2017年11月16日
お弁当の思い出〜厚生係再び編
自作のお弁当を持参すると、お冷やご飯がどんどん溜まってしまいその処理は私の責任となり、また朝はいつも大急ぎでなので卵焼きを作ったフライパンを流しにそのままにして家を飛び出していっては叱られ、帰宅してからはしてからで洗っぱなしのお弁当箱は高価な塗りに水滴が残っているといっては叱られていました。
肝心のお弁当といえば、周りのみんなの可愛いらしくて日々趣向を凝らしたお弁当とは違い、私のは形の崩れた玉子焼きと、たこ足ウィンナーが入っている程度のものでした。お冷やご飯が大量に残り始めてからは、朝からチャーハンを作ってそのまま詰めていったこともありました。しかもそれが高級な塗りのお弁当箱に入っているのです。
眠いのに早起きして、母に叱られ、迷惑がられて作っている割りにはあまり得るものもなく、これなら厚生係に卵パンを頼んだ方がマシだと思うようになりました。こうして自作弁当はあまり長続きすることなく自然消滅してしまいました。
ところが、自作弁当作成以前は当然のことのように支給されていたパン代ですが、再度母にねだると「どうしても必要なの?」「どうしてそんなにかかるの?」などと言われるようになりました。「どうしても必要か」と言われれば、一食くらい抜いても死にはしないのでどうしても必要というわけではありません。世の中には義務教育を終えてすぐに高校など行かずに働いている同年代の人たちもいるのですから、贅沢だ我儘だと言われても仕方ないのかもしれません。でも同じクラスの同級生を見渡した時、お昼ご飯代をもらうのに毎朝こういうやり取りをすること自体、理不尽なことに思えてなりませんでした。
母の思考が理解できないと思ったのは、他にも洋服をほとんど買い与えてくれなかったこともありました。中高校生の頃、今でも忘れることはないほどの強烈な記憶としてあるのは、学校の制服以外で私の持っていたスカートは、家庭科の実習で作成した夏物のブルーのボックススカートと、同じ型紙で作った冬物の千鳥格子のスカートの2枚だけだったことです。
ブラウスは夏冬それぞれ1枚ずつ買ってもらっていましたが、仲良しの友人と週末や長い休みに出かける時には、春夏でワンパターン、秋冬でもワンパターンしかありませでした。ワンパターンとは文字通りワンパターンで着た切り雀でしたから、2日続けて出かける時も3日続けて出かける時もまったく同じ服装で出かけるしかありませでした。洗濯など当然できませんでした。
洋服に関しては、ある時泣いて頼んで母に一緒に買い物に行ってもらいました。友人と週末一緒に遊びに行く時の普段着がどうしても欲しかったのです。けれどもその時買ってもらえたのは、胸に刺繍のついた薄桃色のワンピースでした。ピアノの発表会くらいしか着ていく所がないようなドレスでした。私の欲しかったのはこのように何万円もするステージ衣装ではなくて、千円くらいで売っているただのTシャツと洗濯の替えとしてのスカートかズボンでした。しかし母はそんな安物はみっともないからと買ってはくれませんでした。結局、ドレスに袖を通すこともなく家庭科のスカートを履き続けることになりました。
もしも私の家が貧困家庭であったらどんなに楽かと思いました。そうすれば諦めがついたと思うのです。でも私が育った家にはお金がなかったわけではありません。お弁当を作ってくれないのはまあ仕方ないとして、自作弁当には非難の眼差しが注がれ、パン代を貰うのに一苦労し、着た切り雀という状態で高校生活を送るのは簡単なことではありませんでした。
けれどもこのような日々でも母が私を大切に思っていることを私はわかっていました。私は母の自慢の娘でした。とにかく母はどこかおかしいのです。子どもに満足に衣食住も与えないのなら、なぜ私を産んだりしたのだろうと思いました。あの頃は本当に毎日、なぜ生まれてきてしまったのか、なぜ生きていなければならないのか自問自答を繰り返していました。パン代だって次第にどうでも良くなっていきました。毎朝なぜパンを買う必要があるのかという不毛なやり取りすることに比べれば、お昼ご飯なんて食べない方がよほどマシでした。
そんなある日のこと、3歳年下の弟の通っている中学校の給食センターがトラブルに見舞われ、突然明日からお弁当ということになりました。
肝心のお弁当といえば、周りのみんなの可愛いらしくて日々趣向を凝らしたお弁当とは違い、私のは形の崩れた玉子焼きと、たこ足ウィンナーが入っている程度のものでした。お冷やご飯が大量に残り始めてからは、朝からチャーハンを作ってそのまま詰めていったこともありました。しかもそれが高級な塗りのお弁当箱に入っているのです。
眠いのに早起きして、母に叱られ、迷惑がられて作っている割りにはあまり得るものもなく、これなら厚生係に卵パンを頼んだ方がマシだと思うようになりました。こうして自作弁当はあまり長続きすることなく自然消滅してしまいました。
ところが、自作弁当作成以前は当然のことのように支給されていたパン代ですが、再度母にねだると「どうしても必要なの?」「どうしてそんなにかかるの?」などと言われるようになりました。「どうしても必要か」と言われれば、一食くらい抜いても死にはしないのでどうしても必要というわけではありません。世の中には義務教育を終えてすぐに高校など行かずに働いている同年代の人たちもいるのですから、贅沢だ我儘だと言われても仕方ないのかもしれません。でも同じクラスの同級生を見渡した時、お昼ご飯代をもらうのに毎朝こういうやり取りをすること自体、理不尽なことに思えてなりませんでした。
母の思考が理解できないと思ったのは、他にも洋服をほとんど買い与えてくれなかったこともありました。中高校生の頃、今でも忘れることはないほどの強烈な記憶としてあるのは、学校の制服以外で私の持っていたスカートは、家庭科の実習で作成した夏物のブルーのボックススカートと、同じ型紙で作った冬物の千鳥格子のスカートの2枚だけだったことです。
ブラウスは夏冬それぞれ1枚ずつ買ってもらっていましたが、仲良しの友人と週末や長い休みに出かける時には、春夏でワンパターン、秋冬でもワンパターンしかありませでした。ワンパターンとは文字通りワンパターンで着た切り雀でしたから、2日続けて出かける時も3日続けて出かける時もまったく同じ服装で出かけるしかありませでした。洗濯など当然できませんでした。
洋服に関しては、ある時泣いて頼んで母に一緒に買い物に行ってもらいました。友人と週末一緒に遊びに行く時の普段着がどうしても欲しかったのです。けれどもその時買ってもらえたのは、胸に刺繍のついた薄桃色のワンピースでした。ピアノの発表会くらいしか着ていく所がないようなドレスでした。私の欲しかったのはこのように何万円もするステージ衣装ではなくて、千円くらいで売っているただのTシャツと洗濯の替えとしてのスカートかズボンでした。しかし母はそんな安物はみっともないからと買ってはくれませんでした。結局、ドレスに袖を通すこともなく家庭科のスカートを履き続けることになりました。
もしも私の家が貧困家庭であったらどんなに楽かと思いました。そうすれば諦めがついたと思うのです。でも私が育った家にはお金がなかったわけではありません。お弁当を作ってくれないのはまあ仕方ないとして、自作弁当には非難の眼差しが注がれ、パン代を貰うのに一苦労し、着た切り雀という状態で高校生活を送るのは簡単なことではありませんでした。
けれどもこのような日々でも母が私を大切に思っていることを私はわかっていました。私は母の自慢の娘でした。とにかく母はどこかおかしいのです。子どもに満足に衣食住も与えないのなら、なぜ私を産んだりしたのだろうと思いました。あの頃は本当に毎日、なぜ生まれてきてしまったのか、なぜ生きていなければならないのか自問自答を繰り返していました。パン代だって次第にどうでも良くなっていきました。毎朝なぜパンを買う必要があるのかという不毛なやり取りすることに比べれば、お昼ご飯なんて食べない方がよほどマシでした。
そんなある日のこと、3歳年下の弟の通っている中学校の給食センターがトラブルに見舞われ、突然明日からお弁当ということになりました。
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