2015年07月05日
「絶歌」の裏事情を考える
巷では、元少年Aが書いた本「絶歌」の賛否で騒がれている。
この本を批難する人たちは「被害者の気持ちを考えてない」という倫理の立場でモノを言い、発売した側は「言論の自由」の名のもとに自己正当を主張する。実は、この双方の言い分は同次元で語れるものではないので、正しい結論が出るはずもなく、やがて、今回の騒動も騒がれただけで(これまでの同種の論議同様に)いずれは忘れ去られてしまう事になるのだろう。そして、またしばらくすると、再び似たような騒動が起こり、「言論の自由」がどうたらこうたらと弁護に利用される事になるのだ。
こうした表面的などっちが正しいかという話は、もう他の人たちがさんざん語りまくっているので、ここで再度繰り返そうという気はない。
単に「言論の自由」として「貴重な犯罪者心理の手記」を発表したかったのであれば、せめて「発表方法の選択」とかは考えになかったのだろうかとも思えてくる。
元少年Aが書いた文章を専門機関や大学に寄与して、ホームページなどで読める形にしても良かったはずなのだ。(もちろん、無料でである)元少年A自身がそこまで頭が回らなかったとしても、周囲の大人たちがそういう事を思い付いて、アドバイスしたり、段取りしてやるような余地はあったような感じもする。
しかし、「絶歌」は、そうした選択をとらずに、媒体は紙の本形式しか検討されず、しかも商業用の利益が生まれる本として発売されてしまった。
「絶歌」に対して批判的な人々というのは、内容以上に、そうした発表経緯に対して怒っているのだ。その事に対する抗議を、発売者側を擁護する人たちは「言論の自由」にすり替えようとしているものだから、なおさら火に油を注ぐ事態となっているのである。
何にせよ、「絶歌」を商業用の本として発売する事には正当性は何にもない。「言論の自由」にせよ「貴重な犯罪者心理の手記」にせよ、上述したように、信頼ある機関のホームページででも公開させてもらえれば、十分に目的は達成できるからである。むしろ、そのような形で発表した方が有益に活用されていたかもしれないのだ。
だから、人々は、「絶歌」をどうしても商業用の本として発売した事に、独善やエゴすら疑いたくなってくるのである。つまり、「言論の自由」とか「貴重な犯罪者心理の手記」とかは、しょせんはキレイごとのタテマエであり、本当の目的は金儲けじゃないか、と。
「絶歌」の初版は10万部で、発売された週には売上げランキング1位も獲得している。恐らく、元少年Aはそうとうな印税を手に入れるのではないかと思う。
気になるのは、その使い道だ。
良心的な視線で考えると、その額のほとんどは被害者への賠償にあてられるのではないかと言われている。まともな人間、本当に更生したと言うのであれば、それ以外の使い方はありえないだろう。
出版社は、元少年Aの印税の使い方については、いっさい干渉しないそうである。元少年Aも、印税の使い道については何も触れてはいない。
いっそうの事、「この本の売上げは、全て被害者への賠償に使います」宣言でも先にしておけば、「絶歌」はこれほどまでにも世間の槍玉に挙げられなくても済んだのだろうか。
しかし、そうとも言えない部分もあるのだ。
「被害者への賠償金作りの為の本」と言えば、何となく聞こえはいいが、うがった見方をすれば「ボクのした悪い事のお詫びの金を皆に出してもらおう」と言ってるようなものなのである。さらに、悪意を膨らませれば、被害者に対しても「お前に払う賠償金を(本を買った)オレたちが出してやらなくちゃいけないのか」と言う流れにもなってくる。
つまり、社会の悪意を被害者にまで及ぼさない為、元少年Aは「この本の印税は被害者への賠償に用いる」とはあえて公言しないようにしているのではないか、と考えてみる訳である。
以上のように推察してみると、何となく美談っぽくも思えるのだが、実はそうだったとしても大きな問題点がある。
そもそも、被害者は、元少年Aが手記を発売する事には迎合してないのだ。と言うのも、被害者が「絶歌」発売に苦情を発した事が、より「絶歌」が批難される一因にもなっているぐらいだからである。
なかなか満足に社会復帰できない元少年Aとしては、被害者への賠償金を作るにしても、もはや、自分の犯罪手記でも発売するぐらいしか方法が残されていなかったのかもしれない。しかし、皮肉ながら、賠償金を作る行為が、よけい被害者の被害を拡散させる有様になってしまったと言う事である。美談どころか笑えない話なのだ。
ここに、被害者側と加害者側の大きな考え方の違いが見えてくるとも言えよう。
加害者にしてみれば、被害者に詫びたくて、どうしても賠償金を払いたいという気持ちが強くなるのかもしれない。だが、被害者側は、お金なんかよりも、もっと違うものを加害者に求めたいものなのかもしれないのだ。
それは、悲しい過去の事件と一緒に加害者自身ももう二度と自分の前に姿を見せてほしくない、という気持ちである。元少年Aの被害者もそういう気持ちなのであり、だから、元少年Aが手記を書く事には拒絶的だったのだ。
それなのに、被害者の承諾も得ずに「絶歌」の発表に踏み切ってしまった元少年Aの行為は、仮に、裏の目的として賠償金作りがあったとしても、とても褒められるものではない。まだまだ彼は自分の気持ちばかり押し通してしまう「加害者」から抜け切れていないと言う証拠なのだ。
上述したように、信頼ある機関のホームページあたりで「絶歌」を発表するのが、被害者側の思いと加害者側の意思が歩み寄れた、もっとも正しい選択だったのであり、それが出来なかったのは、未熟なのか我が強すぎたのか、「絶歌」の事でこれからも元少年Aが批難の的になるのは仕方のない話と言えるのかもしれない。
この本を批難する人たちは「被害者の気持ちを考えてない」という倫理の立場でモノを言い、発売した側は「言論の自由」の名のもとに自己正当を主張する。実は、この双方の言い分は同次元で語れるものではないので、正しい結論が出るはずもなく、やがて、今回の騒動も騒がれただけで(これまでの同種の論議同様に)いずれは忘れ去られてしまう事になるのだろう。そして、またしばらくすると、再び似たような騒動が起こり、「言論の自由」がどうたらこうたらと弁護に利用される事になるのだ。
こうした表面的などっちが正しいかという話は、もう他の人たちがさんざん語りまくっているので、ここで再度繰り返そうという気はない。
単に「言論の自由」として「貴重な犯罪者心理の手記」を発表したかったのであれば、せめて「発表方法の選択」とかは考えになかったのだろうかとも思えてくる。
元少年Aが書いた文章を専門機関や大学に寄与して、ホームページなどで読める形にしても良かったはずなのだ。(もちろん、無料でである)元少年A自身がそこまで頭が回らなかったとしても、周囲の大人たちがそういう事を思い付いて、アドバイスしたり、段取りしてやるような余地はあったような感じもする。
しかし、「絶歌」は、そうした選択をとらずに、媒体は紙の本形式しか検討されず、しかも商業用の利益が生まれる本として発売されてしまった。
「絶歌」に対して批判的な人々というのは、内容以上に、そうした発表経緯に対して怒っているのだ。その事に対する抗議を、発売者側を擁護する人たちは「言論の自由」にすり替えようとしているものだから、なおさら火に油を注ぐ事態となっているのである。
何にせよ、「絶歌」を商業用の本として発売する事には正当性は何にもない。「言論の自由」にせよ「貴重な犯罪者心理の手記」にせよ、上述したように、信頼ある機関のホームページででも公開させてもらえれば、十分に目的は達成できるからである。むしろ、そのような形で発表した方が有益に活用されていたかもしれないのだ。
だから、人々は、「絶歌」をどうしても商業用の本として発売した事に、独善やエゴすら疑いたくなってくるのである。つまり、「言論の自由」とか「貴重な犯罪者心理の手記」とかは、しょせんはキレイごとのタテマエであり、本当の目的は金儲けじゃないか、と。
「絶歌」の初版は10万部で、発売された週には売上げランキング1位も獲得している。恐らく、元少年Aはそうとうな印税を手に入れるのではないかと思う。
気になるのは、その使い道だ。
良心的な視線で考えると、その額のほとんどは被害者への賠償にあてられるのではないかと言われている。まともな人間、本当に更生したと言うのであれば、それ以外の使い方はありえないだろう。
出版社は、元少年Aの印税の使い方については、いっさい干渉しないそうである。元少年Aも、印税の使い道については何も触れてはいない。
いっそうの事、「この本の売上げは、全て被害者への賠償に使います」宣言でも先にしておけば、「絶歌」はこれほどまでにも世間の槍玉に挙げられなくても済んだのだろうか。
しかし、そうとも言えない部分もあるのだ。
「被害者への賠償金作りの為の本」と言えば、何となく聞こえはいいが、うがった見方をすれば「ボクのした悪い事のお詫びの金を皆に出してもらおう」と言ってるようなものなのである。さらに、悪意を膨らませれば、被害者に対しても「お前に払う賠償金を(本を買った)オレたちが出してやらなくちゃいけないのか」と言う流れにもなってくる。
つまり、社会の悪意を被害者にまで及ぼさない為、元少年Aは「この本の印税は被害者への賠償に用いる」とはあえて公言しないようにしているのではないか、と考えてみる訳である。
以上のように推察してみると、何となく美談っぽくも思えるのだが、実はそうだったとしても大きな問題点がある。
そもそも、被害者は、元少年Aが手記を発売する事には迎合してないのだ。と言うのも、被害者が「絶歌」発売に苦情を発した事が、より「絶歌」が批難される一因にもなっているぐらいだからである。
なかなか満足に社会復帰できない元少年Aとしては、被害者への賠償金を作るにしても、もはや、自分の犯罪手記でも発売するぐらいしか方法が残されていなかったのかもしれない。しかし、皮肉ながら、賠償金を作る行為が、よけい被害者の被害を拡散させる有様になってしまったと言う事である。美談どころか笑えない話なのだ。
ここに、被害者側と加害者側の大きな考え方の違いが見えてくるとも言えよう。
加害者にしてみれば、被害者に詫びたくて、どうしても賠償金を払いたいという気持ちが強くなるのかもしれない。だが、被害者側は、お金なんかよりも、もっと違うものを加害者に求めたいものなのかもしれないのだ。
それは、悲しい過去の事件と一緒に加害者自身ももう二度と自分の前に姿を見せてほしくない、という気持ちである。元少年Aの被害者もそういう気持ちなのであり、だから、元少年Aが手記を書く事には拒絶的だったのだ。
それなのに、被害者の承諾も得ずに「絶歌」の発表に踏み切ってしまった元少年Aの行為は、仮に、裏の目的として賠償金作りがあったとしても、とても褒められるものではない。まだまだ彼は自分の気持ちばかり押し通してしまう「加害者」から抜け切れていないと言う証拠なのだ。
上述したように、信頼ある機関のホームページあたりで「絶歌」を発表するのが、被害者側の思いと加害者側の意思が歩み寄れた、もっとも正しい選択だったのであり、それが出来なかったのは、未熟なのか我が強すぎたのか、「絶歌」の事でこれからも元少年Aが批難の的になるのは仕方のない話と言えるのかもしれない。
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