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2019年10月22日

竹中平蔵「日本の1000兆円の借金は問題ない」



 竹中平蔵「日本の1000兆円の借金は問題無い」

           〜プレジデントオンライン 10/22(火) 15:15配信〜

            10-22-20.jpg

               数字で考えられる頭が欲しい


          10-22-8.jpg 竹中平蔵


 日本の借金はヒドクは無い

 この本を書いた高橋洋一氏は、過つて私が小泉内閣時代に郵政民営化に取り組んだ時補佐役として助けて呉れた仲間であり、東大の数学科を出て大蔵省に入った異才です。彼いわく、文系の人は数字に苦手意識があるけれども、実は数字って細かい部分を見る必要は一切無い。大きな数字の枠組みを組み合わせるだけで、物事をクリティカルに考える事が出来るんです。

 「大きな枠組みで考える」と云う事を具体的に説明しましょう。日本はGDPの2倍位の債務を持って居る財政赤字の国だと言うけれども、実はGDPの1.5倍位の資産を持って居るんですよね。そうすると日本の負の資産と云うのは言われて居る程大きくは無いんです。
 だから、高橋氏も私も消費税の拙速な引き上げにはズッと反対して居ます。そんな事より売れる資産が沢山あるから売れと。考えてみれば、政府はその資産を使って特殊法人を作って、そこに沢山天下らせて居るじゃないか。そう云った事を全部見抜く為に、大きな数字と云うのが役に立つと云う事なんです。

 大きな数字を理解する頭を持てば好い

 勿論、それをもっと細かく分析する方法もこの本には書かれて居ますが、私は全体として流れて居る大きな数字を理解する頭を持てば好いと思います。
 数字と聞くと、恐らく多くの人は「何だか細かいもの」と思うから嫌がるんですよ。本当は細かい数字なんか全然必要無くて、大きな枠組みで考えて私達の世の中がどんな風な仕組みで回って居るのかを考えれば好い。企業に置き換えると、自分の会社は大体何億円位収入があって、何億円の利益が出て居るのか。これは他の会社に比べて何%高いか低いか。それ位で考えれば好いと云う事ですよね。

 本書の中では次の様な言葉で書いてあります。
 〈負債を持つ事には何の問題も無いかと云うとそれは違う。為らば、資産が多ければ問題が無いかと云う都それも違う。重要なのは「負債と資産のバランス」である〉
 〈そして、これも当たり前の話なのだが「資産」から「負債」を引くと「純資産」と為る。「資産」の大きさや「負債」の大きさが問題では無く「純資産」の大きさ=「純資産がプラスかマイナスか」が問題なのである〉

 
 これを踏まえて政府の貸借対照表(BS)を見てみると、財務省(旧大蔵省)が1980年代から主張して居る「日本は今1000兆円の借金がある」と云う論も徒に不安を煽る為の話だと云う事が見抜けます。
 2017年度の政府のBSでは、負債の部の「公債」が約966兆円「政府短期証券」の約76兆円と合わせて「借金1000兆円」と言って居るのです。

 しかし、先程述べた通り重要なのは資産と負債のバランスです。資産から負債を引いた純資産は、約マイナス568兆円に為ります。この数字は政府の話として見れば問題の無いレベル。借金額だけを強調し、増税を推し進める事がいかに馬鹿気て居るかが判るのです。


 細かい数字は無理して読み取ら無い


 竹中 平蔵(たけなか・へいぞう) 経済学者 東洋大学国際学部教授 1951年 和歌山県生まれ 一橋大学経済学部卒 現在はパソナグループ会長 慶應義塾大学名誉教授も務める 博士(経済学)

   経済学者 東洋大学国際学部教授  竹中 平蔵  構成=万亀すぱえ   以上







 【関連報道】元財務官僚 「費税引き上げは本当は必要無い」 「1000兆円の借金」と云う大ウソ

      
   〜PRESIDENT Online  2019/09/18 高橋 洋一 高橋 洋一政策工房代表取締役会長〜

      10-22-9.jpg 高橋洋一氏

 〜消費税の引き上げが来月に迫った(2019/09/18の記事) 政府は「国債返済の為に増税が必要だ」と説明して居る。しかし、元大蔵省の橋洋一氏は「政府のBS(バランスシート)を読み解くと、実は増税の必要は無い事が判る」と云う〜

 ※本稿は、橋洋一『武器になる数学アタマのつくり方』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。


 「国の借金1000兆円」を冷静に読み解いてみると

「日本は今1000兆円の借金を背負って居る。国民一人当たりに直すと800万円に為る。皆さん、こんな借金を自分の子や孫に背負わせて好いのか。借金を返す為には税が必要だ」と言った話は誰もが一度は耳にした事があるだろう。財務省(過つての大蔵省)が1980年代から繰り返し言い続けて来て居る事である。

 1000兆円の借金とは何を指して言って居るのだろうか。その正体と、実はココには大きなウソがあると云う事も、政府のバランスシートを見れば直ぐに判る。経営者が企業を運営する様に、政府は国を運営する。当然、政府にもBSとPLがある。政府の財務書類は財務省のウェブサイトで簡単に入手出来る。先ず、この事を知ら無い人が多過ぎる。

 政府のBSを最初に作ったのは私である。単に実際の政策運営上必要だったからで、1994年、大蔵省に居た時の事だ。その時には大蔵省内部で「そんなものは出すな!」と云う話に為り公表は見送られた。2004年頃、小泉純一郎総理(当時)に「政府のバランスシートはこの様に為ります」と私が話すと「直ぐに出せ!」と云う事に為って今に至って居る。詰まり、政府のBSは2005年からズッと公開されて居る。インターネットで閲覧出来る様に為って居る。

 政府のBSを読む上で先ず知って置く必要があるのは「企業は負債よりも資産の方が多い程安泰だが、政府のBSの場合は資産よりも負債の方が一寸大きい位でも健全だ」と云う事である。詰まり政府には「利益剰余金」は存在しない。政府のBSの「純資産」は多くの場合マイナスである。これは世界のどの国も同じ事だ。それでも余程大きなマイナスで無ければ破綻しない。これは歴史の事実だ。

 際立った数字だけを拾い、細かい数字は読ま無くて好い

 2019年(平成31年)1月29日に財務省のウェブサイトで公開された平成29年度の国の財務書類(一般会計・特別会計)から、政府のBSを見てみよう。BSには細かい数字が並んでいるが、際立った数字だけを読んで行き、その意味が判れば好い。財務書類を読み熟すには、数字を正しい単位で声に出して読むのがコツである。

 BSやPLに書かれている数字は億単位・兆単位であり、キリの好い位以下が切り捨てられて書かれて居ない。(単位・百万円)とあれば、数字の最後の位が「〇百万円」と為る。「123、456」とあれば「1234億5600万円」の事である。「この項目の数字が大きいな」と云うだけではダメで「この項目の数字が大きい、約1235億もある」と言えて初めて数字が読めた事に為る。これに慣れるには、数字を正しい単位で声に出して言うのが一番だ。

 平成29年度の政府のBSにおいて、負債の部で際立った数字は「公債」である。966兆8986億2800万円。これが悪名高い「借金1000兆円」の正体だ。ひとつ上に「政府短期証券76兆9877億9300万円」がある。これと合わせる事で堂々と「借金1000兆円」と騒いで居るのである。借金と云う事で言えば、更に「借入金31兆4434億4900万円」を足したものが日本政府の借金である。

 重要なのは「資産」と「負債」のバランス

 「借金の額だけを見て批判するのは的ハズレである」と云う事は既に述べた。重要なのは負債総額では無く〈資産と負債のバランス〉である。
 先の日本政府のBSから資産合計を見てみよう。670兆5135億2200万円だ。負債合計は、1238兆8753億1100万円である。資産合計から負債合計を引いた資産・負債差額を出せばバランスが判るが、この数字は計算する間でも無くBSに書いてある。568兆3617億8800万円である。

 資産・負債差額が既に書いてあるのだから、それだけ見れば好いではないかと思われるかも知れない。しかし、大きく際立った数字の勘定項目を確認するクセは着けて置いた方が好い。そうしたからこそ「政府の負債の殆どは公債だ」と云う事も判ったのだ。
 「借金1000兆円」と騒ぐ人達は〈資産・負債差額568兆3617億8800万円〉が見えて居ない。何度も言う様に負債の額が問題なのでは無い。「日本政府の純資産は約マイナス568兆円」が正しい言い方なのである。

 



 「子会社」である日銀のBSも連結させてみると

 問題は「日本政府の純資産は約マイナス568兆円」をどう見るかと云う事だ。568兆円は、一般人の感覚では途方も無い額だが、政府の話として見れば問題の無いレベルの数字だ。更に政府は色々な、いわば「子会社」を持ちグループ企業と為って居る。日本銀行はその代表的なものだ。詰まり、日銀のBSを連結させて好いのである。

 そこで、本書執筆時点で最新である2019年2月10日現在の営業毎旬報告による日銀のBSを見てみよう。日銀は10日置きにデータを公表している。日銀のBSは(単位:千円)だ。「123、456」は「1億2345万6000円」である。ココでも数字を声に出して読むクセを着けて置こう。
 日銀には色々な「資産」があるが、際立って大きい数字は「国債」の473兆877億9235万8000円である。

 「お金」が日銀に取って負債である理由

 日銀の「負債」で最も大きいのは「当座預金376兆8004億9798万円」次に大きいのが「発行銀行券106兆5571億5865万3000円」だ。当座預金とは民間金融機関の日銀当座預金、銀行発行券とは、発行された日本銀行券、詰まり紙幣の事である。両方とも、言うまでも無いがお金の事だ。
 お金が何故日銀の負債に為るのかと言えば、お金は、会計的に言えば「日銀が発行する債務証券」だからである。会計の用語はこの様に、普通の人々が日常生活の中で使って居る言葉のイメージを超えて居る。だから学習が必要なのだ。

 日銀は、民間金融機関が保有している国債を買い、その代金を民間金融機関の当座預金に振り込むか、日銀券詰まり紙幣を発行して渡す。その価値を保証するのは発行元である処の日銀である。詰まり「お金」は日銀が発行する「証文」である。従って「発行銀行券=日銀券=紙幣」も「当座預金」も日銀の「負債」と為る。
 この様に、BSが読めると日銀がどんな仕組みの金融機関であるかと云う事も理解出来る様に為る。凡百の評論家の解説を読むよりも明解に判る筈である。

 日銀の負債が殆どゼロであるカラクリ

 発行銀行券が日銀の「負債」と為る事は前項で述べた。しかし、負債とは言え、銀行券に対して日銀が利子を支払う事は無い。ここが日銀のBSを読む時のひとつのポイントである。別の「負債」である「当座預金」はどうか。当座預金とは、一般的には小切手や手形等の決済専用の口座の事を指し、民間金融機関においては無利子である。これは法令で定められて居る。

 しかし、実は日銀の当座預金に関しては、民間金融機関は利子を受け取って居る。本来は不合理な話なのだが、リーマンショック後の2008年10月、資金供給円滑化の為の措置として日銀は補完当座預金制度を導入した。
 金融機関には「準備預金制度」と言って「受け入れている預金等の一定比率以上の金額を日本銀行に預け入れること」が義務付けられて居る。金融機関は必ず幾らかの金額を日銀に預けて置か無ければ為ら無い、と云う事だ。

 補完当座預金制度によって日銀は、一定比率以上の金額詰まり法定準備預金額を上回って預けて居る金額=超過準備金に対して利子を着ける事にした。言わば、日銀の金融機関への「お小遣い」の様なものである。企業を経営して居る人なら、企業の金融機関への当座預金は無利子である事を知って居るだろう。企融機関の日銀への当座預金は利子が付いて居る訳で、この意味で金融機関の「お小遣い」なのだ。
 但し、日銀は2016年「マイナス金利政策」を実施して話題に為った。これは詰まり、以前の補完当座預金制度とは逆で「これからは超過準備金に対しては利子を取りますよ」と云う事である。

 2008年以来、利子が貰えて居たのに取られる事へ逆転したので民間金融機関は大騒ぎをしたが、ココは正確な理解が必要だ。日銀当座預金は400兆円程度ある。しかし、マイナス金利が適用に為るのはホンの一部である。殆どの部分にプラスの金利が付与されて居り、金融機関が日銀からお小遣いを貰って居る状況に変わりは無い。
 ともあれ「当座預金」は「銀行発行券」と何時でも代替出来「銀行発行券」は日銀に取って負債ではあっても無利子・無償還で実質的な借金では無いと言う事が出来る。詰まり、返す必要の無いお金だ。従って日銀のBSにおいて「負債」は実質殆どゼロとして読む事が出来る。詰まり日銀の資産は、国債分の約474兆円と読む事が出来るのである。

 



 実は国の財務状況は心配するレベルでは無い

 これを政府のBSに連結してみよう。日銀の資産474兆円が、ホボそのまま政府の「資産」に加わる事に為る。政府の「資産・負債差額」はマイナス568兆円からマイナス94兆円まで下がる。
 既に述べたが、政府のBSは負債がチョっと多い位でも問題は無い。一般に公開されており、かつ又ネットで簡単に入手出来るBSを読みさえすれば、日本政府の財務状況は問題の無い健全なレベルにある事が直ぐに判る。逆に言えば、国の借金1000兆円等と言って騒いで居る人は、それすらして居ない残念な人、又は知識の薄い国民を騙そうとして居る人と云う事に為る。

 政府と中央銀行のBSを連結したものは「統合BS」と呼ばれて居る。統合BSで政府の財務状況を見るのは世界の常識だ。

 「国債発行額が増えれば増税に繋がる」と云うウソ

 平成29年度の政府のBSを見ると、確かに政府は「公債966兆8986億2800万円」「政府短期証券76兆9877億9300万円」「借入金31兆4434億4900万円」と言った借金をして居る。これをもって「借金が沢山あって怪しからん」と云う声を好く聞く。

 既に述べて来た様に、BSの右側のお金は左側へと流れて居る。詰まり変化して居る。政府の「負債」は、多くの場合「資産」に変わって居るのである。お金をどの様に使ったかは、企業の場合にはPLに明らかにされる。政府の場合、PLに相当するものが「予算書」だ。
 予算書は一般会計だけで1000ページ、特別会計まで含めると2000ページにも為る。在職の官僚ですら読み切れるものでは無いから詳細は放って置いて好い。基本的な処を抑えて置こう。

 政府の場合、税収では賄い切れ無い支出を補う為の「建設国債」と「特例国債」と云うものがある。インフラ整備など「建設」に関わる費用を賄うのが建設国債で、それ以外が特例国債だ。
 この特例国債が一般的に「赤字国債」等と呼ばれてイメージを悪くしている。国債にはもうひとつ「財政債」と呼ばれるものがあるが、財政債はBS上で資産に変わる公債だから全く問題無い。

 「建設国債」と「特例国債」は、国家運営に必要な「費用」を得る為に発行されるものである。「政府は借金をするな」詰まり「国債を発行するな」とした場合、どう為るだろうか。政府の収入は税金だけに為る。「足り無ければ増税する以外に無く為る」と云う事は明らかだろう。

 増税は天下りを助長する可能性すらある

 借金がダメ為らば、政府は増税をしてBSの右側を増やさずに左側の資産を維持する事に為る。政府のBSをみれば明らかだが、政府の資産の多くは「有価証券」だ。「有価証券」は相手先法人への天下りの源泉に為る。詰まり、国民の税負担によって「お金と権力の関係」を維持する事に為る。
 「借金をするな。費用を支払うのも資産を得るのも税収だけを財源とせよ」と言うのは「足り無ければ好きなだけ増税せよ」と言うのと似た様なものである。

 政府に取って借金は在って当然で、無くては国家運営が成り立た無い。勿論、どの程度までの借金が許容範囲なのかと云う問題はあるが、それは、既に政府のBSと日銀のBSで見た通り、今の日本政府の財務状況に問題は無い。
 勿論国債は借金だから、期日までに必ず利息と元本を支払わ無くてはいけ無い。「償還費には税金が使われるから、国債発行額が増えれば増税に繋がる」と云う批判を好く聞くが、これはミスリーディングである。国債の償還は、借り換え債で対応する事が原則だ。

 例えば100万円の国債が償還期日を迎えたら、新たに100万円の国債を発行して償還する。これを繰り返す。結果的に借金の残高は変わら無い事に為る。
 政府の借金が一向に減って行かないのは、償還期日が来る度に借り換えて居るからである。実質的に政府は借金を返して居ない。返して居ない処で税金が使われる筈は無い。それでも、経済成長して行けば、経済規模との関係でみれば実質的な借金残高は減少するので問題無い。

 会計的な思考が身に着くと、こう言ったことが数字で明確に確認出来る様に為るし、進んで数字で確認する様に為る。


                以上

 




 【管理人のひとこと】

 金儲けに徹した学者・経済学者として悪名高い竹中平蔵氏だが、最近は何かの機会にTVにも顔を出す様に為った。ソロソロ・・・と判断したのだろうか知らないが、そり変わり身の早さ・判断の基準が人並み以上の素早さなのである。日本の借金は酷く無い・・・と竹中氏に言われて素直に頷けられる人が居るのだろうか。高橋氏も余計な人に応援を頼んだものである。

 氏は、郵政民営化の担当大臣に為り、その後政治家として一世を風靡した。最近は「金儲けの為には、現状のルールを改悪して新たなルールの下で・・・」と規制改革・解放を提唱し、チャッカリとその上で成り立つ企業の最高ポジションに就く等の竹中流処世術で顰蹙を買って居た。彼の最悪の所業は労働規制の開放で、世の中の40パーセントの就業者を非正規労働者にしてしまった事だろう。
 人材派遣業と云う新たな商益を作り出し、その最大手企業の会長に納まり更には数々の企業と手を組み数々の新しいルール・法律を作り、民間議員としてその法整備に参加。外国人労働・種子法・水道法・・・と幾多の新たなルールを作っては、自身と関係のある企業の利益拡大を図り続けた・・・現代の政商と言われる所以だ。
 彼の罪は許されたのだろうか、それとも全てはモリカケと同じくアヤフヤナ内に終わった・禊は済ませたと判断したのだろう。氏の今後の活躍を注視したいものだ。






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100年翻弄されて来た その足跡を辿る旅 ウクライナの首都キエフを歩く




 100年翻弄されて来た その足跡を辿る旅 ウクライナの首都キエフを歩く

             〜GLOBE+ 10/21(月) 11:26配信〜


      10-22-5.jpg

 ウクライナの首都キエフ。黄金のドームを持つ青い壁面の聖ミハイル修道院(奥)と広場を走る黄色い市バス。青と黄はウクライナの国旗の色だ


 〜「偉大な年であり、恐ろしい年だった1918年」ロシア革命後の内戦に翻弄される一家を描いた作品「白衛軍」を、作家ブルガーコフはこう書き出した。
 舞台はキエフ。2014年に起きたクリミア半島併合等で隣の大国ロシアと対立するウクライナの首都は、100年前、ソビエト政権樹立を目指す赤軍と革命に抗う白衛軍、ウクライナ独立を宣言した国民共和国勢力の三つ巴の戦いの場だった(喜田尚、写真も)〜



   10-22-6.jpg キエフの地図





 11世紀のキエフ・ルーシ公国以来の聖ソフィア大聖堂(1)の前に、17世紀のコサックの英雄フメリニツキーの像が立つ。干渉を強める当時の大国ポーランドに反乱を起こしたが、その死後キエフを含むウクライナの東半分が、今度はロシアに併合されてしまう。ロシア革命はそれ以来の独立の好機だったが、勝ったのは赤軍だ。
 キエフは起伏に富んだ街だ。ブルガーコフが20世紀初めに暮らした家(2)は観光客で賑わう「アンドレイ坂」にある。坂を下ると、ドニプロ(ドニエプル)川沿いの下町「ポジル地区」に出る。市民の抗議でロシア寄りの政権が倒れた「マイダン(広場)革命」が起きた5年前、私は多くの時間を此処で過ごした。 反発したロシアがクリミア半島を併合し、東部でも親ロシア派と政府軍が衝突した現代の激動の日々だった。

 長い空白を経て昨年12月から再び訪れる様に為ったが、複雑な起伏の所為で今も時折自分が街の何処に居るのか見失う。 思えば、アノ時もそうだった。
 2014年2月、独立広場(3)の市民に治安部隊が断続的な発砲を始めた後で現場に着いた私は、殺気立つバリケードの中で行き場を失った。地元の男性に助け出されて長い坂を上って高台へ。黄金のドームを持つ聖ミハイル修道院(4)脇からレトロなケーブルカー「フニクレール」で独立広場と反対側の急勾配を下りた。広場脇に予約したホテルには近付けず、その場で宿を探すしか無かった。

 暫く滞在する内、起伏が分けた明暗の歴史にも気付かされた。聖ミハイル修道院や聖ソフィア大聖堂から国立オペラ劇場(5)に至る高台や、反対側の丘にある大統領府(6)周辺は19〜20世紀初頭の街並みなのに、二つの丘に挟まれた「谷間」のエリアには、剛健な1950年代のソ連式建物群が並ぶ。ナチス・ドイツに占領された第2次大戦時、徹底的に破壊された為だ。
 独立広場は「谷間のエリア」の中心だ。大統領選の不正に市民が抗議した2004年の「オレンジ革命」も此処で起きた。ソ連崩壊から28年、民意の振り子は揺れ続ける。評論家のボロディミール・フィセンコ(60)は「我々にはどの世代にも夫々の〈心のマイダン(広場)〉がある」と話す。





 ここにも在る、惨劇の歴史

 キエフの複雑な地形を知るには、アンドレイ坂の上にあるウクライナ歴史博物館がお勧め。11〜12世紀のキエフ・ルーシ公国を再現した巨大なジオラマで、多数の丘に築かれた当時のキエフを再現して呉れる。同じ趣旨のジオラマは、モザイク画、フレスコ画が美しい聖ソフィア大聖堂の中にもある。

 キエフにはもう一つ、第2次大戦中に惨劇の歴史が刻まれた場所がある。1941年9月、僅か2日でユダヤ人の市民ら3万3000人超が銃殺された北部のバビ・ヤール渓谷だ。アウシュビッツ等で後に起きるホロコーストに道を開いた。今は広大な公園に整備され、ソ連崩壊後は世界各地の団体が慰霊碑を置く様に為った。憩いの場であり、祈りの場でもある。

 ソ連を席巻した銘菓

 ドニプロ川に浮かぶハシケの上のレストラン「フトレツィ・ナ・ドニプリ」(ドニプロ川の上の集落)(7)が評判と聞いて出掛けた。夕日に染まる中州の森を眺めながらウクライナ料理を楽しんだ後、同行の知人が勧めたデザートは「キエフケーキ」1950年代に地元の国立製菓工場で考案されソ連全体に広がった。
 ナッツ、クリームを練り込んで何層にも為った生地が特徴でとても甘い。だが、最大の特徴はカリカリとしたナッツの食感だ。工場で職員が生地の為に用意した卵白を固まらせてしまい、失敗を隠そうとナッツを入れる事を考え着いた─と云う伝説もあるそうだ。

 工場はソ連崩壊後、製菓業で財を為した前大統領ポロシェンコの企業グループ傘下に。レストランのケーキは洒落た感じだったが、店頭販売の品は色取り取りの菓子が乗ったレトロな外観だ。歴史の曲折を経ながら定番の地位を保つ処が「キエフ」の名に相応しい。


        朝日新聞社    以上

 




 【管理人のひとこと】

 ロシアの歴史を学ぶと、最初に、北欧・バイキング(海賊)の一群が度々、東へとドニエプル川を遡上し、周囲を嵐し廻り、遂にはキエフに最初の国(キエフ・ルーシ公国)を作ったのが始まりだと記してある。詰まり、ロシア人の祖先は北欧のバイキングだったと・・・
 無論バイキング達は、東だけで無く遠くの周辺を嵐し廻り、イギリスやヨーロッパ西部の大半を蹂躙した。彼等の元々の居住地は、作物も栽培出来ぬ寒冷で不毛の島々に散在し、略奪や簒奪が主な生活手段だった訳だ。彼等とロシア東方の部族(シベリアやコサック等)が混血してスラブ民族へと受け継がれたのだろう。

  10-22-7.jpg

 その彼等の発祥地でもあるウクライナ・・・西欧と東欧の分岐点、嫌、東欧の終着点でもあったウクライナは、100年もの間戦争・戦乱に翻弄された歴史を持つ。私達はウクライナと云えば、チェリノヴイルの原発事故やウクライナ美人しか頭に浮かば無いが、その様な悲しい歴史を持つ国なのだ。美しい国で悲しい国・そして美人の多い国・・・何ともロマンが湧く国の様だ。



 



 火災保険、払いすぎていませんか?











2019年10月21日

忘れられた戦場・レイテ フィリピンの戦いから75年



 忘れられた戦場・レイテ フィリピンの戦いから75年

        〜古谷経衡 文筆家 著述家  10/20(日) 18:58〜


         10-21-34.jpg

           レイテに上陸するマッカーサー将軍


 1】忘れられた戦場

 太平洋戦争の激戦地で真っ先に思い出されるのは、ガダルカナル(ガ島)・硫黄島そして沖縄。ガダルカナルの日本兵死者約2万・硫黄島同2万・沖縄約8〜10万。しかし、中国戦線を除き、アノ戦争で最も日本兵の戦死者が多かったのはフィリピン戦線である事は実は余り知られていない。
 大本営は「比島決戦」と称し、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を「大東亜戦争の天王山」(小磯国昭首相談)と位置付け、都合75万人もの大兵力を送ったが、その内実に50万人もの兵士が戦死した。

 75年前の今日。1944年10月20日。日本軍の真珠湾奇襲とホボ同時に始まった南方資源地帯の占領、所謂「南方作戦」で重要な占領目標とされたフィリピンは、マニラ湾上に浮かぶコレヒドール要塞。バターン半島南部の頑強な抵抗があったものの、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を掌握する。
 マッカーサー元帥は夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡。そこにて記者団に語ったのがかの有名な「アイシャルリターン(私は必ず帰る)」である。この言葉通り、米軍が約20万の兵力を以てフィリピン奪還に動いた第一歩が1944年10月20日だ。

 此処から終戦までの約10か月・・・フィリピンでは海で日本海軍初めての神風特別攻撃隊が出撃。陸では敗残兵がジャングルや山岳奥地に立て篭り、戦後も投降勧告を黙殺し続ける兵士も多数居た程である。
 ガ島・硫黄島・沖縄そしてインパール。悲惨な戦場はその地名が代名詞と為って居るが、フィリピンだけはブラインドスポットとして日本人の心から忘れられ様として居る。それは、フィリピン戦線が同国の広大な島嶼に幅広く及び、尚且つ戦後、日比関係が紆余曲折を経ながらも友好善隣の関係として発展して来た事が、逆に負の歴史を日本側に自覚させ辛いと云う側面を生んだからだ。マッカーサーのレイテ島上陸75年目を契機に、レイテ/フィリピンの戦いを振り返りたい。


 参考 レイテ島の戦いにおける日本軍の戦死者数 ウィキより参照

 ⊡第35軍直轄部隊  参加者10,932 戦死者10,682 軍司令官 鈴木宗作中将戦死
 ⊡第16師団(サマール島含む) 参加者18,608 戦死者18,028 師団長 牧野四郎中将戦死
 ⊡第1師団  参加者13,542 戦死者12,742 セブ島へ 750名が転進 片岡董中将生還
 ⊡第26師団  参加者 13,778 戦死者13,158 師団長・山県栗花生中将戦死 後任師団長・栗栖猛夫少将戦死
 ⊡第102師団の一部 参加者3,142 戦死者2,822 師団長 福栄真平中将セブ島へ無断撤退 戦後戦犯として死刑
 ⊡第68旅団  参加者6,392 戦死者6,302 旅団長 栗栖猛夫少将(第26師団師団長に転出)旅団長(後任)沖静夫少将戦死
 ⊡その他の部隊  参加者17,612 戦死者15,527・・・・第30師団の歩兵第41連隊と第77連隊第8師団の歩兵第5連隊・独立混成第55旅団の一部・海軍伊東陸戦隊等 以上 





 2】日本よりも豊かだったフィリピン 

 フィリピンは、米西戦争(アメリカとスペインの戦争・1898年)の結果、アメリカがスペインから「賠償」の名目で買い上げると、約400年続いたスペインの植民地時代が終わり宗主国がアメリカに交代した。アメリカは当初こそ厳格な統治を敷いたが、ヤガテそれはフィリピン人を「アメリカの小さな茶色い兄弟」と呼ばわせしめる程発展した文明人へと引き上げて行く。

 アメリカはフィリピンを極東進出の足掛かりとして要塞化(コレヒドール要塞・クラークフィールド飛行場等)する一方、フィリピンのインフラ整備に莫大な予算措置を講じた。電話網、鉄道網、水道・灌漑施設の設置は元より、教会、学校、映画館、病院等の整備を施し、基本的人権や民主主義の概念を与えた。
 1930年代のマニラは「東洋の真珠」と言われる程の美観を保ち、一人当たり所得は日本よりも高かった為、この時期マニラに出稼ぎに来る日本人労働者が多数いた。又マニラとは正反対に位置する南部ミンダナオ島のダバオ市には沖縄出身の日本人出稼ぎ工が中心と為り大規模な日系人街が作られ、その人口は最盛期で2〜3万。
 「第二の満州」と呼ばれ、アメリカから「領土的野心があるのではないか」と警戒の目で見られる事さえあった。

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                   当時のマニラ

 アメリカはフィリピンに独立を与える積りで居た。1935年、約10年後(1946年)の独立を目途にフィリピンコモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足。初代首班にマニュエル・ケソンが就いた。何もしなければ、フィリピンは1946年にアメリカから独立する筈であった。しかし1941年12月8日、日本の真珠湾奇襲により勃発した太平洋戦争がフィリピンの運命を変えた。
 東南アジアの資源地帯を迅速に掌握し、対米持久戦の基礎とする所謂「南方作戦」の経過の中で、どうしても制圧しなければならないのがフィリピンであった。結果、冒頭のごとくフィリピン全土は1942年4月までに日本軍の手に落ちる。フィリピンの地獄はここから開始された。

 



 3】失敗した日本軍の軍政

 好く、太平洋戦争はアジア解放の側面があったと言う保守系論客が居る。確かに「南方作戦」が大本営の予想以上に成功を納め、結果、英領ビルマやマレー、蘭印で日本軍は「イギリス、オランダからの解放軍」と見做され、一時的に歓迎された事は歴史の事実である。しかしフィリピンだけは様相が違った。フィリピンにおける日本の軍政は初手から破綻していた。

 先ず、物資の現地調達が基本の日本軍が軍票(軍が発行権を握る通貨)を乱発し、アメリカの庇護の元複雑高度に発達して居たフィリピンの金融経済をインフレによって破壊した事。第二に、フィリピンがスペイン時代から厳格なカトリック教国であった為「八紘一宇」の概念の押し着けに精神的反発が大きかったこと。
 そして「アジア解放の為の聖戦」を美名にフィリピンを占領したは好いが、前掲した通り、そもそもフィリピンは、1946年に独立が約束されて居た事。何より、フィリピンを占領した日本軍が「前任者」のアメリカ軍より圧倒的に貧乏で粗暴であった事等々である。

 これにより、フィリピン占領初期から各地で抗日ゲリラが頻発し、ヤガテ一大勢力に為った。マッカーサーはオーストラリア方面に撤退して連合軍の反転攻勢の機会を窺ったが、その大きな情報はフィリピンに居る抗日ゲリラからの無線通信や、潜水艦を通じて豪州―フィリピンを結ぶ極秘ルートによって持たらされて居た。
 アメリカ側は抗日ゲリラに武器・弾薬を送り、ゲリラはアメリカに日本軍の情報を送った。彼等は「マッカーサーの目と耳」と呼ばれた。マッカーサーはオーストラリアに居ながらにして、フィリピンにおける日本軍の一挙手一投足を知り得て居たのである。

 こうした中、1944年10月20日、マリアナ沖海戦の圧倒的勝利とサイパン島占領(1944年6月)の余勢を買ってレイテ島に米軍20万が上陸する訳だが、米軍が上陸地点としてレイテ島を選んだのは、抗日ゲリラからの情報が大きな要因であった。
 前述の通り日本軍の動向は抗日ゲリラを通じて米軍に筒抜けであり、レイテ島は日本軍の最も防備が手薄い地帯であると判断したからであった。

 米軍上陸当所、フィリピン全土で日本軍が真面に行動出来たのはマニラと、点と点を結ぶ都市だけで、他は全て抗日ゲリラの影響下に在り、日本軍は米軍上陸前からその戦いの帰趨が決して居たと言える。太平洋戦争を通じて、日本軍の占領地域でこれだけ抗日ゲリラが盛んだった国はフィリピンを置いて他に無い。





 4】日本軍、比島決戦に敗れる 

 当初、フィリピン防衛の為に組織された第14方面軍は、ルソン島での一大決戦に備えて防衛準備をして居た。が、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると知ると防御方針を転換し、戦力の逐次抽出を行って圧倒的火力の米軍に悉く敗れ去った。
 困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執し、これが原因で多くのマニラ市民が日米両軍の戦闘の巻き添えに為った。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を数えるとされる。フィリピン全土では一体幾らの罪無きフィリピン人が犠牲に為ったのか。その全容は現在でも明らかに為って居ない。

 一方海では、米軍レイテ島上陸に際して連合艦隊が乾坤一擲(けんこんいってき)の大攻勢に打って出たが、呆気無く敗れ去った。これにより日本海軍の組織的な制海行動は終了し、フィリピン戦での日本海軍の敗北が「統率の外道」神風特別攻撃隊(特攻隊)を創り出した。
 マニラ失陥後、指揮系統を失った日本軍は、或る者は山岳地帯に逃げ、或る者は島嶼部のジャングル地帯に立て篭った。戦争終結後、29年の後、初めて投降に応じた小野田寛郎少尉(ルパング島・1974年帰国)もその一人であった。こうして余りにも多大な犠牲を出したフィリピンの戦いは終わったのである。





 5】最悪だったフィリピンの対日感情 そして和解・友好へ

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                 バターン死の行進

 この様な事情から、戦後長らくフィリピンにおける対日感情はアジア最悪の部類であった。マニラ市では「日本人は日中街を歩け無い」とさえ言われる有様だった。事実、所謂「東京裁判」におけるフィリピン代表判事のデルフィン・ハラニーリャ氏は、バターン半島における攻防戦で日本軍に捕虜に為った経験(バターン死の行進)から、日本に対して連合国判事の中で最も苛烈とも言える敵愾心を燃やして居た事は有名である。

 しかしこうしたフィリピンの最悪の対日感情も、時が経つに連れて融和の道を辿った。一つはフィリピンが戦後、マルコスによる親米独裁政権により、日本との関係で反日感情よりも経済協力を優先させた事。しかしそれでも、日比の賠償交渉は相当難航した事を記す。
 又最大の理由は、50万人ともされる日本人戦没者の遺族が、戦後、遺骨収集や戦没者慰霊の為にフィリピンに渡航し、現地住民との草の根の交流を広げた処が大きかった。 或る遺族団は、フィリピンに着くなり現地住民から「日本軍が奪って行った俺のトラックを返せ!」と鬼の形相で怒鳴られたと云う。
 
 しかし、この様な両国民の戦争による傷も、日本人戦死者50万人の背後に居る、数百万の遺族等の渡比行為と草の根の交流事業により「日本人は決して鬼では無い」と云う融和の心をフィリピン人に惹起せしめ、そしてカトリック教国特有の「赦しの心」により、日本軍の加害の罪を赦すと云う意識が芽生え、広がって行ったのである。
 現在、フィリピンの対日感情は過つて無い程好転して居る。過つて「アジアの病人」と呼ばれた経済も順調であり、総人口も1億人を突破した事等から、日比間の経済交流・人的交流、及び防衛協力等も益々重要度を増していると言える。

 しかしその背景には、50万人の日本人戦没者の存在と、それを数倍上回る罪無きフィリピン人の被害者が居る事を、現代日本人は決して忘れては為ら無い。戦争責任、加害の歴史と言うと直ぐに韓国と中国が俎上に載せられる。勿論それはそれとして、確りと記憶に刻まれる必要があるが、一方でフィリピンも、日本人が決して忘れては為ら無い戦場である事を、私達は1944年10月20日から75年経った今、再度心に刻む必要があるのではないか。(了)


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 古谷経衡 文筆家 著述家 1982年北海道札幌市生まれ 文筆家 日本ペンクラブ正会員 立命館大学文学部史学科卒 テレビ・ラジオ出演など多数 主な著書に『日本型リア充の研究』(自由国民社)『愛国奴』(駒草出版)『女政治家の通信簿』(小学館)『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)『意識高い系の研究』(文藝春秋)『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』(イースト・プレス)『ネット右翼の終わり』(晶文社)『欲望のすすめ』(ベスト新書)『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数

美容院aniotahosyuブティックtsunehira.furuya official site 古谷経衡公式サイト 以上

 




 【管理人のひとこと】

 戦争を賛美し「聖戦」だと叫ぶ人達が世の中に存在する。それは、ホンの一部の人達なのだが、その人達の一部に「戦争で、西欧に支配されたアジア・太平洋の国々の独立に大きく貢献した」「西欧に虐げられた国々の民族独立に大きく寄与した」・・・と。しかし、戦車や軍艦で乗り付け、他国の領土を侵略し例え米英と戦っても「傍迷惑(はためいわく)」以上のものでは決して無い。「五国共栄」等も屁理屈に過ぎない。
 彼等は、他国の民を傷付け、その上自らの国民を「聖戦」の名の基に生命を脅かす様な悪質な狂言者以上でも以下でも無い。単に、人間同士の殺戮を好む「バンパイア」吸血鬼に過ぎ無いのだ。国の為・民族の為・家族の為・・・と洗脳し銃を持って戦えと囃(はや)す。しかし、国でも民族でも家族も実際に犠牲となるのを望んで居る人々は存在し無い。国の為・民族の為・家族の為に戦いを拒否する事コソが、それ等を守る最大の愛国者なのだと言え様。
 文中に在る様に、韓国・中国だけに「反日」的志向が存在するのでは無い。今は、親日的に見える国々でも、戦争での犠牲・恨みは心の中に疼(うず)いて居るのだ。そのことを私達は忘れては為ら無い。



 



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【歴史考察】大敗を糧にした敗者側から歴史再構築



 【歴史考察】大敗を糧にした敗者側から歴史再構築

 勝頼は「長篠の戦い後に立て直し」

 政宗は「人取橋の戦い後に領国拡大」

 




          〜読売新聞オンライン 10/21(月) 12:10配信〜



 〜〇〇の戦いで大敗を喫した△△氏は、以降、衰退の一途を辿り・・・戦国時代の解説書で、シバシバ見られる一文だ。しかし、戦国合戦史を見ると、大敗は、大名の滅亡に常に直結して居たとは限ら無い。今年刊行された『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』(山川出版社)は第一線の研究者が敗者の「その後」を追い、大敗の一面的な見方に再考を迫った画期的な論考集だ(文化部 多可政史)〜


 「大敗後」の研究が進ま無かった理由 

 歴史ファンの関心が高い合戦は戦国史研究の華だ。しかし、一次史料と為る書状や日記には、勝者側が合戦での活躍を詳細に記述することはあっても、敗者側が不名誉な大敗の記録を残すことは殆ど無い。

 「『大敗後』の研究が進ま無かったのは史料的制約が大きかったから。それでも、近年は関連する史料集の刊行やデータベース化が進み、負けた側の視点による新たな歴史像を構築出来る環境が整いつつある」
 
 研究代表者の黒嶋敏(さとる)・東京大史料編纂(へんさん)所准教授はそう語る。本書は、2015〜17年度の研究成果を主にマトメた。大敗を喫しても領国を維持し続けた大名や大敗を糧に以前より勢力を強めた大名等、敗戦後の様々な姿に光を当てた点が意義深い。

 



           10-21-16.gif 武田勝頼

 前者の代表例が武田勝頼だ。天正3年(1575年)の長篠の戦い(愛知県)は、織田・徳川連合軍が武田の騎馬隊を鉄砲で撃破した戦術の鮮やかさか、特に有名な大敗事例。
 だが、金子拓(ひらく)・同所准教授は近年の研究を踏まえ、勝頼が敗戦後も指揮官と為り得る経験と資質を持った家臣の補充にあたる等、軍制面の立て直しに腐心して居た実態を紹介する。

          10-21-17.jpg 伊達政宗

 大敗を機に成長した大名が伊達氏だ。同13年(1585年)の人取橋の戦い(福島県)では、政宗が勢力拡大を目指す過程で、二本松城(同)を包囲したのを切っ掛けに反伊達軍の結束を招き、重臣が討ち死にする大敗を喫した。
 只、その後の和議を機に二本松城が伊達氏の所有と為り、政宗の軍事行動は正当化された。黒嶋准教授は「領国拡大へと走る戦略を方向付けた」と指摘する。伊達氏は大敗を糧に東北を代表する大名に為ったとの見方が出来る。

 「誇張」を剥ぐ作業が大事
 
 通説に一石を投じる論考もある。九州・薩摩の島津氏が日向の有力者・伊東氏を破った元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(宮崎県)は、九州戦国期の代表的な大敗事例とされて来た。
 畑山周平・同所助教は史料分析の結果、両氏の形勢逆転の切っ掛けはその3年前の戸神尾の戦い(鹿児島県)で、木崎原は伊東氏ら反島津勢力が劣勢挽回を図った一連の戦いの一部だったと論じた。

 大敗が実情と異なる姿で後世に伝わるのは、大名の運命を左右した衝撃から、後世の記録や地域の伝承も誇張され易いからだ。長篠の戦いの大敗の印象は、江戸期に成立した武田氏の軍学書「甲陽軍鑑」による、敗戦を厳しく批判した記述の影響が大きい。
 伊達氏の江戸期以降の記録では人取橋の戦いが大敗では無く、飽く迄「苦戦」と強調されるなど、存続した大名が過去の不名誉を矮小化(わいしょうか)して居た実態も浮き彫りに為った。

 畑山助教は「史実に近づくには、誇張を剥ぐ作業が大事」と語る。それが大敗の歴史学の難しさであり、醍醐味(だいごみ)の様だ。

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                桶狭間の戦い

 川中島、桶狭間も・・・

 他にも、通説では激戦と評価される川中島の戦いや、今川義元が織田信長に敗れた桶狭間の戦い等の論考が並ぶ。
 東北から九州までの九つの大敗事例は、勝者を優れた新勢力、敗者を前時代的な古い勢力とする様な「表面的なレッテル」(黒嶋准教授)から脱した視点を提供する。黒嶋准教授は「一次史料による研究、軍記物などの二次史料による研究の双方に取り残されて来たのが大敗と云うテーマ。他にも歴史学で軽視されて来たテーマは有るのでは。そうした問題提起にも為れば」と語る。


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           (左から)金子准教授 黒嶋准教授 畑山助教


 




 【管理人のひとこと】

 歴史が面白いのは、記述者によっての個性的・主観的思想・意思が相応に入る事により、人間の観方・時代の観方・時間の流れ等の認識が色濃く映し出される点にある。往々にして、多くの人達は世に出された著名な文書から多くを学び知るのだが、それが全て正しいとは限ら無い。
 人間の歴史の中の殆どは「争い・戦争」の歴史でもある。特に結果を知った後世の人達は、それのみを目的に前後を修飾する作業に追われてしまう、詰まり、辻褄合わせの作業に追われてしまう。だから、一つの定説が積み上げられてしまうと、それが真実と語られてしまう。この様な時に「別の観点から見詰め直したい」とする人達が現れるのは自然の事だ。
 私達の歴史は、この様に何度も見直され、修復され・・・何時かは正しい真実が導かれるのだろう。その意味で、何度も検証されることは望ましい事だ。



 





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何故、巨石が水面に浮くのか? 何故、震災を予言出来たのか?「日本三奇」


  何故、巨石が水面に浮くのか? 何故、震災を予言出来たのか?
 
 「日本三奇」の「石の宝殿」「四口の神釜」を訪ねる


            〜テレ東プラス 10/20(日) 20:41配信〜







 「石の宝殿」何故石が水面に浮かぶのか?

 古くから言い伝えられる不思議スポット「日本三奇」をご存知だろうか。元々は江戸時代の医者・橘南谿が、自著の中で「3つの奇跡」と紹介したのが始まりで、例えば高千穂峰の山頂に突き刺さる「天の逆鉾」もその1つ。ここでは、由緒ある古い神社に残された、他の2つの「奇」をご紹介したい。

 「石の宝殿」は兵庫県高砂市の生石神社にある

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             宙に浮く奇妙な石造物「石の宝殿」

 先ず訪れたのは、兵庫県高砂市にある生石神社だ。竜山石の産地として古くから栄えた、竜山の中腹辺りに鎮座するこの神社は、3世紀頃の創建と伝えられる長い歴史を持って居る。

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 此処に、世にも珍しい御神体が祀られて居る。国の史跡に指定される「石の宝殿」である。「石の宝殿」は直方体を為す石造物で、寸法は横6.4メートル高さ5.7メートル奥行7.2メートルと云う巨大なもの。

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             宙に浮いて居る様に見える!

 コレが「日本三奇」の1つに数えられるのは、一見すると、宙に浮いて居る様に見えるからだ。屈み込んで覗き込んでみると、水が張られた溜池の上にマルで浮かぶ様に設置されて居るのが判るだろう。恐らくは底面の中央部に台座が設けられて居るのではないかと想像するが、カラクリは判ら無い。その異様さから「石の宝殿」には「浮石」と云う別称が付けられて居る。

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             干ばつの際でも何故か水位が変わら無いと云うミステリー

 因みにこの溜池は、水路が通じて居る訳でも無いのに干ばつの際でも何故か水位が変わら無いと云うから、謎は深まるばかり。ソモソモこの「石の宝殿」は、何時誰が何の為に造ったものなのだろう?

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             何時の時代から有ったのか?その真相は藪の中

 出来る限りの記録を紐解くと、8世紀に編纂された『播磨国風土記』の中に早くも「石の宝殿」に関する記述が発見出来る。当時は「大石」と呼ばれ、聖徳太子の時代に豪族・物部守屋が造ったものと紹介されて居るが、この説に懐疑的な学者も多い。今の処、真相は藪の中だ。
 多くの謎を擁したまま、今も水面に浮かぶ「石の宝殿」その異景振りと醸し出る不思議な有難味は、御神体として十分な趣がある。是非一度、参拝に訪れてみては如何だろうか。

 



 東日本大震災を予言した「四口の神釜」

      10-21-14.jpg 御釡神社

 一方、今度は東北地方に目を移してみると、宮城県塩竈市の御釡神社にも「日本三奇」の一角「四口の神釜」がある。
 これは神器として重宝されて来た鉄製の釜の事で、その昔、この神社の祭神シオツチノオジが製塩に用いたものと伝えられる。元々は7口在ったそうだが、その内3口は盗難に遭い、後に「四口の神釜」として奉安する事に為ったと云う。この釜には、不思議な力が秘められて居る。普段は溢れる事も涸れる事も無いと釜の水が、世の中に異変が起こる時のみ変色すると云うのだ。

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          撮影不可の為、イラストで再現した「四口の神釜」

 例えば江戸時代に編纂された『塩竈町方留書』には、寛永13年(1636)の2月に水の色が変わった際には、時の藩主・伊達政宗の病が発覚し、祈祷の甲斐無く3カ月後に逝去した事が記されて居る。
 元禄2年(1689)にはアノ松尾芭蕉もこの神釜を拝観する為に御釡神社を訪れたと云うから、その神秘的な力は当時から全国的な話題を呼んで居たのかも知れない。実際、江戸時代には神釜の水の色を常に見張り、変色した際には藩への報告が義務付けられて居たと云う。そして近年に為ってからも、神釜の不思議な力を示す出来事があった。平成23年(2011)に発生した東日本大震災だ。

 3月11日の朝、普段は赤茶けた色味の釜の水が、4口の内2口のみ、透明に変化した様子が目撃されて居る。その後の惨事は誰もが記憶に新しい処だろう。猛威を振るう津波の被害を、神釜が寸での処で回避して居るのも何やら意味深だ。
 「四口の神釜」は普段、鍵の掛かった社の中に安置されて居るが、拝観料を支払えば誰でも見学する事が出来る。果たしてその日、釜の水はどの様な色で出迎えて呉れるのか? 心して拝観して欲しい。



 見逃せ無いパワースポット3社

 著名人からテレビなどでパワースポットとして紹介され、沢山の人々が殺到する様に為った神社にも注目したい処です。実際にご利益があったと云う後日談は後を絶た無い3つの神社があります。
 
 須佐神社(島根県出雲市)

 島根県出雲市にある「須佐(すさ)神社」は、スサノオノミコトが自らの御魂を鎮めたとされている社です。言い伝わる七不思議の1つとして、潮が湧くと云う「塩ノ井」があり、スサノオノミコトは、この海水で神社の地を清めたと言われて居ます。

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 この神社は矢張り、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトを祀る神社だけあって「日本最強パワースポット」との噂もある程。自分自身を「力」で武装したいなら、ここは外せ無い神社かも知れません。

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                  「塩ノ井」


 榛名神社(群馬県高崎市)

 群馬県高崎市にある「榛名(はるな)神社」の社殿は、奇岩・巨岩が聳える榛名山に点在して居り、背後の大きな御姿岩に減り込む様に建って居るのが本殿です。早くから神仏習合が進み、修験道の聖地とされていました。

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 そうした背景から、この神社は霊力というか「気」が強く漲って居る場所として知られ、その強い「気」に肖りたいと云う参拝者も数多く訪れて居る様です。自分の気力を充実させたいのなら、ここも見逃せ無い神社と言えるでしょう。

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 三峯神社(埼玉県秩父市)

 犬では無く狛狼が護る「三峯(みつみね)神社」は、秩父の山奥に鎮座します。ヤマトタケルノミコトがイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀ったのが起源と云います。役小角が修行し、空海は自刻の十一面観音像を奉納したと伝わって居ます。

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 この神社は関東屈指のパワースポットと言われ、願望実現と金運のご利益を期待出来る神社として全国から参拝者が殺到する程。毎月1日には「白い氣守」も限定頒布されます。ビジネスにおける「強運」を身に纏う為にも、この神社に1度は行ってみる価値はありです。

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 寺社参拝のメリットとは?

 以上、ビジネスパーソンの方にお勧めしたい寺社を簡単に紹介いたしました。参拝によるメリットは、お寺や神社周囲の自然や景観を眺めたり、ご当地や近隣の美味を食したり、時間があれば温泉地も楽しめたりする「心身のリフレッシュ」が図れる処だと思います。
 新たなる2020年の始めに、先ずは寺社に足を運んで「心の整頓」から入ってみるのも好いのではないでしょうか。仕事の業績や成果がアップする「小さな切っ掛け」に為るかも知れませんよ。


                  以上





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2019年10月20日

短期連載 【幕末・維新回天の真実】(3)



 短期連載 【幕末・維新回天の真実】(3)

 新選組の剣と必勝戦術 負け無い「実践剣」の秘訣とは?

           〜伊東成郎2019.10.19 10:00dot. #新選組〜


 



 〜週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅び行く幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。前回の記事「『組織の拡大』に見る、新選組の実力とは?」に続き、百戦錬磨の志士も恐れた剣技を解き明かす!〜

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 ■「技のデパート」的な力を持つ 治安組織を目指して居た新選組

 新選組局長近藤勇と副長土方歳三、更に幹部の沖田総司が会得して居た剣術は天然理心流(てんねんりしんりゅう)だった。

 遠江(とおとうみ)出身の近藤内蔵之助(?〜1807)が案出した、剣・柔・棒・気合等多岐に渉る武術だったが、中でも実戦に即した剣術は突出して習得され、広く多摩地方一帯に門人を生んで行った。近藤勇はその五代目宗家として、江戸市谷の撃剣道場の試衛館で、沖田総司初め多数の門人を指南、ヤガテ道場の中心人物らと上洛し新選組を立ち上げた。

 組織草創期の文久三年(1863)四月十六日、新選組の総員は組織を指揮下に置く京都守護職の会津藩主・松平容保に招かれ、洛東黒谷に或る本陣で、有志による武術の御前稽古を披露した。当日の組み合わせが記録に残されている。(は天然理心流習得者)

 土方歳三×藤堂平助 永倉新八×斎藤一 平山五郎×佐伯又三郎 山南敬助×沖田総司 (棒術披露)川島勝司 (柔術)佐々木愛次郎×佐々木蔵之助

 最高首脳の前で初披露する武術に、失敗は許され無い。確かな技量の者が選ばれた事は、顔ぶれからも推察出来る。更に注目されるのは、剣術以外の武術も上覧された事だった。
 翌年一月のことだが、二度目の上洛を行なった徳川家茂の入京行列に新選組も加わって居る。煌びやかな行進の中、彼等のみは武装姿で、弓や槍等、各々が得意とする武具を携えて居た事が、目撃者の記録に残っている。
 
 新選組の上層部は、多岐武術の習得者を網羅した、言わば技のデパート的な集団として、強力な治安組織を構成する事を初期から目論んで居た様だ。全史を通じ、会得流派に関する資料が残る隊士達を見ると、実にさ間ざまな武術と流派が伝えられて居る。
 また、慶応元年(1865)の西本願寺新屯所移転後、新選組は師範制度を確立、撃剣のみ為らず、柔術、槍術、馬術等、様々な武術のキャリア隊士による指導システムを確立した。常に多岐武術の推奨を重んじて居たのである。
 
 処で改めて8名の撃剣稽古出場者を見ると、局長ゆかりの天然理心流を専門に習得して居た者は半数に満た無い。晴れの御前稽古には、様々な流派の会得者が立ち合って居た。槍術に関してのものだが、幕末期、京都所司代の要員として治安活動に従事して居た、桑名藩士の加太邦憲(かぶとくにのり)が、後年、この様な回想を残して居る。
 
 予は月々一両回、槍及び道具を掲げて、下した立売り通りの会津邸の演武場に臨みたり。当時、会(津)桑(名)の演武場にて行なわれたる槍術は(中略)突刀と均しく、旧式に拘泥せず、諸流派の長所を採りたるもの為れば、全く進歩的のものなりき。(『加太邦憲自歴譜』)

 京都の治安を担う者達は、一つの流派に囚われる事無く、諸流派から利点を選び、武技を磨いたのである。剣術にもこうした配慮が為された事だろう。 
 新選組は初期の壬生屯所時代から、屯所内に撃剣の道場を兼備して居た。首脳部が信奉する天然理心流は指導の中核を為して居たであろうが、加えて、永倉新八からは神道無念流や、吉村貫一郎からは北辰一刀流の利点が教授されて行ったなら、新選組の剣に破格の威力と最強神話を加える事に為ったに違い無い。

 記録に残る6名の新選組撃剣師範就任者を見ても、天然理心流の会得者は、沖田総司と斎藤一の二人のみである。新選組の本旨は、飽く迄相手の捕縛だった。池田屋への突入時に近藤勇が「御用御改め、手向かいいたすと容赦なく切捨つる」(『浪士文久報国記事』)と、真っ先に伝えた様に、抵抗されて捕縛が難しく為った時、彼らは抜刀した。
 制服に舞台衣装のデザインを引用する程、新選組が崇敬した元禄の赤穂浪士は、吉良邸討入りに際し、相手に複数で対峙する事を最大の戦略として居た。同時代資料のマニュアルは残されて居ないが、最強の治安組織として、捕縛に向けた新選組の戦術には、尊敬する赤穂の先人の戦略も見据え、時宜や事態に応じた多彩なものがあった事だろう。
 

       文 伊東成郎 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より  以上

 



 








 

短期連載 【幕末・維新回天の真実】(2) 新選組の実力とは?



 短期連載【幕末・維新回天の真実】(2)


 「組織の拡大」に見る、新選組の実力とは?

         〜伊東成郎 2019.10.18 07:00dot. #新選組〜

 〜週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では「雄藩最強ランキング」を初め、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅び行く幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。近藤勇と土方歳三が築き上げた鉄の組織を解き明かす!〜

 


 
 【新選組「組織の拡大」変遷図】

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 不逞浪士から京を守る! 新選組の誕生と組織の拡大

 文久三年(1863)2月23日、250余名から為る浪士組が、江戸から中仙道を経て京都に入った。当時、国政の最重要課題でもある攘夷を推進させる為、朝廷内の攘夷派の策動により、将軍徳川家茂(いえもち)の上洛が急遽決まった。三代家光以来、二百年振りと為る徳川将軍の上洛である。

      10-21-19.jpg 清河八郎

 巻き起こる天誅活動により、当時、京都の治安は悪化して居た。そこで、将軍上洛に先がけ、関東の浪士や農民らから為る浪士組を編成、治安活動の為京都へ派遣すると云う計画が立案された。計画を提唱し、人脈を駆使して実現させたのは出羽の浪士・清河八郎だった。 
 江戸市谷で撃剣道場を営む近藤勇一門や、常陸水戸一帯で攘夷を唱え、国事活動を実践する芹沢鴨とその一派等も、この浪士組計画に賛同、一員として上洛し居留地の壬生(みぶ)に腰を下ろした。

 だが、到着したばかりの京都で、清河八郎は朝廷に上奏し、浪士組を攘夷活動の為、直ちに江戸へ帰還させるとの許諾を得てしまった。将軍警護を召集目的とした浪士組を、自身の国事活動の手駒として利用するのが、清河の真の狙いだったのである。
 近藤勇等は清河に反発し京都残留を選択する。近藤や同門の土方歳三等の出自は武蔵多摩である。土地の多くが天領であり、これを所轄する将軍家への忠誠心は強固な者達でもあった。飽く迄も浪士組の当初の目的を矜持として京都に残留したのである。

      10-21-20.jpg 芹沢鴨

 芹沢鴨等もこれに同調、最終的に24名と為った浪士組の脱退者等の身柄は、前年より京都守護を任じられて居た会津藩に委ねられ、指揮下に置かれる事と為った。以後、彼等が担う事と為ったのが、京都の治安維持活動である。
 組織は当初、発足地に因んだ壬生浪士組を自称した。通称は壬生浪(みぶろう)浪士組の到着直後、彼等を嘲笑する京雀の間から、自然発生して行った名乗りである。ヤガテ浪士金と云う名称で、会津藩から活動資金も支給される様に為り、京都や大坂の町道場等から、新入隊士の募集を行なう様に為った。

        10-21-21.jpg 近藤勇

 当初は、組織の母体と為った芹沢鴨と近藤勇の各派閥から、首脳部や幹部を固める隊形を取った。新規入隊者より結成幹部を幅広く重視した形である。だが、その後芹沢が市中で金策や商家の破壊等の粗暴な活動を重ねる様に為る。組織は芹沢浪士組等と蔑称される様に為り、会津藩は近藤等に芹沢の抹消を示唆、結成約半年後の九月、芹沢と周辺幹部らは暗殺排除された。 
 後日、組織には、江戸に戻った浪士組隊士等が発足させた治安維持組織の新徴組と呼応する様に、会津藩から新選組と云う隊名が授けられた。

     10-21-23.jpg 土方歳三
 
 単独で組織を担う事と為った近藤勇は、直ちに組織内を8分割した八小隊編成を編んだ。各小隊組頭の統率下、主要任務の市中巡察に際して、機動的に活動する事を念頭に置いたのである。
 八小隊編成は、以後も不変のママ継続されて居る。又、隊士が増加する契機と為った池田屋事件以降は、八小隊に加え、経理や庶務面を一括した小荷駄隊を独立させ、全九小隊編成とする等、より実践的な改革も進められた。
 
 新選組は屯所の玄関に、激烈な攘夷派でも知られる旧水戸藩主・徳川斉昭の「いざさらば我も波間に漕ぎ出でて アメリカ船を打ちや払わん」と云う攘夷歌を掲示して居た。念願の攘夷実現を目指す最強の京都の治安維持組織は、その後、西本願寺の屯所で150名もの隊士を抱える強靱な集団と為って行ったのである。

 



 ■京の治安維持のみ為らず 長州征討行軍も熱望して居た

 新選組が主要な任務としたのは、京都市中の治安維持活動だった。その一環として彼等には、他の治安組織と共に、個別の巡察地域も定められて居た。定められた範囲内で、より的確で綿密な警備活動を行なう様に統制されて居たのである。
 個別の巡察区域は、池田屋事件の起こる2カ月前の元治元年(1864)四月以前から定められ、その後も適宜、変更されて行った。

 時に新選組は、巡察時間以降に担当地域に不審者が出没した際には、直ちに屯所へ通報する様、町人へ回状を通達する事もあった。テリトリー内の町人達を治安活動の補完勢力とし、完璧な治安状況を造り出す為、腐心をして居たのである。

        10-21-24.jpg 池田屋事件

 新選組は慶応元年(1865)三月に屯所をそれ迄の壬生から西本願寺へ移転させて居る。更に江戸での隊士募集を実行し、この年五月には総隊士数150名の巨大組織と為った。時に緊張が弛緩する様な、俄かの大所帯化に対し、その頃、四カ条から為る厳粛な隊規も策定された。隊規違反者には総員の前で罪状を読み上げ切腹が命じられた。 
 隊規による引き締めの先に新選組が目指そうとして居たのが、長州征伐への出戦だった。長州軍は元治元年七月に御所周辺で起きた、京都守衛の会津や薩摩軍との戦闘で敗走、政局は御所へ敵対したとする長州征伐へと進行して居た。
 
 念願だった攘夷戦争への参加も非現実的と為る中、池田屋事件で圧倒的に威名を喧伝した新選組も、現実的な長州征討軍入りを渇望した。
 元治元年十二月と慶応元年九月に、副長の土方歳三は夫々「行軍録」と題する進軍リストを作成し、武蔵の国許(くにもと)へ送って居る。これ等は土方による試案と見られ、何れも長州へ出軍した際の新選組の進軍形態を、詳細に表記したものである。慶応元年の「行軍録」では、小隊を束ねる組頭隊士達を「奉行」や「頭(かしら)」等とし、隊旗や近藤や土方の家紋入りの旗指物(はたさしもの)等も図示した。 
 この賑やかな行軍図は京都で市中巡察を行なう新選組の姿では無い。戦場で武威を示す組織そのものである。

 更に土方は、元治元年の「行軍録」に「軍中法度」と題する、長州出軍中の厳しい戦陣訓をも策定して同送した。又、彼等は銃砲を用いた軍事調練も、壬生寺境内で適宜実践して居た。 
 それ程までに新選組は、長州征伐への参加を望んで居たのである。だが、京都の治安体制の中に、この極めて有能な組織の存在は欠かせ無いものだった。幕府上層部からの許諾は出されず、長州出戦は、攘夷戦争への参加と共に、夢想として消える事と為る。皮肉にもその実力と信頼度が、終始彼等を京都に縛り付けたのだった。


            10-21-25.png 五稜郭時代の土方歳三


 文 伊東成郎 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より   以上

 短期連載【幕末・維新回天の真実】(3)へつづく
















2019年10月19日

短期連載【幕末・維新回天の真実】(1)




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 短期連載 【幕末・維新回天の真実】(1)


 薩摩藩が首位! 幕末「雄藩最強ランキング」


         〜小和田泰経 2019.10.16 07:00dot.〜



 「幕府・雄藩ランキングBEST10」


 〜週刊朝日ムック『歴史道VOL.6』では、幕末を大特集。代表的な雄藩の中から厳選した9藩と幕府を「政治・外交力」「経済力」「軍事力」「人材」「モチベーション」の5つの項目でランキングした。因みに雄藩とは江戸時代に勢力を誇った大藩の事。僅差ではあったが首位に立ったのは薩摩藩、2位は長州藩だった。幕府を抑えたこの二藩の実力を分析してみよう〜

 薩摩・長州の主役達が勢揃い!当時の写真はこちら

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         この人達は誰? 何人ご存知でしょうか・・・

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 ●第1位 薩摩藩 「婚姻政策で幕府との結び着きを強め、幕末の雄藩の中で傑出した存在と為る」
 
 ○薩摩藩 国名 薩摩国(鹿児島県)藩庁 鹿児島城(鹿児島市)主な藩主家 島津氏 石高 77万石

【薩摩藩 総論】 政治・外交力、軍事力等3項目で満点の評価を得た

 幕末の薩摩藩主島津斉彬は、水戸藩の徳川斉昭・越前藩の松平慶永(春嶽)の他、老中阿部正弘とも結んで幕政改革を図ると共に、公武合体によって幕藩体制を安定化させようとする等、政治・外交力を存分に発揮して居た。
 しかも、薩摩藩の政治・外交力は、公的な面に留まら無い。島津斉彬の養女天璋院篤姫は、13代将軍徳川家定の御台所に為って居り、私的な面でも幕府との結び着きは強かった。幕政は、名目的には将軍による親裁で行われたが、実質的に大奥の意向を無視する事が出来た訳では無い。

 大奥を統轄するのが、将軍の正室たる御台所の役割であったから、薩摩藩は天璋院を介しても、政治・外交力を発揮する事が出来たのである。公的・私的な幕府との繋がりを持って居た薩摩藩の政治・外交力は卓越して居り、その為満点の20点を着けた。 
 薩摩藩の公式的な石高は、俗に「77万石」と称された。但し、薩摩藩の藩域の多くは火山灰が堆積したシラス台地であり、稲作には適して居ない。実質的な石高は、その半分程度であったとも言われる。何れにしても経済力は高くは無かった。しかも、江戸時代を通じての財政は悪化の一途を辿って居り、江戸時代後期には500万両の借金を抱えて居たとも云う。

 只、家老調所広郷(ずしょひろさと)による藩政改革により、薩摩藩は、琉球王国との貿易により利益を得ただけで無く、奄美群島のサトウキビを用いた黒砂糖を専売する等して、莫大な利益を挙げて居た。その為、差し引きすると、経済力は17点と評価する。

 薩摩藩では、余剰金を借金の返済では無く、軍事費に投じて居た。富国強兵・殖産興業を図ろうとする島津斉彬は、近代工業化の為の集成館を設立し、武器や弾薬の製造にも乗り出して居る。元々薩摩藩は他藩よりも人口に占める武士の割合が多く、しかも火器による戦闘を強く意識して居た。そこに十分な量の銃砲が整備されたのであるから、軍事力は文句無しの20点満点である。 
 人材について言えば、薩摩藩では学芸を主とする造士館、武芸を主とする演武館と云った藩校を設けて居り、文武両道による育成が行われて居た。又、島津斉彬の時代には、下級武士の大久保利通や西郷隆盛が登用される等、能力によって政治にも参加する事が出来て居た。

 但しお遊良騒動(注)等、藩政の実権を握る権力争いから足の引っ張り合いも在った事を含め、人材は18点と為る。藩内では凄惨な権力争いもあったが、大久保利通や西郷隆盛らが政治の実権を握った後は、討幕で藩論が統一されて行く。
 15代将軍徳川慶喜により「討薩表(とうさつのひょう)」が出された事で結束力は高まった。その点を踏まえ、モチベーションも19点とした。

(注)藩主の後継を巡り正妻の子・斉彬を擁立する一派と、側室お遊羅の子・久光を擁立する一派が対立したお家騒動。

 



 ●第2位 長州藩 「幕末に有能な人材を多数輩出するが、急進派の過激な行動が評価を下げた」

 ○長州藩 国名 長門国(山口県)藩庁 萩城(萩市)・山口城(山口市)主な藩主家 毛利氏 石高 36・9万石

【長州藩 総論】 ■藩内の急進派と保守派が対立。一時は朝敵とされてしまう
 
 元々長州藩では、急進的な尊王攘夷論を唱えた改革派だけで無く、幕府と協調するべきだとする保守派も存在して居た。そうした中、藩主の毛利敬親は、藩士の言い為りだった事から「そうせい侯」と揶揄される事が多い。
 只、ドチラかの一派が政権を握れば、藩内が混乱する訳で、藩主として慎重な態度を執り続けた結果と見る事も出来る。

 改革派は、尊王攘夷派の公家に接近し、長州藩は京都の政局に影響を及ぼして行った。とは言え、朝廷には公武合体派の公家も居り、長州藩が朝廷を掌握出来た訳でも無い。文久三年(1863)の八月十八日の政変で、長州藩は会津藩を中心とする公武合体派によって追放された。そして、翌元治元年(1864)復権を図ろうとして上洛したが、禁門の変に敗れ「朝敵」とされてしまう。
 この後、幕府による追討を受ける事に為った長州藩では、改革派が政権を奪い討幕へと傾いて行く。藩として政治・外交力を発揮出来たのは、改革派が保守派を一掃した後の事である。長州藩は、薩摩藩との薩長同盟により討幕の中心勢力に為った。とは言え、薩長同盟は密約同盟であり、藩として政治・外交力を誇示するには至って居ない。その為、政治・外交力は低く16点とする。

 長州藩の石高は、名目的には36万石余であったが、江戸時代を通じて瀬戸内海沿岸の干拓を行って居り、水田面積を増やして居た。その為、幕末における実質的な石高は、支藩を含めれば100万石近くに為る。
 しかし長州藩には、他の藩と同様に借金もあり、幕末には200万両に及んで居たらしい。その為、村田清風等による藩政改革が行われ、倹約に努め藩財政は改善された。こうした点から、経済力は18点を着けた。
 
 本来為らば、藩政改革によって生じた余剰金は、借金の返済に当てる処であるが、長州藩ではこれを軍事費に注ぎ込んだ。結果、それ程経済力が高かった訳では無い長州藩が、近代的な兵制を導入し軍備を整える事が出来たのである。尊王攘夷を実行した長州藩は、イギリスを中心とするフランス・オランダ・アメリカの列強4カ国とも戦端を開く。
 この馬関(ばかん)戦争には敗北するものの、欧米列強との実戦経験により軍事力は高められた。こうした事を踏まえ軍事力は19点とした。長州藩の人材が満点の20点なのは、多様な逸材が居た為である。尊王攘夷の精神的な支柱と為った吉田松陰に師事した久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允等が藩政を左右する様に為って行った。

 幕末の政治・外交では中心に為り得無かった長州藩であったが、明治維新後には、伊藤博文・山縣有朋等が新政府を牽引して居る。二度に渉って幕府との戦争を戦った長州藩は、幕府を敵とする事で戦意を高めた。その為、モチベーションも満点の20点とする。


文 小和田泰経 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.6』から抜粋

               以上

 短期連載【幕末・維新回天の真実】(2) につづく


 



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日本と朝鮮半島の交流史 今だからコソ知って置きたい!




 日本と朝鮮半島の交流史 今だからコソ知って置きたい!


 



            〜PHP Online 衆知(歴史街道)10/18(金) 12:05配信〜


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             知って置きたい!日本と朝鮮半島の交流史


 〜日韓関係は戦後最悪と言われるが、ソモソモ有史以来、日本は朝鮮半島といかなる関係を築いて来たのだろうか。現在発売中の月刊誌「歴史街道」11月号では「日本と朝鮮半島の2000年史」と題して、その実相に迫って居る。ここでは、古代から近世に至る迄の交流史を、歴史研究家の河合敦氏に解説して頂こう〜

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 河合敦・歴史研究家  昭和40年(1965)東京都生まれ  第17回郷土史研究賞優秀賞  第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞  高校の日本史教師を経て現在多摩大学客員教授 著書に 『ニュースがよくわかる教養としての日本近現代史』 『読めばすっきり!よくわかる日本外交史・・・弥生時代から21世紀まで』等  近著に『逆転大名 関ヶ原からの復活』がある。


 鉄・出兵・敗北・・・古代の交流の始まり

 日本と朝鮮半島は、海によって隔てられて居ますが、太古の昔から交流がありました。一般的には、日本列島に縄文人が住んで居て、そこに朝鮮半島や中国から人々が遣って来て、混血して行く事で日本人が形成されて行ったと考えられて居ます。
 紀元前108年、中国の漢が朝鮮半島に楽浪郡(現在の平壌を含む地域)を設置しました。中国の記録によると、倭と呼ばれる日本列島には小さな国々が分立して居て、その使節が楽浪郡に遣って来て居ます。

 なおこの頃の東アジアには、漢だけで無く現在の中国東北地方から朝鮮半島北部に掛け、高句麗が存在しました。又57年には、倭の奴国が漢に使節を派遣して居ますが、恐らく、朝鮮半島を経由してのものでしょう。
 当時、朝鮮半島南部で鉄資源が豊富に得られた事から、倭(日本)はそれを求め交流をして居たと考えられます。
 3世紀には、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓と云う小さな国の連合体があり、四世紀に為ると、高句麗が徐々に南に勢力を拡大し始めました。それに影響される形で、馬韓から百済、辰韓から新羅、弁韓から加耶諸国が生まれて来ます。

 一方、日本では4世紀にヤマト政権が全国を統一し、朝鮮南部の加耶諸国と密接な関係を結び、鉄資源を入手して居ました。更にヤマト政権は、百済と外交関係を結び、4世紀から5世紀前半に掛けて朝鮮半島に出兵し高句麗と戦って居ます。
 538年には、百済を通じて日本に仏教が伝来。当時、文化面では朝鮮半島の方が進んで居り、そうした文化や技術を取り入れる為に、日本は朝鮮半島の人々を国内に受け入れたりして居たのです。処がその後、日本と加耶の関係が悪化し、562年には新羅が加耶を吸収。日本は、朝鮮半島における足場を失ってしまいます。

 又589年には、隋が中国を統一。漢以来、実に約四百年振りに統一王朝が出現した事により、日本も対応を迫られる事に為ります。時の指導者である推古天皇と聖徳太子(厩戸王)遣隋使を派遣し、隋と対等な関係を結ぼうとしました。
 618年には隋に代わって唐が成立しますが、そうした強大な帝国の成立を受け、日本は支配下に置かれ無い様中央集権化を進め、律令国家としての体制を整備して行く事と為るのです。

 当時の日本の置かれた状況は、欧米列強の圧力に危機感を抱き、近代化を目指した幕末維新期の日本と似て居ると云えるかも知れません。朝鮮半島の国々も中央集権化を進めて行きますが、北部の高句麗が唐と対立する一方で、東部の新羅が唐と結んで百済を圧迫。百済は、日本と結んで対抗しようとします。
 しかし660年、唐と新羅の連合軍によって百済は滅亡。その遺臣達は復興を目指し、日本に居た百済の王族を擁立し日本に援軍を求めました。日本はこれに応じて朝鮮半島に出兵しますが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。

          10-20-4.jpg 推古天皇と聖徳太子

 指導者である中大兄皇子(天智天皇)は、唐・新羅連合軍の侵攻に備える為に、大宰府に水城や山城を築く等西日本の防衛を強化しました。宮を飛鳥から大津へ遷したのも、敵の襲来に備えたとする説もあります。
 しかし天智天皇が薨去すると、672年、壬申の乱が起こり、弟の大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の息子・大友皇子を倒し、政権を掌握する事と為ります。
 乱が起きた要因は諸説ありますが、防衛の為の軍事費が嵩んだ事で、天智天皇に対する不満が溜まって居た事も一因でした。詰まり、朝鮮半島に介入した事が、国内の動乱を招いたとも言えるのです。

 一方、朝鮮半島では、668年に高句麗を滅ぼした唐と新羅との関係が悪化。日本との挟撃を恐れる新羅は、日本に対して低姿勢で外交関係を求めて来ます。壬申の乱後の体制整備を急ぐ日本もそれを受け入れました。
 しかし、676年に唐を朝鮮半島から撤退させた新羅が半島を統一。唐との関係も一段落して来ると、新羅は日本に対する外交姿勢を変えます。自ら「王城国」詰まり仏教の中心地と称する使節を派遣して来ます。日本はそれに反発し、両国の関係は悪化する事と為るのです。

   10-20-5.jpg 遣唐使船

 日本は唐に対しては、630年から遣唐使を派遣して居ましたが、894年に停止。この後、907年に唐が滅び、935年に新羅が高麗に屈服すると、日本の朝廷は外交には積極的では無く為ります。こうして、大陸文化を踏まえた上で日本の風土に合った国風文化が培われるのです。

 



 蒙古襲来・倭寇・・・激動の中世

 936年、朝鮮半島を統一した高麗が、日本に国交樹立を求目て来ます。しかし日本は、これを受け入れませんでした。こう見ると、日本は海外との交流を絶ったかの様に見えますがそうではありません。 
 中国では960年に宋が成立しますが、海商を中心として、日本は宋や高麗と貿易を進めて行くのです。公的関係は無くとも、民間交流は可なり活発でした。又12世紀に為ると、平清盛が日宋貿易を振興して行きます。

           10-20-6.jpg  蒙古襲来

 処が13世紀に入ると、モンゴル(元)が台頭し、中国や朝鮮半島に侵攻し、アジア情勢が変化して行きます。モンゴルは1231年から高麗への侵攻を開始。1259年に高麗を従属させます。
 しかし、高麗の武人達はその後も抵抗運動を展開しました。この三別抄の乱によって、モンゴルの日本への侵攻が遅れたとする見方もあります。ヤガテ朝鮮半島を押さえたモンゴルは、1274年と1281年の二度に渉って、日本に遠征軍を派遣して行きます(蒙古襲来)その中には高麗軍も多数含まれて居ました。

 日本側は鎌倉幕府が防衛に当たり、二度とも撃退する事に成功します。しかも驚くべき事に、幕府もモンゴルの撃退後に、二度に渉って高麗への遠征を計画して居ます。この計画は実現こそし無かったものの、仮に行なわれて居れば、日朝関係も又別の局面に突入して居たかも知れません。
 ともあれ、モンゴルの存在が日本に影響を及ぼした様に、日本と朝鮮半島は、中国大陸の動向と無関係では居られ無いのです。

           10-20-7.jpg 倭寇

 サテ、日本が室町時代に突入すると、外国との間で、倭寇の存在が問題と為って来ます。この時期の倭寇は、対馬、壱岐、松浦の人々が中心だったと見られ、朝鮮半島や中国の沿岸部で食料の略奪や、場合によっては住人を拉致して、売買する事もありました。
 倭寇が発生した要因としては、特に対馬では米が殆ど採れ無い為、飢饉が起きると食料調達の為の略奪に走ると云う背景が在った様です。政治的にも南北朝時代に入って居た為に、国の統制が取れ難く為って居たと云う面もあります。

 被害を受けた高麗は1367年、日本に倭寇の禁止を求めました。その一方で、倭寇退治で活躍した李成桂が、1392年に高麗を滅ぼし朝鮮王朝を樹立する事と為ります。倭寇の存在が、朝鮮半島における国家の興亡に影響を与えたと言えるのです。なお中国では、1368年に明が成立し、モンゴルは北方に追い遣られました。

 足利義満が室町幕府の将軍に為ると、明とも朝鮮とも正式な外交関係を持つ様に為ります。しかし1419年、朝鮮が倭寇を退治する為に対馬を攻める事件が起きました。(応永の外寇)この事件後、対馬を治める宗氏が、朝鮮との遣り取りを主に担う様に為ります。

 



 朝鮮出兵から朝鮮通信使へ・・・衝突と国交回復の近世

 戦国時代に為ると、対馬の住民を中心に、朝鮮の三浦に住んで貿易をする様に為りました。しかし1510年には、貿易を制限しようとする朝鮮と対立。三浦の住民が、対馬の宗氏と連携して武力蜂起する事件が起きます。この蜂起は鎮圧され、以後、日朝貿易は衰えて行く事と為りました。

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 16世紀後半に為ると、豊臣秀吉が全国統一し、1592年に朝鮮へと出兵します。最も、秀吉は当初から、朝鮮出兵を計画して居た訳ではありません。秀吉の目的は中国の明を征服する事にあり、朝鮮には最初、明征服の先導役を求め、それが断られると、明への道を貸して欲しいと依頼しました。
 それも断られた為に、朝鮮を攻める事にしたのです。序盤戦では、朝鮮内が一枚岩で無かった事もあり、戦馴れした日本軍が快進撃を見せました。しかし、明からの援軍に加え、朝鮮水軍や義兵(有志)の活躍により日本の進撃は止まり戦線は膠着します。

 結局、6年に及ぶこの戦いは秀吉の死によって終結しますが、日朝双方に大きな被害を出すだけで無く、朝鮮の人々に日本への恨みを残す事と為りました。又朝鮮出兵は、豊臣政権の弱体化にも繋がり、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が幕府を樹立します。
 家康も宗氏も朝鮮との早期講和を目指して居り、宗氏が奔走し、1607年に朝鮮の使節が来日して国交は回復しました。1609年には、朝鮮と宗氏の間で己酉約条が結ばれ、貿易が再開されます。

           10-20-9.jpg

 又江戸時代には、将軍の代替わりを中心に、朝鮮通信使と云う使節団が、12回に渉り日本を訪れて居ます。 日本の学者は朝鮮の方が学問が進んで居ると考えて居たので、稀に訪れる通信使から様々な情報を得ようとして、積極的に交流を求めました。通信使が「もう、好い加減にして欲しい」と記録に残す程、当時の日本人は熱心でした。
 只一方で、朝鮮の人々に対する蔑視もありました。 中国には華夷秩序と言って、中国が世界の中心で、周辺の国は未開であるとする思想があります。それと似た様に、当時の日本にも、日本コソが世界の中心とする、日本型華夷秩序と云うべき考えがあったのです。

 しかし朝鮮にも、朝鮮を中心とする同様の思想があり、当時から両国の間には複雑な感情が有ったと見て好いでしょう。


            河合敦 歴史研究家    以上





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2019年10月18日

次期首相に最も近い男・菅官房長官、哀しいまでの「中身のなさ」


 

 次期首相に最も近い男菅官房長官 哀しいまでの「中身のなさ」

       〜現代ビジネス 戸坂弘毅 ジャーナリスト 10/18(金) 9:01配信〜


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「渡り鳥の男」
 
 菅の政治家人生を一言で表せば、少なくとも官房長官就任までは「負け続け」であったと言えるだろう。秋田県の農家の出身である菅は、高校卒業後、上京して働きながら法政大学を卒業した。その後、衆院議員秘書を経て横浜市議会議員に当選。市議を2期務めた後、小選挙区制初の96年衆院選に立候補して国政選挙に初当選した。

         10-20-11.jpg @橋本龍太郎

         10-20-12.jpg A梶山静六

 その際、当時の最大派閥である@橋本派の支援を受けて同派に入会。しかし、橋本龍太郎内閣総辞職に伴う1998年の自民党総裁選では、当選1回ながら派閥会長の小渕恵三に反旗を翻し、元官房長官のA梶山静六を担いで敗北した。
 すると菅は、同派を脱会して今度は当時、政界のプリンスと言われた加藤紘一率いるB加藤派へと移籍した。加藤が野党の提出した森喜朗内閣不信任決議案に同調しようとした「加藤の乱」では、加藤と行動を共にしたものの鎮圧されて失敗。その直後に加藤派が分裂すると今度は反加藤の堀内派、その後のC古賀派に入会した。

         10-20-13.jpg B加藤紘一

         10-20-14.jpg C古賀真

 2006年総裁選では、早くからD安倍晋三を担いで奔走。その功で、第一次安倍内閣では僅か当選4回にして総務相に就任した。敗北続きの菅に取って初の勝利だったが、その安倍内閣は僅か1年で総辞職する。
 その後の総裁選で、今度は古賀派が推す福田康夫では無くE麻生太郎を担ぎ又しても敗北。福田内閣の総辞職を受けた総裁選では再び担いだ麻生が勝利し、党選対委員長代理等として麻生政権を支えたが、翌2009年の衆院選では結党以来の大惨敗を喫し自民党を野党に転落させた。麻生辞任後の総裁選では古賀派を脱会し、E河野太郎を担いで奔走したものの谷垣禎一に敗北して居る。

 菅は「世代交代」「脱派閥」を自身のスローガンにして来たこともあり、自民党内では長く異端児扱いされて来た。元首相の森喜朗等ベテラン議員にも早期引退を公然と迫る等して来た為、特に古株からは嫌われて来た。
 所属する派閥を次々と変え、仕える主人を乗り換えて来た事から、何時しか「裏切りの菅」「渡り鳥の男」と陰口を叩かれる様にも為った。

 



 陰口と辣腕

 特定の組織や個人に忠誠を誓うのでは無く、その時々で最善だと思う人間を担ぐ──その行動様式は「ムラ社会」である永田町では極めて異質だ。過つての自民党だったら「信用出来無い男」としてトックに居場所を失って居ただろう。

 小選挙区制度に為って四半世紀が経過し、派閥が過つての結束力を失った平成の政界だからコソ、菅は特異な手法で這い上がって来る事が出来た。菅の様な「叩き上げ」の議員が減り、政局を動かす事が出来る「政治偏差値」の高い議員が激減して居る事も菅に有利に働いた。
 その経歴故に、安倍周辺からは「菅は自分に取って役に立た無いと思えば安倍だって裏切る。経歴を見れば一目瞭然だ」との警戒の声が常に漏れる。

 こうした菅に関する数多のマイナスイメージを消し去ったのは、勿論官房長官としての手腕だ。6年以上の長期に渉り、危機管理と官僚操縦で辣腕を発揮して来た。
 就任早々の2013年1月にアルジェリアで発生した人質事件では、危機管理の司令塔の役割を果たし、マスコミ報道もコントロールした。閣僚や副大臣・政務官等が問題発言をすれば、派閥領袖の意向等お構い無しに有無を言わさず交代させて来た。

 加計学園の問題では、元文科事務次官・前川喜平への対応で珍しく冷静さを欠いて感情的に為り、内閣支持率を下落させたと批判されたが、政権を危機に陥れる可能性のある禍根の芽を早め早めに摘み取って来た手腕は誰もが認めて居る。
 只、日々の記者会見では、政権への批判的な意見に付いて問われると「全く問題は無い」「批判は当たら無い」との常套句で断定するのが常で、高圧的だとの批判が就任当初から付いて回る。

 霞が関の官僚達の操縦も見事だ。2014年には、橋本内閣以来の課題であった官邸主導・政治主導の行政を実現する為、各省局長の直ぐ下のポストである審議官級以上の約600人の人事を一元管理する内閣人事局を設置した。
 菅は、各省の幹部人事に官邸の承認が必須に為ったこの制度をフル活用し、各省の事務次官や局長の人事に介入。安倍政権の方針に異を唱える官僚は排除され、今や「霞が関全体が、菅の方を向いて仕事をして居る」とまで言われる。

 これによって、各省幹部や関係業界と結び付いて力を振るって来た所謂「族議員」は影響力を失い、首相官邸の望む政策をスムーズに実現させる環境が整った。

 



 「政治主導」の裏と表

 安倍と菅の2人は、官僚主導を排し政治主導を実現させる事、具体的には、戦後日本で絶大な力を発揮して来た財務省の影響力排除と云う方向性を当初から共有して居た。それが、安倍が菅を信頼する理由のひとつに為って居る。

 そもそも安倍は、2006年の一度目の首相就任前から「財務省主導の行政を打破し無いとね。最終的には予算編成権も内閣に移したい」と漏らして居た。この様な「政治主導の実現」を安倍と共に進めた事には一定の評価をすべきだろう。
 只、菅は「無派閥の国会議員の陳情の処理や選挙対策で、各省に対する影響力を最大限利用して居る」(官邸関係者)とも言われる。加えて、警察や内閣情報調査室から上がって来る機密情報を独占し、それを政権に敵対する勢力や自らの政敵の追い落としに使って居る事も指摘される。

 加計学園問題で官邸の対応を厳しく批判した前川喜平が、売春の温床に為って居る「出会い系バー」に頻繁に出入りして居た事を読売新聞が大々的に報じたが、その際も情報源は官邸、元締めは菅だと囁かれた。
 安倍政権を支える3本柱の一人と言われた甘利明が、建設会社から現金を受け取ったとの週刊誌報道を受けて閣僚辞任に追い込まれた際も、菅が懇意の週刊誌側に情報を流したとの噂が一部で流れ、甘利自身も菅を疑って居ると云う。菅と甘利は、共に安倍政権の柱でありながら、同じ神奈川県連内で微妙な関係にある。

 何をしたいのか判ら無い

 政策面に目を移すと、菅は政治家として何を実現させたいと思って居るのか全く不明だ。ネットで菅の公式ホームページを覗くと「政策」と云う項目はあるものの、そこには自民党の政策が列挙されて居るだけで、何等思い入れは感じられ無い。
 菅自身、親しい永田町関係者に「私には国家観と云うものが無い。所詮地方議員上がりですから、安倍さんとは違いますよ」と漏らして来たのだ。

 菅が自らの実績として唯一強くアピールして居るのが、総務相時代に創設した「ふるさと納税制度」だ。菅は官房長官としてこの制度をさらに拡充した。だが、今やこの制度は、返礼品の過当競争や都市部の税収の大幅減等、寧ろ弊害が指摘される様に為った。
 その他に菅が強く推し進めた代表的な政策と言えば、携帯電話料金の引き下げ・人手不足対策としての外国人労働者の受け入れ枠拡大・それに外国人観光客を増やす為のビザ発給要件の緩和だ。しかし、携帯電話料金は「4割削減」と云う当初の掛け声程には下がらず、外国人労働者受け入れに至っては「拙速に進めた結果、労働条件や生活環境の整備が置き去りにされた」等強い批判が巻き起こって居る。

 首相と首相官邸の役割として極めて重要な外交や防衛に関しても、北朝鮮による拉致問題は別として、菅が関心を示して来た形跡は殆ど無い。本人のプロフィールを見ても、国交省・経産省それに総務省関係の役職は歴任して居るものの、党の部会等を含め外交や防衛関係に関わった形跡は無い。
 50歳近くに為って衆院議員に初当選した菅は、政治家としての最終目標を幹事長や官房長官に置いて来た。その為、外交の勉強はして来なかったのだろう。首相官邸の関係者は「菅さんは国際情勢や軍事に関する知見が無く、海外の要人と会っても話が続か無い」と打ち明ける。

 それでも菅は、今年5月、敢えて訪米して米副大統領のマイク・ペンスと会談した。官房長官として異例の訪米に踏み切った事自体、永田町では「首相への意欲への表れだ」と受け止められたが、霞が関に命じて首相と同等の約40人の分厚い体制でサポートさせた事も波紋を呼んだ。
 この時外務省は、北米局長やアジア大洋州局長らの他、普段は日米首脳会談でしか通訳を務め無い最優秀の英語遣いの職員も同行させた。只「長官は基本的に外務省が用意したペーパー以上の事は言わ無いので、失敗は無い事は初めから約束されて居た」(官邸関係者)と云う。

 



 首相にふさわしい人物か?
 
 安倍は周囲に「総裁4選を目指す考えは無い」と繰り返して居る。そう為ると、菅が総裁選に立候補する決意さえ固めれば「菅首相」の誕生は現実味を帯びて来る。表立って菅に盾突く人間は、最早皆無と為った。だが、只一人公然と菅を叱り着ける男が居る。横浜で港湾荷役業を営む横浜港湾協会会長の藤木幸夫だ。
 「ハマのドン」と言われる藤木は、過つては菅の後見人と言われ、市議時代から菅とタッグを組んで横浜の港湾利権を仕切って来たと言われる。

 処がその藤木は今「ハマにカジノは許さ無い」と、菅が進めるカジノの横浜誘致に公然と反対する。地元関係者によれば、菅が或る時から藤木を切ったのだと云う。この関係者は「菅長官は、藤木氏と付き合うと危ないと判断したのだろう。トップを狙う上で、身辺を綺麗にして置こうと思ったのかも知れ無い」と漏らす。

 自らを「国家観が無い」と評して恥じ無い男に、我が国は命運を託す事に為るのだろうか。政策や志では無く、権謀術数と情報操作で霞が関や永田町を操る──その集大成として、首相の座に手を掛け様として居る「安倍政権のゲッベルス」の本質を、我々国民は改めてジックリと見極める必要があるだろう。(了)


          戸坂 弘毅    以上
















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