【戦争秘話】人間爆弾「桜花」隊長 が終戦後に受けた「謎の秘密指令」
〜現代ビジネス 2/29(土) 10:01配信〜

桜花を抱いた一式陸上攻撃機
元号が令和と変わって程無い昨年(2019年)7月20日、一人の元海軍士官が世を去った。湯野川守正(1921〜2019)「人間爆弾」と呼ばれた特攻機「桜花」隊指揮官の最後の生き残りだった。音楽評論家・湯川れい子氏の実兄でもある。
湯野川は戦後、航空自衛隊に入り空将補迄勤めたが、終戦間も無い頃には海軍から密命を帯び、本籍地と名を変え別人として潜行して居た時期がある。戦後史の空白とも言える海軍の密命と潜行の一部始終を、湯野川は生前、筆者に語り残して居た・・・

「人間爆弾」とも呼ばれた特攻機「桜花」
一機で一艦を屠る「帝国海軍の最終兵器」
格納庫に置かれた特攻機「桜花」を見て、第七二一海軍航空隊に着任した23歳の湯野川守正中尉(後大尉)は「随分単純な飛行機だな」と思った。と同時に「しかし、敵艦に命中すれば威力は大きいだろう。今の日本にこれしか出来ないのなら仕方が無い。面白い、此奴で戦って遣ろうじゃないか」と決心した。
現在の茨城県鹿嶋市と神栖市に跨る神之池基地。戦況が決定的に不利と為り、戦争の帰趨(きすう)が誰の目にも明らかに為った、昭和19(1944)年11月の事である。
桜花は、1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットを着け、それを人間が操縦して敵艦に体当りすべく開発された超小型の飛行機で「人間爆弾」とも呼ばれる。母機の一式陸上攻撃機に懸吊されて敵艦近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。文字通り一機で一艦を屠ることを目的とした、帝国海軍の最終兵器だった。
湯野川は大正10(1921)年、羽州米沢藩士の血を引く海軍大佐湯野川忠一の次男として、父の勤務先だった長崎県佐世保で生まれた。後の聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の妻・禮子は、湯野川の父の従妹に当たる。幕末・維新の戊辰戦争で、米沢藩と越後長岡藩が同盟関係に在った誼(よしみ)から、長岡出身の山本と縁戚関係に為ったのだと云う。
昭和14(1939)年、東京の麻布中学校を出て、広島県江田島の海軍兵学校に七十一期生として入校。卒業後は戦艦「伊勢」に乗組み、更に軽巡洋艦「阿賀野」水雷士としてソロモン諸島で戦った後、第四十期飛行学生と為った。練習機教程を経て、大分海軍航空隊・筑波海軍航空隊で、戦闘機搭乗員としての訓練を受けて居た。
湯野川が筑波海軍航空隊に居た昭和19(1944)年8月中旬「必死必中の新兵器」の搭乗員の募集が行われた。新兵器の詳細は伝えられ無かったが、フィリピンで初の特攻隊が編成される2ヵ月前のこの時点で、体当り攻撃は既に海軍の既定方針だったのだ。
「大きな国難の中、決死の覚悟は搭乗員なら等しく持って居たと思いますが、一撃で死に至る任務には矢張り多少の躊躇(ちゅうちょ)は有りました。しかし、尋常な手段では勝て無い戦争だとは自覚して居たから、それがドンな兵器かは判ら無いが、有効な兵器が有るなら結構な事、コレを立派に使って遣ろうと決めました。もし戦争に負けるにしても、負けっプリと云うのは有ると思って居ましたからね。
足った一つの命、それを有効に使って遣ろうと云う気持ち。母が悲しむだろうとか、色んな事が頭を過りましたが、私は次男で最初から戦死要員の積りだったから、2時間位で悩むのを辞めました」
湯野川は翌日「熱望」の意志を上層部に伝える。そして11月6日付で、新兵器「桜花」を主戦兵器として編成された第七二一海軍航空隊(七二一空・通称「神雷部隊」)に転勤を命じられた。七二一空は司令・岡村基春大佐、飛行長(後副長)・岩城邦廣少佐、桜花隊と母機の一式陸攻隊・直掩戦闘機隊からなり、初めから体当り攻撃を前提とした、言わばプロの特攻部隊だった。
「11月6日、茨城県の百里原基地に到着すると、七二一空本部は既に神之池基地に移動して居て、残留部隊の指揮官だった陸攻隊の野中五郎少佐に『湯野川中尉参りました。ヨロシクお願いいたします』と着任の挨拶をしました。すると野中少佐は『遠路ハルバルご苦労さん。オヤ、お前さん綺麗な目をしてるな。バージンか?薄汚いバージン等早く落としときな』と、恐れ入った指示を頂きました。
当時、着任の申告は余り形式ばって居なかった様に思います。数日後、兵から叩き上げたベテラン搭乗員・椛沢義雄中尉の着任の場に偶然居合わせましたが、敬礼を終えた椛沢中尉の第一声は『隊長!来ましたぞ』であり『来たな、ご苦労さん』と云うのが野中少佐の返事でした」
全機が撃墜された「桜花」の初攻撃
程無く神之池基地で、桜花の練習機型「K1」での滑空訓練が始まった。母機の一式陸攻から、ハシゴを伝ってK1の操縦席に収まると、風防を閉めバンドを締めて各部を操作し、異常無ければ『・---・』と、電信音で母機に合図を送る。高度3500メートル、投下のタイミングが来ると、母機から『・・・-・』と云う信号が届き、最後の短符が耳に届くと同時にK1は母機から切り離される。
「乗り込んだ時は余り好い気はしませんが、投下されてガーッと機首を突っ込んで、250ノット(時速約460キロ)位の高速で操縦桿を動かしてみた途端、これは好い!と思った。舵の効きが好いし、素晴らしく操縦し易い。零戦の様なエンジンの有る飛行機だと、下手に急降下するとどうしても機首が浮いてしまいますが『桜花』(K1)は自由自在、思った所へキチンと持って行けるんです。逆説的ですが『桜花』程安全な飛行機は無いとさえ思いました」
「人間爆弾」が救命具に
K1による訓練は各人一回のみで、それが終わればアラユル作戦に使用可能な『技倆A』と見做される。その後の訓練は、零戦を使っての襲撃訓練等が主体と為る。11月25日には桜花隊の分隊編成が行われ、第一分隊長・平野晃大尉(戦後、航空幕僚長)、第二分隊長・三橋謙太郎中尉、第三分隊長・湯野川守正中尉、第四分隊長・林冨士夫中尉の四個分隊編成と為った。(三橋・湯野川・林の3名は12月1日大尉と為る)
分隊長は、イザ出撃の際には、自ら桜花を操縦して敵艦に体当りする立場の指揮官である。53名の搭乗員を預かる分隊長と為った湯野川は、12月1日、海軍兵学校のクラスメートでもある三橋謙太郎大尉と共に、岡村司令同席の下、聯合艦隊司令長官・豊田副武大将から直々に、フィリピン・レイテ島沖の敵艦隊への体当り攻撃の内示を受けた。予定期日は12月23日。その為、辻巌中尉以下、七二一空の桜花整備員11名がフィリピンへ先発する。
「出撃は元より望む処。三橋が『後23日の命か。どうする?』と笑いながら話し掛けて来たのを憶えて居ます。処が、私達が乗る筈の桜花を輸送途中の空母『信濃』と『雲龍』が相次いで米潜水艦に撃沈され、もう一隻の空母『龍鳳』は、目的地を変更して台湾の基隆に58機を輸送したもののフィリピン迄運べず、作戦は中止に為ってしまいました。先発した整備員達はフィリピンに残され、陸上戦闘で全員が戦死しました。アレは気の毒だった・・・・」
「信濃」沈没時、生存者の救助に当たった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄(当時大尉)によると「信濃」に搭載されて居た50機の桜花は、弾頭を着けて居無かった為、沈没時に機体が海面に浮き、それに捉まって救助された者が多かったと云う。「人間爆弾」が、図らずも救命具に為ったのだ。
一方「雲龍」は、敵潜水艦の魚雷を受けた後、積んで居た30機の桜花の誘爆で轟沈した事が生存者の証言で明らかに為った事から、その後の輸送は、敵潜水艦の目標に為るのを避け、目立た無い小さな輸送船で行う事に為った。
米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による日本本土への空襲はㇲでに始まって居たが、昭和20(1945)年に為ると、日本近海に敵機動部隊が出没する様に為り、艦上機による空襲も又猛威を振るい始めた。
3月18日、米艦隊発見の報告を受け、大分県の宇佐基地に展開して居た湯野川率いる桜花隊に出撃命令が下る。母機の陸攻隊(攻撃第七〇八飛行隊)指揮官は足立次郎少佐。だが、出発準備をホボ完了、襲撃方法の打ち合わせを終えて別杯の用意が整えられ様として居た時、基地は敵艦上機の奇襲攻撃を受けた。執拗で激しい銃爆撃に、飛行場に並んだ一式陸攻18機の大半が地上で焼失した。
「ヨシ、行くぞ! と覚悟を決めた処で、悔しかったですね……。この時はコテンパンに遣られました。本当に、悪夢の様な光景でした」
と、湯野川は回想する。
敵機が待ち構えて居た
足立・湯野川隊が大打撃を受けたので、長崎県の大村基地に退避して居た野中五郎少佐の指揮する陸攻隊(攻撃第七一一飛行隊)が急遽、鹿児島県の鹿屋基地に進出し、三橋謙太郎大尉を隊長とする桜花隊を抱いて3月21日、敵機動部隊を求めて出撃する。
しかし、桜花隊を護衛するべき零戦隊も18日の戦闘で戦力を消耗して居て、十分な護衛戦闘機を持た無いまま出撃した陸攻18機(内桜花懸吊15機)は、待ち構えた敵戦闘機に全機が撃墜され、桜花による初の攻撃は失敗に終わった。
この日の戦死者は、桜花隊が三橋大尉以下15名、陸攻隊は野中少佐以下135名、零戦隊も漆山睦夫大尉以下10名、計160名に達した。

個性豊かで優秀な兵達(つわものたち)
以後、桜花の出撃は延べ10回に及び、米側記録との照合で駆逐艦1隻を撃沈、3隻に再起不能と成程の大きな損傷を与え、他3隻を小破させた事が判明して居るが、七二一空は「桜花」搭乗員55名を含む829名もの戦死者を出した・・・陸攻搭乗員や護衛の零戦搭乗員、又零戦で特攻出撃した者も含む。
結果的に、期待された威力を十分に発揮する事は出来ず、七二一空では、零戦に500キロ爆弾を搭載した爆戦隊を合わせて出撃させる様に為った。その為、零戦による航法訓練も念入りに行われた。
4月14日には、攻撃第七〇八飛行隊の澤柳彦士大尉の率いる一式陸攻7機が桜花を抱いて出撃したが、司令部のミスで、目標地点が攻撃隊に60浬(約111キロ)も誤って伝えられると云う事があった。湯野川は〈目標に到達するも敵艦発見せず。敵位置知らせ〉と云う澤柳機からの悲痛な電信を司令部で聞いて、オヤッと思ったが、調べてみると最初の位置が間違って居た事が分かり、何たる事をと航空参謀に食って掛かったと云う。澤柳隊は、改めて指示された目標に向かう途中で敵戦闘機に捕捉され全機が撃墜された。

「それでも隊員達の士気は旺盛でした。隊の編成当初には、心の乱れを見せた者も一部には居ましたし、悩みが無かったと言えば嘘に為るでしょうが、後は皆張り切って立派に遣って居ましたよ。最善を尽くして死ぬのは本望、淡々と順番を待つ。私自身の思いは、出撃したら一人でも多くの敵を遣っ付けて遣ると、それだけでした。
未だ若かったですから、生きるの死ぬのと云う事は余り深刻に考え無い。只、人に後ろ指をさされまい、士官として部下に恥ずかしく無い態度でありたい、と云う気持ちは常に持って居ましたね」
七二一空は、司令以下、当時としては選りスグリの人材を配して編成されて居た。岡村司令は、昭和初年、編隊アクロバット飛行の「岡村サーカス」一番機として知られた戦闘機の名パイロット、岩城副長も歴戦の水上機搭乗員だった。
「岩城さんは激しい気性の中にも温情の有る人でした。九州の富高基地(現・宮崎県日向市)に進出した時、敵艦上機の空襲を受けた事がありました。総員退避の命令が何度も出て居ましたが、艦上機の空襲は飛行機の軸線がコチラに向いて居無ければ絶対に遣られる事は無いからと、私達は皆、退避せずに土手の上で見物して居た。
すると突然、後ろからバリバリッと機銃を撃たれたんです。ビックリして振り返ると、幅10数メートルの川向うにある銃座で、岩城さんが真っ赤な顔をしてコチラに向けて機銃を撃って居ました。コリャ適わん、と思って防空壕に退避して、夕方、腹に据え兼ねて岩城さんに文句を言いに行きました。
『ナンで我々を撃ったんですか?』 そしたら『君は判らんのか!』と逆に怒られた。『海軍では敵前における命令違反は銃殺だ。空襲警報・総員退避と云う命令が出て居るのに君達は退避せんじゃないか!』全くもう、恐れ入りましたよ」
桜花の母機と為る陸攻隊の2人の飛行隊長も、足立次郎少佐(後飛行長)が「サリ気無く行こうや」が口癖の、スマートな士官だったのに対し、野中五郎少佐は、五色の吹流しや陣太鼓で部下の指揮を鼓舞する親分肌、正反対のタイプながら、何れ劣らぬ名指揮官として部下達の信望を集めて居た。
隊員も又、前途有為な若者達だった。富高基地で特攻待機中、宿舎にして居た防空壕の中で、一人、夜遅く迄勉強をして居る学徒士官が居た。明日をも知れぬ命でありながら、最後迄勉強しようとする姿に湯野川は心打たれ「偉い!君は本物だ」と声を掛けたと云う。
東京帝国大学卒、予備学生十四期出身の内藤祐次少尉。戦後、大手製薬会社エーザイ株式会社取締役社長・会長を務める。他の隊員たちにもエピソードは尽き無い。皆夫々、個性豊かで優秀な兵(つわもの)が揃って居た。
死の覚悟を以て暴挙を止めた司令長官
6月の沖縄戦終了後、七二一空は本土決戦に備えて各地に分散配備される様に為り、湯野川は、桜花隊の先任分隊長として、石川県の小松基地で終戦を迎えた。
「8月15日迄、私は戦争が終わるとは想像もして居ませんでした。敵が本土に上陸して来たら、新しい桜花二二型を陸上爆撃機『銀河』に積んで戦う、俺の隊だけで敵の一個師団を引き受けると思って居た。玉音放送も、ソ連が参戦したのを受けて、天皇陛下が一億国民に頑張れと仰るんだと予想して居ました」
搭乗員を、宿舎にして居た民家の庭に整列させたが、ラジオの調子が悪く、湯野川は、近所の民家に飛び込んで玉音放送を聞く。
「戦争終結を告げるその内容に衝撃を受け、全く心中穏やかではありませんでした。逆上に近かった、とも思います。隊員達に『戦争が終わったらしいが私には理解出来ない。今日迄数多くの仲間が血を流して来たのは何の為だ。更に状況を見たい』と告げて、解散させました」
その晩、湯野川は、同室の陸攻搭乗員・古米精一大尉と共に、小松基地の近くで静養中の兵学校時代の教官・渡辺久少佐を訪ねた。渡辺少佐は、海軍省軍務局長・保科善四郎中将の女婿である。ソコには、思い掛け無い重大な情報があった。保科中将から渡辺少佐に宛てた書簡である。
「巻紙に、此処に至る経緯を事細かに述べた後、終戦は陛下のご聖断によるもので、重臣の謀略等では無い事、短慮を慎むべき事が書かれて居ました。全身の血がサーッと退く思いでした」
翌8月16日の朝礼で、湯野川は「休戦に為った模様である。静観しつつ即応の態勢を維持したい」と訓示した。
「東大で国際法を学んだ要務士に聞くと、コレは一時の休戦的なもので、敵が上陸して来たら戦っても好いと云うので、ヨシ、アメリカ軍が来たら皆殺しにして遣る、と、尚も遣る気満々で待ち構えて居ました」
8月18日、会議の為指揮官参集の命令を受け、湯野川は七二一空飛行長・足立少佐と共に大分基地の第五航空艦隊司令部に赴く。ソコに集まった指揮官達の中には抗戦論を唱える者も多く、戦争を継続すべきだとの強硬意見も出されたが、司令長官・草鹿龍之介中将の、
「私は聖慮を受け大命に従う。納得し難い者は先ず私を血祭りに挙げた上で行動されよ。今日迄必死で戦って来た諸官の血祭りに為ったとて、私は悔やむものでは無い。だが、私を血祭りに挙げず、私が指揮を執る以上は、諸官の命令への服従を要求する」
との言葉に、皆、静まり返った。小松基地の七二一空は、最後迄戦う気構えを崩さず、秩序を保ったママ、8月21日、草鹿中将の命を受けて解散式を挙行、3年後の3月21日(桜花隊初出撃の日)午前10時、靖国神社での再会を約して22日に一斉に復員した。

極秘命令により身分を偽り地下潜行
8月22日の午後、隊員達を一式陸攻に分乗させて全国に送り出し、水交社(海軍士官の宿泊・集会施設)で一人暗然として居た湯野川の元へ足立少佐より、至急基地に戻る様電話があり、直ぐに迎えの車が遣って来た。
「司令室に入ると、小松基地指揮官・遠山安己大佐・足立少佐と、もう一人、連絡に来られた第七二三海軍航空隊(七二三空)飛行長・中島正中佐が居られ『君に新任務が有る、受諾する決心が有れば、第二徳島基地に行って七二三空司令・青木武大佐の指示を受ける様に』と言われました。未だ私が役立てる事が有るなら幸いと、夕刻、零戦で小松基地を離陸、徳島へ向かいました」
七二三空は、艦上偵察機「彩雲」による特攻部隊として編成されたばかりの航空隊だった。司令・青木武大佐は、艦上機搭乗員の出身だが、大尉時代の一年間軍務を離れ一民間人の立場で、要は諜報員としてソ連のウラジオストクに潜入した経歴を持つ。此処で青木大佐から湯野川に伝えられたのは「地下に潜行して欲しい」と云う意外な話だった。
「ご自身の体験談も含め、地下に潜る際の注意事項を幾つかと、これは中央で高松宮様のご承認を得て実行されて居る事だからと伝えられ、当座の潜伏資金として2万円・・・大卒初任給ベースで換算すると現代の5500万円前後を渡されました。次の指示に付いては、12月12日12時、山口県の正明市駅(しょうみょういちえき 現・長門市駅)で伝える、と云うだけで、潜行の目的等、それ以上の具体的な指示は一切受けて居ません」
湯野川は、青木大佐のアドバイスで、原爆の爆心地に近い広島市田中町十四番地を本籍地と定め「海軍一等整備兵曹吉村実」の名で七二三空の復員証明書の交付を受けて潜行生活に入った。同時に、湯野川大尉は、小松基地を飛び立ち行方不明、自決した事とされ、その存在が抹消された。
「潜伏先を決めるに当たっては、自分を知る者の誰も居ない山陰地方をアチコチ回りました。初めは、小学校の小使(用務員)でもと思いましたが、小使と云うのは地元の事を好く知って居なきゃ為らんと言われ、農家の住み込みを当たってみたら、手伝いは有り難いが住み込みは困ると断られました。
そして要約、9月上旬、島根県温泉津(ゆのつ)町(現・大田市)の浅野さんと云う老婆宅の2階に落ち着き、吉村実として、温泉津町役場の土木部技手の仕事に就きました。月給は85円、当時としては高給でした」
湯野川が温泉津町役場に勤めて居た9月下旬、七二一空桜花隊分隊長だった新庄浩大尉が、終戦連絡将校の腕章を着け「この役場に吉村実さんと云う方がいらっしゃるそうですが」
と、訪ねて来た。岡村司令・足立飛行長からの伝令であると云う。「大分の第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将に会ってその指示を受ける様に」と云うのがその用件だった。この時伝令を務めた新庄は、筆者のインタビューに、
「湯野川大尉が吉村実と名を変えてソコに居る事は承知して居ましたが、只伝言を伝えただけで、私にも湯野川さんの任務や目的は判ら無かった。郵便だと他の誰かが見るかも知れず、電話も盗聴の恐れがあるから、その為だけに私を行かせたんでしょう」と語って居る。湯野川の回想・・・。
「10月上旬、大分へ赴き横井少将にお会いしました。横井少将の話は『陛下の御身等に万一の事が有る場合に備え無ければ為ら無い。コレを七二一空司令・岡村基春大佐、三四三空司令・源田實大佐が担当する事に為り、夫々の部隊で人員を選抜し拠点を構成する。三四三空は既に動いて居る。七二一空は岡村司令から君を指揮官にとの連絡が有った。隊員を15名選抜し事業拠点を持って貰いたい。七二一空に渡す機密費が200万円用意されたが、今は色々な状況で40万円しか渡せ無い』と云うものでした。
考える時間を一晩頂き、草鹿長官にもご意向を聞きましたが、私自身存在が抹消され、青木大佐関与の別件が既に発動されて居て、公式に表面で動け無い事、事業等と言われても全く自信が持て無い事を理由に辞退させて頂きました。後日の風聞では、横井少将は後に、自ら皇族を海路で運ぶ為の機帆船を購入し、佐賀関で海運業を起こされた様ですが・・・」
連合軍による天皇の処遇が不透明であった終戦直後、天皇の処刑を含めた最悪の事態に備えて、皇統を絶やさず国体を護持する為、皇族の子弟の一人を匿い養育すると云う計画だった。
「皇統護持作戦」とも呼ばれる本件に付いては、司令・源田實大佐、飛行長・志賀淑雄少佐以下、20数名の隊員が既に九州で行動を起こして居た(戦後秘史 秘密裏に36年間も遂行されて居た皇統護持作戦とは? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66598)が、七二一空では、副長・岩城中佐が病気で倒れ、湯野川は既に潜行生活に入って居た事もあって動くに動け無かったのである。
本当の目的は謎のママ
12月12日12時、打ち合わせに従って、青木大佐・中島中佐等と正明市駅待合室で落ち合った湯野川は、その夜、任務の解除を伝達された。潜行の目的・任務の内容に付いては最後迄聞かされず仕舞いであった。受け取った2万円には手を着けて居なかったので青木大佐に返却した。
「12月1日の国勢調査と同時に実施された進駐軍の調査は厳しいもので、私の様に終戦直後にその地に移り住んだ様なのは一遍に浮かび上がる。危無いと思い又任務の解除もあって、昭和21(1946)年1月、第二復員省(旧海軍省)に出頭して、本名の湯野川守正大尉として復員証明書を貰い帰郷しました。
私は公職追放の解除が遅く、兵学校で十期程上のクラスより後に為りましたが、これは、国勢調査で怪しまれ、進駐軍の要注意リストに載って居たからであろうと推測して居ます」
その後の湯野川は、職にアブレタ七二一空の旧部下達を集め、下関で、米軍の撒いた機雷を除去する掃海艇部隊の指揮官を務めた後、戦時中「箱舟」(構造を簡略化した戦時標準船)の大量建造で財を為し、軍令部顧問の肩書きも持って居た川南豊作が経営する長崎の川南工業で沈船引き揚げの仕事に就いた。
川南工業は、三四三空の皇統護持作戦の主要メンバーが、秘密任務の隠れ蓑として勤めて居た拠点である。源田大佐や志賀少佐、湯野川のクラスメート・山田良市大尉等も此処で働いて居たが、互いの任務や境遇に付いて触れる事は全く無かったと云う。
昭和23(1948)年、川南工業を退社、以後は水産業等幾つかの仕事に従事し、曲折を経て航空自衛隊に入隊。自衛隊では航空実験団初代司令等を歴任し、昭和50(1975)年空将補で定年退官した。

空将補時代り湯野川氏
「人生の半分は運命に支配される。何処でも行った処でベストを尽くすしかありません。そう云う意味で、海軍生活は性に合って居たし、伸び伸びとして楽しかった。勿論、辛い事も随分ありましたが、それは戦争だから仕方が無い。遭遇した青春のひとコマひとコマは全て、今微笑を以て振り返られると思って居ます」
七二一空の隊員達は、部隊解散時の約束通り、昭和23年3月21日に40余名もの生存者が靖国神社に集い、昭和26年以降は毎年、戦没隊員の慰霊祭を行った。
桜花部隊には、七二一空(神雷部隊)の他、昭和20年2月、錬成部隊として神之池基地で編成された七二二空(龍巻部隊)、7月、本土決戦に備えて大阪湾に侵入する敵艦隊をジェットエンジン装備の桜花四三型乙を以て比叡山からカタパルトで発進し、迎え撃つべく開隊した七二五空が有り、最盛期には各隊併せて1100名を超える元隊員が戦友会員として名を連ねて居た。
組織としての戦友会は平成8(1996)年に解散したが、その後も元搭乗員有志が世話人と為って、戦没隊員達の慰霊を欠かさず続けて来た。
「人間爆弾」と云う悲壮なイメージとは裏腹に、桜花搭乗員達のプライドは極めて高く、他の部隊には類を見無い程の団結を、戦後75年を経て生存者が残り少なく為った今もなお保ち続けて居る。七二一空桜花隊の分隊長は、戦死した三橋大尉の他は平野晃大尉、湯野川大尉、林冨士夫大尉、新庄浩大尉が、平成に為っても揃って存命だったが、一人又一人と鬼籍に入り、最後に残った湯野川が令和の初めに亡く為った事は、冒頭で述べた通りである。
湯野川が戦後の一時期、負わされた秘密任務に付いては、同様の指示を与えられ、地下に潜った若手士官が、海軍兵学校で湯野川の一期後輩だった泉五郎大尉等数名居たとされる。これを将来の日本再建に向けた人材温存の作戦と見る向きもあるが、その本当の目的は、湯野川にも最後迄判ら無いママだった。
直接従事し、渦中に居た者でサエ全容を知ら無い。国家の「秘密任務」とは、本来その様なものなのだろう。只『高松宮日記』(中央公論社)第八巻(昭和21年11月6日)に、湯野川だけがもしやと感じ得る痕跡が僅かに残されて居た。
そこには〈一四〇〇(筆者註:午後2時)情報会(松本氏)〉と有り、編者の註では「松本氏」に付いて不詳とされて居るが、湯野川が当座の潜伏費用を受け取り、徳島の七二三空を離れる際、青木大佐から『もし、追加の資金が必要に為った時には、横浜市中区山手町三三番地の松本某氏に連絡すれば、直ぐに対応がある』と言われて居たと云う。
湯野川は、これ等「松本氏」が同一人物ではないかと考えて居たものの、個人的な面識も無く定かでは無い。20数年前、同姓同番地の人の死亡記事が新聞に載ったのを湯野川は見た。現在、その地に痕跡が伺えるものは残されて居ない。
終戦直後の日本陸海軍上層部が企図した、水面下における一連の策動、その全体像を把握するのは難しい。日本国の独立自尊の立場を守る為、連合軍による日本占領の方針如何によっては何らかの手が打てる様、様々な動きがあった事だけは確かである。関係者が全て物故した今と為っては、昭和史の謎として残るしか無いのかも知れない。
桜花 動画
神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家 以上


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