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2014年05月19日

北海道中央道路・囚人道路・鎖塚

◎北海道中央道路構想

 明治維新後、北海道の各地に入植地が建設されて開拓事業が始まったが、同時に内陸部の開拓地に至る道路の整備 を早急に行う必要があった。北海道内巡視を行った役人などの報告などから、道路開削事業が最優先事業として取り上げられたのは明治16年(1883年)1月のことであった。この時に取り上げられた『中央道路構想』は、”札幌県幌内鉄道幌向停車場より分岐し、石狩川をさかのぼって中央山地を越え、十勝国に出、釧路国をへて根室県に達する内陸横断道路”というもので、後の『中央道路』とは全く別のルートであったが、途中で変更された。。

◎中央道路建設への囚徒投入

 明治19年(1886年)8月に上川仮道路が開通したことで、札幌〜忠別太(現:旭川)間の道路が一応開通した。上川仮道路は改修工事が行われ、明治23年(1890年)12月までには本格的な道路となるが、旭川まで道路が通じたことで北海道内陸部への開拓事業が進むことになる。旭川から先の『中央道路』ルートについては、当初は十勝経由であったが、南下してくるロシア帝国に対する国防上の必要性と地形や殖民上の理由などから北見経由ルートで建設されることになった。この道路がのちの『北見道路』である。

 これらの道路建設、とくに北見経由ルートの道路建設には集治監(刑務所)で服役中の囚徒が動員され多くの犠牲者が出たことで、『囚人道路』とも呼ばれることになった。





◎旭川湧別仮道路の開削

 明治22年(1889年)6月、忠別(現:旭川)〜湧別間の仮道路の開削が開始された。この開削事業には空知監獄署の囚徒37人が動員され、忠別〜湧別間に幅6尺の仮道路を開削し、湧別〜網走間は既存の北海岸道路を補修・改良して約60日で網走に達した。この仮道路はサロマ湖の外海砂洲沿いと能取湖口を経由した旧北海岸道路を通る約216kmの道路となったが、この距離の道路を37人で60日の日数で建設したということで、どれだけ重労働で困難な事業であったが窺える。


ktm-road_m22.gif

◎北見道路の建設開始

 仮道路開通翌年の明治23年(1890年)4月、本道路である『北見道路』の建設が開始された。本道路が野付牛(現:北見)経由となり、仮道路よりも距離が長くなってしまったが、留辺蘂や野付牛周辺に肥沃な土地があり殖民上有益とみなしての経路変更と思われる。

 『北見道路』の建設は忠別太(現:旭川)〜伊香牛間(23.4km)から着手された。この工事には空知監獄署の収監者延べ178434人が投入され、明治23年10月に完成した。この年の空知監獄署の死亡者は106人で、うち道路建設期間中の死亡者は74人。これから幌内炭坑での死亡者20人を除いた54人が監獄所内もしくは道路工事において亡くなったことになるが、公式記録がないため人数は不明となっている。

 忠別太〜伊香牛間の道路建設中の明治23年5月、伊香牛〜上越間(39.3km)の建設も着工された。この区間の工事は囚徒不足のため民間請負によって建設され、明治23年11月に完成した。これにより明治23年末までに旭川から石狩・北見国境までの道路が開削したことになる。

 しかしこれらの道路は人力による速成工事であったため路面状態は悪く、膝まで泥につかるという悪路であった。明治24年(1891年)には空知集治監の収監者222人を動員して補修工事を行ったが、悪路状態はあまり改善されないままであった。

◎北見道路の開通

 中央道路構想に基づき工事が開始された旭川〜網走間の道路建設であるが、明治23年(1890年)3月に永山北海道庁長官は、中央道路の網走〜石北国境間は釧路監獄署(→釧路集治監)の囚徒を動員するよう口達した。これに基づいて、明治23年6月に建設されたのが網走囚人宿泊所である。この囚人宿泊所は後に拡大されて網走監獄(網走分監)となり、後の網走刑務所となった。

 さて、北見国側の網走〜上越間(162.8km)の道路建設は、明治24年(1891年)4月に着手された。この工事は『是非本年度内ニ竣工ヲ要ス』という至上命令が下ったため、工事を効率良く行うために、道路開削・架橋架設・小屋掛けの3隊に分けて工事に当たった。この工事には釧路分監獄・網走分監の囚徒1115人が動員され、明治24年12月27日に完工して北海道庁に引き渡された。これにより旭川〜網走間の『北見道路』が全通。区間内には12カ所の官設の駅逓所(公設の宿泊所、人馬車継立所)が設けられた。しかしこの工事は過酷な工事となり、北見国内の網走〜野上〜北見峠(石北国境)間だけでも、211人の囚徒と4人の看守の合計215人が犠牲となっている。

 北見道路本道から外れた野上〜湧別間の仮道路は、明治25年(1892年)4月に本道の工事が着手され、同年10月末に完成している。この工事にも網走分監の収監者が動員され19人の犠牲者が出ている。

北海道中央道路M24

◎『囚人道路』の悲劇

 記録上では、明治24年4月〜9月3日までの釧路集治監網走分監時代の死者は25人、9月4日〜12月末の北海道集治監網走分監の死者が186人となっている。明治24年8月中旬頃に、道路工事が野上付近まで達した時点で工事は釧路分監から網走分監に引き継がれたが、この186人というは釧路分監から工事を引き継いだ網走分監だけの死者数ということになる。これが故に『北見道路』は『囚人道路』という異名がついている。

 野上〜上越間の北見峠越え区間は70.8km。この区間で死亡した人数は186人で、これは1km当たり2.6人となり、さらに380mにつき1人の犠牲者が出たことになる。この数字は、明治24年の樺戸・空知・釧路の各集治監と比べると飛び抜けており、いかに大きな犠牲であるかが判る。過酷な労働、医事衛生の不備、食糧への認識不足などにより多くの犠牲者が出た。これら犠牲者の遺体は仮監(飯場)の近くや道路脇に埋められたが、昭和30年代以降現在に至るまで各地で発掘され、遺骨は墓地に改葬されるなどし供養されたが、未だに発掘されない遺体も多い。これら犠牲者の霊を弔うために、かつての『北見道路』沿いの各地には慰霊碑が建立されている。

 北見道路建設に伴う囚徒の犠牲者数は、はっきりと判っているだけでも211人となるが、さらに旭川〜伊香牛間の犠牲者も加わるので犠牲者数は増えることになる。正式な人数は不明となのだが、おおよそ250人前後の囚徒犠牲者がでたことになる。(他に看守4人の殉職者もある。) この過酷な囚人労働は世論に大きな衝撃を与え、帝国議会においても取り上げられた。そして明治28年(1895年)以降、集治監の外役工事は廃止されるに至った。


◎仮定県道中央線

 明治24年(1891年)に北海道庁は北見国内の常呂原野と湧別原野の区画測設を実施し、両原野に屯田兵村を開村する計画を立てた。明治26年(1893年)12月に湧別原野の殖民地が開放告示されたもの、入植者は船で来た高知と加賀から来た団体にとどまり、常呂原野は入植者皆無という状態であった。両殖民地の開拓を促すはずの北見道路は多くの犠牲者を出して開通したが、通る人は極端に少ない状態が続いていた。

 明治28年(1895年)3月23日、北海道庁令第29号によって、北見道路(中央道路)は旭川〜網走間の『仮定県道中央線』に指定された。その1週間後の同年3月30日に日清戦争が終結すると、常呂原野・湧別原野の屯田兵村予定地では屯田兵村の建設が始まり、明治30年(1897年)以降、1000戸前後の入植者・屯田兵が入り開拓が本格化した。

 これを受けて、明治29年(1896年)から道路整備が始められ、北見峠〜野上間の整備が行われた。また中央線の越歳〜網走間は二見ヶ岡を迂回して三眺山の裏を通っていたが、明治29年に網走湖畔経由で大曲に出る道が開削されてルートが変更された。明治31年(1898年)7月に旭川まで鉄道が開通すると、中央線経由で旭川〜湧別間の逓送路線(郵便輸送路線)が開設。北見地方の開拓が進展するにつれ、中央線を利用する人は増加し、北見道路(中央道路)開通後約7年にしてようやく本来の目的を果たすようにな ったのである。

●『北見道路』の盛衰

 明治36年(1903年)9月、北海道官設鉄道天塩線(現在の宗谷本線)が名寄まで開通すると、旭川〜網走間の移動ルートは名寄経由がメインとなった。移動距離が長く北見峠を越える中央線は次第にさびれて行くことになる。明治37年10月16日に逓送路線が名寄〜湧別間に変更となると、中央線は仮定県道の指定を解除され、県道旭川根室線に格下げとなった。

 明治36年に工事着手された野付牛美幌間殖民道路(緋牛内〜キキン〜美幌)が明治37年に完成すると、県道旭川根室線はこの新道経由となり美幌〜女満別経由のルートに変更となった。

 明治38年(1905年)9月5日、日露戦争が終結すると、終戦による不況と物価高騰により北海道への移住者が増加した。北見国内への移住者も増加するが、移住者の多くは名寄経由で入ってくるため、県道利用者はさほど増えなかった。しかし開拓者の増加に伴い石狩川・湧別川・常呂川の上流地域にも入植地が出来てくると、農産物や生産・消費物資の集散が活発化し道路の利用度が高まり始めた。

 明治40年(1907年)5月、北海道庁告示第275号によって、県道旭川根室線の旭川〜網走間は仮定県道中央線に再指定された。この路線は北海道庁より網走支庁・桧山支庁に至る仮定県道であった。


 大正7年(1918年)12月に(大正)道路法が制定され、これに基づいて大正9年(1920年)9月に北海道では国道四号線、二十七号線、二十八号線が制定される。仮定県道中央線の旭川以西の区間は国道二十七号線・二十八号線に含まれることになった。残る旭川以東の旧『北見道路』区間は、大正9年4月に北海道道路令に基づいて地方費道旭川根室線となった。この時、下生田原〜留辺蘂間は五号峠(現在の共立峠)経由から、大正8年(1919年)に開通した旭峠経由のルートに変更となった。

 その後は北海道の鉄道網が発達することになり、幹線道路の意義は名目だけとなる。沿道にあった官設の駅逓所(公設の宿泊所、人馬車継立所)も昭和7年(1932年)6月末の八号白滝駅逓を最後に廃止された。

北海道中央道路T9





◎囚人道路
 明治時代の北海道では南下政策をとるロシアとの対抗上軍用道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え網走市に達する中央横断道路(北見道路。端野まではほぼ、後に開通した石北本線に沿っている)もその一つである。この道路は網走刑務所と空知監獄の囚人約1000人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。明治政府は年内に160kmを完成させよと典獄に厳命し、石狩北見間が1891年5月着工、12月には完成した。一方、劣悪な環境と深夜に及ぶ苛酷な労働によって、212名に上る囚人の死亡を結果した。逃亡しようとしたものは「タガネ」を用いて罰した(耳に穴を開け、足と耳とを鎖で結ぶ)。

鎖塚はこのようにして死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅうで、かつては多く見られたが、開拓と共に減少した。それでもなお北見市端野町緋牛内では、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っている。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままであった。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土する。鎖塚の名はここに由来する。

なお、囚人道路の経路は、上川〜北見峠〜遠軽〜佐呂間町栄〜丸山峠〜留辺蘂〜北見〜緋牛内〜卯原内〜網走である。国道および道道として改良・現存している(国道333号〜道道103号〜国道39号〜道道104号)。








慰霊碑
この3つの鎖塚も忘却の彼方に去ろうとしていたが、開道100周年に当たる1968年、当時の端野町長であった中澤廣は同地に鎖塚の由来を記した立札を設置、5年後に地蔵尊を建立し囚人達の供養に努めた。1976年10月17日、鎖塚慰霊奉賛会によって鎖塚供養碑が建立され、鎖塚保存会も結成された。







常紋トンネル工事殉職者追悼碑

常紋トンネル工事殉職者追悼碑










囚人道路 (講談社文庫)







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