2023年12月08日
流行歌物語 佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばり 「丸餅 餅 おもち」
養母と弟を失った『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。仕送り増額のために移籍オファーを受けたら大騒動に…シヅ子に相談された服部良一が見せた「覚悟」とは
12/7(木) 17:32配信

婦人公論.jp
困り果てて服部良一に電話したシヅ子でしたがーー(写真提供:PhotoAC)
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「当時、映画界やショウビジネスの世界では人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていて、笠置シヅ子もそのターゲットになった」そうで――。
【インタビュー!】趣里さん「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」
* * * * * * *
◆引き抜き騒動
1940(昭和15)年、SGD(松竹楽劇団)のホームグラウンドである丸の内の帝国劇場が、契約切れで東宝に戻った。
6月上旬、服部良一と笠置シヅ子は、浅草・国際劇場の「ラ・クンパルシータ」を上演。
続いて6月下旬、国際劇場「南海の月」(7曲)公演で、SGDハワイアン・バンドが登場してシヅ子が「マリヒニ・メレ」を歌った。
ハワイアン・ジャズがひとときの涼味となり、SGDにとっても新機軸となった。
このあと9月、浅草・国際劇場と渋谷松竹映画劇場での公演「東洋の旋律」(8曲)に笠置シヅ子は休演している。
この時、笠置シヅ子に東宝からの移籍オファーがあった。東宝の樋口正美の声がけで、シヅ子は日比谷・有楽座の事務所へ行った。
「まずは日本劇場へ、日劇ダンシングチームと一緒に出演して欲しい」というもので、給料は300円という破格な条件だった。松竹より100円のギャラアップである。
OSSK(大阪松竹少女歌劇団)時代は「月給を上げて欲しい」と言っただけでクビになるほどで、ギャラアップの交渉の困難さは「桃色争議」でも体験していたシヅ子は、その好条件に素直に喜んだ。
その頃、養母・うめは、長い闘病の果てに亡くなり、弟・八郎は中国戦線へ(編集部注:翌年に戦死)、養父・音吉は働く気力もなくなっていて、養家への仕送りを増額したいと思っていた矢先だった。
それだけに、シヅ子は一も二もなく、契約書にサインをしてしまった。しかし、これが大騒動となる。
◆やめる時は、ぼくも一緒だ
翌日、シヅ子は麹町に住む松竹創業者・大谷竹次郎の養子で常務、SGDの責任者の大谷博の自宅に呼ばれ「なぜ、東宝と契約したのか?」と叱責された。
シヅ子はそのまま、大谷夫人に付き添われて、神奈川県葉山町の別荘へ。東宝との接触を避けるためである。
この時、シヅ子は26歳になっていたが、OSSKやSGDの劇団内のことしかわからず、戸惑っていた。
そこでシヅ子は、芝区白金町に住んでいた服部良一に電話をかけて「どうしたらいいでしょうか?」と相談した。
服部はしばらく考えて「事を荒立てないように」と言った上で、翌月公演で上演予定の楽曲の譜面を葉山に届けてあげると、まずはシヅ子を落ち着かせた。
「君がいなくては、ぼくも作曲や編曲をする甲斐がなくなるし、松竹楽劇団にいる意味がなくなる。やめる時は一緒にやめるから、ぼくに任せておきなさい」。
「辞める時は一緒に」という覚悟は本音だろう。
服部はその覚悟を持って、松竹トップに話をして、笠置の東宝との契約を撤回しようと奔走した。その甲斐あって、この騒動はひとまず決着をみた。
結局、シヅ子は、23日間、葉山の大谷の別荘で過ごし、翌月の10月から浅草・国際劇場のステージに立っている。
◆引き抜き合戦
この頃、映画界やショウビジネスの世界では、人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていた。
松竹映画のトップスター・林長二郎が、1937(昭和12)年に東宝に移籍、長谷川一夫と改名するが、この時は映画スターの生命である林長二郎の顔が、暴漢によって斬られる「顔斬り」事件が起きている。
また、吉本興業の人気ボーイズ・グループ・あきれたぼういずが、新興キネマ演芸部に引き抜かれ、リーダーの川田義雄だけが吉本に残留するという事態が、1939(昭和14)年に起きていた。
そうしたこともあり、松竹は笠置の引き抜きに対して、相当怒った筈だが、服部の配慮もあり、大事には至らなかった。
10月、浅草・国際劇場、渋谷松竹映画劇場での「轟け凱歌──世界の行進曲」(全8曲)から笠置シヅ子がSGDに復帰した。
演出は大町龍夫、作曲・編曲は服部良一、出演メンバー、スタッフともにいつもの布陣だったが、この公演は時局を反映したものとなった。
軍事歌謡「暁に祈る」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)が大ヒット中のコロムビアの歌手・伊藤久男の特別出演による「世界の行進曲」をテーマにした勇壮さが売りのショウとなった。
◆ますます厳しくなる圧力
この年7月の「七・七禁令」を機に、レビューやミュージカル・ショウに対する時局の圧力がますます厳しくなっていた。
アメリカのジャズやミュージカル・ナンバーが「軟弱」「公序良俗に反する」というムードで、取り上げにくくなってきていた。
それゆえ「軍艦行進曲」や、イタリア・ファシスト党の「黒シャツの歌」など、勇ましいマーチを取り上げる企画で、当局を納得させようという手でもあった。
服部良一は、これらをジャズ・アレンジにして、スウィング・バージョンで演奏。
笠置シヅ子は第三曲「二人の兵士」を春野八重子とデュエット、第七曲「双頭の鷲の下に」のジャズ・アレンジを、いつものようにスウィンギーに歌った。
12/7(木) 17:32配信
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困り果てて服部良一に電話したシヅ子でしたがーー(写真提供:PhotoAC)
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「当時、映画界やショウビジネスの世界では人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていて、笠置シヅ子もそのターゲットになった」そうで――。
【インタビュー!】趣里さん「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」
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◆引き抜き騒動
1940(昭和15)年、SGD(松竹楽劇団)のホームグラウンドである丸の内の帝国劇場が、契約切れで東宝に戻った。
6月上旬、服部良一と笠置シヅ子は、浅草・国際劇場の「ラ・クンパルシータ」を上演。
続いて6月下旬、国際劇場「南海の月」(7曲)公演で、SGDハワイアン・バンドが登場してシヅ子が「マリヒニ・メレ」を歌った。
ハワイアン・ジャズがひとときの涼味となり、SGDにとっても新機軸となった。
このあと9月、浅草・国際劇場と渋谷松竹映画劇場での公演「東洋の旋律」(8曲)に笠置シヅ子は休演している。
この時、笠置シヅ子に東宝からの移籍オファーがあった。東宝の樋口正美の声がけで、シヅ子は日比谷・有楽座の事務所へ行った。
「まずは日本劇場へ、日劇ダンシングチームと一緒に出演して欲しい」というもので、給料は300円という破格な条件だった。松竹より100円のギャラアップである。
OSSK(大阪松竹少女歌劇団)時代は「月給を上げて欲しい」と言っただけでクビになるほどで、ギャラアップの交渉の困難さは「桃色争議」でも体験していたシヅ子は、その好条件に素直に喜んだ。
その頃、養母・うめは、長い闘病の果てに亡くなり、弟・八郎は中国戦線へ(編集部注:翌年に戦死)、養父・音吉は働く気力もなくなっていて、養家への仕送りを増額したいと思っていた矢先だった。
それだけに、シヅ子は一も二もなく、契約書にサインをしてしまった。しかし、これが大騒動となる。
◆やめる時は、ぼくも一緒だ
翌日、シヅ子は麹町に住む松竹創業者・大谷竹次郎の養子で常務、SGDの責任者の大谷博の自宅に呼ばれ「なぜ、東宝と契約したのか?」と叱責された。
シヅ子はそのまま、大谷夫人に付き添われて、神奈川県葉山町の別荘へ。東宝との接触を避けるためである。
この時、シヅ子は26歳になっていたが、OSSKやSGDの劇団内のことしかわからず、戸惑っていた。
そこでシヅ子は、芝区白金町に住んでいた服部良一に電話をかけて「どうしたらいいでしょうか?」と相談した。
服部はしばらく考えて「事を荒立てないように」と言った上で、翌月公演で上演予定の楽曲の譜面を葉山に届けてあげると、まずはシヅ子を落ち着かせた。
「君がいなくては、ぼくも作曲や編曲をする甲斐がなくなるし、松竹楽劇団にいる意味がなくなる。やめる時は一緒にやめるから、ぼくに任せておきなさい」。
「辞める時は一緒に」という覚悟は本音だろう。
服部はその覚悟を持って、松竹トップに話をして、笠置の東宝との契約を撤回しようと奔走した。その甲斐あって、この騒動はひとまず決着をみた。
結局、シヅ子は、23日間、葉山の大谷の別荘で過ごし、翌月の10月から浅草・国際劇場のステージに立っている。
◆引き抜き合戦
この頃、映画界やショウビジネスの世界では、人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていた。
松竹映画のトップスター・林長二郎が、1937(昭和12)年に東宝に移籍、長谷川一夫と改名するが、この時は映画スターの生命である林長二郎の顔が、暴漢によって斬られる「顔斬り」事件が起きている。
また、吉本興業の人気ボーイズ・グループ・あきれたぼういずが、新興キネマ演芸部に引き抜かれ、リーダーの川田義雄だけが吉本に残留するという事態が、1939(昭和14)年に起きていた。
そうしたこともあり、松竹は笠置の引き抜きに対して、相当怒った筈だが、服部の配慮もあり、大事には至らなかった。
10月、浅草・国際劇場、渋谷松竹映画劇場での「轟け凱歌──世界の行進曲」(全8曲)から笠置シヅ子がSGDに復帰した。
演出は大町龍夫、作曲・編曲は服部良一、出演メンバー、スタッフともにいつもの布陣だったが、この公演は時局を反映したものとなった。
軍事歌謡「暁に祈る」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)が大ヒット中のコロムビアの歌手・伊藤久男の特別出演による「世界の行進曲」をテーマにした勇壮さが売りのショウとなった。
◆ますます厳しくなる圧力
この年7月の「七・七禁令」を機に、レビューやミュージカル・ショウに対する時局の圧力がますます厳しくなっていた。
アメリカのジャズやミュージカル・ナンバーが「軟弱」「公序良俗に反する」というムードで、取り上げにくくなってきていた。
それゆえ「軍艦行進曲」や、イタリア・ファシスト党の「黒シャツの歌」など、勇ましいマーチを取り上げる企画で、当局を納得させようという手でもあった。
服部良一は、これらをジャズ・アレンジにして、スウィング・バージョンで演奏。
笠置シヅ子は第三曲「二人の兵士」を春野八重子とデュエット、第七曲「双頭の鷲の下に」のジャズ・アレンジを、いつものようにスウィンギーに歌った。
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