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2019年02月28日
映画「情婦マノン」究極の愛の行方
「情婦マノン」(Manon) 1949年 フランス
監督・脚本アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作アベ・プレヴォー
撮影アルマン・ティラール
音楽ポール・ミスラキ
〈キャスト〉
セシル・オーブリー ミシェル・オークレール
セルジュ・レジアニ
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
地中海を航行する貨物船(ユダヤ人を運ぶ密航船でもあります)の中で、若い男女の密航者が発見されます。
男の名前はロベール・クレスタール(ミシェル・オークレール)、女の名前はマノン・レスコー(セシル・オーブリー)。
いつ、どうして密航しようとしたのだ、と船長は二人を問い詰めます。
最初は反抗的な態度だったロベールでしたが、やがて彼の口からそれまでのいきさつが語られてゆきます。
パリ解放の間近いフランス、ノルマンディーの村。
レジスタンスに身を投じていたロベールは、ある日、ドイツ兵と親交があったという理由で、フランスを売った売国奴として村の人たちからリンチを受けそうになっている若い女性を助けます。
女性を助けはしましたが、最初はまったく関心のなかったロベールは、いつしか彼女の魅力に惹かれ、二人はノルマンディーを離れ、パリで一緒に暮らし始めます。
戦争も終わり、静かな田舎暮らしを望んでいるロベールでしたが、彼女(マノン)は華やかなパリを去る気にはなれず、ロベールの収入だけではパリでの豊かな生活が送れないからと、マノンは働き始め、ロベールもそんな彼女の気を惹くために、闇商売にも足を踏み入れることになります。
マノンは少女のような外見とは裏腹に、贅沢が身に沁み込んだ奔放な女でした。ロベールには、男は一人も知らないと言いながら、実際には数多くの男たちの中で生きてきた娼婦のしたたかさを持った女でした。
マノンの行動を尾行し、娼館でのマノンを発見したロベールでしたが、そんな堕落した女と知りながらも、ロベールは彼女から去る気にはなれず、マノンに対する愛は深まってゆきます。
マノンもロベールの愛に応えようとしますが、闇商売のトラブルからマノンの兄レオンを殺害したロベールは、マノンと二人でパリからの逃避行を続け、貨物船に密航します。
ロベールの話を聞いた船長は二人に同情し、ユダヤ人と共にパレスチナへの上陸の許可を与えます。
ユダヤ人たちとアレクサンドリアへ上陸したロベールとマノンでしたが、そこには予想もしていなかった悲劇が二人を待っていました。
約束の地パレスチナ
マノン・レスコーはしたたかな女です。
ノルマンディーの村でロベールに助けられ、最初はロベールから冷たくあしらわれていたマノンでしたが、自分の魅力を知っている彼女はロベールに迫り、彼の愛をつかむと戦火の激しくなったノルマンディーを離れ、二人でパリへと向かいます。
贅沢な暮らしを望むマノンは、ロベールの愛を裏切り、娼婦にまで身を持ち崩してゆきます。ロベールはマノンの本性を知りながらも愛を捨て去ろうとはしません。
ここまで見てくると、どうしてこんな女がいいのだろうと、ロベールという男の気持ちが理解できません。
しかし、愛とは本来理解できないものなのかもしれません。
男の目からみるとロベールの気持ちは分かりませんが、逆に、自堕落な男に女性が惹かれるという例もあることで、どうしてあんな男がいいのだろうと思われることが世間にはよくあります。
しかし、ロベールがマノンの兄レオンを殺し、一人でマルセイユに向かおうとすることから、マノンの心に変化が生まれます。本当に自分を想ってくれる男はロベールしかいないことに気づくのです。
「情婦マノン」は中盤からラストにかけてが名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの手腕が思う存分に発揮されていると思います。
ロベールを追いかけて、人の波の中から動き出した列車に飛び乗り、大混雑の人混みをかき分けてロベールを探し出すマノン。抱き合う二人のセリフは汽笛にかき消されて聞こえません。ここまでのシーンは、イタリアン・リアリズムと同じく、当時、数多くの名作を生みだしたフランス映画の活力を感じます。
また、この物語はマノンとロベールだけではなく、登場人物すべてに個性が与えられています。
娼館の前でロベールを振り返る通りすがりの男から、娼館のマダム、その小間使い、密航船の船長、金品をもらってマノンの要求を聞いてやる船員、パリのワイン王、マノンの兄レオン。
そして、この映画で重層的な背景をなしているのが、密航船のユダヤ人たちです。
自分たちの国を持たない彼らは、神からの「約束の地」パレスチナを目指しますが、そこに待ち構えていたのはアラブの一団で(この背景はよく分かりませんが、アラビア半島ではアラブの民族紛争が活発化していたので、他民族を排撃する武装集団かもしれません)、マノンはユダヤ人と共に殺戮の犠牲となってしまいます。
ひとり生き残ったロベールは、銃弾に倒れて死体となったマノンを抱き抱え、砂の上を引きずり、服は裂けて乳房が露わになったマノンの死体を担いで歩き、やがて力尽きます。
マノンの死体を顔だけ出して砂に埋め、ロベールはつぶやきます。
「そのうち君は腐るんだ。…それでも僕は君を愛している」
聖書の創世記すら想起させる、恐ろしくも崇高なラストです。
監督・脚本アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作アベ・プレヴォー
撮影アルマン・ティラール
音楽ポール・ミスラキ
〈キャスト〉
セシル・オーブリー ミシェル・オークレール
セルジュ・レジアニ
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
地中海を航行する貨物船(ユダヤ人を運ぶ密航船でもあります)の中で、若い男女の密航者が発見されます。
男の名前はロベール・クレスタール(ミシェル・オークレール)、女の名前はマノン・レスコー(セシル・オーブリー)。
いつ、どうして密航しようとしたのだ、と船長は二人を問い詰めます。
最初は反抗的な態度だったロベールでしたが、やがて彼の口からそれまでのいきさつが語られてゆきます。
パリ解放の間近いフランス、ノルマンディーの村。
レジスタンスに身を投じていたロベールは、ある日、ドイツ兵と親交があったという理由で、フランスを売った売国奴として村の人たちからリンチを受けそうになっている若い女性を助けます。
女性を助けはしましたが、最初はまったく関心のなかったロベールは、いつしか彼女の魅力に惹かれ、二人はノルマンディーを離れ、パリで一緒に暮らし始めます。
戦争も終わり、静かな田舎暮らしを望んでいるロベールでしたが、彼女(マノン)は華やかなパリを去る気にはなれず、ロベールの収入だけではパリでの豊かな生活が送れないからと、マノンは働き始め、ロベールもそんな彼女の気を惹くために、闇商売にも足を踏み入れることになります。
マノンは少女のような外見とは裏腹に、贅沢が身に沁み込んだ奔放な女でした。ロベールには、男は一人も知らないと言いながら、実際には数多くの男たちの中で生きてきた娼婦のしたたかさを持った女でした。
マノンの行動を尾行し、娼館でのマノンを発見したロベールでしたが、そんな堕落した女と知りながらも、ロベールは彼女から去る気にはなれず、マノンに対する愛は深まってゆきます。
マノンもロベールの愛に応えようとしますが、闇商売のトラブルからマノンの兄レオンを殺害したロベールは、マノンと二人でパリからの逃避行を続け、貨物船に密航します。
ロベールの話を聞いた船長は二人に同情し、ユダヤ人と共にパレスチナへの上陸の許可を与えます。
ユダヤ人たちとアレクサンドリアへ上陸したロベールとマノンでしたが、そこには予想もしていなかった悲劇が二人を待っていました。
約束の地パレスチナ
マノン・レスコーはしたたかな女です。
ノルマンディーの村でロベールに助けられ、最初はロベールから冷たくあしらわれていたマノンでしたが、自分の魅力を知っている彼女はロベールに迫り、彼の愛をつかむと戦火の激しくなったノルマンディーを離れ、二人でパリへと向かいます。
贅沢な暮らしを望むマノンは、ロベールの愛を裏切り、娼婦にまで身を持ち崩してゆきます。ロベールはマノンの本性を知りながらも愛を捨て去ろうとはしません。
ここまで見てくると、どうしてこんな女がいいのだろうと、ロベールという男の気持ちが理解できません。
しかし、愛とは本来理解できないものなのかもしれません。
男の目からみるとロベールの気持ちは分かりませんが、逆に、自堕落な男に女性が惹かれるという例もあることで、どうしてあんな男がいいのだろうと思われることが世間にはよくあります。
しかし、ロベールがマノンの兄レオンを殺し、一人でマルセイユに向かおうとすることから、マノンの心に変化が生まれます。本当に自分を想ってくれる男はロベールしかいないことに気づくのです。
「情婦マノン」は中盤からラストにかけてが名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの手腕が思う存分に発揮されていると思います。
ロベールを追いかけて、人の波の中から動き出した列車に飛び乗り、大混雑の人混みをかき分けてロベールを探し出すマノン。抱き合う二人のセリフは汽笛にかき消されて聞こえません。ここまでのシーンは、イタリアン・リアリズムと同じく、当時、数多くの名作を生みだしたフランス映画の活力を感じます。
また、この物語はマノンとロベールだけではなく、登場人物すべてに個性が与えられています。
娼館の前でロベールを振り返る通りすがりの男から、娼館のマダム、その小間使い、密航船の船長、金品をもらってマノンの要求を聞いてやる船員、パリのワイン王、マノンの兄レオン。
そして、この映画で重層的な背景をなしているのが、密航船のユダヤ人たちです。
自分たちの国を持たない彼らは、神からの「約束の地」パレスチナを目指しますが、そこに待ち構えていたのはアラブの一団で(この背景はよく分かりませんが、アラビア半島ではアラブの民族紛争が活発化していたので、他民族を排撃する武装集団かもしれません)、マノンはユダヤ人と共に殺戮の犠牲となってしまいます。
ひとり生き残ったロベールは、銃弾に倒れて死体となったマノンを抱き抱え、砂の上を引きずり、服は裂けて乳房が露わになったマノンの死体を担いで歩き、やがて力尽きます。
マノンの死体を顔だけ出して砂に埋め、ロベールはつぶやきます。
「そのうち君は腐るんだ。…それでも僕は君を愛している」
聖書の創世記すら想起させる、恐ろしくも崇高なラストです。
2019年02月22日
映画「モロッコ」伝説の大スターが共演した不朽の名作
「モロッコ」(Morocco) 1930年 アメリカ
監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作ベノ・ヴィグニー
脚本ジュールス・ファースマン
撮影リー・ガームス
音楽カール・ハヨス
〈キャスト〉
マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー
アドルフ・マンジュー
北アフリカの北西部に位置するモロッコは立憲君主制国家ですが、20世紀初頭よりイギリス・フランス・ドイツ・スペインなどのヨーロッパ列強の支配にさらされた歴史を持ちます。
後にその大部分はフランスの保護領になりますから、映画「モロッコ」はフランス外人部隊と反乱軍との戦いが背景にあると思われます。
映画は特に時代背景や政治状況については何らの説明も与えてはいません。それは政治や国際情勢に重きを置いた映画ではなく、ベノ・ヴィグニーの原作が「アミー・ジョリー」であり、映画のヒロイン、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)を描いたものであるからでしょう。
モロッコの町へ外人部隊がやって来ます。彼らには短い休暇が与えられ、軍隊としての規律を守ることを要求されながらも、ある程度の自由が許されます。
そんな外人部隊の中でも、ひときわ背の高いトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は酒と女に目がなく、さっそく町の女たちとの休暇を楽しみ始めます。
一方、町の酒場兼劇場に歌手として海を渡ってきたアミー・ジョリーは、初ステージで観客からブーイングを浴びながらも、冷めた目で観客を見下ろし、その妖艶さがやがて観客を魅了します。
客席にいたトム・ブラウンはそんな彼女に惹きつけられ、トムの目を意識したアミーは部屋のカギをそっとトムの手に握らせます。
トムとアミーは恋に落ちますが、アミーに惹かれたのはトムだけではなく、フランス人の富豪ベシエール(アドルフ・マンジュー)もそのひとりでした。
ベシエールは人間的な懐の深さと財力を併せ持った男で、アミーはベシエールの求婚を受けることを決心します。
失意のトムはアミーに別れを告げ、苛酷な状況の待つ戦場へと出発することになります。
アミーはトムを見捨てることができず、砂漠へと旅立つ部隊の後を追います。
後の第二次世界大戦では連合軍の兵士の間で厭戦気分を高める歌「リリー・マルレーン」が大ヒットし、伝説的な歌手となったマレーネ・ディートリッヒ。
「モロッコ」と同じ時期に、同じスタンバーグ監督による「嘆きの天使」では生真面目な英語教師を破滅に導く妖艶な堕天使を演じたディートリッヒは、その存在自体が妖しい魅力を放っています。
モロッコの劇場での初日は、観客のブーイングをものともせず、冷徹な眼差しで観客を見る姿はカリスマ性を持った大スターの貫禄たっぷりで、中でも、観客の女性の髪飾りから花を受け取り、彼女の唇にキスをするシーンは、アミー(ディートリッヒ)が男装の麗人であるため、ハッとするほどの一瞬のエロティシズムでした。
中年以降は真面目で人間的な厚みを増したゲイリー・クーパーですが、そんなクーパーのイメージからはほど遠い、軽薄な女たらしのトム・ブラウン。そんな男であっても、兵士仲間からは「あいつは女たらしだが、いい奴だ」と言われる、意外な心の広さを持った男。
しかし、アミーをはさんでベシエールとの間に恋のさや当てめいたものがなかったのは、トムの心の広さと同時に、富豪のベシエールに対して、貧しい一兵士でしかない自分をよく知っていたからなのだともいえます。
トムとベシエールとの間で揺れるアミーは、最後にはベシエールの元を去り、トムの後を追いかけてゆきます。
しかし、この映画、けっしてハッピーエンドとはいえません。
「モロッコ」には数多くの無名の女たちが登場します。
その中で、転戦する部隊の後について歩く5、6人の女たちの一団があります。
ボロをまとい、二匹の山羊を連れて陰鬱な表情で歩く彼女たちを見てアミーは言います。
「彼女たちはなに?」
ベシエールは答えます「護衛部隊だ」
「追いつけるの?」
「追いついても、男が死んでいる場合が多い」
護衛部隊が何を指しているのかは分かりませんが、男たちの愛情を求めている女たちであるのは確かなようです。
「モロッコ」には常に死の影が漂っています。
アミーが登場する船上のシーンで、ベシエールは船長にアミーの素性を訪ねます。
船長は答えます。「舞台芸人ですよ」続けて船長はこう言います。「自殺志願者とも呼ばれています」
片道切符しか持たないため、そう呼ばれるのですが、トムと知り合ったアミーはこんなことも言います。「女の外人部隊もあるのよ。傷ついても保障もなく、勲章もないけど」。
「モロッコ」の影の主役は、名もなき女性たちでもあります。
部隊の影に寄り添い、誰に振り向かれることもなく、黙々と歩く女性たち。
ラストは、護衛部隊と呼ばれる女性たちに混じってアミーが素足で部隊を追いかける場面で終わるのですが、そこには砂漠を吹きわたる風の音だけがヒュー、ヒューと聞こえて幕を閉じます。
映画史上、最も有名なラストシーンのひとつに数えられるこの場面。
アミーは元気よく護衛部隊の女性たちと共に歩いていくのですが、砂丘の向こうに兵士と女性たちの姿が消え、風の音だけが聞こえるラストは、部隊の全滅と女性たちの死を予感させ、不吉な余韻すら漂っています。
マレーネ・ディートリッヒとゲイリー・クーパー。
伝説の大スターたちが織りなす不朽の名作です。
監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作ベノ・ヴィグニー
脚本ジュールス・ファースマン
撮影リー・ガームス
音楽カール・ハヨス
〈キャスト〉
マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー
アドルフ・マンジュー
北アフリカの北西部に位置するモロッコは立憲君主制国家ですが、20世紀初頭よりイギリス・フランス・ドイツ・スペインなどのヨーロッパ列強の支配にさらされた歴史を持ちます。
後にその大部分はフランスの保護領になりますから、映画「モロッコ」はフランス外人部隊と反乱軍との戦いが背景にあると思われます。
映画は特に時代背景や政治状況については何らの説明も与えてはいません。それは政治や国際情勢に重きを置いた映画ではなく、ベノ・ヴィグニーの原作が「アミー・ジョリー」であり、映画のヒロイン、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)を描いたものであるからでしょう。
モロッコの町へ外人部隊がやって来ます。彼らには短い休暇が与えられ、軍隊としての規律を守ることを要求されながらも、ある程度の自由が許されます。
そんな外人部隊の中でも、ひときわ背の高いトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は酒と女に目がなく、さっそく町の女たちとの休暇を楽しみ始めます。
一方、町の酒場兼劇場に歌手として海を渡ってきたアミー・ジョリーは、初ステージで観客からブーイングを浴びながらも、冷めた目で観客を見下ろし、その妖艶さがやがて観客を魅了します。
客席にいたトム・ブラウンはそんな彼女に惹きつけられ、トムの目を意識したアミーは部屋のカギをそっとトムの手に握らせます。
トムとアミーは恋に落ちますが、アミーに惹かれたのはトムだけではなく、フランス人の富豪ベシエール(アドルフ・マンジュー)もそのひとりでした。
ベシエールは人間的な懐の深さと財力を併せ持った男で、アミーはベシエールの求婚を受けることを決心します。
失意のトムはアミーに別れを告げ、苛酷な状況の待つ戦場へと出発することになります。
アミーはトムを見捨てることができず、砂漠へと旅立つ部隊の後を追います。
後の第二次世界大戦では連合軍の兵士の間で厭戦気分を高める歌「リリー・マルレーン」が大ヒットし、伝説的な歌手となったマレーネ・ディートリッヒ。
「モロッコ」と同じ時期に、同じスタンバーグ監督による「嘆きの天使」では生真面目な英語教師を破滅に導く妖艶な堕天使を演じたディートリッヒは、その存在自体が妖しい魅力を放っています。
モロッコの劇場での初日は、観客のブーイングをものともせず、冷徹な眼差しで観客を見る姿はカリスマ性を持った大スターの貫禄たっぷりで、中でも、観客の女性の髪飾りから花を受け取り、彼女の唇にキスをするシーンは、アミー(ディートリッヒ)が男装の麗人であるため、ハッとするほどの一瞬のエロティシズムでした。
中年以降は真面目で人間的な厚みを増したゲイリー・クーパーですが、そんなクーパーのイメージからはほど遠い、軽薄な女たらしのトム・ブラウン。そんな男であっても、兵士仲間からは「あいつは女たらしだが、いい奴だ」と言われる、意外な心の広さを持った男。
しかし、アミーをはさんでベシエールとの間に恋のさや当てめいたものがなかったのは、トムの心の広さと同時に、富豪のベシエールに対して、貧しい一兵士でしかない自分をよく知っていたからなのだともいえます。
トムとベシエールとの間で揺れるアミーは、最後にはベシエールの元を去り、トムの後を追いかけてゆきます。
しかし、この映画、けっしてハッピーエンドとはいえません。
「モロッコ」には数多くの無名の女たちが登場します。
その中で、転戦する部隊の後について歩く5、6人の女たちの一団があります。
ボロをまとい、二匹の山羊を連れて陰鬱な表情で歩く彼女たちを見てアミーは言います。
「彼女たちはなに?」
ベシエールは答えます「護衛部隊だ」
「追いつけるの?」
「追いついても、男が死んでいる場合が多い」
護衛部隊が何を指しているのかは分かりませんが、男たちの愛情を求めている女たちであるのは確かなようです。
「モロッコ」には常に死の影が漂っています。
アミーが登場する船上のシーンで、ベシエールは船長にアミーの素性を訪ねます。
船長は答えます。「舞台芸人ですよ」続けて船長はこう言います。「自殺志願者とも呼ばれています」
片道切符しか持たないため、そう呼ばれるのですが、トムと知り合ったアミーはこんなことも言います。「女の外人部隊もあるのよ。傷ついても保障もなく、勲章もないけど」。
「モロッコ」の影の主役は、名もなき女性たちでもあります。
部隊の影に寄り添い、誰に振り向かれることもなく、黙々と歩く女性たち。
ラストは、護衛部隊と呼ばれる女性たちに混じってアミーが素足で部隊を追いかける場面で終わるのですが、そこには砂漠を吹きわたる風の音だけがヒュー、ヒューと聞こえて幕を閉じます。
映画史上、最も有名なラストシーンのひとつに数えられるこの場面。
アミーは元気よく護衛部隊の女性たちと共に歩いていくのですが、砂丘の向こうに兵士と女性たちの姿が消え、風の音だけが聞こえるラストは、部隊の全滅と女性たちの死を予感させ、不吉な余韻すら漂っています。
マレーネ・ディートリッヒとゲイリー・クーパー。
伝説の大スターたちが織りなす不朽の名作です。
2019年02月19日
映画「レベッカ」存在と非存在のミステリー
「レベッカ」(Rebecca) 1940年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作ダフネ・デュ・モーリア
脚本ロバート・E・シャーウッド
ショーン・ハリソン
音楽フランツ・ワックスマン
撮影ジョージ・バーンズ
第13回アカデミー賞作品賞, 撮影賞受賞。
〈キャスト〉
ジョーン・フォンテイン ジョージ・サンダース
ローレンス・オリヴィエ
「昨夜、私はまたマンダレイへ行った夢をみた」
若い女性の追想で始まるダフネ・デュ・モーリアの長編小説「レベッカ」が原作。
保養地モンテカルロで「わたし」は、城のような広大な屋敷を所有する貴族マキシム・デ・ウィンターと知り合います。
妻を亡くしたばかりのマキシムには暗い影が漂っていますが、「わたし」は20歳以上も年上のマキシムに惹かれ、マキシムもまた、“見すぼらしい上着とスカートをつけ、…哀れな小娘にすぎない、世間を知らない初心(うぶ)な「わたし」”に惹かれてゆき、簡素ではありますが、二人は結婚式を挙げます。
ここまでなら、「わたし」のシンデレラストーリーなのですが、マキシムと共にイギリスに帰り、広大なマンダレイに到着した日から「わたし」には悪夢のような日々が始まります。
マキシムの前妻、死んだはずのレベッカの存在が「わたし」の日常に大きな影となってまつわりつきます。
貴族社会の出来事なので、一般的には馴染みにくいように思えますが、ヒロインの「わたし」は身寄りのない、どちらかといえば内気な性格の女性であるため、読者は「わたし」の気持ちに寄り添いやすく、「わたし」と同じように疑心暗鬼にとらわれたミステリアスな世界に足を踏み入れることになります。
また、この物語の特徴的なところは、ヒロインの「わたし」に名前がなく、大きな影の存在となるレベッカはすでに死んでいて存在していません。
レベッカは知性あふれる美貌の持ち主でした。
そのレベッカの影に怯え、夫であるマキシムの愛情をも信用できなくなる「わたし」は、レベッカを崇拝する女中頭デンヴァース夫人の策略によって精神的に追い詰められてゆきます。
ですが、意外な方向へ話は進み、まさにどんでん返しといってもいい結末が「わたし」と読者を待っています。
映画「レベッカ」は、デヴィッド・O・セルズニックが製作に乗り出し、巨匠アルフレッド・ヒッチコックが監督を手がけました。
2時間を超える映画ですが、小説を読んでから映画を観ると、ストーリー展開が速すぎるのと(逆にいえば、あれだけの長編を2時間少しの時間によくまとめ上げたと思います)、この時代の映画の特徴で、俳優たちのしゃべるセリフが早口のため、せかせかした印象を受けます。
それはともかくとして、
「わたし」を演じたジョーン・フォンテインは、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、受賞は逃しましたが、素晴らしい美貌でありながら、レベッカの大きな影に絶えず怯える少女のように繊細な表情は、とても魅力的。
レベッカの謎の死と、それにまつわるマキシム(ローレンス・オリヴィエ)の行動は、原作をそのまま映画化することは憚(はばか)られたようで、映画は多少ソフトなものになっていますが、それでも、レベッカという女性の強烈な個性が前面に現れるクライマックスは、まさに意外性の極地ともいえます。
存在する「わたし」に名前がなく(名前が表記されず)、レベッカという名前を持つ女性は、すでに死亡していて存在していません。
原作者ダフネ・デュ・モーリアの投げかけた存在と非存在が織りなすミステリーは、人間心理の内面に潜む二面性を描いたものでもあるかと思います。
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作ダフネ・デュ・モーリア
脚本ロバート・E・シャーウッド
ショーン・ハリソン
音楽フランツ・ワックスマン
撮影ジョージ・バーンズ
第13回アカデミー賞作品賞, 撮影賞受賞。
〈キャスト〉
ジョーン・フォンテイン ジョージ・サンダース
ローレンス・オリヴィエ
「昨夜、私はまたマンダレイへ行った夢をみた」
若い女性の追想で始まるダフネ・デュ・モーリアの長編小説「レベッカ」が原作。
保養地モンテカルロで「わたし」は、城のような広大な屋敷を所有する貴族マキシム・デ・ウィンターと知り合います。
妻を亡くしたばかりのマキシムには暗い影が漂っていますが、「わたし」は20歳以上も年上のマキシムに惹かれ、マキシムもまた、“見すぼらしい上着とスカートをつけ、…哀れな小娘にすぎない、世間を知らない初心(うぶ)な「わたし」”に惹かれてゆき、簡素ではありますが、二人は結婚式を挙げます。
ここまでなら、「わたし」のシンデレラストーリーなのですが、マキシムと共にイギリスに帰り、広大なマンダレイに到着した日から「わたし」には悪夢のような日々が始まります。
マキシムの前妻、死んだはずのレベッカの存在が「わたし」の日常に大きな影となってまつわりつきます。
貴族社会の出来事なので、一般的には馴染みにくいように思えますが、ヒロインの「わたし」は身寄りのない、どちらかといえば内気な性格の女性であるため、読者は「わたし」の気持ちに寄り添いやすく、「わたし」と同じように疑心暗鬼にとらわれたミステリアスな世界に足を踏み入れることになります。
また、この物語の特徴的なところは、ヒロインの「わたし」に名前がなく、大きな影の存在となるレベッカはすでに死んでいて存在していません。
レベッカは知性あふれる美貌の持ち主でした。
そのレベッカの影に怯え、夫であるマキシムの愛情をも信用できなくなる「わたし」は、レベッカを崇拝する女中頭デンヴァース夫人の策略によって精神的に追い詰められてゆきます。
ですが、意外な方向へ話は進み、まさにどんでん返しといってもいい結末が「わたし」と読者を待っています。
映画「レベッカ」は、デヴィッド・O・セルズニックが製作に乗り出し、巨匠アルフレッド・ヒッチコックが監督を手がけました。
2時間を超える映画ですが、小説を読んでから映画を観ると、ストーリー展開が速すぎるのと(逆にいえば、あれだけの長編を2時間少しの時間によくまとめ上げたと思います)、この時代の映画の特徴で、俳優たちのしゃべるセリフが早口のため、せかせかした印象を受けます。
それはともかくとして、
「わたし」を演じたジョーン・フォンテインは、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、受賞は逃しましたが、素晴らしい美貌でありながら、レベッカの大きな影に絶えず怯える少女のように繊細な表情は、とても魅力的。
レベッカの謎の死と、それにまつわるマキシム(ローレンス・オリヴィエ)の行動は、原作をそのまま映画化することは憚(はばか)られたようで、映画は多少ソフトなものになっていますが、それでも、レベッカという女性の強烈な個性が前面に現れるクライマックスは、まさに意外性の極地ともいえます。
存在する「わたし」に名前がなく(名前が表記されず)、レベッカという名前を持つ女性は、すでに死亡していて存在していません。
原作者ダフネ・デュ・モーリアの投げかけた存在と非存在が織りなすミステリーは、人間心理の内面に潜む二面性を描いたものでもあるかと思います。
2019年02月15日
映画「大いなる幻影」国境を超えた愛と友情
「大いなる幻影」(La Grande Illusion)
1937年 フランス
監督ジャン・ルノワール
脚本シャルル・スパーク
ジャン・ルノワール
音楽ジョゼフ・コズマ
撮影クリスチャン・マトラ
〈キャスト〉
ジャン・ギャバン ピエール・フレネー
エリッヒ・フォン・シュトロハイム
第一次世界大戦のヨーロッパ戦線。
フランス空軍のマルシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ポアルデュー大尉(ピエール・フレネー)はドイツ軍陣地の偵察のために空中撮影を行うべく戦闘機で飛び立ちますが、あえなく撃墜され、捕虜の身となってしまいます。
二人は収容所送りとなりますが、捕虜仲間の中にドイツ軍に顔の利くユダヤ人で銀行家の息子のローゼンタール中尉(マルセル・ダリオ)がいたため、マルシャルたちは本国から送られてくる豊富な食料によって、贅沢な食事やコニャックを味わい、仮装ダンスを楽しむことまで許されていました。
しかし、そういった中にも国家への義務として脱走の計画が準備され、着々と進められていきますが、脱走のためのトンネルも完成し、今夜が決行というときになって、マルシャルたちに収容所の変更が告げられます。
ドイツ国内の収容所を転々と移動し、スイスとの国境に近い堅固な城塞「ウィンターズボルン」に落ち着くことになります。
ここでも脱走の計画は準備され、ド・ポアルデュー大尉の犠牲によって、マルシャルとローゼンタールは脱走に成功します。
しかし、逃亡の疲労と空腹が二人を襲い、絶望感に苛(さいな)まれながらも二人は一軒の農家にたどり着きます。
小さな娘と二人暮らしの未亡人エルザ(ディタ・パルロ)は、マルシャルたちを脱走兵と知りつつかくまい、やがてマルシャルとエルザには愛情が芽生えることになります。
エルザの家で数日を過ごしたマルシャルとローゼンタールでしたが、やがてエルザとの別れの日がやってきます。
悲しみに暮れるエルザを残し、二人はスイス領内を目指して深い雪の中を歩いてゆくのでした。
映画は三部から構成されています。
一部では最初の収容所での生活が描かれ、脱走の準備のほかには、これといったストーリー展開はなく、むしろ、収容所内でのゴタゴタとした様子が描かれていくのですが、それがつまらないのかというと、そうでもなく、特に、これが収容所なのかと思わせるような、フランス兵による女装ダンスは気味が悪いほど華やかで、後に「フレンチ・カンカン」を撮ることになるジャン・ルノワールの面目躍如といった感があります。
二部では一転。「ウィンターズボルン収容所」は中世の雰囲気を漂わせた古色蒼然とした堅固な城塞で、ここでマルシャルとローゼンタール、そしてド・ポアルデューの三人の立場、生い立ちの違いなどが鮮明になってゆきます。
さらにドイツ軍のラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)の再登場が、第一部の陽気さとは打って変わって、ドラマに深さと厚みが増してゆきます。
折れた脊椎を銀のプレートで固定しているため、常に直立不動の姿勢を保つラウフェンシュタインは騎士道精神にあふれた職業軍人であり、貴族です。
同じ職業軍人で貴族であるド・ポアルデューを敬愛し、またド・ポアルデューもラウフェンシュタインとの友情を育むことになりますが、自分たちが滅びゆく階級であることを自覚している二人は、貴族としての誇りを失わず、それを象徴する白い手袋をはめたド・ポアルデューは死を選ぶことになります。
個人的には、初めて「大いなる幻影」を見たとき、最も強烈な印象を残したのがラウフェンシュタインでした。
敵兵であっても敬意を払い、滅びゆく貴族として翳(かげ)りを宿しながらも、軍人としての職務を遂行し、敬愛するド・ポアルデューを自らの銃弾で死に至らしめたラウフェンシュタインの姿には、日本の武士道にも通じる精神性を感じました。
題名の「大いなる幻影」とは、終戦によって平和が訪れることを指した反語のようです。
ラスト近くで、マルシャルのいった言葉に対するローゼンタールの言葉に表されています。
「大いなる幻影」は反戦映画ともみられていますが、スタインベックが「怒りの葡萄」で1930年代の大恐慌を背景に人間愛を描いたように、ジャン・ルノワールは第一次世界大戦のドイツ収容所、そしてエルザの家庭を舞台として、国境を超えた友情や男女の愛を描いたのだと思います。
1937年 フランス
監督ジャン・ルノワール
脚本シャルル・スパーク
ジャン・ルノワール
音楽ジョゼフ・コズマ
撮影クリスチャン・マトラ
〈キャスト〉
ジャン・ギャバン ピエール・フレネー
エリッヒ・フォン・シュトロハイム
第一次世界大戦のヨーロッパ戦線。
フランス空軍のマルシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ポアルデュー大尉(ピエール・フレネー)はドイツ軍陣地の偵察のために空中撮影を行うべく戦闘機で飛び立ちますが、あえなく撃墜され、捕虜の身となってしまいます。
二人は収容所送りとなりますが、捕虜仲間の中にドイツ軍に顔の利くユダヤ人で銀行家の息子のローゼンタール中尉(マルセル・ダリオ)がいたため、マルシャルたちは本国から送られてくる豊富な食料によって、贅沢な食事やコニャックを味わい、仮装ダンスを楽しむことまで許されていました。
しかし、そういった中にも国家への義務として脱走の計画が準備され、着々と進められていきますが、脱走のためのトンネルも完成し、今夜が決行というときになって、マルシャルたちに収容所の変更が告げられます。
ドイツ国内の収容所を転々と移動し、スイスとの国境に近い堅固な城塞「ウィンターズボルン」に落ち着くことになります。
ここでも脱走の計画は準備され、ド・ポアルデュー大尉の犠牲によって、マルシャルとローゼンタールは脱走に成功します。
しかし、逃亡の疲労と空腹が二人を襲い、絶望感に苛(さいな)まれながらも二人は一軒の農家にたどり着きます。
小さな娘と二人暮らしの未亡人エルザ(ディタ・パルロ)は、マルシャルたちを脱走兵と知りつつかくまい、やがてマルシャルとエルザには愛情が芽生えることになります。
エルザの家で数日を過ごしたマルシャルとローゼンタールでしたが、やがてエルザとの別れの日がやってきます。
悲しみに暮れるエルザを残し、二人はスイス領内を目指して深い雪の中を歩いてゆくのでした。
映画は三部から構成されています。
一部では最初の収容所での生活が描かれ、脱走の準備のほかには、これといったストーリー展開はなく、むしろ、収容所内でのゴタゴタとした様子が描かれていくのですが、それがつまらないのかというと、そうでもなく、特に、これが収容所なのかと思わせるような、フランス兵による女装ダンスは気味が悪いほど華やかで、後に「フレンチ・カンカン」を撮ることになるジャン・ルノワールの面目躍如といった感があります。
二部では一転。「ウィンターズボルン収容所」は中世の雰囲気を漂わせた古色蒼然とした堅固な城塞で、ここでマルシャルとローゼンタール、そしてド・ポアルデューの三人の立場、生い立ちの違いなどが鮮明になってゆきます。
さらにドイツ軍のラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)の再登場が、第一部の陽気さとは打って変わって、ドラマに深さと厚みが増してゆきます。
折れた脊椎を銀のプレートで固定しているため、常に直立不動の姿勢を保つラウフェンシュタインは騎士道精神にあふれた職業軍人であり、貴族です。
同じ職業軍人で貴族であるド・ポアルデューを敬愛し、またド・ポアルデューもラウフェンシュタインとの友情を育むことになりますが、自分たちが滅びゆく階級であることを自覚している二人は、貴族としての誇りを失わず、それを象徴する白い手袋をはめたド・ポアルデューは死を選ぶことになります。
個人的には、初めて「大いなる幻影」を見たとき、最も強烈な印象を残したのがラウフェンシュタインでした。
敵兵であっても敬意を払い、滅びゆく貴族として翳(かげ)りを宿しながらも、軍人としての職務を遂行し、敬愛するド・ポアルデューを自らの銃弾で死に至らしめたラウフェンシュタインの姿には、日本の武士道にも通じる精神性を感じました。
題名の「大いなる幻影」とは、終戦によって平和が訪れることを指した反語のようです。
ラスト近くで、マルシャルのいった言葉に対するローゼンタールの言葉に表されています。
「大いなる幻影」は反戦映画ともみられていますが、スタインベックが「怒りの葡萄」で1930年代の大恐慌を背景に人間愛を描いたように、ジャン・ルノワールは第一次世界大戦のドイツ収容所、そしてエルザの家庭を舞台として、国境を超えた友情や男女の愛を描いたのだと思います。
2019年02月13日
映画「疑惑の影」- 憧れの叔父さんは殺人魔?
「疑惑の影」(Shadow of a Doubt) 1943年アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本ソーントン・ワイルダー
アルマ・レヴィル
サリー・ベンソン
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ジョセフ・ヴァレンタイン
〈キャスト〉
テレサ・ライト ジョゼフ・コットン
ヘンリー・トラヴァース マクドナルド・ケリー
カリフォルニアの静かな町サンタローザ。
銀行家ジョセフ・ニュートン(ヘンリー・トラヴァース)の長女であるチャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)は、何不自由のない生活でありながら、自分の人生に変化を求めて、平凡な生活に嫌気がさしています。
そんなチャーリーのもとへ、かねてからの憧れであった叔父のチャールズ・オークリー(ジョゼフ・コットン)が現れます。
チャーリーと同じ名前を持つ叔父のチャールズ(チャーリー)がやって来たことで彼女は大喜び。
チャールズ・オークリーは成功した実業家であり、名声も高いことからニュートン一家は彼を歓迎。町での講演も依頼されたりします。
そんなチャールズですが、実は彼には連続未亡人殺人の容疑がかかっていて、姪のチャーリーは少しずつチャールズの挙動に不審を覚え、やがて殺人事件の真相を知ることになります。
★★★★★
巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督によるサスペンス・スリラーですが、「疑惑の影」という題名にいささか惑わされてしまいます。
映画半ばで疑惑はほぼ解明され、後半からはスリラーへと変化してゆくからです。
ミステリータッチでありながら、少し肩透かしをくったような展開になりますが、スリラーに突入してからのチャーリーに迫る命の危機や、ラストの列車のシーンなど、正統派スリラーの醍醐味を十分に味あわせてくれます。
チャールズ・オークリーはニュートン家に滞在することになり、家族の集う食事の最中、彼はこんなことを言います。
「暇を持て余した金持ち女は醜いブタだ」
この発言は繰り返され、カメラはチャールズ・オークリーの横顔にズンズンと迫ります。
チャールズ・オークリーという男の内面がカメラの演出で巧みに表現され、ラスコーリニコフ的な歪んだ社会感覚がチャールズの内奥を占めているのだということがあぶり出されていきます。
また、チャーリーの憧れであったカッコイイ叔父さんが実は…。
という設定は、最も近しい人が善人の仮面をかぶった恐ろしい存在だったという、人間不信をおこさせるようなスリラーになるのですが、幼児期のチャールズ・オークリーの様子が姉の口から語られることによって、彼の歪んだ人間性の一旦を垣間見ることになります。
さらに特筆すべきは、可憐なヒロインを演じたテレサ・ライト。
後年のヒッチコック好みのブロンドの美女というより、清楚な雰囲気を漂わせた美人で、退屈な日常を憂(うれ)いていた彼女が、死を目前にする恐怖に追いやられてしまうストーリー展開は「青い鳥」を裏返しにしたような、寓話的な面白さを感じました。
ただ、欠点もいくつか見られて、時間的な制約があったのか、政府の調査員のジャック・グラハム(マクドナルド・ケリー)が刑事だと分かってしまう場面は唐突な感じで、編集でどこかのシーンがカットされたような印象が残りましたし、執拗に繰り返される「メリー・ウィドウ・ワルツ」はチャールズの暗い過去に関連があったように思われるのですが、それもいつの間にか立ち消えになってしまいました。
それでもヒッチコックの演出の冴えは随所に光り、ジョゼフ・コットンの名演技、テレサ・ライトの可憐な魅力、ヘンリー・トラヴァースのおっとりとした人間味とユーモアなど、戦時中の映画とは思えない、ゆったりとした時代性すら感じさせる佳作です。
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本ソーントン・ワイルダー
アルマ・レヴィル
サリー・ベンソン
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ジョセフ・ヴァレンタイン
〈キャスト〉
テレサ・ライト ジョゼフ・コットン
ヘンリー・トラヴァース マクドナルド・ケリー
カリフォルニアの静かな町サンタローザ。
銀行家ジョセフ・ニュートン(ヘンリー・トラヴァース)の長女であるチャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)は、何不自由のない生活でありながら、自分の人生に変化を求めて、平凡な生活に嫌気がさしています。
そんなチャーリーのもとへ、かねてからの憧れであった叔父のチャールズ・オークリー(ジョゼフ・コットン)が現れます。
チャーリーと同じ名前を持つ叔父のチャールズ(チャーリー)がやって来たことで彼女は大喜び。
チャールズ・オークリーは成功した実業家であり、名声も高いことからニュートン一家は彼を歓迎。町での講演も依頼されたりします。
そんなチャールズですが、実は彼には連続未亡人殺人の容疑がかかっていて、姪のチャーリーは少しずつチャールズの挙動に不審を覚え、やがて殺人事件の真相を知ることになります。
★★★★★
巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督によるサスペンス・スリラーですが、「疑惑の影」という題名にいささか惑わされてしまいます。
映画半ばで疑惑はほぼ解明され、後半からはスリラーへと変化してゆくからです。
ミステリータッチでありながら、少し肩透かしをくったような展開になりますが、スリラーに突入してからのチャーリーに迫る命の危機や、ラストの列車のシーンなど、正統派スリラーの醍醐味を十分に味あわせてくれます。
チャールズ・オークリーはニュートン家に滞在することになり、家族の集う食事の最中、彼はこんなことを言います。
「暇を持て余した金持ち女は醜いブタだ」
この発言は繰り返され、カメラはチャールズ・オークリーの横顔にズンズンと迫ります。
チャールズ・オークリーという男の内面がカメラの演出で巧みに表現され、ラスコーリニコフ的な歪んだ社会感覚がチャールズの内奥を占めているのだということがあぶり出されていきます。
また、チャーリーの憧れであったカッコイイ叔父さんが実は…。
という設定は、最も近しい人が善人の仮面をかぶった恐ろしい存在だったという、人間不信をおこさせるようなスリラーになるのですが、幼児期のチャールズ・オークリーの様子が姉の口から語られることによって、彼の歪んだ人間性の一旦を垣間見ることになります。
さらに特筆すべきは、可憐なヒロインを演じたテレサ・ライト。
後年のヒッチコック好みのブロンドの美女というより、清楚な雰囲気を漂わせた美人で、退屈な日常を憂(うれ)いていた彼女が、死を目前にする恐怖に追いやられてしまうストーリー展開は「青い鳥」を裏返しにしたような、寓話的な面白さを感じました。
ただ、欠点もいくつか見られて、時間的な制約があったのか、政府の調査員のジャック・グラハム(マクドナルド・ケリー)が刑事だと分かってしまう場面は唐突な感じで、編集でどこかのシーンがカットされたような印象が残りましたし、執拗に繰り返される「メリー・ウィドウ・ワルツ」はチャールズの暗い過去に関連があったように思われるのですが、それもいつの間にか立ち消えになってしまいました。
それでもヒッチコックの演出の冴えは随所に光り、ジョゼフ・コットンの名演技、テレサ・ライトの可憐な魅力、ヘンリー・トラヴァースのおっとりとした人間味とユーモアなど、戦時中の映画とは思えない、ゆったりとした時代性すら感じさせる佳作です。
2019年02月10日
映画「身代金」誘拐犯人への逆襲劇
「身代金」(Ransom) 1996年 アメリカ
監督ロン・ハワード
脚本リチャード・ブライス
音楽ジェームズ・ホーナー
撮影ピョートル・ソボジンスキー
〈キャスト〉
メル・ギブソン レネ・ルッソ
ゲイリー・シニーズ デルロイ・リンドー
原題の「Ransom」はそのものズバリ「身代金」。
誘拐をテーマとした映画は日本でもたくさんあって、「誘拐報道」(1982年/監督・伊藤俊也)、「大誘拐」(1991年/監督・岡本喜八)。
中でも最もヒューマンなものとしては黒澤明監督の傑作「天国と地獄」(1963年)でしょうか。
ちょっと異色なところではウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」(1965年) なんかも誘拐映画のカテゴリーに入りますが、誘拐する目的として最も多いのが営利誘拐ですから、「コレクター」のように美女を誘拐して収集しようとする趣味の誘拐とは目的を異にします。
誘拐事件として日本人によく知られているのは、昭和38年3月31日に起きた、いわゆる「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」で、犯人は4歳の少年を誘拐して両親に身代金を要求。
結局、犯人は逮捕されましたが、被害者の少年は2年後に白骨化した状態で発見されました。
誘拐事件にハッピーエンドはあり得ません。誘拐が成功すれば喜ぶのは犯人だけで、身代金は返ってこないし、最悪の場合は被害者は殺害されている可能性が高くなります。
映画「身代金」は、身代金そのものを題材にしているだけあって、従来の誘拐映画とはちょっと趣(おもむき)の違ったものになっています。
この映画のユニークなところは、誘拐された少年ショーンの父親トム・ミュレンが最悪の場合を想定してしまったところにあります。
★★★★★
最愛の息子が何者かに誘拐された。要求金額は200万ドル。息子は生きているんだろうか。とにかく要求された金額を支払うしかない。トム・ミュレンは航空会社の社長だからお金はあります。
しかし、受け渡し場所にFBIが現れ、受け渡しは失敗に終わります。
再び犯人からの要求。
もう一度受け渡し場所を指定される。
受け渡し場所へ向かう車の中でトムは考えます。犯人の要求通りに身代金を渡せば、きっと息子は殺されるに違いない。いや、もうすでに殺されているかもしれない。
これは無理な発想ではなく、現実には最悪のケースが多いのですから、トムがそう考えても無理はありません。
よし、こうなったら逆襲だ! 身代金なんか犯人にくれてやるものか。
トムはテレビ局へと直行して犯人へのメッセージを発表します。
「身代金はお前らへの懸賞金だ! 犯人逮捕の手がかりを教えてくれた者にこの金(200万ドル)を懸賞金として与える」
犯罪映画史上奇想天外な成りゆきに発展したこの映画は、まさにアメリカ映画だから可能なのでしょう。実際にこんなことをすれば捜査の妨げになるし、厳しい世論の反発が予想されます。現実に息子が殺されているという確証はないわけですし、犯人逮捕の賭けとするには、もし息子が生きていたとしたら、あまりにも危険すぎます。
この常軌を逸した行動を説得力のあるものにしてしまったのがメル・ギブソンの熱演と、その妻ケイトを演じたレネ・ルッソ。
常軌を逸した夫とは当然、意見の対立があって、正論を主張しながら夫と激しく対立するケイトの姿はこの映画の見せ場といってもいいと思います。
また、身代金が懸賞金に変わったことにより、犯人側にも動揺が広がります。
犯人グループの首謀者で悪徳刑事のジミー・シェイカー(ゲイリー・シニーズ)に対し、仲間うちでの裏切りが表面化してゆくことになります。
犯罪映画であってもエンターテインメントであり、小気味のいいテンポで見る者をグイグイと引っ張ってくれる正統派娯楽映画です。
監督ロン・ハワード
脚本リチャード・ブライス
音楽ジェームズ・ホーナー
撮影ピョートル・ソボジンスキー
〈キャスト〉
メル・ギブソン レネ・ルッソ
ゲイリー・シニーズ デルロイ・リンドー
原題の「Ransom」はそのものズバリ「身代金」。
誘拐をテーマとした映画は日本でもたくさんあって、「誘拐報道」(1982年/監督・伊藤俊也)、「大誘拐」(1991年/監督・岡本喜八)。
中でも最もヒューマンなものとしては黒澤明監督の傑作「天国と地獄」(1963年)でしょうか。
ちょっと異色なところではウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」(1965年) なんかも誘拐映画のカテゴリーに入りますが、誘拐する目的として最も多いのが営利誘拐ですから、「コレクター」のように美女を誘拐して収集しようとする趣味の誘拐とは目的を異にします。
誘拐事件として日本人によく知られているのは、昭和38年3月31日に起きた、いわゆる「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」で、犯人は4歳の少年を誘拐して両親に身代金を要求。
結局、犯人は逮捕されましたが、被害者の少年は2年後に白骨化した状態で発見されました。
誘拐事件にハッピーエンドはあり得ません。誘拐が成功すれば喜ぶのは犯人だけで、身代金は返ってこないし、最悪の場合は被害者は殺害されている可能性が高くなります。
映画「身代金」は、身代金そのものを題材にしているだけあって、従来の誘拐映画とはちょっと趣(おもむき)の違ったものになっています。
この映画のユニークなところは、誘拐された少年ショーンの父親トム・ミュレンが最悪の場合を想定してしまったところにあります。
★★★★★
最愛の息子が何者かに誘拐された。要求金額は200万ドル。息子は生きているんだろうか。とにかく要求された金額を支払うしかない。トム・ミュレンは航空会社の社長だからお金はあります。
しかし、受け渡し場所にFBIが現れ、受け渡しは失敗に終わります。
再び犯人からの要求。
もう一度受け渡し場所を指定される。
受け渡し場所へ向かう車の中でトムは考えます。犯人の要求通りに身代金を渡せば、きっと息子は殺されるに違いない。いや、もうすでに殺されているかもしれない。
これは無理な発想ではなく、現実には最悪のケースが多いのですから、トムがそう考えても無理はありません。
よし、こうなったら逆襲だ! 身代金なんか犯人にくれてやるものか。
トムはテレビ局へと直行して犯人へのメッセージを発表します。
「身代金はお前らへの懸賞金だ! 犯人逮捕の手がかりを教えてくれた者にこの金(200万ドル)を懸賞金として与える」
犯罪映画史上奇想天外な成りゆきに発展したこの映画は、まさにアメリカ映画だから可能なのでしょう。実際にこんなことをすれば捜査の妨げになるし、厳しい世論の反発が予想されます。現実に息子が殺されているという確証はないわけですし、犯人逮捕の賭けとするには、もし息子が生きていたとしたら、あまりにも危険すぎます。
この常軌を逸した行動を説得力のあるものにしてしまったのがメル・ギブソンの熱演と、その妻ケイトを演じたレネ・ルッソ。
常軌を逸した夫とは当然、意見の対立があって、正論を主張しながら夫と激しく対立するケイトの姿はこの映画の見せ場といってもいいと思います。
また、身代金が懸賞金に変わったことにより、犯人側にも動揺が広がります。
犯人グループの首謀者で悪徳刑事のジミー・シェイカー(ゲイリー・シニーズ)に対し、仲間うちでの裏切りが表面化してゆくことになります。
犯罪映画であってもエンターテインメントであり、小気味のいいテンポで見る者をグイグイと引っ張ってくれる正統派娯楽映画です。
2019年02月07日
映画「赤毛のアン」永遠の名作を映画化
「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)
1985年 カナダ・アメリカ合作
監督ケヴィン・サリヴァン
脚本ケヴィン・サリヴァン
ジョー・ワイゼンフェルド
原作ルーシー・モード・モンゴメリー
撮影ルネ・オオハシ
音楽ヘイグッド・ハーディ
〈キャスト〉
ミーガン・フォローズ コリーン・デューハースト リチャード・ファーンズワース
原題は「グリーン・ゲイブルズのアン」。
誰がつけたのか「赤毛のアン」は素晴らしい邦題だと思います。この赤毛こそがアン・シャーリーの容貌を特徴づける個性でもあり、アンの自尊心を傷つけ、少女期に暗い影を落とす振り払うことのできない宿命でもあったからです。
しかし、この少女の素晴らしさは、持って生まれた「みにくいアヒルの子」的なみすぼらしい外見とは裏腹に、豊かな知性の輝きに裏付けられた、その溌剌(はつらつ)とした行動力にあります。
映画と原作は切り離して考えるべきだとは思いますが、1908年の出版以来、一世紀以上も読み継がれ、なおも根強い人気を誇るL・M・モンゴメリーの原作を抜きにはできません。
孤児院を経てアンが再び登場するプリンス・エドワード島のヴライトリヴァー駅での描写は、物語の深みと、孤児院から一人でやって来たアン・シャーリーのやるせない心情が読む者の胸に迫ります。
心細げに駅のホームで引き取り手を待つアンの揺れる心理。そこへ現れた引き取り手のマシュー・カスバートの戸惑い。何故なら彼は、自分たちが望んでいたのは男の子であり、駅で待っているのは、てっきり少年だと思っていたからです。
ここまでの描写は、二人の細かい心理情景と、やっと自分の家ができるんだ、と素直に喜ぶアンと、何かの手違いで起こった間違いにも関わらず、アンには何も告げず、いったんうちへ連れて帰ろうとするマシュー・カスバートの優しい心遣いが静かに胸を打ちます。
残念ながら映画でのこの場面はサラリとした印象をもって進行してゆきます。
しかし、なにも映画より原作がすぐれていると言いたいわけではありません。映画には目で見る楽しみが広がっているからです。
何にも増して素晴らしいのは、アン・シャーリーを演じたミーガン・フォローズの溌剌とした演技。原作のアンがそのままスクリーンに登場したかのような印象があって、ほかの女優が演(や)ったらアンにはならなかったんじゃないかと思わせるほど見事でした。
そして、それと同時に素晴らしいのは、アンを取り巻く人々。
中でも、最初はアンを引き取ることに冷酷なまでに反対していた、後に養母となるマリラ・カスバート(コリーン・デューハースト)。
そしてマリラの兄マシュー(リチャード・ファーンズワース)。
人見知りが激しく、特に女性に対しては臆病なくらい内気で、生涯独身を通さざるを得なかったマシュー。寡黙で孤独感を持った性格ながら、慈愛に満ちた心優しい男として、その存在感は静かな感動を呼ぶものでした。
また、陽気な隣人でありながら詮索好きで口うるさいレイチェル・リンド夫人(パトリシア・ハミルトン)。
アンを引き取ることを拒んでいたマリラの決心を翻(ひるがえ)させる決め手となった、錐(きり)のように陰険なブリュエット夫人(サマンサ・ランゲヴィン)。
女性の立場で教育を改善しようとするステイシー先生(マリリン・ライトストーン)。
この人たちの存在がアンの世界をにぎやかに、そして深みのある物語へと作り上げていきます。
そして、映画ではあまり触れることが少なかったように思うのですが、アンが勉強に打ち込む原動力になったのが、初恋の人ギルバート・ブライス(ジョナサン・クロンビー)の存在。
しかし、この物語のユニークさは、入学初日にギルバートから侮辱を受けたアンは、徹底してギルバートを許さず、対抗心をむき出しにして勉学に打ち込み、ギルバート・ブライスを抜いて教員養成コースの試験に最高得点を勝ち取ることです。
アン・シャーリーは想像力にあふれた利発な少女ですが、ギルバートという絶対に越えなければならないライバルの存在なくして彼女を大きく成長させることはできなかったでしょう。
L・M・モンゴメリーの「赤毛のアン」こそは永遠不滅の世界文学の金字塔であり、映画「赤毛のアン」は素晴らしい俳優たちの残してくれた名作だと思います。
1985年 カナダ・アメリカ合作
監督ケヴィン・サリヴァン
脚本ケヴィン・サリヴァン
ジョー・ワイゼンフェルド
原作ルーシー・モード・モンゴメリー
撮影ルネ・オオハシ
音楽ヘイグッド・ハーディ
〈キャスト〉
ミーガン・フォローズ コリーン・デューハースト リチャード・ファーンズワース
原題は「グリーン・ゲイブルズのアン」。
誰がつけたのか「赤毛のアン」は素晴らしい邦題だと思います。この赤毛こそがアン・シャーリーの容貌を特徴づける個性でもあり、アンの自尊心を傷つけ、少女期に暗い影を落とす振り払うことのできない宿命でもあったからです。
しかし、この少女の素晴らしさは、持って生まれた「みにくいアヒルの子」的なみすぼらしい外見とは裏腹に、豊かな知性の輝きに裏付けられた、その溌剌(はつらつ)とした行動力にあります。
映画と原作は切り離して考えるべきだとは思いますが、1908年の出版以来、一世紀以上も読み継がれ、なおも根強い人気を誇るL・M・モンゴメリーの原作を抜きにはできません。
孤児院を経てアンが再び登場するプリンス・エドワード島のヴライトリヴァー駅での描写は、物語の深みと、孤児院から一人でやって来たアン・シャーリーのやるせない心情が読む者の胸に迫ります。
心細げに駅のホームで引き取り手を待つアンの揺れる心理。そこへ現れた引き取り手のマシュー・カスバートの戸惑い。何故なら彼は、自分たちが望んでいたのは男の子であり、駅で待っているのは、てっきり少年だと思っていたからです。
ここまでの描写は、二人の細かい心理情景と、やっと自分の家ができるんだ、と素直に喜ぶアンと、何かの手違いで起こった間違いにも関わらず、アンには何も告げず、いったんうちへ連れて帰ろうとするマシュー・カスバートの優しい心遣いが静かに胸を打ちます。
残念ながら映画でのこの場面はサラリとした印象をもって進行してゆきます。
しかし、なにも映画より原作がすぐれていると言いたいわけではありません。映画には目で見る楽しみが広がっているからです。
何にも増して素晴らしいのは、アン・シャーリーを演じたミーガン・フォローズの溌剌とした演技。原作のアンがそのままスクリーンに登場したかのような印象があって、ほかの女優が演(や)ったらアンにはならなかったんじゃないかと思わせるほど見事でした。
そして、それと同時に素晴らしいのは、アンを取り巻く人々。
中でも、最初はアンを引き取ることに冷酷なまでに反対していた、後に養母となるマリラ・カスバート(コリーン・デューハースト)。
そしてマリラの兄マシュー(リチャード・ファーンズワース)。
人見知りが激しく、特に女性に対しては臆病なくらい内気で、生涯独身を通さざるを得なかったマシュー。寡黙で孤独感を持った性格ながら、慈愛に満ちた心優しい男として、その存在感は静かな感動を呼ぶものでした。
また、陽気な隣人でありながら詮索好きで口うるさいレイチェル・リンド夫人(パトリシア・ハミルトン)。
アンを引き取ることを拒んでいたマリラの決心を翻(ひるがえ)させる決め手となった、錐(きり)のように陰険なブリュエット夫人(サマンサ・ランゲヴィン)。
女性の立場で教育を改善しようとするステイシー先生(マリリン・ライトストーン)。
この人たちの存在がアンの世界をにぎやかに、そして深みのある物語へと作り上げていきます。
そして、映画ではあまり触れることが少なかったように思うのですが、アンが勉強に打ち込む原動力になったのが、初恋の人ギルバート・ブライス(ジョナサン・クロンビー)の存在。
しかし、この物語のユニークさは、入学初日にギルバートから侮辱を受けたアンは、徹底してギルバートを許さず、対抗心をむき出しにして勉学に打ち込み、ギルバート・ブライスを抜いて教員養成コースの試験に最高得点を勝ち取ることです。
アン・シャーリーは想像力にあふれた利発な少女ですが、ギルバートという絶対に越えなければならないライバルの存在なくして彼女を大きく成長させることはできなかったでしょう。
L・M・モンゴメリーの「赤毛のアン」こそは永遠不滅の世界文学の金字塔であり、映画「赤毛のアン」は素晴らしい俳優たちの残してくれた名作だと思います。
2019年02月05日
映画「真昼の決闘」隠された人間不信の背景
「真昼の決闘」(High Noon) 1952年 アメリカ
監督 フレッド・ジンネマン
脚色 カール・フォアマン
音楽 ディミトリ・ティオムキン
撮影 フロイド・クリスビー
原案 ジョン・W・カニンガム
編集 ハリー・ガースタッド
〈キャスト〉
ゲーリー・クーパー グレース・ケリー
トーマス・ミッチェル ロイド・ブリッジス
第25回アカデミー賞
主演男優賞(ゲーリー・クーパー) 編集賞
音楽・歌曲賞
ゴールデン・グローブ賞
主演男優賞 作曲賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
作品賞 監督賞
宗教からみた「真昼の決闘」
美しい女性エミイ(グレース・ケリー)との結婚式を挙げたばかりの保安官ウィル・ケーン(ゲーリー・クーパー)は、5年前に逮捕したフランク・ミラー(イアン・マクドナルド)が保釈されて正午の列車で町にやって来ることを知ります。
ミラーの目的は、自分を逮捕、投獄した保安官への復讐。
結婚と同時に保安官の職を辞し、町を去ることを決心していたウィルは、騒動が町全体に及ぶことを憂慮し、町にとどまって、フランク・ミラーとの対決を決心します。
しかし、相手はミラーの弟とその仲間を合わせて4人。ウィルひとりでは太刀打ちできません。そこで彼は町の人たちに助勢を頼みますが、誰もが怖がって尻込みをするばかりで、ウィルの助勢はひとりも現れません。
仕方なくウィルは遺言状をしたため、フランク・ミラー一味との死闘を覚悟することになります。
「真昼の決闘」が名作といえるのは、一人の助力も当てにできないまま、悪漢4人を相手に死闘を余儀なくされてしまうストーリーにあると思います。
では、なぜウィルは助力を乞うことができなかったのでしょうか。
誰もが怖がっていたから、というのが理由のひとつですが、しかし、もうひとつ違う理由があります。
ウィル・ケーンの妻エミイはクエーカー教徒です。
父と兄を殺された経験を持つ彼女は、暴力を否定するクエーカー教への改宗をウィルに勧め、ウィル・ケーンは妻の勧めに応じてクエーカー教徒へと改宗しています。
しかし、町の人たちのほとんどはキリスト教徒です。二人のクエーカー教徒に対する町の人たちの異端視が、ウィルへの助力を拒む背景にあるのは否定できないと思います。
ではクリスチャンは排他主義者なのでしょうか。これも一概に断定はできませんが、町の人たちだけを見れば、異教徒に対する反感があるのは間違いないと思います。
クエーカー教徒である妻のエミイはどうなのでしょうか。
彼女は結婚したばかりの夫を見捨てて列車に飛び乗ってしまいます。暴力や争いを避けるのがクエーカー教徒の信条のひとつでもあるからなのですが、彼女の仕打ちはあまりにも無慈悲にみえます(後に決心をひるがえし、夫を助けるべく町へ戻りますが)。
気の毒なのはウィル・ケーンで、町の人たちからは異端視され、新妻には逃げられ、それでも淡々と決闘に臨む姿は、苦渋の心境を紳士然とした風貌の中に押し込めた、強さと弱さを併せ持った人間臭いヒーローといえるでしょう。
監督 フレッド・ジンネマン
脚色 カール・フォアマン
音楽 ディミトリ・ティオムキン
撮影 フロイド・クリスビー
原案 ジョン・W・カニンガム
編集 ハリー・ガースタッド
〈キャスト〉
ゲーリー・クーパー グレース・ケリー
トーマス・ミッチェル ロイド・ブリッジス
第25回アカデミー賞
主演男優賞(ゲーリー・クーパー) 編集賞
音楽・歌曲賞
ゴールデン・グローブ賞
主演男優賞 作曲賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
作品賞 監督賞
宗教からみた「真昼の決闘」
美しい女性エミイ(グレース・ケリー)との結婚式を挙げたばかりの保安官ウィル・ケーン(ゲーリー・クーパー)は、5年前に逮捕したフランク・ミラー(イアン・マクドナルド)が保釈されて正午の列車で町にやって来ることを知ります。
ミラーの目的は、自分を逮捕、投獄した保安官への復讐。
結婚と同時に保安官の職を辞し、町を去ることを決心していたウィルは、騒動が町全体に及ぶことを憂慮し、町にとどまって、フランク・ミラーとの対決を決心します。
しかし、相手はミラーの弟とその仲間を合わせて4人。ウィルひとりでは太刀打ちできません。そこで彼は町の人たちに助勢を頼みますが、誰もが怖がって尻込みをするばかりで、ウィルの助勢はひとりも現れません。
仕方なくウィルは遺言状をしたため、フランク・ミラー一味との死闘を覚悟することになります。
「真昼の決闘」が名作といえるのは、一人の助力も当てにできないまま、悪漢4人を相手に死闘を余儀なくされてしまうストーリーにあると思います。
では、なぜウィルは助力を乞うことができなかったのでしょうか。
誰もが怖がっていたから、というのが理由のひとつですが、しかし、もうひとつ違う理由があります。
ウィル・ケーンの妻エミイはクエーカー教徒です。
父と兄を殺された経験を持つ彼女は、暴力を否定するクエーカー教への改宗をウィルに勧め、ウィル・ケーンは妻の勧めに応じてクエーカー教徒へと改宗しています。
しかし、町の人たちのほとんどはキリスト教徒です。二人のクエーカー教徒に対する町の人たちの異端視が、ウィルへの助力を拒む背景にあるのは否定できないと思います。
ではクリスチャンは排他主義者なのでしょうか。これも一概に断定はできませんが、町の人たちだけを見れば、異教徒に対する反感があるのは間違いないと思います。
クエーカー教徒である妻のエミイはどうなのでしょうか。
彼女は結婚したばかりの夫を見捨てて列車に飛び乗ってしまいます。暴力や争いを避けるのがクエーカー教徒の信条のひとつでもあるからなのですが、彼女の仕打ちはあまりにも無慈悲にみえます(後に決心をひるがえし、夫を助けるべく町へ戻りますが)。
気の毒なのはウィル・ケーンで、町の人たちからは異端視され、新妻には逃げられ、それでも淡々と決闘に臨む姿は、苦渋の心境を紳士然とした風貌の中に押し込めた、強さと弱さを併せ持った人間臭いヒーローといえるでしょう。
2019年02月02日
映画「ミニヴァー夫人」戦時下の恐怖を描いた名作
「ミニヴァー夫人」(Mrs. Miniver)
1942年アメリカ
監督ウィリアム・ワイラー
原作ジャン・ストラッサー
脚本アーサー・ウィンペリス
ジョージ・フローシェル
ジェームズ・ヒルトン
クローディン・ウエスト
第15回アカデミー賞
作品賞、主演女優賞(グリア・ガースン)、助演女優賞(テラサ・ライト)、脚色賞、
撮影賞、監督賞(ウィリアム・ワイラー)、6部門受賞。
〈キャスト〉
グリア・ガースン ウォルター・ピジョン
テラサ・ライト
1914年(日本でいえば大正3年)、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボにおいて、ひとりのセルビア人テロリストによってオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公が暗殺されます。第一次世界大戦の幕開けでした。
それ以前からヨーロッパでは不穏な空気が漂っていて、テロリストによるオーストリア皇太子暗殺はそのキッカケを作っただけのものでしたが、やがてオーストリアはセルビアに宣戦布告をして、セルビアは同盟国であるロシアに泣きついたことによって戦線は拡大。世界を巻き込む大戦へと発展していきます。
時あたかも帝国主義の時代。食うか食われるかの世界版戦国時代です。その渦の中で日本も大戦に参戦はしましたが、ほぼ戦うことなく4年後の1918年に戦争は終結。日本は無傷でしたが、惨憺(さんたん)たる敗戦の憂き目に遭ったのがドイツでした。
莫大な戦後賠償によって、パンひとつ買うのに4000憶マルクというハイパーインフレに突入。ドイツ経済は壊滅状態に陥ります。
そんな状況の中で颯爽と登場したのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチスでした。
第一次世界大戦の雪辱と世界制覇の野望を抱いて、1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻。戦火は再び世界を巻き込む広大な戦争へと突入していきます。
アメリカ・イギリスを主軸とする連合国と、ドイツ・イタリア・日本を含めた同盟国の間で約4年を超える熾烈な戦いが繰り広げられることになります。
映画「ミニヴァー夫人」は、そんな戦争の最中、イギリスの片田舎にあって、平凡ではあるが平和な家庭生活が徐々に戦時の苛酷な状況に追い込まれていく様子を描いていきます。
特にこの映画で際立った場面は、ドイツ空軍によるイギリスへの空爆で、有名なものはロンドン空襲ですが、40000人を超える死者を出した空襲はロンドンのみならず、リバプールやベルファストなどの主要な都市も破壊して大きな犠牲を出しました。
名匠ウィリアム・ワイラーによるこの映画は、戦火が拡大して地方都市にまで及び、空襲が身近なものに迫る恐ろしさを描いていきます。それがこの映画の主要なテーマであるともいえましょうか。
「ミニヴァー夫人」は戦時下で公開された映画であり、国策として戦意高揚を図った映画でもあるからです。
ラストの神父による、「敵と戦おう!」と叫ぶ場面にそれは如実に表れています(神父としてあるまじき行為ですが)。
しかし、戦意高揚映画は日本でも作られていますし、この時代のプロパガンダとして必要な手段のひとつだったのだろうと思います。
また、名匠による映画らしく、ミニヴァー一家が体験する空襲の怖さは、爆撃の場面に迫るのではなく、地下壕で怯える一家の表情をとらえることで、かえって生々しい怖さを伝えています。
そんな悲惨な状況の中にあっても、女性はおしゃれを楽しみ、若者は恋をし、ガーデニング文化を生んだ英国らしく民衆は園芸の趣味に興じています。
この映画の大きな特徴は「Mrs. Miniver」の題名にみられるように、ミニヴァー夫人(グリア・ガースン)の存在が大きな容積を占めています。まさに良妻賢母、容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、明眸皓歯。
非の打ち所のない美人にして、その艶(あで)やかさ。でも、そんな欠点のない女性というのも案外つまらないもの。そこで彼女には《浪費家》という欠点が与えられて、これがミニヴァー夫人の人間味を一層豊かなものにしています。
そんな艶やかな女性の名前を、自分が丹精を込めて育てた薔薇の名前にもらおうと、町のバラード駅長(ヘンリー・トラヴァース)は彼女に頼みます。
彼女の名前をもらって付けた薔薇の名前は「Mrs. Miniver」。
戦時下の生々しさを伝えるとともに、香り高い雰囲気を持った名作です。
1942年アメリカ
監督ウィリアム・ワイラー
原作ジャン・ストラッサー
脚本アーサー・ウィンペリス
ジョージ・フローシェル
ジェームズ・ヒルトン
クローディン・ウエスト
第15回アカデミー賞
作品賞、主演女優賞(グリア・ガースン)、助演女優賞(テラサ・ライト)、脚色賞、
撮影賞、監督賞(ウィリアム・ワイラー)、6部門受賞。
〈キャスト〉
グリア・ガースン ウォルター・ピジョン
テラサ・ライト
1914年(日本でいえば大正3年)、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボにおいて、ひとりのセルビア人テロリストによってオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公が暗殺されます。第一次世界大戦の幕開けでした。
それ以前からヨーロッパでは不穏な空気が漂っていて、テロリストによるオーストリア皇太子暗殺はそのキッカケを作っただけのものでしたが、やがてオーストリアはセルビアに宣戦布告をして、セルビアは同盟国であるロシアに泣きついたことによって戦線は拡大。世界を巻き込む大戦へと発展していきます。
時あたかも帝国主義の時代。食うか食われるかの世界版戦国時代です。その渦の中で日本も大戦に参戦はしましたが、ほぼ戦うことなく4年後の1918年に戦争は終結。日本は無傷でしたが、惨憺(さんたん)たる敗戦の憂き目に遭ったのがドイツでした。
莫大な戦後賠償によって、パンひとつ買うのに4000憶マルクというハイパーインフレに突入。ドイツ経済は壊滅状態に陥ります。
そんな状況の中で颯爽と登場したのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチスでした。
第一次世界大戦の雪辱と世界制覇の野望を抱いて、1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻。戦火は再び世界を巻き込む広大な戦争へと突入していきます。
アメリカ・イギリスを主軸とする連合国と、ドイツ・イタリア・日本を含めた同盟国の間で約4年を超える熾烈な戦いが繰り広げられることになります。
映画「ミニヴァー夫人」は、そんな戦争の最中、イギリスの片田舎にあって、平凡ではあるが平和な家庭生活が徐々に戦時の苛酷な状況に追い込まれていく様子を描いていきます。
特にこの映画で際立った場面は、ドイツ空軍によるイギリスへの空爆で、有名なものはロンドン空襲ですが、40000人を超える死者を出した空襲はロンドンのみならず、リバプールやベルファストなどの主要な都市も破壊して大きな犠牲を出しました。
名匠ウィリアム・ワイラーによるこの映画は、戦火が拡大して地方都市にまで及び、空襲が身近なものに迫る恐ろしさを描いていきます。それがこの映画の主要なテーマであるともいえましょうか。
「ミニヴァー夫人」は戦時下で公開された映画であり、国策として戦意高揚を図った映画でもあるからです。
ラストの神父による、「敵と戦おう!」と叫ぶ場面にそれは如実に表れています(神父としてあるまじき行為ですが)。
しかし、戦意高揚映画は日本でも作られていますし、この時代のプロパガンダとして必要な手段のひとつだったのだろうと思います。
また、名匠による映画らしく、ミニヴァー一家が体験する空襲の怖さは、爆撃の場面に迫るのではなく、地下壕で怯える一家の表情をとらえることで、かえって生々しい怖さを伝えています。
そんな悲惨な状況の中にあっても、女性はおしゃれを楽しみ、若者は恋をし、ガーデニング文化を生んだ英国らしく民衆は園芸の趣味に興じています。
この映画の大きな特徴は「Mrs. Miniver」の題名にみられるように、ミニヴァー夫人(グリア・ガースン)の存在が大きな容積を占めています。まさに良妻賢母、容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、明眸皓歯。
非の打ち所のない美人にして、その艶(あで)やかさ。でも、そんな欠点のない女性というのも案外つまらないもの。そこで彼女には《浪費家》という欠点が与えられて、これがミニヴァー夫人の人間味を一層豊かなものにしています。
そんな艶やかな女性の名前を、自分が丹精を込めて育てた薔薇の名前にもらおうと、町のバラード駅長(ヘンリー・トラヴァース)は彼女に頼みます。
彼女の名前をもらって付けた薔薇の名前は「Mrs. Miniver」。
戦時下の生々しさを伝えるとともに、香り高い雰囲気を持った名作です。