスはイーアソス[1]の娘との説も紹介している。

イーナコスはアルゴス地方(アルゴリス)を流れる河であり、アルゴスはゼウスの妃ヘーラー信仰の中心地であった。イーオーはアルゴスでヘーラーに仕える女神官を務めたとされる。



目次 [非表示]
1 神話 1.1 牝牛の姿にされる
1.2 彷徨
1.3 その後
1.4 プロメーテウスの予言

2 論考
3 関連項目 3.1 ギリシア神話
3.2 イーオーにちなんだ命名、地名
3.3 イーオーが登場する作品

4 系図
5 脚注
6 参考文献


神話[編集]





ヘーラー(上)、ゼウス(左)、牝牛にされたイーオー(右)。en:Giovanni Ambrogio Figino画(1599年)。it:Pinacoteca Malaspina
以下は、主としてアポロドーロス(II巻1.3)に基づく。

牝牛の姿にされる[編集]

イーオーはヘーラーの神職にあったが、ゼウスがこれを犯した。ヘーラーに発見されたゼウスはイーオーを白い牝牛の姿に変え、交わっていないと誓った。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞い受け、全身に眼がある「普見者(パノプテース)[2]」アルゴスを見張りに付けた。

アルゴスは牝牛をミュケーナイの森の中に連れて行き、一本のオリーブの木につないだ。ゼウスは、ヘルメースに牝牛を盗むよう命じた。しかし、ヒエラクス[3]がこのことをしゃべってしまい、ヘルメースは秘密裏に盗み出すことができず、石を投げつけてアルゴスを殺した[4]。このことからヘルメースは「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」と呼ばれるようになった。

彷徨[編集]

イーオーは解放されたが、ヘーラーが牝牛に虻(アブ)[5]を送ったため、牝牛は逃げ惑ってイオーニア湾(イオニア海[6])、イリュリアーを通過し、ハイモス山を経て当時トラーキア海峡と呼ばれていた海を渡った。後にこの海峡はボスポロス(ボスポラス海峡[7])と呼ばれるようになった。さらにスキュティアー、キメリアーなど広大な地をさまよってエジプトに至り、この地でイーオーは元の人間の姿に戻った。

その後[編集]

イーオーはナイル川の河辺でゼウスとの子、エパポスを生んだ。ヘーラーがクーレースたちに命じてエパポスを隠したため、ゼウスはクーレースたちを殺し、イーオーは息子を捜しに出かけて、シリアのビュブロス王の下で養育されていたエパポスと巡り会った。エジプトに戻ったイーオーは、この地の王テーレゴノスと結婚した。

イーオーはこの地にデーメーテールの像を建て、エジプト人はデーメーテールとイーオーをイーシスと呼んだ[8]。エパポスは長じてエジプト王となり、ナイル川の娘メムピスと結婚し、妃の名に基づくメムピス市を創建した。二人の娘リビュエー[9]とポセイドーンとの間にアゲーノールとベーロスの双子が生まれた。

プロメーテウスの予言[編集]

なお、アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』では、イーオーはヘーラーの虻に追われて逃亡するうちにスキュティアーの岩山に縛り付けられたプロメーテウスに出会う。プロメーテウスは、イーオーがさらに各地をさまよった末にエジプトで元の姿に戻り、エパポスを生むこと、イーオーの子孫の13代目の末裔[10]がプロメーテウスを解放するだろうと予言する[11]。

論考[編集]





コレッジョによるイーオーとゼウス(1531年ごろ)。ウィーン美術史美術館
ハンガリーの神話研究家カール・ケレーニイは、イーオーについて、「さまよい歩く月の牝牛の物語」のヒロインとし、エウローペー(この物語ではゼウスが牡牛の姿を取った)を探すカドモスが、牝牛(横腹に満月を描いたとされる)の後を追ってカドメイア(のちのテーバイ)を創建した神話との共通性を指摘している。また、ヘーロドトスの著述では、イーオーはヘーラーによって鼻鉗(はなばさみ)でアルゴスからエジプトまで追われたとし、エパポスは、これこそエジプトの神牛アーピスにほかならないとする。イーオーがエジプト人の女神イーシスと似ていることの出典についてはスーイダースを挙げる[12]。

イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、アルゴスの人々は新月を牝牛の角に見立てて崇拝していた。このことからイーオーは雨をもたらす月の女神の化身だったとする。また、イーオーの物語は本来関係のない二つの物語が原型にあり、これにいくつかの要素が加わってできたのではないかと考察している。二つの物語とは、ひとつは月の神獣である牝牛が星々に守られて大空をめぐる話で、アイルランド伝説にも同種の話がある。もうひとつは、ギリシアに侵入したヘレーネスの指導者(ゼウス)が月の巫女を陵辱した話で、イーオーとは「牝牛の眼を持った」ヘーラーの異名にほかならない。加えられた要素としては、虻に追われて牛が狂い回る仕草は、雨乞いの儀式であり、アルゴス人の植民地がエウボイア島からボスポロス、黒海、シリア、エジプトへと広がっていったことに伴い、この祭式も東漸したことを示す。また、ギリシアにおけるイーオー信仰が、エジプトのイーシス、シリアのアスタルテー、インドのカリのそれぞれの信仰と類似していることの説明であるとしている[13]。

関連項目[編集]

ギリシア神話[編集]
イーナコス イーオーの父とされる河の神。
アルゴス イーオーの見張り役。全身に眼があり、「普見者」と呼ばれた。エキドナを殺したとされる。
エパポス イーオーとゼウスの息子。パエトーンの神話にも登場する。

イーオーにちなんだ命名、地名[編集]
イオ (衛星) 木星の衛星で、「ガリレオ衛星」の一つ。
イオニア海
ボスポラス海峡

イーオーが登場する作品[編集]
『縛られたプロメテウス』 アイスキュロスによるギリシア悲劇。紀元前469年ごろの成立と見られる。三部作の一とされるが、他の二作は失われた。

系図[編集]

ウーラノス

ガイア

















































オーケアノス

テーテュース





































イーナコス





































イーオー





































エパポス



























































リビュエー









リューシアナッサ











































ベーロス

アゲーノール

ブーシーリス





脚注[編集]
1.^ イーアソスはアルゴスとイスメーネーの子であり、イスメーネーはアーソーポスの娘であるから、この説に従えば、アルゴスはイーオーの祖父に当たる。
2.^ 普見者とはあまねく見る者(the All-seeing)の意。
3.^ ヒエラクスについては他に言及がない。
4.^ オウィディウスは、アルゴスについて頭の周囲に100の眼を持つとし、ヘルメースが葦笛(パンパイプ)を吹き鳴らし、シュリンクスの物語(葦笛が発明されたいきさつ)を語るなどしてアルゴスを眠らせる様子を詳述している。 p.41
5.^ ヒュギーヌスはヘーラーが送ったのは「恐ろしい化け物」としているが、それが具体的になんなのかは示していない(pp.208-209)。また、オウィディウスはヘーラーがエリーニュースをけしかけたとする(p.45)。
6.^ ヒュギーヌスは「イオーニア海」(イーオーの海)と表現し、さらにアイスキュロスもイーオーをその名祖としているが、高津はイーオーでは母音の長さが異なることから、イオニオスを名祖としている。
7.^ ギリシア語 Βόσπορος は通俗語源説で 「牝牛の渡し」 の意。牝牛に変身したイーオーが渡ったことから。
8.^ 高津によれば、イーオーは死後星になったと伝えられた。
9.^ リビュエーはリビアの名の由来。なお、ヒュギーヌスはリビュエーをエパポスとカッシオペーの娘とする。p.213「エパポス」
10.^ プロメーテウスを解放するのは、ヘーラクレースである。アイスキュロス p.477 高津春繁による解説。
11.^ この予言は、元はプロメーテウスの母テミスのものである。アイスキュロス p.49
12.^ ケレーニイ p.128「ゼウスとその妻たち」
13.^ グレーヴス pp.168–171「イーオー」

参考文献[編集]

ウィキメディア・コモンズには、イーオーに関連するメディアがあります。
アポロドーロス著、高津春繁訳註 『ギリシア神話』 岩波文庫、1978年改版。
ヒュギーヌス著、松田 治・青山照男訳註 『ギリシャ神話集』 講談社文庫、2005年。ISBN 4061596950。
オウィディウス著、中村善也訳 『変身物語』 岩波文庫、1981年。
アイスキュロス著、呉茂一他訳、高津春繁解説 『縛られたプロメテウス(「ギリシア悲劇I アイスキュロス」より)』 筑摩書房、1985年。ISBN 448002011X。
高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店、1960年。
カール・ケレーニイ著、高橋英夫訳 『ギリシアの神話(神々の時代)』 中央公論社、1974年。
ロバート・グレーヴス著、高杉一郎訳 『ギリシア神話(上)』 紀伊國屋書店、1962年。
B.エヴスリン著、小林稔訳 『ギリシア神話小事典』 社会思想社現代教養文庫、1979年。ISBN 4390110004。
創元社編集部編 『ギリシア神話ろまねすく』 創元社、1983年。ISBN 4390110004。

錬金術

錬金術(れんきんじゅつ、英: alchemy)とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。

広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており[1]、実験道具が発明された。その成果は現在の化学 (Chemistry) にも引き継がれている[2][3][4]。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 古代ギリシア
2.2 イスラム錬金術
2.3 西ヨーロッパの錬金術
2.4 東洋の錬金術
2.5 中国の錬金術
2.6 錬金術への批判

3 錬金術と科学 3.1 錬金術と心理学
3.2 錬金術と文芸学

4 錬金術の成果
5 錬金術という語の転用
6 現代の科学による金の生成 6.1 核分裂によるもの
6.2 核融合によるもの

7 錬金術師および関係のある人物の一覧
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク


概要[編集]





『賢者の石を求める錬金術師』ライト・オブ・ダービー作(1771年)
一般によく知られた錬金術の例としては、物質をより完全な存在に変える賢者の石を創る技術がある。この賢者の石を用いれば、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができるという。

なお、一般的には鉛から金への物質変成など「利殖」が目的とされるイメージが強い錬金術ではあるが、本来は「万物融解液」により、物質から「性質」(例えれば金を金たらしめている性質)を具現化させている「精」(エリクシール)を物質から解放し、「精」そのものの性質を得ることがその根元的な目的であり(この場合、金のエリクシールの取得は過程であって目的ではない)、生命の根元たる「生命のエリクシール」を得ること、つまりは不老不死の達成こそが錬金術の究極の目的であった。なお、万物融解液を発見したと自称する錬金術師はいたようだが、単にガラスを溶かし、蝋を溶かせない液体、つまりはフッ化水素の発見に過ぎなかった。

「生命のエリクシール」は人体を永遠不滅に変えて不老不死を得ることができるとされ、この場合は霊薬、エリクサーとも呼ばれる(なお、賢者の石が文献上に記述されるのはエリクサーよりかなり後である)。それ故、錬金術は神が世界を創造した過程を再現する大いなる作業であるとされる。錬金術で黒は富や財産を表し、白は不老不死の永遠、赤は神との合一を意味する。

特に中世ヨーロッパにおいて長期間にわたって行われたが、これは西洋において他の学問などと同様に一度失伝[2]した錬金術がイスラム世界から再導入されたものである。Alchemy(アルケミー)はアラビア語 Al kimiyaに由来し、Al はアラビア語の定冠詞(英語ではtheに相当)であり[5]、この技術がイスラム経由で伝えられたという歴史的経緯を示す[6]。

語源については通説は定まっていない。
1.エジプトの地の意のKham(聖書でもHamとして使われた)から、Khemeiaはエジプトの術の意味だという。
2.古希: χυμός 希: Khumos(植物の汁の意)で、古希: χημεία 希: Khemeiaは汁を抽出する術の意味だという。

錬金術とは一般の物質を「完全な」物質に変化・精錬しようとする技術のことであり、さらには人間の霊魂をも「完全な」霊魂に変性しようという意味を持つこともあった(=神に近づく、神になる、神と合一する方法ともいえよう)。





ホムンクルスを作り出す錬金術師。
またホムンクルスのように、無生物から人間を作ろうとする技術も、一般の物質から、より完全な存在に近い魂を備えた人間を作り出すという意味で錬金術と言える。

錬金術に携わる研究者を錬金術師と呼ぶ。特に高等な錬金術師は、霊魂の錬金術を行い神と一体化すると考えられたので、宗教や神秘思想の趣きが強くなった。

最も真理に近付いた錬金術師は(古代の伝説上の人物)ヘルメス・トリスメギストス(3倍偉大なヘルメスの意[7])と言われ、著したとされる『ヘルメス文書』、『エメラルド・タブレット』は尊重された[8]。





ウロボロス
『ヘルメス文書』はあるアラブ人の手によってエジプトのギザの大ピラミッドの内部にあるヘルメス・トリスメギストスの墓から発見されたといわれるエメラルド板に記された文書である。当然ながら原版は現存せず、中世に書かれた写本が現在に残る最も古い完全な写本である。そのためその歴史的信憑性は長年怪しまれてきたが、1828年エジプトのテーベで発見された[9]魔術師の墓から見つかったパピルス[10]に『ヘルメス文書』、『エメラルド・タブレット』の写しの一部が記述されていたため、現在ではその歴史的価値は一応認められているといえよう。ちなみにこのパピルスは現在「ライデン・パピルス」と呼ばれ[10][9]、エジプト考古学博物館に保管されている。

錬金術は、中世ヨーロッパの非キリスト教に対して行われた弾圧に対して、弾圧される側の人々が非キリスト教的な知識や行動をごまかすために使った手段である。カール・グスタフ・ユングが「錬金術は、地表を支配しているキリスト教に対して、いわば地下水をなしている」というものである。錬金術は相対立する物質(要素)をフラスコの中で溶解させることで新たな物質を作り出し、相異する二つの卑金属を合成して黄金などの成果を生み出すことで、神秘主義や魔術を含む異教の知識に関わっていた人々が、富豪や権力者の保護を受けることが出来た。

歴史[編集]

古代ギリシア[編集]





古代ギリシアの四元素説
西洋錬金術の起源は古代エジプトの冶金術にあると考えられる[10]。また、古代ギリシアで、アリストテレスの質料・形相論から、卑金属の形相をとり質料因としこれに形相因を与えて金にするという理論がアレキサンドリアで発達した。これにはアリストテレスの四元素説(火・地・空気・水の4リゾータスがアルケーとして万物を構成しているとする)が影響を与えた。

3世紀頃のものといわれる『ライデン・パピルス』には宝石の作成方法が101種類、『ストックホルム・パピルス』(1828年にエジプトのテーベで発見された[10])には宝石の作成方法が73種類、金属変性法が7種類、着色法70種類が記載されている。

イスラム錬金術[編集]

アレキサンドリアの錬金術はギリシャ哲学などとともにイスラムに伝わった[2]。 有名な錬金術師は中世錬金術の祖ジャービル・イブン=ハイヤーン、ラテン名ジーベル(他にゲベル、ジャビル)とされる。

次いで9世紀のアル・ラーズィー、10世紀のイブン・スィーナー(ラテン名アウィケンナ)、またラゼスと呼ばれる学者などが名高い。

十字軍以降イスラムの文献がヨーロッパに翻訳されて紹介され、錬金術書も西ヨーロッパに知られるようになった。

西ヨーロッパの錬金術[編集]





17世紀の錬金術の本からの抜粋および鍵となる象徴記号(シンボル)。ひとつひとつのシンボルは当時の占星術で使われていたそれと、一対一の対応関係にある。
1144年2月11日[11]、チェスターのロバート (Robert of Chester) が『Morienus(モリエヌス)』を『錬金術の構成の書』としてアラビア語からラテン語に翻訳した[12] のが最初とされる(また、バスのアデラードが錬金術を紹介した)。それから錬金術が注目を集めるようになり、13世紀以降に大きく発展した。初期の有名錬金術研究者、スコラ学者のアルベルトゥス・マグヌス(ヒ素を発見したとされる[13])、トマス・アクイナスやロジャー・ベーコンは金属生成の実験に関心を持ち実践した。

ルネサンス期の有名な医師・錬金術師パラケルススはアリストテレスの四大説を引き継ぎ、アラビアの三原質(硫黄、水銀、塩)の結合により[14]、完全な物質であるアルカナ(エリクサー)が生成されるとした。なお、ここで言う塩、水銀、硫黄、金などの用語は、現在の元素や化合物ではなく象徴的表現と解釈する必要がある。彼を祖とする不老長生薬の発見を目的とする一派はイアトロ化学(iatro-chemistry)派と呼ばれた。

また、アイザック・ニュートンも錬金術を研究し[15]、著作した[16]。

詳細は「アイザック・ニュートンのオカルト研究#ニュートンの錬金術研究と著書」を参照

東洋の錬金術[編集]

錬金術と同様の試みはインド(有名な錬金術師に龍樹がいる)や中国などにおいても行われた。また、タントラ教の考え方も錬金術の影響があるとされる説もある。 その歴史は中世ヨーロッパの錬金術より古いが、両者は別個に起こったものと考えるのが通説である(異論もある)。

中国の錬金術[編集]





『抱朴子』内篇
中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である[17]。

詳細は「錬丹術」を参照

仙丹を得るという考え方は同一であるが、気を整える呼吸法や瞑想等の身体操作で、体内の丹田において仙丹を練ることにより仙人を目指す内丹術とは区別される[17]。

詳細は「内丹術」を参照

錬金術への批判[編集]

すでに、アルベルトゥス・マグヌスは『鉱物書』において、自分で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにすぎないと述べており、金を作ることに対して疑問がだされていた[9]。 後世に数々の検証から化学が成立していった。

錬金術と科学[編集]





錬金術の素材親和力表(E.R. Geoffroy作、1718年)[18]




化学の元素周期表
詳細は「化学の歴史」を参照

現代人の視点からは、卑金属を金に変性しようとする錬金術師の試みは否定される。だが、歴史を通してみれば、錬金術は古代ギリシアの学問を応用したものであり、その時代においては正当な学問の一部であった。そして、他の学問同様、錬金術も実験を通して発展し各種の発明、発見が生み出され、旧説、旧原理が否定され、ついには科学である化学に生まれ変わった。これは歴代の錬金術師の貢献なくしてはありえなかったともいえる[3]。

過去の文献からは、成立し始めた自然科学が錬金術を非科学的として一方的に排斥しているわけではなく、むしろ両者が共存していたことが見てとれる。様々な試行錯誤を行う錬金術による多様な分離精製の事例は、化学にとって格好の研究材料であった[4]。錬金術師たちは、巷で考えられているような研究一辺倒の、恰も魔法使いやマッドサイエンティストのような身なり・生活をしていたのではなく、他の職業を持ちながら錬金術の研究も行うといった人物も多く存在していた。

例えば、万有引力の発見で知られるアイザック・ニュートンも錬金術に深く関わり膨大な文献を残した一人である[19]。最近ではこれらの文献を集めた研究書も刊行されるなど、いわば錬金術的世界観の再評価が行われていると言える。自然科学の発展に伴い錬金術の科学性は否定されたが、高エネルギー物理学における物質の生成、消滅について近代科学の理論が追いつかない面もあり、ニューサイエンス運動の一環として「大いなる秘法(アルス・マグナ)」の思想は研究の対象となっている。

錬金術と心理学[編集]

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである[20]。

錬金術と文芸学[編集]

神秘的、超自然的要素を含んだ錬金術は文芸術作品(漫画、小説)においても、特にスペキュレイティブ・フィクションというファンタジーやサイエンス・フィクションなどのジャンルに大きな影響を与えた。神話や伝説をベースとし、現実世界とは大きくかけな離れた世界観を持つファンタジー作品において、魔術と並ぶ空想の能力の一つとなった。また、通常の科学技術と並立し超科学的な分野として確立している例もあり、作品ごとに詳細かつ複雑に体系化されていった。さらにはアニメやゲームなどの娯楽のメディアにも錬金術の要素を組み込んだり、題材とすることが多い。

錬金術の成果[編集]





ランビキ磁器の製法の再発見(ヨーロッパ、18世紀)ヨーロッパでは磁器を中国・日本から輸入しており非常に高価な物だった。それをヨーロッパで生産する方法を再発見したのは錬金術師である。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに研究を命じ、ベトガーは1709年に[21]白磁の製造に成功した[22]。蒸留の技術(中東、紀元前2世紀頃)ランビキ(蘭引、日本には幕末にオランダから伝来。ジャービル・イブン=ハイヤーンが考案したとされるアランビーク蒸留器のこと)の発明とそれによる高純度アルコールの精製、さらに天然物からの成分単離は化学分析、化学工業への道を開いた。火薬の発明(中国、7 - 10世紀頃)中国の煉丹術師の道士が仙丹の製作中、硫黄と硝酸、木炭を混合して偶然発明したといわれる[23]。のちに西洋に伝わる。硝酸、硫酸、塩酸、王水の発明(中東、8 - 9世紀頃) 緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物[24]と硝石を混合、蒸留して硝酸を得た。錬金術師ジャービル・イブン=ハイヤーンは、緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物を乾留して硫酸を得[25]、硫酸と食塩を混合して塩酸を得、塩酸と硝酸を混合して王水を得た。
錬金術という語の転用[編集]

金を生むという意味から転じて、安い元手から高額の利益(この時点では金の意味はgoldからmoneyに転じている)を生むようなビジネスモデル・投資や、資金洗浄に利権を指して「錬金術」と称する場合がある。同時に、その考案者や運用者を「錬金術師」と表現することもある。 これは、卑金属を貴金属へ変えることを例えたことから来たもので、その方法の成果から脚光を浴びているような、新しい利益を持つビジネスモデル・投資など経済活動の紹介として肯定的に使われている一方で、「あやしげ」「いかがわしい」といった詐欺や悪徳商法を意味する否定的表現としても使われている。
政治家の関連企業が二束三文の土地を買い占めた直後、公共工事が決まって地価が高騰し、巨額の利益を得た事例。こうした手法も「錬金術」と称されることがある。
原子力は「現代の錬金術」と表現されることもある。
高度な数理的手法を用いて莫大な利益を生み出す金融工学も、前述の否定的な意味を含めて「現代の錬金術」と表現されることがある。
インターネットは「ビジネスチャンスを生む現代の錬金術」と言われることもある。
驚異的なパフォーマンスをあげる投資家やヘッジファンドを指して錬金術師と呼ぶ。

現代の科学による金の生成[編集]





周期表上の金の位置
卑金属から貴金属を生成することは、原子物理学の進展により、理論的には不可能ではないとまで言及できるようになった。

核分裂によるもの[編集]

錬金術の目的の一つである「金の生成」は、放射性同位体の生成という意味であれば、現在では可能とされている[26]。金よりも原子番号が一つ大きい水銀(原子番号80)に中性子線を照射すれば、原子核崩壊によって水銀が金の同位体に変わる。ただし、十分な量の金を求めるのなら、長い年月と膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると金銭的には意味が無いと言える。また生成される放射性同位体の半減期は、最長で78時間である。

核融合によるもの[編集]

金に限らず、多くの金属原子は、超新星の誕生の過程で起こる核融合によって生成され、その爆発によって宇宙空間に放出された、星の残骸である。そのため、金を核融合で作ることに関していえば、理論上は不可能ではない。ただし金のように質量数が大きい物質を核融合で生成するのに必要な条件(超高圧・超高温)を人為的に発生・制御できる技術は今のところ存在しない。

錬金術師および関係のある人物の一覧[編集]

比喩的に魔術師とも呼ばれる人物を含む
ヘルメス・トリスメギストス
ニコラ・フラメル
パラケルスス
カリオストロ
サンジェルマン伯爵
アイザック・ニュートン 近代物理学がニュートンに始まるため、「最後の錬金術師」と呼ばれる[19]。
フルカネッリ
ジョン・ディー
ゲオルグ・ファウスト
ローゼン
ジル・ド・レイ
ジャービル・イブン=ハイヤーン中世ヨーロッパの錬金術に多大な影響を及ぼす。

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 117
2.^ a b c 時田 et al. 2002, §2.2 中世アラビアの錬金術
3.^ a b 松本浩一 (2006), 中国人の宗教・道教とは何か, PHP研究所, p. 55, ISBN 9784569657714, "西洋錬金術が現代の化学の先駆けになった"
4.^ a b 小山田了三 (2001), 材料技術史概論, 東京電機大学, p. 137, ISBN 9784501618605, "錬金術が多くの実験事実を提供したことも、化学の発展に寄与した"
5.^ Partridge E Staff; Partridge, Eric (1977), Origins: Etymol Dict Mod Englsh (改訂4 ed.), Routledge, pp. 484-485, ISBN 9780203421147
6.^ Ferrario, Gabriele (2007), “Al-Kimiya: Notes on Arabic Alchemy”, Chemical Heritage (Chemical Heritage Foundation) 25 (3), ISSN 0736-4555 2009年7月19日閲覧。
7.^ 羽仁礼 (2001), 超常現象大事典: 永久保存版, 成甲書房 (2001-04発行), p. 113, ISBN 9784880861159
8.^ クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 61
9.^ a b c クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 62
10.^ a b c d 時田 et al. 2002, §2.1 古代エジプトの錬金術
11.^ 吉田光邦 『錬金術 仙術と科学の間』 中央公論社〈中公新書〉、1963年、132頁。ISBN 4121000099。
12.^ Al-Hassan, Ahmad Y. (n.d.), The Arabic Origin of Liber de compositione alchimiae 2009年7月18日閲覧。
13.^ 前田正史 (2005), 研究課題「循環型社会における問題物質群の環境対応処理技術と社会的解決」研究実施終了報告書, 社会技術研究開発事業・公募型プログラム 研究領域「循環型社会」, 科学技術振興機構 社会技術研究開発センター, p. 8 2009年7月18日閲覧。
14.^ 山下一也 (2007), 医療放射線技術学概論講義: 放射線医療を学ぶ道標, 日本放射線技師会出版会, p. 70, ISBN 9784861570315
15.^ 吉本秀之. “ニュートンの錬金術年表” (日本語). 2009年7月23日閲覧。
16.^ 吉本秀之. “ニュートン錬金術に関する邦語文献” (日本語). 2009年7月23日閲覧。
17.^ a b 高藤聡一郎 (1992), 仙道錬金術房中の法, 学習研究社, ISBN 4054000479
18.^ 祢宜田久男 (1983), “物質間の愛憎: 親和力の概念形成”, 広島経済大学研究論集 6 (1): 3, ISSN 0387-1444 2009年10月25日閲覧。
19.^ a b 田中和明 (2006), 図解入門よくわかる最新金属の基本と仕組み, 秀和システム, p. 62, ISBN 9784798014869, "ニュートン…は、最後の錬金術師でした"
20.^ 松岡正剛の書評より
21.^ 呉善花 (2009), 日本の曖昧(あいまい)力: 融合する文化が世界を動かす, PHP研究所, p. 107, ISBN 9784569708294
22.^ 伊藤建彦 (2002), 危機管理から企業防衛の時代へ: 渦巻くグローバリズムの奔流の中で, 文芸社, p. 251, ISBN 9784835540832
23.^ 石田太郎 (2003), 知は力か, 文芸社, p. 197, ISBN 9784835556529
24.^ 当時は硫酸塩ということなど知る由もない
25.^ マイクロソフト (2009), “硫酸”, MSN エンカルタ百科事典 ダイジェスト 2009年7月18日閲覧。
26.^ Sherr, R.; Bainbridge, K. T.; Anderson, H. H. (1941), “Transmutation of Mercury by Fast Neutrons”, Physical Review (American Physical Society) 60 (7): 473-479, doi:10.1103/PhysRev.60.473
検索
最新コメント
おはよー☆ by じゅん (02/05)
体調悪いので病院に。。。。 by じゅん (02/04)
おはーよ♪ by じゅん (02/04)
タグクラウド
プロフィール
あすにゃんさんの画像
あすにゃん
ブログ
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。