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2019年10月13日

まさかの「ウォーレン大統領」誕生? リアルな勝算を分析する




 まさかの「ウォーレン大統領」誕生? リアルな勝算を分析する


            〜現代ビジネス 10/12(土) 8:31配信〜

         10-12-15.jpg







 遂に首位に立った

 10月10日付朝刊の新聞各紙は、米政治専門サイトのリアル・クリア・ポリティクスが8日に発表した調査結果(主要世論調査の平均支持率を集計・分析)を引用して、野党・民主党大統領予備選で初めてエリザベス・ウォーレン上院議員(70)が、本命視されて居たジョセフ・バイデン前副大統領(76)を抜いて首位に立ったと報じた。

 ナンシー・ペロシ下院議長(民主党)がドナルド・トランプ大統領の弾劾調査を発表した直後の前回調査(10月1日)ではバイデン氏26.1%、ウォーレン氏24.4%、バーニー・サンダース上院議員(78)16.7%だったが、ウォーレン氏の支持率が26.6%でバイデン氏の26.4%を僅かに上回ったのである。
 先立つ7日付の日本経済新聞(朝刊)はオピニオン欄に、畏友の滝田洋一編集委員のリポート「米大統領選『まさか』再び?・・・ウォーレン氏 若者ら支持」を掲載した。

 同リポートには「ウォーレン大統領」が誕生したら、

 (1) 空前絶後の好景気をもたらしたトランプ減税の見直しの法人増税
 (2) 企業優遇の税制の是正
 (3) 富裕層への課税強化 格差是正
 (4) エネルギー政策で温暖化防止
 (5) 保護主義的貿易政策

 
 などウォーレン女史の政策が詳述されて居る。そして彼女の政策はウォール街に歓迎されて居ないと指摘した上で《法人税が増税される分、企業の税引き後利益が圧迫され、株価下押し要因に為る面もあるだろう》との警鐘で結んで居る。
 要は《経済格差や社会の分断に敏感な若者や女性達が、ウォーレン氏を後押しして居る》と云うのである。滝田氏の現状分析は正鵠を射て居る。

 そこで筆者は、少し違った角度から仮にウォーレン氏が民主党大統領候補に指名されたら、来年11月の大統領選に向けてドナルド・トランプ大統領とどの様な戦いを進めるのか、そしてウォーレン氏に果たして勝算は有るのかに付いて言及してみたい。

         10-12-16.jpg

                歳川 隆雄氏 


 




 長丁場の選挙戦

 先ず言うべきは、共和、民主両党の大統領候補がこれから1年余に及ぶ長丁場の選挙戦を戦い抜くには想像を絶するカネ(選挙資金)が必要と云う事である。
 手元に民主党各候補の選対本部が公表した第3四半期(7〜9月期)献金収集額のリストがある。10月2日に動脈閉塞のステント手術を受けた事を発表したサンダース氏が首位で2530万ドル(約27億3000万円)2位はウォーレン氏で2460万ドル(約26億7000万円)3位がピート・ブティジェッジ・インディアナ州サウスベンド市長の1910万ドル(約20億6000万円)そして4位に1520万ドル(16億4000万円)のバイデン氏が辛うじて滑り込んで居る。

 改めて指摘する迄も無く、資金力が選挙戦運営の命綱であると同時に、各候補のその時点での勢いを示すものだ。バイデン氏は次男・ハンター氏の「ウクライナ疑惑」へのトランプ大統領の執拗な追及が奏功して、早くも献金収集力に陰りが見えて居るのだ。
 もう少し詳しく見てみる。献金総額と同様に重要なのは1人当たりの献金額である。支持基盤の裾野の広さを示すからだ。ウォーレン氏は1人当たり26ドルで94万人から集めた。他方、バイデン氏は44ドルの34.5万人であり、ウォーレン女史の3分の1である。多額献金者頼みの選挙態勢である事が浮き彫りと為ったのだ。先述の「若者や女性」からの支持とは程遠い事が分かる。

 9月24日に民主党執行部が、バイデン氏に不利と為る事を承知の上で大統領弾劾調査を決断したのは、既に同氏に勢いが無く為ったと見切ったからだ。換言すれば、大統領予備選から撤退する事に為るサンダース氏を含め党内左派の圧倒的な集金能力を直視したのである。

 桁違いの金額

 他方、現職大統領のトランプ氏の資金力はどうなのか。同時期に集めた献金額は1億2500万ドル(約135憶円)の桁違いの金額である。実は民主党の弾劾調査発表後の3日間で1日平均の献金額が4倍に跳ね上がって居るのだ。即ち、トランプ支持のコア層が危機感を抱き、普段より多くの献金を行ったと云う事だ。加えて、ラスベガスのカジノ王、シェルドン・アデルソン氏等超大口献金者が控えて居る。

 勿論、大統領選の勝敗は資金力で決まる訳では無い。だが「草の根」の人々による小口献金者に依存するウォーレン氏がウォール街を含め大企業から支持を得るトランプ氏に挑む構図と為る上に、危機感を強めた共和党の結束力を高める結果と為った。
 そしてホワイトハウスは8日、ペロシ下院議長に対し下院が進める弾劾調査に一切協力しないと通告した。トランプ大統領は強気一辺倒なのだ。因みに筆者が信を置くワシントンの選挙予測プロフェッショナルの見立ては、60%の確率でトランプ氏がウォーレン氏に勝利すると云うが、果たして滝田リポートの見出し「まさか」は有り得るのか。


               歳川 隆雄   以上


 



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2019年10月12日

「関電被害者論」の根拠「集落立ち退かせた」説は本当か? 航空写真検証で明らかに為った嘘


 

 「関電被害者論」の根拠「集落立ち退かせた」説は本当か? 

 航空写真検証で明らかに為った嘘

          〜HARBOR BUSINESS Online 10/12(土) 8:32配信〜


        10-12-12.jpg

 2013/07/20国土地理院撮影国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより 特高は2系統4回線500kV運用と為り、更に77kV予備系統1回線がある 福島核災害により全炉運転休止中である

        10-12-14.jpg

               著述家・工学博士 牧田 寛氏







 差別的な「関電被害者論」の「風変わりな根拠」

 前回、関西電力資金還流事件に付いて、安倍自公政権与党政治家へ波及した時と同じくして差別扇動と言っても良い「関西電力被害者論」が跋扈(ぼっこ)した事を厳しく批判しました。

10-12-13.jpg

 原発が作られる前の田ノ浦周辺・航空写真。原子炉設置審査の報告にもある通り集落は見受けられず、立ち退き云々は嘘だと判る

 「関西電力被害者論」では、話題の渦中と為った基元高浜町助役(故人)が強大な権力を持ったその根拠として、この手の資金還流事件(裏金事件)としては一般的な、地域ボスへの企業からの不正な資金供与では無く、大変に風変わりな根拠が提示されました。それが次に挙げるものです。

 a)高浜発電所立地において、或る部落*(集落の事)が立ち退きに為り、それが森山氏の利権の源で在った
 b)森山氏の居住する集落(又は関係する集落)が、高浜発電所への主要道路に有り、森山氏に楯突けば交通遮断された


 *九州や四国等西日本では、集落を日常的に部落と称する場合が多い。又筆者が小中高校生の頃も極当たり前に集落を部落と呼称して居た。

 これから第三回〜第四回に掛けて上記のa)及びb)に付いてファクトチェックをします。第三回の今回は、高浜発電所建設に辺り立ち退きに為った部落は在ったのかです。.

 事実はどうか 立ち退き部落(集落)はあったのか?

 ここでは、前述の関電被害者論の根拠とされるa)b)の二点のうちa)に付いて証拠を添えて論じます。

 a) 高浜発電所立地において或る部落が立ち退きに為りそれが、森山氏の利権の源で在った
 
 こう云う時には、原子炉設置許可の審議議事録を見るのが第一です。幸い、インターネットで公開されています。

 ◆関西電力株式会社高浜発電所の原子炉設置に係る安全性に付いて 昭和44年11月24日(1969/11/24) 原子炉安全専門審査会 抜粋

 本発電所の立地条件および施設の概要は、次の通りである。
 1.1 立地条件
(1) 敷地および周辺環境 発電所の敷地は、若狭湾内に在って内浦湾を形成する音海半島の根元にあり、東は若狭湾に直接面し、西は内浦湾に面して居る。南北は山に狭まれ、中央は平地と為って居る。敷地は殆ど山林で人家は無い。
 敷地全体の面積は、約2,500,000m2(平方メートル筆者追記)である。原子炉は敷地北部の山麓に設置する。原子炉施設の中心から敷地境界までの最短直線距離は約800mである。また、敷地内には、原子炉施設の北側に一般道路のトンネルがあり、原子炉施設中心から、トンネルの出入口までの最短距離は約200mである。
 音海半島の大部分は山地である為、海岸沿いに若干の部落*があるだけで人口密度は稀薄である。敷地周辺には、南約1.3kmに小黒飯、西約1.3kmに神野浦、西南西約1.4kmに神野、北約1.8kmに音海の部落があり、人口は1km以内で0人、5km以内で約5,100人、10km以内で約20,000人、15km以内で約75,500人である。


 ハイ「人口は1km以内で0人」と公文書に明記されて居ます。原子炉から1km以内に人家が在っては為りませんが、高浜発電所では対象家屋は在りませんでした。これで立ち退きに失敗してしまい、原子炉設置場所を変更に追い込まれたのが電源開発の大間原子力発電所です。
 公文書を示しても、申請前に地上げをしたのだと言う人も出るでしょう。当時は、原子炉設置審査は、超ユルユルで、高浜発電所の場合、申請日は1969/05/24です。許可の内示まで半年しか掛けて居ません。申請書一部修正日に至っては、1969/10/16です。因みに12月に入って正式な許可が為され同月着工でした。

 幸い日本では国土地理院で航空写真が全国に渡って公開されて居ます。しかも航空写真の黎明期まで遡って公開されて居ます。多くの写真は、戦後の米軍によるものと占領解除後の国土地理院によるものと為ります。
 ここでは、高浜発電所が立地する音海半島の航空写真を1948年からホボ同位置、大体同じ縮尺で引用して、高浜発電所立地点がどの様な場所で在ったかを見て行きましょう。そして小屋一つ無かったと云うだけでは寂しいので、終戦後間も無くから福島核災害後迄の高浜発電所の変遷を見て行きましょう。


 




 国土地理院空中写真で見る田ノ浦周辺(高浜発電所)の歴史

 先ず国土地理院1/25,000地形図で田ノ浦(高浜発電所)周辺を示します。これから示す空中写真(航空写真)は、地形図に併せて居ます。当然ですが、上が北です。地図上で北(上)内浦港の在る集落が音海(おとみ)集落です。
 地図中央の高浜発電所が田ノ浦、やや下(南)の東海岸側が小黒飯(おぐるい)集落、更にその南が難波江(なばえ)集落と為ります。この高浜発電所の在る半島を音海半島と呼びます。この音海半島は、過つては集落間を接続する道路の整備状態が極めて悪く、渡船による海上輸送が盛んだったとの事です。

 次に、1947年11月と1948年10月の米軍撮影航空写真です。写真を精査すると、小黒飯から田ノ浦を経て音海まで、道路は在るには在りますが、自動車が通れるものには見えません。田ノ浦には平地が広がって居り、その全体が稲作耕地と為って居ますが、人家は全く見当たりません。又田ノ浦周辺も音海と小黒飯迄人家処か道路の見分けすら困難です。
 田ノ浦は、明治、大正の地形図でも稲作農地と為って居り、音海半島では、貴重な農地として使われて来た事が分かります。一方で居住の実態は見い出されず、道路も整備状態が極めて悪いことから、昭和20年代は、精々渡船による移動が基本であったものと思われます。

 処がこの田ノ浦は、航空写真からも分かる様に小川からの土砂が海岸線に堆積して居り、渡船による交通が困難であった事から、集落が開け無かったものと思われます。結果として田ノ浦は、通い農地として使われて来た事が分かります。
 1963年(昭和38年)に為ると、音海半島全体が大きく姿を変え始めます。世は高度経済成長9年目ですが、全国津々浦々に路線バスが運行される様に為り、自家用車の普及も進みつつあった頃です。しかし、音海半島は極めて急峻(きゅうしゅん)な海岸線の地形で、道路の整備は遅々として進みませんでした。

 此処で昭和37年(1962年)に昭和天皇の若狭行幸があり、昭和40年(1965年)に高浜町による原子力発電所誘致が行われて居ます。この間又はその少し以前に陸上自衛隊による道路敷設・改良が行われ、音海迄自動車通行が可能と為った*事が分かって居ます。

 *原発のある風景 柴野徹夫 前衛1979/08 pp.224に長老の証言として紹介されて居る。この時期、陸上自衛隊が訓練の一環として一般の公共土木では工事困難な道路の敷設・改良を行って居る。基本的に自動車通行可能な道路が敷設されて居る。好く知られる事例では栃木県道266号中塩原板室那須線 塩原・板室間の山越え区間、通称「塩那道路」がある。

 1965年に高浜町による原子力発電所誘致が行われると関西電力は、田ノ浦の調査を開始し、1969年5月には原子炉設置申請が為されて居ます。

 原発誘致開始以降の1968年に為り道路改良工事が進む

 1968年に為ると、関西電力による用地買収が進行して居るらしく、既に農地に何らかの土木工事が入って居ます。更に田ノ浦・音海間の道路改良工事が大規模に進行して居ます。
 1969年5月に為ると、原子炉設置申請前にも関わらず造成工事は大きく拡大して居り幾つかの建物も見える様に為ります。ここで初めて田ノ浦に建物が現れた事に為りますが、当然これ等は高浜発電所建設に関係する建屋です。この時点で田ノ浦隧道の建設が始まって居り、発電所敷地に取り込まれる道路の付け替えが始まって居ます。

 ここ迄でハッキリ分かった事は、原子炉設置審査の報告にある通り、田ノ浦には集落は愚か居住者は一人も居なかったと云う事です。ここで最近流布されて来た立ち退き云々は、嘘であった事が自明と為りました。ここにその嘘を再掲します。

 a)高浜発電所立地においてある部落(集落のこと)が立ち退きになりそれが、森山氏の利権の源であった
 
 これは航空写真を調べれば一目で分かる事で否定は容易です。そうではあってもファクトチェックを誰かが遣らねば為りません。こう云う非生産的な嘘を羅列するのは止めて欲しいものです。ここ迄で嘘を一つ潰す事は出来ましたが、折角ですのでその後の推移を見てみて行きましょう。





 

 原子炉工事開始からはこう変化した
 
 1969年12月12日に原子炉設置許可が下り、同年12月26日に工事が本格的に始まります。航空写真は1970年5月1日に撮影されて居ます。
 1970年5月1日に為ると造成工事は田ノ浦全域に拡大して居り、高浜湾側(東側)への取水路の開削(かいさく)も進んで居ます。特別高圧送電線(特高 設計500kV運用275kV)の鉄塔敷設が始まって居る事も分かります。道路の改良工事も活発化して居り、小黒飯地区南の交通難所を迂回する為の白浜トンネルの工事が始まって居ます。

 田ノ浦地区から内浦湾へは大規模に土砂流出が起きて居り、漁業への影響が在ったものと思われます。これは、海岸を埋め立てて専用港を造成して居た為です。1972年5月3日に為ると1年あけて1970年11月25日に設置認可が下りた2号炉も含めて原子炉格納容器の設置が終えて居り、1号炉2号炉共に生体遮蔽板(鉄筋コンクリート(RC)構造の茶筒の様な原子炉建屋)の取り付けが始まって居ます。
 敷地も取水路・排水路共に姿を見せて居り、更に3・4号炉用地の造成も進んで居ます。この取水路の建設によって道路が遮断される為、内浦大橋が供用開始されて居ます。1974年10月25日では、既に1号炉は完成して居ます。1号炉は、3月27日初併入11月14日営業運転開始で、撮影時点では試運転中です。2号炉は未だ建設中ですが、大きな工事は既に終わって居ます。

 1975年08月31では、1号炉定格出力運転中、2号炉試運転中と為ります。特高は一系統二回路のみで、加えて音海迄の高浜連絡線77kV一系統一回路が接続されて居りますが脆弱性があります。ここで気が付いたのですが、特高の鉄塔が地図・写真検閲で消されて居る様です。発電所直近の三本は写っていますが、四本目が不自然にボケて居り、五本目、六本目の鉄塔があるべき場所の写真を最大に拡大すると、不自然なボカシがあります。こう云った子供騙しの無意味な行為は止めて頂きたいです。
 1976年7月8日では、1号炉2号炉共に定格出力運転中です。排水路の流量が多い事が写真から好く分かります。なお、2号炉の営業運転開始は1975年11月14日です。この様に高浜発電所1・2号炉は建設されましたが、着工から営業運転開始まで1号炉が59ヶ月、2号炉が58ヶ月と5年未満です。

 3号炉・4号炉の建設
 
 次いで3号炉・4号炉の建設を追います。高浜3・4号炉は、1・2号炉着工から約10年経過した1980年12月に同時着工して居ます。但し4号炉は3号炉に工期を6ヶ月遅らせて居ます。高浜3号炉は、僅か50ヶ月の工期で1985年1月17日に営業運転開始、高浜4号炉は計画を2ヶ月繰り上げて54ヶ月の工期で1985年6月5日に営業運転を開始して居ます。高浜3・4号炉は、大飯3・4に先立ち関西電力原子力黄金期を体現する原子炉と言えます。

 そして福島核災害以降の高浜発電所周辺
 
 時を隔てて2011年、福島核災害により全原子力発電所は順次停止と為り、一挙に大量のバックフィットの為の工事を行う事と為りました。これは1980年代以降運開の改良標準化炉(PWRの場合は、川内1・2、玄海3・4、伊方3、高浜3・4、大飯3・4、敦賀2、泊1・2・3)を除く原子炉では工事量=費用が著しく増加する事を意味します。

 高浜発電所では、3・4号炉の操業再開は、司法リスクの顕在化等で停止期間が生じましたが、BWR陣営や、古いPWRに比べれば圧倒的に円滑であったと言えます。ここで航空写真は2013年7月20日と為ります。原子炉は全炉停止中で、写真の時点では、取水路を除き大きな工事は行われて居ません。又、外部電源は500kV二系統四回線、77kV一系統一回線と為っており、最低限の冗長性(じょうちょうせい)があります。
 この写真の時点で、1号炉は残り1年強、2号炉は残り2年強の残余寿命しか残して居らず、延命に向けてのバックフィット工事の膨大さから費用と工期を考えればこのママ廃炉が妥当でした。一方で3・4号炉は、残余寿命が未だ十分に在り且つ、炉の設計・施工も優れて居る為に特重を除けば大規模な工事を必要として居ません。

 Google Map衛星写真が2018年後半から2019年3月頃の撮影と思われますが、本シリーズ第一回でご紹介しました通り、高浜発電所では、経営陣の正気を疑う様な大変に大規模な工事が行われて居ます。
 1・2号炉延命工事・バックフィット工事に加えて特定重大事故等対処施設(特重)工事が行われて居り、その工事量は膨大です。結果として工事は遅延し、電力業界と財界による圧力を原子力規制委員会が当然拒否した事も在って、3・4号炉は来春から少なくとも1年、工事遅延の度合いによっては数年間の停止と為る事は必至で、1・2号炉の操業開始も大幅に遅れます。
 これは明らかに戦力分散・戦力逐次投入の愚の結果であって、関電経営陣の初歩的且つ致命的な判断ミスです。

 又最後のGoogleによる衛星写真に赤い橋が見えますが、これは原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海〜小黒飯)によるもので、約55億円の国費・県費が投じられています*

 *原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海〜小黒飯) 2018/02/09 福井県

 勿論、地方の生活道路改修は大切な事ですが、これも原子力の費用です。







 完全に否定された関電被害論「集落立ち退かせ」説

 ここ迄で、先ず「関電被害者論」のデマゴギーの一つである「高浜発電所は集落を立ち退かせた」は完全に否定されました。同時に高浜発電所近傍の歴史を俯瞰する事によって、その栄光と急速な衰亡が明らかと為りました。このママですと、1・2号炉に引きずられる形で3・4号炉の運転実績も大幅に劣化するでしょう。
 こう為る事は、当初から自明であって関電経営陣が何故この様な判断ミスをしたのか不思議で為りません。狂った経営判断には、狂った事情があったとしか考えられません。

 そこへ浮上したのが長年の宿痾としての関電巨額資金還流事件です。この膿(うみ)は完全に出し切ってしまわ無ければ関電にも日本の原子力産業にも将来は無いでしょう。次回は、音海半島、高浜町全体を俯瞰しながら、もう一つのデマゴギーに付いてその虚構を露わにします。



 ◆『コロラド博士の「私はこの分野は専門外なのですが」』〜緊急特集・関西電力資金還流問題編2

 取材・文 牧田寛


 牧田寛 Twitter ID:@BB45_Coloradoまきた ひろし 著述家・工学博士。徳島大学助手を経て高知工科大学助教、元コロラド大学コロラドスプリングス校客員教授。勤務先大学との関係が著しく悪化し心身を痛めた後解雇。1年半の沈黙の後著述家として再起。本来の専門は、分子反応論、錯体化学、鉱物化学、ワイドギャップ半導体だが、原子力及び核、軍事については、独自に調査・取材を進めてきた。原発問題についてのメルマガ「コロラド博士メルマガ(定期便)」好評配信中
     
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日本の現状を作った参勤交代 驚くべき旅の真の姿とは 


 

 日本の現状を作った参勤交代 驚くべき旅の真の姿とは 

 久住 祐一郎 『三河吉田藩・お国入り道中記』 磯田 道史による書評


           〜ALL REVIEWS 10/12(土) 6:00配信〜

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      『三河吉田藩・お国入り道中記』(集英社インターナショナル)


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                  書評 磯田 道史氏


 




 参勤交代 驚くべき旅の真の姿

 日本の現状は「参勤交代」が作った面がある。江戸時代、清(中国)の人口は3億人で首都北京に百数十万人が居た。日本は、10分の1の3000万の人口であったが、江戸にホボ同じ100万人が暮らして居た。この恐るべき、トップ都市への集中の原因は、参勤交代に他なら無い。

 全国の大名が将軍の居る江戸に交代で参勤して暮らす。国の富を此処で莫大(ばくだい)に消費する。それで日本は、ロンドン・パリより大きな都市を持つ小さな島国と為った。常に大名の半分が江戸住まいで人質状態だから反乱が起き無い平和に為った。
 全国の武士が江戸で交流し、知識が素早く交換される様に為った。学問や文化・法律に統一性が生じ、移動が頻繁だから、交通も便利に為った。

 それだけでは無い。都市民の割合が高く為ると識字率が上がる。浮世絵等の江戸文明の芸術が花開いた。しかも、その主たる担い手は、支配者で無く都市民と為った。アジアの中で、過つて日本が素早く先進国に入ったのは、参勤交代制度の所為でもある。

 処が、この参勤交代の「旅としての実態」は、左程研究が無い。寧ろ近年、映画「超高速!参勤交代」等で面白く描かれる様に為った。本書は、1841年に三河吉田(愛知・豊橋)藩が行った一回の参勤交代の細部を検証したもの。
 松平信宝(のぶとみ)と云う若殿様が、藩主の代わりに初めてお国入りする事に為ったが、几帳面な武士が居て、これでもかと云う程緻密な記録を残して居り、この研究が可能に為った。

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 映画で無い実際の参勤交代も面白い。先ず殿様は必ず事前に菩提(ぼだい)寺に参詣してから出発する。旅行の統括は「目付」が行い、宿割(やどわり・宿泊手配)・宿払(やどばらい・支払い)・船割(ふなわり・船の手配)の三つの係が設置される。
 この藩では藩主の初国入りは415人、それ以外(帰城)は265人の大名行列。この時は345人の行列を組んだ。家老から徒(かち)迄の士分54人・戦闘要員の足軽32人・荷物運びの中間(ちゅうげん)259人である。

 江戸上屋敷の2階に「参勤交代対策室」みたいな部屋が置かれ、人材派遣業者の人宿(ひとやど)三河屋との相談が始まる。実は、大名行列は、可なりの部分アウトソーシング(外部発注)で行われて居た。宿泊と荷物運びの手配を人宿が請け負ったのである。

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 だが、実際は幾つも難題が起きた。藩の或る老幹部は「馬に乗れ無い。駕籠(かご)にして呉れ」と要求。先例と格式と費用の狭間で担当者は四苦八苦した。表向きは騎馬、内実は駕籠と云う日本的解決法で乗り切って居る。
 又大名行列のシンボルの槍(やり)の鞘(さや)が古く為って居た。業者の入札に掛けたが、藩主が「豪華に見える様裏まで鳥毛を植えろ」と指示。15両以上も掛かってしまった。更に藩祖の「知恵伊豆・松平信綱」使用の虎皮の鞍覆(くらおおい)で移動して、道中と領民に若殿様を格好好く見せようとしたら、老中から贅沢(ぜいたく)だからダメと禁止された。宿の予約が遅れて、他の大名に宿を獲られてしまう事も起きた。

 費用的な事を言えば、道中の武士の宿泊・食事代や船賃は、チケット制に為って居て、札が武士達に配られ、後で宿払の係がそれを回収して精算して居た。雨天等で日程が延びると、宿泊費が嵩(かさ)む。人宿はキッチリ追加料金を請求して来るので、大名行列が高速移動を求められたのは事実である。
 この藩の参勤交代は総額で6〜700両掛かったらしい。他にも、大名行列の宿場での宿泊実態や忘れ物への対処法等、本書の細部は楽しい。

 江戸社会は、武士の義務的移動が特徴の社会である。参勤交代や転封で、武士が巨額な費用を掛けて移動し無ければ為らず、それで巨大都市の在る、制度の統一された国民の識字率も高い国が江戸時代に既に出来、現代日本の前提条件を提供した。
 これは、全国統一の法治国家や近代軍隊や先進工業国を作るのには好かった。しかし、本書を読むと、工業化段階迄は江戸社会が日本を先進にして呉れたが、21世紀に入った現在では、江戸の武士社会の在り様が、返ってこの国の進路の足枷(あしかせ)に為って居る事にも気付かされる。

 江戸の武士社会は永続が価値であった。吉田藩でも50家ばかりが、17世紀初めの「島原の乱」に従軍したと云う理由でアラユル優遇を受けて居た。長くその組織に居る者(譜代)が、高い地位に座れる条件に為って居た。その時代に必要なスキルを持った者が高い地位に座れる組織では無かった。
 時代の変化に沿って、組織の姿を柔軟に変えるのは不得意で、先例や格式・伝統と慣習に従うお行儀教室的な組織に為り勝ちであった。又、直ぐに上の指示を仰ぎたがり指示を待つので、意思決定から実行迄が遅かった。本書は泰平の世に弱点を持ち始めた武士社会の様相も見せて呉れる。

 IT・人工知能・急速な人類社会の変化の中で、日本が先進国の座から降りつつある今、日本を過つて先進国にした参勤交代の真の姿の細部を観て置きたい。


 磯田 道史  歴史学者 1970(昭和45)年岡山市生れ 茨城大学准教授 2002年慶應義塾大学文学研究科博士課程修了 博士(史学)日本学術振興会特別研究員 慶應義塾大学非常勤講師等を経て現職 著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』等


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                 久住 祐一郎氏

『三河吉田藩・お国入り道中記』 著者 久住 祐一郎  出版社 集英社インターナショナル   発売日 2019年04月5日  ISBN 4797680369

   毎日新聞 2019年9月22日掲載 磯田 道史   以上






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戦艦「大和」の何がスゴかったのか?


 

 戦艦「大和」の何がスゴかったのか?


            〜BEST TIMES 10/12(土) 12:00配信〜


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 令和元年度の自衛隊観艦式に先がけて開催中の「FLEET WEEK(フリートウィーク)2019」10月5日、横浜会場のトークショーに『戦艦大和 建造秘録』の復刻改訂版が刊行されたばかりの大和研究第一人者の原勝洋氏が登壇した。
 テーマは『大和の何がスゴかったのか』「大和」が世界に誇る日本の最高傑作たる所以として氏が挙げる「大和の3つの世界一」とは? 



 その1 世界一の主砲 〜46センチ砲の脅威〜

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 「大和」は当時、世界で建造された戦艦の頂点であった。第2次世界大戦(太平洋戦争)に就役した戦艦数は80隻主砲門数は744門に及んだが、その頂点に立ったのが「大和」「武蔵」に搭載された46cm(18・11インチ)砲である。

 1936年以降の新式戦艦29隻と1936年以前の旧式戦艦51隻計80隻と為る。

  1 46cm砲・・「大和」「武蔵」に続く8種類の砲の口径は
  2 41cm砲・・長門型戦艦「長門」「陸奥」16門
  3 40.6cm砲・・米戦艦アイオワ級4隻を含め13隻、英国戦艦ネルソン級2隻
  4 38cm砲・・ドイツ海軍ビスマルク級2隻ほか23隻
  5 36cm砲・・24隻
  6 34cm砲・・3隻
  7 32cm砲・・4隻
  8 30cm砲・・3隻
  9 28cm砲・・2隻


 と為って居た。46cm砲が如何に巨砲であったか窺い知る事が出来る。「大和」主砲の「限界」発射弾数である命数(砲身の寿命)200発。これを超えると弾丸の弾道が狂って来る。

 砲身は発射毎に発生する高熱ガスの為に膅面(とうめん)を摩損し、毎回少しずつ精度を不良させる。更に、施条(大和の場合72個)の摩耗量が或る一定限度に達する時は、著しくその精度を不良にさせるだけで無く、或は膅発(砲身内での爆発)の原因と為る。ちなみにこの限界に達したものを「命数に達した」と言い、この限界に達する迄の射撃弾数をその砲の命数と称した。そこで傷付いた内筒だけを新しく交換する方法を執って居た。


 




 その2 世界一の安定性 〜洋上に浮かぶ要塞〜

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 「大和型」の主砲の名称は、94式40センチ砲と称し、膅面直径46センチを軍機(国の最高機密)として秘匿した。九四式は、皇紀2594(昭和9=西暦1934)年に兵器として採用された為、その下の桁の数字を採り40センチ砲と呼称したのである。皇紀とは、初代神武天皇が即位したとされる年を元年とした日本の紀年法だ。

 何故「大和」に18・11インチ(46センチ)砲が搭載されたかの理由は、16インチ(40・6センチ)砲弾に比較して弾量で46%重く・射程2万メートルの落角で16インチ砲の17・3度に対し16・5度・弾速490m/秒に対し、522m/秒と弾道性に優れて居る事にあった。
 対艦用弾丸の重量は1・46トン、名称は九一式徹甲弾、その着色弾を一式徹甲弾、対空弾は三式焼霰弾と称した。

 前部6門、後部3門を同時に同一舷、同一方向に発射すると、約8000トンの反動力が生じる。その為、船体その他の強度不足の部分があれば、湾曲し破損する部分が生じる恐れがあった。その為船体の中心線の両側に約1m間隔で、前部と後部砲塔間に渉りバーチカルキール(竜骨)が平行に2列設けられて居た。又、2列のバーチカルキールの頂上に、船体中心縦隔壁が設置されて居た。
 主砲を発射した際、砲口から伝播する強大な爆風圧力の強度は、ボートを破損させ人間の被服を破り一時朦朧とさせる。甲板開孔部は、この圧力侵入の少ない箇所にマトメ且つ丈夫に造られた。その結果、露天甲板は大変にスッキリ広々とした。


 




 その3 世界一の防御力 〜航空攻撃への耐久性〜

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 米軍第1次攻撃隊 第1群(空母2隻・軽空母2隻)と第3群(空母3隻・軽空母2隻)から発進した222機(空母1隻の38機は目標に達せず、その他3機はトラブルで途中帰還)第2次攻撃隊(空母2隻・軽空母1隻)から発進した107機(トラブルで2機途中帰還)が海上特攻隊「大和」に向かった。
 第1次攻撃隊は、ロケット弾112発・爆弾63発・空中魚雷52本を「大和」に集中。第2次攻撃隊は、爆弾30発と空中魚雷7本で「大和」を攻撃し止めを刺した。

 米軍の日本艦隊との交戦記録(大和の最期)では、作戦中の戦闘報告を分析して空中魚雷19本・454kg爆弾18発・227kg爆弾10発命中との記録を残して居る。日本側記録は、被弾6発・空中魚雷10本・至近爆弾無数と記録して居る。


              文 原勝洋  以上


 




 「関連記事」 戦艦大和 その誕生

 第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造した事をご存知でしょうか。その戦艦は「大和」(やまと)と言います 。アジ歴では、戦艦大和に関する当時の生の資料を見る事が出来ます。その資料には、大和の戦いはどの様に記録されて居るのでしょうか。
 戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて大正5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6〜7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。

 海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約が無く為り、各国間での軍艦の建造競争と為った場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣る為不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのでは無く、他国に勝る性能を有する戦艦を備える事を考えました。
 この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過して居ました。しかし、この運河の門の幅は33メートルである為、ここを通り抜ける事の出来る艦船も幅がこれ以下の規模のものにホボ限られました。

 戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものと云う計算に為ります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、更に大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。

 戦艦から航空機へ

 昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度に渉る攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。その僅か二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。
 日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和の様な戦艦から航空機へと移った事を証明する事に為ります。

 大和は「大艦巨砲主義、即ちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成すると云う作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、更に洋上の基地と為る航空母艦が主力に為ります。この状況の変化により、大和が必勝を目指して居た戦艦による艦隊決戦自体が行われ無く為りました。

 昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日〜20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日〜25日)は共に対空戦闘に終始した為、大和の主砲が威力を発揮する事はありませんでした。
 しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後と為りました。

 戦艦大和 最後の戦い

 そして昭和20年(1945年)4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地はアメリカ軍が上陸を始めた沖縄でした。作戦の時の軍艦大和の戦闘詳報です。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行う為に、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書の事です。「軍極秘」の文字があります。

 大和は4月6日15時20分に出撃します。出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜。
 隊形を整えた艦隊に対して、伊藤整一第二艦隊司令長官は指揮下の各艦に対し「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」、との訓示を伝えました。

 4月7日の8時40分、大和は米軍の航空機の編隊を視認しました。12時34分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。しかし、数多くの米軍機からの攻撃を受け、およそ2時間後の14時23分に「前後部砲塔誘爆沈没」しました。
 大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されて居ます。4月7日の海戦は、日本側では「坊の岬沖海戦」と呼ばれて居ます。10隻から為る艦隊は、大和の他矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞の計6隻が沈みました。帰還した4隻の内、涼月は大破、冬月・雪風は被弾もしくは至近弾を受け、初霜はほぼ無傷でした。

 生還者達は、この戦いをどの様に書き記して居るのでしょうか、次の様な事が記されて居ます。

 戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕が無いと云う事がシバシバであるが、特攻兵器を別として、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させる為には、慎重に計画を進め、準備を出来るだけ綿密に行う必要があり「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をもミスミス無駄死にさせてしまう、と書かれています。
 又、大和を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦は飽く迄冷静にして打算的で無ければ為ら無い、徒に特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失う処が多く、得る処は非常に少無い、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれています。

 大和沈没とその後

 4月7日の海戦の同日、後に戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎内閣が誕生し、親任式が行われました。その親任式の後、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされたと言われて居ます。
 4月30日、昭和天皇は、米内光政海軍大臣に対し下問され「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と問われて居ます。これに対し海軍人事局三戸壽少将と富岡第一部長は関係資料を基に話し合い、「作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ」と結論付けました。そして、この作戦の4ヶ月余り後、日本は終戦を迎える事に為ります。


                 以上


 




 【管理人のひとこと】

 歴史には、IF(もしも)と云う仮定の話はタブーとされて居ます。何故なら、その結果に至ったのには、それ迄の歴史上の事実が積み重為って起きたものであり、その一つをIFで否定した話は、全ての歴史を否定してしまう事に為ってしまうのです。それでは、歴史そのものが成り立他無く為るのです。
 もし、日本がアノ時米英に戦争を起こさ無かったら・・・も、今と為ったらどうにも為ら無いIFの話であり、取り返しのつか無い否定出来無い厳然とした事実でありそれが真実の歴史なのです。私達はその歴史を真正面から受け入れそれに対して真摯に立ち向かって行く事しか出来無いのです。

 当時は(今でも根本的には変わら無いのですが)全ての揉め事を戦争と云う武力で解決するのが常識でありそれが国際法下で認められて居ました。その中での色々な約束事があり、相手を騙す宣戦布告以前の奇襲戦法はご法度でしたし、戦争捕虜に対する取り決めもありました。詰まり、戦争するにも或る一定の取り決めがあって、その下で戦ったのです。
 我が国は、自国の脆弱性を悟り、その中で精一杯の背伸びをして準備して居のです。それは一撃で相手を挫きそのまま停戦に向かう・・・奇襲・短期決戦での勝利しか無いと腹を括って居たのです。その背景には、日中戦争の泥沼化のママに新たな戦線を開くと云う無理があったのです。

 不十分な準備で大陸と太平洋と云う二面の戦線を維持するのは、我が国の実力以上のものであり、結果として300万人と云う犠牲者を半ば戦わずにして、半数は餓死・病死で尊い命を惨禍させてしまった、戦争指導者の精神論に押されてしまった、我が国の国民性の敗北でした。しかし、その尊い犠牲の上に現在の我が国が存在するのです。
 その歴史を決して否定しては為らず、増してや「聖戦」等と賛美しても為らず、事実として真摯に受け入れるべきで、そこから未来を語るべきなのです。その意味で当ブログでは、時折戦争の話を取り上げて居ます。



 



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2019年10月11日

関電スキャンダルに潜む 見過ごせ無い3つの問題




 関電スキャンダルに潜む 見過ごせ無い3つの問題


           〜ニューズウィーク日本版 10/11(金) 17:32配信〜







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     日本の原発は住民の「恐怖心」を避ける為に必然的に過疎地へ 関西電力高浜原発 

 〜原発を推進する上で「カネの問題」は必要悪として諦めて居るムードもあるが・・・関西電力の役員等に対する、高浜町元助役からの資金還流事件は、ココへ来て会長・社長が辞意を表明する事で局面が進んだ様に見えます。ですが、スキャンダルの真相も、そして今回の問題が炙り出した原発ビジネスの構造に付いても、本質的な議論は進んで居ません。そこで、今回はこの事件に潜んで居る3つの問題に付いて議論したいと思います〜


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             冷泉彰彦氏 在米作家・ジャーナリスト 


 1点目は資金還流の意味です。通常、工事等を請け負う業者の側としては、発注側である関西電力からの受注欲しさにワイロを渡す可能性はあるかも知れません。ですが、それは発注決定の前の問題であり、今回の事件の様に事後にカネを押し付ける様に渡すと云うのは非常に不自然です。
 事前に話が付いて居り、只バレ無い様に時間差を着けて資金還流させたと云う説明も成り立ちますが、余り説得力はありません。為らば、受注の為のワイロを時間差で渡したのでは「無い」シナリオも必要に為って来ます。

 「何らかの口封じだった」とか「反対に裏金が関電サイドから流れて居り、死期を悟って自分と家族の名誉を守る為に返却する必要があった」とか、何れにしてもカネの流れとタイミングに関する捜査が必要です。関電の経営陣は、そうした「カネの意味合い」に付いて、知らぬ存ぜぬでは無く、確りと捜査に協力すべきと思います。
 現在の報道は、こうした「カネの意味合い」に関するツッコミが全く不足して居ます。ここを外しては、刑事立件や民事係争に持ち込む事が出来無いし、そもそも社会的な批判にも為ら無いからです。

 2点目は、原発マネーと言われるコストの甘さに切り込んで行くと云う事です。原発に関係する工事は、好く言えば安全対策、悪く言えば風評懸念を口実に工事をヤタラに高品質として高額な請求がされる事が多い様です。確かに、原発に関して積極推進が国策だった時代には、それで全体が回って居たのかも知れません。
 ですが、福島第一の事故以降は、万が一の事故の場合における直接的な被害への補償だけで無く、風評被害への補償等を考えて、その準備金を積み立てる様に為る等、原発のコスト構造は激変して居ます。そうであるなら、今回の事件を契機として、工事や経費等の金額に「お手盛り」は無いか、全ての原発において総点検が必要と思われます。







 地元に流れ込む巨額の原発マネー

 3点目は原発立地です。通常、加圧水型原子炉と云うのは、河川の沿岸に立地して冷却水を取水し、冷却に伴って発生する温水は河川に戻し、水蒸気は空中放出すると云うのが世界の常識です。
 ですが、日本の場合は河川の水質への風評被害や、水蒸気放出への感情的な恐怖心等が「判断の大前提」と為る中で、立地は沿岸部の過疎地と云う事に為って居ます。

 そこで地元に対して、巨額なマネーを注入する事で立地への同意をさせると云う構造がある訳です。その結果として、コスト的に最も効率的で安全面で最も理想的な立地「では無い」場所に原発が建設され、それがコストを膨張させると云う構造が出来上がって居る様に思われます。
 こうした「原発とカネ」の問題ですが、原発反対派は「全面的な稼働反対・新設反対」の理由の一つとして、この「原発とカネ」の問題を取り上げる事が多い様です。一方で、エネルギー多様化の中で原発の部分稼働に賛成する立場からは、この「カネの問題」は必要悪として諦めて居る様なムードも伝わって来ます。

 当面は脱炭素と云う問題も含めて原発の「即時ゼロ」は出来無い中で、今回の事件を契機として「原発とカネの問題は切っても切れ無い」と云う賛成反対両派の「常識」にメスを入れて行か無くては為ら無いと考えます。


        冷泉彰彦 在米作家・ジャーナリスト 以上







 【管理人のひとこと】

 関電スキャンダル・・・と命名すべきだろうか。関西の電力会社が、原発を施設する現地の地方公共団体(役場)の元助役から数億円もの金品を贈られた・・・元助役が怖くて返すに返せなかった・・・とするものだ。
 このスキャンダルが実は何を語るのか・・・政府は国策として原発を推進した。電力会社はその政策に乗って、皆から嫌われる原発施設を「疲弊する地方、それも過疎地へと金を餌にして突き進んだ」現地の有力者と組みあの手この手で住民を説得する訳だ。住民は家族を巻き込み賛成・反対で対立する。大きな住民運動を繰り返し「町や村が生き延びる為に・・・」と最後には原発を誘致する。
 そして、色々な国の優遇予算を投入して立派な公共設備を次々と設置し、街の予算は黒字へと転換する。工事が始まると、次々と仕事が舞い込み現地は「原発マネー」に溢れ、多くの住民への雇用も生まれる。定期点検や常時の整備工事も行われ、工事は現地企業を優先される。
 此処に金と権力が絡む「原発ローテーション」が生まれる。その間に流れる金は、政府の原発関連予算(税金)⇒電力会社の工事発注(国家予算+電力料金)地元企業⇒発注した電力会社・役員
                     斡旋した政治家
 で完結される訳だ。何のことは無い。国民から集めた税金と消費者から集めた電力料金から、地元の企業や政治家や電力会社へのバックマージンとして一廻りする訳だ。この仕組みを考えたのは頭の好い誰かでは無く、当たり前の出来事なのだ。この様にして原発マネーは多くの人達を潤し、多くの人達に悲劇を生み、そして日陰者へと追い遣られた。
 正常な政治が為されるのであれば、これを点検しこのローテーションに鉄杭を叩く事が出来るのか・・・原発の最終工程は、この金の流れを一掃する事から始まる。







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トルコ軍のシリア侵攻 アメリカはクルド人を見捨てたのか?



 トルコ軍のシリア侵攻 アメリカはクルド人を見捨てたのか?


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      〜岡豊 公益財団法人中東調査会 主席研究員 10/11(金) 1:39〜







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 力は正義、正義は力

 予てから有る、在ると言われて居たトルコ軍のシリア北東部侵攻が現実のものと為った。これに付いて、当座の槍玉に上がって居るクルド民族勢力を、今迄庇護・育成して来たアメリカが見捨てた、と云う批判や論評がある。
 しかし、シリア紛争において何故アメリカがクルド民族主義勢力を支援する様に為ったかの経緯を少し考えるだけで、そうした論評が的外れな事は明白である。と云うのも、シリア紛争(或いは「イスラーム国」対策)においてアメリカがクルド民族主義勢力を支援する様に為ったのは、別にアメリカがクルド人の安寧や彼等の民族自決、その他諸々の政治・経済・社会的権利・権益を支持し、それ等を保護する為では無かったからだ。

 ソモソモ、アメリカは2011年にシリア紛争が勃発すると、早々にシリア政府の正統性を否定し、これに代わる「反体制派」を見出そうとして来た。その資格が有るのは自由で民主的で世俗的で、尚且つアメリカの外交・安全保障政策に従属する勢力で無くては為ら無いが、その様な勢力を育成しシリア政府打倒や「イスラーム国」を初めとするイスラーム過激派と現場で戦う戦力(=コマ)とするのが当座の目標と為った。
 処が、その様にして育成した「反体制派」は、悉くイスラーム過激派に敗北し、悪の独裁政権であるシリア政府による人民弾圧・虐殺と戦う前に消滅した。アメリカだけで無くEU諸国、アラブ諸国の一部も、そうした事実を知りながら「穏健で清く正しい反体制派がある」と云う幻想に縋って支援を続けたが、そうした支援は「イスラーム国」を初めとするイスラーム過激派に高性能の兵器を流出させただけだった。

 それでも自ら大兵力を動員してシリアにおける悪の独裁政権を打倒する事も、真面な統治体制を構築する事も「イスラーム国」と直接干戈を交える事もする積りが無いアメリカは「現地の提携勢力」を必要とし続けた。他の選択肢が悉く失敗に終わった末に、消去法で残ったのがシリアのクルド民族主義勢力だったに過ぎ無い。
 そう為ると、多少のリップサービスはあったとしてもアメリカがYPG(人民防衛隊)に代表されるクルド民族主義勢力に対し、独立の様な既存の国境の変更・事実上の独立国であるかの様な「自治」の付与、そして外部の圧迫からの保護を「身を切って」遣る訳が無い、と云うのは当初から明らかだった。
 
 詰まり、アメリカとシリアのクルド民族主義勢力との関係は、自らの出費と犠牲を厭う強者が、強者に阿って立場を固め様とした弱者を利用した関係に過ぎ無い。と為ると、両者の関係の焦点は、強者の側が「何時、どの様に弱者を切り捨てるか」ではあるが、アメリカが真剣にクルド民族主義勢力を保護するか否か、詰まり見捨て無いか否かでは無い事は明白である。
 結局の処、紛争では強者が弱者を利用し、それに付いての物語は声の大きい方(発信力の有る方)が無い方を圧倒し、都合の好いストーリーを視聴者に押し付けると云うだけの話に過ぎ無い。

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 弱者に寄り添うなんて、みーんなデッチ上げなのよ

 



 上記の様な事情に鑑みると、今般の侵攻で被害を被って居る(筈の)シリア人民に寄り添い彼等の利害に沿った振る舞いをする当事者が現れる事は期待出来そうに無い。勿論、広報戦略として紛争の当事者のどれかがトルコ軍の侵攻に伴う破壊と殺戮をSNS上で流暢な英語で実況中継する少女を起用するかも知れない。
 しかし、今のトルコにはそうした活動を報道の主流に載せ無いだけの政治・外交力がある。別の言い方をする為らば、事前に当事国に周到に根回しした結果、トルコは今般のシリア進行への「黙認」を得たのである。

 又、シリアには不正や弾圧に抗し、軍事攻撃の被害に遭う民間人をボランティアで救援する白いヘルメットの人々が要る。もし彼等の活動が真に民間人の救助を目的として居る為らば、今後多大な被害が予想されるトルコの侵攻地域でも活発な活動と情報発信がされるだろう。
 もし白いヘルメットの人々が、シリア紛争の当事者のどれかに与するだけ為らば、彼等はシリア北東部には決して現れ無いだろう。シリア紛争において、被害者・弱者に寄り添う事、ジャーナリズムや報道の自由を実践する事が、実はそうした活動のスポンサーや許認可権者への遠慮や、発信する情報の政治・社会・経済的な価値や「映え」に左右されて居ない事を切に願う。


 




 「イスラーム国」対策ナンて馬鹿気てると言ったろ

 視点や立場が異なるものの「アメリカがクルド人を見捨てた事」により、「イスラーム国」対策に深刻な悪影響が出るとの見通しは可なり強い。
 一説には「アメリカに見捨てられて」トルコの侵攻に晒されたクルド民族主義勢力が「イスラーム国」との戦いや「イスラーム国」構成員の収監者管理を放棄して逃亡したり、トルコとの戦線に動員されたりする為「イスラーム国」囚人の大量脱獄が起こる恐れが有るそうだ。

 又一説には、クルド民族主義勢力を放逐した後に「イスラーム国」囚人の管理を引き受けるべきトルコにそうする意志が無い所為で「イスラーム国」の構成員が多数野に放たれる恐れがあるそうだ。何れにせよ、アメリカ・クルド民族主義勢力・トルコのどれにトッテモ「イスラーム国」対策や「イスラーム国」囚人の管理の問題はまさに「二の次」であり、自らの利益を犠牲にしたり、資源を費やしたりして関わる問題では無い様だ。

 と為ると、彼等に取っては、本当は「イスラーム国」が流行する、イラクやシリアを初めとする世界の何処かで人民を虐げると云う問題は、自分に火の粉が掛から無い限り「どうだって好い」問題なのかも知れない。実際、アメリカの支援の下で「イスラーム国」囚人を管理して居たクルド民族主義勢力のヤリ方は、非常に問題が多かった。
 本当に求められる「イスラーム国」対策とは、同派に資源・正統性・広報の機会を提供し無い事であり、そうする対策の現場は実はイラクでもシリアでも西アフリカでも東南アジアでも無く、欧米諸国や日本の様な先進国とアラビア半島諸国である。
 「イスラーム国」囚人、特に外国人の構成員が野に放たれる事を恐れると云うの為らば、その責任は彼等を最初に送り出した国と、彼等の移動を放任した経由国が負うべきである。

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 それでも「安全地帯」が絶望的に筋悪な事業である理由

 最後に指摘して置きたいのは、今般の侵攻によってトルコが企画して居る「安全地帯」の設置は、色々な意味で非常に筋が悪い事業だと云う事である。恐らく、シリアの安定や紛争の収束、難民の帰還、シリアの主権と統一の尊重と云う目的には逆効果だろう。
 又、クルド民族主義勢力への対処がトルコに取っての安全保障上の問題だとしても、それはトルコ国内のクルド人をいかにして同国の政治や社会の一員として迎え入れるかと云う問題であり、その解決がシリア領への侵攻で無い事は明らかだ。

 トルコ在住シリア難民の「帰還」の対策だとしても、筋が悪い事には変わりが無い。何故なら、トルコ在住シリア難民の全てが「安全地帯」設置予定地域の出身者と云う訳では無く、少なくとも一部は「新規入植者」に過ぎ無いからだ。
 筆者も関与した調査の結果等を勘案すると、トルコ在住シリア人の少なくとも3分の1は「安全地帯」設置予定地と地縁も血縁も無い人々である。逆に、トルコ以外の地域に在住するシリア難民や国内避難民の、少なくとも2割弱は「安全地帯」設置予定地の関係者で、彼等はトルコが企画する「帰還」からは排除されるだろう。又、「安全地帯」設置予定地には数十万人から百万人強の住民が居る筈なのだが、そこにトルコ在住シリア人を百万人も「帰還」させると為ると、追放や土地の収用が起こる事も確実である。

 悪い事に「安全地帯」設置予定地の一部は、既に「アラブベルト」の設置事業と云う、追放・土地収用・新規入植を経験済みである。「アラブベルト」以外の場所でも、紛争に伴う追放や住民の移動が起きた事だろう。要するに、今般の侵攻の意図がシリア領の占領だろうが、クルドの「テロリスト」の制圧だろうが、トルコ在住シリア難民の「帰還」だろうが、そして諸当事者から「黙認」を得る為に根回しして居様が居まいが、これ迄幾重にも積み重為った住民追放・土地収用・新規入植の層に、新たな追放・収用・入植の層を積み重ねると云う性質からは逃れられ無いのである。


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 岡豊  公益財団法人中東調査会 主席研究員 新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)2014年5月より現職 著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店など


 


 【関連報道】

 「同盟は簡単」「第二次世界大戦で我々を助け無かった」

 トランプ大統領 クルド勢力を見捨てたとの批判に反論


         〜BUSINESS INSIDER JAPAN 10/10(木) 20:00配信〜

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          アメリカのトランプ大統領(2019年10月9日)

 アメリカのトランプ大統領は10月9日(現地時間)クルド人部隊を見捨て、シリア北東部に駐留する米兵を撤退させた自身の決断を改めて擁護した。クルド人は第二次世界大戦でアメリカを助け無かったからだと云う。
 アメリカが主導して来たISISとの戦いで、極めて重要な役割を果たして来たクルド人部隊に付いて、トランプ大統領は「彼等は第二次世界大戦で我々を助け無かった。ノルマンディーで我々を助け無かった」と発言した。報道陣にシリアからの撤退やクルド人部隊の扱いは、他の潜在的なアメリカの同盟国に対し負のメッセージを与えたのではないかと尋ねられたトランプ大統領は「同盟は物凄く簡単だ」と答えた。

 トルコはこの数時間前、シリアのクルド人部隊に対する軍事オペレーションを開始した。トランプ大統領は10月9日、クルド人部隊を見捨て、シリア北東部に駐留する米兵を撤退させた自身の決断を改めて擁護した。クルド人は第二次世界大戦でアメリカを助け無かったからだと云う。
 この少し前には、空爆に続きトルコの地上部隊が国境を越えてシリアへ侵攻したと報じられて居た。クルド人部隊に付いて、トランプ大統領は「彼等は第二次世界大戦で我々を助け無かった。ノルマンディーで我々を助け無かった」と述べ「それでも、我々はクルド人が好きだ」と付け加えた。
 この発言の前、トランプ大統領はホワイトハウスがリリースした声明文の中で、トルコの軍事オペレーションを支持しない「悪いアイデア」だと述べて居た。だが、クルド人部隊には一切触れず、トルコの行動を阻止する為の迅速な対応も示さ無かった。

 トランプ政権は10月6日、トルコの軍事行動の前に、シリア北東部に駐留する米兵を撤退させると突然発表した。この動きは、共和党の有力議員やトランプ政権の元高官を含め、アメリカ国内でも広く批判された。多くの人々が、トランプ大統領はトルコにアメリカの重要な同盟相手を攻撃する道を開いたと感じた為だ。
 クルド人を主体とするシリア民主軍(SDF)は、アメリカが主導するISISとの戦いの矢面に立ち、その過程で約1万1000人の戦闘員を失った。

 トランプ政権の発表に先駆けて、クルド人部隊は最近、アメリカのトルコの攻撃は許さ無いとの保証の下、国境沿いの防衛陣地を解体して居た。米兵の撤退と云うトランプ大統領の決断を、SDFは「背後から刺された」と表現し、アメリカに裏切られたとの思いを隠さ無かった。


               以上


 【参考資料】 クルド人問題とは


 一般にクルディスタンと呼ばれるトルコ・イラン・イラク等に跨った山岳地帯に居住し、ペルシャ語系のクルド語を母語とする民族。

 イスラム以前からの言わば「先住民族」であるが、山間部に割拠して居る事から、民族規定の根幹であるクルド語には方言が多く、実際の意思の疎通には支障がある。代表的な方言である北部のクルマンジーと南部のソラーニーの2つのみが文語を有して居るが、両者は異なる文字を使用して居る。
 人口は推定に頼らざるを得ないが、その幅は大きく、1980年代初頭まで1000万前後で在ったものが、現在は2500〜3000万と言われる。

 試みに1991年湾岸戦争当時の諸推定の平均を挙げれば、総人口2100万、トルコ東部に850万(トルコ人口の14%)イラン北西部に600万(同9%)イラク北部に300万(同15%)と為って居る(その他は、シリア北東部やアゼルバイジャン等に居住)。スンナ派が多数を占めるが、シーア派諸派の信徒も居る。

 ペルシャ圏・アラブ圏・トルコ圏がブツかり合い、その分水嶺の様な山岳地帯に居住する事から、歴史的には各王朝から一定の集団と認定され、自治を認められる一方で、王朝間の攻防の舞台とも為った。特にオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャとの戦場と為り、1639年の和議による境界線の設定が、民族分断の最初とされる。しかし、現在のクルド人問題は、近代のナショナリズムと国民国家体制の影響を受けて以後の事である。
 第一次大戦後のオスマン領分割において、イギリスはクルド民族国家構想を1920年セーブル条約に盛り込んだが、その後トルコのケマル・アタチュルクの拒絶により、1923年ローザンヌ条約では削除され、クルド人居住地域はトルコ共和国及び英仏委任統治領(イラク・シリア)に分断された。
 分断状態では、各国毎の国民統合の過程で少数派と為るが、民族そのものはイラクの総人口を上回る規模で有る事が、クルド人問題の最大の特質と言える。

 第二次大戦直後の1946年、ソ連占領下のイラン北西部マハーバードでクルディスタン人民共和国が独立したが、ソ連撤退により約1年で崩壊した。この時の大統領カーズィー・ムハンマドがイラン・クルド民主党(IKDP)の創設者であり、その軍事面の指導者ムスタファー・バルザーニーは、後にイラクのクルド民主党(KDP)の党首と為った。
 独立や自治を求める他のクルド人組織としては、トルコのクルド労働党(PKK・1978年設立。政府との武力闘争を続けた。1999年オジャラン議長が逮捕され、死刑判決を受けたが、2002年終身刑に減刑)イラクのクルド愛国同盟(PUK・1975年にジャラール・タラバーニーが左派インテリ層を率いてKDPより分離)等があるが、大小又は武装・非武装の様々な組織が多数存在し、相互の対抗関係から民族運動としての団結に極めて乏しい。

 更にトルコ・イラン・イラクの各政府は、国内のクルド人勢力を抑えながら、互いに隣国のクルド人組織を支援して来た。支援を受けたクルド人組織が、政府間の和解により孤立した事例も多い。この様な地域の覇権争いや情勢の変化に翻弄され続けた事も、組織間の対立を深めた。

 大半の組織が世俗左派の民族主義思想を標榜するが、近年イラクではクルド・イスラム運動(IMK)やクルド・イスラム連盟(ILK)と言ったイスラム系の組織が勢力を伸ばし、加えて小規模ながら、アルカーイダと密接な関係を持つアンサール・アルイスラムと云う組織も生まれて居る。
 湾岸戦争後、イラク北部のクルド人地域は実質的な自治を確保し、1992年に選挙を実施して自治議会及び政府を確立したが、1994年の内部対立以降は議会・政府が機能せず、KDPが西部をPUKが東部をその勢力下に置く状況が続いて居る。

 イラクのマルチ・エスニックな政治環境や、国内に兵力を有する反体制派がクルド人諸組織のみである事等から、現在のイラク問題において、これ等クルド人勢力の動向が注目されて居る。
 

     グローバル・イシューズ主任研究員 松本 弘   以上



 



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何故砂漠に「未来のユートピア」が続々と誕生して居るのか




 何故砂漠に「未来のユートピア」が続々と誕生して居るのか


            〜現代ビジネス 10/11(金) 8:01配信〜

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       サスティナブル・シティ〔PHOTO〕(C)The Sustainable City

 〜今、アブダビやドバイを初めとする中東の砂漠エリアで、最先端の技術を駆使した人工都市や未来的な施設の開発が盛んだ。オイルマネーを駆使して、砂漠の中にゼロからユートピアを生み出すのは何故か。建築史家の五十嵐太郎教授の話から、不毛の地と理想郷の両極を結ぶ線が見えて来た〜


 




 水も食べ物も無い・・・極限状況を生き抜く為の「3・3・3の法則」

 TRANSIT44号では、中東を始め世界のアラユル「砂漠」を特集。壮大な歴史ロマンを感じさせて呉れる彼の地は、今や未来を作る為に世界中のテクノロジーが結集する場所でもある。

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  取材協力 五十嵐太郎 (いがらし たろう) 建築史家 建築批評家 東北大学大学院研究科教授 著書に『モダニズム崩壊後の建築―1968年以降の転回と思想』共著に『ぼくらが夢見た未来都市』など

 新しい都市が生まれる時

 〜二酸化炭素排出量ゼロを掲げるアブダビの実験都市マスダール・シティ、省エネ性能の高い素材で建設されたドバイのサスティナブル・シティや、100年後の火星移住を目標に宇宙生活をシミュレーションしたドバイのマーズ・サイエンス・シティ等、中東のUAEでは次々と新しい街が計画されて居る。
 何故砂漠の国・UAEでは、人類の夢が詰め込まれた未来的な都市が生まれるのか。建築史家の五十嵐太郎教授に話を聞いた〜


 サスティナブル・シティ 2017年に出来たドバイのスマートコミュニティ。住宅やビル毎太陽パネルが設置され、小単位でエネルギーを産出・消費する設計に為って居る。街中には温室があり、住民は新鮮な野菜を手に入れる事が出来る。住宅・ホテル・モスク・学校等も建設して居て2000人の居住人口を目指す。 

 ・・・先ず新しい街が出来る切っ掛けは大きくは「戦争」「資金」に在ります。「戦争」と云う意味で言えば、例えば第二次世界大戦で被害の大きかった東京・ベルリン・平壌等は、街を新しく作り変える必要がありました。日本の場合、更に地震や大雨等の天災が多いので、街が壊滅的被害を受けた時にも街を作り直す事があります。
 「資金」と云う点で観ると、今あるパリの美しい街並みは19世紀のセーヌ県知事オスマンのパリ改造で出来たものです。この時代、フランスは植民地政策で富が集積されて居ましたから、その資金でロータリーから延びる目抜き通りを作ったり、下水道を整えて清潔な街にしたりと大工事を行った訳ですね。今でもパリに旅行者が絶え無い様子を見ると、大規模な都市改造は好い投資だったと言えるでしょう。

 UAEの場合は、後者に当て嵌ります。石油や天然ガスで得た資金を基に、新しい都市計画が進んで居ます。中でも既に運営が始まって居るマスダール・シティの設計を担当して居るのが、ノーマン・フォスター率いるFoster+Partnersです。
 ロンドンを拠点に1000人以上の従業員が居る国際的な設計事務所で、建築に限らずエネルギー部門・交通システム部門等の専門チームが在って、都市を丸毎設計出来る訳です。

 マスダール・シティ 再生可能エネルギーと持続可能な都市開発の世界的なリーダーと為るべく2006年からアブダビに建設された都市。マスダール科学技術研究所が設置され、最新テクノロジーを商業化する為の実験を行い二酸化炭素排出量ゼロ・廃棄物ゼロを目指す。将来的には5万人が生活出来る都市に為る予定。

 フォスター自身、1990年代からサスティナブルやエコロジーをテーマにしたビルを作って居るし、テクノロジーを使った建築に強いと云うのでUAEから依頼されて居ると思うんですけどね。
 現在、こうした新しい街をゼロから作る規模のプロジェクトが進行して居るのは、資金が有る中東と中国位でしょうね。資金が有るから未来の街作りに投資する。何時かオイルが枯渇しても、後世に残る様な都市を作れば街は生き続けるし、仮にこの街作りが世界のスタンダードに為れば、先駆者として利益を得られるかも知れません。


 




 砂漠の都市の成り立ち
 
 砂漠で街作り、と考えると、何も無い場所に街を作る事の困難さを想像してしまうが、五十嵐教授は砂漠と都市計画は相性が好い部分が多いと語る。

 ・・・単純に、砂漠の様な真っ新な白紙の様な無人の土地に街を作る方が、既存の街を作り変えるより簡単と云う理由があります。例えば東京で新たな街作りを計画した場合、既にある建物を壊さ無きゃいけない、住民にも配慮し無ければいけないと云う問題が起きます。
 道路や電車と云った交通システム一つ変えるにも、物凄く大掛かりな工事に為ります。それだったら最初から最適化したものを、何も無い状態から作る方が遥かに手間が少ない。

 例えば、車の自動運転が実現して今よりもっと運転が正確に為ったら、道路幅をギリギリ迄狭く出来る。そう云った技術革新が起きた時に、何も無い砂漠であれば根本の都市設計から自由自在に変える事が出来る訳です。

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 ドバイ・モール 2008年に開業した世界最大級のショッピングセンター。総面積は111.5万u。ハイブランドからファストファッション・スーパーマーケット迄揃う。世界一の高さを誇るブルジュ・アクアリウムがあったりと、娯楽もひと通り揃って居る。

 もうひとつ、砂漠は人工環境を前提に街を作って居る事も大きいと感じますね。ドバイで印象的なのは、殆どの駅とショッピングモールが接続して居る事。夏場は50度を超える様な環境ですから、地元の人達は出来るだけ外部の滞在時間を減らして、ショッピングモールと云う人工環境に避難したいと思う。ドームの様な内部空間で生活しようとする思考は、火星移住計画と近いものがありますよね。
 エネルギー確保やインフラ整備にしても、既存の街に寄生する様に広がって行こうと云うより、UAEの様な砂漠の国では街毎に自立したシステムで遣ろうと云う傾向が強い気がします。

 潜在的に未来都市が生まれ易い

 更に砂漠はデザイン面においても自由度が高く、新しい街並みが生まれ易い性質があるのではと五十嵐教授は考える。
 
 ・・・ドバイは強いランドマーク性を持つアイコン建築が多いですよね。世界一高いビルとして有名なブルジュ・ハリファだったり、建物が360度回転するダイナミックタワー・ドバイの建設案であったり。日本の様な無味乾燥な四角いビルとは違う。歴史を振り返って観ても、エジプトのピラミッドみたいな巨大な四角錐の建築物も、今見ても随分と大胆なデザインです。

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 ブルジュ・ハリファ 2010年に開業した、全高828mの世界一高い超高層ビル。206階建てで148階の展望台迄上る事が出来る。現在、サウジアラビアでは高さ1000m超のジッタ・タワー(2020年完成予定)を建設して居るが、ドバイは更にその高さを上回るザ・タワーを建設して居ると云う。

 これに付いては、ノルウェー生まれの建築学者のクリスチャン・ノルべルグ=シュルツが、砂漠と建築について面白い論を述べて居ますね。彼は、南方の地中海や北欧の様な森林が多い地域と砂漠の様な地域とでは原風景が違うから、そこに生まれる建築の姿も違って来る。
 砂漠と云う文脈の無い独特な土地だからコソ、非常に原初的で抽象的な形態の建築物を置いても映えるんだ、と云う様な事を言って居ます。

 ダイナミックタワー・ドバイ 80階建て、高さ約458mの回転する高層ビル。各フロア360度動かす事が出来て、景色を自由に楽しめると云うユニークな建物。ホテル・マンション・オフィスとして機能する予定。2008年に設計プランが発表されたが、未だに着工して居らず、2020年の完成を目指して居る。
 
 新国立競技場のザハ・ハディド設計案への反対騒ぎじゃ無いですが、日本だと目立つ様な建築よりも、周囲の風景や歴史との調和を考えたデザインが求められ易い。ですが、ソモソモ砂漠では環境にデザインの根拠を求め難いし、調和を気に掛ける必要が少ない。
 それ故に、スタンドアローン的なデザインの建築物が生まれる。そう遣って、従来の街並みとは違った新しい都市が築かれ易い傾向を感じます。

 ユートピアって、この世界の未だ何処にも無いものですよね。既存のものに対して独立・自立した生態系を構想しようとして居る点で、ユートピアと砂漠は似て居る。既存の環境の影響を受け難い砂漠は、新しい都市の形を生む可能性を秘めて居るのかも知れませんね。


 ※本記事は「TRANSIT44 砂漠の惑星を旅しよう」を再編集したものです。

        TRANSIT編集部    以上


 





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「中国人多数・日本人少数」埼玉の団地生活で判った「分断の感覚」




 「中国人多数・日本人少数」埼玉の団地生活で判った 「分断の感覚」

           〜現代ビジネス 10/11(金) 8:01配信〜

 〜5000人弱の住民の半数以上が外国人と云う埼玉県川口市の芝園団地。この団地に住む朝日新聞記者が『芝園団地に住んで居ます』を上梓した。日々の生活の中で何が見えて来るのか? 「私達の団地」が変わって行く事への日本人住民の複雑な思いや、日本人と外国人住民の間の「見え無い壁」を乗り越え様とする試みに迫った〜







 「トランプの言葉を叫びたい」

 「未来はグローバリストのものでは無い。パトリオット(愛国者)のものだ――」

 トランプ米大統領は9月下旬、国連総会での演説でこう言い切った。ホワイトハウスのウェブサイトは、演説するトランプ氏の写真と一緒に、この言葉をトップページに据えた。これコソが最も訴えたかった、中核的なメッセージである事を物語って居る。米国だけで無く、世界の多くのメディアもこの言葉に注目してトランプ演説を報じた。

 世界の首脳が集まる国連総会と云う場で敢えて発した挑戦的なメッセージだが、米国内ではこうしたトランプ氏の言葉に喝采を送る人達が大勢居る。
 私は通算10年近く米国で暮らして来た。生活の拠点は何れも東部の都市部だったが、ティーパーティー運動や中間選挙・大統領選挙の取材で、南部や中西部の小さな町も訪れ人々の声を聞いた。こうした地域に住むトランプ支持者の怒りを湛えた目には、グローバル化した世界はこんな風に映る。

 ・製造拠点を海外に移したり、最初から海外で製造したりして「私達」の雇用を顧み無いグローバル企業
 ・外国から遣って来て「私達」の公的扶助に「只乗り」する移民
 ・キリスト教徒以外にも配慮して、メリークリスマスでは無くハッピーホリデーズと言い「私達」の伝統や文化を尊重し無い人々
 ・自分の国を守る為のコストを「私達」に払わせる同盟国


 底流に在るのは「私達」の国なのに「私達」の居場所が・文化が・税金が奪われ・壊されて居る・・・と云う「感覚」だ。トランプ氏が勝利した2016年秋の米大統領選挙で、私は移民国家の米国ですら、反移民感情が広がりつつ有るのを目の当たりにした。
 この時の取材結果を「朝日新聞GLOBE」に掲載した後、思う処があって埼玉県川口市の芝園団地に移り住んだ。

 ここは5000人弱の住民の半数強が外国人住民と云う、UR都市機構の賃貸住宅だ。外国人住民の大半は中国人で、IT技術者を派遣する会社に所属し、プログラミングの仕事をする若い世代が多いのが特徴だ。
 一方、日本人住民は高齢化が進み、人数も年々減って居る。私は自治会の活動にも参加させて貰いながら古くから住む日本人住民と接する中で、トランプ支持者達にも通じる思いに気付いた。

 「日本人は今や少数派。肩身の狭い思いをさせられて居る」
 「トランプの言葉を、芝園団地の広場で叫びたい位です」
 「昔からの住民は、乗っ取られた様な気持ちを抱いて居るんです」

 
 これ等は全て、団地や近隣に住む日本人住民から私が聞いたり、メールで受け取ったりした言葉だ。私は著書『芝園団地に住んでいます』で「ここに住んで居ると、何故米国でトランプ政権が誕生したか、何故欧州で反移民を掲げる政党が伸長したかが『見えてしまう』のだ」と書いた。
 古参の日本人住民達の言葉の底流に在るのは「此処は私達の団地だ」と云う思いだ。それは、「此処は私達の国だ」と云うトランプ支持者達の思いと重なる。







 「私達」とは誰か

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  団地内のゴミみ置き場 日本語と中国語と英語でゴミの分別方法が書かれて居る(筆者撮影)
 
 私が引っ越して来た2017年当時、芝園団地では素手に、ゴミや騒音と云った生活上の問題は過つてよりも減って居た。只、一見すると日本人と中国人は大きな問題も無く共存して居るものの、互いの交流は限定的で、両者の間には「見え無い壁」があった。
 古参の日本人住民は、中国人住民が増えて団地が急速に変わって行く中で「モヤモヤ感」と云うべき複雑な思いを抱えて居た。その一つが「私達の団地」だった筈なのに、自分達が脇に追い遣られて行くと云う思いだ。例えば、商店街の変化だ。

 団地の商店街ではここ数年、日本人経営の店が店主の高齢化もあって次々と閉店して行った。代わりにオープンするのは何れも中国系の飲食店で、商店街には既に日本人が経営する飲食店は無く為った。
 「日本人の店が無く為って寂しいネエ」と言う古参住民の人達に対して、排他的だと断罪する事は、同じ住民として自分には出来無い。一人の住民として暮らして居ると、彼等が戸惑い不安を抱く気持ちも判るからだ。だが、芝園団地が「私達」だけの団地では無く為って居る事も現実だ。

 過つては公団賃貸住宅に入居出来るのは日本人だけだったが、1990年代からは、収入等の条件を満たせば中長期の在留資格を持つ外国人住民も入居出来る様に為った。団地住民としては、日本人も外国人も同じ条件で入居し同じ権利を持って居る。
 「私達日本人の団地」と云う思いは、時代の急激な変化に意識が追いつか無い状態とも言える。それは、白人中心の社会では無く為りつつある米国社会の変化に、抵抗を覚える人々の心情にも似て居る。

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          ふるさと祭りでの「芝園太皷」の演奏(2017年8月筆者撮影)

「見え無い壁」をどう乗り越えるか

 芝園団地の「見え無い壁」をどう乗り越えるのか。「私達の団地」と云う思いは「私達(日本人)」対「彼等(中国人)」と云う対立的な構図を頭の中に作り上げる。そして生まれるのが「中国人は……」と云うステレオタイプだ。
 こうした状況を変え様と、芝園団地では学生のボランティアグループ「芝園かけはしプロジェクト」や自治会が様々なイベントを開く等、地道な活動を続けて居る。先ずは知り合いを作り「中国人」と一括りにするのでは無く、顔の見える関係を作って行ければと云う狙いだ。

 「見え無い壁」を壊す事は、決して簡単では無い。芝園団地に住む日本人住民と中国人住民は、言葉や習慣だけで無く、生活スタイルも世代も違うので接点が少ない。芝園団地は分譲では無く賃貸住宅なので、人の入れ替わりが激しいのも、地域の繋がり作りを難しくさせて居る。
 それでも、一緒に何かをする事によって、これ迄の「私達」に代わる、日本人も中国人も共有する、新しい「私達」と云うアイデンティティが芝園団地に芽生える事を期待して居る。







 グローバル化と国民国家
 
 芝園団地の日本人住民と米国のトランプ支持者の言葉に共通する「私達」と云う思い。それは、一国に留まら無い世界中で構造変化が起きて居る事を意味して居る。我々が今直面して居るのは、グローバル化やテクノロジーの進歩に伴う急激な変化と、国民国家と云うシステムの間で生じる摩擦と言って好い。
 近代の国民国家は、共通の文化を持つ共同体を基礎として作られて来た歴史的な経緯がある。国民国家の下での「国民」と云う概念は、民族や文化的な共通性を前提として来た。だが、現代の国家の多くはより複雑で多様だ。国籍を持たずに定住する人々も居れば、本人や親が外国出身で、元々居た民族とは異なる国民も居る。それは日本においても例外では無い。

 芝園団地にIT技術者の中国人住民が多いのは、最早日本人だけではIT業界に必要な労働力を賄え無いと云う現実があるからだ。又、芝園団地の自治会には数年前から中国人役員が居るが、今年からは西アフリカのガーナ出身で日本に帰化した住民も役員に加わった。
 処が、国民国家と云うシステムは変わら無いままグローバル化で国境の垣根が低く為る現状では、国家と国民が、自国や「私達国民」の利益を守ろうとする意識が強まる。

 更に、先進国の低成長と格差の拡大と云う要因も重なる。経済的なパイの拡大が止まりつつ在る中で、現状に不満を抱く人々は、何故「私達国民」よりも、後から遣って来た人々や外国の為に、限られたパイが分配されるのかと憤る。
 こうした複合的な要因の結果が、先進国に広がる反移民感情と言える。「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ氏は、グローバル化と国民国家の「ズレ」が生んだ、今の時代を象徴する存在でもある。

 第二次世界大戦後の世界は、紆余曲折が在ったとは言え、自由で開かれた国際秩序を志向して来た。自由貿易の推進はその代表例だ。今世界で起きて居る事は、グローバル化と共に、国民国家と云うシステムやその下でのアイデンティティも新しい形に為ろうとする「産みの苦しみ」なのか。
 それとも世界は再び、国家や勢力圏毎に、壁で隔てられた時代に戻って行くのか。東京郊外の一団地である芝園団地も又、その岐路の最前線に立って居る。


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               大島 隆     以上







 【管理人のひとこと】

 この様な或る意味気楽なレポートは、時には暇つぶしには持って来いの話題でもある。政治・経済のドギツイものとは異なり、普通に観られる日常的な風景なのだ。それにしても、川口と云う都に近接したブロックでの「中国人・外国人」の生活がこれ程までに身近に浸透している現実を知ると、新たな時代へと急激に動いているのを感じない訳には行かない。
 管理人も若い時には、千葉県の松戸を除くと蕨(わらび)・南浦和・北浦和・・・と京浜東北線を利用するエリアに居住し働いた。通勤のラッシュには悩まされたが、地方出の者に取って、都内で働くには当時は便利でもあったのだ。

 何とかして彼等が日本の生活を満喫して欲しいと願うのだが、如何せん我が国はデフレのど真ん中で喘いでいる。彼等が満足する環境には無いと思うのだが・・・何せ日本は全く成長する処が、年々疲弊している最中なのだ。先ずは最低2パーセントのインフレを達成する経済策を早急に取ら無くては、我が国民は生き残れないのだ。
 全ては、政治に懸って居る。今回の国会で野党が何処に照準を当てるのか・・・山本太郎氏が言われる通り、そこに政治に対する本気度が現れるだろう。








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ヒンドゥー教徒と仕事をする時 カーストは話題にして好いのか?




 ヒンドゥー教徒と仕事をする時 カーストは話題にして好いのか?


            〜ダイヤモンド・オンライン 10/10(木) 6:01配信〜


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 〜アメリカ・ヨーロッパ・中東・インド等世界で活躍するビジネスパーソンには、現地の人々と正しくコミュニケーションする為の「宗教の知識」が必要だ。
 しかし、日本人ビジネスパーソンが十分な宗教の知識を持って居るとは言えず、自分では知ら無いうちに失敗を重ねて居る事も多いと云う。本連載では、世界94カ国で学んだ元外交官・山中俊之氏による著書『ビジネスエリートの必須教養 世界5大宗教入門』(ダイヤモンド社)の内容から、ビジネスパーソンが世界で戦う為に欠かせ無い宗教の知識をお伝えして行く〜



 




 「ヴァルナ」と「ジャーティ」
 
 「カースト」とは、階層を意味するポルトガル語。インドのサンスクリット語にカーストと云う言葉はありません。「ヴァルナ」と云う四つの身分と「ジャーティ」と云う細かい身分の区別があり、その二つを合わせて西欧の人々が「カースト制度」と呼んで居るのです。

 好く知られている四つのヴァルナは、バラモン(司祭)・クシャトリア(王族・軍人)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)です。更にシュードラの下には「ダリット」と云うカーストを持た無いカースト制度の外に位置付けられる最下層身分の人々が居ます、所謂昔で云う不可触民。
 アウトカースト・アンタッチャブル等多様な言い方がありますが、ダリットという言い方が一番差別的な響きが無い様で、最近の英語メディア等ではダリットと云う表現が増えて居ます。バラモンがトップですが、クシャトリアが事実上の実権を握った歴史があり、今もエリートや富裕層等にクシャトリアは多く居ます。

 「ジャーティ」には細かな分類があり、その人がどんな職業に就くべきかが定められて居ます。何と二〇〇〇から三〇〇〇種類あると云うのですから驚くべき細かさです。ヒンドゥー教徒の人間関係はジャーティの中にあり、人付き合いも婚姻も原則としてこの中で行われて来たのです。

 




 ヒンドゥー教徒と仕事をする時、カーストは話題にして好いのか?

 一般論としてカーストの問題に付いてインド人に聞くと「嫌、今はそれ程問題ではありません」と大体は答えます。カーストによる差別はインド憲法で禁止されて居ます。カースト差別禁止の歴史で大きな貢献をしたのがダリット出身のアンベードカル。インド独立後にガンディー首相の下で法務大臣を務め、インド憲法の制定に尽力した人物で、カースト差別禁止を憲法の条項に入れました。

 又「インドの人口の何%がバラモンで……」と云う割合は明確には判って居ません。しかし、日本のビジネスパーソンが忘れてはいけ無いのは、大半のインド人の中では「自分はこのカーストに属して居る。だからこの人は上で、この人は下だ」と云う心理が決して消えて居ないと云う事です。
 例えば、私のヒンドゥー教の友人は、折に触れ「嫌、僕はクシャトリアだから」と若干の誇りを込めて口にします。これは彼が特殊なのでは無く、ヒンドゥー教徒が持つ一つの感覚。インドでは「アノ人はこのカーストだ」と云うのはお互い判って居て、カーストに応じてそれ為りに距離を取って居る様です。憲法上は禁止されて居ても、実際には結婚等多方面にわたって今もカーストの影響が及んで居るのです。

 もしも貴方がヒンドゥー教徒と仕事をする事に為ったら、相手に「貴方のカーストは何ですか?」と尋ねるのは余りにも失礼で危険です。しかし、全く知らずに居ても何かの拍子でトラブルの元に為るかも知れません。もし可能であれば、同僚のヒンドゥー教徒の信頼出来る人に、他の人達のカーストに付いて、それと無く注意すべき事項を確認すると好いでしょう。

 数学科からIT企業が脱カーストへの道?  

 カースト制度も変わりつつ有ると知って置く事も大切です。近代以降はダリットで在っても、頭角を現すチャンスがあります。ダリット出身の大統領(1997年から2002年迄大統領を務めたナラヤナン)も居ますし、モディ首相も下の方のカーストの出身だと言われて居ます。
 東京裁判のパール判事も、低いカーストの出身で可なり貧しい家に育ちました。しかし、余りにも優秀なので「この子を学校に行かせよう!」と呼び掛けたカルカッタの大金持ちの資金で勉強し、裁判官に為ったそうです。インドの良い意味での人材の流動性を感じる話です。現在は、ダリットの子供への奨学金制度を設けて居る州もあります。

 ヒンドゥー教徒は公的な制度以外に色々な形で機会と資金援助を得る事が出来ます。何故ならヒンドゥー教には「大いに稼いで盛大にお布施をする」と云う考え方があるからです。5大宗教全てが、貧しい人や恵まれ無い人への援助を説いて居ますが、ヒンドゥー教は特に「沢山稼げば沢山寄付出来る」と云う点を重視して居ます。
 こうして優秀な若者はインド工科大学に行ったり、アメリカの大学に留学してグーグルに入ったりして、事実上の脱カーストを果たして居ます。

 更に、ジャーティは現代の職業とは若干ズレがあります。例えばIT企業は存在すら無かったので、ジャーティでの区分はありません。だからコソ、インフォシス、ウィプロ、タタ・コンサルタンシー・サービシズと言った企業が、カーストに関係の無い実力本位の雇用を実現して居ます。
 今はダリットが政治・経済の要職に就く事も珍しくは無く為りました。又、ダリット(指定カースト)と先住民族(指定部族)に付いては、教育、公務員としての雇用、議会の議席において一定枠が確保される制度もあります。ダリットの権利向上を掲げる政党もある位ですから、今後もカーストの下の方の人の権利は拡大して行くでしょう。

 差別や偏見も根強いですが、それで全てが決まる訳では無く流動性もあり、優秀な人は活躍し得る――これが21世紀のカースト制度のリアルだと思います。


 




 ヒンドゥー教徒の結婚と女性の活躍

 イスラム教徒の男性は家の購入等経済的な面で結婚するのが大変なのですが、インドは逆で、女性側に持参金を準備する事が求められます。ヒンドゥー教徒の結婚式は時間もお金も掛けて入念に準備されるのが一般的で、年収の何倍も掛けた式を行います。日本と比べると可なり派手で、何日も続く事がありますので、招待された場合は覚悟が必要です。
 また、ヒンドゥー教はヴィシュヌ神の妻に当たるラクシュミー等、女神も沢山居るのですが、実際には性暴力も多く、女性差別が今も根強く残って居ます。その為インドと取引がある日本企業の方に「女性社員がインドに赴任するのはどうでしょうか」と云う質問を受けますがこれは事情が異なります。

 インドにも女性経営者は大勢居ますし、女性の総理大臣も居た訳ですから、女性であるが故に社会に関われ無いと云う事ではありません。インドの女性とビジネス上の取引があった場合、特に「女性だから」と意識し過ぎ無い事が大切でしょう。
 イスラム教と同じくヒンドゥー教でも、日本人男性は相手が女性である事を意識し過ぎて上手く関係を構築出来無い事がある様に感じます。日本人女性もインドは男性社会だからと考え過ぎず、ドンドン赴任して成果を上げて貰いたいものです。



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              山中俊之    以上


 



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2019年10月10日

氷河期到来・飢餓の発生・死者1億人超 もし印パ戦争で核が使われたら




 氷河期到来・飢餓の発生・死者1億人超 もし印パ戦争で核が使われたら


            〜BUSINESS INSIDER JAPAN 10/10(木) 12:10配信〜


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 パキスタンは2014年11月13日 核攻撃が可能な中距離弾道ミサイルを非公開の場所から発射した





       10-10-41.jpg パキスタンのイムラン・カーン首相

 〜パキスタンの首相はこの程、カシミール地方を巡ってインドと戦争に突入するかも知れ無いと警告した。両国ともに核兵器を保有して居る〜


 新たに発表された論文では、インドとパキスタンが核戦争に突入した場合に何が起こるのか、シミュレーションが行われて居る。その結果、死者数は1億2500万人に上り、地球の気温は5度低下、農業が困難に為ると予測された。更に、この惨事により世界規模の飢餓が引き起こされる可能性があると、研究者は考えて居る。

 パキスタンとインドは、両国が領有権を主張するカシミール地方を巡って、3回に渉って戦争をして来た。パキスタンのイムラン・カーン(Imran Khan)首相は、この程両国が新たな戦争に突入する可能性の有る事を示唆した。
「何れ核保有国同士が対決する局面が訪れる可能性がある」と、カーン首相は9月の国連総会で、カシミール紛争に付いて言及した。

 インドとパキスタンの両国が保有する核兵器を合わせると、全世界の2%を占める。核弾頭保有数はインドが140発、パキスタンが160発と推定されて居る。だが両国は、更なる軍拡競争を繰り広げて居る。インドとパキスタンが核戦争に突入した場合、何が起こるのかを予測した新たな論文によると、2025年迄に両国の核弾頭保有数は夫々250発に為るだろうとして居る。
 極端なシナリオではあるが、核戦争に為った場合、真っ黒な雲が空を覆い、気温は劇的に低下、主要な農業地帯は作物を生産する能力を失い、世界的な飢餓を引き起こすと論文に記されて居る。「一瞬にして気候が変わるだろう」と論文著者のアラン・ロボック(Alan Robock)氏は、Business Insiderに語った。

    10-10-42.jpg アラン・ロボック(Alan Robock)氏

       「人類の文明化以降の歴史で、この様な事は未だかつて起きて居ない」

 同氏は論文の中で、核戦争が発生した場合の死者数は最大1億2500万人に上ると推計した。

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 核兵器は益々強力に

 ロボック氏は、論文で想定した状況が現実に為る事は無いだろうが、全く有り得ない訳でも無いと言う。そこでパキスタンとインドの核戦争による影響に付いて仮説を立てる為、研究者等は軍事専門家に助言を求めた。「勿論、実際に街を燃やして何が起こるか確かめる訳にはいか無い」とロボック氏。「殆どの科学者は加速器や試験管で実験を行う。自然が私達の実験室なので、モデルを用いて計算を行った」
 論文では、ドチラの国が先に攻撃を仕掛けるかの予想はして居ない。だが、仮にインドがパキスタンの主要都市の破壊を試みた場合、150発の核兵器が必要と為る。この推計値は、幾つかの核兵器がターゲットを外したり不発だったりする事を想定し、100発がパキスタンで爆発すると云うモデルに基づき算出された。

 一方、パキスタンがインドの主要都市を攻撃する場合、150発の核兵器がターゲットに命中する必要があると推計された。もしこれ等の核爆弾が15キロトン級(広島に投下された「リトル・ボーイ」と同じ)であれば、死者数は5000万人に為ると推計される。
 だがロボック氏によると、現在アメリカが保有する核兵器の威力は100〜150キロトン級だ。同氏がインド・パキスタン間で核戦争が勃発するとシミュレーションした2025年迄に、両国はよりパワフルな兵器を獲得して居るだろう。そこで論文では、両国が100キロトンの核兵器を用いた場合、死者数は約1億2500万人に為ると推計された。

      10-10-43.jpg インドのモディ首相

 核戦争が起これば、地球の気候は壊滅

 核兵器の爆発は熱を生み出す。建物は燃え、風によって炎が広がったり、或は炎が周辺の空気を巻き込み、火災旋風として知られるより猛烈な火災を引き起こしたりする。何れにせよ、膨大な量の煤煙が大気中に放出されると論文には書かれて居る。
 この煤煙には、ディーゼルエンジン等から排出される真っ黒な物質「ブラックカーボン」が含まれる。この物質は、対流圏(地球の大気の最下層)を通過して成層圏へと放出される。その後、数週間でブラックカーボンの粒子は世界中に拡散される。

 これが現実と為ると「成層圏における史上最大規模の煤煙の拡散と為るだろう」とロボック氏は述べた。煤煙は成層圏に5年程留まり太陽光線を遮る。それによって地球の平均気温は最大5℃低下するとシミュレーションは示して居る。気温は「氷河期並み」に低く為ると云う。太陽から受けるエネルギーの減少に伴い、降雨量も最大30%減少する可能性がある。
 気温と降雨量が正常に戻るには10年以上掛かるだろうと研究者は考えて居る。それ迄の間、世界中、特にインド・中国・東南アジア・インドネシア・南米の熱帯地方、そしてアフリカの農家は作物の生産に苦戦する事に為る。海洋生態系全体も壊滅的状態と為り、各地の水産業も大打撃を被るだろう。

 詰まり、核戦争が世界中で大規模な飢餓を引き起こすと論文で結論付けられた。「核兵器からの直接的な影響は勿論悲惨だが、食糧供給への影響は更に深刻だろう」とロボック氏は述べた。
 同氏がこの様なモデルでシミュレーションを行ったのは今回が初めてでは無い。2014年には、インドとパキスタンが「リトル・ボーイ」級の原子爆弾を、夫々50発ずつ投下した場合に何が起こるのかを予測した論文を共同執筆した。

 この様な「制約」のある核戦争のシナリオでも、破壊されたオゾン層を通して人々は有害な紫外線に晒され、更に地表の気温低下は25年以上も続く可能性があると、ロボック氏は明らかにした。だがこの場合、排出されるブラック・カーボンの量は新しいシナリオのモデルに全く及ば無い為、気温低下はそれ程深刻には為ら無いだろう。


 




 我々はこれ迄幸運だった

 ロボック氏によると、この様な地球規模の気象災害は、過去に発生した事があるが、人間によって引き起こされた事は一度も無いと云う。同氏は、今回シミュレーションした核戦争と、6600万年前に恐竜の絶滅を引き起こした天体衝突を比較。
 天体衝突では、膨大な量の硫黄が大気中に放出され、地球規模で急激に気温が低下した。だがそれとは異なり、核戦争は避ける事が出来ると同氏は強調した。「この様な惨事はアラユル原因で起こり得る。だが核兵器が存在し無ければ、核戦争が起こる事も無い」とロボック氏は述べた。

 この論文で重要なのは、国家同士が核の脅威で威嚇し合う事は、自らの安全性も脅威に晒す事に為ると云う点だと同氏は言う。更に、2国家間の核戦争は「爆弾が投下された場所だけで無く、世界中の人々に影響を与える」と付け加えた。
 広島への原爆投下以降「これ迄の74年間、我々は幸運だった」とし「だがこの幸運も何れ尽きるかも知れない」と述べた。


 原文 If India and Pakistan have a nuclear war, scientists say it could trigger Ice-Age temperatures, cause global famine, and kill 125 million people 翻訳 仲田文子 編集Toshihiko Inoue

          Aria Bendix
     以上


 


       

 【関連記事・歴史】インドとパキスタンは何故対立して来たのか?

             〜BLOGOS記事より参照〜


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 インドとパキスタン両国は独立から現在迄対立を続けて居る

 最大の理由は宗教間の対立だが、中東等と同様に、宗主国イギリスが民族対立や宗教対立が起き易くして強国に為ら無い様にしたのも大きな理由の一つだ。では具体的にどう対立が起こり現在まで続いて居るのか、その経緯を見て行きたい。

 イギリスがインドを植民地化

 イギリスによって資産が搾取され大飢饉が発生

 15世紀末にポルトガルやオランダがインド亜大陸(インド・パキスタン・バングラデシュ等がある地域)に進出、17世紀後半にはイギリス・フランスが植民地を巡って争い、1757年プラッシーの戦いでイギリスが勝ち東インド会社を通じて植民地化に成功する。
 東インド会社は「会社」と言っても今の会社とは異なり、兵器や兵隊を備えた軍隊の様なものである。そして武力によって植民地化されたインドは、イギリス向けの綿花や茶、中国向けのアヘン等の生産を強制され、インドの綿織物産業は破壊、自分達が食べる穀物も買わ無ければ為ら無い状況に追い込まれる。更に、地主に土地の所有権を認める代わりに「地税」を徴収しインドから資産を吸い上げた。こうした状況下で、度々大飢饉が発生し、1877年には大飢饉で約500万人が餓死したと言われて居る。

 一方、こうした植民地支配に不満を持った住民が何度も反乱を起こし、1857年にはインド人兵士が大反乱を起こした。この反乱はイギリスによって制圧されるが、これを切っ掛けに、インドの支配が東インド会社からイギリスの直接統治に変わった。
 イギリスの内閣には「インド担当国務大臣」が設けられ、インドにはイギリス国王の代理人であるインド総督が派遣された。これによって植民地支配は完成された。

 イギリスが宗教間の対立を利用してインドを支配

 ヒンズー教徒を中心とする「インド国民会議」イスラム教徒を中心とする「全インド・ムスリム連盟」を結成

 インド亜大陸にはインド以外に数多くの藩王国が存在したが、重要な場所はイギリスが直接統治し、藩王国はそのママ藩王に支配させる分割統治を行った。一方、イギリスに対してインド国民の不満が向か無い様に、ヒンズー教とイスラム教の信者が互いに対立する様仕向けた。
 そもそも、ヒンズー教とイスラム教は考え方が大きく異なる。ヒンズー教は多神教で偶像崇拝を行い、牛は神聖な動物で牛肉を食べる事は禁止されて居る。一方、イスラム教は一神教で偶像も禁止、牛肉は食べるが豚肉は不浄な動物だとして食べる事を禁止されて居る。

 そして、急増する反英勢力への緩和策として、1885年にインドの知識人・中産階級を集めて、穏健的な団体「インド国民会議」をインド総督の承認のもと設立した。しかし、元々4日間だけの活動予定だったが、インド国民会議は反英運動へと展開した。
 これに対し、イギリスはヒンズー教が中心的であったインド国民会議に対抗する組織を作ろうと、1906年に全インド・ムスリム連盟を結成した。だが、この連盟も次第に反英に変わり、自治政府の樹立運動へと展開して行く。







 インドとパキスタンに分かれて独立

 ガンディー率いる「インド国民会議」は統一国家を目指したが、対立する「全インド・ムスリム連盟」はイスラム教徒の国を作る事で決議
 第一次世界大戦後、インド国民会議に加わったマハトマ・ガンディーを中心に非暴力の抵抗運動を進め、ガンディーはヒンズー教徒・イスラム教徒で一つの国家として独立させ様とした。一方、全インド・ムスリム連盟は1940年にイスラム教徒の国を作る事で決議し、1947年、インドとパキスタンに分かれて独立した。

 だが、地域によってはヒンズー教徒とイスラム教徒が混在したママであった。こうした状況に対し、相互理解を深め様としたガンディーは、ヒンズー教過激派から反感を買い暗殺されてしまう。
 ヒンズー教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへ、夫々迫害を逃れて移動しようとするが、その間に各地で衝突が起こり、約100万人が亡く為ったと言われて居る。これによって更に対立は深まる事に為る。


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 第一次インド・パキスタン戦争が勃発

 イギリスが国境を定めず、藩王と住民で宗教が異なるカシミール地方で対立が続く

 インドの北西部にあるカシミール地方は、藩王(マハラジャ)がヒンズー教徒、住民の77%がイスラム教徒と云う複雑な状況に在ったが、藩王はインドへの所属を決めた。だが、パキスタンは自国の領土だと主張し、1947年に義勇軍をカシミールに送り込む。
 これに対し、藩王はインドに助けを求め、インドも軍を送りカシミールで両軍が衝突する事に為った。これが第一次インド・パキスタン戦争である。この戦争は1949年国連が仲介し停戦と為ったが、この時カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンが支配する様に為った。

 アメリカや中国が介入

 中国・インド国境戦争が勃発、インドの核開発の切っ掛けに

 一方、冷戦の中で中立の立場を取って居たインドに不満を抱いたアメリカは、パキスタンに近寄り1954年にはパキスタンと相互防衛援助協定を結ぶ。又、1959年にはチベットで大規模な反乱が起き、ダライ・ラマ14世をインドに亡命させた事に対して中国が激怒し、1962年には中国がカシミール地方のチベットと隣接したラダク地域を占領する。
 その後、中国・インド国境戦争に迄発展し中国の勝利に終わった。侵攻を始めた時は丁度キューバ危機が起こって居る最中であり、大国が介入して来ないタイミングを狙ったものだと思われる。

 この後、アメリカはソ連・中国に対抗する為インドに軍事援助する事に為り、中国はパキスタンを援助する事に為った。結果的に、この中・印戦争はインドの核開発の切っ掛けに為ったと言われて居る。(1974年にインドは核保有を宣言)


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 東パキスタンがバングラデシュとして独立

 経済格差が激しく、民族も異為って居た東西パキスタンが第三次印パ戦争を切っ掛けに分離

 1965年には中国の侵攻に影響を受けたパキスタンが停戦ラインを越え、第二次印パ戦争が勃発し、アメリカやイギリスの停戦圧力等で停戦する。
 一方、パキスタンは東西で経済格差が激しく、西はアーリア系パンジャブ人(イラン系に近い)東はモンゴル系ベンガル人と、民族も異為って居た。こうした状況で、東パキスタンでは、西パキスタンの中央政府の支配に対して自治権獲得運動が激化、1969年にパキスタン中央政府軍が鎮圧に出動し東パキスタンと武力衝突。
 東パキスタンはインドの援助を得て全面戦争(第三次印パ戦争)に発展し、パキスタン中央政府軍は完敗、1971年に東パキスタンがバングラデシュとして独立する。

 インドとパキスタンが核を保有、緊張が高まる

 インドは中国に対抗する為に核を保有し、パキスタンはインドに対抗する為核を保有

 その後もカシミール地方を中心に対立は続き、1974年と1998年にはインドが核実験を行い、パキスタンも中国の支援を受けて1998年に核実験を行う等、緊張は高まり続けた。
 1980年代には、インドでヒンズー至上主義が台頭し、ナショナリズムを掲げたインド人民党(BJP)が1998年に政権を獲得して居る。更に、パキスタンがカシミールの反乱勢力を支援した事で、その支援を受け様と、ラシュカレトイバやジェイシモハメド等のイスラムテロ組織がカシミールへと流れ込む。
 その後、こうしたイスラム過激派がカシミールでのテロの主役に為って行く。更に、非常に厄介な事に、こうした過激派組織に集まって来たのは、カシミールにおけるイスラム教徒の自治政府確立と云う大義に共感を抱く人物では無く、残虐性や宗教的狂信主義に駆られた若者達だった。こうして徐々に現地住民からの支持も失われて行く。

 しかし、核保有によって自信を着けたパキスタンは、1999年に再びインド側に侵攻し、印パ間の衝突(カルギル紛争)が発生。
 又、パキスタンでは何度もクーデターが起きる等、内政も不安定な状態である。2001年にはイスラム過激派がインド国会議事堂を襲撃、2002年にもイスラム過激派がカシミール地方で停戦ラインを越えてインド側を襲撃、核戦争の瀬戸際まで行った。この時、インドとパキスタンに駐在して居た外国人は退避勧告を受けて国外に逃れて居る。(日本の外務省も日本人に退避勧告を出した)
 そして、この頃からアルカイダがパキスタンに逃れ、カシミール地方の過激派組織に合流して居る。オサマ・ビンラディンが殺害されたのもパキスタンである。

 衝突は未だに相次いでいるが、関係改善に向けた動きも

 2015年12月には12年振りにインドのモディ首相がパキスタンを電撃訪問

 その後は停戦ラインを行き来できる場所も出来、関係が改善したかに見えた。しかし、2008年に約170名が殺害されたムンバイ・テロ事件が起き、パキスタン政府はテロリスト集団への支援を否定したが、インドとパキスタンの緊張関係を再び悪化させる事と為った。
 又、2006年にアメリカがインドに原子力技術を供与する協定を結ぶ一方で、パキスタンはウラン型原爆だけでは無くプルトニウム型原爆の開発を進めて居ると言われて居る。

 だが、関係改善に向けた機運も高まって居る。2015年12月、12年振りにインドのモディ首相がパキスタンを訪問しシャリフ首相と会談した。又両国の国家安全保障担当者がタイのバンコクで会談する等、武力衝突はありながらも対話は続けて居る。モディ首相はヒンズー至上主義者で就任当初は関係悪化が懸念されたが、今後は改善して行くかも知れ無い。


                 以上


 




 【管理人のひとこと】

 この記事を目にして、一瞬心が凍えた思いだった。私達は遂、米中対立の延長線での大国間での核戦争を想像するが、インドも大国とは言え、米中以外にも世界での対立は無数に存在すると言う現実を忘れ勝ちに為って居る。ロシアがコッソリとクリミアを併合した様な、世間の目に隠れた形で決定的な紛争が現実として起きてしまうのである。
 この様に、両国の紛争が止まら無い場合、核兵器を持ちサヱし無ければ通常兵器の紛争で終わるかも知れない。互いに数発のミサイル発射で腹の虫が修まる場合もあり、無論、犠牲は覚悟し無ければ為ら無いが、その数は桁数が随分と異なるものだろう。
 核兵器廃絶に関して我が国はその議題に加わら無い態度を示して居るが、果たしてこのママで好いのだろうか・・・他人事では無いとこの記事は示唆して居る。核戦争が起きれば、その影響は地球の歴史を変える程の変化をもたらす。地球上の全人類に関する重要な議題なのだと警告して居る。

 それにしてもインドとパキスタンの関係は、アメリカと中国を交えて何とも複雑な関係でコンガラカッて居る。そこにイスラム過激派が加わり暗澹(あんたん)とした状況だ。素人の私達には一度読んだだけでは理解出来無いものだ。
 それにしても宗教とは恐ろしいもので、民族・国家・集団も面倒だが、宗教は国境を越え民族を超え、そのうえ一族や家族を超えて存在する。全ての対立の源に為る感がする。私達は無宗教国家・多神教の何でも神にするのが上手な国民だと言われるが、ツクヅク日本の好さを感じる。日本に生まれて好かったのはこれ位のものだろうか。


 















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