喜捨とは、お坊さんや貧しい人に金品を寄付すること・・・
と書いてありました。
爺はすこしこの説明、ひっかかるものを感じます。
金品を寄付・・・
貧しい人・・・
なんだかお金持ちや与える側の驕りみたいなものを感じます。
いや〜〜〜な、ニオイが漂ってきます。
そうなのかな? 喜捨って。
自分が持っているものを人に使ってもらい、いつか自分も
人様から自分が持っていないものを使わせていただく・・・
って言い方が正しいのではないか?
なんで、こんなことを書いたかっていいますと、
爺は昨年から、あるお寺の役員をやっています。
お寺は宗教法人ですが、収益事業にかかわることもやっており
予決算報告が必要になります。その予決算を承認する役員を
やって欲しいと寺の和尚さんに頼まれたわけです(-_-;)
爺が信心深い人柄なので、見込まれた・・・わけではないのです(笑)
書いてることをみられたら、一目瞭然ですね(笑)
いわゆる承認者が欲しかったわけで、そのひとりに爺がえらばれた
というわけです。
きのう、その予決算報告がありお寺に行ってきました。
役員は、爺よりも一回りくらい年長の人がほとんど・・・
爺はここではジイでなくて、ヤングマン(ふるい〜〜)なのです。
で、その会計報告のときに、爺は説明はそっちのけで「喜捨」について
考えておりました。
お寺にいたからです、考えるきっかけは。
一年前に広島の大きなデパートのまえで托鉢をしているお坊さんが
いました。真夏の昼下がり・・・気温はゆうに35℃を越えていたと
思います。お坊さんは1メートル体をずらせば、庇が陰をつくってる
ところにいけるのですが、敢えてなのか全身強烈な日差しを浴びていました。
爺はポケットの500円玉をだして、喜捨しました。
お坊さんに、すこし陰にはいったらどうですか?
と余計なことだと思いながらもいいました。
だって、お坊さんは傍目でも分かるほど、汗をかいていたからです。
お坊さんは「いえ、いえ、私は托鉢を受ける身。みなさんが汗水たらして
稼がれたお金を喜捨していただく身です。そんな私が、陰にはいって
涼しい顔しているわけには参りません」
「ウ~〜〜ム」爺はなにも言えませんでした。
立場がちがって、爺に陰にはいったらどうか?
と言われたら、「そりゃそうだ・・暑くてたおれそうじゃった・・・」
とか言って、すぐに陰かデパートの冷房が効いたところにいって休みます・・・
くらいがオチです(笑)
このときの情景を税理士さんの説明中に思い出しておったのでございます(笑)
爺に役員をやって欲しいと頼まれたこのお寺の和尚さんは
事業収益がなかったら、とうの昔にお寺がつぶれていただろう・・・
といっていました(-_-;)
なるほど、事業収益をゼロになったら、檀家の皆さんの喜捨はとてつもなく
おおきくなるだろうな・・・と容易に想像がつきます。
寺院本来の収益だけでは、お寺がなりたたないというのがキビシイ現実らしいです。
自分が持っているものを人に分けてあげる、自分が持っていないものを
人様からいただく
喜捨の精神というのは、じつに日本人に良くマッチしていると思います。
奪えるものは、すべて奪う・・・というような野蛮人国家でなかったことを
誇りに思います。