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第しヤ!

年配の看護師が、ぼくのベッドを上から覗き込む。
具合どうですかと、大して心配なんてしていないような口ぶりで、しかしそう訊きながらも目線はすでに点滴のビニール容器を手で揺すって、下の調節ねじを回し、滴下のスピードアップを図る。

大丈夫、そう言おうとして、咳が邪魔をする。
咳がひどいですねと、わかりきったことを言い捨てて、点滴の部屋から消えていった。

必要以上に無機質な部屋にベッドが3つおかれている。
誰もいなければ、ベッドというよりは白い布がかぶせられた棺のように見えるかもしれない。
「病院」ではなく「診療所」ではあるけれど、もしかしたらぼくが寝転がっているこのベッドの上にも、一度や二度は死んだ人間が安置されたことがあるのかもしれない。

それからもう一度、今度は別の看護師がぼくのベッドのところにやってきて、今度はまったく無言のまま、点滴のスピードを無造作に速め、そして奥のベッドに行き、はい、終わりですよ、ゆっくり起き上がってくださいね、とぼくより先に点滴していた患者に声をかけた。

入り口付近のぼくのベッドのほうに向かってくる、その患者の引きずるような足音が聞こえる。
めまいはしませんかと、看護師が声をかけている。
ぼくは、目を開けてその患者を確かめようとしたけれど、天井の蛍光灯の光が目に入るのを避けるため、そのまま息を殺してその患者をやり過ごすことにした。

看護師はその患者に、もう一度先生のところに行ってくださいと、そう声をかけ、そしてぼくのところに来てまた点滴のスピードを上げた。
おそらく点滴のスピードとは無関係だろうけれど、さっきから点滴がスピードアップされるに従って、ぼくはこのまま眠ってしまいたい欲求がどんどん強くなっていくのを感じた。

そして、今度はぼくのすぐとなりのベッドにまた看護師が来て、はい、終わりですねと声をかけた。
最初にぼくの咳がひどいと声をかけた看護師だ。
福島の訛が独特の雰囲気を聞く者に与える。

そのベッドからは若い女性の「ありがとうございました」の声が聞こえた。
まさかまたぼくの点滴のスピードを上げるのではないかと少し心配になったが、しかし看護師はなぜか今度はぼくのベッドのカーテンをやや乱暴に引き、そして女性に身支度を促した。

女性のベッドではなく、ぼくのベッドのカーテンを閉めるというのがなんとなく釈然としないものを感じさせたが、考えてみれば、ベッドとカーテンの隙間はほとんどなく、それでは女性の身支度には少しスペースが狭すぎるのかなと、そう思いなおして納得することにした。

患者の女性は、年配のくだらない世間話に一生懸命相槌を打っていた。
なんとなくその女性が気の毒な気がしてきた。
そして同じように、先生のところにもう一度行ってくださいと看護師が声をかけると、はい、ありがとうございましたともう一度女性は返事をしていた。

狭い点滴の部屋にはぼくひとりだけが残った。
そう思うと、なぜか少し気持ちが楽になった。
気持ちが楽になると、ぼくは気づかないうちに少しまどろんでいたらしい。

コツ、コツ、コツ・・・
靴音が聞こえて来る。
おそらく院長のものだろう。

ドアが開き、いきなり大きな声が飛び込んでくる。
――おう、調子はどうだ?

ぼくは答えようとして、また例によって激しく咳込んでしまう。
――まったくそりゃ、ひでぇ咳だなぁ・・・聞いてるこっちが苦しくなってきちまうな!
医師はそう言ってぼくの顔を覗き込んだ。

話によると、どうやらぼくは4本目の点滴らしい。
そんなに?と聞こうとしたが、どうせまた激しく咳込んでしまって声にならないのだろう。
そう思ったら、何かを言う気分にはなれなかった。

――お前今夜はここに泊っていけ。寒いからここで寝ていったほうがいいぞ。なぁ。別にカまわねぇからよ。どうせおめぇだけしかいねぇんだからな。

医師はそう言ってぼくをひとり残して行ってしまった。
190cmはあろうかという大男の医師が消えてしまったせいか、ぼくは急に心細くなってきた。
気を使ってくれたのかどうかはわからないが、医師は頭上の電気を消さないまま部屋を出て行き、そして病院の玄関がギィと音を立てるのが耳に届いた。

ぼくは、やれやれという気持ちでため息をついた。
すると、また例によって咳がこらえきれない感じで飛び出してきた。
激しく咳込んだあと、急に静けさが部屋を満たす。
でも、それはずっと続いているわけではなかった。

――ひどい咳だな

ぼくの隣の、誰もいなはずのベッドから、そう声がした。



#2

犬はだいぶやせ衰えていて、とてもちょっと前までと同じ犬とは思えなかったけれど、運命が決定づけられてしまったような喘鳴と、ぼくの顔を見たときの特有の尾の振り方から、なんとか同じ犬であることが判別できた。

猫は活発に飛び跳ねていた。
どこからどういう理由でこの老犬のところに転がり込んできたのかはわからなかったけれど、とにかく猫は何がうれしいのかわからないというくらい、目についたあらゆるものに興味を示していた。

猫は、身体のどこかにバネ仕掛けがしつらえられているのではないかと思われるくらい身軽にはねて弾んだ。
犬はいつものように舌を出しながら、優しい視線を猫に送っていた。

それからというもの、毎日犬と猫にあいさつを交わすようになっていた。
犬は、相変わらず痩せたままだったけれど、一時の最悪を思わせる状況からは脱しているようだった。
ぼくが現れると必ずゆっくりと尾を振り、仔猫を見ながらもやはり尾を盛んに振っていた。
仔猫のほうは相変わらずぼくへの警戒を決して解かなかった。

ある日、猫は犬の背中に懸命によじ登ろうとしていた。
犬はまったく意に介さない風情だったが、猫は背中によじ登ろうと懸命だった。
小さな身体を垂直にして、その四肢で懸命に重力と戦っていた。
痩せゆく犬は、それでも少しずつ元気になっているような気がした。

しかし、日に日に痩せ衰える様を見るのはしのびなかった。
それに反比例するように、仔猫は徐々に成長しているようだった。
不思議なことに、犬は痩せるだけでなく、体高も体長もどんどん小さくなっているようだった。
だいぶ猫らしくなった猫はそれでも、小さくしぼんでしまった犬の背中によじ登ろうと懸命に爪を立てた。
犬は苦しそうな呼吸をしながら、しかしうれしそうにゆっくりと尾を振った。

犬と猫の大小が完全に逆転していた。
おそらく初めて仔猫を見たときのその大きさよりもずっと小さくしぼんでいた。
もう死んでしまえばよいのにと、ぼくは思った。

昔、生まれたばかりの仔猫を殺したという話を聞いたことがある。
生まれたばかりで、まだ目も開かない仔猫を、水を張ったバケツに沈めて殺したのだそうだ。
どういう事情があるのかはわからなかったが、同じ国に住む人間で、しかも物理的にぼくのすぐそばに存在する人間がそんなことを事もなげに言うなんて、この国の終焉はきっとぼくの周りから始まるのではないかと、そんな錯覚にとらわれた。

平和な休日に、静かに眠る手のひらに載るような小さな仔猫は、バケツの中でほんの短い命を強制的に奪われたのだ。
そんな悲劇のような話でも、それを平気で話す人間の心境を思うと、それはほとんど喜劇にも匹敵するほどの異常さと、エピローグのない小説を無理やり読まされてしまったような後味の悪さだけが残る。

その平和な休日に、仔猫がバケツの中で短い生涯を閉じなければならなかったことなど、誰も知りはしない。
平和なんて、それを感じたい人間のはかない願望が作り上げた幻影にしかすぎないのだ。

ぼくは掌に載るほどに縮み薄っぺらに痩せ衰えてしまった犬を、いっそのことひと思いに殺してやりたいと思った。
でも、ぼくにそれはできなかった。
それでも、どうしても殺してやりたいとも思った。
猫が背中に乗ることができない犬なんて、生かしておくべきではないと思った。

すると、にわかに風が強く吹き、薄っぺらになった犬は風に乗って遠くへ運ばれていった。
風に舞う犬を見て、猫はほとんど反射的に飛びかかろうとしていた。
でも、爪を振りかざすよりもわずかに早く、風は犬を猫の元から運び去った。
猫は瞳を大きく見開いて、いつまでもそれを見つめていた。

数日後、ぼくが会社に行くと、君はもう今日で定年だと言われた。
確かに、勤続してもう20年はとうに過ぎていたから、言われてみるとぼくもそんな気がした。
帰り際に、お世話になりましたというと、上司はフン、と鼻を鳴らし、手元の書類に再び視線を落とした。

ぼくよりも年上の上司がまだ定年にならないということは、ぼくの場合本当の意味の定年という処遇ではなかったのだろう。

かえりみち――ぼくにとっての最後のかえりみち。
もう犬のいない例の家に差しかかった。
猫の姿は数日来見えなかった。
おそらくもう猫はこの場所には戻らない――そんな気がした。

家は、急に老けこんだように、ひどく空虚な空気を湛えていた。
家が建ち、人が住み、そこに家としての生命が宿る。
でも、もう家の生命を感じることはできなかった。

ぼくは、さようならと言った。
誰に対して何のためにそう言ったのかはよくわからなかった。
そして、もう二度と目にすることもないその家を通り過ぎた。

ひどく冷たい風に乗って、どこかで犬が吠える声が聞こえた。
それから急に暗く静かな夜が降りてきた。
その夜は、いつまでも続くような気がした。



第さんヤ!

自宅から25km離れた職場まで、毎日半日かけて歩いて往復した。
仕事の半分かそれ以上が「歩くこと」であるような気がした。
ぼくを知る人はみな、どうしてそんなバカなことをするのだと不思議がっていた。
でも、こればかりは仕方がないのだ。
お前は歩いて通勤しろと、入社したときからずっとそう言われ続けていたからだ。

もしかしたら会社の上司はぼくがまわりの人間からバカにされるように仕向けたのかもしれない。
あるいは、ぼくが本物のバカであると本気で考えていたのかもしれない。
それとも、実は上司のほうが正しくて、ぼくだけが自分はバカではないと信じているだけなのかもしれない。

でも、おかげでぼくは健康そのものだった。
会社に通って間もなく20年になるけれど、風邪だってひいたことがない。
会社は朝の9時半に始まり、夕方の4時半に終わる。
だからぼくは毎朝3時には家を出て、夜10時に帰って風呂に入り、そのまま寝てしまうのだ。
朝食と夕食は歩きながら食べ、ランチタイムなんていう気の利いたものなく、仕事をしながら食べた。

自宅と会社のちょうど中間地点、家から最短ルートの裏道から、いよいよ大通りにぶつかる四つ角のところに古い家があった。
周りの家は「現代風」と言えば聞こえはいいかもしれないが、取るに足らないおもしろみのない家ばかりだった。
その古い家だけが、時の流れに取り残されてしまったようにひっそりと呼吸をしていた。

でも、ぼくはその不思議な空気がとても好きだった。
周りの新しい家にはそうした息遣いがなく、限りなく無機質な空気を気取っていた。
その古い家には独特の雰囲気があった。

そして、その家には1頭の犬がいた。
毛がフサフサした中型の雑種犬だった。
その犬を知ったのは、おそらく最初の出勤日だったはずだ。

最近では珍しく、その犬は放し飼いにされていた。
自由気ままに動くことができるのだから、ある種の宿命を背負わされなければならない多くの飼い犬よりはずっと幸運だったし、少なくとも野良犬よりはずっと幸せだったのではないかと思う。

若いころ――ぼくもその犬も――は、時間的にまだ車の通りが少ない大通りを走って行き来する姿をときおり目にした。
それ以外は、晴れてさえいれば必ず家の門の前で座って日の出を見ていた。

ぼくが犬に「おい」と声をかけると、犬はうれしそうに立ち上がり、フサフサの尾を盛んに振りながらぼくのほうに近寄ろうとしていた。
でもなぜか、門と大通りとの間の、その家のものとも国だか県だかのものとも判断がつかないやや大きなスペースの中の、目に見えないある境界線を越えてこちらまで寄ってくることはなかった。

犬は、自らの可動域をしっかりと把握しているようだった。

ほとんど毎日ぼくらは顔を合わせ、そしてあいさつをかわした。
ぼくがそうだったように、犬も見るからに健康だった。
暑い夏も、寒い冬も、ぼくは仕事を休まず、ほとんど毎日のように犬とあいさつをかわし、犬に見送られながら会社に通った。

来る日も来る日も、ぼくは会社に通った。
会社に通い、仕事をして、家に帰り、風呂に入り、いくばくかの睡眠をむさぼるように眠り、そしてまた会社に向かった。
酒も一切飲まなかったし、ぜいたくな食事も無縁だった。
そんなものはぼくにとってのそもそもの必要から縁遠かった。

さすがに冬は厳しかった。
その厳しさも、勤続年数とともに徐々にましていった。

犬は相変わらず元気だった。
でも、ぼくが声をかけても以前のように立ちあがってぼくを迎え、あいさつをかわすことはしなくなっていた。
手入れをされていないことをあからさまに示す毛玉が末期的な悪性腫瘍のようなにまつわりついたその犬は、ぼくを見とめると座ったまま静かに、しかし十分にうれしそうに尾を振った。

毎日が、電波時計の秒針のように正確な時を刻みながら過ぎていった。
ぼくもその年月の分だけ年をとり、犬も同じように年をとっていった。
でも、時というのは誰に対しても平等に流れるというわけにはいかなかった。
ごく親しい間柄の者たちに対しても不平等だった。
いつしか犬は、「老犬」になっていた。
でも残念ながら、ぼくは老人にはならなかった。

――行ってくるぜ、じいさん

ぼくはそう言って会社に向かった。

ある時、犬は妙な――聞いているのがちょっとつらくなるような咳をしていた。
手入れのいい加減さを見ると、おそらく飼い主は予防注射もしていないだろうし、具合が悪くても病院には連れて行きそうもないような気がした。
でも、だからといって赤の他人であるぼくが何かできるというものでもなかった。

――大事にしろよ、じいさん

ぼくは心からそう願って会社に向かった。

犬はだんだん衰弱しているようだった。
妙な咳は相変わらずだった。
しかも喘鳴がもはや機械的な繰り返しをぼくの耳に伝播させることが日常になっていた。

喘鳴が習慣的になるとき、あらゆる生命はたいていその命を間もなく閉じる。
たとえそれが犬であろうと、人間であろうと。
どうかその音がぼくの耳ではなく、飼い主の耳に届いてもらいたいとぼくは願った。

ある日、思わぬ光景を目にした。
いつも犬が座っている場所に、仔猫がちょこんと座っていたのだ。
ぼくがいつものように一瞥を与えながら歩み寄ると、仔猫は驚いたように瞳がこぼれおちそうなくらいに目を見開いてあからさまな警戒を表した。

ぼくはちょっとあっけにとられていたが、すぐに門の内側から、以前に比べるとだいぶやせてしまった犬がのっそりと現れた。



#4

その後女はときどき河原に現れないことがあった。
その間隔が徐々に詰まってきたような気がした。
でも、2日以上連続してやってこないということはなかった。
そして、気がつくといつしか女の髪には白いものが目に付くようになっていた。

川は、ぼくに苦しみを与えるために流れを作っているように感じた。
でも不思議なことに、そんな苦しみの集合体のような大量の水が、ほんの少しだけ優しい存在でもあったような気がするのだ。

すると、ぼく自身も不思議と優しい気持ちになることができた。
――女を死なせるわけにはいかない
ぼくはそう強く念じた。
だからぼくは最後まで頑張ることができた。


ある日、女は言った。
――もう、川を渡っていただかなくても大丈夫ですよ、今までありがとう
――どうしてですか?
――どうして? 理由はないの。でも、とにかくもう私は平気なんです。今まで本当にありがとうございました。

ぼくは川を渡りたいと言った。
あなたにまたあの植物を食べてほしいと言った。
自分でも、どうしてあんなに苦しい思いをしてまで川を渡りたいのかわからなかった。
すると女は、少しだけ悲しそうに表情を曇らせ、今日はお別れを言いに来ましたと、小さな声で言った。

女は丸い、きれいな石をぼくに渡した。
今までのお礼です。こんなことくらいしか私にはできないけれど、受け取ってくださいと、女はそう言った。

女に、それにこのぼくに、いったいどういう理由があるのか知らないが、ぼくは無性に川を渡りたかった。
はじめは理由なんてなかったけれど、いつしかぼくは女のために河原に立つようになっていた。
川を渡らなければ、ぼくが生きていけないのだと、このとき思った。
だからぼくは彼女に口づけをせがんだ。
でも彼女は、もうそれはできないのと悲しげに言った。

ぼくは女に背を向け、川に近づいた。
女は言った。
あなたはもう、その川を渡ることはできない、渡りたいのかもしれないけれど、あなたにはもうその川を渡ることはできないの、どうか、わかってください、と。

女は必死に懇願した。
でも、ぼくは川に入った。
やめて!と、そう叫んだ声が耳に届いた気がした。
この世のものとは思えない水の冷たさと、悪意さえ覚えるほどの流れを初めて感じた。
水は強烈に冷たく、そしてぼくの足に無数の見えない手が川の底に向かって力を加えた。

どんなに努力しても、もう流れに「優しさ」を感じることはできなかった。
流れはただ無機質な傲慢をひたすらぼくに叩きつけていた。
ぼくは、川は渡りきることができないと直感した。
しかしもう戻ることもできない。
水の流れは恐ろしく激しく、かたくなだった。

今までほんの少しだけ感じることができた「水の優しさ」は、もうまったく感じることができなかった。
水は、ただたけり狂ったようにぼくの自由を奪った。
身体の自由も、そして心の自由も、何もかもをぼくから奪おうとしているようだった。
それに、ポケットにねじ込んでいた女が差し向けた丸い石が、必要以上に重くぼくの身体を沈めようとしていた。

ぼくは溺れた。
意識が薄れていくのが自分でもよくわかった。
ぼくは、ぼく自身の死の予感をうっすらと受け入れた。
これまでも十分命がけだったけれど、今度ばかりはもうそのレベルをはるかに超越していた。

女が植物を食べるためにぼくを頼っていた。
それは間違いなかった。
でも、ぼくにとっては女に頼られていることが重要だった。
思えば、今までだれかに頼られたことなんて一度もなかったような気がした。
そう考えると、小さく切り刻まれて見えなくなってしまったほうがよっぽどマシなくらい孤独な人生だった。

まったく見ず知らずの人間に頼られることが、ぼくを孤独から解放してくれる唯一の道だった。
そして実は、女がぼくは頼っていたのではなく、ぼくが女を頼っていたことを知った。
それがわかると、もうがんばろうという気持ちはだんだん小さくなっていった。
ぼくはもうなすがままに身をゆだねた。

思ったほど苦しくはなかった。むしろ心地よかった。
溺れているという物理的な苦しみが、怒りや悲しみ、心の苦しみといったネガティヴなものほんの少しずつ和らげてくれるような、そんな気がした。
そして、ぼくは初めて自分が怒りや悲しみや心の苦しみを背負っていたのだと悟った。

ぼくは、死ぬのだと思った。
でも、それもそんなに悪いことではないと思った。
しかしそれに反して、死にたくない、とも思った。

もっと女と会っていたかった。
もっといろいろな話をしたかった。
一緒に音楽を聞いたり、この河原以外の場所に行ったり、いろいろなことを一緒にしたかった。
口づけもしてほしかった。

でも、それはもうできないのだと思うと、徐々に身体に力が入らなくなっていった。
自分がものすごい勢いで水に流されていることを実感すると、すべてを許してやろうという気持ちになった。


そして、ぼくは、死んだ。


女は川岸の同じ位置に佇んだまま、ちょっとだけ涙を拭いた。
周りの丸石を集めて積み上げ、小さな石塔を作った。
でもそれはきっと、ぼくのための石塔ではなく、女自身のための石塔だったのだ。
それから、石塔に向かって自分の子どもを優しく諌めるような口調でつぶやいた。

どうしてあなたはいってしまったの?
私たちはもうお別れの時間だった。
ただ単にお別れするだけでよかったのに・・・

私は、あなたが必要だった。
でも、今はもうあなたが必要ではなくなったの。
それだけのこと、何も難しいことではなかったのに。
どうしてそれをわかってくれなかったの?

女は少し困ったような顔で、ひとつため息をついた。
そして、女は踵を返した。

女は空を仰いだ。
空はどこまでも青く、その中に白い雲が気まぐれに浮かんでいた。

――私はあれほど言ったのに、どうして勝手に死んでしまったの?・・・でも、もう仕方がないのね。あなたは自分で勝手に消えてしまったのだから・・・

女はその空気を思い切り吸い込み、そしてほっとそれを吐き出した。
そして初めて満ち足りた表情で、まっすぐ前を見て、河原を後にした。
後ろを振り返ることなく、前だけを見て、ただ前に進んだ。

もう二度と、女は河原には現れなかった。
そしてもう二度と、河原のことも植物のことも思い出さなかった。



#3

女はしきりにありがとうございましたと言った。
そして、ぼくの手から紫色の植物を取り上げ、草食動物のようにそれをムシャムシャと頭から食べた。
相変わらず無表情に見えたけれど、彼女はきっとおいしいと思ってこの植物を食べているのだろう。
3本を平らげ、ほっと息をついた。
そして、ぼくたちはその日別れた。


翌日、ぼくはまた河原に立っていた。
薄紫の空に、薄紫の大きな雲がいくつも浮かんでいた。
川岸の向こうに細長い山が噴煙をあげていた。
重そうな水の音が少し先から聞こえてきた。

女が近づいてきた。
女はまた無表情で遠くを見ながら、川を渡ってください、申し訳ないけれどとぼくに告げた。
わかりましたとぼくは言った。

そして女はぼくに口づけをした。
ぼくは川を渡った。
川をどうやって渡ったのかは相変わらずよくわからなかった。
不思議であることは事実だったけれど、不思議の度合いが昨日よりも小さくなっていた。

川向うでまたぼくは我に帰り、紫色の植物を見つけた。
でも、前日は気づかなかったせいかもしれないが、その日は相当息が上がっていた。
それに、川霞はますます激しくぼくの視界を奪った。
ぼくはできるだけ近くの植物を3本摘み、また川に入った。

女はありがとうと言って、3本の植物を次々に平らげた。
そして、またぼくらは別れた。


翌日も、またその翌日も、ぼくは河原に立ち、女が背後から現れ、そして無表情に遠くを眺めた。
ぼくらは毎日一度だけ唇を合わせ、そしてぼくは川に入った。
そして植物を3本だけ摘み、女は無表情のままその植物を食べた。
ぼくはそのたびごとに徐々に息苦しさを増していった。

来る日も来る日も、ぼくは河原に立ち、背後から現れた女と口づけをかわし、そして川を渡り、植物を摘み、それから女はその植物を食べた。
休んだ日など一日もなかったし、休みたいとも思わなかった。
でも、水と戦う物理的な苦しみは、気のせいか日に日に増していくように感じられた。
女はそれを知ってか知らぬか、ぼくが戻ってくるとぼくと目を合わせることもせず、ただひたすら植物をむさぼった。

あるとき、ぼくは女に告げた。
――おそらくこの川を渡るには、もうぼくの体力的な限界に達しているみたいです。もうそろそろ、ぼくをお役御免にしていただけませんか?

女の表情がたちまち曇った。
もちろん、それはほんのわずかな変化であったけれど、表情の作り方を知らない女からしてみれば、上出来の部類なのだろう。

――お願いです!続けてください!お願いします!私はこの植物がなければ生きていけません!
――それなら、ぼくの代わりに誰か、もっと体力がある人を探せばいいんじゃないですか?
――それはできません。ご承知のとおり、ここに人がやってくることなんてありません。お願いです!私にはあなたが必要なのです!あなたしかいないのです・・・あなたしか・・・

女は泣き始めた。本当に悲しそうだった。
そのうちうずくまって、声を殺し切れない感じで嗚咽し始めた。
悲しいというよりも苦しんでいるみたいだと思った。

どうやらぼくにとって一番苦手な展開になってきた。
やり方がフェアじゃないと思った。
本当の意味で泣きたいのはあなたではなく、ぼくのほうだと思った。
でも、苦手な展開になってしまったが最後、ぼくには言いたいことも言えなくなってしまうのだ。

――わかりました。そこまで言うのなら、できるだけ頑張ります。
――行ってくださるんですね?
女は急に安心したようにぼくを見上げた。

――しばらくは続けます。でも、さっきも言ったように・・・
「だれか別の人を探してほしい」と言おうとしたが、また女が泣きそうなくらい悲しげな表情をしたので、そう伝えるのをやめにした。

――とにかく、これは大変な労働なんですよ。それだけはわかってください。でも、大丈夫、すぐにやめたりしないですから・・・

女はぼくにすがりながら、しきりにありがとう、ありがとうと繰り返した。

それからまたこれまでと同じように、紫色の空の下にぼくは立ち、女は必ず現れた。
そしてぼくは紫色の川を渡り、紫色の植物を3本摘み、それを女に与えた。

ありがとうと、女は心からそう言っていた。


ところがある日、ぼくが河原に立っていても、一向に女は現れなかった。
どうしてかはわからなかった。
どういう理由でもよかった。
それより何より、今日は苦しまなくてもよいのだと思うと、やっぱり少し安心した。

翌日、いつものようにぼくは河原に立った。
女を待っているのか、そうではないのかは自分でもよくわからなかった。
その日、女は再び現れ、ぼくに口づけをした。

川に入ると、ぼくは肩で息をしなければならなかった。
少し油断してしまえば、あっというまに流れの餌食になってしまったはすだ。
でも、ぼくが頑張らなければ女は死んでしまうと思うと、不思議と最後まで頑張り続けることができた。
女を死なせるわけにはいかないような気がしていた。

ぼくは呼吸器系疾患の罹患者のように荒い息をしながら、震える手で女に植物を手渡した。
それでも女は植物を食べ終えたあと、何事もなかったように「ありがとう」と言い、そしてぼくらはいつものように別れた。



#2

ぼくは女にここで待っていてくださいと告げ、川に近づいた。
川の水が透明であることは確かだったが、残念ながらその底を見ることはできなかった。
怖い、という精神的な理由ではなく、物理的に「不可視」なのだ。
ここまでのドス黒い色を放つ理由は結局どうしてもわからなかった。
水が流れる重そうな音がわずかに耳に届いた。

ぼくは思い切って川に飛び込もうとした。
すると、足音も立てずに女がぼくのすぐ背後まで近付いていたらしく、待って、とぼくに声をかけた。

――目を、つむってください
――目を? そうすると、溺れずに渡れるんですか?

自分で声に出した「溺れる」ということばが耳に届いて自分が「怖い」と思っていたことに初めて気づいた。
それまでは不思議なくらい恐怖を感じていなかったのだ。
でも、一度気づいてしまったら今度は、恐怖が見えない川の底から川面へ、そして地面を伝ってぼくの足元から喉元まで一気にせり上がってきた。

――今、ここで目をつむってください。早く!

ぼくは思わずきゅっと目をつむった。
女の気勢に屈する形になった。
すると、ぼくの顔の前に女の気配を濃く感じた瞬間、ぼくの唇にやわらかいものが触れるのを感じた。

――さあ、目を開けてください。もう大丈夫ですから。

女がぼくにしたことの意味がさっぱりわからなかったが、おかげでぼくはもうどうしても川を渡らなければならなくなってしまったような気がした。

――恐怖は、自然に生まれるものではありません。自分の心が作り上げるものです。もう少し遅かったら、あなたは恐怖に食い殺されてしまうところでした。でも、もう大丈夫・・・

そう言って、女は川のほうを指さした。
どこにでもいそうな、ぼくと同年代の大して見栄えのする女ではなかったのに、伸ばした腕のしなやかさは、ぼくにとってとても貴重なもののように感じられた。

大丈夫な気がした。
ぼくは、そっと川に身を躍らせた――

――気がつくと、ぼくはまた元の河原にいた。
確かに川に入ったはずなのに・・・

ほんのわずかに、甘いにおいがどこかからか漂ってきたような気がした――いや、違う、ここは元の河原ではない。

川霞の向こうに、ぼんやりと女の姿が見えた。
女がぼくを見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか、こちら側からは確認できなかったが、少なくともぼくが川を泳ぎ切ったことは間違いなかった。
ぼくの背後に細長い灰色の山があったし、女が川の向こうに立っているからだ。
でも不思議なことに、泳いでいる間の記憶はまったくない。

足元に、紫色の植物があった。
そこここに、ポツン、ポツンと奇妙な植物が生えている。
植物は花をつけていた。紫色の花だ。
しかし葉も紫だし、茎も紫だった。
他には玉石以外に何もなかった。

もちろん、女が何を求めているのかも、ぼくにはまったくわからなかった。
もしかしたら、女はぼくをからかったのだろうか?
川霞が濃くなり、向こうの景色はほとんど見えなくなってしまった。
向こうどころか、この勢いだとこちら側だって怪しくなる。
噴煙と川霞の区別がもうつかなくなってしまっている。

雲の上にいるような気分だった。
しかし幸い、足元の植物だけははっきりと見えた。
ぼくはそれを1本乱暴に切り取った。
言いようもなく苛立っていた。

あの女が俺を騙した!
そう思った。
そう思うと、すべてをぶち壊してやりたくなった。
でも、壊そうとしても壊れるようなものなんてどこにもなかった。
無理をすれば壊れてしまうのはきっとぼくのほうだ。

不意にどこからか、とてもすてきな香りが漂ってきた。
苛立ちの波が急速に引いていくような、そんなにおいだった。
今まで一度も嗅いだことのないにおいだ。
甘く、懐かしいにおいだ。
昔大好きだった女性の香水のにおいに似ていた。
でも、やっぱり今までに嗅いだことのないにおいだ。

どこからそのにおいが漂ってくるのか探ろうとしたけれど、もうほんの一歩先まで川霞だか川霧だかが押し寄せていて、とてもではないけれどそれがどこからやってくるのかを突き止めることは無理だと思った。

川霞の向こう――おそらく川の向こう岸のほうだ――で、何かがかすかに動いた。
視線はそこに集中しているのに、視野の片隅でかろうじてとらえた何かの動きのように感じた。
その動きを見ていると、なぜか、ようやく気づいた。
その甘く懐かしいにおいは、ぼくが今手に持っている紫色の不思議な植物から、かすかに、しかし確実に漂ってきているのだ。

そして、ぼくはすべてに合点がいった気がした。
ぼくは川を目指した。
川霞だと思っていたこの白い煙のような気体は、まるで川面から少し上にある目に見えない境界面を圧しているように、川面と融合することをかたくなに拒んでいるみたいだった。
濃い紫色の水は相変わらず重々しく流れていた。
川岸の植物をあと2本摘んで、ぼくは流れに身を浸した。



第にヤ!

こんな夢を見た。

灰色の細長い煙突のような山の頂上から、噴煙が緩やかに噴きあげていた。
薄紫の空に、不思議と保護色にはならない薄紫色の雲がたなびいていた。
どうして空や雲がそんな色をしているのかはわからなかった。
もしかしたら、噴煙が空や雲にそういう色をつけたのかもしれない。

目の前には大きな川が流れていた。
ひどく直線的な川だ。
水音はほとんどしないくらいに静かな流れだった。
しかしおそらく相当の水量が相当の速さで流れているだろうという想像は容易についた。

ぼくは河原にたっていた。
角がとれた大小の玉石状の石が無数に広がっていた。

空のせいか、あるいは噴煙のせいか、それとも別の何かが作用しているのかはわからなかったが、川の水は黒に近いくらいに濃い紫色だった。
でもそのくせ、妙に透明度が高い水だった。
残念ながら、光の加減で川の底のほうまでは見ることができなかった。
いや、あるいはぼくが想像している以上に底が深いのかもしれない。

この透明度なら川の底を見ることがでると思って川に近づこうとしたけれど、妙な威圧感を発し続ける流れがぼくの次の一歩をかたくなに拒む。
どうしてぼくがこの河原にいて、川やその向こうの細長い山を見ているのかわからなかった。
ただぼくはそこに立っていた。

周りには森があり、民家はまったくなかった。
このままこの場にいてもいいような気がしたけれど、ここにいても仕方がないような気もした。
かといって、このあとぼくはどうすればいいのかわからなかった。
そもそも、どうやらぼくには帰る家がなさそうだし、仮にそういうものがあったとしても、少なくともぼくの家はこの近辺ではなさそうな気がした。

背後で石が転がる音がした。
振り向くと、そこには見知らぬ女が立っていた。
ぼくのすぐ背後に立っているのに、まるでぼくなんかその目の前にいないかのように、川の向こうをじっと見ていた。

ぼくはとても困った。
それはそうだ。
見ず知らずの山と見ず知らずの川があって見ず知らずの女が近くにいるのだ。
この後どうすべきか判断できるほどぼくは頭が良くないのだ。

女はただ無表情に前方の――つまりはぼくの後方の――風景を見つめていた。
いたたまれなくなったぼくは、何でもいいから声をかけようと口を開きかけたとき、女が何かことばを発した。

――?

ぼくがちょうど足元のバランスを失って玉石を転がした音と、女のやや低い声とが完全に重なりあった。
しかし女は相変わらずぼくのほうなんて一切見ずに、おそらく遠くのほうを見つめていた。
仕方がないので、ぼくもしばらく女の顔を見つめることにした。

ぼくは足元のバランスを保つために身じろぎをしてみた。
その間も女の顔から目をそらさないでいたのに、どの角度から女の瞳を覗きこんでも、不思議とぼくの視線の先は女の視線の焦点をとらえることができないような気がした。
からくりがわかっている「だまし絵」にいつまでも騙され続けているような不安が、ぼくに執拗にまとわりつこうとしていた。

仕方がない、そういうこともあるのだと無理やり悟ろうとしたとき、女が再び口を開いた。

――川を・・・
――川?
――川を・・・渡っていただけませんか?

「川」が何を指しているのか、川を渡るというのがどういう行為であるかはもちろん理解できたが、結局女が何を言いたいのかぼくにはまったくわからなかった。

――川を渡っていただけませんか?

女が再び口を開く。
どうしてそんなことがわからないのかと、少しいらだったような、しかしどこか切実な口調だった。
おかげでぼくは少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。


――川を渡る、というのは、つまりぼくがこの川を泳ぐかどうかして向こうまで渡る、ということですか?
――はい
――でも、この川、かなり流れも速いし、水もきれいかどうかわからないし、そもそもぼくは泳ぐのが苦手で・・・
――申し訳ないと思います、でも、どうしても渡っていただきたいのです

――なぜ?
――渡っていただければわかります。どうか、お願いですから川を渡ってください

そして初めて女の視線とぼくの視線とがぶつかりあった。
無表情で、どこにでもいそうなぼくと同年代の女だった。
ぼくはまた落ち着かない気持ちになってきた。
このとき本能的に、この女にはかかわらないほうがいいことを感じとった。
しかし、ぼくを見つめる平板な視線は、不思議な悲しみをぼくに伝えた。

やめろ、かかわるな、もう女を見ずに今すぐここを立ち去るのだ・・・
そういう誰かの声にひどく納得しながら、でもきっとそれはぼくにはできないということを理解していた。

――どこかに・・・橋のようなものはないですか? ぼくにはこんな川はとてもではないけれど向こう岸まで泳ぎきることなんてできませんよ・・・こう見えて、泳ぎはまったく・・・本当にダメなんですよ。それに、水が・・・

ぼくは少し冗談めかして言ったが、女がすぐに遮る。
冗談が嫌いなのだろうか?
――橋はありません。水はきれいです、心配ありません。泳いで、渡ってくださいますか?
――でも・・・
――大丈夫です。この川は誰でも泳げる川です。流れは早く見えるでしょうけれど、心配ありません。

だったら、どうして自分で渡ろうとしないのだろう?
そう訊いてみればそれで済むことなのかもしれないのに、ぼくはなぜか逡巡した。
するとそれを見透かしているかのように、私はこの川を渡るわけにはいかないのです、と女は言った。

黒い何者かの影が猛スピードでぼくと女とを隔てた空間を切り裂いて消えた。
きっと鳥か何かがぼくらの上空を通りすぎて行ったのだろう。

渡ろう、と思った。
きっと何かがあるのだ。
そこまでしてぼくがこの川を渡らなければならないほどの理由が、必ず何かあるのだ。

ぼくは、その「何か」を知りたいと思った。

川の向こうまで泳ぎきることができれば、ぼくはその「何か」を知ることができる。
行こう、とぼくは思った。



第いちヤ!

こんな夢を見た。

友だちが、ぼくを招待してくれた。
ぼくは招待を受諾し、ひとりで友だちの家に行った。
友だちの家は、このあたりではちょっと見ないような立派な洋館だった。

女中に案内され「広間」とやらへ向かう長い廊下を歩くうちに、ぼくの友だちがいつの間にか姿をくらましていたことに気づく。
どこに消えたのだろう・・・

こちらでございます、と女中がうやうやしくぼくに道を譲った。
「広間」にはすでに大勢の来賓がいて、スーツやドレスというほどのものではないにしろ、ぼくのいでたちとは埋めがたい差を痛感せざるを得ないような服装だった。

ちなみにぼくは着古したブルーのジャンバーと裾が擦り切れた半ズボン、そして全然洗っていないズックといういでたちだった。
ジャンバーの肩に仮面ライダーのワッペンがついているのは自慢だったけれど、半ズボンとズックには残念ながら自慢できる要素は何ひとつなかった。

せめて通学帽をかぶってくればちょっとはサマになったのではないかと一瞬思ったけれど、すぐにそんなはずはないと思いなおした。

テーブルにはおいしそうなジュースやお菓子やフルーツがあり、一見してどれも自由に手にとって食べたり飲んだりしていいのだと理解できたが、ぼくは今まで食べたことがないこんなにおいしそうな食べ物や飲み物を口にしたら、この場にそぐわないようなひどく下品な食べ方でむしゃむしゃとがっついてしまうのではないかとおそれをなした。

何人かの子どもや大人たちが、おいしそうに、しかしぼくなんかにはとてもできそうもないくらい上品に、絶対においしいに違いないお菓子を食べていた。

すると、どこからか少女がやってきて、ぼくに言った。
Nさんも食べなさいよ、一緒に食べましょう。

はじめはどこの女の子だろうと思う程度だったけれど、彼女がぼくの名前を知っていてくれたことがぼくには妙にうれしくて、しかも今まで一度もたべたことがないようなすばらしくおいしいに違いないお菓子を指さして、一緒に食べようと言ってくれたことで、ぼくは一気にこの女の子のことが好きになってしまったのだ。

このお菓子、おいしいわ。
Nさんもたくさん食べてね。
あなた、おうちはどこなの?何年生?
兄弟はいるの?お父さんは何のお仕事をしているの?

ぼくはとても幸せだった。
理由もなくこの女の子のことを好きになってしまった気がしていたけれど、ちゃんと見てみると、すばらしくキレイでかわいい女の子だったのだ。
ぼくは姿を消した友だちのことを忘れて、この幸せがずっと続いたらいいのにと思った。

でも、幸せなんてそう長く続くものではない。
少年のぼくがどうしてそんなことを知っているのかはわからないけれど、とにかく、この幸せは本当の幸せではないのだと、少年のぼくにはわかっていた。
そしてぼくの場合、少年のころも今も、そういう悲しい予想だけは絶対に的中し、そしてその的中運が肝心な予想の的中運をいちじるしく削り取っているのだ。

あたし、これからTくんと踊るの。あたし、Tくんのことが大好きなのよ。
女の子はそう言ってうれしそうにぼくに向かって手を振り、ぼくをひとり置いて「広間」の中央に出ていった。
Tくんというのが誰のことなのか、はじめぼくにはよくわからなかったけれど、おそらくそれはぼくを招待したぼくのたったひとりの友だちのことに違いない。

すると、さっき姿を消したぼくのたったひとりの友だちであるT――おそらく彼がTだ――が、その女の子の肩を優しく、しかもすごく慣れた手つきで抱きかかえた。
いつの間にか「広間」の床がスケートリンクに変わっていて、ふたりはそこでアイスダンスを踊り始めた。

オリンピックや世界大会なんかで見せるわざとらしい笑顔ではなく、とてもお自然な、心から楽しそうな笑顔だった。
そして、見たこともないくらいステキなアイスダンスだった。

ところで、いつから下がスケートリンクに変わったのだろうと思い、足元を見ながら、そういえば、女の子はいつスケートの衣装に着替えたのだろうと思って再びふたりのアイスダンスに目を移すと、実はその女の子はしずかちゃんであり、そして一緒に踊っているぼくのただひとりの友達は、なんとスネ夫だったのである。

スネ夫がぼくの唯一の友だちであることが判明し、ぼくはとても寂しい気持ちになったけれど、しかしそれ以上にスネ夫に嫉妬していたことも事実である。

もしかしたらジャイアンやのび太やドラえもんも来ているのかもしれないと思って周りを見渡してみても、残念ながら知った顔はそこにはいなかった。
ドラえもんだけでもいてくれたらうれしかったのに・・・
ぼくはなんだかのび太になってしまったような気分だった。

そして視線を戻し、よく見てみると、そこには成長した「女」のしずかちゃんと、そして「男」はなぜかスネ夫ではなく、武幸四郎だったのである。

さすがにぼくもこれには驚いたけれど、それでも十分武幸四郎に嫉妬し、そして、夢の中にまで競馬関連の人間が出てくるなよと思った。
そして、ああ、これは夢なのだとはじめて認識し、ぼくはゆっくりと現実の世界に戻っていた。



   
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ASHIGE2
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