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2019年11月28日
映画「グラン・トリノ」− 「人を殺す気持ちを知りたいのか? 最悪だ」
「グラン・トリノ」(Gran Torino) 2008年 アメリカ
監督クリント・イーストウッド
脚本ニック・シェンク
撮影トム・スターン
原案デヴィッド・ジョハンソン
ニック・シェンク
音楽カイル・イーストウッド
マイケル・スティーヴンス
〈キャスト〉
クリント・イーストウッド ビー・ヴァン
アーニー・ハー クリストファー・カーリー
人付き合いが悪く、頑固で片意地、自分が生きた時代に誇りを持ち、どんなに時代が移り変わろうと自分の信念のよりどころを見失わない男。
親戚にそんな人がいたとしたら、煙ったい存在として敬遠されるような男をクリント・イーストウッドが好演。
ラストの意表を突いた展開と、少数民族であるモン族との交流を通してたどる男の生きざまを描いた秀作です。
ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は50年間勤めたフォードの工場を退職し、愛犬とともに自宅のポーチにゆったりと座り、缶ビールを飲むのを楽しみにしています。
妻に先立たれたウォルトはますます頑固になっているせいか、息子たちとも折り合いが悪く、隣に住むモン族の一家に対しても“コメ食い虫”と嘲(あざけ)り、オレの芝生を汚すな、と不平の毎日を送っています。
そんなウォルトが大切にしているのが72年型の愛車、フォード製“グラン・トリノ”です。
デカくて優雅ですが燃費があまりよくないため、翌年の1973年から始まったオイルショックのあおりを受けてアメリカの自動車産業が燃費のすぐれた日本車にとってかわられる分岐点ともなった1972年。
そんな最後の輝きを放つグラン・トリノをウォルトは愛し、ピカピカに磨いて自宅の車庫に保管しています。
いわば歴史の貴重品ともなったウォルトの愛車グラン・トリノを、隣に住むモン族の少年タオ(ビー・ヴァン)が盗みに入ります。
タオ自身は車に興味はなく、盗みはイヤなのですが、いとこでストリートギャングのリーダーであるフォン(ドゥア・モーア)に脅(おど)され、盗みに入ったのです。
ガレージの不審者に気づいたウォルトはタオに銃口を向け、追い払います。
内気なタオは人生に迷っています。
自分の人生に自信が持てなくて悩んでいるのです。そんな気弱な性格からフォンたちに目をつけられ、ギャングの仲間に引き入れられようとしているのですが、姉のスー(アーニー・ハー)は、ウォルトの車を盗もうとしたタオに腹を立て、タオを引き連れてウォルトに謝罪に出かけ、罪滅ぼしのため、身の回りの用事をタオにさせるようウォルトに頼みます。
最初は断ったウォルトでしたが、スーの意見を聞き入れ、タオにいくつか用事をさせながら、それが機縁となって、タオやモン族一家との交流が生まれてゆきます。
ウォルトは心に重荷を負っています。
1950年に始まった朝鮮戦争に出兵したウォルトは、戦争とはいえ、年の若いアジア人を殺した罪悪感に苛(さいな)まれ、帰国後はそのために意固地になっていったともいえます。
贖罪を願うウォルトですが、亡き妻と親しかったヤノビッチ神父(クリストファー・カーリー)とは打ち解けず、現在にいたるまで罪の意識に苦しめられています。
しかしまたウォルトには、それほど遠くない将来に自分の人生に終止符が打たれるであろうことも自覚し始めています。体調が思わしくないこともあって、それまで行く気のなかった病院での検査の結果が判明。
死期が迫っていることを悟ります。
そんな中、執拗にスーたちにからむフォンをリーダーとするギャングたちがタオを傷つける事件が発生。
激怒したウォルトは、二度とタオに手出しをすることのないようフォンたちを痛めつけますが、このことがかえってギャングたちの反感を生み、タオの家に銃弾を浴びせるとともに、スーをさらい、暴行を加えた上でレイプに及び、スーは悲惨な体で自宅に送り返されます。
姉の姿を見たタオはフォンたちに復讐するべく自宅を飛び出しますが、一連の出来事が自分の行いから始まったことを悔いたウォルトはタオを自宅の地下に監禁し、ただひとり、ギャングたちのもとへ乗り込んでゆきます。
心に染みこむ余韻を残す素晴らしい映画で、中でも極めてユニークなのがモン族の存在。
元々はタイやラオス、中国の山岳地帯に住む民族集団ですが、現在のシリアにおけるクルド人と同じく、彼らはアメリカの政策に翻弄された歴史を持ちます。
第一次、第二次のインドシナ戦争を経て、ベトナム戦争へと突入すると、アメリカ・CIAは共産軍との戦いのために多くのモン族を雇い、兵士としての訓練を始めます。その任務の主なものは敵の補給ルートを絶つためのものだったようですが、やがて泥沼化した戦争からアメリカは撤退。モン族は置き去りにされ、見捨てられます。
その後、モン族の多くは、ベトナムやラオスの共産軍によって虐殺の憂き目にあい、難民化した彼らはやがてアメリカやオーストラリアなどに移住することになります。
「グラン・トリノ」は贖罪の映画としての一面を持ちます。
ウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争でアジア人を多数殺した罪の意識を抱え、贖罪を願っていますが、それを大きく投影させたのが、アメリカが負うべきモン族への贖罪です。
変わり果てた姉・スーの姿を見たタオは復讐のために家を飛び出しますが、ウォルトはそれをおしとどめ、こう言います。
「人を殺す気持ちを知りたいのか? 最悪だ。もっとひどいのは、降参する哀れな子どもを殺して勲章をもらうことだ。それがすべてだ。
…お前くらいの年のおびえたガキさ。
ずっと昔、お前がさっき持ったライフルでガキの顔を撃った。
そのことを考えない日はない。
お前にそんな風になってほしくない」
ウォルトはタオを自宅の地下に監禁して、単身、ギャングたちのもとへ向かうのですが、このウォルトの人物像は、引退したハリー・キャラハンを思わせる雰囲気を持っているため、ギャングたちに対峙したウォルトは派手な銃撃戦でもやらかすのかと思わせますが、死期を悟っていたウォルトは自分の命を犠牲にして、タオを殺人者にすることなく、ギャングたちに重罪を負わせます。
これはアメリカが負うべきモン族への贖罪をウォルトに投影させたと考えることもできます。
さらにウォルトの遺書によって、愛車“グラン・トリノ”はタオに譲られることになるのですが、ひとつの時代を象徴し、古びてもなおその輝きを失わないガッシリしたフォードのグラン・トリノはウォルトそのものでもあり、一人の少年への魂の贈り物ともいえます。
監督・主演のクリント・イーストウッドの他には目立って有名な俳優のいない中にあって、よく知られている俳優としては、ウォルトの友人で少しだけ登場するジョン・キャロル・リンチ。
大柄でいかつい風貌なので、多くの映画で強い印象を残していますが、個人的には「ファーゴ」(1996年)の物静かな画家ノーム役がとても印象に残っています。
人生に迷っている少年と、数々の修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の老人。
老人との出会いが少年に夢と希望を与えるという、表面的にはよくある話ながら、そのスケールと奥行きの深さは群を抜いています。
海岸線を流れるように走るグラン・トリノと、それにかぶさるように流れる音楽。
味わい深い余韻を残す素晴らしいラストシーンでした。
監督クリント・イーストウッド
脚本ニック・シェンク
撮影トム・スターン
原案デヴィッド・ジョハンソン
ニック・シェンク
音楽カイル・イーストウッド
マイケル・スティーヴンス
〈キャスト〉
クリント・イーストウッド ビー・ヴァン
アーニー・ハー クリストファー・カーリー
人付き合いが悪く、頑固で片意地、自分が生きた時代に誇りを持ち、どんなに時代が移り変わろうと自分の信念のよりどころを見失わない男。
親戚にそんな人がいたとしたら、煙ったい存在として敬遠されるような男をクリント・イーストウッドが好演。
ラストの意表を突いた展開と、少数民族であるモン族との交流を通してたどる男の生きざまを描いた秀作です。
ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は50年間勤めたフォードの工場を退職し、愛犬とともに自宅のポーチにゆったりと座り、缶ビールを飲むのを楽しみにしています。
妻に先立たれたウォルトはますます頑固になっているせいか、息子たちとも折り合いが悪く、隣に住むモン族の一家に対しても“コメ食い虫”と嘲(あざけ)り、オレの芝生を汚すな、と不平の毎日を送っています。
そんなウォルトが大切にしているのが72年型の愛車、フォード製“グラン・トリノ”です。
デカくて優雅ですが燃費があまりよくないため、翌年の1973年から始まったオイルショックのあおりを受けてアメリカの自動車産業が燃費のすぐれた日本車にとってかわられる分岐点ともなった1972年。
そんな最後の輝きを放つグラン・トリノをウォルトは愛し、ピカピカに磨いて自宅の車庫に保管しています。
いわば歴史の貴重品ともなったウォルトの愛車グラン・トリノを、隣に住むモン族の少年タオ(ビー・ヴァン)が盗みに入ります。
タオ自身は車に興味はなく、盗みはイヤなのですが、いとこでストリートギャングのリーダーであるフォン(ドゥア・モーア)に脅(おど)され、盗みに入ったのです。
ガレージの不審者に気づいたウォルトはタオに銃口を向け、追い払います。
内気なタオは人生に迷っています。
自分の人生に自信が持てなくて悩んでいるのです。そんな気弱な性格からフォンたちに目をつけられ、ギャングの仲間に引き入れられようとしているのですが、姉のスー(アーニー・ハー)は、ウォルトの車を盗もうとしたタオに腹を立て、タオを引き連れてウォルトに謝罪に出かけ、罪滅ぼしのため、身の回りの用事をタオにさせるようウォルトに頼みます。
最初は断ったウォルトでしたが、スーの意見を聞き入れ、タオにいくつか用事をさせながら、それが機縁となって、タオやモン族一家との交流が生まれてゆきます。
ウォルトは心に重荷を負っています。
1950年に始まった朝鮮戦争に出兵したウォルトは、戦争とはいえ、年の若いアジア人を殺した罪悪感に苛(さいな)まれ、帰国後はそのために意固地になっていったともいえます。
贖罪を願うウォルトですが、亡き妻と親しかったヤノビッチ神父(クリストファー・カーリー)とは打ち解けず、現在にいたるまで罪の意識に苦しめられています。
しかしまたウォルトには、それほど遠くない将来に自分の人生に終止符が打たれるであろうことも自覚し始めています。体調が思わしくないこともあって、それまで行く気のなかった病院での検査の結果が判明。
死期が迫っていることを悟ります。
そんな中、執拗にスーたちにからむフォンをリーダーとするギャングたちがタオを傷つける事件が発生。
激怒したウォルトは、二度とタオに手出しをすることのないようフォンたちを痛めつけますが、このことがかえってギャングたちの反感を生み、タオの家に銃弾を浴びせるとともに、スーをさらい、暴行を加えた上でレイプに及び、スーは悲惨な体で自宅に送り返されます。
姉の姿を見たタオはフォンたちに復讐するべく自宅を飛び出しますが、一連の出来事が自分の行いから始まったことを悔いたウォルトはタオを自宅の地下に監禁し、ただひとり、ギャングたちのもとへ乗り込んでゆきます。
心に染みこむ余韻を残す素晴らしい映画で、中でも極めてユニークなのがモン族の存在。
元々はタイやラオス、中国の山岳地帯に住む民族集団ですが、現在のシリアにおけるクルド人と同じく、彼らはアメリカの政策に翻弄された歴史を持ちます。
第一次、第二次のインドシナ戦争を経て、ベトナム戦争へと突入すると、アメリカ・CIAは共産軍との戦いのために多くのモン族を雇い、兵士としての訓練を始めます。その任務の主なものは敵の補給ルートを絶つためのものだったようですが、やがて泥沼化した戦争からアメリカは撤退。モン族は置き去りにされ、見捨てられます。
その後、モン族の多くは、ベトナムやラオスの共産軍によって虐殺の憂き目にあい、難民化した彼らはやがてアメリカやオーストラリアなどに移住することになります。
「グラン・トリノ」は贖罪の映画としての一面を持ちます。
ウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争でアジア人を多数殺した罪の意識を抱え、贖罪を願っていますが、それを大きく投影させたのが、アメリカが負うべきモン族への贖罪です。
変わり果てた姉・スーの姿を見たタオは復讐のために家を飛び出しますが、ウォルトはそれをおしとどめ、こう言います。
「人を殺す気持ちを知りたいのか? 最悪だ。もっとひどいのは、降参する哀れな子どもを殺して勲章をもらうことだ。それがすべてだ。
…お前くらいの年のおびえたガキさ。
ずっと昔、お前がさっき持ったライフルでガキの顔を撃った。
そのことを考えない日はない。
お前にそんな風になってほしくない」
ウォルトはタオを自宅の地下に監禁して、単身、ギャングたちのもとへ向かうのですが、このウォルトの人物像は、引退したハリー・キャラハンを思わせる雰囲気を持っているため、ギャングたちに対峙したウォルトは派手な銃撃戦でもやらかすのかと思わせますが、死期を悟っていたウォルトは自分の命を犠牲にして、タオを殺人者にすることなく、ギャングたちに重罪を負わせます。
これはアメリカが負うべきモン族への贖罪をウォルトに投影させたと考えることもできます。
さらにウォルトの遺書によって、愛車“グラン・トリノ”はタオに譲られることになるのですが、ひとつの時代を象徴し、古びてもなおその輝きを失わないガッシリしたフォードのグラン・トリノはウォルトそのものでもあり、一人の少年への魂の贈り物ともいえます。
監督・主演のクリント・イーストウッドの他には目立って有名な俳優のいない中にあって、よく知られている俳優としては、ウォルトの友人で少しだけ登場するジョン・キャロル・リンチ。
大柄でいかつい風貌なので、多くの映画で強い印象を残していますが、個人的には「ファーゴ」(1996年)の物静かな画家ノーム役がとても印象に残っています。
人生に迷っている少年と、数々の修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の老人。
老人との出会いが少年に夢と希望を与えるという、表面的にはよくある話ながら、そのスケールと奥行きの深さは群を抜いています。
海岸線を流れるように走るグラン・トリノと、それにかぶさるように流れる音楽。
味わい深い余韻を残す素晴らしいラストシーンでした。
2019年11月06日
映画「触手」− 未知の領域は底知れぬ快楽か破滅か
「触手」(La region salvaje) 2016年
メキシコ/デンマーク/フランス/ドイツ/ノルウェー/スイス合作
監督アマト・エスカランテ
脚本ジブラン・ポルテーラ
アマト・エスカランテ
撮影マヌエル・アルベルト・クラロ
〈キャスト〉
ルース・ラモス シモーネ・プチオ ヘヘス・メサ
第73回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)受賞
「触手」という邦題と、全裸の若い女性にからみつく何やら怪しげな生き物のDVDのパッケージから、かなりイヤラシイ系のホラー映画だと思って見るとアテが外れるかもしれませんが、人間の根源的な性の領域に踏み込んだ、とても見ごたえのある映画です。
人間にとっての究極の快楽はセックスがもたらす官能の歓びであろうと思います(麻薬関係は経験が無いので分かりません)。
ですがそれも個人差があって、セックスに淡白な人もいれば、尽きることのない肉欲に身を持ち崩す人もいます。
しかし、満たされない性欲は誰もが経験することであるし、それをどうやって満たされたものにするかは個々人の問題として悩ましいところです。
アレハンドラ(ルース・ラモス)は、夫アンヘル(ヘヘス・メサ)の一方的な性欲に黙って従っていますが、動物的で単調なアンヘルとの交わりに体は冷めていて、その後の自慰によって紛らわすことで満たされない肉体を持て余しています。
一方、アレハンドラの弟で看護師のファビアン(エデン・ヴィラヴィセンシオ)は、腰に傷を負った若い女性ヴェロニカ(シモーネ・ブチオ)と知り合い、二人の間には親密な友情が生まれていくのですが、ゲイであるファビアンは、姉の夫のアンヘルとも肉体関係を持っています。
バイセクシャルのアンヘルは、妻とその弟とも関係を持つという異様な状態を保っていたのですが、その関係はファビアンの拒絶によって終止符が打たれ、ファビアンに対するアンヘルの怒りが爆発することになります。
ヴェロニカとの友情を育(はぐく)み始めたファビアンは、ヴェロニカの知人で外界と隔絶されたような山小屋風の家に住み、ある奇妙な生物の研究をしている科学者ヴェガ(オスカー・エスカラント)と、その妻マルタ(ベルナルド・トルエーダ)を紹介されます。
別れ話を持ち出すファビアンの態度に腹を立てたアンヘルは、ファビアンが勤める病院の駐車場で激しく口論。
後にファビアンは全身に打撲を負い、性的暴行を受けて全裸で意識不明の状態で沼地から発見されます。
一命はとりとめますが、瀕死の弟を見たアレハンドラはショックを受け、やがて、ゲイの弟と夫との関係を知ったアレハンドラは、夫のアンヘルが弟に対して激しく罵(ののし)っているメールを発見。
ファビアン暴行事件の容疑はアンヘルに向かい、口論の目撃者もいたことからアンヘルは逮捕されてしまいます。
失意のアレハンドラは弟を介してヴェロニカと親しくなってゆき、快楽を与えてくれる謎の生物を知るようになります。
科学者ヴェガの小屋を訪れたアレハンドラは、謎の生物との交わりに今まで味わったことのなかった快楽を得て、その虜(とりこ)となっていくのですが、それは快楽を与える一方で、非常に危険な生き物であることを知ります。
弟のファビアンも小屋を訪れていたことを知ったアレハンドラは、ファビアンを暴行したのは夫のアンヘルではなく、その生き物だと確信し、助かる見込みのないファビアンの人工呼吸器を外し、夫の容疑を晴らした上で子どもたちを連れて町を去る決心をします。
しかしアンヘルは自分を陥(おとしい)れたアレハンドラを激しく憎悪。アレハンドラを暴行して拳銃で射殺しようとしますが、逆に自分の腿を撃ってしまいます。
重症のアンヘルを車に乗せ、謎の生物が住む小屋へとアンヘルを連れていくのですが、快楽を与えるはずのその生き物は、マルタに重症を負わせ、ヴェロニカを殺し、今や陰険でグロテスクな生き物へと変わっていました。
その部屋へ、アレハンドラは生き物への生贄(いけにえ)としてアンヘルを引きずりこみます。
◆◆◆◆
原題は「野生の領域」。
邦題の「触手」は謎の生物が持つグニャグニャとした触手のことですが、質の悪いホラー映画みたいな題名で、いかがなものか、という気もしますが、エロティックホラーとしての受けを狙ったのでしょうから、まあ、そんなものなのでしょう。
しかしこの映画は単にエロティックホラーだけのカテゴリーには収まりません。
ホラーとしての要素より、セックスの光と闇の部分、快楽と裏腹にある満たされない肉欲、同性(男と男)による性交、それがもたらす破滅を宇宙から飛来した謎の生き物によって暗喩しているようにみえます。
そして、この謎の生き物ですが、これは葛飾北斎の描いた「海女と蛸」を借り受けたものか、あるいはそれを題材とした新藤兼人監督の映画「北斎漫画」(1981年, 緒形拳 樋口可南子)にヒントを得て造形したものだと思われます。
メキシコの街並みもいいですね。
科学者ヴェガの住む山小屋風の家屋、美しい風景の描写など、撮影が秀逸でした。
R-18はもったいないような気もするけど、仕方ないかなあ。
メキシコ/デンマーク/フランス/ドイツ/ノルウェー/スイス合作
監督アマト・エスカランテ
脚本ジブラン・ポルテーラ
アマト・エスカランテ
撮影マヌエル・アルベルト・クラロ
〈キャスト〉
ルース・ラモス シモーネ・プチオ ヘヘス・メサ
第73回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)受賞
「触手」という邦題と、全裸の若い女性にからみつく何やら怪しげな生き物のDVDのパッケージから、かなりイヤラシイ系のホラー映画だと思って見るとアテが外れるかもしれませんが、人間の根源的な性の領域に踏み込んだ、とても見ごたえのある映画です。
人間にとっての究極の快楽はセックスがもたらす官能の歓びであろうと思います(麻薬関係は経験が無いので分かりません)。
ですがそれも個人差があって、セックスに淡白な人もいれば、尽きることのない肉欲に身を持ち崩す人もいます。
しかし、満たされない性欲は誰もが経験することであるし、それをどうやって満たされたものにするかは個々人の問題として悩ましいところです。
アレハンドラ(ルース・ラモス)は、夫アンヘル(ヘヘス・メサ)の一方的な性欲に黙って従っていますが、動物的で単調なアンヘルとの交わりに体は冷めていて、その後の自慰によって紛らわすことで満たされない肉体を持て余しています。
一方、アレハンドラの弟で看護師のファビアン(エデン・ヴィラヴィセンシオ)は、腰に傷を負った若い女性ヴェロニカ(シモーネ・ブチオ)と知り合い、二人の間には親密な友情が生まれていくのですが、ゲイであるファビアンは、姉の夫のアンヘルとも肉体関係を持っています。
バイセクシャルのアンヘルは、妻とその弟とも関係を持つという異様な状態を保っていたのですが、その関係はファビアンの拒絶によって終止符が打たれ、ファビアンに対するアンヘルの怒りが爆発することになります。
ヴェロニカとの友情を育(はぐく)み始めたファビアンは、ヴェロニカの知人で外界と隔絶されたような山小屋風の家に住み、ある奇妙な生物の研究をしている科学者ヴェガ(オスカー・エスカラント)と、その妻マルタ(ベルナルド・トルエーダ)を紹介されます。
別れ話を持ち出すファビアンの態度に腹を立てたアンヘルは、ファビアンが勤める病院の駐車場で激しく口論。
後にファビアンは全身に打撲を負い、性的暴行を受けて全裸で意識不明の状態で沼地から発見されます。
一命はとりとめますが、瀕死の弟を見たアレハンドラはショックを受け、やがて、ゲイの弟と夫との関係を知ったアレハンドラは、夫のアンヘルが弟に対して激しく罵(ののし)っているメールを発見。
ファビアン暴行事件の容疑はアンヘルに向かい、口論の目撃者もいたことからアンヘルは逮捕されてしまいます。
失意のアレハンドラは弟を介してヴェロニカと親しくなってゆき、快楽を与えてくれる謎の生物を知るようになります。
科学者ヴェガの小屋を訪れたアレハンドラは、謎の生物との交わりに今まで味わったことのなかった快楽を得て、その虜(とりこ)となっていくのですが、それは快楽を与える一方で、非常に危険な生き物であることを知ります。
弟のファビアンも小屋を訪れていたことを知ったアレハンドラは、ファビアンを暴行したのは夫のアンヘルではなく、その生き物だと確信し、助かる見込みのないファビアンの人工呼吸器を外し、夫の容疑を晴らした上で子どもたちを連れて町を去る決心をします。
しかしアンヘルは自分を陥(おとしい)れたアレハンドラを激しく憎悪。アレハンドラを暴行して拳銃で射殺しようとしますが、逆に自分の腿を撃ってしまいます。
重症のアンヘルを車に乗せ、謎の生物が住む小屋へとアンヘルを連れていくのですが、快楽を与えるはずのその生き物は、マルタに重症を負わせ、ヴェロニカを殺し、今や陰険でグロテスクな生き物へと変わっていました。
その部屋へ、アレハンドラは生き物への生贄(いけにえ)としてアンヘルを引きずりこみます。
◆◆◆◆
原題は「野生の領域」。
邦題の「触手」は謎の生物が持つグニャグニャとした触手のことですが、質の悪いホラー映画みたいな題名で、いかがなものか、という気もしますが、エロティックホラーとしての受けを狙ったのでしょうから、まあ、そんなものなのでしょう。
しかしこの映画は単にエロティックホラーだけのカテゴリーには収まりません。
ホラーとしての要素より、セックスの光と闇の部分、快楽と裏腹にある満たされない肉欲、同性(男と男)による性交、それがもたらす破滅を宇宙から飛来した謎の生き物によって暗喩しているようにみえます。
そして、この謎の生き物ですが、これは葛飾北斎の描いた「海女と蛸」を借り受けたものか、あるいはそれを題材とした新藤兼人監督の映画「北斎漫画」(1981年, 緒形拳 樋口可南子)にヒントを得て造形したものだと思われます。
メキシコの街並みもいいですね。
科学者ヴェガの住む山小屋風の家屋、美しい風景の描写など、撮影が秀逸でした。
R-18はもったいないような気もするけど、仕方ないかなあ。